華道家 新保逍滄

2019年9月28日

メルボルン生け花フェスティバルへのコメント


次回の和:メルボルン生け花フェスティバルは2020年9月19&20日開催予定です。間もなく出展者募集を開始します。 https://waikebana.blogspot.com/

Wa 2019 was a great success. Thank you all for your hard work. Shoso’s thank you message at the opening: https://www.shoso.com.au/2019/09/shosos-speech-at-opening-of-wa-2019.html

Some of comments we received:

“Thank you for the immense amount of organization on the part of yourself and the committee to make the Ikebana Festival such a successful event. I feel fortunate to have found your school and such a talented and dedicated group of artists to work with. I look forward to the 2020 Festival”

“この度は素晴らしい時間を過ごさせていただきました事、大変感謝しております。また、皆さまにも大変お世話になりました。次回また、皆様にお会いできればこんなに嬉しいことはありません。ありがとうございました。”

“Thanks for the great team effort during the weekend. Well done everyone. “

“ I’m writing to thank you for organising such a lovely concert last night. I hope you were happy with the outcome. It certainly was a great experience for all who attended.”

“I am pleased that the Wa Festival was successful. I do know what a huge amount of work goes into such an event.”



2019年9月25日

分かり過ぎる時


分かり過ぎる!という読書経験が何度かあります。
大抵、数年間考え続けてきた問題に、すっぱりと答えてもらえたような時に
感じたものです。

例えば、学生の頃読んだコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」。
「アウトサイダー」が自分が考えてきた問題のキイワードだったのだ!
その言葉を軸に考えればもやもやしたものが一気に整理できる!
なんという名著!

しかし、分かり過ぎると逆に少し不安にもなってきます。
本当に、その理解でいいのだろうか?
そのような形で簡略に整理してしまっていいいのだろうか?
もっと深く考えなくてはいけないのではないか?

最近では中沢新一の「東方的」。
西洋モダニズムの根本にあるものは何だろうかと、考えてきたのですが、よくわからなかったのです。
モダニズム以降、自然の客体視が強くなる、ということは言えそうですが、
その根本には何があるのか?
何がそれをもたらしたのか?
宗教観の変化?
資本主義の拡大?

中沢は4次元への関心だとし、
そこからキュビズムの発生、抽象芸術の発生、さらにデシャンの難解な作品まで説明してしまいます。
その議論は、面白く、私の頭の中で様々な事柄が繋がっていきます。
「専応口伝」解釈にも関連してくる、
村上春樹の異世界にも関係してくる、等々。

これは面白い!名著だ!

しかし、少し気になります。
ここまで簡略に説明してもらっていいいのだろうか?
ここまで分かってしまっていいのだろうか?

確かに学問的な傍証はついていますし、説得力はあります。
しかし、先行研究への言及が少ないように思います。
学問において、斬新で画期的な新説などなかなか生まれるものではないのです。
他にも同じような説があるということだともう少し安心できるのですが。
もう少し考えてみることにします。

2019年9月11日

プラスチック生け花


プラスチックの造花で生け花を作ってくれというリクエスト。
造花なら、それは生け花ではないでしょう。

特定の文化圏の方からのリクエストです。
生け花とは・・・と説明するのもひとつですが、
とりあえずやってみよう、と。

造花のレベルが高いことにも感心。

1週間もたない商品ということでは
特定の文化圏では受け入れられないのでしょう。
高いお金は出してもらえません。

多少高くても、長期間もつものを、というのは理解できますが、生け花とは何か、また考え込んでしまいます。

2019年9月6日

生け花の本質、そして活け手の危険性


2019年度のメルボルン生け花フェスティバルが終了しました。
私のスタッフをはじめ本当に多くの方々が頑張って下さいました。
心よりお礼申し上げます。

フェスティバルについてはまた別の機会にまとめてみます。

今回は、個人的に気付いたことから。

パフォーマンスをはじめあれこれやったせいでしょうが、私の評判がとてもいいのです。
勘違いされそうな言い方ですね。つまり、私の実力以上にちやほやしてもらっているなあ、という感じがするのです。

確かに、生け花パフォーマンスなどあまり見たことがないという方が多いのでしょうが、私へのおほめの言葉が予想以上なのです。過剰です。たかが生け花です。それが少しばかり上手だからと言って、それがなんでしょう。

自分はまだまだ、という思いが私は強いのです。
しかし、そうでない場合、おそらく、このような扱いをされたなら多くの方が、いわゆる天狗になってしまうのではないでしょうか?海外では特にそういう危険性があるように思います。

実力以上にちやほやされるということが重なるとどうなるか?
まず、傲慢になりやすいでしょう。
また、おそらく自分の実力はさほどではないということに内心気付いているせいでしょうが、他者を批判するようになります。他人を悪く言うことで、自分を高めようというわけです。

こうなってしまうと花の活け手としての成長も完全に止まってしまいます。
それは本当に危険で残念なことです。不幸にしてそのような方に出会ったならば、素早く離れることです。

聖賢の言葉を思い出してみましょう。

子曰く、古の学者は己の為めにし、今の学者は人の為めにす。
「昔の学び手は自分の修養のために学問をしたものだが、今のは知識をひけらかすためにするようになっちまったね。」(佐久協「高校生が感動した『論語』」)

自分の修養のためということがなくなってしまうと生け花は終わりです。他人の評価や名声を得るためにやっているということでは作者の目が曇ってしまうのです。

今回のフェスティバルで共催された国際いけ花学会の例会でも「専応口伝」について話しましたが、最近、このブログでも考えてきたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/blog-post_12.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/nature-in-ikebana.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/08/blog-post.html

「専応口伝」の最も重要なメッセージは、生け花は花材の良き面影に基づいて作るものだ、ということだと思います。

良き面影。
この言葉は注意して考えなければいけません。

詳述はできませんが、面影とは肉眼で見えるイメージのことではないのです。
例えば、亡き人の面影が心に残っているというような文脈で使う言葉です。
つまり、心の眼で見えるものが面影です。

花を心の眼で見なさい。
そこで見えるものを基にして制作しなさい。

これが専応のメッセージの本質です。
そうしてできたものこそ、本当の生け花であり、宇宙を象徴するような生命力を持つのだ、という深遠な精神哲学がそこにあるわけです。

面影を見る心の眼を研ぎ澄ませる、それが花道の修養ということになるでしょう。
それは瞑想と同義です。
そこに他者の評価など入り込む余地はないのです。

「このようにしたら評判になるかな」などと考えているようでは、生け花は終わりだということ。他人の悪口を言いだしたら、その活け手は邪道に入っているということです。

心の眼で花を見ていない、あるいは心の眼が曇っている
ということでは生け花は作れないのです。

Shoso Shimbo

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