華道家 新保逍滄

2019年7月25日

「専応口伝」の謎 3 - Nature in Ikebana


多忙な日々が続き、情報や刺激をたくさん受け取りながら、内省するということがない時間が続くと、体験が深まっていかないという焦りを感じます。

そこで、先に「専応口伝」についてあれこれ考えたことをまとめてエッセーにしてみました。あっという間に6000字くらいの長さになってしまいました。論文とはとても言えない代物。一つの仮説として読んでいただけたら面白いかもしれません。国際いけ花学会編「いけ花文化研究」第6号に掲載されるのではないかと思います。



いけ花における自然:存続可能性を超えて(1)

新保 逍滄*

要旨

いけ花史上、明治前から始まる西洋文化、殊にモダンアート運動の影響によってもたらされたいけ花における文化変容は、いけ花の本質に関わる問題を内包しているだけでなく、西洋文化における自然観と非西洋文化圏の自然観との相克、統合の可能性と不可能性という問題をも浮き彫りにすることができるであろう。西洋文化の生花への受容に意識的だった山根翠堂、重森三玲、勅使河原宏らを中心に、東洋思想の流れの中で彼らの取り組みを捉えてみたい。

 西洋文化受容を契機としていけ花が表象するものが、象徴としての宇宙的秩序から、生命へと変化したという見解があるが、それら双方向への志向は「専応口伝」の中にすでに言及されているのである。従来の「専応口伝」解釈には不十分な部分があったのかもしれない。

 いけ花が外的に何を表象するかという議論が中心であったものが、導入された西洋文化の衝撃によって、その内的な始源においていけ花を捉え直さざるをえなかったという事情があるのではないだろうか。そこにはいけ花の本質の探求だけではなく、日本的自然観の再検討も含まれていたであろう。

Abstract

Western culture, in particular the Modernism Art Movement has had an influence on Ikebana since the Meiji period. Ikebana has undergone a cultural transformation that is closely related to a redefinition of Ikebana, incorporating a reconsideration of the attitude to nature in Japan. This study focus on the woks by Suido Yamane (1893 - 1966), Mirei Shigemori (1896 -1975) and Hiroshi Teshigahara (1927 - 2001) who were particularly conscious of the influence of Western culture on Ikebana.

There is an argument that under the influence of Western culture, there was a shift in the view of what Ikebana symbolically represents from universal structural orders to life energy. However, these external and internal approaches were both mentioned in the classic Ikebana text, Senno Kuden (1542). This concept of Ikebana as a representation of life energy did not begin with the reformers, it has been around since the early stage of development in Ikebana and deserves more attention. This study suggests that, after encountering Western culture, it became necessary for Ikebana artists and theorists to reconsider the essence of Ikebana that reflects the differences in the perception of nature in the West and in Japan.

*新保逍滄 華道家、彫刻家、メルボルン生け花フェスティバル書記長、RMIT大学短期講座「日本美学」講師、生け花ギャラリー賞代表

Monash大学日本学修士、美術修士、RMIT大学教育学部博士号取得

2019年7月12日

「専応口伝」の謎 2


「専応口伝」について、再び。
まず、前回書いたことは、訂正しなければいけません。

「この一流は野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし、花葉を飾り、よろしき面かげを本とし、先祖さし初めしより一道世に広まりて、都鄙のもて遊びとなれる也」

この部分ですが、
「この一流は」
(1)野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし
(2)花葉を飾り、よろしき面かげを本とし
「先祖さし初めし」に続く。

と、通常の解釈に従う方が無難です。
なぜなら、「面かげ」という言葉ですが、その近くに面かげの対象、つまり名詞がないといけません。何の「面かげ」かがはっきりしなくなるからです。
その名詞とは、「花葉」ということになるでしょう。
ですから「花葉を飾り」と「よろしき面かげを本とし」とを離して考えない方がいいのです。

実は、上記(1)と(2)は同じことを繰り返しているのだと気付きました。
もちろん、意味は別です。

野山水辺 / をのずからなる姿
花葉 / よろしき面かげ

この2項対立において、
前者が知覚対象(全体把握は不可能)
後者が対象の全体あるいは本質
という関係になっているのです。

要するに、生け花とは目には見えないものを表現しているのだし、
そのためには、素材の目に見えないものを本にしているのだよ、ということ。

フッサールの知覚の現象学的還元を専応は先取りしていたのでした。

別の機会にもっと詳しく説明します。


2019年7月6日

「専応口伝」の謎 1


生け花について考えていると、「専応口伝」はどうしてもその作業の出発点になってきます。それについて書かれたものはたくさんあります。しかし、ほとんどの解説はあまりに薄っぺらです。特に、みなさんがブログなどで読むことのできる解説のほとんどは読む価値のないものが多いようです。

もしかすると私がこれから書こうとすることも、無意味なブログの解説のひとつ、ということになるかもしれませんが。

ともかく、「専応口伝」の謎について、です。
おそらく私の知る限り誰もまともに考えたことのない謎。
そして、花道の核心にも関わってくる謎。

次の有名な序文を熟読してみましょう。

「瓶に花を挿す事いにしへよりあるとはきき侍れど、それは美しき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまへず、只さし生けたる計りなり。この一流は野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし、花葉を飾り、よろしき面かげを本とし、先祖さし初めしより一道世に広まりて、都鄙のもて遊びとなれる也」

注目すべきは、第2の文章。
生け花の核心を述べた文章としてもっとも重要視されているものだと思います。

「この一流は」
1、野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし
2、花葉を飾り
3、よろしき面かげを本とし
この3つの修飾節が、「先祖さし初めし」にかかっていきます。

これはおかしいと思いませんか?
ここには不自然な分かりにくさがあるのです。

実はこの3つの修飾節、順番が逆です。

本来、以下のようにならなければなりません。
1、よろしき面かげを本とし
2、花葉を飾り
3、野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし

「先祖さし初めし」に続く。
これで初めて意味が自然に通るのです。

なぜこんな事になったのか?
なぜ不自然な順にしているのか?
なぜ5世紀もの間、誰も問題にしなかったのか?
そのために花道史上、どんな問題が起こったのか?
あるいは私の言っている事自体がおかしいのか?

いずれ私の考えを発表します。

しかし、私の説は特殊なものかもしれません。

通常は、
「この一流は」
1、野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし
2、花葉を飾り、よろしき面かげを本とし
以上の2つの修飾節が、関連し合うことなく、並列の関係で
「先祖さし初めし」に続く、ということになるのでしょうか。

この場合の問題点は「よろしき面かげを本とし」があまりに軽視されてきたということ。
面かげとは何か。

これもまた別の機会に。

Shoso Shimbo

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