華道家 新保逍滄

2017年4月25日

21世紀的いけ花考 第57回


 日本文化の本質は禅だとして説明するとウケがいいですね。分かり易いのです。禅にはすぐれた解説書、入門書がたくさんあります。「そうだと思ったんだよ」という反応になり易い。それで日本文化が分かった気になるわけです。しかし、少し考えると疑問点がたくさん出てきます。

1、禅宗は日本仏教の中で必ずしも大勢力ではない。日本の仏教で最大数の信徒を有するのはおそらく浄土真宗でしょう。日蓮宗系も大勢力です。なのになぜ禅が日本文化の代表のように言われるのか?

2、いけ花も禅と関連させて語られることが多いですね。鎌倉時代に成立した臨済、曹洞を主要なものとする禅が、室町期に成立し、今日にまで伝わる日本的な文化、茶、いけ花、能などに影響を与えた、と。日本中世に権力を握った武士階級で禅が流行ったということでしょう。
 ところが、日本国内におけるいけ花の最大流派は池坊。池坊は禅宗ではなく、天台宗。禅も天台仏教に含まれるという面はありますが。この辺りの問題は、私の独断的「いけ花における二極構造論」に関連していますが、それは別の機会に。ともかくいけ花は禅文化と言い切るのは証拠不十分では?

3、メルボルンの中国の禅寺を見て驚いたことがあります。中国の禅寺は実物を見たことがないので、間違っているかもしれないですが、私の第一印象は「美意識が違う」。清浄さ、侘び、簡素さといったいわゆる禅的なものが感じられないのです。もちろん個人的な印象でしかないですが。禅が日本的美意識に結びつくと言い切っていいものか?では、私の言う禅的な美意識とはどこにあるのか?日本の禅寺を除けば、最も顕著なのは神社です。日本の禅寺の清浄さは禅というより神道の影響ではないでしょうか?

 そろそろ字数制限ですので、今回はここら辺で。次回は日本文化(いけ花を含めて)は禅文化だという一般的な見解に対する素朴な疑問をもう少し積み重ねていきます。そして、一つの素人の仮説にたどり着こうと思います。 

 今月の作品はフィッツロイのちょっとさんへ生けたもの。とても人気だと連絡をいただきました。商業花ではシンプルなデザインを生かしたほうがいい場合が多いようです。
 
4月には環境芸術といけ花について日本の大学や国際学会で話す予定です。また、29日にはサウス・メルボルンのMade in Japanでいけ花デモンストレーションを行う予定です。5月27日にはちょっとでワークショップも開催予定。ご都合がつきましたら是非お越し下さい。

2017年4月23日

一日一華:庭の草花で


水引とブーゲンビリア。
どちらも我が家の庭から採ったもの。

2年ぶりの日本滞在は、3週間ほどでした。
国際会議で、また日本のある私立大学で生け花について話してきました。
どちらも英語でしたが、日本の大学生には、少々、辛かったでしょうか。
初めての大学でしたから、不案内。
多数の方からお世話になりつつ、学内をうろうろしてしまいましたが、
学生も、図書館スタッフもとても親切で助かりました。

日本人学生には、英語だけでは難しいかなということで
時折、日本語で雑談を挟みました。
なぜ、私に大小、様々な仕事が次々来るのか?
それは私が締め切り期限を破ったことがないからなんです、と。
お金を頂いて、期限を決めたら、
私は逃げません。徹夜でもなんでもしてやり遂げます。
ところが、お金をいただいていながら、
ああだ、こうだと理由をつけて、仕事を未完で放り出したり、
逃げ出すアーティストも多いのだと言うと、

