華道家 新保逍滄

2018年11月1日

外国人に生け花を教える難しさ(2)


外国人に生け花を教えるのは難しいという話の続きです。
前回の話は以下です。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post_3.html

今回は特に難しいと感じている生徒についてです。
つまり特殊なケーススタディ。外国人全般に当てはまるわけではないでしょう。

この生徒の作品は
ともかく強いだけ。
ともかく花がどっさりあるだけ。
そこにはポエトリイがないのです。

そこで、私の対策は、基本形の徹底復習。

基本形を選んだのは、この生徒の問題の核心が、
バランスのおかしさ、
間のおかしさ、
調和のなさ、といったことで、基本が身についていないということだったからです。

おそらくその方針は正しいと思います。
その方針が有効だった生徒も出ていますから。

10回位やってもらおうとしたのですが、とにかく抵抗します。
「今回は基本形の中でも、その応用形をやる」とか、
「今回は特別な花器を使う(基本形には不適)」とか。

とにかく一番単純な基本形!
皆が一番最初に習うシンプルな基本形を完璧に作ってくれと
言っているのですが、聞いてくれません。

これはなんだろう?

どうも、この生徒にとって基本形を今更やらされるというのはプライドに関わることであるようなのです。性格的に少し特別なところがあります。周りの人を圧倒し、すごい!と思われることに喜びを感じているようです。
さらに、この生徒は、基本形を美しいとは思っていないようでもあります。

基本形には生け花の美しさのすべてがあります。
そこを身につけないことには、まともな生け花が作れるわけはないのです。
実は基本形はとても難しいのだよと説明してもなかなか聞いてくれません。
この生徒にとっては自分が美しいと思うものしか作れません。
それはシンプルな美しさを持つ作品ではなく、
ともかくゴテゴテ、やたらうるさく、強いだけの作品なのです。
自分、自分、自分で溢れかえっています。

ふと思いました。これはお手上げだ、と。

生け花は人間修行だと言われます。
謙虚さのない人、傲慢な人には無理です。

生け花に求めるもの、つまり学ぶ動機が違うのです。
他からの賞賛や、自分の劣等感の補償を求めることだけが目的では、
生け花の本質には到達できないでしょう。

日本人が数世紀をかけて作ってきた美の基準、そこへ至る方法。
まずは、それに敬意を払うこと。
自我流の入り込む余地はないのです。
特に、初心者にとっては自己を滅却してお手本を真似しつつ
基本を身につけることが最優先。
無私の境地です。

先生の言葉に素直に従うことも大切です。
我が強すぎないほうがいいのです。
ここは日本人が得意とするところかもしれません。
しかし、そういう態度が身についていない人には難しいでしょう。

そうして基本形とともに、
基本的な生け花の原則を身につける。
そのあとで初めて、自由形を楽しんだらいいのです。

基本形などつまらん、自由形だけで行こうというのなら、生け花など習う必要はないのです。
教えるのが大変です。これが結論。

しかし、さらなる問題は、話がここで終わらないということ。

実は、上記のような自我流の生け花作品を作り続ける人が海外には少なからずいます。
面白いことに、それが評価されたり、
お金を払う人があったり、
時に何かの賞を取ったりします。

日本でなら自我流では評価されず、いずれ淘汰されてしまうでしょう。
しかし、周囲も生け花とは何かよくわかっていない状況ですと、
自我流生け花も淘汰されず、ああ、こんなものかと受け入れられるわけです。

しかし、それが悪いことでしょうか?

おそらく、通常の基準からすれば、生け花とは言えないでしょうが、本人は生け花だと主張します。日本の流派から師範やらなにやらの肩書きを手に入れたりもします。周りの方も評価します。

とすれば、放っておくしかないのではないでしょうか?
(たくさんの人に教える立場になって欲しくないなあとは、こっそり思いますが)

「こんなの生け花じゃない」などと言えば、喧嘩になるでしょうし。
(そういえば私もよくそんなことを言われますが)
他人が評価を得ているのに、ケチをつけるようなことは人間として恥ずかしいことでしょう。

また、時に、そうした方が、とても味のある作品を作ることも稀にあるのです。

海外における生け花の状況はなかなか面白いのです。

2018年9月17日

役者脱落宣言


前回のポストで私が好きなLove Actually について書いたところ、
思いついたことがあります。

私が役者への夢を完全に諦めた出来事。

役者になろうなどと本気で思ったことはないのですが、
オーディションに来ないかと声をかけられ、出かけて行ったことは3、4回あります。
なかなかギャラがよろしかったのです。

しかし、その最後のオーディションでのこと。
最後というのは、もう2度とオーディションへなど行くことはないでしょうから。

日本の航空会社のコマーシャルのための制作でした。
セリフはなし、経験不要ということでした。
これは私にぴったりだと思ったのですが、行ってみると、要求は、
「君は、日本の禅僧だ。日本庭園を作っている。作り終えた時、自作の庭を眺め、至福の表情を浮かべてほしい」。
これをカメラの前でやるのです。

3回やりました。
諦めました。

私がニコリと笑っても、視聴者は私が自作への満足感を表していると感じ取れるでしょうか?変なこと考えているんだろう、くらいにしか思われないでしょう。

考えてみると、果たしてプロの役者でもセリフなしで、そんな表情を作れる方がありますか?笠智衆さんくらいでないと無理ではないでしょうか?

