華道家 新保逍滄

2019年12月10日

生け花上達のコツ(4)


「どうしたらもっと生け花が上手になるのだろう」と自分の問題として考えてきました。
また、「どうして外国人に生け花を教えるのはこうも難しいのだろう」ということも、大きな問題でした。

問題の根本はどこにあるのか?
どうしたら状況を改善できるのか?

実は、このブログで今まであれこれ書いてきたことに、すでに私の答えは出ているように思います。ここでは、改めてこの難問への答え、そして具体的な解決方法まで私なりに考えてみます。

生け花上達のコツ(1
生け花上達のコツ(2
生け花上達のコツ(3
外国人に生け花を教える難しさ(1
外国人に生け花を教える難しさ(2
外国人に生け花を教える難しさ(3
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_26.html

まず結論から。

生け花上達のコツは、短距離走的な練習(瞬発力)と、長距離走的な練習(持久力)双方を継続させること。

前者は時に一つの作品制作に、とことん精魂込めてみるということ。これは常にそうあればいいのでしょうが、なかなかそうもいかないのが実情。

後者は、基本の徹底反復。毎日欠かさず何年も継続させること。

この二つだと思います。実は、私が特に重要だと考えるのは後者。外国人に教える際に、大きな障害となっているのもこの持久力に関わる、忍耐を要する修行方法が納得してもらえないということだと、気付きました。

有名な話があります。イチロー選手は高校時代、1日10分の素振りを365日1日も欠かさなかったそうです。日本人にはおそらく説明の必要もないと思います。生け花でも同じことだなと納得してもらえるでしょう。小さな努力でも、それを継続させることがいかに難しいか。そして、その莫大な効果。そう、莫大な!

繰り返しがマジックを生みます。
生け花なら、時に退屈で面倒な基本の練習を続けていくうちに、或る日突然、自分の生けた花が詩(あるいは生命)を持ち始めます。
そこへ至るためには1日も欠かさないという並外れた努力が必要なのです。

それにしても継続の難しさ!
試しに1週間だけでも毎日基本形を作ろうと目標を立てて取り組んでみて下さい。
たいてい4日目くらいにあれこれ面倒が生じて挫折してしまいます。
生け花に生きるという決意のない人は必ずそうなります。
継続するためには、強烈な覚悟と必死の努力が必要なのだと実感させられます。
それでも「継続は力なり」は多くの日本人共通の信念と言っていいでしょう。

ところが外国人にはこうした反復練習を嫌う人が実に多いのです。
「同じこと」「基本」「繰り返し」など退屈。
退屈すなわち苦痛!無意味!愚劣!最低!最悪!
求めるのは、常に何か新しいこと、常に何か違うこと。

この価値観の違いに気づくに至った幾つかの経験をあげます。

まず、このブログで基本の反復練習をさせた生徒のことを紹介しましたが、この生徒、結局辞めてしまいました。大成を期待していたのですが。私の力不足でもあります。

次に、最近、街を歩いていた時、”Nothing but Dull” と言うポスターを見つけました。
メルボルンのクリスマスには街でいろいろな面白い行事がありますよ、というメッセージです。でもこれはよく考えると、「退屈なことは最低!」と言う価値観の表明。
退屈でもそれを繰り返すと、とんでもないことになるのだ、などいうことは理解されそうにありません。

さらに、「そう言えば」とあるお母さんが、ご自分の息子さんのサッカーの練習を見て、日本と違うなと思ったことがあると話してくれました。練習といっても基本的に即試合。パスなど基本動作の徹底練習というような訓練はなし。面白いことだけやっている感じだと。

まだあります。随分以前の話ですが、私がメルボルン・フラワーショーに出展した時のこと。年配の生け花の先生が数人やってきて「毎年、同じようなもの作ってやがる」と蔑んだような言葉をかけられたことがあります。上品で礼儀正しい方々があるものだと思ったのが一つ。もう一つは「同じようなもの」への強い嫌悪、軽蔑。そこには反復すなわち停滞、創造性の欠如といった前提があるのでしょう。表面的には反復、しかし、内実は目に見えない進歩が生じているというような見方はなかなかできないのかもしれません。

反復は、ある時、突然の成長をもたらします。
反復というのは一つの戦略で、意識の突然変異をもたらすのです。
連想して欲しいのは、三昧。東洋の宗教の重要な行です。
生け花の世界に生きる者は花三昧の境地を目指したいもの。

