華道家 新保逍滄

2017年7月31日

いけ花ギャラリー賞について(2)



いけ花ギャラリー賞をより面白くしようと、ピープルズ・チョイス・アワードを設けました。フェイスブック上でのいいねの数を競う人気投票です。私はあれこれ工夫するのが好きなんですね。

やってみると、これがまた面白く、勉強になります。

基本的に遊びでしょう。
厳密な審査で決まる賞ではありません。
それはそうなんです。が、しかし、、、

まず、プラスの面から。
最大のプラスの面は、ポストが俄然多数の方に拡散するということ。
私たちのポストは、通常、数百から千人くらいに届きます。
せいぜい2千人とまりです。
しかし、この人気投票受付のポストは1万5千人超に届きます。


これはこの賞を一層格式のあるものへとしていく準備として重要なことです。
注目されないことには賞の権威もつきません。

次に、生徒は普段では経験したこともないほどの「いいね」をもらったり、コメントをもらったりすることになります。これは大きな自信につながるようです。それだけで、ピープルズ・チョイス・アワードの意義は十分です。

ちょっと、ネガティブな面。

まず、必要以上に熱くなる人があるということ。競争心丸出しで、「いいね」をくれと宣伝するのですね。たかがピープルズ・チョイス・アワードでしかないのです。
それを獲得したからといって、何でしょう。
しかし、なかなか冷静になれない方があるのです。

そこで、一人3作以上を選ぶこと。
一つの作品のみをシェアしないこと、アルバム全体を(予選通過作品の全作)をシェアすること、などとお願いしています。

しかし、1作のみをシェアし、この作品を「いいね」してくれとやる方がよく出てきます。

これは、フェアじゃないと思います。そういう人が出たら、ピープルズ・チョイス・アワードはキャンセルするとまで言っています。

しかし、こういう行為を不公平と断じるとしても、どこまで厳密に対処するか、
これはかなり難しい問題です。

なぜ、そういうことをするのか、というと、一つには私たちの指示を理解できない方があります。英語の問題もあるでしょう。また、ピープルズ・チョイス・アワードとは、結局、友人に拡散して、できるだけ多数の「いいね」をもらう、そういうものだと思っている方があるようなのです。つまり文化的な差異です。さらに、当方の指示など読みもしないという方もあります。

しかし、大多数の方は当方の指示に従って、冷静に選んで下さいます。
そういうたしなみのある、私たちが期待する楽しみ方をして下さいます。
それは多く、特定の文化圏の方です。

逆に、大騒ぎをして、不公平でも何でもやり、賞を取ったが勝ち、とやるのも別の特定の文化圏の方に多いようです。

文化の差というのはどうしようもないのかなと思ったりします。

例えば、スポーツの国際試合などでも、一般に日本人はアンフェアな選手など嫌いでしょう。たとえ勝ったとしても反則が多いような選手、態度が良くない選手は応援しないでしょう。

ところが、勝てばいいじゃないか、という国があることも見聞きしているはずです。
文化の違いということでは、似ています。

どこまで許容するか、どこから厳密に対応するか、
異文化と付き合う上では重要な問題でしょう。

2017年7月26日

一日一華:超えるということ(2)


フェースブックを見ていると、
著名人の略歴を紹介したビデオがよく出てきますね。
1、若い頃は厳しい境遇にもめげず、努力した。
2、その結果、今では、資産数千億。世界有数の億万長者だ。
3、皆も苦労に負けずに、頑張ろうね。
というポジティブなメッセージ。

私の反応は、
1、なるほど、そうだったのか。大変だったろうな。
2、それで?
3、そう言われてもなあ。
多分、あまり素直でないのでしょうね。

でも、億万長者になりたいと、それほど強く思えるものでしょうか?
もちろん、私も裕福ではないですから、お金はあればありがたい。
しかし、遣い切れないほどの資産を手にして、
それだけで人は満たされるものでしょうか?