役者さんの大変さが少し分かったように思うのです。
半端な気持ちでやれる仕事ではないのです。

Love Actually 礼賛


私は映画はあまり見ません。
DVDコレクションも20本も持っていないでしょう。
(もっとも最近、これらに加え、「男はつらいよ」全巻取り揃えましたが)
それでも幾つかの作品は、年に1回くらい繰り返し見ています。
その一つは、Love Actually。

日本でどのような評価がされているのかと思って、
幾つか映画評を読んでみました。
共感できる映画評がありませんでした。

この作品はとてもおしゃれです。
成熟した、大人のコメディ。
これを日本人が作れるか、と思うとまず不可能でしょう。

日本で名優とされる方々は、多くは眉間にしわ寄せて人生を語ったり、
怒鳴ったりというような役が多い。

コメディと言っても、ボケとツッコミのやり取りが多く、
どうもいじめの文化かなあと思ったりします。

例えば、Love Actually のヒュー・グラントのキャラクター、
私は大好きなのですが、これを演じられる人は、まずいないでしょう。
ユーモアがあり、冗談がうまく、
自分の状況をちょっと距離を置いて眺めて、やれやれと溜息をついたり。
そこに人柄の良さ、誠実さ、余裕、人生への態度が現れる。

おそらく、最近、亡くなられた樹木希林さんはそんな役が演じられる稀な方じゃなかったかと思います。思いがけず、樹木さんとヒュー・グラントが重なってしまいました。
素人の思いつきですが。

2018年9月3日

外国人に生け花を教える難しさ



以前、「生け花上達のコツ」ということで書き出したところ、外国人に生け花を教える難しさ、という話に変わっていったのでした。今回はその話の続きです。

https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/08/blog-post_9.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/08/blog-post_13.html

草月流の場合、5冊教科書があり、1、2冊目は基本型、以後、自由花ということになります。おそらく、日本人にはそれでいいのでしょう。私のクラスでも日本人の場合、あまり問題はありません。

しかし、外国人の場合、このカリキュラムでは5人に1人くらいしか目的のレベルに到達できません。もちろん、これは私のクラスでのことであり、私の指導力不足という限界があるのは承知していますが。

自由花に入っていくと、多くの生徒がおかしな作品を作り出します。しかも、その生徒独特のクセのようなものが毎回表れます。貧弱だったり、色使いが混乱していたり。単に力強いだけだったり。結局、基本が身についていないのでしょう。私が生徒に与えるコメントは、以下のようなものが多くなります。

「綺麗な作品だね。でも、綺麗さを作品の目標にしてはいけない。生け花の原則に則って制作しましょう(これは綺麗な作品だけど、生け花と言えないよ)」

「生け花は数学だ。日本の美学は数学だ。君の作品のどこに数学があるんだ」

「弱い!君は瞑想していない。花と君の間に大きな距離があるんだ。もっと花と話しなさい (だんだんイライラしてきます)」

「花でお遊びして何になる。なんのために生け花やっているんだ!」とまでは、直接は言いません。だんだんコメントが厳しくなっていくのです。

私の生徒作品はフェースブックに紹介していますので、よければご覧ください。
https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

そこで対策です。2つほど考えて実践しています。
効果はまだわかりませんので、詳しくは紹介できません。

ただ、ひとつは基本型の徹底復習。
これは不評です。やりたがりません。

しかし、完璧な基本型を作れれば、かなり効果があるのではないかと思っています。
そのような基本型を持てることが流派の最小限の存立条件でしょう。

ともかく、だまし、だまし上級者(実力での上級ではなく、カリキュラム上の上級)にも基本型の練習をさせています。
結果がどうなるか、いずれ報告できるでしょう。

補記:もしかすると、外国人(ことに西洋人)への生け花指導の難しさには、自然観の違いが根本にあるのかもしれません。日本人の神道的な自然観 (自然を客体視しない)への共感が生け花の修得には必要になってくるのではないか、これは大きな、そして、かなり魅力的な仮説です。



