華道家 新保逍滄

2015年12月20日

21世紀的いけ花考(42)


 ポストモダニズムの芸術を外から眺めると、どうも美というより意味を追求しているように見えるます。それは素人の意見かもしれません。著名な学者がああ言った、こう言ったという話も大切ですが、理論家というより実作者の私はできるだけ自分の言葉で考えてみましょう。

 まず、ポストモダニズムが追求する意味とは、人生の意味とか、言語の意味とか、哲学や文学で問題にする意味の探求とはちょっと違うようなのです。もっと狭い。確かに言えることは、どうも芸術史におけるモダニズムについてあれこれコメントするという傾向が強い。おそらく芸術史上のモダニズムは巨大な成果を達成したのでしょう。それを乗り越えてこそポストモダニズムなのでしょうが、どうもそこまで明確な成果が出ていない。そこで「モダニズムはああだ、こうだ」と同じようなことをぐずぐず言っている、そんな感じです。百年、二百年経った時、いったいどれだけのポストモダンの芸術が残るのだろうか、と思います。実は、私としては「ポストモダンはもう充分。そろそろ終わりにして、次行かない?」という意見なのです。

 しかし、実作者の立場からはそんなことを言っていられません。なんとかポストモダンのコンテクストに乗っからないことには作品を発表する機会もありません。つまり、作品が意味(即ち現代芸術の命)を持たないことには相手にされないのです。どうしたら作品は意味を持つのか?ひとつは先に述べたことから推察出来るでしょう。モダンアートについてあれこれ言える作品であること。簡単なようですが難しい。次回はこの点をもう少し分かり易く説明しましょう。さらにこの状況にいけ花は何ができるのか?ということも念頭にあります。つまり、いけ花で現代芸術がやれるのでしょうか? 

 さて、今月紹介するのは米結レストランに新しくできた枯山水風坪庭。現在、RMIT大学公開講座で「日本美学:生花から現代芸術へ」を教えています。授業の中で龍安寺の石庭の分析をすると、「メルボルンにこんな庭ないの?」と生徒。「あるんだよ」と遠慮がちに私がデザインしたこの庭を紹介します。私は庭好きが高じて、ガーデンデザイナーの資格も取ってしまいました。私にとって庭は生花の延長線上。石も花です。数々の制約を乗り越え、実現したこの庭。機会がありましたら是非、ご覧下さい。

2015年12月18日

Wa: Ikebana Exhibition in Melbourne 2015


12月に他流との合同展に参加しました。6分のスライドショーをお楽しみ下さい。
私の生徒はとても喜んでいました。
展覧会に出展すると、生徒はよく自分のベストを出し切りますし、
もっと続けていこうという動機付けにもなります。
またこうした機会を作ってあげたいものです。




2015年11月12日

21世紀的いけ花考(41)


 前回、現代芸術の命は「意味」だという提言をしました。批判覚悟の上の私論です。とても大雑把ですが、現代芸術には20世紀前半に流行った①「モダニズム調」と後半現れた②「ポストモダニズム調」という二つの傾向があります(芸術史でモダニズムと言う場合は19世紀後半から20世紀初期頃までの芸術運動のこと。ここでは時代区分ではなく、傾向の意)。意味は双方にとって必須な要素です。しかし、①にはまだ美の追求という要素が多分に含まれているようです。②では意味の追求が主と私は理解しています。

 ①と②の関係ですが、①が終了して、現代芸術は今②のみ、ということではありません。両者は共存し、相互に影響し合っています。しかし、主力は②という現状でしょう。
 
 専門家には叱られそうですが現代芸術を若い女の子に例えてみましょう。美は容姿。意味は知性となります。①の求める女性は容姿もよく知的な方。②に人気なのはともかく知的な方。容姿はあまり問題にしない。現代芸術展に出かける時には「美人にはあまり出会えないだろうが、知的な女性が待っているんだ」と思っていると驚いたり、腹を立てたりせずに済むでしょう。 

 それでは可愛いだけで頭空っぽの女の子はどうなるのか?誰にも相手にされないのか?どこかの国ではそういうタイプこそが男性に求められているようですが。これは冗談。可愛いだけの女の子にももちろん需要はあります。現代芸術の範疇には入りませんが、一部の商業美術やフラワーデザインなどがそれに相当するでしょう。

 さて、ここまで付き合って下さった方の次の質問は「では、現代芸術の命、意味とは何だ?」ということでしょう。意味の意味は?意味の探求とは本来、哲学や文学の課題だったはず。なぜ芸術がそんなものに関わっているのか?そろそろ超難解な問題を超簡単にやっつけてみましょうか。 

 今回は花菱レストランに活けた作品。料理のレベルでは豪州最高峰でしょうが、装花もそうありたいものです。

 さて、12月5、6日、アボッツフォード・コンベントでいけ花展を開催します。いつもお世話になっている池坊の方々と共催です。是非お越し下さい。

2015年10月6日

21世紀的いけ花考(40)


現代芸術の基本をおさらいしておきましょう。現代芸術の知識ゼロだった私が少し勉強して驚いたことを紹介しましょう。かつての私と同じような立場の方にとってお役に立てれば幸いです。まず、現代芸術とは特殊な芸術です。芸術一般ではありません。それは「現代に関わる」芸術だということ。現代社会、文化に関連のある芸術。音楽にもクラシックと現代音楽があるようなもの。ですから例えば、いけ花で古典的な花を再現した場合、古典として貴重ですが、通常、現代芸術とは言いがたいのです。これは当たり前のようですが、私にとっては重要なポイントでした。
 
次に、現代芸術の命とは何か?「これが無ければ芸術じゃない」というものは何でしょう?ここで多くの方が誤解しているのではないでしょうか。「美」でしょうか?私はそう思っていました。違います。美は重要ですが、必須ではありません。

実はここがポイントで、村上隆も「芸術起業論」「芸術闘争論」で力説しています。日本語で書かれた現代芸術論はろくなものがないと思っていましたが、村上の著作は例外。村上は日本の芸術の世界(学術を含む)に向かって「君たち、現代芸術分かってないよ」と怒っているのです。豪州で勉強した私からすれば村上の芸術論こそ正論。世界で評価されながら、国内では散々批判され、村上は「僕のことを嘲っていたいやつは嘲っていろ」とまで書いています。それくらい現代芸術の実体というのは日本の常識的な芸術観からすると不可解なもの。確かに、一般の方が村上のアニメのフィギュアを見て「芸術だ」とはすぐには思えないでしょうが。
 
丁寧な説明は村上に譲るとして、私は初心者向け超簡単なガイドを目指します。現代芸術の命、それは「意味」です。意味が無ければ芸術としての価値は認められません。たとえどんなに美しくても。いけ花との関連からも面白い点です。もっと説明が必要ですが、また次回に。
 
さて、今回も我が家の春の庭に咲いた花を寄せ集めて。ぼけも馬酔木も毎年楽しませてもらっています。花を育てる喜びもいけ花をやっていると2倍になると思います。
 
10月は月の半分くらいバララットで過ごします。是非美術館へお越し下さい。また、12月5、6日にはアバッツフォード・コンベントで華道展を予定しています。詳細は私のサイトでどうぞ。

2015年10月5日

アーチボールド賞展インスタレーション(1)


Week 1 (4 October 2015): Shoso Shimbo's installation for Archibald Prize Exhibition at Art Gallery of Ballarat. His work will evolve in next 3 weeks. http://archibaldballarat.com.au

まったくどこから手をつけていいのか分からない状態で
プロジェクト開始。
「人の肖像」というトピックが大きすぎるのです。
いけ花でできる領域を超えています。

到達点は見えないものの
とにかくできるところから方付けていこう、という
これまで経験したことのないやり方ではじめてみると、
少しずつ見えてきます。

ただの装花を求められているのでありません。
現代芸術としてのインスタレーション。

いけ花と現代芸術の違いは
つまるところ作品が現代芸術のコンテクストで
意味を生成するかどうか。

扱ったことのある金網がメディア。
チキンワイヤ、
それは力なきものを
隔離し、疎外し、幽閉する。
難民への扱いを連想させます。

それを逆転して、鳥を外に放し飼いにできないか。
ただのいけ花ではなく、野鳥を呼ぶいけ花。
それでコンセプトはできました。
何とかなるでしょう。

ようやく眠れます。

2015年9月5日

21世紀的いけ花考(39)