おそらく、例えば日本の引き込もりの方はもちろん、多くの若い人たちも
上のようなメッセージを与えられても、しらけてしまうのではないでしょうか?
「よおし、自分もやるぞ」というような動機付けにはならないだろうと思うのです。
人生の成功って、そんなものなの?その程度?という具合に。

自己実現だとか、好きなことを精一杯やってみようとか
言われても何をやっていいのかわからない。
現実的な仕事も生活の手段としてはやらざるをえないと了解できるものの、
そこにあまり意味を見出せない。
生き甲斐が見つけられない。
自分の命をかけてみよう、
燃やし尽くそうというほどに熱くなれるものが見つからない。
そういう悩みは多いと思います。

これは仕方ないことだと思います。
なぜ仕方ないことなのか?
では、どうすればいいのか。

「あること」に気づく必要があるのではないか、と私は思います。
「あること」とは、上記のようなビデオのメッセージ、
努力して、困難を克服して、人間的にも成長して、お金を掴もうよ、というメッセージの出処はどこか、ということ。

それを歴史的に理解すること。

そして、もしかすると、現在は、そうした価値観が終焉を迎えているのではないか、ということにまで考え及ぶ必要があるのでは?

つまり、そうした価値観を超える時期にきているのではないか。

もしそうだとすると、もっと新しい価値観はどのようなものか。
その価値観は、もしかすると、上記のようなビデオメッセージにしらけてしまう人々までをも熱くするのではないか。

そんなことまで、考えさせてくれたのが、前回(https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post_25.html)紹介した以下の本だったのです。
T.J. Demos (2016) Decolonizing Nature: Contemporary Art and the Politics of Ecology.

いずれ、内容を紹介できると思います。

既存の価値観を超えるということは、どういうことかと考えていくことになるでしょう。

2017年7月25日

一日一華:超えるということ(1)


久しぶりにいい本に出会ったなあ、と、感心したのが、
T.J. Demos (2016) Decolonizing Nature: Contemporary Art and the Politics of Ecology.
著者はUC, Santa Cruzの教授。

こういう上質の本を読むと、頭の中がスッキリ整理される感じがします。
本の内容については、おいおい紹介することもあるでしょう。
今準備している論文では、重要な参考文献になるでしょう。

さらに、読みながら、思ったのは、「超える」ということ。

個人的な定義でしかないですが、超えるという経験を何度かしてきました。

ある宗教者の著作を集中的に読んだことがあります。
かなり画期的な主張だと感心していました。
心酔とまではいきませんが。
自分を反省するためにはとても役立ちました。

それがある出来事から、この宗教者の生き方に落胆。
すると、ネガティブな情報ばかりが入ってくるというような経験をしたことがあります。
その時に、超えたという感じを持ったのです。

超えるということは、超える以前の自分が対象化されるということ。
やや客観的に見ることができます。距離ができるのです。
以前の自分の輪郭がはっきりしてきます。自分の限界でもあります。
同時に、感心していた宗教者のことも客観的に見ることができます。
その限界もはっきりしてきます。

おそらく、政治的な転向などにも当てはまることでしょう。
私自身は経験がないので、よくわかりませんが。

私自身については、戦後教育を受けたものですから
どちらかといえば、左翼的な言説に惹かれたものです。
反日的で、日本などという悪徳な国家権力は潰してしまえといった具合でした。
それが日本のマスコミの主流でしたし、
著名な学者の大多数の意見でもありました。
それに同意しない者は、好戦的で、頭が悪い右翼連中としか思えませんでした。

しかし、今は、そうした左翼的な考え方は超えたなと感じます。
もちろん、いきなり右翼になってしまったわけではないです。
右翼と関わるつもりもありません。
ただ、洗脳されていたのだなとは、分かってしまいました。

日本の左翼は、結局、勉強不足。
きちんと勉強すれば、誰でも洗脳が解けます。

ここでも、超えてしまうと、
左翼思想が対象化でき、その限界がはっきりしてきます。

左翼的な主張をしていられるほど、日本には余裕はないのです。
日本はそれほど絶対的でもないし、日本の平和も盤石ではない。
国際上、かなり危うい立場なのです。

日本の左翼の平和に関する主張(例えば、シールズとかいう学生グループの主張)は、諸外国の、例えばオーストラリアの小学生でも呆れかえるレベルです。世界のどの国でもあのような主張が大手メディアで取り上げられることは決してありません。(一つでも見つけられた方がありましたら、お知らせ下さい。私はお詫びします。さらに賞金も差し上げます)。

しかし、こうした日本の現実が特異なものであるということは、ある程度勉強しないことには分からないようになっています。通常、日本では、勉強すればするほど左翼になっていくのです。そこを超えるほどの猛勉強が必要なのです。