2018年 生け花ギャラリー賞


2018年度の生け花ギャラリー賞が発表になりました。

ご察しいただけるように、このプロジェクト運営はなかなか時間がかかります。

生徒作品ということで、まだまだ不十分な作品が多いのですが、
それでも生徒にとっては数万人の方々に自作を見てもらえる機会となる、
さらに
国際レベルの審査員(日本で最も著名な美術館長、兵庫県立美術館長蓑豊先生を含む)に作品を見てもらえる機会となる、

しかも、それが無料。

それらは、やはり華道史上意義あるプロジェクトと評される根拠でしょう。

それに、選出された生徒の喜び!ときたら大変なものです。

「生徒への励まし、生け花を学び続ける動機付けになれば」ということで始まったプロジェクトですから当初の目的は達成できているように思います。関係者の努力も報われるというもの。

そして、毎回いろいろな課題が出てきます。
それらについてはまた別の機会に話しましょう。

さらに、相変わらず抵抗勢力の嫌がらせは続きます(笑!)。
そこには生け花の特殊性があるように思います。
例えば、絵画コンクールとか、音楽コンクールであれば、
このような嫌がらせはないだろうと思います。

海外の方々からは、「生け花とは審査されるべきじゃないだろう」、「賞が生け花に関係あるか?」とか、私たちのフェースブックに書き込まれます。生け花になると、権威主義的な発言をされる方が多いと感じます。

もちろん、異論を持つのも、反対意見を持つのも自由です。しかし、私たちの結果発表に合わせて嫌がらせを書くという心性は普通ではないです。受賞者、おめでとう、ご協力いただいた方々、ご苦労様、というムードの中へ水を差すような書き込みをするわけですから。話して分かり合える相手ではないでしょう。こういう方に限って「生け花マスター」などと自称されていることが多いので手がつけられません。

私もこのプロジェクトの意義をあれこれ書いていますが、一人一人相手に議論するつもりもありません。そこまで暇ではないのです。

また、日本の生け花の教師、生徒からは静かに無視されています。
海外発の賞である、超流派の賞であるなどいろいろ事情はあるでしょうが
日本の生け花のあり方の一面を反映していると思います。
各流派主催のコンクールですと、上からの意向にしたがって参加すればいいのですが、
自分で判断しなければいけない要素があると慎重になるのかもしれません。
しかし、いずれ状況は変わってくるだろうと楽観視しています。

このような経験を通して、結局、生け花とは何か?
なんのために生け花をやるのか、その最大公約数は何か?
と個人的に考えているところです。

問題は生け花が容易に金や名声に結びつくというところにあるのではないでしょうか。

それを最大に利用しているのは、家元制度、流派という組織かもしれません。
もちろん、それが悪いなどと言うつもりはないです。
日本文化に特徴的な現象で、興味深いものです。貢献度も大きいでしょう。

ただ、生け花の本質はもしかすると、そんなところにはないのではないか、とも思うのです。
生け花は魂を磨くための一つの技術です。
自分のためだけに日々修練していければいい。
それだけのものだと思います。

2018年7月27日

生け花ギャラリー賞決勝進出の条件


私たちの主催する2018年度生け花ギャラリー賞の準決勝15作品が7月に発表になりました。

この15作品は過去1年間に生け花ギャラリー・facebook に投稿された作品から選ばれます。

選ぶのは生け花ギャラリー賞委員会メンバー。全員師範を有する生け花教師。世界各地の先生がボランティアで協力して下さっています。そしてこの中から5作品が決勝進出です。私たちの審査員の先生方に送り、審査していただくのです。

この5作品の選出には、私たちの審査員の一人にご協力いただいています。日本の生け花研究家としてはおそらく最高レベルの方です。この選出はかなり難しい作業だと思います。選ばれた作品をみると、先生がとても慎重に選んで下さっていることがよくわかります。なるほどなあ、といつも感心します。結果は、まもなく発表になりますので、facebook あるいはブログにご注目下さい。

「上手くまとまっているというより、世界観のようなものがある作品が今後の伸びしろがあるのではないか」というコメントを、今回、先生からいただきました。

ここには注意すべき点が幾つかあります。

ひとつは、「上手くまとまっている」ことのもろさ、です。生徒作品ですから、初心者の作品と言っていいと思います。初心者でも上級者のある部分を真似て、それなりのまとまった作品を作ることができると思います。学習上は必須の過程です。しかし、それだけでは決勝まで行けないということです。

そのような作品には欠けているものがあります。
先生はそれを「世界観のようなもの」と表現されました。

私は、それは瞑想性ではないかと思います。最近、生徒作品を見ていてよく感じることは、瞑想を経ているかどうかが作品に生命が宿るかどうかを決める、ということです。

制作の過程で、素材をしっかり見つめ、素材と語り合い、素材を生かしているか、ということです。表現は難しくなりますが、様々な方が同じようなことを色々な表現で語っておられるはずです。

