華道家 新保逍滄

2017年5月31日

書評「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」(角川書店) 



前回のポストでも紹介しましたが、蓑先生のファンの一人として、「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」は、多くの方にぜひ読んでいただきたい書物です。

この本は、
芸術、美術館のあり方に関心のある方はもちろん、
地域振興の方法を考えておられる方々、
教育、人生に関心をお持ちの方々にもお勧めしたいです。
さらに、いい商品を持っていながら、売れないという
マーケティングの悩みをお持ちの事業主にも参考になるでしょう。

アマゾンに書評を載せようとしたのですが、できませんでした。
私は日本語の書物をアマゾンから買ったことがないのです。
英書しか買ったことがないため、日本語版のアマゾンでは、私のコメントは受け付けてもらえないようです。

しかし、アマゾンの読者評をいくつか読んで
少々がっかりしました。

超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦

特に批判的なコメント。
匿名での他人の批判など、卑劣な人間のすることですから、基本的に無視すべきですが。
揚げ足取り、針小棒大な悪意に満ちた批判は読んでいて不愉快でした。
そこそこきちんとした文章ですから、おそらく評者は二流の大学で学んでいるはずです(決して一流ではない。本当の高学歴者はあそこまで傲慢にはなれません。自分より上があることを知っているものです)。しかし、視野の狭さ、手に負えない傲慢さからして、人間的には明らかに三流。女性からも嫌われる典型的な「上から目線の」男。レベルが低いのです。

ハーバードで博士号を取るということが、どういうことか、
わかっていないのです。
自分の情熱を実現するということが、どういうことか。
自分の限界を突破するということが、どういうことか。
他人の幸福のために自分の身を粉にするということが、どういうことか。
数字に現れた実績を作るということが、どういうことか。
そのために何度男泣きしなければいけないか。
大人のユーモアや冗談がどういうものか、
わかっていないのです。

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
「愚かなるものは悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表すことのみを喜ぶ」
と言っても、彼らには理解できないでしょうが。

低レベルの書評に惑わされることなく、
「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」を手にしてみて下さい。
さらに、機会があれば講演会などを通じて蓑先生のお人柄に触れてみて下さい。
痛快な方がいらっしゃる、そんな発見は私たちに大きな勇気を与えてくれます。

2017年5月26日

金沢21世紀美術館特任館長蓑豊先生にお会いして


 今年4月、神戸で開催されたインターナショナル・アカデミック・フォーラムの学会で、初めて蓑豊先生のお話を伺いました。兵庫県立美術館長というご紹介でしたが、金沢21世紀美術館の特任館長。金沢21世紀美術館へは、2年前に初めて行ったのですが、とても印象的でした。

 金沢21世紀美術館ができて以来、石川県の学生の学力は向上の一途。昨年はついに日本一になったと。そのことが嬉しくてたまらないというご様子。先生の楽しいお話が終わって、私は興奮気味に尋ねたものです。「金沢21世紀美術館のコレクションは素晴らしいですね。作品をどういう基準で選ばれたのですか」と。ところが、先生は私の質問に直答はされませんでした。私は、キイワードはインターラクションではないかな?という予想をしていたのですが。双方向性と言いますか、一方通行ではない作品が多かったように思ったのです。

 しかし、先生の「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」(角川書店)には、明瞭な答えが記してありました。購入された作品のキイワードは、「子供」であるようなのです。子供の心を育む美術館を目指しておられるようです。

 先生のお話も、この本もいろいろなことを考えるきっかけになりました。
自分の作品でも、子供に語りかけることはできないだろうか?
自分の活動をもっとビジネス志向にできないか?
蓑先生の強さはどこから来るのだろう?
芯の強さはどうしたら育つのだろう?

