華道家 新保逍滄

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2020年5月13日

一日一華:自分が気にいったら


配達用の生け花です。
運びやすく、贈答品らしく、
そんな心がけが必要でしょう。

さて、自分が感動すると、どうしても他人と分かち合いたくなる、というところがあります。

それは、あまり意味がないということは承知しています。
十分承知しています。
なんといっても、私は家内と映画の好みが合ったことがないのです。
自分がいいと思った映画が身近な人にことごとく否定されると、
自分の感動は誰とも分かち合えないのだと、ゆるゆると分かってきます。

それでも、いい映画を見たり、いい本を読んだりすると
他人に薦めたくなる、という欲求は抑えがたい。

多分、若い頃にいい友達に恵まれていたせいでしょう。
多分、彼らは皆、我慢強かったのかもしれないですね。
私の興奮によく付き合ってもらっていました。

で、最近、読んだ本がとても面白かったのです。
内容についてはまたいつか触れるでしょうが。
もし、関心のある分野が、日本学、モダニズム、日本近代文学、川端文学、カルチャル・ナショナリズム、ジャポニズムなどでしたら、次の本、オススメです。久しぶりに興奮しました。機会あるごとに周りの方々に薦めまくっています。用意していた生け花論を大きく書き変えることになりました。

Roy Starrs (2011), Modernism and Japanese Culture. Palgrave Macmillan.

とはいえ、こんな専門書、「そうか、自分も読んでみよう!」なんていう方はあまりいないでしょうね。分かってはいるんですが。

2019年6月27日

一日一華:当たり前


最近のある出来事。
自分では当たり前と思っていたことが、
実は、他の人からすると全く思いもつかない考え方だった、
ということだったのかな、と反省しているところです。

私は数十年生け花をやっています。
生け花の課題、問題点、可能性、そうしたことを考えるのは、
私にとっては当たり前のことです。

特に、生け花は全体としては衰退していると思います。
そこで、何か対応を考えようとするのは、私にとっては当たり前のこと。

どうしたらより多くのいけ花学習者を獲得できるのか?
これから生け花はどういう方向を目指すべきなのか?
ポストモダンの文化的状況に生け花をどう対応させるか?

こういう問題意識を持っている方は多いように思います。
私はいろいろな生け花関係者とお話しする機会に恵まれてきましたが、
それらは共通の問題意識でした。

もちろん、自分のために生け花をやるのだという方もあるのでしょう。
しかし、私は本当に「自分のためだけに生け花がやれる」ということが
よく理解できません。

ある生徒とじっくり話す機会があり、
この生徒からは私のことが全くわかってもらっていない、と気付いたのです。

私の生け花指導のミッション、目的というものを
きちんと説明しておかなければ、と思いました。

別の生徒から自分のミッションをきちんと発表することは
大事ですよ、とアドバイスされました。
それが嫌ならクラスに来ないでください、そう言ったらいいんです、と。
そこまで言う必要はないでしょうが。

ただ、私の意図が共有されていないと、この生徒はなぜこちらへ動かないのだろう?
というような少々困った経験をすることになるのだ、と
今更ながら、気付いた次第。


2019年2月26日

2019年2月13日

一日一華:レストランに



メルボルンの日本レストラン、花菱さんへ生けた作品。

間も無くメルボルン・リサイタル・センターで
生け花パフォーマンスを行います。

本番に向けての練習という気持ちで参加を決めたのですが、
会場としてはメルボルンでも最高でしょうから、
どうもこれ以上の本番があり得るのか、と。

音楽担当の方の本気度は大変なものです。
ともかく楽しまなくては。

27 February 2019: The Way of the Flower - Ikebana performance with live music. Melbourne Recital Centre. Please book early. http://bit.ly/FlowerWay

2019年2月9日

2019年1月20日

2019年1月11日

2018年12月16日

2018年12月2日

2018年6月27日

一日一華:締め切りが破れない


私は締め切りを破ったことがほとんどないように思います。

確かに、人生後半ともなれば、締め切りをうっかり忘れていたとか、体調不調でお手上げ、ということは何回かあったと思います。ただ、自分がきちんと意識した場合、不思議とやり遂げているのです。

原稿依頼の締め切り、
彫刻制作の締め切り、などなど。

実は、今日も無理だと思っていた6000語の英文論文を仕上げ、
学会誌の担当者に送付したところです。

時々、よく間に合ったなあと自分でも感心することがあります。
周りの人たちにもよく感心されています。
「だめだあ、時間ねえ」とぼやいても
「あなたは大丈夫」としか返事してもらえないのです。