本当に瞑想し、悩み抜いて、作られた作品は判ります。

同時に、とにかく綺麗に仕上げようとか、人を驚かしてやろうというような意図で作られた作品、細部への配慮が欠けた軽率な作品、というのは安っぽくて、見ていてイライラしてきます。

その次元を突破していただきたい。

おそらく、生け花が瞑想だというような経験、生け花の喜び、というのもそこら辺にあると思います。なんとか、師範取得前に、そのような境地を体得して欲しいと思います。時間はかかりますが、そこまで到達できた方でないと、生け花ギャラリー賞決勝進出は叶わないでしょう。

今回書いたことはいつかもう少し掘り下げてまた考えてみます。

2018年7月18日

ワークショップの目的


Ikebana Workshops

Shoso Shimbo and his students conduct Ikebana workshops at a special price.
Book early. Number of tickets are limited.

When: 7 October 2018
Where: Breakfast Parlour, Abbotsford Convent, Melbourne
$35

Details

先に、生け花教師には技術指導だけでなく、指導力指導も必要ではないか、と書きました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/07/blog-post.html

指導力のない生け花教師に将来はありません(ちょっと言い過ぎか)!
教え方が下手では、生徒が増えない、教える機会が減る。
教える機会が少なくなると、生け花も生活から遠ざかります。
どうしても生け花に費やす時間が減っていきます。
その結果、生け花の上達も限られるのです。
10年、20年かけて先生方を見てみればそういう結論になります。

私の生徒から力のある教師を育てたい。
すると指導力指導にも力を入れざるをえません。
10年、20年計画です。

指導力指導の一環として、まもなく開催する生け花展でワークショップを同時開催し、
私の生徒たち(新人教師、上級の生徒)に指導実習をしてもらおうと思っています。
いろいろ配慮する点があります。

料金も適当に設定しないといけないでしょう。
高すぎては満席にならず、また文句も出やすくなる。
安すぎては赤字になる。ビジネスマンと自負する私には赤字のオプションはありえません。
限られた時間内にたくさんの生徒に指導の機会を作るため、少人数クラスとし、多数のセッションを設けます。定員9人のクラスを8回予定しています。
新しい生徒獲得と、新人教師、教師予備軍の実習という二つの目的を持っていますから。
参加した生徒(クライアント)にはアンケートに答えてもらい、良かったところ、改良すべき点をフィードバックしてもらいます。きついコメントがあるかもしれません。お金を頂く以上、覚悟しないといけません。

私の生徒たちも大変ですが、どうなるか、楽しみです。

2018年7月16日

2018年度生け花ギャラリー賞準決勝


恒例の生け花ギャラリー賞、準決勝進出作品が発表となりました。ぜひご覧ください。
https://ikebanaaustralia.blogspot.com/2018/07/semi-finalists-for-ikebana-gallery.html
Facebookは以下になります。人気投票も受け付けていますので、よければご参加ください。
https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

この賞創設の意図についてはあちこちで書いています。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/05/blog-post_28.html

最大の動機は、生け花をキャリアとして取り組んでいきたいという方を助けたいということ。
特に、海外では、生け花で幾らかの収入を得るということ自体、なかなか難しい。
海外で生け花をキャリアにできるという人は極めて少ないのです。
幸運にも、私はその一人です。
とはいえ、日本とは状況が違います。
私の活動範囲はおそらく日本の一般の生け花教師よりはるかに広いでしょう。
私の状況については、別の機会に書くことがあるかもしれません。

ともかく、

私は、海外で生け花で収入を得る人がもっと増えてほしいと思っています。
教室を運営するのが一般的でしょうが、そのような形でいいですから、生け花で稼いでほしいと思っています。

なぜか?

それが生け花を人生の一部として、継続させるきっかけになるからです。
上達し続けるためにも、実際に指導していくということが大切だと思っています。
生徒にもそのように説得しています。
商業的な機会を積極的につかめ、と促しています。
そんなことを言っているのは私くらいでしょうが。
それには理由があります。

私は海外で生け花が上手だなと関心した人々に何人か会っています。
しかし、同時に、数年経つと、生け花をやめていたり、
ちっとも進歩していなかったり、
そういう人が多いのです。

それに対し、以前それほど上手とも思えなかった方が、
数年でとても進歩していることもあります。
そういう方は決まって、指導などの活動をされています。

生け花の上達には時間がかかります。
その長い修行を継続させることはどうしたら可能か?
最もてっとり早いのは生け花が幾ばくかの収入源になってくれること。

そこまで考えて、サポート策を考えている生け花教師は、おそらく私一人かなと思います。私への共感者、賛同者が全くないですから(私の側近教師たちを除いて)。私を批判する人はありますが。
「俺はあなたの10年後を心配して、言っているんだ」
なんてアドバイスする先生はあまりいないのでしょうね。