 いけ花と現代芸術の関わりを考えていきます。当面、焦点は現代芸術。しかし、これが分かりにくい。私は現代芸術と縁のない世界にいましたが、「いけ花でこれくらいやれるなら」と美術修士に入学許可され、数年前修了。芸術も私の専門分野になりましたが、分かりにくい。修士をやっている者が分からない、分からないと繰り返しているわけにもいきませんので、勉強しました。

 まず、分かったことは芸術の世界にいる人には芸術の分かりにくさが分からないということ。この分野の先輩に何から読んだらいいのかと尋ねると「ベンジャミン、ラカン、デリダくらいは読んでおこうね」。今だからこそ断言しますが、これは最低のアドバイス。彼らには部外者の感じている分かりにくさが理解出来ないのです。こういう人に芸術を語らせても、つまらないですね。オタクの独りよがりな話を聞いているようなもの。

 次に分かったことは現代芸術を理解する鍵はその歴史にあるということ。20世紀の芸術史を抑えておくことです。前回紹介したWhy Is That Art?で、著者はリアリズム、エキスプレショニズム、フォーマリズム、ポストモダニズムの4本柱を分かり易く説明し、20世紀芸術の見取り図を提示してくれています。本格的に勉強したい人はこういう本から入るといいでしょう。

 しかし、私はもっと簡略に説明しましょう。お金を払って美術館に入ったら、ゴミの山やら糞やらを見せられ、「金返せ」と腹を立てた(笑)かつての私のような芸術の部外者のためにはもっと簡単な説明が必要。要は現代芸術にはモダニズムとポストモダニズムがあるということ。とりあえずはこの二つの立場の違いが分かればいいのです。次回は超難解なポストモダニズムを超簡単に説明してしまいます。あまりに簡略で専門家には笑われそうですが、笑わせておけばいいのです。
 
 今月は庭掃除のゴミを集めて作品にしたもの。ガラス花器の形が手強くて添え木留めの応用で留めています。


 さて、今年10月バララット美術館で開催されるアーチボールド賞展のために大作の依頼を頂きました。肖像画展にちなんで巨大な人の頭をという依頼。人の顔は難しい。いけ花では扱いません。菊人形でも衣装を花で作っても、顔は花で作りませんね。うまくいかないからです。それほど人の顔とは難しい題材。大きなチャレンジが始まります。

 注)今回のこの記事に関し、ありがたい批判がありました。
「要は現代芸術にはモダニズムとポストモダニズムがあるということ。」
という部分です。批判の趣旨は、「現代芸術とはポストモダニズムのみ」ということでした。
時代区分で言えばそういえるのでしょうが、私が言いたいのは、モダニズム的な態度とポストモダン的な態度があるということ。この点、あと数回ではっきりしてくるでしょう。
ご意見下さった方、ありがとうございました。

2015年いけ花ギャラリー賞



2015年いけ花ギャラリー賞の発表までたどり着けました。
今回で4年目でしょうか。
http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/2015/09/ikebana-gallery-award-2015_2.html

いくつか気付いたことを書いておこうと思います。
次回のためにも。

1、日本人の参加が少ない。日本語の案内も出していますが、英語の壁か、超流派という主旨がよく理解されていないのでしょう。いくつかの流派でも内部でのコンクールはあるようです。そちらのほうが都合がいいということもあるかもしれません。
今現在のレベルですと、日本人には入賞はとても容易だと思うのですが。
無料の上、それほど面倒でもないはずですが、仕方ないですね。

2、審査員は慎重に選んでいますが、実に素晴らしい方々にご協力いただいています。超流派のいけ花コンクールであること、芸術としても通用するレベルを目指すべきと思いますので、人選としては国際的な芸術、ならびに広く日本芸術に通じた方が理想と思います。
 人数的にも適当だろうと思いますが、構成では日本人の方が少なくなるという状況です。生徒の反応で面白いのは、「日本人の審査員に選んでいただいて嬉しかった」というコメントでした。いけ花は日本のもの、日本人に分かってもらいたいという気持ちがあるのだなあという点は発見でした。同時に私が、いけ花をどう国際的な芸術の文脈に上げるかということを個人的に指向しているのだろうか、と気付いたのです。
 
3、さらに、今回特に気付いたことは、ファイナル・レベルの5作品に選ばれると、選考結果はあまり大きな問題ではないのではないか、ということ。審査員の意見が本当に面白いほど多様で、得点集計するまでだれが最優秀になるのか、全く予想出来ないのです。ですから、たとえ、5作品の中で評価が低かったとしても、「でもあの先生には上位と評価していただけたから満足」ということになりやすいように思うのです。つまり、結果であまり傷つくことが無いのではないか。コンクールのこの側面はとてもうまく機能しているように思います。

4、いろいろな文化圏からの投稿があります。国ごとに賞に対する態度が違うのが面白いと思います。もちろん、サンプル数が極小ですから、必ずしも文化的な違いとは言えないかもしれないですが。とかく競争心むき出しにする傾向があるグループもあるようで、面白いと言えば、面白い。さほど大規模なコンクールでもないのに。遊び心で付き合ってもらってちょうどいいのにと思うのですが。

5、やはり参加生徒からの喜びの声は主催者側の励みになります。とても喜んでもらえます。無料で参加出来、著名な審査員に作品を講評され、さらに数千人レベルのネットユーザーに作品を紹介出来るという機会はあまり無いように思うのです。

6、もう1点。これは驚いたことですが、フェースブックの写真が知らぬ間に消失していたということ。外部から応募があります。こちらで承認し、ページ上に写真が表示されます。しかし、このような方法で表示した写真を1年前まで遡って探すと、行方不明になっているのです。せっかく応募して下さった方の作品を選考の対象にしなかったということではいけません。今回のこの問題、なんとか修復はできたものの、どうしてこんなことになるのか不明です。今後、注意が必要。

7、あとは事務的な面での効率化。ピープルズ・チョイス賞のやり方を改善する必要があります。この辺は私達のビジネスセンスで改善していくことになるでしょう。スタッフはビジネス経験者が多いので助かります。

2015年8月25日

一日一華:現代芸術における花


春近し。
我が庭のぼけ、馬酔木を他の花材とともに
盛り込んで。

現代芸術における花と
いけ花における花との比較、
ということで論文を用意しているところです。
時間はあまりないのですが、課題が次々出てきます。

現代芸術における花という場合、
題材としての花と
材料としての花と
区別して考えなければいけません。

題材としては長い歴史があります。
17世紀のオランダ静物画が特徴的で、
現代芸術にも影響大。

材料としては20世紀モダンアートの時代になってから。

このあたりが
いけ花との比較を考えていく出発点です。

国際いけ花学会の学会誌、
「いけ花文化研究」に発表出来ればと
思っているところです。




2015年8月23日

一日一華:RMIT大学にて


RMIT 大学での公開講座、「いけ花から現代芸術へ」にて。

この講座はとても楽しくやっています。
条件はいろいろありますが、やってみたかったことが
ぎっしり詰まっている感じなのです。

通常のいけ花クラスでは、流派のテキストに従って指導していますが、
この大学での講座はすべて私のカリキュラム。
自由にやっていいよということなのです。

流派のコースでは充分できないこと、
芸術学部のコースでは充分でないこと、
それらをあれこれ考え、

芸術の基礎概念から、
バウハウスの教授法まで
様々な資料を検討しつつ、講座を作っています。

そして、参加者が楽しいものでなければなりません。

新しいいけ花講座のあり方が
示せないか、とまで考えています。

たぶん、この講座が続けば、
理論的にも充実した、新しいテキストが書けるくらいの
内容になりそうです。

The students were asked to add another material (including flower) to the branch sculpture they created week before, creating contrast within the work. 

