華道家 新保逍滄

2019年2月15日

2019年2月13日

一日一華:レストランに



メルボルンの日本レストラン、花菱さんへ生けた作品。

間も無くメルボルン・リサイタル・センターで
生け花パフォーマンスを行います。

本番に向けての練習という気持ちで参加を決めたのですが、
会場としてはメルボルンでも最高でしょうから、
どうもこれ以上の本番があり得るのか、と。

音楽担当の方の本気度は大変なものです。
ともかく楽しまなくては。

27 February 2019: The Way of the Flower - Ikebana performance with live music. Melbourne Recital Centre. Please book early. http://bit.ly/FlowerWay

2019年2月12日

メルボルン花展出展者公募、まもなく開始


数年来、メルボルンで続けているグループ展、和:生け花展ですが、毎年、予想以上の人出があり、好評をいただいています。
もしかしたら日本からも参加ご希望の方があるかもしれない!と思い立ち、
出展者を公募することになりました。
いらっしゃっていただけたら、本当にありがたいですね。
生け花を紹介するには最高の機会になります。
間も無く受付を開始します。

和:メルボルン生け花フェスティバル
https://waikebana.blogspot.com/



2019年2月9日

2019年1月30日

環境芸術における美学と倫理


環境芸術においては倫理の問題が重要になってきます。

つまり、どんなに美しい作品であれ,
倫理的でなければ(すなわち、環境破壊の要素を含んでいれば)、
環境芸術として成り立たない、
環境芸術における美学も損なわれる、ということです。

生け花についても同様の問題が生まれてくるでしょう。

さて、倫理!ですが、これがなかなか難しい。
特に環境芸術における倫理となると、確固としたものではない、
変化するということが一層問題を難しくしています。

新しい知識がもたらされることで、ガラリと認識が変わってしまうことがあります。

例えば、豪州クーインズランド大学のTed Nannicelli は、The Interaction of Ethics and Aesthetics in Environmental Art (2018)という論文で、ヘリウムガスの入った風船を空に飛ばす環境芸術作品について、環境への負担が少ない、倫理上問題なく、美学を損なうことがない作品の例である、としています。

ところが、空に飛ばされた風船はやがて海に落ち、野生動物がクラゲと間違えて食べてしまうということが分かってきました。その結果、死んでしまう野生動物が多い。そこで最近は風船を飛ばすことをやめようという環境保護キャンペーンが起こっています。風船はピンで穴を開け、ゴミ箱へ(Pin it, Bin it)、というようなメッセージを発しています。

この新しい知識を持って、Nannicelliのあげた例を見直すと、
これはだめじゃないか、となるわけです。

私たちの環境倫理が今、非常な勢いで変化している、
成長しているように思います。

2019年1月20日

生け花における美学と倫理


美と倫理は関係があるのか?
西洋芸術の論者は哲学好きですから、こうした問題もよく議論されます。

芸術至上主義などという言葉が日本ではあるようです。
おそらくオスカー・ワイルドの一部の代表作などを評するのに使われる立場でしょうか。
つまり、美に倫理はあまり関係ないという立場でしょう。
そういう立場は、モダンから現代芸術においても、強いように思います。

おそらく(というのは私の専門分野でないので、自信はないのです)
モダン以前、芸術は倫理に強く影響されていたと言えるでしょう。
しかし、モダン以降の芸術には芸術を倫理から解放するのだ、という志向があったのではないでしょうか。

ところが、環境芸術においては少し異なります。
倫理の問題が重要になってきているのです。

それが非常に複雑な問題を抱えています。

さらに、美と倫理の問題は、生け花においても問題になってくると思います。

現代芸術と生け花の接点に、環境芸術の一つの可能性があるのではないか。
環境芸術における倫理の問題は、宗教性、精神性の問題にも関わってくるのではないか。

続きはまたいつか。

2019年1月11日

2018年12月29日

生け花と捕鯨(1)


日本が国際捕鯨委員会を脱退するということです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181228-00059221-gendaibiz-pol
残念ながら国際社会において日本側の論理、言い分は全く説得力がありません。
国際社会、ことに先進国の間で嫌われ者になり、
国益を損ねることになるでしょう。

捕鯨については以前にもこのブログで書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_9.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_10.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/nhk.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_16.html