この境地を哲学者西田幾多郎は以下のように語ります。

美術家は能く自然を愛し、自然に一致し自己を自然の中に没することに由りて甫(はじ)めて自然 の真を看破し得るのである。・・・知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好むところに熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知 即愛、愛即知である。(西田幾多郎『善の研究』)

この三昧の境地に達する時、生け花は詩を獲得するのです。

西田のいう「自然の真」とは、「専応口伝」について私が特に問題にした「よろしき面影」と同じ意味と解釈していいでしょう。一般の「専応口伝」の解説において、なぜか重視されてこなかった一節。無視されてきたと言ってもいいほどです。実は華道哲学の根本とされる「専応口伝」の肝なのですが。
専応口伝の謎(1
専応口伝の謎(2
専応口伝の謎(3
専応口伝の謎(4
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/09/blog-post.html

ここには芸道の形而上学があります。詳しくは私が今準備している論文を参照してもらうしかないのですが、この境地の要点は、以下の通り。

自己と花が合一し、無意識が働く。
花が作り手に話しかけてくる。
花を客体として見ているような境地とは違います。
花材の前に座ると、無意識のうちに手が動き、無我夢中。
気づくと作品ができていた、という三昧境。

瞑想の一つの形態とも言えそうですが、生け花作家はとりあえずはこの無我の境地を目指すべきでしょう。

実は、この境地のさらに先へ行かなければいけないと主張する方もあるのです。
例えば、私が指導を受けた勅使河原宏はその一人です。

しかし、まずは、この境地です!
どうしたら生徒をこの三昧境に導けるのか?

(1)基本を反復練習させることがひとつ。最重要なのですが、前述の通りなかなか容易ではないです。

(2)さらに、無意識で生けさせる経験をさせることでしょう。
考える時間を与えない。
制限時間内で基本形を3作くらい連続で作らせるとか。
私の特訓プログラムの成果はまた来年あたり報告できるでしょう。

(3)そして、芸道の形而上学も可能な限り説明していく必要があります。
日本人なら稽古だ、修行だと納得してくれることが、上記の通り外国人には理解できない場合があるのです。
しかし、心理学ではフローという概念が広く使われるようになっています。中心的なところは共通しています。この考え方を使って説得していくのは有効だと思います。

(4)もうひとつ、付け加えのようになりますが、以下の点も大事だと思っています。
クラスの後、当地の外国人生徒の多くは作った作品を壊さないように自宅へ持って行き、飾っているようです。
しかし、日本人の生徒の場合、壊してしまいます。運びにくいですから。
そして自宅で再度生け直すのです。

この習慣の違いは重要な点を含んでいます。

まず、作品に対する見方が違います。
日本人の立場は作った作品以上に「自分の身になったこと」を重視しているのでしょう。
作品は自分の内的な進歩の影のようなもの。
稽古の本当の目標は自分自身の深化です。
さらに、自宅で作り直すことで練習量が増えるという効果もあります。

生け花は芸術だというと、外国人のような態度になるのでしょう。
生け花はライフスタイルだと教えていこうと思っています。
「家で作り直しなさい」と。
日本人のやり方を私の生徒に徹底してみたいと思います。

もしかするとこんな簡単なことが、外国人に生け花を教える難しさ、外国人の生徒がなかなか成長してくれないという問題の根本にあるのかもしれないのです。

2019年11月25日

外国人に生け花を教える難しさ(3)


外国人にいけ花を教える難しさ、ということで再び考えてみます。
以前、考えたことは以下です。

最初に断っておきますが、外国人でも生け花がとても上手な方はいらっしゃいます。多くの日本人以上に。私などとてもかなわないなあという方も多いのです。

それは事実なのです。

それでも、一般的に、外国人に教える際には、日本人に教えるのとは違う難しさがあると感じることが多いのです。伸び悩む方、自由花でつまづいてしまう方。いろいろ困難が生じます。それはどこに原因があるのでしょう?

