華道家 新保逍滄

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2022年2月9日

生花デモンストレーションの問題点


 YouTubeなどでも生花デモンストレーションを気軽に視聴できるようになり、ありがたいですね。ただ、ひとつ気がかりな点があります。海外で生花を教えている者からすると、私の生徒など、誤解しかねないな、と思う点があるのです。

それは、デモでは「制作の過程を見せてもらっている」と、単純に思い込むことです。実は、デモというのは、結果なのです。デモでは見せられない試行錯誤や瞑想の段階を踏まえて、その結果、作られたものです。99%、そうだと思います。

例えば、デモでは5分ほどで1作いけ上げる場合があります。しかし、実際は、その5分の過程を見せるために、作者は1時間、あるいはそれ以上、準備したり、変更したり、試行錯誤したりしているものです。それは当然です。

実は、この1時間の試行錯誤、瞑想こそ、本当の制作過程であり、教えなければいけない、見せなければいけないものなのです。

このままでは、生花とは「短時間で直感的に綺麗なものを作るものだ」「サクサクと作り上げていくものなのだ」などと思い込む人が出てくる可能性があるように思います。

その何が問題か、といえば、「生花は深く考えて、瞑想しつつ、作っていくものだ」という重要な点、生花の生命ともいえる点が見落とされる可能性があることです。

私が指導で、常に言っていることは「もっと考えなさい」、この一事です。君は考えていないね。せっかく授業料を払っても、何も考えずに作品を作り続けては、少しも進歩しないよ。立派な免状はもらえても、意味がない。生花という瞑想体験を知らずに、師範だ、マスターだなどと言うんじゃないよ、と。厳しく聞こえるかもしれませんが、誠意を持って教えようとすれば、やむを得ないでしょう。これは外国人に生花を教える難しさをあれこれ考えてきた私の、生花の現状に対する提言でもあります。

では、どうすればいいのか?

生花指導に新しい方法を採用することでしょう。
制作過程における瞑想の重要さを強調するような教え方に変えていくことです。

例えば、ひとつの作品を5分で仕上げるデモのようなものを教材とするのではなく(そんなものは腐る程ありますね。「5分で作る簡単生花」といった類のビデオとか)、実際、その作品を作るのに要した1時間以上もの試行錯誤、それを瞑想として、意味あるものとして、教えるということに方向転換しなければいけません。通常は、その試行錯誤を無駄なもの、見せたくないものとして編集して、削除してしまうのでしょうが。

そんなことに気づいて取り組んでいる方はあまりいないようなので、自分でやるしかないでしょう。生花道場ではそんな困難な試みを目指しています。

https://www.shoso.com.au 

2021年10月31日

Zoom 生花道場、レベル3

 


生花道場はのんびりと続けています。

レベル1では、自由型でデザイン要素、デザイン原理を8回で導入。

レベル2では、基本型を復習しながらデザインの基本を8回再確認。

レベル3では、デザインから離れるということを目指して8回の予定。

ともかくこのコースの根本を作ってしまいたかったので、全24課程とし、一区切りしようと思っています。その後で、いろいろ改変していけばいいでしょう。

既存の生花コースとはかなり違うものになっているのではないかと思います。

なんと言っても体系的で、理論的に整然としています。

海外で生花を教えてきた私が経験した指導上の難しさをどう克服するか、その問題への一つの回答になっています。

レベル1、2はともかく、レベル3のコースに関しては、なかなか最終的な形が決まりませんでした。発表までにかなり時間がかかってしまいました。

いくつか論文やエッセーを仕上げ、考え続けてきたことがようやく形になりました。

生花の自由型に関してはまともな教程は存在しないように思います。というか、きちんとしたものを提出した流派、指導者はいないのではないでしょうか?もちろん私は数千ある流派の教本を全て調べたわけではないですが。主要な流派の教本を見る限り、はっきり申し上げて、かなり雑です。海外の学習者のニーズには合っていません。履修してお金を払えば、師範やら教授やら様々な立派な称号はいただけるのでしょうが、本物の力がつくというわけではないのではないでしょうか。便宜的に、数合わせのために教程を組んでいるだけなのではないかと思われるものまであります。