 先生のご講演の翌日、早速、兵庫県立美術館へ出かけました。ありがたいことに館長室に通され、お話を伺うことができました。さらに、館長自ら館内をガイドして下さいました。ここまでしていただいたら誰でも先生のファンになってしまうでしょう。

 面白い、でも、後々までよくわからなかったことがあります。「この絵、7000万円もするんですよ。すごいでしょう?」「今度、日本経済新聞にインタビュー記事が載るんですよ。嬉しいですね」とか。これは自慢なんでしょうか?でも、普通の自慢のいやらしさが全くないのですね。

 あ、そうか、と後で気づきました。普通、自慢というのは自慢する人のレベルを少し下げますね。先生は、あまりにレベルが高いので、自慢することでわざとご自分のレベルを下げて、私と少し近いレベルに降りてきて下さったのか、と。そんなに私はすごい人間じゃないですよ、日本経済新聞に紹介されれば飛び上がって喜ぶ、その程度の人間ですよ、という具合に。

 ともかく、あれほど気持ち良く自慢を聞いたのは初めてのことでした。蓑先生との出会いはとてもありがたい経験でした。そして、「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」という素晴らしい本(先生の人生論であり、教育論)を読んだ後、思ったことは、蓑先生の印象を自分の中にしまっておくというのは違うのだな、少しでも多くの方に、伝えるべきなのだということ。

 私のブログでは、伝達できる人の数はたかが知れていますが、一人でも多くの方が蓑先生の手掛けられた美術館を訪れ、また先生の著作を手にされることを願っています。
 

2017年5月21日

一日一華:庭仕事


日曜日は終日、庭仕事。
大した作業をしたわけでない。
大きな庭でもない。
なのに一日かかってしまう、不思議です。
チューリップの球根を20個ほど植え、
水仙の球根も20個ほど植え、
冬によく育つレタスを10株ほど植え、
バラを整枝し、
モックジャスミンのヘッジを切りそろえ、
サンセベリアを移植し、
サルスベリのために土壌を酸性にする薬品を撒き、
ワーム・ファームやコンポストに芝生の切り屑を追加し、
それで、もう夕方です。

庭は時間を吸い取ってしまう、とさえ感じます。
楽しい時間ではあるのですが。

2017年5月11日

一日一華:忙しいわけではなく


インプロバイゼーション・アーティスト。
なんだかよくわかりません。
私の生け花の生徒のお兄さんが、そういう仕事をされているそうです。
豪州では唯一の存在であるようです。
おそらく世界的にもそのような仕事に携わっている人はあまりなかろうと思います。

面白いのはこの方の仕事観。
珍しい特技で、本人もそれで生活できるとは思っていなかったようですが、
次から次へと様々な依頼がやってくる。
それを夢中でこなしているうちに、キャリアを積み、
なんとかアーティストとして身を立てているということです。
大きな目標に向かってコツコツ努力するというのではないのです。
まず、パッションがある。
好きなことを夢中になってやっていると
こちらから仕事や目標を追いかけなくても、
仕事の方が次々にやってくる、というのです。

私も今週、3件くらい思いがけない仕事の依頼が続きました。
忙しいとは感じないのですが、大変だなあ、と話すと、
「それでいいのよ。私の兄と一緒よ」
と、その生徒が励ましてくれました。

今この時、このプロジェクトに全力投球。
すると、将来の展望はあまりなくとも、
ひとりでに道が開けていく、ということもあるのかもしれません。

2017年5月4日

21世紀的いけ花考 第58回







 今回も「日本文化=禅文化論」に対する素朴な疑問を続けてみます。


4、日本人の宗教心の根本は祖先崇拝。そこに関わるのが仏教。それに対し、婚礼など現世の通過儀礼に関わるのが神道。しかし、こうした役割分担は江戸時代に成立したものであるようです。本来、祖先崇拝は神道の担当だったのです。仏教は伝来した頃、飛鳥朝の頃でしょうか、ちょうど現在のキリスト教と同じような位置だったのでしょう。高尚で、ちょっとファショナブル。でも、祖先崇拝までは任せられない。つまり、歴史上、日本人の精神の根本には祖先崇拝や神道的なものがずっとあったのでしょう。ところがそれは、非常に分かりにくく、仏教の衣の中に容易に隠れてしまうという面があるようです。


