華道家 新保逍滄

2017年1月30日

一日一華:自宅玄関に。そして書くということ(3)


庭の草花や教室の残り物やらを集めて玄関の迎え花。

さて、エッセイ公募のお手伝いの体験談を書いてきました。

実は、今回、真っ先にボツにした作品があります。
作中、中傷かなと思われる点があったからです。
ある特定可能な人にこのように(批判と言っていいレベルの内容)言われた。
しかし、私はそうは思わない、とご自分の反論を展開する内容でした。

学術研究では、批判は当然。
他の論を批判した上で、持論を展開するのは常套手段。
批判なしでは、通常、学術論文とは言えません。
学問とは知的な格闘技なのです。

しかし、エッセイでは、どうでしょう?
相手が反論する手段もないですから、不適ではないか。

しかし、ボツにした後、なぜ、こうも中傷(はもとより、批判)を避けたがるのか、と考えてしまいました。

私自身、不条理な相手に反論するより、避けてしまいます。
そんなことにエネルギーを使いたくない、という理由です。

もしかするとこういう態度は日本人に割と多く共有されているのではないでしょうか。

ところが、それが政治的な状況となると、なかなか厄介です。

ご承知のように、最近、日本は近隣の国々からあれこれ言われています。
無茶だなあ。ここまで言うか。出来事を捏造してこちらを貶めるのか、
と思うことも多々あります。
さらに、日本のマスコミはそうした国々に近い立場の方が牛耳っているせいか、
反日思想の人々と一緒になって、不条理な声を一層煽る。

それでも爾来じっと黙って耐えてきたということではないでしょうか。
謝れと言われれば謝り、金を出せと言われれば金を出し。
反日、左翼の人々の嘘や捏造記事でこんな事態になっているということは
もう日本人には常識になっているのに、その事実さえ相手に、そして世界に発信しない。

相手と論争などしたくない、そんなことにエネルギーを使いたくない、
いつか分かってもらえるだろう、というようなことかもしれません。

しかし、ここにきて、「ちょっとおかしいよ」という声が多数出てきているようです。
それを右傾化などというのは早計です。
日本の左翼系の人はそうした批判をしやすいのですが、残念なことに彼らは勉強不足のために左翼的な日本の著名人、知識人、マスコミなどに洗脳されている状態であることが多いのです。きちんと自分で考えられる人は左翼になどなりませんし、一度、左翼の洗脳が解けると、二度とそこへ戻ることもないでしょう。おそらく右翼になることもないでしょう。ただ、常識的で現実的になるだけです。

「ちょっとおかしいよ」という声は、英語でも増えてきました。
英語で発言するのは重要です。

もちろん、相手の不条理、下劣さを批判すれば、反論があるでしょう。
愚劣な相手なら、誹謗中傷されることを覚悟しなければいけません。
それらに立ち向かう覚悟が必要です。
とてもエネルギーが必要なことです。
匿名で相手を批判だけして、逃げ去るということではないのです。
「ネットユーザーの声」などの多くは、こうした無責任で卑怯なもの。

多数の方が発言されていて、混乱するほどです。
最近、感心したのは以下の若い女性。
しかも、相手に反論するだけでなく、相手の意見も聞きますよ、ディベートしましょう!という態度をきちんと示している点は立派。

関連ポスト
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/09/blog-post.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/08/blog-post_10.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_23.html

2017年1月19日

一日一華:カフェに。そして書くということ(2)


メルボルンの和食カフェ、ちょっとさんへ。
酒類ライセンス申請中ということですから、
もうすぐお酒も飲めるようになるようです。
楽しみです。

さて、先にエッセー公募の話を書きました。
私はある国際的なジャーナルの編集のお手伝いをしているのです。

ある応募者には、書き直しを依頼しました。
没にするには惜しいと思ったのです。

この応募者、エッセーの主題についていろいろ調べて書いています。
しかし、材料が多過ぎるのです。あれこれ書き過ぎ。
料理に例えれば、具が多過ぎて、あふれかえった寄せなべのようなもの。
材料をもう少し絞って、じっくり煮込んで、料理にしたほうがいいだろうとアドバイス。