ところが、最近は、インターネットを中心に、きちんとした、正鵠を得た主張に触れる機会が増えてきたようです。日本の左翼メディア(日本を狙う共産主義国家寄り)を対象化できる、つまり、超えられる機会が増えてきたように思います。ちょっと脇道に逸れてみるだけで、簡単に超えていけるのかもしれません。

そして、左翼の洗脳が解けた人は、「自分も洗脳が解けた!」と恥ずかしがらずに声を上げること。
それが役に立つのではないかなと思います。

現代日本では、左翼から右翼に変わる人はあっても、
右翼から左翼に変わる人はいないそうです。

必ずしも左翼から右翼に変わる必要はないと思いますが、
左翼の洗脳からは早く脱して、
自分の頭で物事を考えられる人が増えたほうがいい。
それは確かだと思います。

さて、以上の話が、最初に提示した本の内容と
どう関わってくるのか、ということですが、それはまた次の機会とします。
長くなりそうなので。

2017年7月20日

いけ花ギャラリー賞について(1)


2017年度のいけ花ギャラリー賞の準決勝進出の17作品が発表になりました。
ピープルズ・チョイス賞には、どなたも投票できるようになっていますので、ぜひご参加ください。お一人3作品以上を「いいね!」して下さい。締め切りは7月末日です。
https://www.facebook.com/pg/IkebanaGallery/photos/?tab=album&album_id=1232144103581414

いけ花ギャラリー賞については、思うところがいろいろあります。
嬉しいことのは一つは、準決勝に選ばれただけで、喜んでくれる方が多いということ。
世界各地から感謝のメッセージが届いています。

そして、この発表のポストが約1万人にまで拡散するということ。
他のフェースブックでのポストでは、私たちには通常とても達成できない数値です。
おそらく著名なフラワーアーティストででもない限り、なかなか達成できないでしょう。
選ばれた生徒にとっても、もちろん、普段見てもらえない人たちにまで作品を見てもらえ、励ましのコメントをいただけるわけです。

生徒の作品のレベルが上がってきたこともあるでしょう。
いけ花における賞が注目を集めるということもあるでしょう。

この賞の趣旨などについては、国際いけ花学会の学術誌第4号に発表しましたので、機会がありましたら、読んでみて下さい。4号はまだ発売中ですので、全文を掲載するわけにはいきませんが、一部のみ以下に紹介します。4号のお申し込みは以下からどうぞ。
http://www.ikebana-isis.org/p/blog-page_1825.html

いけ花ギャラリー賞の目指すもの
新保逍滄

 2012年以来、オンラインいけ花コンクール、Ikebana Gallery Award (IGA) を年1回開催しています。世界中のいけ花学習者が流派を問わず無料で参加できる世界初のオンライン・コンクールです。2015年度にはフェースブック上での受賞発表通知は約1万人の方々に届くほどになりました(http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/, https://www.facebook.com/IkebanaGallery/)。

端緒

 IGAを思いついたきっかけは幾つかあります。最大のものは、オーストラリアで美術修士を履修中から幾つかの彫刻公募展に入選してきた私自身の経験です。他の出品者やキューレーターから批評をいただける、他の出品者の作品から刺激を受けるなど、とても有意義な勉強になりました。さらに、公募展入選は一つの業績として履歴書に書けます。すると、仕事の機会も増えますし、自分の意識も変わってきます。いけ花の世界にいた者にとって芸術の世界はとても新鮮でした。いけ花でもこのような機会が作れないかと思ったのです。

 さらに、ネットのブログでは、多数の先生方が自分のいけ花作品の紹介をされていることに気づきました。しかし、生徒作品はなかなか見かけません。「人様に見せるほどのものではない」と先生も生徒も思っているのかもしれません。しかし、私のサイト(www.shoso.com.au)で、生徒の作品を掲載すると私の作品の時以上に訪問者が増えるのです。生徒作品への関心は潜在的にあるように思えました。自作をより多くの人に見せたい、また他の生徒の作品を見たいという希望は、多くの外国人の生徒にとって自然なものであるようです。その機会を提供することが、生徒の学習動機を高めることになるかもしれません。こうして生徒のためのオンライン公募展というアイディアの芽は育っていったのでした。

趣旨

 このコンクールの趣旨は次の二点としました。「世界各国でいけ花を学ぶ生徒のため、作品紹介と学習体験を分かち合う場を提供することで、いけ花学習をサポートすること」そして、「芸術としてのいけ花の認知度を高め、世界のより多くの人々にいけ花を伝えること」