本当は各流派が検討すべき問題です。

しかし、そこまで取り組んでいる流派は一つもありません。
海外会員を収入源としか見ていないのではないかと思うこともよくあります。
海外会員を増やしたいと意図した活動は散見します。
しかし、海外の事情を踏まえて、自立をサポートするまではいっていません。
趣味として生け花をやる人を開拓しているだけです。

おそらく、海外に最大の生け花学習者を抱えているのは草月流でしょう。
大手の草月流がこの問題について動いてくれたら素晴らしいでしょうね。

ともかく、

私の意図は、「生け花ギャラリー賞受賞」と履歴書に書ける生け花学習者、教師を増やしたいということ。

それが生徒を集めるのに役立ったり、
コンクールに出品する助けになったり、
制作依頼を得る助けになるのではないか、
それらが最大の効果でしょう。

さらに、受賞者は自信をもてるはずですし、
生け花にもっと精進しようという方が多く出てくるのではないか。
そういうところも目指しています。

 そして、もうひとつ。

今後、取り組みたいのは、生け花教師の指導力をどう伸ばすか、という問題。
技術はある、しかし、指導力がないという教師は問題です。

技術については、各流派、いろいろな取り組みがあります。
しかし、指導力については、どうでしょう?

「素晴らしい作品を作る。しかし、教え方が下手すぎ」という先生より、
「多少、技術は劣る。しかし、教え方がうまい」という先生の方が
実際には、生徒数も増え、生け花文化拡散には効果的なのです。

しかし、「海外での指導」となると言葉の問題、文化の問題などいろいろあって、一筋縄ではいきません。

今いろいろ考えているところです。

2018年6月27日

一日一華:締め切りが破れない


私は締め切りを破ったことがほとんどないように思います。

確かに、人生後半ともなれば、締め切りをうっかり忘れていたとか、体調不調でお手上げ、ということは何回かあったと思います。ただ、自分がきちんと意識した場合、不思議とやり遂げているのです。

原稿依頼の締め切り、
彫刻制作の締め切り、などなど。

実は、今日も無理だと思っていた6000語の英文論文を仕上げ、
学会誌の担当者に送付したところです。

時々、よく間に合ったなあと自分でも感心することがあります。
周りの人たちにもよく感心されています。
「だめだあ、時間ねえ」とぼやいても
「あなたは大丈夫」としか返事してもらえないのです。

タイムマネジメント能力かもしれません。
学生の頃もあまり無茶な長時間の勉強もせず、やるべきことはやってこれたように思います。

しかし、もっと関係があるように思うのは長距離走者だった経験。
中学、高校の頃ですが、どんなに苦しくても絶対完走すると自分に誓って、それを守り通しました。一度でも脱落すると、それが癖になってきっといつも脱落するような人間になってしまうんだ、と自分に言い聞かせていたものです。

それにしても、あの長距離走の苦しさ!
自分を追い込んで意識が朦朧とするまで走り続けた日々を思うと
この程度の苦しさ、なんでもない。
そう思うことが度々でした。

おそらく自分を少しは強くしてくれた経験だったようです。

2018年6月25日

一日一華:再び新書について


先に、「最近、新書は劣化したのではないか」などと書きました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/05/blog-post_21.html

ところが早速前言撤回。
神道について知りたくて、買った2冊が面白かったのです。
「神道とは何か」伊藤聡、中公新書
「神道・儒教・仏教」森和也、ちくま新書

もちろん、神道はとても奥深いもので、ほんの数冊読んで何かがわかってくるというものではないのです。

ただ、禅宗の思想があまりに神道に似ているという思いがずっとありました。
もしかすると神道というのは日本人の宗教心の根底にある感性的な部分に関わり、
それを言語化した時に仏教という形になるのではないか、などと考えたことがあります。

突拍子もない仮説、と思っていましたら、そうではなく、
専門の学者の中にも私と同じ洞察を持って、理論化している方があることを知りました。

もちろん、それが「真実」だというようなことはないのです。「真実」などという用語はあまり使わないほうがいいでしょう。
しかし、一つの仮説として有意義な考え方ではあるようです。

2018年6月21日

生け花とコンクール(2):グーグル翻訳を訂正


先に投稿した記事にグーグルで翻訳した「生け花とコンクール」についての文章を載せていました。あのままではやはり意味不明のところがあります。以下で最低限の訂正をしておきます。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/06/blog-post_38.html

「私たちはIkebana Gallery Award(IGA)を宣伝しようとしていますが、 "私たちの主人 マスター(あるいは)先生はIkebanaを裁かれる は審査されるべきではないと言った" "なぜ競争しなければならないのですか?"というステートメントを聞くことがあります。