すると応募者の指導者、ヨーロッパのある大学の先生からメールがありました。
「確かに話題が前後左右している。
この点は訂正させよう。
しかし、君の次のアドバイスは如何なものか」というのです。

私のアドバイスとは、
「まず何が言いたいのか、をはっきりさせよう。
1番言いたいこと、2番目に言いたいこと。
それらを順に書いてはどうか、」というものでした。

先生の言い分は、そんなエッセーであるなら、読者は1番重要なことを読んだら、2番目、3番目の項目など、読みたいと思わないだろう、というのです。

なるほど。
まあ、その通りかもしれません。
反論するほどのことでもないので、
「おっしゃる通りでしょう。
ともかく、改訂版をお待ちします」と返事。

それよりも、困ったのは先生の次の質問。
「では、貴方の考えるいいエッセーとはどんなものか?
サンプルはあるか?」

他人のエッセーをよくないなどと評価する以上、
自分なりの基準を持っているのは当たり前。
当然のツッコミです。
編集のお手伝いも気楽にはできません。

しかし、これはなかなか難問。
私の考える、いいエッセーとは?
しばし、考えてしまいました。

一日一華:ギャラリーに


Lesley Kehoe Galleries でのディナー・テーブルに。
リクエストは、日本的なもの。
あとはお任せ、ということでした。
いつも素晴らしい花器をご用意いただいています。
しかも背景は Motoko Maio の屏風。
少し緊張します。
四季の流れを躍動する色彩で表現したダイナミックな屏風に囲まれているわけです。
花の色は控えめなものを選びました。
それがとても好評でした。




2017年1月17日

一日一華:レストランに。そして、書くということ。


メルボルンの花菱レストランにて。

私は文章を書くことがあまり苦ではないです。
上手下手はともかく。
多分、10歳くらいからずっと日記を書き続けているせいでしょう。
書くというのはとても自然な行為です。
私にとっては考えるということとほぼ同義と思うこともあります。
瞑想かもしれません。

メルボルンの日本語新聞「伝言ネット」に
毎月、和文と英文で生け花エッセーを書き続けて
多分、10年くらいになるでしょう。
このブログでも「21世紀的いけ花考」として転載しています。
全く苦労なしなのです。
ですから、10年間、一度も締め切りに遅れたことがありません。

最近、ある学術誌の英文エッセー募集に関わり、
投稿作に目を通していた時、
「ああ、文章書くのがこれほど苦手な人がいるんだ」
と少し感心しました。感心というのはおかしいか。
新鮮な発見でした。

事実を羅列しただけでは文章にはならないですね。
百科事典を読まされているようなのはエッセーじゃないでしょう。

自分は偉いんだゼエ、とか、
感性豊かなんだよお、とか、
自画自賛的なものは、薄すぎて読まされる方は苦痛ですね。
自己陶酔されてもなあ、と。

仕方なく幾つかの応募作をボツにしました。

では、いいエッセーとは何か?
色々な答えがあるでしょう。
主題(言いたいこと)があるもの、
メッセージや意味があるもの、
読んで少しためになるもの、
面白い発見があるもの、
構成ができているもの、
書き手の人生(あるいは魂)に触れることができるもの、

それらは皆、まっとうな答えでしょう。
(私の定義は少し違いますが)
それらの一つでもあるなら、私は評価します。

しかし、投稿作の幾つかには、そうした要素が一つもないのです。
ただの文の集合。
これは何だろう?と驚いたのでした。
この退屈な文章!
もちろん、それが悪いなどと非難するつもりはないですが。