いろいろ理由は考えられます。

一つの深い問題は流派の指導にあると思います。海外で人気を集める流派の多くは、自由花を重視しているようですが、そうした(主に昭和以降に発展した)流派の外国人への指導方針に改善すべき点があるのではないかと思います。外国人に対して日本人と同様に教えていけばいいという前提は見直す必要があるように思います。もちろん、私は草月流以外の事情には無知なのですが。

自由花の重視はいいのですが、どうも海外ではこの自由花に対する勘違いがあるのではないか、という気がするのです。自由花の本質をきちんと教えていない、という現状があるのではないでしょうか。

これは各先生に任せておいていいことではありません。流派できちんと指導していかないと、いけ花の本質的なところは世界に伝わりません。

海外進出に積極的になるのはいいのですが、半端な形でなら弊害が出る可能性が大きいでしょう。例えば、トヨタは、海外進出の際、まず修理工を育成してから車を販売するのだそうです。売るだけ売って、修理はしないということでは信頼に傷がつくのは必至です。
生け花でもそのようなアフターケアが必要だと思います。

自由花とは自己表現だよ、花は生けたら人になるのだよ、というような説明はありますが、それ以上に踏み込んだ説明はほとんどありません。これでは誤解が生じるのは仕方ないでしょう。

海外で生け花を教えていてよく気付くことは、生徒の熱心さ。ことに実作とともに、理論や哲学を学びたいという声が多いのです。ところが海外で生け花を教えている先生でそうした質問に答えられる方はほとんどありません。少しばかりミステリアスな言葉や禅問答のような言葉で生徒の質問から逃げている方が多いのが実情ではないでしょうか。流派のテキストを読んでもそうした問題への回答はほとんどありません。

実は、「自由な自己表現」といった場合、日本人の考える「自己」と外国人(特に西洋人)の考える「自己」とは、同じではないようです。私にはそう思えます。

少し複雑な話になりそうなので、また、気が向いたときに改めて続きを書きます。
多用な時期が続きますので、しばらくはお休みです。

2019年11月8日

和:メルボルン生け花フェスティバル成功の秘訣(4)


メルボルン生け花フェスティバルについての雑感4回目です。前回分は以下です。

このフェスティバルの大きな特徴のひとつは、生け花展に外部からの出展者を募集したということ。

現状:メルボルンには生け花をやっている方が少ない。
理想:多くの出展者を迎え、この花展をフェスティバルと名のつくものにしたい。

現状と理想の間に大きなギャップがあります。
解決策は、メルボルンの他から出展者を迎えればいい!

しかし、どうしたら州外、さらに海外、日本から出展者をお呼び出来るのか?
これは難問です。

出展者にとっては旅費やら滞在費、かなりの出費になります。「観光旅行のついでに花展に参加してこよう」というような気軽さで参加していただいても、もちろんありがたいですが、やはりフェスティバル自体が海外からのお客様を呼べるほどに魅力的でなければいけないでしょう。

大きなスポンサーがあって、資金に余裕があれば、あれこれできるでしょう。
しかし、これは正真正銘の小予算イベント。
収入としては出展者各自から4000円ほどしか徴収していないのです。
(それとスポンサーの援助、匿名の寄付があり、とても助かりましたが)

これで国際的文化イベントができるのか?

できたのですね!

確かに小さい規模ではありましたが。日本から2名、ベトナムから1名、他州から2名の出展がありました。これは私たちにとっては奇跡的な(!)出来事でした。おかげさまで州政府の文部大臣代理、市会議員からも開会式にご来臨いただくことにもなりました。第1回目としては予想以上の成果です。

では、具体的にどんな戦略を用いたのか。
お金が使えないなら、頭を使い、体を使うしかないでしょう。

1、「メルボルン生け花フェスティバル」という名称:これがメルボルンで突出した生け花イベントというブランド効果を生んでいます。もちろん最大、最高の生け花イベントとはまだ言えないでしょうが、名前だけはとても立派。今後もっと注目を浴びることでしょう。日本からの出展者が履歴書に「メルボルン生け花フェスティバル出展」と書けるのです。その重要性が分かる方は、ブランドの重要性が分かっていらっしゃるはずです。

2、和生け花賞の実施:新人の生け花教師のキャリア・アップをお手伝いしたいということで、師範取得4年以内の方を対象とした賞を設けました。生け花の世界に競争原理を持ち込むことには相変わらず抵抗があるようです。説明には努めていますが、他人の考え方を変えことはできません。批判だけなら無視すればいいのですが、犯罪レベルの嫌がらせまで受けることにもなります。