そんな無責任なこと、自分だってしないさ。
当たり前じゃないか。やり遂げるさ。
という顔の学生たち。
ほぼ全員がそうでした。

でも、数十人の学生のなかには、
おそらく何人かは逃げ出す人が出てくるのではないでしょうか。

芸術制作過程は絶壁と向き合うような時間が続くわけで、
なかなか苦しいのです。
本当に逃げたくます。

困難に向き合うか、逃げるか。
それは実はいろいろな場面で、私たちは日々経験しているのです。

例えば、私の講義に出席した学生にとっては、
私の英語の講義にかじりついて、ついてくるか、
もしかすると専攻に直接関係ないのかもしれませんが、
何か学べることがあるかもしれない、と頑張るか。
あるいは、「難しい」と居眠りしたり、おしゃべりしたり。
実際、ちらほらそんな学生が見受けられましたが。
そういう人は、つまり、逃げているわけです。
もちろん、あれやこれや理由や言い訳があるのは承知しています。
私の話がつまらんということも当然あるでしょう。
しかし、そういう人が芸術制作現場のような厳しい現実に直面した場合、やはり逃げ出すのではないでしょうか。私にはそう思えます。

もちろん、逃げたからといって、
それで人生が終わるわけではないでしょう。
人生は続きます。

ただ、逃げるか逃げないかという日々の決断の集積。
それは、おそらく全く別の場所へ私たちを導くことになるでしょう。

2017年3月21日

一日一華:レセプションに。英語プレゼン対策


間も無く国際学会で英語でプレゼンテーション。
何度か失敗してきました。
また、何度か他の人のうまくいっていない発表にも付き合わされてきました。

日本語なら楽ですね。
かなり気楽に、論理的に、深く、話せるように思います。

しかし、英語となると
私たちのようなノン・ネイティブの英語話者は
一工夫必要であるように思います。

もちろん、英語が達者な方には不要なアドバイスかもしれませんが。

まず、読む原稿を用意する。そう、読めばいいのです。
発表の内容がずっと深くなります。

そのことに気づいたのは、アメリカのある著名大学の教授の発表でした。
もちろんネイティブの方でしたが、原稿を読み続けながらも
きちんと聴衆とやりとりできるのです。

私のプレゼンは25分。私の対策はこうです。

英文約500語を読むと約4分。
それを1段落とします。

発表の内容を5段落に分けます。今回は環境芸術と生け花の関連について。

1、環境芸術の定義
2、環境芸術の歴史
3、環境芸術の分類
4、日本的美意識と環境美学
5、自作について

それぞれ500語。4分づつで20分。
最後の5分で質疑応答。

本当は上記4、5を中心とすべきですが、
私にとってはまだ新しいトピックなので前置きが長くなります。

まあ、500語くらいですと、書くのもさほど難しくない。
パワーポイントも用意しておけば、なんとかなるでしょう。

これで実際にうまくいったら
この方法を英語の発表で苦労されている方々、院生にもお勧めしたいです。

日本人の英語の発表はうまくいっていない方がとても多いです。
中にはパワーポイントも用意ぜず、原稿も用意せず
演壇に立つ方があります。
おまけにひどい英語ですから、自滅行為。
聴衆が次々席を立って、半分以下になったという発表を聞いたことがあります。
ところが、本人は全く意に介していない。
「なかなか好評であった」と。

学会、講演で目指すもの、根本の動機が違うのでしょう。

私の場合は、自分の研究が止まってしまわないように、
外から強制してくれる機会として、学会参加や論文発表を捉えています。
大学に所属していれば、そういう強制はあるのでしょうが、
離れてしまうと研究を持続させることはなかなか難しくなりますから。

2017年3月20日

2017年3月9日

21世紀的いけ花考 第56回


「生け花は精神修養だ」という説明は便利です。しかし、どうしてそう言えるの?と尋ねられると、とたんに説明は難しくなります。どうして生け花の修行という観察可能な行為が、精神的な向上という観察不可能な境地につながるのか。それをどう証明するか。難問です。瞑想や禅と同様、修行の時間を積み重ねることで、精神が変化していくのだ、ということにはなりそうですが。