なぜ捕鯨論争で日本に勝ち目がないのか、上のポストに私の意見も書いています。
要は、国際社会では環境に対する態度においてパラダイム・シフトが起こってしまっています。「日本の捕鯨文化を認めろ、認めないお前が悪い」という主張は、相手に改宗を迫るようなもの。そう、これは宗教問題のようなもの、と思ったほうがいいでしょう。何世紀にもわたる宗教戦争でおびただしい数の犠牲者を出してきた歴史を持つ国々を相手に、「改宗しろ」と迫ることの無謀を悟ることも必要かもしれません。

捕鯨問題が生け花と何の関係があるの?と思われるかもしれませんが、
私の中では両者は大いに関係があります。

少し長い話になるかもしれません。
できるだけはしおってまとめておきます。
いつかきちんと書き直すことになるかもしれません。
覚書きとして書いておきます。

まず、先に「遊びとしての生け花(1)(2)」として、
考えたことをもう少し掘り下げておきます。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_78.html

日本の花道史の中で、集約と拡散という対立する方向性のある動きが繰り返し起こってきたということを指摘しました。

集約/拡散というのは少々曖昧な表現です。

おそらくもっと適当な言葉で言い換えられるでしょう。
集約は、制度化、構築化、格式化、規格化とか。吉本隆明なら、共同幻想と言うかもしれません(違っていたらすみません)。
拡散は、脱制度化とか。坂口安吾なら、堕落と言うかもしれません(違っていたらすみません)。

昭和初期、生け花における自由花の派生、重森三玲による「新興いけばな宣言」(1930)は、日本花道史における格花に対する拡散への志向と考えられる、と説明しました。

しかし、実は、そのように捉えるだけでは、不十分です。
世界史的な視点からも考えなければいけません。

現代の生け花のあり方にも多大な影響を与えている重森三玲や勅使河原蒼風(草月流創始者)の生け花改革は、西洋モダニズムの導入でもありました。

それは資本主義と一体となり、世界に広がった世界観。

重森三玲は生け花において「植物はもっとも重要なる素材であるのみである」と言いました。生け花は「芸術」になり、自己を表現するものとなったのです(道であったものが、「芸術」に成り下がったと言えるかもしれない)。そして、花は自己表現の材料でしかない、道義的観念、宗教的訓話などとは無関係だとしたのです。草月流、小原流など、重森の影響を受け、戦後日本で急速に拡大した花道流派の根本にはこうしたモダニズムの考え方があります。

高度経済成長の価値観とぴったりの考え方なのです。

その世界観の特長は、ピカソの言葉に端的に現れています。
ピカソといえば、モダン芸術のチャンピオンの一人。
彼が自然について語った言葉をアンドレ・モーローが伝えています。

Obviously, nature has to exist so that we may rape it!
(分かりきったことだが、自然ってのは俺たちに強姦されるように存在しているんだ)

自然は客観的な対象であり、人間のために存在する資源でしかないということでしょう。
列強が弱い国々を植民地化したように、人類が自然を植民地化して何が悪い。
鯨を必要に応じて殺して何が悪い、ということになるわけです。
花など自己表現の材料でしかない、切ろうが曲げようが好きにして構わないではないか。花がかわいそうだなんて言うんじゃないよ、と。

捕鯨推進派の自然観と、戦後拡大した花道流派の自然観は深いところで重なっているようです。

この話は以下で示唆した、新しい生け花のあり方を探る必要があるのではないか、というところへつながっていきます。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_26.html

2018年12月24日

生け花における芸術とポルノ(1)


先頃、ある花道家のデモンストレーションを拝見しました。

そのデモの主催者側の方に感想を尋ねられたので、次のように答えました。
「初心者を対象にしたデモだから、あのような内容になったのでしょう。
もちろん、見事でしたし、勉強になりました。
でも、あの方の実力をギリギリのところで発揮したものではなかったですね。
本当はもっとすごいことができる方なんですがね」

もちろん、批判などするつもりは一切ありません。
楽しませんていただいたのですから。
私などとても及ばないレベルの方です。

でも、私の本音の一部がポロリと出てしまいました。
生意気なヤツだと思われていないといいのですが。

それはともかく、自分の感じたことから疑問が膨らんできています。
もちろん、今回、デモをして下さった方のことを離れて、です。

もしかすると、花道家の中には、以前は力のこもった、それこそ「芸術」という言葉が相応しいような作品を作っていたのに、今はもう作れなくなった、という方もあるのではないでしょうか?

以前はこんなではなかったのに、今は、綺麗で商業的には好評だろうけど、はっきり言ってつまらない作品ばかりになってしまったというようなことが、あるのではないでしょうか?