結局のところ、誰もが自分の信念や哲学を持つことが許されています。彼らが私たちを嫌がらせたり、オンラインで非倫理的に行動したりしない限り、私たちはそれらを無視して、私たちだけを離れるように求めることができます 構わないでいただきたいとお願いするだけです。もし彼らが永続的なもしつこいのであれば、私たちができることは、私たちのウェブサイト上のミッションステートメントを読むように求めることだけです。

しかし、いけばなの審査や競争については、そのような狭い視点(視点の狭さ)についていくつかの注意すべき点があります。

1. 3つの主要な生け花学校流派(池坊、大原小原、草月)は、今日は本場の花火大会独自の生け花コンクールを運営しています。彼らは、生け花での競技の利点を認識しています。しかし、1000以上の学校流派がある生け花の分野では、彼らが「受賞者勝者」であることに注意する必要があります。他の学校流派の中には、勝者の態度が必ずしも正しいとは言えず、生け花での競技には否定的な態度をとることさえあるかもしれない。それらの大規模な学校流派を攻撃する代わりに、私たちは今のところ、小さくて簡単な目標ターゲットであるため、彼らの一部が私たちを攻撃するかもしれません。


2. 歴史的に、生け花の開発発展には常に競争が存在していた。しかし、生け花の競争という概念は、例えば現代のプロスポーツの競争概念と同じではありません。例えば勝利度が高く、時には重視される場合もあります。勝ち負けが過度に重視されるというものではありません。

原則として、生け花は内なる追求です。我々の主な焦点は、外部的に表現されたものではなく、それに匹敵するものではなく、内部的な成長です。したがって、比較できるものではないのです。西洋モダニズムが1920年代と1930年代の生け花に影響を与えた後でさえ、西洋美術のスタイルに従った競技は必ずしも十分に認識適切に受容はされていなかった。いくつかの大会は全く成功しなかった。生け花競技の歴史は魅力的な研究テーマですが、ここでは詳しく説明しません。

しかし、いけばな競技会が適切に管理運営され、適切注意を払って注目されているのを見て、私は個人的には、生け花の実務者に実践者(関係者)優しいフレンドリーな競争を楽しむには十分に成熟している(西洋化している)と感じています。私はIGAが肯定的なケーススタディを提示しとなり、研究者がすでに述べたように歴史的に重要であることを証明すると確信しています。誰もがIGAでは勝者です。

3.海外の生け花談話に関する言論は、日本のものとは時々異なる。私は「生け花はこれとそうでなければなりませんこうでなければいけない、ああでなければいけない」という言葉をあまりにも頻繁に聞いています。海外の生け花のマスター(およびそのフォロワー)は、日本のマスターよりも信頼できる権威主義的である可能性があります。彼らは生け花を神秘的にする傾向があります。彼らはしばしば怒り、他者を批判しがちです。さらに、彼らは競争を嫌う。私たちはそれらの "マスター"から離れておく必要があるかもしれません。

4. IGAのメリットと必要性については、次の記事をお読みください。 http://ikebanaaustralia.blogspot.com/p/faq.html

以上。

あともう一歩というところでしょうか。

先ごろ、ふと思いついて、日本語で書いたものをグーグルで翻訳してみました。
英文の文章が必要だったのですが、グーグルで訳したものにちょいと手を加えればいいかなと思ったのです。

ところが、それは全く違っていました。何の役にも立ちませんでした。
自分で初めから英語で書いていくしかありませんでした。

グーグルがすごいことになっているとは認めますが、
重要なところでつまずいているようで、
結論は、やはりあともう少しかな、と思います。

2018年6月19日

花道史の基礎知識:神道の方へ(2)


日本文化史上の生け花の位置付けについて分かりやすい講義を見つけました。
筑波大学名誉教授今井雅治先生の日本語学習者向けの講義ですが、外国の方に日本文化、生け花を紹介したいという方にもとても役立つことでしょう。

https://jfcairo.wordpress.com/2013/01/06/ikebana/

この講義の中で私が関心を持った点はたくさんあります。
私の話(「生け花・環境芸術・神道」)の出発点として都合がいいので、おいおい説明していきます。

まず、注目したいのは、生け花と西洋アレンジメントの大きな違いについての説明。
「最終的には悟りを目指していること」これが生け花、
「美しさの追求」これが西洋花、とされています。