考えていないのか?
生きていないのか?
と不思議に思うのです。

書くということは、
考えるということ
生きるということではないか、と私は思うからです。

多分、文章が苦手であっても、
会って話してみるとそれなりに面白い人たちなんでしょうが。
文章で人を判断してはいけないんでしょうが。

でも、文章で友達を選ぶということは、したことがあります。
間違ったことはないです。
実は、家内も図らずももらった手紙を読んで決めたのでした。

2017年1月15日

2017年1月11日

一日一華:甥はなぜ医学部に合格できるのか?(2)


メルボルンの花菱レストランに活けた作品。
メルボルンを訪れる日本人著名人の多くの方が利用されるレストランです。
具体的に名前を挙げることはできませんが、
国際的にも知られた方々がいらっしゃいます。

さて、出来損ないと思っていた甥が医学部に合格したという話の続きです。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_6.html

ふと、思うのは、私はある一つの現象を目撃しているのではないか、ということ。
それは、社会の中の階級の固定化と言ったらいいでしょうか。
つまり、上流階級は上流階級を受け継ぐ。
逆に、貧困は連鎖するというようなことです。

貧困ゆえに子供に十分な機会を与えられないとします。
あるいは親が自分のことにかかりきりで、子育てに無関心だったりするとします。
すると、子供が脱線する、あるいは不良化するということも起こります。
さらに悪くすると、
当地では、他の都市と同様、
稀ではありますが、高校生くらいから薬物をやり出します。
それで一生をフイにする者もあれば、
私の知っているある青年の場合、
改心したものの10年くらいは泥沼の生活でした。
その後の生活も生活保護を受けながらギリギリのところで
また次の世代を育てるというようなことに。
貧困は再生産されます。

それに対し、私の甥は
子供の頃、クズであったとしても、
優れた学校環境のおかげで、また親と同じエリートコースを歩むことになる、
ということではないか。
その学校環境というのは、
優秀な学友に囲まれて切磋琢磨する環境。
何か問題があれば、すぐにカウンセラー、学級担任ともに親身に対応してくれる。
おそらく従来は親の責任であった事柄を、忙しい親に代わってやってあげる、
その分、高い授業料を請求する、という具合になっているのではないか、
と思うわけです。

日本の著名私立高校の授業料を調べたら年間70万ほどでした。
それが標準なのか、私には不明ですが、300万というのは、どうでしょう?
日本にその程度の名門私立高校があるのでしょうか?
その程度の費用が6年間、あるいは甥の場合、12年間必要になるのです。
(小学校部門はもっと安いはずですが)
経済的に余裕がないと名門私立はなかなか利用できないでしょう。
それでも、入学希望者は多く、対応仕切れないようで、
赤ちゃんの誕生と同時に小学部の入学予約が必要と聞いたこともあります。

日本ではモンスターペアレンツというのがあるらしいですが、
学校側からすると、
「70万程度の金しか払っていないくせに何を言うか」
ということになるのかもしれません。
「子供のしつけや問題のすべてに責任を持たされるほど
お金をいただいていないよ」と。
教職は聖職だ、教育を金で割り切るなという意見もあるでしょうが、
それは相互に責任を自覚し、弁えを持っていることが前提の議論です。

概して、日本は教育にお金をかけなさすぎです。
政府の教育予算も少なすぎます。
日本人は優秀なのですからもっとお金をかければ
将来への素晴らしい投資になるでしょう。

それはともかく、名門私立校という存在が、
オーストラリアの社会を理解する一つの鍵ではないか、
と気になっているのです。

一般に公立校に通うのが全学生の約7割、私立が約3割でしょう。
大学進学率となると一般に公立高校が約3割、私立が約7割。
その私立の中に、大学進学率99%以上を誇る少数の名門私立があるわけです。
(この辺の統計は最新情報調べていません)

もちろん、名門私立を出てもうまくいかないという例もたくさんあります。
数年前、名門私立で薬物を扱った生徒が出て、ニュースになりました。
逆に、公立校出身で州知事になった政治家は、それが大きなセールスポイントでした。

甥についてはもう少し考えてみます。

2017年1月10日

2017年1月6日

一日一華:甥はなぜ医学部に合格できるのか?