ともかく、重要なのは、日本からの出展者に賞金とともに、「和・メルボルン生け花フェスティバル金賞受賞」と履歴書に書けるチャンスを提供したいということ。

作品が雑誌などにとり上げられる時、あるいは公共機関、民間の文化教室などに生け花教師として応募する時に、国際的な芸術コンクールでの受賞歴がどれほど大きな威力を発揮するか、いずれ実感していただけるでしょう。所属する流派外からの評価をいただいているということは、強力な武器になるものです。私自身、プロの芸術家ですからこの点はよく認識しています。

実際、初回の金賞受賞者は広島のYさんでしたが、「受賞までできて、本当にメルボルンに来た甲斐があった」とおっしゃっていました。

いつか、「和・メルボルン生け花フェスティバル金賞受賞」が、新人生け花教師の国際的な登竜門になるというようなことになったら楽しいでしょうね。

3、国際いけ花学会例会の共催:今回は私が研究発表を行っただけですが、出席者には花展出展だけではなく、それにプラスする経験が提供できたと思います。花道史については突っ込んだ質問もありました。

もちろん私の話を聞くために日本からやってくるという方はないでしょうが、出展のついでに聞いてみたら、多少ためになった、ということになれば十分。やがてはもっと重要な発表も行われるでしょう。国際的な研究者が登場するかもしれません。貴重な学習、意見交換の場にもなるでしょう。また、「メルボルンの国際学会で研究発表をした」という実績が必要な研究者もあるのです。そうした方々のニーズに応えるものになっていくでしょう。

花展出展+α の経験を提供する、独特の企画として継続したいものです。

4、生け花パフォーマンス:このイベントについてはいろいろな文脈から解説ができるでしょう。ここではマーケティングの観点から説明してみます。多少お金をかけてでも、この生け花フェスティバルに「特別イベント」を設けたいという希望はありました。強力な看板になるようなイベント。海外からの出展者にも興味を持ってもらえるほどの。

しかし、私たちの生徒や出展者に負担をお願いできませんから(当地の現実!)、このイベント開催費用は全額私の自腹です。このくらいのお金は使ってもいいかなという金額の上限。

この額では日本から著名な華道家をお呼びはできません。また日本で著名であっても、当地では日本文化や生け花に関心のある方々にしか訴求できません。また、高額の費用で招いたとしても、様々な制約があり、失礼ながらこちらの期待に見合った仕事(デモやワークショップ)をしていただけるのか、これも分かりません。私たちがあれこれ言える立場ではないのです。このようなことを考え、特別イベントとして日本から華道家をお呼びするというオプションは捨てました。

自分がやるしかない。失敗すれば自分のお金、評判とも失われる。成功すれば、経費のかなりの部分が回収できる、という危ないギリギリのところ。他人のお金ならこんな無責任なことはできません。しかし、こんな遊びをやってもいい歳になったかなと思って正当化しました。

世界的なミュージシャンとのコラボ、パフォーマンスを提供することに。私が選んだのは国際的に活躍するグリゴリヤン・ブラザース。クラシックに関心のある方々でしたら知らない人はないというくらいの実力派ミュージシャン。

会場はメルボルン・リサイタル・センターの一択。オーストラリアで最高のコンサート会場です。世界的な音楽家を招くにはここしかないでしょう。会場費用は高いのですが、彼らの膨大な会員数を持つメールや季刊プログラム雑誌で広報していただけるだけでなく、メルボルンの権威あるエイジ紙文化欄に毎週コンサートの広告が載るのです。この新聞紙上に「グリゴリヤン・ブラザース」というビッグネームと提供者「メルボルン生け花フェスティバル」が、同じ行に並んで掲載されることの意味は、お金に代えられないほど大きいものがあります。いわば、メルボルン最高の文化芸術の情報源で、国際的に著名なアーティストを広告塔にしてしまうようなもの。

実際、このイベントのおかげで人気のクラシックFMラジオからメルボルン生け花フェスティバルについてのインタビューを受けました。通常の生け花展がメディアに取り上げられるということは、実に少ないのが現実ですから、一つの成果かもしれません。

一流のコンサートへは出かける、しかし、生け花には関心がないという層があります。この層への訴求効果としては有効だったかと思います。結果は満席御礼。ヨーロッパ某国の領事夫妻もいらっしゃっていましたし、海外、州外からの出展者の多くの方からも楽しんでいただけたようです。