 私は日本でいけ花の基礎を勉強した後、オーストラリアでも勉強を続けてきました。オーストラリア人の先生、故カーリン・パターソンさん宅で週1回、10名ほどの生徒とともに数年間学びました。とても狭い世界でした。作品発表の機会もほとんどありませんし、限られた他の生徒の作品にしか触れる機会がありません。また、いけ花自体、認知度が低いという状況で勉強を続けていくわけです。日本とは違います。世界中の多くのいけ花学習者が同じような状況で勉強を続けていることでしょう。第一の趣旨は、そうした方々への小さな力になれないか、という思いを反映したものです。特に海外の場合、いけ花の先生には作品発表の機会も、所属流派からのサポートもあることでしょう。しかし、生徒へのサポートとなると流派からの組織的なものなどほとんどないのが実情ではないでしょうか。インターネットのおかげで従来難しかった多くのことが少しの手間と費用で可能になっています。このコンクールの目指すサポートもその一例でしょう。

 さらに、この賞がいけ花の認知度を上げる契機になればなお素晴らしいと思います。この第二の趣旨は理想です。IGAの知名度が上がったならば、それを通じていけ花に触れたという方が出てくる可能性があります。実は、これはソーシャル・メディアが発達している現状では大いにありうることです。面白いポストだなと思った方が拡散するという事態は実際に生じているようです。それがいけ花について知識のない方々にも届くということが現実になっています。さらにIGA受賞者が受賞を契機に活動の場をより広げていける可能性もあります。

以下、運営方法などを詳述しています。

2017年7月12日

一日一華:ちょっとさんへ


商業花では様々な制約の中で制作しなければいけません。
時間、予算、クライアントの花についての要望などなど。
大変ですが、それでも楽しいなと思える仕事です。

さて、生け花と芸術の違いを最も意識するのは
私の場合、公募展への応募に際してです。

もちろん、芸術家としての応募です。
生け花アーティストとしての公募展への出品の機会など当地では存在しません。

応募に必要となるものは、
1、作品の趣旨
2、作品の写真
3、作者の履歴書
4、過去作品サンプル
だいたい以上が通常求められるものです。
さらに申込手数料として、日本円で5000円程度支払います。

これらの書類を用意するたびに、
生け花とは違う世界だな、と感じます。

求められる項目の一つ一つについて
生け花の世界だけにいたのでは、通用しないな、と思います。

いずれ、その辺を詳しくお話ししたいと思います。

ありがたいことに私は公募展にはそこそこ入選しています。

しかし、まだまだだなと思います。
まず、応募数が少なすぎるなと反省しています。

ある公募展のオープニングで、「年に50ほど応募するんだが、そのうち3割通れば上出来さ」などと笑っていたアーティストがいました。
当地の彫刻界では著名な方です。

ともかく、コンクールや賞、公募展、とても多いのです。
そこでアーティストは鍛えられるのでしょう。

生け花の世界で「生け花ギャラリー賞」を設けても
なかなか皆さん、腰が重い。

生け花は芸術だ、
というのは掛け声ばかり、という面はあるでしょう。
こうした事情については、いずれ、詳しくお話しします。

2017年7月10日

一日一華:花菱レストランに


昭和時代、生け花ブームが起こりました。
そのキーワードは、「生け花は芸術だ!」だったと思います。
生け花は芸術になったのです。

しかし、伝統的な生け花のあり方と、芸術との「いいとこ取り」だったように思います。
日本で起こる文化変容ではよくあるパターンです。
詳しい説明はいずれ私のエッセーシリーズ、「21世紀的生け花考」で取り上げますが。

その結果、

芸術家なのに華道家の看板で活動する人と
華道家なのに芸術家のふりをする人が出てきたのではないでしょうか。

どちらも普段はまともな生け花作品を作っているのに、
展覧会などでは、よくわからない作品を出してきます。
(と、一般の方には見えるのではないでしょうか?)