 まず、思い当たるのは、文化人類学が通過儀礼をうまく説明している事例です。似たような研究方法である程度解明できるかもしれません。それに近い研究の一例として、現象学の方法を用いた社会心理学の研究があります。生け花の経験の長い方が、幸福感が大きいというようなことを実証しています(新保著、Ikebana in English: Bibliographycal Essay 参照)。

 また、生け花の修行を禅の修行にたとえることもできるでしょう。禅には「十牛図」というのがあって、禅を通じて悟りに至る過程を、段階的に十の図で解説しています。散歩していると、牛のしっぽがちらりと見えるのです。気になりますね。ちらりですから。牛とは悟りのたとえ。やがて、修行を重ねると、牛に触れ、ついには牛を捕まえることになります。悟りを摑むわけです。しかし、なんと、そこで終わりではないのです。さらに、その後、牛がとても不思議なことになります。このたとえ話は魅力的ですから、解説書がたくさんあります。私は上田閑照の「十牛図を歩む」が面白いと思います。

 ここで提出された悟りに至るモデルに合わせて、生け花の修行を段階的に説明することも可能でしょう。おそらく最も効果的に生け花と精神性の結び付きを説明できるはずです。かなり大変な作業でありますが。私自身、スケッチ程度のエッセーを試みたことがあります。

 しかし、私は、ここで妙な気持ちになります。確かに生け花を禅に結びつければ、話は分りやすい。おそらく最もきちんとした議論が成り立つアプローチでしょう。

 でも、どうして禅なのでしょう?日本文化即禅文化論は不都合な何かを隠していないでしょうか?禅は日本の多様な精神文化の一要素でしかありません。室町時代に日本的文化が花開いた。それに影響を与えたのが禅だ、というのが通説のようですが、この辺りを再考する必要があるように思います。


 今月紹介するのは結婚式のテーブルアレンジメント。ピンクとバーゲンディで統一ということでしたが、花材が揃わず苦労しました。しかし、クライアントの希望以上の仕上がりで、喜んでいただけました。
参照:
Shoso Shimbo, Ikebana in English: Bibliographical Essay, 
https://independent.academia.edu/ShosoShimbo  

2017年3月6日

一日一華:レセプションに


クリニックのレセプションに。

道路の端に捨ててあった百日紅を整理してみると
面白い枝があらわれましたので、使ってみました。

この写真は作品を横から見たもの。

最近、メルボルン市主催の水に関する学会に参加してきました。
とても有意義でした。

アボリジニの人たちと話したり、会議の後、飲んだりできたのも楽しかったです。
彼らの自然への畏敬。
自然観。
それは日本人が古来保持してきた神道的なものととてもよく似ているようです。


おそらく、神道というとてつもなく古い信仰が、
アボリジナルの宗教観と共通しているというのは
あり得ることでしょう。

キリスト教が圧巻する以前の古代世界には
自然に対する態度で、共通する部分が多かったのでしょう。












2017年2月28日

一日一華:現代芸術が分かった


メルボルンのチョットさんへ。

あ、そうか。
現代芸術が分かった、と感じたことがありました。
それは、あれこれ考えていた時のひらめき。
勘違いだった、という事もあるかもしれませんが。

現代芸術の本質というか、基本的な性格。
以下の違いを示された時、あ、そうか!と。
いけ花とは全く違うのですね。

Art as Commodity / Art as Service

前者が現代芸術の基本的なあり方。
後者はランドアートから環境芸術への系譜で
育ってきた考え方。

間も無く環境芸術について日本で話す予定です。


Shoso will present a paper on the history of Environmental Art at the International Academic Forum in Kobe, Japan in March 2017.  