そこで、すぐに次年度の予約をとりました。協力に同意してくれたミュージシャンは、ポール・グラボウスキイ。ジェズピアノの巨匠。海外から私のショーを見に来るという方はあまりないでしょうが、ポールのコンサートならおそらく国内、海外からも観客が集まることでしょう。

5、キューレーターの活用:この展覧会が「国際的な文化イベント」であるため、プロを目指すキューレーターの卵にとっては格好の実践の機会になります。彼らは履歴書に書ける実績を熱心に求めています。今回は当地の芸術学部博士過程で学ぶ、そこそこ経験のある方をキューレーターに採用しました。比較的安価である上、出展者にとっても通常の生け花展とは一味違う、勉強の場になったと思います。さらに出展者はCVに、Curated Exhibition 出展、つまり、少し格式ある展覧会に出展経験ありと記載できるわけです。芸術の領域で活動したいと希望する方には魅力的なポイントになるでしょう。

6、おもてなし:日本からわざわざやってきて出展してくださる方をきちんとおもてなししたいという気持ちはあるのですが、これもまた費用面で無理。出展料4000円程度をいただくだけでは、なんともしようがありません。

実は、しっかりおもてなしができるようにと、観光と花展参加を合わせたツアー・オプションも企画したのですが、催行可能な需要はありませんでした。しばらく、このオプションはPRしないこととします。特定の先生の社中、あるいは華道クラブ等から団体で参加したいというような、ありがたいリクエストがあれば、即、対応させていただくことにしたいと思います。

では、どうするか?

これは出展者個人によって反応は違うのですが、デモの機会を提供してみました。「出展だけではなく、謝礼を払いますので、デモもなさいませんか?」と。

余計な負担はお断りという方もあるでしょうが、このチャレンジを好意的に受けとって下さる方もあるのです。せっかくメルボルンまでやってきたのだから、いろいろチャレンジしてみたい、能動的に時間を過ごしたい、と。今年、東京から参加して下さったK先生はこういったタイプの方かなと思いました。出展に加え、素晴らしいデモも披露して下さいました。

これを「おもてなし」と言ってはいけないでしょうが、もっとアクティブに参加する機会を提供するということは、ひとつのサービスになるとは思います。来年は、デモ実践者を世界的に公募してみようかと思っています。

7、もうひとつ、今年はメタセントという香水会社がスポンサーを引き受けてくれました。実はこの会社の社長が私の生徒なのです。せっかくいらっしゃっていただくのに、十分なお礼もできないんだ、と嘆いていたところ、「先生、私に任せて」と。国外、州外からの出展者全員に、高級香水を中心としたギフトセットを提供していただきました。

国際的な出展者をお呼びするための主な戦略は、上記のようなものでした。今後、ますますいろいろなものを検討し、追加していこうと思っています。
ぜひ、参加をご検討ください。次回は2020年9月19&20日開催です。

メルボルン生け花フェスティバルの様子は写真、ビデオなどでも随時紹介していく予定です。https://waikebana.blogspot.com/

和メルボルン生け花フェスティバル参加要項は以下のリンクより


2019年10月23日

和:メルボルン生け花フェスティバル成功の秘訣(3)


メルボルン生け花フェスティバルについての雑感3回目です。
前回分は以下です。

メルボルン生け花フェスティバルの目標は、一言で言って「生け花人口の拡大」。
もっと多くの人に生け花の魅力を伝えたい、ということ。

もちろんメルボルンでも従来からそのような努力は続けられてきました。しかし、生け花展を開催しても、見に来てくれる方は限られているようです。日本に興味のある方々、つまりすでに生け花にある程度関心のある方々が主なのです。この状況は戦後メルボルンに生け花が伝えられて以来、あまり変わっていないのではないでしょうか。

メルボルンの人口は約500万(東京の半分)。それに対して生け花人口はせいぜい300人くらいかと思います。統計がないので、全くの勘でしかないですが、実際に指導している生け花の先生はおそらく10人から20人くらいでしょう。都市の人口からして生け花人口が少なすぎるのです(それは同時に潜在的に巨大なマーケットがあるということでもあります)。

こうした状況を変えたい!
これがこのフェスティバルのミッションです。
なぜか?