生け花は修行であり、西洋花は芸術である、と言い換えてもいいかしれません。

私の21世紀的生け花考(「花を留める」ー伝言ネット版)シリーズなどを読んで下さった方はすぐに、「あれ?」と思われることでしょう。

私が何度か指摘していることですが、1930年代の新興いけばな宣言以降に人気を得た生け花流派(つまり現在日本で主流をなしている生け花)、草月流などは生け花は芸術だと宣言したわけです。
つまり、修行としての生け花という本質を捨てているのです。
生け花は西洋花と同じところを目指す「芸術」になったということ。

ここにはとても深い問題があります。私が先のエセー・シリーズで何度か触れた問題です。また、別の機会に続けます。

2018年6月17日

パニック・アタック攻略法


もう1年ほど前になりますが、自分にはパニック・アタックの症状があるのではないかと書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/11/blog-post_6.html

今年の四月に日本、ヨーロッパを5週間ほど旅行しました。
仕事とホリデーを兼ねたもので楽しみにしていましたが、最も心配したのは飛行機内でのパニック・アタック。長い旅ですから。
あの症状が出ると、気持ち悪さ、苦しさは耐えがたい。
呼吸困難に加え、機内で叫んで、外へ抜け出したいという狂ったような衝動に突き動かされます。
乗り物酔い X 閉所恐怖症、そんなところかと思いますが。

ところが、今回はその症状は全く出ませんでした。
機内で、来るかな、という予感は何回かありました。
その度、禅の呼吸。
そして、ラベンダーの香りを吸引。
家内の持っていたラベンダー入りのアイ・マスクを鼻にあて乗り切りました。
私の場合、匂いが引き金になる場合が多かったのです。
アロマセラピーの絶大な効果、ということになるかもしれません。

「私が横にいたから大丈夫だったんでしょう」と家内は言いますので、
そうかもしれないねえ、と言っておきます。

ともかく旅行にラベンダーは必携となりました。

2018年6月15日

生け花コンクール(1):ここまで来たか、グーグル翻訳


グーグルの翻訳がすごいということを最近、よく聞きます。
私は英語でもよく記事やら雑文やらを書きます。
しかし、それをグーグルを使って訳すということをしたことがありません。

ちょっと、実験してみたくなりました。
最近、生け花コンクールについて書いた英文の雑文は以下です。

これをグーグルで訳すと以下になります。

「私たちはIkebana Gallery Award(IGA)を宣伝しようとしていますが、 "私たちの主人はIkebanaを裁かれるべきではないと言った" "なぜ競争しなければならないのですか?"というステートメントを聞くことがあります。結局のところ、誰もが自分の信念や哲学を持つことが許されています。彼らが私たちを嫌がらせたり、オンラインで非倫理的に行動したりしない限り、私たちはそれらを無視して、私たちだけを離れるように求めることができます。もし彼らが永続的なものであれば、私たちができることは、私たちのウェブサイト上のミッションステートメントを読むように求めることです。

しかし、いけばなの審査や競争については、そのような狭い視点についていくつかの点があります。

1. 3つの主要な生け花学校(池坊、大原、草月)は、今日は本場の花火大会を運営しています。彼らは、生け花での競技の利点を認識しています。しかし、1000人以上の学校がある生け花の分野では、彼らが「受賞者」であることに注意する必要があります。他の学校の中には、勝者の態度が必ずしも正しいとは言えず、生け花での競技には否定的な態度をとることさえあるかもしれない。それらの大規模な学校を攻撃する代わりに、私たちは今のところ、小さくて簡単な目標であるため、彼らの一部が私たちを攻撃するかもしれません。


歴史的に、生け花の開発には常に競争が存在していた。しかし、生け花の競争という概念は、現代のプロスポーツの競争概念と同じではありません。例えば、勝利度が高く、時には重視される場合もあります。

原則として、生け花は内なる追求です。我々の主な焦点は、外部的に表現されたものではなく、それに匹敵するものではなく、内部的な成長です。したがって、西洋モダニズムが1920年代と1930年代の生け花に影響を与えた後でさえ、西洋美術のスタイルに従った競技は必ずしも十分に認識されていなかった。いくつかの大会は全く成功しなかった。生け花競技の歴史は魅力的な研究テーマですが、ここでは詳しく説明しません。

しかし、いけばな競技会が適切に管理され、適切な注意を払っているのを見て、私は個人的には、生け花の実務者が優しい競争を楽しむには十分に成熟していると感じています。私はIGAが肯定的なケーススタディを提示し、研究者がすでに述べたように歴史的に重要であることを証明すると確信しています。誰もがIGAの勝者です。

3.海外の生け花談話は、日本のものとは時々異なる。私は「生け花はこれとそうでなければなりません」という言葉をあまりにも頻繁に聞いています。海外の生け花のマスター(およびそのフォロワー)は、日本のマスターよりも信頼できる可能性があります。彼らは生け花を神秘的にする傾向があります。彼らはしばしば怒り、他者を批判しがちです。さらに、彼らは競争を嫌う。私たちはそれらの "マスター"から離れておく必要があるかもしれません。

4. IGAのメリットと必要性については、次の記事をお読みください。 http://ikebanaaustralia.blogspot.com/p/faq.html

以上です。

例えば、大学でのテストで、日本語を学ぶ学生がこの程度に訳したとしたら、多分、不合格ではないでしょう。きっとパス程度の成績は取れるはずです。
日本語教師をしている知人が何人かいますので、尋ねてみようと思います。

内容的にはかなり複雑なものですが、そこそこ意味が通ります。何箇所か重大な問題のある部分がありますが、私の言いたいこともおおよそ翻訳できています。このことの意味するものは何か?