また、既存の流派の教本を元に作った教程を自分の教程として販売している方もありますが、そこには新しいものを作って行こうという意志などほとんどありません。

さらに問題なのは、既存の教程を終え、指導者の立場になった場合、教える力が同時についているということがないだろうと思われることです。あのような全体像が不明瞭な教本で指導しようとしても、指導の方法について示唆は得られないでしょう。もちろん、例外的に教師として有能な方も稀に現れるでしょうが。

傲慢に聞こえるかもしれませんが、今後の、国際社会での生花のことを本気で考えるなら、この程度の批判は遠慮する必要はないでしょうし、許してももらえるでしょう。もちろん、生花の現状を批判する以上、批判されることも覚悟しないといけないでしょうが。

しかし、いくら自分でいい教程だと主張しても、「美術修士、教育学博士が作ったコースだ」などと(恥ずかしげもなく)宣伝しても、取り組んでくれる方がいない以上、意味がないでしょう。一人でも参加して下さる方があれば、続けてみて、改変しつつ、史上最強の生花コースにしていこう、この教程は今後、多くの生花コース改変のきっかけになるかもしれないよ、などとスタッフに大言壮語していました。

幸い広報初日に数件申し込みがあり、これなら参加者から色々声を聞きながら取り組んでいけるかな、と思っているところです。

2021年10月15日

外国人に生け花を教える難しさ(6)


外国人に生け花を教える難しさ、ということで何回か考えてきました。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/search/label/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA 

その難しさの原因は何だろう、どうしたらあの独特で強烈な癖(失礼!)が矯正できるのだろう?と、あれこれ考えてきました。

ひとつのことを考えだすと、あれこれと仮説が出てきたり、あれやこれやとつながってきたりするのがいつものことです。すると、ひとつのエッセーができたりします。ちょうど著名なオンライン・ジャーナルからメルボルン生け花フェスティバルの広報を兼ねて、寄稿しないか、と誘われたので、以下のような記事を掲載してもらいました。よければ読んでみてください。


私のひとつの仮説は、生け花をデザインとして解析し、制作しようとするところから非詩的な生け花が生まれるのではないか、というもの。非詩的などと仮に名付けてみましたが、近代生け花の大家、山根翠堂なら「死花」と切り捨ててしまったかもしれません。

説明は難しいですが、生け花の花が造花と変わりないような生け花作品。あるいは、造花で作った方がいいのではないか、というような生け花作品でしょうか。

生命のない生け花、即ち詩性のない生け花ができるのはなぜか?

原因は、生け花はデザイン、つまり人為による知的な工芸品である、つまり、生け花は作者、人を表現するものだという考えに由来するのではないでしょうか。西洋のフラワーアレンジメントは、そうした考えに基づいているように私には思えます。

つまり、素材の本質(すなわち自然)を表現しようというのではなく、素材に「人が何をしたか」を表現したいということ。そこを面白がっているのです。作者が直感した自然、その深さではなく、人やそのテクニックが関心の対象なのです。西洋のフラワーアレンジメントの延長として生け花を学んでいるという外国人も多いのかもしれません。両者は根本に大きな違いがあると思いますが、どれだけの人がそれを認識しているでしょうか。

このような自然より人を優先する態度は、戦前、西洋モダニズムが日本に紹介された際、その中心思想のひとつとして日本の生け花界に影響を与えました。現在、西洋ではモダニズムは反省と批判の対象でしかないですが、日本の生け花の多くは、今だにモダニズムのアプローチの主張を繰り返しています。そろそろ目覚めて欲しいものです。正直なところ、私はうんざりしています。

しかし、ふと、思うのは、日本ではそれでいいのかもしれないということ。

日本人にいくら「人を表現しろ」と教えても、日本人は自然に、作品に「自然」が入ってくるのではないでしょうか。修行を積むにつれ、生きた花になっていくのではないでしょうか。