1)環境保護の立場から:自然破壊、温暖化が進むなか、生け花が危機的状況にある人類にある示唆を与えるかもしれない。生け花が即、地球を救うと主張するつもりはありません。詳述はできませんが、生け花が本来的に(ことに近代化以前)もっている自然観は西洋文化に典型的な自然を客体視する態度とは異なります。ここを明らかにし、生け花を深く理解してもらうことで、自然に対する態度の見直しへの示唆が可能かもしれません。

ただ、この点を主張する際には注意が必要です。日本の伝統的な「自然と共生する態度」から新しい時代の方向への示唆を得ようというのは、有効だとは思います。例えば、梅原猛さんの以下の主張。実に興味深いものがあります。
しかし、このような主張は日本国内でならともかく、国際的な学術会議などでは、本当に注意が必要です。それほど明瞭に割り切れるものではないからです。簡単に揚げ足を取られかねません。ですから私の説明も歯切れの悪いものになっています。
 
しかし、私の生徒に対しては、ズバリと言わないといけません。「生け花の発展は地球を救うんだ!」「手遅れになる前に、生け花をひろめよう!」と。

生け花の歴史をみると、社会が変化するとそれに呼応するように生け花が変化してきた、と言えると思います。社会変化が先行し、生け花に変化をもたらすということ。江戸時代の生花(せいか)の展開、戦前の自由花の提唱などいずれもそうです。

しかし、環境問題が危機的状況にある今日、生け花が社会文化の価値観を先導するような役割を果たすべきではないでしょうか?生け花が社会を変えられないか?

これは巨大な提言ですね。

日本の生け花は一般的に家元制度に基づいているせいでしょうか、何名かのお家元のお言葉を拝読することはありますが、主な関心は流派という家内企業のためにということになりやすいような印象を受けます。地球規模で生け花の課題を考えよう、生け花の大きな夢を語ろうなどという方がもっと出てくると面白いと思うのですが。

生け花でお友達の輪を広め、世界平和に貢献しましょうなどという方もあるようです。それも悪くないでしょうが、私にはあまり響いてきません。それはおそらく私が現代芸術家の間で学んできたからかもしれません。現代社会の課題、文化状況を哲学的に語る彼らの中にあって、生け花が伝統文化としてのあり方の中に留まる必要はないのではないかと思うようになってきました。

私は自由な分、勝手なことが言える。その分、風当たりは強くなるということはあるかもしれません。ただ、生け花にもっと大きいものを期待していいのではないかとは思っています。そうでないと燃えないでしょう。わずかばかりの金、名声などというスケールの小さいもののために情熱が持てますか?命をかけられますか?

とはいえ、このような価値観、生け花を現代芸術の文脈の中におこうというようなアプローチは、これまた注意が必要です。こんなことを考えているのは、このフェスティバルに関わっている人たちの中でも、私一人くらいのものでしょうし、多くの方から共感が得られるとも思っていません。ですから、こうした思いを内に秘め(と言いつつ、読者の少ないこのブログで発散している!)、やれることを探っていくしかないのです。周囲の方に受け入れられる範囲内で、言葉を選びつつ、メンバーを鼓舞していくしかないのです。

2)生け花の癒し効果への注目:鬱を抱えたご婦人がちょっとしたことがきっかけで生け花に触れた。そこから生きる力を得た、という例が私たちの身近で起こっています。

生け花をもっと多くの方に伝えたい、花の力でもっと多くの方々の人生を明るいものに!

以上のような目標を掲げると、「では、メルボルン生け花フェスティバルはどうあればいいのか?」ということが少しはっきりしてきます。従来の生け花展では行われなかったことも積極的にあれこれやってみよう、ということがひとつです。

より広範囲の方々にアピールしよう!

生け花に関心がないばかりか、日本と違い「生け花とは何か」知らない方も多いのが現状。こうした方々にどのようにアプローチしたらいいのか?取り組んでみたのは以下のようなこと。

子供向け生け花ワークショップ、安価なワークショップ(未体験者にも生ける楽しさを感じてもらえないか)、国際的な音楽家とのコラボ・パフォーマンス(生け花に関心はない、しかし、豪州最高のコンサート会場へは出かけるという層へのアピール)、さらに次回からは生け花ディナーショーも計画しています。新規の顧客開発を狙っています。まるでビジネスのような語り口ですが、そういう側面もある!と割り切っていいと思っています。

生け花をより深く理解してもらおう!