それにもかかわらず、本当はこんなではないはず。
少し手を抜いているだけだろう、何か事情があるのだろう。
本当は内に変わらない芸術力を持ち続けているのだろうなどと、寛容な見方をしているのではないでしょうか?

そのようなある種、優しさのようなものが生け花の世界にはあるのではないでしょうか?
それを「ぬるま湯」などと言ってしまうと、厳しい批判のように聞こえるでしょうね。
それがいいとか悪いとかということとは別の話になります。
ただ、生け花の世界にはそうしたゆるい部分がある、と思うのです。

別の領域だったらどうでしょう?
「こいつはもう力を失った、だめだ」などとすぐに切り捨てられてしまうこともあるのです。芸術の世界は通常、そのくらいに厳しいものです。

例えば、文学。
芥川賞を取るくらいの方が、ポルノ小説に転向するということが時折あります。
もちろん、それは簡単に断じるべきではないでしょうが、
純文学に挫折したという見方が大方でしょう(註1)。

そして、ポルノを書き出した作家に対し、本当は内に純文学を書く力があるのだ、とか、いつかまた純文学の大傑作を書くだろうとは、もう誰も思わないでしょう。

つまり、生け花においても純文学からポルノに転向してしまうという方があってもおかしくないのです。もしかすると、そういう方はもう純文学(つまり、芸術としての生け花)に戻る力はなくなっているのかもしれないのです(註2)。

生け花をとりまくゆるい状況に心地よく浸っているだけでなく、
芸術として、生け花を厳しく見ていくということもあっていいのかもしれません。

(註1)ポルノか文学か、ポルノか芸術か、ということに関しては多大な議論があることを承知しています。私は単純にポルノを見下すつもりはありません。
(註2)純文学/ポルノという対立項は、ちょっと誤解を招き安い上に、例として、生け花の状況をあまり適切に捉えられないですね。純文学/大衆文学という対立項で、今回考えた問題を別の観点からいつか考え直してみます。

2018年12月23日

作品集出版に向けて(1)


2019年のクリマスの頃、作品集を自費出版しようかな、と考えています。

問題はいろいろありますが最大のものは費用。
ある出版社に問い合わせたところ、500部で280万円くらい。
安くはないだろうと覚悟していましたが、ここまでとは。

さらに、たとえ本が売れたとしても、1冊につき定価の55%は
出版社の取り分となります。

それだけ出費をする意義があるのだろうか。
ここを考えているところです。

私のお金を使うつもりですが、家内にも相談しないといけない額です。
「意義?そんなものあるわけないじゃない。お金が出て行くだけ。
それでもやらなきゃいけないことってあるでしょう。
あなた自身、きっと嬉しいはず。
だったら、やっていいのよ。
ママがたくさん買ってくれるわ」

彼女は私と全く異質な人間だとよく思いますが、
お金に関しては特にそう思います。

家内の応援にもかかわらず、
自費出版する意義があるのだろうか、と考え続けています。
一体何のために?

2018年12月16日

2018年12月10日

背伸びしすぎる生け花(1)


生け花は日本の伝統芸術のひとつ。
この点では多くの方が賛同してくださるでしょう。

しかし、他の芸術、芸能と比べて背伸びしすぎではないでしょうか?

もしそうだとすると、そこには生け花の特殊性があるように思います。
例えば、音楽、和太鼓とか三味線とか、海外でも人気です。
例えば、陶芸、木工、板画、日本画、能、盆栽などと比べてみてください。

こうした分野で修行をして、先生になったとします。
そうすると師匠とか先生とか言われるようになるでしょうが、
「教授」などという大それたタイトルを使うところはあまりないでしょう。

国内ならともかく海外では少し困ります。
英訳するとプロフェッサーですから。
プロフェッサーと言ったら、通常、大学の先生。
博士号取得は普通、国際的な著作が数十点と言うレベルです。
通常、論文一つ書いたことがない専業主婦が片手間で手にできるタイトルではありません(例外があるかもしれませんが)。
ですから、海外では、花道で「教授」というタイトルをもらっても名刺にプロフェッサーとはなかなか書けない、そこまで傲慢にはなれないという方は多いものです。

(ただ、次のような可能性も考えられます。つまり、教授というタイトルを生け花界が先に使用していて、それを学制が整うにつれ、学校制度の方が拝借したということなのかもしれません。とすれば、生け花界の方こそ迷惑を被っているのかもしれません)