2017年2月19日

2017年2月16日

一日一華:芸術と解釈と(2)


アストロメリア。
いろいろな使い方のできる楽しい花材です。

また、覚書です。
後でもっと考えられるよう、
思いついたことをメモしておきます。

先に、小説は無限の意味を生産する一つの生きた世界だ、というようなことをお話ししました。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post.html
そういう主張があるということです。
上質の小説とはそいうものだろう、と私は共感します。

では、現代芸術では、どうか?
おそらくそうはならないでしょう。
意味が無限に読み取れるというような作品はあったとしても、とても少ないか、
あるいは、現代「芸術」の範疇に入らないか、だと思います。

前者の例としては、デシャンの幾つかのほとんど意味不明な(と私には思える)作品などがあるでしょう。

後者の例はたくさんあります。現代芸術の定義、コンテクストを無視して作者が好きなように制作すれば、ほとんどが後者になることでしょう。

現代芸術では、むしろ意味を特定していく傾向があるようです。
つまり、無限に意味を生産するというより、
特定の意味が生産できれば良い、無意味であればお話にならない、ということ。

作品に意味を持たせること。
それも特定の意味。
作者が独自に求める、例えば「人生の意味」などではなく、
現代芸術で話題になっている、言わば流行している意味。
評者にわかる意味を伝達できるか否か。
そこが作品の命です。

私のような不明の者には、まるで流行の哲学というファッションを追いかけているだけのようにも見えてきます。追従ばかりじゃないか、と。

それでも、作者の立場では、ではどうしたら作品は意味を持つのか?
これが大事な問いになります。

一つのヒントはアプロプリエーション。
そのストラテジーを駆使する著名アーティストの一人が、Jeff Koons。
とてもわかりやすい例を示してくれています。

2017年2月9日

一日一華:生け花エッセイのご紹介


以前、雑誌に書いた生け花エッセイも公開します。
生け花と禅、生け花と神道について、あれこれ書いています。

2009 The Spiritual Power of Flowers: Ikebana and Shinto, Dare to Dream, Issue 5,    
         pp.26-29.

2007 The Ten Virtues of Ikebana: Ikebana and Zen, Living Now, September to   
         December.

雑誌に書いたエッセイ、学術誌に書いた論文も主なものをまとめてみました。
生け花に関する議論も少しづつですが、増えてきているようです。
私の書いたものに対するメッセージ、引用・転載依頼、問い合わせなども増えてきましたので、一層議論が盛んになることを願って。
少しでもお役に立てればありがたいことです。




2017年2月8日

一日一華:いけ花上達のコツ(1)


メルボルンの花菱レストランにて。

いけ花上達のコツについて思うところがありましたので
覚え書きとして。

いけ花上達のコツとか、秘訣などというのは、相当な実績ある先生でないと書いたり、話したりできない内容だと思います。

私のような修行中の者がおこがましい。
私の生け花指導歴はたかだか20年ほどでしょうか。
傲慢と思われても仕方ないでしょう。
それは承知の上で。

まず、この生徒は伸びないだろうな、そのうち諦めるだろうな、
という、少々がっかりな生徒の特徴から話しましょう。

私のクラスでは、まず、作品を仕上げてもらいます。
そこで、個別アドバイス。
外国人相手ですから、具体的でないと納得してくれません。
さらに、指示内容の理由まで説明しないといけません。
「弱い」「重い」「うるさい」
なんていう抽象的なアドバイスでは生徒は満足しません。
「いいですね」と言っても、それだけでは苦情が出ます。

外国人相手の先生は日本人だけを教えている先生より
おそらく苦労していると思います。
その分、教師として力がつくのではないかと思います。
(もちろん日本人を教える際の独特の苦労もあることでしょうが。)

「この作品の真ん中に太い線が走っているね。これは強すぎると思う。生け花というのは中心を強調しすぎると、流動性が無くなる。もっと不安定で、生き生きした感じを出した方が面白いと思うから、この線、やり直そうよ」
というような具合になります。

場合によっては、何度もやり直しを要求します。
そこで諦めてしまうか、食いついてくるか。
要はその違いです。
上達できるか否かの分岐点。

「もうこれ以上、だめです」なんていうのはまだいい方です。
自分の限界を感じているのです。大切なことです。

そうではなくて、もう投げ出してしまう感じ。
これが困るのです。
今日は疲れているし、
自分で満足しているからアドバイスなどもう不要。

あるいは、先生はこう言うが、自作の意図はこれこれである。
よって、今日はこれでいいのだ、とか。
自己の作品を正当化。
おそらく日本人にはあまり見受けられない態度だろうと思うのですが。