神道の方へ(1)


自然破壊、環境汚染にはなかなか有効な手立てが出てこないまま、
地球は危機的な状況へと向かっています。

この現代の危機は、現代人の精神の危機と対応しているのではないか。

特に、主要な宗教が死生観、ことに死に対して有効な回答を提示しえていないということと関係があるように思えます。

私がそう考えるのには理由があります。
が、この話は長くなりそうなので、またの機会に続きます。

2018年6月8日

フェイク・マスターズ


海外の生け花の世界には独特のものがあります。
そのうちの一つは、私が勝手にフェイク・マスターズと呼んでいる方々の存在。
フェイクですから、偽物。
ちょっと失礼ですから明言、公言はしません。
(ブログに書いたら、公言ですかね。読者は少ないでしょうが)


マスターというからには、生け花で言えば家元とか、師範とか
いろいろな言い方がありますが、要するに大家、達人ですね。
その真似をしている人が多いのです。
その方々の言動には、なかなか面白いものがあります。

私はそのモデルはどこにあるのだろうとずっと考えていますが、思い当たりません。
多分、空手の映画とか、どこかそのあたりにあるのだろうなあと思います。
どこか悟り切った風格があり、黙っていても人々は尊敬してくるのが当然、と言うところがあります。

しかし、悲しいかな。フェイクなのです。
まず、実力が伴わない。
道を修めようというものの真剣さがない。
そして傲慢なのです。

日本では家元とか名人とされる人々に会ったことがあるという方も多いでしょう。
おそらくその謙虚さ、フレンドリーさ、ユーモアのセンスに驚くという印象を持たれる方が多いのではないでしょうか。
一言で言えば、「爽やか」です(達人の持つ爽やかさについては、また別に考えます)。
少なくとも、私が出会った、数名の方々に関してはそうでした。傲慢な方など一人もいません。

ところが、海外にはいるんですね。
ちょっと滑稽な大師範が。
おそらく、学歴とか社会的なステータスとかといった点であまり高い自己評価を得られなかった方が、生け花を少しかじって、突然、偉くなったような気分になるのではないでしょうか(どうしてそういうことになるかというと、それは日本文化が海外において特別な存在だから。ここは面白い点ですからいつかもっと詳しくお話ししましょう)。

そういう方々も生け花の流派にとっては有用でしょうから、特にあれこれ言うつもりはありません。役職を与え、きちんと仕事をこなしてくれればいいわけでしょう。

有害になるのは、彼らが他の人をコントロールしようとしだす時。
時に、生け花のテクニック以上にいじめのテクニックに秀でているなどということになると周囲は迷惑です。

おそらく、戦後、海外で生け花を指導する日本人も多かったはずです。その大部分は女性だったでしょう。英語力その他様々な制約があり、「おかしいな」と思うことがあっても、なかなかはっきりものを言う方は少なかったのではないでしょうか。日本人としての、花道家としてのたしなみもあるはずです。昨今、世界を見渡しても、無礼で遠慮のないのは私くらいでしょう。

最近、私が英文で短い注意書きを書いたところ、思いがけないほどの反響がありました。
http://www.shoso.com.au/2018/06/ikebana-competition.html
海外における怪しいマスターの特徴として、
生け花を神秘化する
いつも腹を立てていて、他人を中傷する
実力主義のコンクールを嫌う
などと言う点を、冗談半分で書いたのです。

こういった権威的な方々のために、苦労している方が多いのではないでしょうか。
モヤモヤがスッキリしたというようなコメントもありました。

だからと言って、こういう方々に対抗しようとか、成敗しようとか
そんな苦労をするつもりはありません。
今以上に敵を作る必要はないのです。

ただ、私にできることは、そういうマスターは真物じゃないかもしれないよ、と諭すだけ。それで十分ではないかと思います。

そして、当然のことですが、私自身、マスターなどと自称しないようにと心がけています。ところが、様々な機会に紹介される際、生け花マスターと言われるのです。宣伝ですから仕方ないのですが、その度に訂正しています。

Shoso Shimbo

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