しかし、前者は現代芸術の文脈を踏まえた作品であることが多いようです。
(典型的な例は勅使河原宏でしょう)
後者は、独りよがりな解釈不能な作品になっています。

この違いはどこから来るのか?
現代の生け花作家の課題の一つはこの辺にもあるように思います。

2017年7月9日

一日一華:宙に浮く森


宙に浮く森を、というリクエスト。
メルボルンの和食カフェChottoさん、です。

前回のポストで、海外における生け花教師の立場について触れました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post.html

どうも日本とは違う。
日本のように、生け花教師という立場に対する社会的な認識がない、
ということが大きな違いでしょう。

ということは、
どのような在り方をしてもいいということでもあります。

日本と同じような華道教師を目指してもいいでしょう。
自宅教室で地域の方々に花を教える、というのが基本でしょうか。

あるいは、もっと活動の場を広げてもいいのではないかとも思います。
すると、芸術の世界に関わってくることになるでしょう。

その際、最大の難関は、芸術家という立場への理解。

私の経験の範囲内での話ですが、
簡単にいえば、芸術家には実技と理論、双方が求められます。

実技だけで活躍しているように見える芸術家もあります。
割合は少ないですが。
芸大など出ていなくても、作品が素晴らしいという方はあるのですね。
それで十分ではないかと思えます。

しかし、話してみると、多くの方が
機会があれば、芸大で学位(修士以上)を取りたいんだ、と言います。

また、私がオーストラリアの大学で美術修士を履修していた時、
半数以上の生徒が、年配の方々でした。
彼らはある程度、芸術家として実績を積んでいる方々。
そうした方々が、一層のキャリアアップの方便として、
芸大で学位を目指しているのです。

それに対し、学部からそのまま大学院に入ってくる
20代の若い学生は数が限られていました。
残念なことに、彼らは学位を取っても、
その後、芸術家として活動する人はかなり少ないようです。

芸術家としてキャリアを積むのはなかなか大変です。
おっと、話が逸れてしまいました。

今回お話ししたいことは、理論の大切さということ。
芸術家として活動していく際に、
大学院で学ぶ程度の理論を身につけると有利、
あるいは、それが望ましい、という状況であるようなのです。

理論は芸術家としての実技面にも必要になってきますし、
社会的にも、つまり、芸術家として認めてもらうためにも大切なのだということです。

要するに、華道家を超えて、芸術家を目指そうということになると、
理論が求められるということ。
芸大に行ける機会があれば、理想的ですが、
なかなか難しい場合が多いでしょう。

一つの方法は、自分で覚悟を決めて取り組むことでしょう。
独学でもいいのです。

以上が、基本です。

この基本を外れると、困ったことになるのです。
勘違いをしている方もよく見かけます。
勘違いの具体例についてはまた別の機会に。

予想できるでしょうが、本人は芸術家のつもりでも
まったくそう認めてもらえない場合もあれば、
理論など持ち合わせていないのに、持っているふりをするというような
場合も出てくるのです。

生け花というのは、勘違いの温床になりやすい、
危うさを持っているように思います。

2017年7月7日

21世紀的いけ花考 第60回


 生け花とは何か、という話から、あちこち話が飛んでいます。「生け花は精神修行」だというのは、共感者も多い有力な生け花の定義。しかし、その中身はなかなか複雑。禅との関連で説明することもできそうですが、よく考えると、過去数回にわたって書いたように、多数の疑問点が出てきます。

 さらに、生け花とは何かと考えていくと、日本文化とは何か、ということにまで話が繋がっていくことにも気づいていただけたでしょうか。これは生け花の歴史についても言えることです。生け花の歴史を追っていくと、日本の歴史を学ぶことになります。武士階級が力を持つと、それが生け花の形に影響を与えます。商人が経済力を持つと、そのニーズにあった生け花が生まれます。日本文化、社会の変遷と共に、生け花は変容するのです。生け花は日本文化の一部ですが、その一部は全体との関連で常に変化しているということです。

 さて、「生け花は精神修行」だとして、その中身をさらに考えていくことにしましょう。歴史や文化の話にもなりますが、その前に、今、現在、私たちは生け花を精神修行として実践しているでしょうか?もし、そうだとすれば、生け花指導の中に精神的な内容が含まれていなければならないはず。また、生け花師範ともなれば、高徳な方が増えてくるはず。しかし、私の個人的な所感では、そうはなっていません。愚劣な部分も目立ちます。もちろん、これは個人差、地域差、流派間の差などがあり、簡単には言い切れないでしょうが。

 実は、戦前、「生け花は精神修行」だという通説を、真っ向から否定した人物があります。この方が日本の生け花の方向を大きく変えたと言ってもいいでしょう。三大流派のうち、草月流、小原流の家元が師事した先生でした。他にも多くの有力な華道家が彼の生け花改革運動に協賛しています。生け花は精神修養ではなくなったのです。
 