一言で言えば、真剣さに欠ける。
と、日本人の私には思えます。

もちろん、外国人生徒の全てがそうだということではないです。
ほとんどの生徒はとても熱心です。
ごく少数の生徒ですが、私の期待する真剣さに欠けるということ。
でも、いい人達です。
ありがたいなとよく思います。私のクラスの雰囲気はとてもいいです。
もしかするとこうしたちょっとイージーな人たちがいい雰囲気を作ってくれているのかもしれません。そう思うと大切な生徒ですね。

この点、日本人の生徒は違います。

(私にも数人日本人の生徒がようやくついてきてくれるようになりました。もっと若い頃から教えていましたが、以前は日本人には相手にされませんでした。実力も、風格もない。当然でしょう。)

日本人が生け花が上達するのは当然です。
真面目なのです。

外国人が不真面目というのではないですが、
学ぶということに対する態度の違い。
(繰り返しますが、すべての外国人がそうだというのではないのです。真剣さが必要な習い事だと、理解している人も多数います。)

この違いを理解し、忍耐を身につけ、
妥協したり、甘んじたりする傾向を乗り越えられないと、
いけ花の本当のところは分からないでしょう。
本当には上達しないでしょう。

とすると、生け花が人間修養ということの意味も、私なりに分かってきます。

生け花を学ぶことが人格を高めるということは、
よく言われますが、それは正確な表現ではないのかもしれないですね。
では、どう言い換えたらいいのか。
それはまた、次回としましょう。
そのうち続きを書きます。

2017年2月6日

21世紀的いけ花考 第55回

 

 前回は、「生け花は芸術かデザインか」などと議論するより、日本独特の精神修養、瞑想あるいは宗教の一種だと、説明してしまってはどうか、という話でした。西洋的な物差しを離れてみてはどうかということです。

 この話を進める前に、確認しておきたいことがあります。日本の生け花は明治以降西洋文化の影響を受けて大きく発展しています。最初は西洋花の型を取り込み、やがて西洋モダン芸術の考え方(その表層的な部分)を吸収し、自由花が発展します。戦後、「生け花は芸術だ」という宣伝が効して、生け花人口が爆発的に拡大しました。

 本家の西洋芸術は常に進化、発展しています。分家の日本の「芸術」、生け花は、実は本家とは全く別の発展をしているのです。分家が「これは芸術」だと言っても、本家は「それは芸術とは言えないなあ」という事態になっています。この問題についてはまたいつか触れることがあるでしょう。西洋的な物差しを離れるということは、「芸術」としての生け花論という興味深い問題をひとまず置いておきましょうということです。

 さて、「生け花は精神修養だよ」と言っても、相手がすんなり分かってくれるとは限りません。日本人にはすぐ理解できる点が理解してもらえない。まず、芸道の理解が難しい。先に技術さえあれば描ける花の絵(ことに印象派以前)などは高尚な芸術とは見なさないという態度が西洋芸術にはあるということを指摘しましたね。ところが生け花の修行といったら多くは技術の鍛錬。ですから西洋芸術風の解釈をすれば、生け花など低俗なクラフトともなりかねない。

 しかし、日本では花道であり、人間修養だということになる。実は、これも簡単に納得してはいけない点です。技術を尊重するというのはいいでしょう。しかし、それがなぜ精神性の獲得につながるのか?技術の鍛錬とは空間的で時間的です。客観的に観察も測定も可能です。ところが精神性とか悟りということになるとそれは時空を超えた領域の話。全く性質が異なるこの二者がどうして結びつくと言えるのか?哲学的な思考に慣れている人は簡単には納得してくれません。さてどうしたものか?

