華道家 新保逍滄

2015年5月23日

一日一華:玄関に


クラスの残り物花材をリサイクル。
インドの真鍮の花器に。

残り物を使うということは
自分で花材を選ばない
あるものでなんとか工夫する
となると
思いがけない取り合わせになることが多い
面白い勉強になります。

大工さんが玄関に生け花を飾る床の間(アルコーブ)を作ってくれました。
なかなかよくできたので
大いにほめてあげたら、
ここにも作れるよ、ここにも、と、
廊下にも、浴室にも作ってくれました。
簡単に作れるものなのだろう。


2015年5月15日

2015年5月12日

21世紀的いけ花考 (35)



  生花とは、一度は死んだ切り花に新たな生命を与えることであろう、という話でした。まあ、確かに「生き生きした感じ」を持つことになるでしょうが、それだけでは少々浅薄。さらに生命とは何か、と考えて行くと伝統的な日本思想の流れの中では、実相とか神とかいうものとつながってくるということでした。ここは東洋思想の核です。

 おそらくこの核を一番分かり易く説明してくれているのは井筒俊彦の名著「意識と本質」(岩波書店)でしょう。しかも、例に花を用いています。南泉普願が牡丹を見て、「時の人、この一株の花を見ること夢のごとくに相似たり」と語ったといいます。花を見る主体としての自分、見られる客体としての花。この両者があります。ありもしない花の本質を、主体が実体と妄想しているのだ、ということ。花は虚像でしかない。そこをつきつめると、すべてのものから本質が消失。すると、世界は混沌としたカオス。そこで止まってしまうのではなく、東洋思想はそこから再び新しい秩序を取り戻します。無化された花が、また花として蘇る。この花は、花の本質を取り戻したということではないのです。新しく無本質的な花として蘇るのです。すべての事物は互いに区別されつつも互いに透明で、融合するという不思議な境地。言葉を否定する悟りの境地ですから言葉で説明しようとしてはいけないのです。私自身、深いところでそれが自得出来ているわけではありませんから、これくらいにしておきましょう。

 生花という言葉には以上のような深い意味が込められているのだろうと考えた上で、次回は生花の意味をまとめておきましょう。要は生花とは花を蘇らせるということ。それはつまり花の実相を表現すること、また、花を無本質的な花として蘇らせることなのだという解釈になります。  


 今月の作品は花菱レストランに活けた作品。毎週月曜日に活け込みです。活けたすぐ後で写真を撮るので、花の色が目立ちませんが、花が開き始めると毎日違った姿になります。メルボルンの日本レストランはたくさんありますが、生花を飾っておられるお店が少ないのが残念です。西洋花を飾っているお店もありますが、おそらく生花の方がお得です。是非、ご相談を。見積もり無料です。

2015年5月11日

2015年5月2日

新連載:花を愛する10の理由


オーストラリアの人気雑誌、Living Nowにいけ花についての連載を始めました。花を愛する10の理由。私の作品も多数紹介されていますので、是非ご参照下さい。オンライン版で無料購読できます。 http://bit.ly/1bNhHg0

Shoso's new article on Ikebana, 10 Reasons to Love Flowers was published in Living Now magazine. Living Now, Issue 182, pp.10-11. Get a copy near you or read online. http://bit.ly/1bNhHg0


2015年5月1日

21世紀的いけ花考(34) 


室町時代、「立花と違い、花を生かすから生花というのだよ」という主張がなされたようなのです。それが多くの方にすぐに了解されたようなのですね。ということは当時、「生かす=蘇らせる」という言葉の意味が了解されていたということ。花を蘇らせるとは、どういう意味だったのでしょう?

 おそらくそれを調べる一番の方法は、当時影響のあった文献を求め、「生く」あるいは「生」という言葉がどのように使われていたかを拾いだし、その意味を定めていくことでしょう。私にもそんな余裕があれば、取り組みたいところ。

 しかし、私は仮説を提案するだけ。奇説ならなお結構。実証の部分は専門家にお任せ、というスタンス。かといって、私の仮説は全く根拠のない空想でもないのです。ここで参考にするのは、正岡子規の写生について小林秀雄が語った次の文章。「写生とはSketchという意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統をだんだん辿って行くと、宋の画論につき当たる。つまり禅の観法につき当たるのであります」(「私の人生観」)。やれやれ大変なことになってきました。さらに、写生とは実相観入だとか、観入とは空海の目撃だとか、話が拡大していくのです。ともかく生とはある観点からは実相であり、また神であるということ。その生を写せば歌になり、その生を切花に与えれば生花になるということです。歌論も華道論も同じ穴を掘っているわけです。この穴こそ東洋思想の核。

 私には面白いこうした議論も、最近の学会では流行らないようですね。人気なのは軽ーい題材。アニメの研究、オネエ言葉の研究、オタクの研究、そういうカタカナのトピックが多い。もちろん題材が軽くても、研究方法がしっかりしていればいいわけです。博士論文などそのほうがいい。ともかく、人気のない難解な題材をこの場で、長々と引きずってはいけないでしょうね。次回は軽ーくいくことにしましょうか。

 今月紹介するのはテーブルアレンジメント。西洋花的な丸いデザインで。花材には豪州のネイティブをというリクエストでしたので、バンクシアをにょきにょき見せています。枝で作った土手からソリダゴがこぼれて、その下には緑の実やジャスミンをびっしり。ジャスミンのこうした使い方はいけ花の文法にはないものでしょう。

 なお、Living Now 誌で連載を再開します。ここでの連載と補完関係になるでしょう。お楽しみに。

 

Shoso Shimbo

ページビューの合計

Copyright © Shoso Shimbo | Powered by Blogger

Design by Anders Noren | Blogger Theme by NewBloggerThemes.com