しかし、日本人には自然なこの推移が、外国人には難しいのかもしれないのです。
外国人に「人を表現しろ」と教えると、本当に、人だけになってしまい、死花のまま、なかなか生きた花にならないということではないか。

もし、そうだとすると、自然に対する態度において、日本人とは重要な違いがあるのかもしれない、などとまで考えてしまいす。

しかし、このような仮説自体、カルチャル・ナショナリズムと批判されかねない意見です。決して、あからさまに、うかつに公言してはいけません。そこは承知しつつも、どうしたらいいのだろうと、悩む日々なのです。

2019年12月10日

生け花上達のコツ(4)


「どうしたらもっと生け花が上手になるのだろう」と自分の問題として考えてきました。
また、「どうして外国人に生け花を教えるのはこうも難しいのだろう」ということも、大きな問題でした。

問題の根本はどこにあるのか?
どうしたら状況を改善できるのか?

実は、このブログで今まであれこれ書いてきたことに、すでに私の答えは出ているように思います。ここでは、改めてこの難問への答え、そして具体的な解決方法まで私なりに考えてみます。

生け花上達のコツ(1)
生け花上達のコツ(2)
生け花上達のコツ(3)
外国人に生け花を教える難しさ(1)
外国人に生け花を教える難しさ(2)
外国人に生け花を教える難しさ(3)
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_26.html

まず結論から。

生け花上達のコツは、短距離走的な練習(瞬発力)と、長距離走的な練習(持久力)双方を継続させること。

前者は時に一つの作品制作に、とことん精魂込めてみるということ。これは常にそうあればいいのでしょうが、なかなかそうもいかないのが実情。

後者は、基本の徹底反復。毎日欠かさず何年も継続させること。

この二つだと思います。実は、私が特に重要だと考えるのは後者。外国人に教える際に、大きな障害となっているのもこの持久力に関わる、忍耐を要する修行方法が納得してもらえないということだと、気付きました。

有名な話があります。イチロー選手は高校時代、1日10分の素振りを365日1日も欠かさなかったそうです。日本人にはおそらく説明の必要もないと思います。生け花でも同じことだなと納得してもらえるでしょう。小さな努力でも、それを継続させることがいかに難しいか。そして、その莫大な効果。そう、莫大な!

繰り返しがマジックを生みます。
生け花なら、時に退屈で面倒な基本の練習を続けていくうちに、或る日突然、自分の生けた花が詩(あるいは生命)を持ち始めます。
そこへ至るためには1日も欠かさないという並外れた努力が必要なのです。

それにしても継続の難しさ!
試しに1週間だけでも毎日基本形を作ろうと目標を立てて取り組んでみて下さい。
たいてい4日目くらいにあれこれ面倒が生じて挫折してしまいます。
生け花に生きるという決意のない人は必ずそうなります。
継続するためには、強烈な覚悟と必死の努力が必要なのだと実感させられます。
それでも「継続は力なり」は多くの日本人共通の信念と言っていいでしょう。

ところが外国人にはこうした反復練習を嫌う人が実に多いのです。
「同じこと」「基本」「繰り返し」など退屈。
退屈すなわち苦痛!無意味!愚劣!最低!最悪!
求めるのは、常に何か新しいこと、常に何か違うこと。

この価値観の違いに気づくに至った幾つかの経験をあげます。

まず、このブログで基本の反復練習をさせた生徒のことを紹介しましたが、この生徒、結局辞めてしまいました。大成を期待していたのですが。私の力不足でもあります。

次に、最近、街を歩いていた時、”Nothing but Dull” と言うポスターを見つけました。
メルボルンのクリスマスには街でいろいろな面白い行事がありますよ、というメッセージです。でもこれはよく考えると、「退屈なことは最低!」と言う価値観の表明。
退屈でもそれを繰り返すと、とんでもないことになるのだ、などいうことは理解されそうにありません。