Japanese Aesthetics: From Ikebana to Contemporary Art 
Shoso Shimbo, PhD
RMIT University Short Course
New intake in October 2015
http://bit.ly/1hz7BTb

www.shoso.com.au

2015年8月19日

一日一華:線の対比、そしてメールのマナー


自然の抽象的な線、スパニッシュアイリスで。
人口の有機的な線、錆びたワイヤで。
これほど強いコントラストには
大胆なデザインで。

さて、メールのマナーについて。
おそらく一般企業にお勤めの方にはいろいろマニュアルがあって
きちんと修得されているのでしょう。
私はあまり詳しくありません。
ただ、応用言語学を学んだ者として、
最近、「ちょっと、どうかな?」と感じることがありました。

相手は20代の大学生。
若い方とあまりメールのやり取りの経験がないので、
若い方の間では普通のことなのか、
この学生が特殊なのか、分かりませんが。

例えば、こんなやり取りがあったとします。
1、質問:次の日曜日何をしますか?
2、返答:図書館へ行きます。
これだけでやり取りが終わったら不自然です。

1、質問:次の日曜日何をしますか?
2、返答:図書館へ行きます。
3、確認:そうですか。
と、質問者は3で相手の返答を理解したことを示します。
時に、感謝であったり、共感であったり。
「日曜日も勉強ですか。大変ですね」と続けてもいい。

この20代の学生は私にいろいろ尋ねてきます。
例えば、
「メルボルンは寒いですか」
「とても寒いよ。8月の朝は5度以下になることもあるんだ」
すると、そこでもうメールが来ない。

「メルボルンでラーメン食べられますか?」
「最近、日本のラーメン屋が増えてきたね。
ブームって言っていいくらいに」
するとそこでもう応答がない。

時に、ちょっと専門的な質問があって、それに答えても同じ対応。
答さえもらえば、本人はそれでいいのかもしれないですが、
やはり、教えてもらったら、最低限、お礼が必要でしょう。
すぐに返答出来ない場合は、
「ちょっと考えてみます。数日中にお返事します」とか、
「了解」のひと言でもいい。
相手からメールをいただいたらすぐ何らかの返答をすべきです。
私の身内とかスタッフであれば、
24時間以内に返答するよう、口うるさく指導するでしょう。

それは礼儀でもあります。
何の返答もしないというのは、
場合によっては相手にかなり悪い印象を与えるはずです。
「お礼の言葉も無いのか。こんな無礼なヤツの質問、もう答えてやるものか」
なんていうことにもなるかもしれません。
あるいは「発達障害でもあるのだろうか?」と心配されるかもしれません。
さらには「自分の返答に腹を立て、相手は黙っているのだろうか?」と思われるかもしれません。私は実際、そう感じて、自分の送ったメールを読み直したものです。

また、応用言語学的にも、
ディスコースを作る能力が欠けている、
コミュニケーション能力が欠けているという見方をされます。
この点に気付いて、直さない限り、
こんな方は言語教師にはまずなれません。
言語教師とは言語を教えるのではなく、
それ以上に
コミュニケーション(言語+コミュニーケーション能力)を教えるのですから。

2015年8月18日

2015年8月17日

一日一華:春を待つ


春のホームパーティー、
テーブルアレンジメントを依頼されました。

ベネチアガラスの花器を用意され、
チューリップをたっぷりというリクエスト。

浅い花器で、水がほとんど入らない、
オアシスも剣山も使えません。
チューリップを寝かせ、ツルで花器に縛りつけています。

私のアシスタントも苦労して仕上げてくれました。
ありがとう。

2015年8月13日

一日一華:カーネギー「人を動かす」


歳のせいでしょうね。
以前ほど寛容性がなくなってきたような。
つまらないことにこだわってみたり。

特に気になる他人の欠点は、
かつて自分にもそうした短所があり、なんとか克服したようなもの。
かつての愚かな自分を見ているようで、何ともおさまらない。

最近、あるコンクールの審査員を依頼されました。
一日ボランティアで働くことになりますが、
「私でよければ引き受けましょう」と返事。
しかし、その後のやりとりが不愉快で辞退してしまいました。

「名前これでいいんですよね?」(違うよ)
「博士号持ってるんですか?」(それくらい事前に調べて、お願いするのが礼儀だろう?)
「大学の教師してたんですか?」(このコンクールに関連した本まで出版しているよ)

「ちょっと不愉快ですよ」と直言しました。
すると、「こっちだってボランティアでやってるんですからね」

こんな人達と関わっていられるほど若くはない。
若い時は見下されるような場合も我慢して
いろいろ経験すべきだと思いますが。
辞退決定。
「新保は気難しいヤツだ」とか言われるのでしょうが、
そんなことはもうどうでもいい歳になったように思うのです。

間違っているかもしれませんが、私からすると
この方はおそらく社会経験が乏しいのでしょう。
ビジネス上の手紙の書き方もご存知無い。
大学教師だったらしいですが。
人に頭を下げたことがないなんていう方も時にありますが、
そうした希有なタイプでしょうか?

しかし、ボランティでやってるんだ、などと言う時点で
ボランティアの精神的な部分は吹き飛んでいます。
なにもしないほうがいい。

私自身、いけ花ギャラリー賞を主宰している関係で、
審査員をお願いしたことがあります。

立派な仕事をされている方々から、
ご多忙中ボランティアでご協力いただくわけですから礼を尽くします。
まず、相手のキャリア、バックグランドを調べます。
それをふまえて、貴方のご協力を是非いただきたい、とお願いします。
相手への敬意を示す、
相手がいかに重要な存在であるか、説得する。
さらに、負担を最小限にする工夫をする。
また、充分なお礼はできないものの
サイト上に各審査員の紹介をしっかり掲載する。
ビジネスをお持ちの方はそのサイトへのリンクも表示。
また、ことあるごとにお礼を申し上げる。
その程度の誠意を示さなければいけないでしょう。
その結果、毎年全員の方から
「次年度も引き受けますよ」とお返事いただいています。

カーネギーは「人を動かす」の最初に、人を動かす三原則を示しています。
そのひとつが相手に「重要感をもたせる」

今回、私が感じた不愉快はその原則が欠けていたからです。
それでは人は動きません。
自分の努力や業績を認めてくれる相手のためなら
通常人は喜んで力を貸してくれるもの。
しかし、きちんとした紹介さえしてもらえそうにないとなれば、
人は動かないでしょう。

「審査員なんてだれだっていいんだ。人数合わせだからさ。あんたのこと全然知らないし、興味もないんだけどけど、やりたいならやらせてやるよ」
そこまで傲岸不遜ではないにせよ、それに近いものがあります。

このコンクールに参加する学生は一生懸命なのに、
主催関係者がこんな態度では哀れな感じがします。


2015年8月12日

一日一華:冬の庭から


メルボルンの8月は冬本番。
しかし、我が家の庭の一番いい時期かもしれない。
梅が終わって、桜のつぼみが膨らんでいます。
ぼけ、こぶし、椿、馬酔木、
皆、きれいに咲いてくれています。

この作品にも庭の柊南天を使っています。



2015年8月11日

一日一華:渡辺謙の執念


バララット美術館からの制作依頼
待望の仕事です。

アーチボールド賞展。
豪州で最も人気の展覧会のひとつ。
数十万人の動員があります。
その展覧会の広告塔を制作してくれ、
肖像画展にちなんで巨大な人物の頭を制作してくれ、
というリクエスト。

華道家は彫像などやらないでしょう。
守備範囲が違います、と断ってもよかったのです。
やれるかどうか、分からないのですから。

しかし、断っても、
また、承諾して、失敗しても
新参の彫刻家としての私のキャリアは終わりです。
あとがありません。
著名アーティストとは立場が違います。
彫刻家の看板を下げ、華道家としてやっていく、
それもいいかもしれません。

迷っていたとき、実はある人物のことが思い当たりました。
詳しくは知らないのですが、渡辺謙という俳優。
同郷出身というだけで少し親しみを感じます。
同じ雪に吹かれて育ったのかもしれない。

ミュージカルでトニー賞を取ったとか?
詳しくは知りません。
ただ、俳優とミュージカルのシンガーとでは
全く別の世界です。
特にブロードウェイとなれば
音楽のレベルが桁違い、
英語のレベルが桁違い、
それを乗り越えて高い評価を勝ち取るというのは
相当な努力、執念があったはずです。
日本国内の評価で満足しているのと
国際レベルで勝負するのとでは話が違います。

それを思うとなぜこの程度の壁が超えられないのか?
トニー賞と比べたら、実に小さい試練!
海外で勝負する覚悟で日本を出ているわけです。
一か八かやってやったらいい、
と覚悟ができた次第。