 生け花に多大な影響を与えたこの人物とは、重森三玲。以前にもこのエッセーで紹介したことがありますね。昭和を代表する庭園デザイナー。私が日本庭園に興味を持ち、庭園デザイナーの資格を取るまでになったのはこの方の作品にふれたせいでもあります。次回は重森について、もう少し触れ、私の持論まで持って行きましょう。

 6月には私がNGVで生け花の講演を行いましたが、8月には国際いけ花学会会長がメルボルン大学で講演をなさいます。ぜひお越し下さい。

 今月紹介するのは花菱レストランに活けた作品。私にとっては毎週のトレーニングです。

2017年7月2日

生け花ギャラリー賞応募締め切り


メルボルンの日本レストラン、花菱にて。

さて、6月末に2017年度のいけ花ギャラリー賞の応募を締め切りました。
まだまだ応募数が少ないなと感じます。

この賞の意義、目標などは、国際いけ花学会の学術誌、いけ花文化研究第4号(2016年度版)に書く機会がありました。
http://www.ikebana-isis.org/p/blog-page_1825.html

私の生徒たちはかなり積極的になってきました。
この賞の意義が少しづつ理解されてきています。

いけ花の狭い世界の中だけで活動していくならば、この賞はあまり必要はないのです。
従来のまま、自宅教室で何人かの生徒を教えて細々やっていくということならば。
しかし、海外では若干状況が違います。

1、教室についてもインターネットで検索されます。自分のホームページを作り、自分のCVを掲載することになるでしょう。
2、自宅教室以外の場で教える機会があります。
3、商業花、芸術祭での展示を求められることがあります。
4、芸術展へ出品したい時もあります。
5、メディアに出る機会があります。

こうした状況で常に必要なのが、CVです。
芸術家としての履歴書です。

履歴書に「〜先生の指導のもと、〜年修行した」というくらいしか書くことがないという生け花教師が多いのです。こういう方は海外ではまともにはやっていけないだろうと思います。アマチュアとみなされ、プロとはみなされないでしょう。もちろん、数人の生徒を集めて自宅教室を維持していくということは可能でしょうが、それ以上の活動は難しいでしょう。

本人は「町の生け花師匠」ということでもいいでしょうが、海外ではそのような立場に対する認知はほとんどないのです。「芸術家として、どれほどの人なのだろう」という目で見られるのだと覚悟しなければいけません。

展覧会歴、展示歴、受賞歴、出版歴、メディア歴、などを示して、初めてこの人は本気だなと、認めてもらえるのです(学歴なども記載できれば理想的)。

コミュニティセンター、学校、教会での指導など、ちょっとした指導の機会にもCVの提出が求められます。

ですから、生け花教師は、自分の生徒のCVをどうしたらより充実したものにできるか、活動の機会を広げさせてあげられるか、きちんと考えるべきです。展覧会への出展の機会を与えたり、特別展示の機会を見つけてあげたり。さらに、賞を獲得できる機会を紹介してあげるとか。自分のことだけで手一杯という方も多いでしょうが、自分の怠惰の口実になっていないか、反省すべきです。

賞と言っても、生け花学習者には、そのような機会が少ない上に、受賞に至るのはなかなか大変です。時間もお金もかかります。おそらく海外のフラワーショーなどには参加の機会があるかもしれません。しかし、西洋の商業花と競争していくのは容易ではありません。つい「競争なんて生け花学習者のやることではない」などという考え方に傾くこともあるでしょう。

そこで、お金もかからず、手軽に参加できるのが、この「いけ花ギャラリー賞」なのです。
まもなく、私の生徒の中から、師範取得者が次々に出てきます。
彼女らのCVには、「〜年いけ花ギャラリー賞最優秀賞受賞」という項目が、燦然と輝いていることでしょう(笑)。
彼女らの活動の機会は、きっと増えるでしょう。おそらく、実力以上の機会にも恵まれるでしょう。それがさらなる成長をもたらしくれるはずです。

「いけ花ギャラリー賞」に対する認知はまだまだこれからです。
できるだけ早く、より多くの協賛者が出てくることを願っています。
まずは、海外でいけ花を指導している方々にご理解願いたいと思います。

Shoso Shimbo

ページビューの合計

Copyright © Shoso Shimbo | Powered by Blogger

Design by Anders Noren | Blogger Theme by NewBloggerThemes.com