私の甥が医学部に合格できたようです。
オーストラリアの教育制度や大学受験制度、
大まかなところは承知していたつもりですが、
今回、甥が大学生になるということで、改めて考え込んでしまいました。

まず、甥についてです。
私からするとこの結果は予想外でした。
一体彼に何があったのか!
ビクトリア州の大学受験制度はどうなっているのか!
という心境です。

1、まず、彼はガリ勉というものをしていない。
高3まで毎週サッカーをやり、車を乗り回し、ガールフレンドとよく遊び。
ジャズ・バンドのメンバーで、
州の大会で2位だか3位だかになり、驚くほどのレベル。
そのくせ、高2くらいから医学部を目指すと公言しており、
学校の先生も太鼓判。
母親が医師のせいでそんな希望を持ったのかもしれません。
そういえば、彼の彼女も好成績で獣医のコースに合格とのこと。

試験直前にサッカーの試合というので、
「勉強は大丈夫か?」と尋ねると、
「体を動かした方が、その後集中できるから大丈夫だ」というのです。

「僕は日本の大学受験の前には1日15時間勉強した覚えがある。君は最長で何時間くらい勉強しているんだ?」と私。
「12時間くらいが最高かな」
「15時間やってみろ」少しは苦労しろよ、と言いたかったわけです。
生半可な努力で、何でも思い通りのものが手に入るなどと思ってはいけない、
人生なめるなよ、と。
しかし、私の見ていないところで勉強していたんでしょうか?
あるいは頭のデキが違うのか?

2、性格の破綻した甘ったれ小僧だったのに。
放任主義というのでしょうか、欲しいものは何でも買い与えられる、
嫌なことは一切強要されない、という環境で育っていましたから、
不愉快なことがあればすぐに喚く、手のつけられない悪ガキでした。
失敗作!犯罪者予備軍!と私は断じていたものです。
人もしつけなければ猿になる、と。

それが高校生になると性格がガラリと変わってしまいました。
礼儀正しく、親切で、おまけにハンサム。
一体あの子に何があったのだろう?
私の知る限り、親は特別なことは何もしていないはずです。
メルボルンで最も学費の高い名門私立校に通っていましたが、
学校の指導に何か秘策があるように思えてなりません。
授業料はウェブサイトで調べた限り、$29500。
年間約300万。それに相当な諸経費がかかります。
猿を社会のエリートにたたきあげる費用なのでしょうか。
(こんなことを書くと叱られそうです。
というのは甥の日本語力は相当なものなのです。
日本へ行ったこともなければ、周りには私以外日本人はいない
という環境であるにもかかわらず。
先生もネィティブではないのに。
当地の通常の高校生とは格段の差があります。
新聞レベルは読みこなします。このブログも読めるでしょう。
まあ、冗談だと分かってくれるでしょうが。)

この甥にまつわる謎はまたいつか続きを書きます。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_11.html

2017年1月5日

一日一華:結婚式に(2)


最近の結婚式に作ったラウンド・ブーケです。
これはブライド・メイドへの小さいブーケ。
基本はクラウド・ナインというシャンペンかかったピンクのバラを20本。

さて、先に中途半端な文章を書いていますね。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/12/blog-post_6.html

概要はこうです。あまり努力しているように見えない方が、
評価が得られない、成果が得られないという現実に直面する。
そこで、自分を省みることなく、外部の状況を批判する、
果ては自分は差別されているなどと言い出す。
こういう方にどう対応したらいいのだろうと困っていたのでした。

聖賢の言葉でも紹介したら、目が覚めるかと思っていたのですが、
なかなかふさわしいアドバイスも見つからないということだったのです。

努力が足りないなら成功しない。
当たり前だろうと言っても通用する相手ではない。

成功哲学の基本は
自分のためではなく、他のためにどれだけ努力できるか。
自分のためにしか時間を使いたくない方であるなら、
本当の成功はありえないだろうと言ってもまた、通じる相手ではない。
どうしたものか。