2015年8月10日

一日一華:スピアグラス


メルボルンの花菱レストランにて。
レストランでの花材選びはなかなか大変です。
花の香りが強すぎてもいけない、
花粉症を引き起こすようなものでもいけない、
結局、店主さんが注意深く用意して下さった花材で活けます。
なかなか楽しい仕事です。

さて、私のいけ花の生徒には、
オーストラリアだけあって
様々な文化の出身者がいます。

フィリピン、ベトナム、中国、英国、ロシア、ポーランド、NZ、そして、日本ほか。

先日、ふと中国人が増えてきたことに気付きました。
あるクラスでは半分ほどになっていました。

飲茶の話になって、鶏の足は食べたくないとか、
食べたことがあるかとか。

私も初めてテーブルに鶏の足が給された時は
少々驚きました。

中国の奥様方によると、あれは手間が大変で、三重に調理しているのだとか。
揚げて、煮て、蒸してというようなことらしいです。
家庭でやる料理ではないとのこと。

また、食べたいとも思いませんが、
ちょっと勉強になったかな。

それより興味深かったのは、
奥様方が、
他人の視線を顧慮するような方ではないだろうという方までが、
鶏の足の話は、少し遠慮勝ちに話していたこと。
ちょっと恥ずかしいことをしてしまって、
その弁解をしているようなニュアンスでした。

2015年8月9日

一日一華:勅使河原宏の新境地


いけ花の先輩の方々、著名な先生方の作品を拝見していると、
ある時点で独自の境地を開かれるのだな、とよく感じます。
その点では多くの方が共通しています。
しかし、作品は二つのタイプに分かれるように思います。

ひとつは、解釈可能な作品。独特の作品でありながら、多くは国際的な現代芸術の文脈で解釈可能な作品。

もうひとつは、解釈不可能な作品。作者の圧力のこもった作品であることは理解出来ますが、なんら意味を生成しない作品。独りよがりな作品。場合によってはそのような作品を新しい境地を開いたなどとありがたがっているのかもしれませんが、私には勉強不足かつ徒労に思えます。もちろん、現在の私自身が勉強不足ということかもしれません。いけ花の奥深さがまだまだ分かっていない、それは確かでしょう。

90年代、勅使河原宏は流麗な割竹のインスタレーションを多く作っていました。ある意味で分かり易い作品群でした。

それが、最晩年、竹の格子を重ねたような作品を作り始めました。
独自の境地を開いたということだったかもしれません。
多くの方々はうまく理解できなかったようです。
しかし、西洋の現代芸術のコンテクストを参照すると、
作品の解釈が可能なのです。
私の初めての宏論はそういう趣旨でした。

(2013 Hiroshi Teshigahara in the Expanded Field of Ikebana,
The International Journal of Ikebana Studies, 1, p.31-52.)

いろいろなことを深く勉強された方だったのだろうと思います。
だからこそ独りよがりな境地などに陥らなかったのでしょう。

一日一華:ジャスミン


スタージャスミンとか
チャイニーズジャスミンとかいう常緑のツル。
我が家の庭のへいを緑で覆う計画で育てています。

伸びすぎたものは切り取っていけ花の花材。

手前のツルの曲線と花器の間、が写真ではうまく出ていない。
写真は難しい。

2015年8月8日

2015年8月6日

一日一華:フリージア


メルボルンは真冬。
過去数十年で最も寒い冬だとか。
庭の花が咲いてきました。
ぼけ、こぶし、沈丁花、アセビ、
そして、去年買ったばかりの加茂本阿弥。
すべて白。
白い花、
花の白さには特別なものがあります。

写真は逆光でフリージアの白を強調してみました。


2015年8月4日

21世紀的いけ花考(38)



 「いけ花は芸術か?」という話です。まずは、近現代の芸術、いけ花、それぞれの歴史をざっと抑えておかないとまとまった話になりません。要は20世紀における芸術の流れと、いけ花の流れ、この両者はどこでどのように交錯したのか?いけ花のほうは比較的分かり易い。しかし、芸術のほうは波乱の1世紀でした。

 数年前、ロンドンのTate美術館でアーティスト・タイムラインという20世紀芸術史の簡略な年表を見つけ、「これが欲しかったんだ」と喜んで買ったものです。一枚の紙に後期印象派からヤング・ブリティシュ・アーティスツあたりまでの主要な芸術運動が主要作家の名前とともに記してあります。しかし、実はこんなものをにらんでいてもさっぱり核心的な部分が分かりません。様々な運動が次々に現れては消えていく。まるでファッションの流行のようです。短いスカートが流行ったり、黒色が流行ったり。もっと深い、芸術の変動の要因のようなものがあるはずなのです。
 
 書いてあることで納得するというのは高校生まで。大学以降は自分の腹で納得しない限り、知的探求を止めてはいけません。自分で納得したことだけが表現する意味があるのだと思います。20世紀芸術の混沌、これは何だ?とあれこれ考えていきました。現代芸術に関する日本語の本も読んでみましたが、なんとも分かりにくい。大学院で訓練を受けた私でも分からない。頭の悪さを隠すためにこんな大業な文章を書いているのだ、というのが私の結論。

 おそらく私と同じような意見が多かったのでしょう。最近、分かり易い現代芸術の入門書が多数出版されています。私が特に気に入ったのはオックスフォードから出た T. Barrett 著 Why is That Art? 現代芸術講座のテキストとして多数の芸大で採用されているとのこと。次回はこの本を参考に現代芸術の流れを簡単にまとめてみましょう。

 今月紹介するのは小品。材料をバランスよく組み合わせただけ。ある程度いけ花をやれば容易に作れるレベルでしょうが、作っている過程は瞑想とも言える楽しい時間。この作品を来年度の無料カレンダーに使うことにしました。なお、リビング・ナウ誌でも連載が始まっています。また、いけ花学習者の国際コンクール、いけ花ギャラリー賞も間もなく受賞者発表。詳細は私のサイトからどうぞ。


2015年7月28日

一日一華:教室での講話


私の生徒に他の州から飛行機で通ってくる生徒がいます。オーストラリアですから多分500キロくらいの旅程ではないかと思います。なかなかご苦労様です。

オンラインでやってもいいよと言っているのですが、他の生徒の作品を見たり、私のコメントを聞いたりしたいからということで、月に三回くらいきちんと出席しています。
ありがたいことです。

教室では気楽な話をすることが多いです。特に準備もせず、思いついたことを話していますが、生徒は外国人ですから、日本人なら感心もしないようなことでも興味深く聞いてもらえるわけです。

今日はアルマーニの色彩配色について話しました。

先週は織部の花器を持ってきている生徒がいたので、古田織部について私の知っていることを話しました。

勅使河原宏に「古田織部」という著作があります。
宏のいけ花芸術を知るためには最高の本だと思います。
私の宏論でも多いに参考にしました。
国際いけ花学会の学術誌、いけ花文化研究の創刊号に載せた論文です。

2013 Hiroshi Teshigahara in the Expanded Field of Ikebana,
The International Journal of Ikebana Studies, 1, p.31-52.

この本の面白い点は、タイトルが古田織部なのに、
中身は宏の自伝になっているということ。
宏が織部をとても尊敬しているのがよくわかります。
自分と織部を重ね合わせているようでもあります。

すると、どうなるのか。
利休と織部の関係
蒼風と宏の関係
そこに共通するものを感じているようです。

2015年7月23日

2015年7月20日

21世紀的いけ花考(37)


 前回でいけ花とは何かという話の結論に達したので、次に「いけ花とは芸術だろうか」という話に移ります。となると、芸術とは何かということをはっきりさせないといけませんね。これは難しい。専門家でもなかなかスパッとは答えられません。機会があったら尋ねてごらんなさい。ややこしい話につきあわせられます。いろいろな定義があるからです。正確に答えようとするとそうなってしまいます。そんな話をここでしても退屈。いけ花との関連で重要な点を門外漢がさらりとまとめておこうと思います。
 
まず、結論から。いけ花は芸術か?「芸術的要素はあるでしょう」。では、いけ花は現代芸術か?「99%のいけ花は現代芸術ではありません」。

 いけ花が芸術との関係で問題になるのは、主に次の二点。まず、戦前、重森三玲らの新興生花宣言でいけ花が芸術だと主張された点。戦後、拡張した小原流、草月流など大流派の家元もこの宣言の影響を強く受けています。いけ花が芸術だと主張することはいけ花学習者獲得上とても効果があったのです。こんな話は以前しました。「いけ花は芸術だ」と盛んに主張した人々は芸術をどのように理解していたのでしょう?問題はなかったのでしょうか?