デモ、トーク、コンクールなど、いずれも単に生け花展を見てもらうだけでは十分に伝わらない生け花の魅力をアピールすることを目指しています。

さらに国際いけ花学会とコンフェレンスを共催しています。今回は私が自由花の誕生には西洋モダニズムの影響があったけれども、要は自由花とは生け花本来のあり方を再確認したものだったのではないかというような話をしました。現在、生け花の癒し効果についてあれこれやっている方がありますので、近いうちに研究発表ということになるかもしれません。

さて、メルボルン生け花フェスティバルの大きな課題がもうひとつあります。最大の課題だったでしょう。
どうしたら州外、海外(特に日本!)の方から出展していただけるか?
これは先例も少なく、大きな難問でした。
これについてはまた次の機会とします。


お知らせ:和メルボルン生け花フェスティバル参加要項は以下のリンクよりhttps://waikebana.blogspot.com/p/blog-page.html


2019年10月17日

和:メルボルン生け花フェスティバル成功の秘訣(2)


メルボルン生け花フェスティバルについての雑感を続けます。
前回は以下です。

運営委員たちと反省会をしたのですが、その内容がとても面白く、これは記事にして学術誌に投稿してみようということになりました。「大成功おめでとう」などと多数の方から言われて気分が舞い上がった時期を終えて、少し落ち着いた時点で話し合えたことも良かったのでしょう。
もしかすると、他の地域で生け花フェスティバルや類似のイベントを開催する際の参考になるかもしれません。また、海外での生け花事情を知る上でも面白いかもしれません。

しかし、前回も書きましたが、これは「主催者側」の反省点です。他の立場からは別の見方がありうるでしょう。

実は、主催者側の反省点の最大のものは、人手不足!

これは予想できたことです。前回までは展覧会中心でした。今回からはそれに加え、ワークショップ、トーク、デモ、子供向け生け花教室、賞、パフォーマンス、講義、キューレーターの導入、マーケットまで加わったのですから。さらに、市議会議員、州政府教育文化大臣代理、他州、海外からの出展者まで迎えることになりましたし。



展覧会からフェスティバルに。

この発展に伴い、準備と運営業務が膨大なものになりました。様々な障害に見舞われることにもなりました。どうしても行き届かないところが出てくるのです。
私たちの運営委員はとても優秀なチームで、「このチームで起業したら多分うまくいくだろうなあ」と、ささやかな実業家だった私が思ったりしたほど。
それでもさすがに3、4人だけでは細部まで対応できなかったようです。
「失敗も不手際も出てくるよ。それから学んでくれたらいいんだ。君たちが成長する機会にして欲しいんだ。失敗したって守ってあげるから」とは、初めから言っていたのです。

ともかく、来年は運営委員を約3倍の数の熱血集団にしないといけないでしょう。

今後の課題のひとつはそれだけの人が動いてくれるか、です。

運営母体は企業組織ではなく、複数流派が集まっただけのゆるい共同体。私たちの出展者、関係者全てが一丸となっている、とまではまだ言えないでしょう。
「展覧会だけで十分」「オタクがやりたくてやっているんでしょう?なんで忙しい思いをして利益にもならないことを手伝わなければいけないの?」と言う傍観者的な方もありえます。
小さな不満があればすぐ離れていくようなところもあります。
また、あそこがまずい、ここが不十分と批判ばかりの人もありえます(そんな難点の数々は承知しているので、どうしたら良くなるかを一緒に考えて欲しいもの)。
しかし、それは杞憂でした。来年の新体制ではもっと多くの方を執行グループに取り込んでいけるでしょう。

本気で取り組んだ人たちだけが味わえる充実感、成長の実感をより多くの方と共有できるはずです。今年、展覧会場の後片付けが済んで、会場のドアを閉めた時、私たち運営委員が薄暗い中で笑顔を見合わせ、感じた高揚感、です。
「やったね」と私。
「少しの間、面倒なこと考えないことにしませんか?」
「そうだね」
大きな大会で勝利したスポーツチームのようでした。

「今回、運営委員の仕事ぶりにはすごいものがあったように思うが、なぜこんなにやってくれたんだろう?それは大事な成功要因だと思うんだが」と反省会で私が尋ねると、すぐに「先生が私たちには使命があるって言ってくれたから」とか、「花の力でしょう」とか。