さらに、「そう言えば」とあるお母さんが、ご自分の息子さんのサッカーの練習を見て、日本と違うなと思ったことがあると話してくれました。練習といっても基本的に即試合。パスなど基本動作の徹底練習というような訓練はなし。面白いことだけやっている感じだと。

まだあります。随分以前の話ですが、私がメルボルン・フラワーショーに出展した時のこと。年配の生け花の先生が数人やってきて「毎年、同じようなもの作ってやがる」と蔑んだような言葉をかけられたことがあります。上品で礼儀正しい方々があるものだと思ったのが一つ。もう一つは「同じようなもの」への強い嫌悪、軽蔑。そこには反復すなわち停滞、創造性の欠如といった前提があるのでしょう。表面的には反復、しかし、内実は目に見えない進歩が生じているというような見方はなかなかできないのかもしれません。

反復は、ある時、突然の成長をもたらします。
反復というのは一つの戦略で、意識の突然変異をもたらすのです。
連想して欲しいのは、三昧。東洋の宗教の重要な行です。
生け花の世界に生きる者は花三昧の境地を目指したいもの。

この境地を哲学者西田幾多郎は以下のように語ります。

美術家は能く自然を愛し、自然に一致し自己を自然の中に没することに由りて甫(はじ)めて自然 の真を看破し得るのである。・・・知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好むところに熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知 即愛、愛即知である。(西田幾多郎『善の研究』)

この三昧の境地に達する時、生け花は詩を獲得するのです。

西田のいう「自然の真」とは、「専応口伝」について私が特に問題にした「よろしき面影」と同じ意味と解釈していいでしょう。一般の「専応口伝」の解説において、なぜか重視されてこなかった一節。無視されてきたと言ってもいいほどです。実は華道哲学の根本とされる「専応口伝」の肝なのですが。
専応口伝の謎(1)
専応口伝の謎(2)
専応口伝の謎(3)
専応口伝の謎(4)
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/09/blog-post.html

ここには芸道の形而上学があります。詳しくは私が今準備している論文を参照してもらうしかないのですが、この境地の要点は、以下の通り。

自己と花が合一し、無意識が働く。
花が作り手に話しかけてくる。
花を客体として見ているような境地とは違います。
花材の前に座ると、無意識のうちに手が動き、無我夢中。
気づくと作品ができていた、という三昧境。

瞑想の一つの形態とも言えそうですが、生け花作家はとりあえずはこの無我の境地を目指すべきでしょう。

実は、この境地のさらに先へ行かなければいけないと主張する方もあるのです。
例えば、私が指導を受けた勅使河原宏はその一人です。

しかし、まずは、この境地です!
どうしたら生徒をこの三昧境に導けるのか?

(1)基本を反復練習させることがひとつ。最重要なのですが、前述の通りなかなか容易ではないです。

(2)さらに、無意識で生けさせる経験をさせることでしょう。
考える時間を与えない。
制限時間内で基本形を3作くらい連続で作らせるとか。
私の特訓プログラムの成果はまた来年あたり報告できるでしょう。

(3)そして、芸道の形而上学も可能な限り説明していく必要があります。
日本人なら稽古だ、修行だと納得してくれることが、上記の通り外国人には理解できない場合があるのです。
しかし、心理学ではフローという概念が広く使われるようになっています。中心的なところは共通しています。この考え方を使って説得していくのは有効だと思います。

(4)もうひとつ、付け加えのようになりますが、以下の点も大事だと思っています。
クラスの後、当地の外国人生徒の多くは作った作品を壊さないように自宅へ持って行き、飾っているようです。
しかし、日本人の生徒の場合、壊してしまいます。運びにくいですから。
そして自宅で再度生け直すのです。

この習慣の違いは重要な点を含んでいます。

まず、作品に対する見方が違います。
日本人の立場は作った作品以上に「自分の身になったこと」を重視しているのでしょう。
作品は自分の内的な進歩の影のようなもの。
稽古の本当の目標は自分自身の深化です。
さらに、自宅で作り直すことで練習量が増えるという効果もあります。