 次に、明治以降、いけ花が西洋芸術の影響を受けて発展してきたという点。では、今、現在はどうなのでしょう?いけ花は現代芸術になれるのか?ひとつの問題は現代芸術の分かりにくさ。展覧会で「なんでこれが芸術?」と思ったことがある方も多いのでは?私が行った展覧会では、牛糞や女性の下着が飾られていたこともあります。こんなものをギャラリーに置くくらいならいけ花を置いたらいいのに!実は、現代芸術の門前には錠がかかっているのです。それを開く鍵があります。これも大きなトピックですが、簡単にお話し出来るかもしれません。そうした様々なことを考えていこうというわけです

 今月紹介するのも商業花。お手頃な値段で気軽に送ることができる箱入りの花。いけ花でそんなものができないものでしょうか。注文があるたびあれこれ思考錯誤しています。


 さて、私が理事を務める国際いけ花学会の学術誌「いけ花文化研究」第二号が発刊されました。私は明治以降のいけ花に関する主要英語文献の解題を載せました。いけ花研究のための基礎的な資料になるでしょう。1冊千円ほど。詳細は以下のサイトから。
http://www.ikebana-isis.org

2015年7月19日

2015年いけ花ギャラリー賞準決勝


恒例のいけ花ギャラリー賞、本年度の準決勝進出16作品の選出を終えました。
是非、ブログ、あるいはFacebookをご覧下さい。
Facebookでは、2015年7月末日まで人気投票も受け付けています。

私達選考委員の作業はこの準決勝作品の選出までと決めています。
これから決勝の5点、最優秀作1点が決まりますが、
これらの選出はボランティアの審査員の方々にお願いしています。

ありがたいことに、素晴らしい方々にご協力いただいています。

今回、生徒作品を多数見ていて、
今までにあまり感じたことのない思いをしました。
不愉快な思いと言っていいでしょう。
生徒作品ですから、力不足は仕方ない。
それは分かっているのです。
それでもなお、なんだか納まらない不満。

もちろん、私自身まだまだ修行中の身。
傲慢な発言は慎みたいと思いますが、どうも我慢出来ない。

いくつかの作品に生徒の精神の形が見えるわけです。
いけ花を制作していって、途中で投げてしまっている感じ。
山頂に到達するちょっと前、8合目あたりで気を抜いてしまったり、
あるいは、もっとひどいのは、ごまかしの近道を選んだり。
「こんなもんで充分でしょう?」
「まあ、ここらでいいや」
「こんなところで点が取れるかな?」
そんな態度が見えてしまう。

こんな不真面目な態度でいけ花をやるな、と言いたい。
現実的には、言ってはいけないんですが(笑)。

たとえば、ある種の茶花のように、
小さな単純な作品であっても、
そこに作者の精神の緊張感がびりびり漲っているような
作品に仕上げることができるわけです。

最後の最後まで花に食いついていく、
集中力を緩めない、
いけ花の修行とはそういう経験を重ねていくことだと思います。

いけ花が精神修養であるとは、そういう意味でしょう。
そこがきちんと体得出来ている人であれば、
常に力のある作品が作れるわけでしょうし、
人間的にも魅力的になれるのではないでしょうか。

子供に作法を教えたいからいけ花を習わせよう、
などというのは表層的な見方です。
実は、教育上もっと重要なことを学ぶことになるのです。
いけ花に必要になるのは集中力、忍耐力、ごまかさない誠実さ。
人間力の基礎と言っていいでしょう。
こういう力を蓄えたなら
他の領域(勉強、スポーツなど)でも
きっと存分に力を発揮出来るはずです。
例えば、精神の軟弱な不良などには絶対いけ花はできないのです。

今回は自分のことは棚に上げ、
愚痴っぽくなってしいました。


















2015年7月2日

一日一華:花菱レストランにて


ただ今、寝ても覚めても考えているのは
バララット美術館からの制作依頼。

アーチボールド賞という
オーストラリアでトップクラスの肖像画展の開催に
合わせて、大作を制作してくれということなのですが、
大変な挑戦になります。

制作は2015年10月、
約4週間をかけていいということです。

何が大変かと言えば、
・・・それはまたおいおいお話ししましょう。





2015年6月28日

一日一華:庭の草花で


冬ですので、それほどたくさん花はありませんが、
庭からとった花材で小品を作ってみました。

まもなく生徒向けのいけ花コンクールの応募締切り。
それから私達選考委員の作品選抜作業がなかなか大変です。

http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au
https://www.facebook.com/IkebanaGallery

もう少し応募が増えると
もっと面白いのに、と思います。

いけ花にコンクールを持ち込むということに疑問もあるでしょう。
国際的な生徒作品のコンクールとなると、
応募しようという生徒もあまり多くないかもしれない。
特に日本人にはそういう傾向があるかもしれない。

Facebookなどを見ていましても、
ご自分の作品は頻繁に公開している先生でも
ご自分の生徒の作品はほとんど紹介されないようです。
もっと生徒の作品が公開されてもいいのでは、と思います。

実は、生徒作品を公開すると、生徒はとても喜びます。
オーストラリア人、日本人ともに。
家族や友人に見せることができる、ということで。
そのなかから新しく生徒として
教室にやってくるということもあるわけです。

いろいろな事情はあるわけですが、
もう少し継続してみましょう。

2015年6月25日

一日一華:花菱レストランにて、そしてピロル菌について


花菱レストランでの仕事は
用意していただいた花材で生けます。
何が出てくるか分からない、
時間制限がある、という難しさ。
しかし、材料調達の時間が節約できるのは有り難いです。

私が忙しい時は、私の上級の生徒にお願いします。
皆、難しかった、でも面白かった、と言ってくれます。

ところで、最近、日本で人間ドックを受けました。
この日本のシステムは素晴らしい。
ビジネス化していて、サイト上で、比較、予約も簡単。

結果をオーストラリア人の医師に見てもらいました。
彼のコメントが面白かったので、紹介します。

バリウム検査について。
「こんなものは2度と受けないでくれ!」とのこと。
不正確だし、放射能を浴びるので健康に良くない。
30年前の検査だ、先進国じゃ廃止しているよとのこと。
別のもっと効果的な検査がある、というのです。

私の勘ですが、バリウム検査の施設はかなり高額でしょう。
それで古いと分かっていても、投資した医療機関は簡単に廃止出来ないのではないでしょうか?

粘膜不整、内視鏡の精密検査を受けるようにと出たので少々心配。
日本人は胃がんが多いので。
オーストラリア人医師のアドバイスは、「まずピロル菌検査をしよう」。

調べるとピロル菌は胃がんの原因になるとのこと。
子供の頃に体内に住み着き、中高年になるまではおとなしい。
しかし、それからは悪さをしだす。

1980年代、オーストラリアの研究者がつきとめ、治療法もできている。
中年以上の日本人はかなりの割合でピロル菌を持っているらしい。

風船を膨らませ、その呼気を調べるだけ。簡単な検査です。
結果は陽性。ピロル菌がいました。
さっそく治療に取りかかりました。といっても薬剤を飲むだけ。
5000円ほどしかかからない。

なんだか5000円で命拾いした気分です。
しかし、疑問は残ります。

なぜ、人間ドックにピロル菌検査を含めていないのか?
私のは基本的なコースでしたが。

人間ドックを受ける際には、
是非、ピロル菌検査を追加しましょう。

健康管理について私達はもう少し勉強しないといけないでしょうね。
医師に任せきりというのは問題かもしれない。


2015年6月18日

一日一華:ハラン再び



ハランで再び。
この作品の花材も生徒が置いていったもの。
余ったから、使えなかったから、
作品作って見せて、ということなのです。
宿題をもらったので、ちょっと遊んでみました。

私の生徒の作品を載せているサイトを
見ていただくとお分かりかと思いますが、
日本人の生徒が増えてきました。


どうして長い間、私に日本人の生徒がいなかったかというと、
たぶん、私が若かったからだと思うのです。
若い男が華道教師などといってもなんだか頼りない。
日本人はやはりある程度お年を召されたご婦人の先生を
選んで安心なのではないでしょうか。