 今回紹介するのはあるクリニックのレセプションにいけた作品。オフィス等への週替わりの花も受け付けています。

 さて、今年は二月からRMIT Short Coursesでの「生け花から現代芸術へ」、さらに、フィッツロイ図書館でも入門講座を担当します。市内近辺でちょっと試しにやってみようかという方、歓迎です。いい出会いもあるでしょう。

www.shoso.com.au

2017年2月5日

一日一華:いけ花論文のご紹介


過去数年間に発表したいけ花論文をいくつか公開します。
いけ花研究の基礎的な文献紹介になっているのではないかと思います。
今後いけ花研究を目指す方に参考にしていただければ幸いです。
https://independent.academia.edu/ShosoShimbo





2017年2月2日

一日一華:レセプションに。芸術と解釈と(1)


ピンクのデルフィニウムです。
当地では珍しく、値段も普通の青いものに比べ2倍。
それでも使ってみたくなります。

医院のレセプションで、癒しをテーマにした作品を
というリクエストですので、ふさわしいでしょう。

さて、数日前、安倍公房のインタビューをYou Tubeで見ました。
小説とは何か、さらに、芸術とは何か、
芸術作品の解釈はどうあるべきか、などと
あれこれ考えてしまいました。

自分の小説が学校の教科書に載り、
この作品の主題、作者の意図を答えよというような問題が付いている。
あんなもの、答えられるわけがない!
自分でも答えられない。
答えられたなら、小説など書かずに、
その主題というやつを、自分の主張として発表するさ、
というような話でした。

さらに、小説とは地図のようなものだという指摘も私には面白い点でした。
私は地図が好きです。
まもなく初めて神戸に行く予定ですが、
行ったことのない土地の地図を眺めては
あれこれ想像するのはとても楽しみです。

小説が地図だということは、
そこから様々な意味が無限に読み取れるということです。
それが一つの生命体のように。
小説とは一つの生きた世界なのです。
無限の意味生産装置といえば味気ないですが。
作家はそれを創造し、提出するだけ。

それにもかかわらず、小説作品を評して、
「作者の意図」「作品の真実」
などとその意味を固定してしまうのは、
小説の命を奪う行為でしょう。
文芸評論家や学校の先生のやっていることは
そういう不毛なことなのです。

この解釈の問題は現代芸術のコンセプトを考える際にも気になる点です。
西洋現代芸術の特殊性はその辺にもあるのではないか。
さらに生け花ではこのような問題があるだろうか、
などと考えています。
続きはまた気が向いたときに。

ここで書いたことは覚え書き。
「21世紀的いけ花考」に、もう少しまとまった形で書いていきます。



2017年1月30日

一日一華:自宅玄関に。そして書くということ(3)


庭の草花や教室の残り物やらを集めて玄関の迎え花。

さて、エッセイ公募のお手伝いの体験談を書いてきました。

実は、今回、真っ先にボツにした作品があります。
作中、中傷かなと思われる点があったからです。
ある特定可能な人にこのように(批判と言っていいレベルの内容)言われた。
しかし、私はそうは思わない、とご自分の反論を展開する内容でした。

学術研究では、批判は当然。
他の論を批判した上で、持論を展開するのは常套手段。
批判なしでは、通常、学術論文とは言えません。
学問とは知的な格闘技なのです。

しかし、エッセイでは、どうでしょう?
相手が反論する手段もないですから、不適ではないか。

しかし、ボツにした後、なぜ、こうも中傷(はもとより、批判)を避けたがるのか、と考えてしまいました。

私自身、不条理な相手に反論するより、避けてしまいます。
そんなことにエネルギーを使いたくない、という理由です。

もしかするとこういう態度は日本人に割と多く共有されているのではないでしょうか。

ところが、それが政治的な状況となると、なかなか厄介です。

ご承知のように、最近、日本は近隣の国々からあれこれ言われています。
無茶だなあ。ここまで言うか。出来事を捏造してこちらを貶めるのか、
と思うことも多々あります。
さらに、日本のマスコミはそうした国々に近い立場の方が牛耳っているせいか、
反日思想の人々と一緒になって、不条理な声を一層煽る。