生け花は芸術だというと、外国人のような態度になるのでしょう。
生け花はライフスタイルだと教えていこうと思っています。
「家で作り直しなさい」と。
日本人のやり方を私の生徒に徹底してみたいと思います。

もしかするとこんな簡単なことが、外国人に生け花を教える難しさ、外国人の生徒がなかなか成長してくれないという問題の根本にあるのかもしれないのです。

2017年8月13日

いけ花上達のコツ(3)


生け花上達のコツは、瞬発力と持久力でしょう。
それらについては、いずれもっと詳しく書くことがあるでしょう。
その時は、このタイトル、「上達のコツ」にもっとふさわしい内容になるはずです。

しかし、今は、少々別のことを考えています。

第1回目、2回目は以下のとおりですが、第2回目に書いた問題について、さらにあれこれ考えているのです。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/08/blog-post_9.html

つまり、生け花を外国人に効果的に教えるにはどうしたらいいのか?

この問題にきちんと対処するならば、
いけ花指導を国際的に展開する上でも、とても役立つはずです。

日本には、千以上の生け花流派があるようです。
海外展開を目指したいという流派も多いはずです。

おそらくそれはとてもたやすいことでしょう。

海外には習いたいという人が多いからです。
さらに、その需要に答える指導方法を確立している流派がないからです。
外国人にきちんと教えられる生け花教師を養成しようなどと真面目に考えている流派はないと私には思えます。間違っているかもしれませんが。

「英語ができればいいのでは?」
実際、それだけでは不十分です。

前回私が指摘した、教えにくい外国人生徒の典型的なタイプに
対応できる指導力についてきちんと考えている流派があるでしょうか?

つまり、作品に独特のクセがあり、
自分の作品の未熟さを謙虚に認めることがなく、
言葉で、訂正すべき点の説明を求めてくる。

海外で教えている方ならおそらく出会ったことがあるタイプではないでしょうか?
「こういうタイプにはいけ花は向かない」と切り捨てたくなりますが、
こういう方は、程度の差はありますが、とても多いのですね。

生け花流派が、その流派の家元やトップクラスの師範を海外に派遣することはよくあります。
デモをやったり、海外会員を指導をしたり。
それはそれで重要でしょうが、海外の生徒数を伸ばすことが目的であるならば、
上記のような教えにくい外国人生徒を上手に教える方法を指導できる講師を派遣して、
海外の教師に指導実習すべきです。

それが本当に流派の将来のためになる投資です。
生け花教師の作家としてのレベルアップも大切ですが、指導者としてのレベルアップがより重要なのです。

さらに、上級師範のテストというのがありますが、特定流派の場合ですが、私の知る限り、とてもお粗末なものです。
実習と筆記試験。実習はともかく、筆記試験の内容は、家元の言葉を自分なりに解釈しなさいというようなもの。
生け花、芸術についての小論文。
芸術大学の大学院レベルで学んだ人には容易すぎますし、
その家元の言葉について容易に歴史的な限界を指摘できるでしょう。
私の「21世紀的いけ花考」を読んでおけば、容易にパスできるレベル。

むしろ上級レベルの師範の昇級試験には次のようなテストはどうでしょう?

ある外国人生徒が作った作品を提示します。
そして、この作品を講評しなさい、と求めます。 
さらに、手直ししなさい。
その結果、どう良くなったか言語で説明しなさい、とやるのです。

実は、これこそ、海外で生け花を教えている私たちが日々直面している問題なのです。

しかし、また、手直しし、なぜそれが必要なのかを言葉で説明できたとしても、
おそらく、達成できるのは、目的の90%くらいまでだろうと思います。
つまり、バランス、コントラスト、リズム、パターン、ハーモニーなど様々なデザイン原理の共通の用語を用いて説明しても、生け花の9割程度しか説明できないのではないかと思います。

最後の1割は、言語でどうしても言いあわらせないだろうと思います。
それこそ、生け花がデザインを超える側面なのです。

今回書いた問題はとても大きいものですので、いつかまた、解説します。

2017年8月9日

一日一華:いけ花上達のコツ(2)