ということは、つまり
私も年をとってきたということか。
それも悪くないでしょう。

日本人の生徒はやはり楽です。
教え易い。
外国人との違いはまたいつか
ちょくちょく書いていきましょう。






2015年6月15日

一日一華:ハラン


この花材、どう使っていいか分からないから置いていきます、
何か作ってみせて、
なんていうことで、生徒から宿題をもらうことがあります。
日本ではそんなことはあまりないのでしょうが。
海外ですから、なんでもあります。
でも、それも挑戦。
そこで、ハランとバーゲンディーの百合の取り合わせです。

日本でありえない、というか
華道家にとって、多分あまりないのは、
芸術作品制作の依頼でしょう。
華道家が何をやる人間か、おおよそ世間は分かっています。

しかし、ここはメルボルン。

華道家が何ができて、何ができないか、
あまりご存知でない方も多いわけです。

しかも私は彫刻を少し勉強しています。
そうするといろいろ面白い依頼があります。
今日は、三メートルの人の顔を作ってくれという依頼。
ある美術館がポートレート・コンクール展を予定。
豪州国内で最高峰の芸術賞のひとつです。
その広告に6週間かけて公開制作をというリクエスト。

とんでもない挑戦になりそうです。
楽しもうと思います。


2015年6月10日

一日一華:白樺の枝


我が家の白樺の枝で遊んでみました。

おそらくうまく書けそうもないことを書いてみましょうか。

メルボルンに移り住んで20年以上経ちました。
間もなく30年になるでしょう。

メルボルンでいけ花を習った先生は2人。
現在、草月流ビクトリア支部長のエリザベス・アンジェル、
そして、カーリン・パターソン。
両先生にお世話になりました。
特にカーリンの教室へは長く通いました。

先日、カーリンに用があって電話しました。
「ちょっと待ってくれ」と男性。
少し様子がおかしいのです。
「番号違いでしょうか」と私。
電話の相手が代わって、カーリンの娘さん。
「誰からも聞いてないのね」
「え?」
「母は去年9月に亡くなったのよ」
言葉が見つかりません。罪悪感。
急な病気だったとのこと。
「大変、失礼しました」半年以上も知らずにいたなんて。
「あなたのことは母からよく聞いていました」
私はカーリンがいかに優れた教師であったか、
今、メルボルンで活動している草月流の教師の
ほとんどがカーリンの生徒であること、
カーリンが教えてくれたことをまた
私達が次の世代に伝えていくだろうというようなことを伝えました。

電話を切った後、
昨年、カーリンから思いがけず電話があったことを思い出しました。
亡くなる直前だったのかもしれません。
しかし、いつもとなんら変わりない会話でした。
自分のことはほとんど話すことはなく、
私のことをあれこれ尋ねてくれました。
草月流ビクトリア支部についてあなたの考えを教えて、
というようなことを繰り返し言われました。
「何も気にすることはないですよ」「何も言うことはないですよ」
私も繰り返しました。
私は集団から距離をおいているだけ。悪感情はないのです。
しかし、集団はそんな個人にある種の感情を持つのかもしれない。
余計なことでご心配をおかけしていたようです。

カーリンについてはいつかきちんと書いておこうと思います。
いけ花の作家としての力だけでなく、
指導力という点で比類ない方でした。
実際、指導力のあるいけ花の先生には
なかなか巡り会えないのではないでしょうか。
私は幸運だったと思います。

2015年6月6日

2015年6月4日

21世紀的いけ花考(36)


 生花という言葉を巡ってあれこれ考えてきました。ここまでの話を簡単にまとめておきましょう。ここで言う生花とは、室町時代、主流の立花に対抗して出てきたひとつのスタイルの花飾りのこと。生花、立花、自由花など様々なスタイルをまとめていけばなと言う時には「いけ花」と表記して区別することにします。

 生花とは花に新しい生命を与えて蘇らせるという意味だろうということでした。つまり、生花に使う切花は生命を失った存在。それが生けるという行為を通過して再び生命を獲得するということ。生けるとはまるで宗教的な再生の儀式のようです。そのように考えてみるとまた新しい仮説が出てきます。

 前回は東洋哲学の見地からこの再生を無本質的な花としての再生だと説明したわけです。しかし、文化人類学的の基礎概念を当てはめてみることもできそうです。死→儀礼→再生。つまり通過儀礼ですね。結婚式、葬儀などと同じこと。これらの儀礼には共通する要素がたくさんあります。例えば結婚式で着る白無垢。これは死装束と同じ意味。人が生まれれば名前を与え、七五三でお参りする。それは故人に戒名を与え、年忌法要するのと対応しています。

 そうすると材料の切花といけ花になった花とは、全く違ったものだということが分かってきます。花を生けるということは葬儀を執り行うようなものなのです。そう言うと「暗ーい」なんてことになりそうですね。婚礼を執り行うようなものだと言ってもいいのですが、最近の婚礼はロマンチックなイメージが強く、旧来の自己が死に、新しく生誕するための儀礼という本来の意味がぼんやりしていますので、どうでしょうか。

 ともかく、いけ花のおおよその意味が分かっていただければ結構。次に、いけ花は芸術だろうか、ということを考えていきましょう。

 さて、今月紹介するのはメルボルンフラワーショーに出展したハート。単純な作品と見えるでしょう。私自身、企画段階で今年は楽だぞと思っていたのです。しかし、制作は大変。3日間でぎりぎり。今年は私の生徒も多数出展してくれました。作品集をYou Tubeで公開しています。私のサイトからご覧下さい。


 また、RMIT大学公開講座「いけ花から現代芸術へ」は7月から再開予定です。さらに、最近、Ikebana in English: Bibliographical Essay(International Journal of Ikebana Studies, Vol.2 )ほか3本のいけ花関連論文が出版されました。詳細は私のサイトでどうぞ。 

2015年5月23日

一日一華:玄関に


クラスの残り物花材をリサイクル。
インドの真鍮の花器に。

残り物を使うということは
自分で花材を選ばない
あるものでなんとか工夫する
となると
思いがけない取り合わせになることが多い
面白い勉強になります。

大工さんが玄関に生け花を飾る床の間(アルコーブ)を作ってくれました。
なかなかよくできたので
大いにほめてあげたら、
ここにも作れるよ、ここにも、と、
廊下にも、浴室にも作ってくれました。
簡単に作れるものなのだろう。


2015年5月15日

2015年5月12日

21世紀的いけ花考 (35)



  生花とは、一度は死んだ切り花に新たな生命を与えることであろう、という話でした。まあ、確かに「生き生きした感じ」を持つことになるでしょうが、それだけでは少々浅薄。さらに生命とは何か、と考えて行くと伝統的な日本思想の流れの中では、実相とか神とかいうものとつながってくるということでした。ここは東洋思想の核です。

 おそらくこの核を一番分かり易く説明してくれているのは井筒俊彦の名著「意識と本質」(岩波書店)でしょう。しかも、例に花を用いています。南泉普願が牡丹を見て、「時の人、この一株の花を見ること夢のごとくに相似たり」と語ったといいます。花を見る主体としての自分、見られる客体としての花。この両者があります。ありもしない花の本質を、主体が実体と妄想しているのだ、ということ。花は虚像でしかない。そこをつきつめると、すべてのものから本質が消失。すると、世界は混沌としたカオス。そこで止まってしまうのではなく、東洋思想はそこから再び新しい秩序を取り戻します。無化された花が、また花として蘇る。この花は、花の本質を取り戻したということではないのです。新しく無本質的な花として蘇るのです。すべての事物は互いに区別されつつも互いに透明で、融合するという不思議な境地。言葉を否定する悟りの境地ですから言葉で説明しようとしてはいけないのです。私自身、深いところでそれが自得出来ているわけではありませんから、これくらいにしておきましょう。

 生花という言葉には以上のような深い意味が込められているのだろうと考えた上で、次回は生花の意味をまとめておきましょう。要は生花とは花を蘇らせるということ。それはつまり花の実相を表現すること、また、花を無本質的な花として蘇らせることなのだという解釈になります。  


 今月の作品は花菱レストランに活けた作品。毎週月曜日に活け込みです。活けたすぐ後で写真を撮るので、花の色が目立ちませんが、花が開き始めると毎日違った姿になります。メルボルンの日本レストランはたくさんありますが、生花を飾っておられるお店が少ないのが残念です。西洋花を飾っているお店もありますが、おそらく生花の方がお得です。是非、ご相談を。見積もり無料です。

2015年5月11日

2015年5月2日

新連載:花を愛する10の理由


オーストラリアの人気雑誌、Living Nowにいけ花についての連載を始めました。花を愛する10の理由。私の作品も多数紹介されていますので、是非ご参照下さい。オンライン版で無料購読できます。 http://bit.ly/1bNhHg0

Shoso's new article on Ikebana, 10 Reasons to Love Flowers was published in Living Now magazine. Living Now, Issue 182, pp.10-11. Get a copy near you or read online. http://bit.ly/1bNhHg0


2015年5月1日

21世紀的いけ花考(34) 


室町時代、「立花と違い、花を生かすから生花というのだよ」という主張がなされたようなのです。それが多くの方にすぐに了解されたようなのですね。ということは当時、「生かす=蘇らせる」という言葉の意味が了解されていたということ。花を蘇らせるとは、どういう意味だったのでしょう?