それでも爾来じっと黙って耐えてきたということではないでしょうか。
謝れと言われれば謝り、金を出せと言われれば金を出し。
反日、左翼の人々の嘘や捏造記事でこんな事態になっているということは
もう日本人には常識になっているのに、その事実さえ相手に、そして世界に発信しない。

相手と論争などしたくない、そんなことにエネルギーを使いたくない、
いつか分かってもらえるだろう、というようなことかもしれません。

しかし、ここにきて、「ちょっとおかしいよ」という声が多数出てきているようです。
それを右傾化などというのは早計です。
日本の左翼系の人はそうした批判をしやすいのですが、残念なことに彼らは勉強不足のために左翼的な日本の著名人、知識人、マスコミなどに洗脳されている状態であることが多いのです。きちんと自分で考えられる人は左翼になどなりませんし、一度、左翼の洗脳が解けると、二度とそこへ戻ることもないでしょう。おそらく右翼になることもないでしょう。ただ、常識的で現実的になるだけです。

「ちょっとおかしいよ」という声は、英語でも増えてきました。
英語で発言するのは重要です。

もちろん、相手の不条理、下劣さを批判すれば、反論があるでしょう。
愚劣な相手なら、誹謗中傷されることを覚悟しなければいけません。
それらに立ち向かう覚悟が必要です。
とてもエネルギーが必要なことです。
匿名で相手を批判だけして、逃げ去るということではないのです。
「ネットユーザーの声」などの多くは、こうした無責任で卑怯なもの。

多数の方が発言されていて、混乱するほどです。
最近、感心したのは以下の若い女性。
しかも、相手に反論するだけでなく、相手の意見も聞きますよ、ディベートしましょう!という態度をきちんと示している点は立派。

関連ポスト
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http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/08/blog-post_10.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_23.html

2017年1月19日

一日一華:カフェに。そして書くということ(2)


メルボルンの和食カフェ、ちょっとさんへ。
酒類ライセンス申請中ということですから、
もうすぐお酒も飲めるようになるようです。
楽しみです。

さて、先にエッセー公募の話を書きました。
私はある国際的なジャーナルの編集のお手伝いをしているのです。

ある応募者には、書き直しを依頼しました。
没にするには惜しいと思ったのです。

この応募者、エッセーの主題についていろいろ調べて書いています。
しかし、材料が多過ぎるのです。あれこれ書き過ぎ。
料理に例えれば、具が多過ぎて、あふれかえった寄せなべのようなもの。
材料をもう少し絞って、じっくり煮込んで、料理にしたほうがいいだろうとアドバイス。

すると応募者の指導者、ヨーロッパのある大学の先生からメールがありました。
「確かに話題が前後左右している。
この点は訂正させよう。
しかし、君の次のアドバイスは如何なものか」というのです。

私のアドバイスとは、
「まず何が言いたいのか、をはっきりさせよう。
1番言いたいこと、2番目に言いたいこと。
それらを順に書いてはどうか、」というものでした。

先生の言い分は、そんなエッセーであるなら、読者は1番重要なことを読んだら、2番目、3番目の項目など、読みたいと思わないだろう、というのです。

なるほど。
まあ、その通りかもしれません。
反論するほどのことでもないので、
「おっしゃる通りでしょう。
ともかく、改訂版をお待ちします」と返事。

それよりも、困ったのは先生の次の質問。
「では、貴方の考えるいいエッセーとはどんなものか?
サンプルはあるか?」

他人のエッセーをよくないなどと評価する以上、
自分なりの基準を持っているのは当たり前。
当然のツッコミです。
編集のお手伝いも気楽にはできません。

しかし、これはなかなか難問。
私の考える、いいエッセーとは?
しばし、考えてしまいました。

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