いけ花上達のコツについて再び。
第1回目は以下でした。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html

結論から始めれば、要は瞬発力と持久力ということだと思います。

第1回目に書いたことは、瞬発力について、ということになるでしょう。
1回1回の作品制作に際し、全力投球する集中力、瞬発力。
そして、そうした訓練を長く、何年も継続させる持久力。
陸上競技の短距離と長距離、それぞれに求められる力が必要なのだと思います。

それはそうなのですが、
外国人に教えるということでは、やはり独特の苦労があります。
前回、学ぶ態度の違いということを書きました。

結局、同じことなのでしょうが、手強い生徒が何人かいます。

多少下手でも、個人で楽しんでいこうという方ならそれでいいと思います。
私の指導もそれ相応で。

ところが、自分は指導者を目指す、とか、
いけ花をデザインの仕事に生かすのだ、とか、
とても動機が強い生徒の場合、きちんと学んで欲しいなあと思います。

すると、私も厳しくなるのですね。
となると、日本人ではありえないような指導上の難しさに直面することになります。

何でしょう、彼らのあの作品の独特のクセは?

説明が難しいのですが、私の日本人の生徒の場合、作品がとても洗練された感じがします。
弱点も見つけやすいですし、指導も楽。
自分の伝えたいことが、すっと受け取ってもらえていると感じることが多いです。

ところが、一部の(1割ほどですから、大したことではないのですが)外国人には、何度注意しても直らない特徴があります。生徒作品は、次のフェースブック上で紹介していますので、ご参照下さい。https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

作品がうるさいのです。
色使いに品がないのです。
ただ強いだけ、繊細さがないのです。
あるいは、力がこもっていないこともあります。

これは、文化の違いなのだろうか、と思うことがあります。
美意識の違い、なのかもしれないです。

ある生徒は、くねくねした枝物をよく持ってきます。前回は梅でした。
確かに、素材は綺麗。それらをてんこ盛りにした上、足元を赤と白の椿で埋め尽くします。
初年度の生徒ならともかく、2、3年やっている生徒がこんなことでは!
と、珍しく腹が立ちます。
いけばなを教えて腹がたつなんて本当に珍しいこと。

椿を全部撤去しろ。
枝をもっと切り取れ、と。
もちろん、そんなに厳しくは言えないです。
怒りを隠して、やんわりと諭します。

しかし、
素直には従ってくれません。
テキストのサンプルはこうなっているとか、
枝のここが一番美しいのにとか。
自作を正当化します。

それに、理屈で対抗していかなければいけません。
こうなると、教えるのは楽ではありません。
時に、理屈で説明できなくても、ダメと感じることがありますし。
「ダメなものはダメだ!」と言いたくなりますが、
それで納得する相手ではないのです。

綺麗な素材を使っているのですから、
確かに、綺麗ではあります。

でも、生け花が目指す美しさは、もっと別のものです。

たとえば、ありふれた花材でも、雑草でも、
素材を組み合わせ、デザインする。
そこから美しさが生まれるのです。
美しさは、素材から直接生まれるのではなく、
作者が作り出すものです。

素材発の美しさではなく、作者発の美しさ。
それが生け花の美しさなのです。

学ぶ態度に謙虚さがないならば、徒労だろうな、とか、
下手で傲慢な師範を育てるよりは、やめてもらったほうがありがたいとか、
思い悩むことはありますが、
長く、忍耐を持って続けてくれれば、
いつか身につけてくれるのだろうと信じつつ。

そして、また、大部分の生徒はきちんと育っているじゃないか、
と自分を鼓舞してみたり。

結局のところ、伸びるか、伸びないか、
その違いは学ぶ態度にあるとよく思います。

ふと気付いたのですが、伸びる生徒はアジア系の生徒に多いようです。
それは師の教えを大切にしようという、儒教的な文化の影響でしょうか。
先生に反駁したりすることもないですね。
先生からするととても教え易い。
生け花などの芸事にはそうした態度が重要なのだろうと思います。