5、達磨が中国に伝えた当時の禅と日本の現行の禅とでは大きな差があります。禅は日本化しています。神道化と言ってもいいかもしれません。そして、説明不十分ではありますが、もしかすると、日本人は、禅という衣を被った神道を信仰しているのかも?美意識、自然観、到達点などがあまりに似過ぎています。


 以上のようなことを踏まえると、素人なりに一つの仮説にたどり着きます。空想と思って下さい。実は、日本文化即ち禅文化というのは誤解ではないか?鈴木大拙、京都学派、さらに日本政府によって作られた一つの宣伝ではないか?とすると、そこに何か意図があったのではないか、と勘ぐりたくなりますね。


 おそらく、その意図とは神道の無視。まず、神道自体なかなか研究が難しい。禅関連の本ならゴマンとありますが、神道となる入門書さえ、怪しげなものが多い。さらにより重要なのは、神道が戦前の日本の政治に関わっていたということ。神国日本などというイデオロギーがまかり通るようでは、戦後の国際社会ではやっていけない。神道には蓋をしておこうという面があるのでは?反日主義者が多勢の日本のマスコミにとっても神道など目の敵かも。実は、戦前の政治に関連する神道思想など神道の変種でしかないのですが。


 しかし、いけ花を日本人の精神と関連させて考えようとすると、禅だけでは説明できないのです。神道に行き着きます。本来、日本文化は神道文化。この歴史的にも妥当な提案に共感者はあるでしょうか?とりあえず神道に関心を持つ人がもう少し増えてもいいように思います。

 この作品はあるクリニックにいけた商業花。道で拾った枝を整理して再利用しています。

 五月にはメルボルンで開催されるArts Learning Festivalに参加予定。ミケランジェロ・ピストレットなどの国際的芸術家も参加予定です。

2017年5月1日

一日一華:自作花器で



テーブルの足を逆につけて作った花器です。
もう少しいろいろ試してみようと思います。
こんな遊びを歓迎してくれるクライアントはありがたいです。
リシアンサスとフリージアを加えて商業花にしています。
本当は不要でしょうが。

日本滞在中、気をつけたことは最終日まで本屋に行かないように、ということ。
普段、私の読書はほとんどが英文。
そのせいもあるのでしょうが、日本語の本を見ると、手にしたい欲求が抑えがたく、何冊もの重い本を抱えて旅行することになるのです。
この注意はかなり守れまして、日本滞在の最終日に、東京の大きな本屋で手さげかごいっぱいの買い物をしてきました。

それでも、列車の待ち時間に売店を覗くと、最後の日を待ちきれず、ついつい何冊かは買ってしまうことになりました。その中で、特に買ってよかったと思った本は、サリンジャー著、村上春樹訳、「フラニーとズーイ」。そして島田裕巳著「人は死んだらどこに行くのか」。

前者は私の大好きな小説の新訳。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」も好きで、初めて英語で読んだ小説だったように思います。しかし、それ以上に自分が鷲掴みにされたような読後感のあったのが「フラニーとズーイ」。おそらく私にとっての小説トップ10の上位に必ず入る小説。それを村上が訳しているのですから、買うしかないでしょう。

後者も素晴らしい。アマゾンかどこかの読者コメント欄にも読後感を書こうかと思っていますが。
主要な宗教の特徴がとてもわかりやすい文章でまとめられています。
日本の祖先崇拝をめぐる神道と仏教の役割が少し気になっていたので、とても参考になりました。
日本人の無常観についての解説、現代的な洞察、ともにとても興味深い指摘でした。
ただ、ひとつ、もの足りないのは、無常観が悲観的なものとしてのみ捉えられているということ。
おそらく、日本の無常観は、肯定的なものに転換していく契機を含むものだと思います。
自然との融合、永遠の直観というような独特の宗教的、あるいは神道的回心(禅の悟りと同一視されていないか)へと。
そのあたりの問題は、私の生け花論にも関係してきます。
環境芸術、エコロジーの問題とも関連してきます。

Shoso Shimbo

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