タイムマネジメント能力かもしれません。
学生の頃もあまり無茶な長時間の勉強もせず、やるべきことはやってこれたように思います。

しかし、もっと関係があるように思うのは長距離走者だった経験。
中学、高校の頃ですが、どんなに苦しくても絶対完走すると自分に誓って、それを守り通しました。一度でも脱落すると、それが癖になってきっといつも脱落するような人間になってしまうんだ、と自分に言い聞かせていたものです。

それにしても、あの長距離走の苦しさ!
自分を追い込んで意識が朦朧とするまで走り続けた日々を思うと
この程度の苦しさ、なんでもない。
そう思うことが度々でした。

おそらく自分を少しは強くしてくれた経験だったようです。

2018年6月25日

一日一華:再び新書について


先に、「最近、新書は劣化したのではないか」などと書きました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/05/blog-post_21.html

ところが早速前言撤回。
神道について知りたくて、買った2冊が面白かったのです。
「神道とは何か」伊藤聡、中公新書
「神道・儒教・仏教」森和也、ちくま新書

もちろん、神道はとても奥深いもので、ほんの数冊読んで何かがわかってくるというものではないのです。

ただ、禅宗の思想があまりに神道に似ているという思いがずっとありました。
もしかすると神道というのは日本人の宗教心の根底にある感性的な部分に関わり、
それを言語化した時に仏教という形になるのではないか、などと考えたことがあります。

突拍子もない仮説、と思っていましたら、そうではなく、
専門の学者の中にも私と同じ洞察を持って、理論化している方があることを知りました。

もちろん、それが「真実」だというようなことはないのです。「真実」などという用語はあまり使わないほうがいいでしょう。
しかし、一つの仮説として有意義な考え方ではあるようです。

2018年5月21日

一日一華:新書について


最近1年くらいについてですが、私の読書は多分80%くらいが英文。ほとんど学術関連です。
20%くらいが日本語。その約半分(つまり10%くらい)が小説などの娯楽としての読書、そして、他の半分が日本語での学術書。

日本語の学術書は、私の論文に使えるものが限られているため、結果的に新書が多くなっています。

新書というのは、私にとっては学生時代から特別なものです。
学生時代の友人と読んだ新書の冊数を競争したこともありました。
当時は1日1冊という勢いで読んでいたものです。
講談社現代新書、岩波新書, 中公新書など内容が充実していて、何といっても信頼できます。

平川彰先生から仏教学を学んだことがありますが、大学の講義1年間で学ぶことが先生の1冊の新書(「現代人のための仏教」)に書かれている!と感じたこともあります。それほどの充実ぶり。他にも名著がたくさんありますね。

特に自分の知らない分野、専門でない分野について、その入門的な役割を期待してしまいます。そこから興味深い点はもっと深めていけばいい。
そういう期待は、あまり裏切られたことはなかったのです。
つい最近まで。

今は、日本の新書はどうなってしまったのだろう、と感じています。

現在、私は日本語での読書量がとても少ない上に、日本の本屋を覗くのは数年に1回という有様ですから、見当違いかもしれませんが。

最近は神道に関心があって、先月、日本で関連の新書を数冊購入しました。
驚いたのは、ベスト新書の一冊。

まず、日本語があちこちおかしい。2ページに1箇所くらいの割合で、文法が乱れていて、文章の意味が不明瞭。主語と述語が一致しないため、意味がいくつかに取れてしまいます。話し言葉ではそういうことが起こるかもしれませんが、書き言葉にしたならば、訂正すべきでしょう。これはもちろん著者のせいでしょうけれど、国語力のなさは編集の方がきちんと補うべきです。呆れています。

さらに、論理が飛躍し、ちょっとついていけない。これは学問的に考えるということをしたことがない人の語りです。こんな雑文を新書として出版してはいけないでしょう。

昨今は読み手も気をつけて新書を選ばなければいけない、ということなのでしょうか。タイトルだけでなく、著者略歴、前書き、後書きなどもチェックしないと後悔しそうです。

2018年2月22日

一日一華:生け花と存続可能性


今年初めて我が家の庭に植えたフウセンカズラがよく育ってくれました。
庭のブーゲンビリアと取り合わせ。
ガラス花器は生徒さんから頂いたもの。

さて、環境芸術についての発表が迫っています。
テーマは存続可能性と美学。
生け花との関連、などなど。

さんざん言われ続けていることですが、
現代西洋文明は特に環境問題において、存続不可能な状況。
その発展モデル、知の方法とも危機的です。

その根源は何か。
産業革命、植民地主義、君主制、資本主義の成立、ルネッサンス、
デカルト的二元論、ベーコン哲学、キリスト教だとか、アルファベットの成立だとかいろいろな説があります。