ところが、上下関係よりも横の関係を重視する文化圏出身の生徒の場合、
上記の通り、独特の苦労があるわけです。
教えにくい生徒はなかなか上達してくれません。

生け花の教師ほど楽しい仕事はないといつも皆に言っています。
それでも、瑣末な苦労があるのですね。

2017年2月8日

一日一華:いけ花上達のコツ(1)


メルボルンの花菱レストランにて。

いけ花上達のコツについて思うところがありましたので
覚え書きとして。

いけ花上達のコツとか、秘訣などというのは、相当な実績ある先生でないと書いたり、話したりできない内容だと思います。

私のような修行中の者がおこがましい。
私の生け花指導歴はたかだか20年ほどでしょうか。
傲慢と思われても仕方ないでしょう。
それは承知の上で。

まず、この生徒は伸びないだろうな、そのうち諦めるだろうな、
という、少々がっかりな生徒の特徴から話しましょう。

私のクラスでは、まず、作品を仕上げてもらいます。
そこで、個別アドバイス。
外国人相手ですから、具体的でないと納得してくれません。
さらに、指示内容の理由まで説明しないといけません。
「弱い」「重い」「うるさい」
なんていう抽象的なアドバイスでは生徒は満足しません。
「いいですね」と言っても、それだけでは苦情が出ます。

外国人相手の先生は日本人だけを教えている先生より
おそらく苦労していると思います。
その分、教師として力がつくのではないかと思います。
(もちろん日本人を教える際の独特の苦労もあることでしょうが。)

「この作品の真ん中に太い線が走っているね。これは強すぎると思う。生け花というのは中心を強調しすぎると、流動性が無くなる。もっと不安定で、生き生きした感じを出した方が面白いと思うから、この線、やり直そうよ」
というような具合になります。

場合によっては、何度もやり直しを要求します。
そこで諦めてしまうか、食いついてくるか。
要はその違いです。
上達できるか否かの分岐点。

「もうこれ以上、だめです」なんていうのはまだいい方です。
自分の限界を感じているのです。大切なことです。

そうではなくて、もう投げ出してしまう感じ。
これが困るのです。
今日は疲れているし、
自分で満足しているからアドバイスなどもう不要。

あるいは、先生はこう言うが、自作の意図はこれこれである。
よって、今日はこれでいいのだ、とか。
自己の作品を正当化。
おそらく日本人にはあまり見受けられない態度だろうと思うのですが。

一言で言えば、真剣さに欠ける。
と、日本人の私には思えます。

もちろん、外国人生徒の全てがそうだということではないです。
ほとんどの生徒はとても熱心です。
ごく少数の生徒ですが、私の期待する真剣さに欠けるということ。
でも、いい人達です。
ありがたいなとよく思います。私のクラスの雰囲気はとてもいいです。
もしかするとこうしたちょっとイージーな人たちがいい雰囲気を作ってくれているのかもしれません。そう思うと大切な生徒ですね。

この点、日本人の生徒は違います。

(私にも数人日本人の生徒がようやくついてきてくれるようになりました。もっと若い頃から教えていましたが、以前は日本人には相手にされませんでした。実力も、風格もない。当然でしょう。)

日本人が生け花が上達するのは当然です。
真面目なのです。

外国人が不真面目というのではないですが、
学ぶということに対する態度の違い。
(繰り返しますが、すべての外国人がそうだというのではないのです。真剣さが必要な習い事だと、理解している人も多数います。)

この違いを理解し、忍耐を身につけ、
妥協したり、甘んじたりする傾向を乗り越えられないと、
いけ花の本当のところは分からないでしょう。
本当には上達しないでしょう。

とすると、生け花が人間修養ということの意味も、私なりに分かってきます。

生け花を学ぶことが人格を高めるということは、
よく言われますが、それは正確な表現ではないのかもしれないですね。
では、どう言い換えたらいいのか。
それはまた、次回としましょう。
そのうち続きを書きます。

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