しかし、ネットで偶然ではありますが、人格障害の項目を見つけました。
ああ、なるほど。
軽度の「自己愛性パーソナリティ障害」と考えると、彼の言動がよく理解できます。

自己愛性パーソナリティ障害の発生には、子供の時の親との関係が一因となることがあるらしい。彼からあまり健常でない親子関係にあったということを聞いたこともあります。

もっと明らかな問題が出てきたらプロのカウンセラーに相談するよう勧めるしかないようです。
以下、ウィキペディアの引用です。

誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
  1. 自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
  2. 限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
  3. 自分が “特別” であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係があるべきだ、と信じている。
  4. 過剰な賛美を求める。
  5. 特権意識(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)
  6. 対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
  7. 共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
  8. しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
  9. 尊大で傲慢な行動、または態度


21世紀的いけ花考 54



 禅僧・庭園デザイナー、枡野俊明氏の素晴らしい作品集を最近拝見しました。彼は「庭禅一如」、つまり庭づくりは禅の修行と全く変わりなく、修行そのものだと言います。重要なのは日々の精進。ある日突然いい作品が作れるということは絶対にない。ここには芸道の哲学があります。一つの事柄を極めていく時、真剣な自分自身の生き方を極めることになる。極めた生き方と極めた事柄が一体となって「道」となるというのです。枡野氏は龍安寺の石庭について「このような眺める者の心に、迫り来る感動を与える庭園の作者は、自らの仏性を自覚した者であることは、言うに及ばない」と書いています。精神的な高みに達した人でないと名作は作れない。名作の背後に名人あり。この名人は単に技術が素晴らしいというだけでなく、精神的にも高潔であるはずだ。卑しい人であるなら、作品に卑しさが現れてしまうという信念。

 日本では花道などの習い事に限らず、料理、経営、学問、その他様々な活動に「道」への信仰があります。こうした信仰は日本人には容易に理解できるはずです。前回までの話からお分かりのように、いけ花は芸術かデザインかなどと考え始めるとなかなかいけ花の位置がはっきりしません。しかし、いけ花とは芸道なんだ、禅や瞑想と同様一つの精神修養なんだとやってしまえば、すっとします。そんな風にいけ花を外国人に説明するのも一案。鈴木大拙の日本文化論などはその好例。

 昨年11月にメルボルンにいらっしゃった「花道の思想」の著者、井上治氏(京都造形芸術大学准教授、国際いけ花学会副会長)もまたそうした方向で考えていらっしゃるようです。久松真一(「茶道の哲学」)など京都学派の哲学者が茶道を禅と関連付けて説明していますが、同様の作業が花道でも必要でしょう。井上さんは京都学派に連なる方ですから次の仕事、「花道の哲学」が楽しみです。

 私もいけ花は厳しい修練を要する「道」だと実感しています。しかし、いけ花を禅で説明してしまうことには、いくつか納得できない部分があるのです。鈴木大拙や京都学派に対抗しようというのではありませんが。これからは私の花道論ならびに日本文化論めいたことをあれこれ書いてみましょう。いけ花の可能性というような大きな話につながるかもしれません。

 今回紹介するのは、1年前、クラウンホテルの此処(ここ)に活けた新年の花。今年も展示していますので、機会がありましたらご覧下さい。少しづつですが毎回進化しています。

一日一華:結婚式に


昨年度末に依頼のあった結婚式の花、数点を紹介しましょう。
まずは、ブライダル・テーブルの花。
ピンクとバーゲンディのコントラストで、というご依頼でした。
時期が難しく、予定していたピンクの牡丹はちょうど終わったところ、
バーゲンディーのバラも入手不可と前日に言われ
慌てたものです。


2017年1月1日

Shoso Shimbo

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