 おそらくそれを調べる一番の方法は、当時影響のあった文献を求め、「生く」あるいは「生」という言葉がどのように使われていたかを拾いだし、その意味を定めていくことでしょう。私にもそんな余裕があれば、取り組みたいところ。

 しかし、私は仮説を提案するだけ。奇説ならなお結構。実証の部分は専門家にお任せ、というスタンス。かといって、私の仮説は全く根拠のない空想でもないのです。ここで参考にするのは、正岡子規の写生について小林秀雄が語った次の文章。「写生とはSketchという意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統をだんだん辿って行くと、宋の画論につき当たる。つまり禅の観法につき当たるのであります」(「私の人生観」)。やれやれ大変なことになってきました。さらに、写生とは実相観入だとか、観入とは空海の目撃だとか、話が拡大していくのです。ともかく生とはある観点からは実相であり、また神であるということ。その生を写せば歌になり、その生を切花に与えれば生花になるということです。歌論も華道論も同じ穴を掘っているわけです。この穴こそ東洋思想の核。

 私には面白いこうした議論も、最近の学会では流行らないようですね。人気なのは軽ーい題材。アニメの研究、オネエ言葉の研究、オタクの研究、そういうカタカナのトピックが多い。もちろん題材が軽くても、研究方法がしっかりしていればいいわけです。博士論文などそのほうがいい。ともかく、人気のない難解な題材をこの場で、長々と引きずってはいけないでしょうね。次回は軽ーくいくことにしましょうか。

 今月紹介するのはテーブルアレンジメント。西洋花的な丸いデザインで。花材には豪州のネイティブをというリクエストでしたので、バンクシアをにょきにょき見せています。枝で作った土手からソリダゴがこぼれて、その下には緑の実やジャスミンをびっしり。ジャスミンのこうした使い方はいけ花の文法にはないものでしょう。

 なお、Living Now 誌で連載を再開します。ここでの連載と補完関係になるでしょう。お楽しみに。

 

2015年4月25日

いけ花文化研究第2号発刊


国際いけ花学会の学術誌「いけ花文化研究」第2号が発刊されました。

学会誌の購入方法などは以下をご参照下さい。

私の寄稿文(英文)の要旨は以下の通りです。

いけ花に関する英文文献
 新保逍滄
モナシュ大学日本研究センター

 本稿では明治期から現在までに出版されたいけ花に関する主要な英語文献を紹介した。該当文献を暫定的に主要文献、指導書、作品集、学術論文の4種に分類した。本稿は学術的ないけ花研究の参考になることを趣旨とするため、作品集ならびに新聞、雑誌の記事などは原則的に除外した。
 主要文献としては、欧米のジャポニズムのさなか出版されたコンドル(1891)、禅ブームの文脈に位置づけられるヘリゲル(1958)、日本の高度経済成長期に出版されたスティーレ(1962)など4点を取り上げた。スティーレに所収された大井ミノブの論文は華道史に関する数少ない英語文献のひとつである。
 指導書はいけ花入門書を含め比較的多く出版されている。優れた近著に佐藤昌三(2008)がある。
 少数ながら美学、社会学、カルチャル・スタディーズなど様々な領域でいけ花に関する学術研究が行われている。特に注目したいのはいけ花の心理的効果を調べたカナダの研究報告、ワタース他(2013)である。長期間のいけ花の修練が実践者に心理的な充足感をもたらすことを実証し、今後の研究課題についても重要な示唆がなされている。 
 本稿は優れたいけ花関連文献が英語圏で出版されていること、それらの多くは国際的な社会文化的文脈の中でとらえられるべきであること、また、更なるいけ花研究が必要であることを示した。

2015年4月24日

出版記事のお知らせ


私の論説「いけ花から現代芸術へ」がIAFORの学術誌、日本文化と芸術特集号に選出されました。ご参照下さい。
http://iafor.org/the-iafor-academic-review-volume-1-issue-2/

国際いけ花学会、2015年度春期例会出の発表は以上の論文に基づいたものでした。
http://www.ikebana-isis.org/2015/04/blog-post.html

2015年4月22日

メルボルン・フラワーショー

2015年度のメルボルン国際フラワーショーへの出展作を紹介します。
私と私の生徒の作品を以下のYouTubeでご覧下さい。約2分です。

音楽は別の投稿で紹介したマディーの作品です。

多数の方々にご覧いただければ幸いです。

HD: https://youtu.be/Z31-LwhP1DI



SD: https://youtu.be/cDBHBl1vDzs



http://www.shoso.com.au
https://www.facebook.com/ikebanaaustralia

2015年3月18日

一日一華:イースターデイジー



イースターデイジーをたっぷりと。

安価な花の代表格なのでしょうか。
以前、メルボルン・フラワーショーで
どっさり使ったところ、
他の出展者(大部分は西洋花)から、
「よくもこんな安い花を使う気になったわね」
そして、「こんなに効果的に使えるものなのね」
と二重に感心されたことを思い出します。

フラワーショーでは
高価な花をどっさり使うことが宣伝になるようですが、
私にはあまり興味のないアプローチです。

自分に挑戦できたら楽しいかな、と思います。
なかなか大変なのですが、今年も出展します。
2015年は3月25日より開催。
http://melbflowershow.com.au

2015年3月17日

一日一華:小説・教室のうわさ話(6)



我が家の前の並木から枝を切り取る。
オーストラリアのネイティブで常緑樹。
一応、市が管理しているわけだが、
生花教室に使う分位は歓迎してもらえるはず。

5、6本枝を持って歩いていると
ネイビーブルーのメルセデスが
すぐ脇に静かに滑り込んできた。
「ハロー」
サングラスのマリアが微笑んで、手を振ってくれる。
指の爪は銀色で、星がちりばめられている。
小学生の女の子が好みそうな模様だが、
彼女の声の幼さい印象とよくマッチしている。

彼女が車を運転してくるのは初めてだと思う。
それに新しいメルセデス。昨年のモデルだ。
「今日はご主人の送迎じゃないんだ」
「自分で来た方が気が楽でいいわ。
それに、彼、新しい仕事が見つかって、忙しいみたい」
「どんな仕事なんだろう?」
「それがね。教室で教えてあげる」

だいたい時間になると生徒は揃い、
各自、準備を始め、制作にとりかかる。
水がない、添え木がない、剣山を忘れた、
などという生徒のお世話をして一息つく。

マリアのいるテーブルで笑いが起こる。
「そう。うちの亭主」とマリア。
3、4人が新しい銀行の広告チラシに見入っている。
既存の二つの小銀行が合併して新しい銀行ができた。
オーストラリアには4つの大銀行がある。
第5の位置につけるかどうか、という話の出ている新銀行だ。
その銀行のチラシでは、
中年男性が自分の家の前でにっこり微笑んでいる。
彼の側にはきれいな奥さん、二人の子供。
そして、大型の車まで。
「わが銀行の低利ローンを使えば皆が欲しがる商品は
みんな手に入って、こんなに幸せになれるよ」
というメッセージだろう。
テレビでも高速道路の大型広告板でも昨今おなじみの男。
髪は短く、丸い目でコメディアンのように笑っている。
「笑ってちょうだい。おかしいでしょう?」
え、まさかこの男が?