根本は、自然疎外。
自然を対象化し、資源とみなす考え方。

生け花にも同じ態度を持ち込んだのが、
新興いけばな宣言でしょう。
花など芸術的な自己表現の材料でしかない、という。
現在、生け花の主流となっている多くの流派に共通する態度です。

しかし、生け花は本来、自然と人との一体感、調和に根ざしたものだったのです。
それが、昭和はじめあたりから、西洋の自然に対する態度を慌てて学び、
生け花を変えていこうという動きがあったわけです。

今現在、西洋の方から自然に対する自らの態度への見直しが起こっています。
そのような見地から、異文化、ことにネイティブ文化への関心が高まっています。
日本の生け花は本来、一つのお手本を示すことができたはずです。
しかし、今現在主流になっている生け花に、その力はありません。

2018年2月12日

2018年1月19日

一日一華:写真花の難しさ


生け花の写真は難しいなあと、よく思いますが、
この作品など、その典型的な例。
奥行きがなくなるのです。
前後にかなり広がっている作品ですが、
写真では前後の広がりがほとんど感じられません。
元の生け花作品の味が半減した感じがします。
そうしたことも考慮して写真花に臨むといいのでしょう。

2018年1月7日

一日一華:天命



随分、歳若い頃から自分の天職はなんだろうか?と考えてきたように思います。


今の生き方が自分の天命なのか、と現在でも考えていますし、
あまり自信もない。

ただ、次々にやってくる挑戦に懸命に立ち向かっているだけというのが実感。

しかし、次々挑戦をいただけるということは、
自分が恵まれた場所にいるということではないか、
もしかすると天命を歩んでいるということではないか、と思ったりしています。

次の興味深い、天命についてのエッセーを読んだ時、そんな思いを強くしました。
http://blog.jog-net.jp/201801/article_1.html

今、直面しているのは、三月の2回のスピーチの依頼。
多分、今までの講演の中でも最大の挑戦。
本当にやり遂げられるのか、
全力を出し切っても、力が及ぶのか、
しばらく自分との戦いが続きます。

Friday 23 March 2018: Shoso will talk about environmental art at the Lorne Sculpture 2018. http://www.lornesculpture.com/speakers.php

30 March 2018: Shoso will conduct an Ikebana demo as a featured presenter at the Asian Conference on Arts and Humanities 2018, The International Academic Forum, Kobe, Japan. https://iafor.org

環境芸術と生け花について話します。

特に、神戸では蓑豊氏とともにフューチャード・プレゼンターに指名されていますので責任は重いです。蓑先生については以下のポストでも書いています。

https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/05/blog-post_26.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/05/blog-post_31.html

2017年12月31日

一日一華:オーストラリアのネイティブで


おなじみのクライアントさんから、ネイティブをたっぷり使ったアレンジの依頼。

前回書いた新しいレンズを使って撮った写真です。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/12/blog-post_28.html

ブログ用にかなり縮小しています。
こんな写真が撮れるなら、高い値段も受け入れられるような気がしています。


2017年12月14日

一日一華:思いつきと論証


ある種の本は、いろいろな思いつきをもたらしてくれます。
私の場合、特に、哲学や心理学の入門書のようなものを読んでいると、自分の思考が刺激され、いろいろな空想、仮説が浮かんでくることがあります。
ある事柄と別の事柄との間に繋がりが見えてくることもあります。

例えば、ボードリヤールの資本主義解釈と村上春樹の世界観に関連性が見えたり。
生け花における立花と生花の対比は、日本文化における根源的な二元的な対比と対応しているのではないか?とか。

重要なのは、その思いつきやひらめきをどう発展させるか、でしょう。
それをいかに論証するか。

例えば、マルクスが社会の発展を資本という観点から説明した時、
「違うんじゃないかな」と思いついた人はきっと多かったと思うのです。

しかし、それをきちんと論証する人が出てくるまでは、思いつきはただの仮説。大した価値はない。破壊力も、生産力もない。

ところが、レビィ・ストロースが未開社会の思考は決して暗愚なものじゃないんだということを論証したことで、早い話、マルクス主義はボロボロになってしまうのです。

もちろん、それほどの業績は時代の最高の知性に委ねるしかないのかもしれませんが、現代芸術について考えていくと、同様の挑戦を求められるのではないか、という気がしています。特に、環境芸術を考えていくと。

2018年、3月に予定されている2回の講演までは、何かまとまった考えができるといいのですが。
http://lornesculpture.com/speakers.php
https://acah.iafor.org/speakers/

2017年11月25日

Shoso Shimbo

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