また、「芸術だ、芸術だ」とことさら主張するのも生け花の特徴です。
陶芸家などには「クラフト(工芸)でたくさん。芸術なんて言わんでくれよ」
などと謙虚な方が多いものです。

なぜ生け花がこういうことになったのか。

かつては(戦前あたりでしょうか)料理、生け花、裁縫と、主婦の3つの必修技能のひとつでしかなったのです。
それが、芸術となり、街のお師匠さんが芸術家、あるいは「教授」になり、
ということになったのですね。

どうしてそうなったのか、
どのようにしてそれが可能だったのか、
そして、その弊害は何か(そう、弊害が生じていると思います!)。
生け花の歴史を勉強すると少しずつ分かってきます。

その辺もいずれお話しします。
しかし、あまりはっきり話すと今以上に敵を作りそうな話題なので、
注意しながら、気の向いた時に続きを書きます。

2018年12月4日

遊びとしての生け花(2)


前回の話の続きです。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html

道としての生け花
遊びとしての生け花

とても大雑把に言ってしまうと、上記、2つの態度が生け花にはあるように思います。
もちろん、前回考えたように、どちらも大切なアプローチ。

この対立は、よく考えてみると、華道史の中で繰り返し現れる対立や論争の根本にも関係してくるように思います。つまり、これら歴史上の対立する立場をどんどん還元していくと、根本に花は修行なのか、遊びなのか、という方向性の相違に行き着くように思います。仮にこの方向性の違いを集中/拡散という二項対立として捉えてみましょう。

この辺は私のお得意の仮説なのですが。

例えば、千利休が花は野にあるようにと茶花のエッセンスを主張しました。
これは当時の立華に対抗する投げ入れ花の主張だったと思います。
立華の集中性に対する、投げ入れの拡散性の主張と解釈できます。

つまり、千利休の言葉をその言葉だけから解釈するのでは、その真意はつかめません。その言葉がどのような文脈(歴史的、社会的)で発せられたのか、と考え、そこにある一種の攻撃性も踏まえて解釈すべきでしょう。

また、勅使河原蒼風らの自由花運動、前衛花運動は、格花などの定式化された様式の持つ集中性への対抗として拡散性を主張していると言えそうです。

さらに、生け花コンクールにむやみに抗議してくる人の言い分を聞いていると、そこには拡散性を否定する集中性への志向が伺えます(https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_19.html)。
つまり、コンクールなどという遊びの要素(拡散性)を否定したい、道(集中性)の主張と解釈できるわけです。

いずれにせよ、華道史を見ると、集中性が高まると、反動として拡散への動きが興る、そして、拡散は集中から批判される、ということが繰り返されているように思います。

この対立はどこに落ち着くのでしょうか。

遊びとしての生け花 (1)


生け花への態度について。

生け花は修行だ、道だ。日々鍛錬、精進して、高い境地を目指すもの、という考え方もあると思います。

また、一方、楽しいからやるんだ。花をいけること自体、単純に面白い。余暇にやっているから続く、そういう態度もあるでしょう。

私は前者の考え方に惹かれてきました。

生徒にももっと頑張りなさい、昇級しなさい、教える機会があれば教えなさい、機会を作ってあげるから展覧会に出品しなさい、コンクールがあるから参加しなさい、という具合で生徒を鼓舞してきました。それはそれ。
生徒は増えてきていますから、賛同してくれる生徒が多いのでしょう。

しかし、後者の立場も気になっています。

この立場にはいろいろなパターンがあります。
どの流派にも関わらず自己流でやっていく方。
あるいは流派を離脱して活動する方。
また、流派に一応所属はするけれど、マイペース。
特に昇級を目指すわけでもなく、
師範になることにさほど魅力も感じない。
誰が上手だなどということにもさほど関心はない。
花を通して人生を語ることもない。

でも、花をいけることは楽しい。
自分の人生を精神的に豊かにしてくれる。
だからやめられない、疲れない、息抜きになる、癒しになる。
このような花との関わり方も大切にすべきだろうと思います。

高い境地、深い洞察、それらを体得する喜びだけが生け花の目的ではないでしょう。遊びでやってもいいはずです。ゆる〜く花と関わっていくのもいいと思います。花をいけることには遊びの要素もあるわけですから、その楽しさを大切にしていいはずです。

ゆる〜いアプローチから味のある花、魅力的な活け手も生まれてくる可能性があるように思います。

もしかすると、どちらのアプローチであれ、突き詰めていけば(ここが大切なところでしょうが)、最終的に到達できるところは案外近いのではないか、とも思っています。

Shoso Shimbo

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