こうした広告に出る「理想の家庭」は、
本当の家族ではなく、モデルの寄せ集めであるらしい。
マリアもかわいらしい女性だが、
広告の奥さんほど細身ではない、かもしれない。

「だからね、彼、趣味で演劇やっていたの。でも、たいしたことはなかったわけだけど。
今回、オーディションに通って、このコマーシャルに出ることになって」
「それはたいしたものだね」と私。
「本人は満足しているわ。仕事探しやめて、フルタイムの芸能人になろうか、だって。
気楽な人よね」
「まあ、いいお金が入るなら、それも悪くないでしょう」と私は笑った。

他の生徒の作業を見て廻っていると、「ショーソー」と
ナタリーが小声で話しかけてきた。
「マリア、本当はとてもハッピーなのよ」と微笑んだ。
「家のローンも完済できたし、新しいメルセデスまで買ってもらえたんだから」
「へえ、そんなにお金いただけるものなのかあ」
「いろいろ契約やなにか面倒はあるらしいんだけどね」

我が家にふて腐れたような顔でやってきたあのロシア人男性。
マキシム機関銃を撃ちまくっているわけでは、もちろんなく、
コメディアンなのであった。
言われてみて、初めて、「あ、あの人だ」と気付く。
イメージのギャップが大き過ぎる。
今度会ったら、何て言ったらいいのだろう?

2015年3月7日

一日一華:小説・教室のうわさ話(5)



マリアの携帯がまた鳴った。
生花クラスの最後はいつもShow & Tell。
今日の作品を順に皆で見て回る。
合評会といったところ。いつも10分ほど。
合評会が始まってから、
マリアの携帯が鳴るのは4回目だ。
呼び出し音は聞き慣れたクラシック音楽だが、
4回目となると、
さすがに穏やかな上品さはもう感じられない。
それでもマリアはおっとりと携帯に話しかける。
「今、行くって言っているでしょう。もう終わったのよ。
片付けしているところ」
マリアが携帯を切る。
1秒たったろうか。
ひと呼吸も終えないうちに、また、携帯が鳴る。
10人ほどの生徒の間にも、
どこか緊張感に似た異様な空気が漂う。
「マリア、早く行った方がいいよ」
私は笑って言った。
「仕方ないわね」とマリアは携帯にでる。
自分だったら多分、腹を立てるんじゃなかろうか。
こんなしつこい相手には、電源切るだろうなと私は思う。
「はいはい、今、移動中。玄関のドアあけたところ。そうだ、あなた荷物運ぶの手伝いにきてよ。家の前にいるんでしょう?」

間もなく髪を短く切った大柄の男がやってきた。
大股で歩いているのに、素早い。
きっとロシアでは軍隊にいたんじゃないかなと思う。
マキシム機関銃をぶっ放し、敵軍の50人位は血祭りに上げているかもしれない。

ソ連についてだったと思うが、
多くの結婚がうまくいかないという話を、以前、聞いたことがあるのを思い出した。
多くの男にとっては入隊することが生活の安定につながる。
多くの女性にとってはそういう選択はない。
そこで学業に励む。
しかし、知的職業に就いても軍人の夫の給料には及ばない。
しかも、夫と知的レベルが違うために会話がうまく成り立たない。
まあ、どこまで正確な話なのかは定かではないが。
ある国についての大雑把なうわさ話など
ほとんどがいい加減なものだ。 

男は私達に一瞥もせず、
花器や花材の入ったマリアのプラスチックの箱を両手で持ち上げると
さっさと去って行った。
「じゃ、またね」と
マリアは靴を直しながら夫を追う。

「可哀想なマリア」
ナタリーが私にそっと言った。
「彼女の夫、鬱らしいの。突然、解雇されたんだって」
マリアの生活を想った。
鬱で忍耐力のない失業中の夫。
美しいが、金銭感覚が乏しい娘。
フランス語の家庭教師で家計を支えるマリア。
生花を続けらるのだろうか?

それから数週間。
マリアの生活にまた異変が起こったようだ。

2015年3月5日

一日一華:小説・教室のうわさ話(4)



「フェースブックに私の作品載せてくれたのね。
ありがとう。
娘が手伝ってくれて、ようやく見ることができたわ」
マリアが言った。
嬉しそうにするとピンクの頬がいっそう輝く。
日本ではリンゴのようなほっぺたなんていうが、
マリアは白い頬がピンクに染まっているわけで、
もっとジューシーな感じ、ピンクのプラムといったところか。
私の生徒の生花作品を定期的にフェースブックに載せている。
いろいろな反応があるのがとても嬉しいようだ。
手間はかかるが、できるだけ続けてみたい。
「お嬢さんって、大学生の?
留学中じゃなかった?」
以前、スマートフォンでとてもきれいなお嬢さんの
写真を見せてもらったことがある。
当地の有名大学で工学を勉強しているという。
移民の子供達は勤勉であることが多い。
親の苦労を見て育つせいか。
マリア夫妻はロシアからの移民だ。
「それがね。留学は1ヶ月で打ち切り。
アムステルダムに6ヶ月滞在のはずだったのに」
マリアは少し幼さを感じさせるような声で、もったり話す。
風呂からあがってのんびりくつろいでいるところだ、
というような穏やかな響きがある。
きっとなにが起こっても
そんなゆったり感を持ち続けられる人なのではなかろうか。
「先月、バルセロナに家族旅行に行ったでしょう。
娘に『合流しよう。来なさい』って言ったらね、
行きたいんだけどお金全部使ってしまって行けないって。
仕方ないからバルセロナから航空運賃送金してあげて、
もうそのまま連れて帰ってきたの。
本当にすっからかん」
マリアは丸い目をいっそう丸くして
驚き、あきれたという表情。
だが、少しも怒りを含んでいない。
「毎晩、パーティーだったのかな?」
「そんなところでしょうね。
それなのに、今日、『日本行きの安い航空チケットが出てたよ。
みんなで行こうよ』ですって。
いいかげんにしなさいって言ってあげたわ」
マリアは微笑む。
たぶん、マリアに叱られてもあまり怖くないだろう。

そんなマリアに異変が起こった。

2015年3月2日

21世紀的いけ花考(33)


 室町時代に登場したいけ花(総称)の異端、生花は「主流の立花と違って、うちは花に新しい生命を与えているのだ」と主張したらしい、と推察しました。これはどういうことでしょう?

 単純に考えれば、新しい生命とはおそらく芸術的な(当時、そのような言葉は存在しませんでしたが)生命でしょう。生物学的な生命ではなく、象徴的な生命。立花は形式的で、生き生きした生命感がない。それに対し、生花は切り取ることで一度は生物学的な生命を終えた花に、新しく芸術としての生命を与え、蘇らせているのだ、ということでしょうか。確かに、それで意味は通ります。立花批判として了解出来ます。

 しかし、それでは私は満足出来ないのです。言葉の上で何となく分かるというのは、どうも信用出来ない。もっと考え尽くさなければ。

 以前、いけ花の本質とは何か?というテーマで書かれた博士論文を読んだことがあります。博士論文です。結論は「生き生きした感じ」だというのです。唖然としました。確かにたくさんの文献が引用されてはいますが、この薄さは少々気の毒で批判さえできません。

 おそらく私がこれから考えようとしていることも生花の本質の追究。それを論文ではなく、平易な言葉で書いてみたいのです。

 生花は切花に生を与えているというのですが、その「生」とは何か?「生」は日本文化の中でどのようにとらえられてきたのか?「日本文化における生の認識について」と焦点を絞れば「生き生きした感じ」などと結論して笑われることもなく、もう少し深い論考になることでしょう。

 日本の歴史を通じてある程度共通する生の認識、日本的な生の概念があるのでしょうか?あるよ、と教えてくれるのは小林秀雄。この問題に関する彼の文章は学術的ではありませんが、参考になります。

 今月紹介するのは、クラウンホテルの此処レストランに活けた正月の花。毎年お声をかけていただいています。当然のことながら商業花ですから自分勝手に活けるわけにはいきません。安全性と便宜性を重視し、できるだけ持ちのいい花を選んでいると、毎年似たようなデザインになりがち。それでも限られた範囲で工夫をしています。

 さて、今年の3月にはメルボルンフラワーショーへの出展、4月には国際いけ花学会での研究発表などを予定しています。詳細は私のサイトをご参照下さい。

Shoso Shimbo

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