メルボルン生け花フェスティバルの使命。
それをきちんと共有していかないことには人は動いてくれないのでしょう。

さらにその使命が、例えば新保個人が儲かるようにとか、有名になるためにとか、ある流派(あるいは企業)の利益、発展のためとか、要するに小欲だけでは、ここまでの成功は達成できなかったはず。「これは天の助けか」(大げさですが)と思うほどの奇跡的な幸運な出来事が次々と起こらなかったはず。さらに、私たちのチームはここまで燃えなかったと思います。

ただ、小欲を否定はしませんでした。
それも目指そうよ。例えば、このフェスティバルの結果、君たちの仕事も生徒も増えるかもしれないよ!と。

でも、本当に目指すのは、もっと大きいものなんだ。
大欲を持とう、と私は説得に努めたのです。

私たちの大欲、目指したいもの。
それは生け花の今日的な課題でもあります。
(もちろん、それをユメだよと嗤う人も批判する人もあるのですが)

次回に続きます。

第3回:https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/10/blog-post_23.html

お知らせ:和メルボルン生け花フェスティバル参加要項は以下のリンクよりhttps://waikebana.blogspot.com/p/blog-page.html

2019年10月15日

和:メルボルン生け花フェスティバル成功の秘訣(1)


今年の8月31日、9月1日に開催した生け花フェスティバルについての雑感を書いていきます。

最近、ようやく2、3の生徒たちと小さな反省会をやる機会がありましたが、面白い意見が出るものです。近いうちにもう少し多くの方々と話し合いたいと思っています。

話の中心は、次回どうしたらもっと改善できるか?ということ。皆、自分が「主催者側の人間である」という見地から、意味のある反省点をたくさん出してくれました。
「お客様」「傍観者」という見地からは、また別な反省点、批判も出てくるのでしょうが。

ともかく、次回は、2020年9月19日、20日に開催が決定
次回はもっといいものになるでしょう。
参加申し込みもできるだけ早く開始したいと思います。

反省点も重要ですが、まずは、成功要因から話を始めます。

私見では、今回の最大の成功要因は運営委員チームの機動力。これに尽きます。
彼女たちへの感謝は私のスピーチでも述べた通り。

生け花フェスティバルはもちろん、いろいろな企画を実行していくために
このような有能なチームを作れるか否か、それが成功の鍵を握っているように思います。

問題があっても次々解決策を生み出す。
指示を待つことなく、自主的に課題に取り組む。
ともかく迅速!皆色々あって忙しい方々なのですが。
そんな熱血チームと仕事ができたことを誇りに思っています。

私は、今回のみ実行委員長ということで、旗振り役でした。

私がリーダーとして気をつけたことがいくつかあります。その辺りからまずお話ししましょう。

いかにチームのメンバーに主体的に動いてもらえるか、
やる気になってもらえるか、そこには特に気をつけました。
チームは皆ボランティアですから配慮が必要です。

私自身、やる気にしてくれるリーダーの元でも、
やる気を削ぐリーダーの元でも仕事をしたことがあります。

まず、リーダーの一番重要な役目は、自分たちの仕事の使命をきちんと伝えることでしょう。

なぜ、メルボルン生け花フェスティバルが必要なのか、
その使命は何か?
ここを繰り返し強調してきました。

私が何を伝えたのか、
その結果、どのようにチームが燃えたのか、
それはまた次回とします。

第2回:https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/10/2.html
第3回:https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/10/blog-post_23.html

お知らせ:和メルボルン生け花フェスティバル参加要項は以下のリンクよりhttps://waikebana.blogspot.com/p/blog-page.html

2019年10月7日

日本人でよかった


美輪明宏さんが、テレビのインタビューで最近の若い日本人は素晴らしいじゃないですか、日本の未来は明るいですよ、と言っていたのにとても共感しました(私はテレビは見ないので、You Tube で見たのですが)。

美輪さんが、例えば、とあげた若者は、羽生結弦、内村航平、錦織圭等々。
精一杯頑張る、礼儀正しい、謙虚。
日本人の多くが大切にする価値観、品格を体現しているような人たちです。多くの日本人がとても誇りに思っているはずです。特にスポーツにおいては、日本人はフェアな戦いをします。きれいなのです。そこに我々は感動するのです。日本人が海外で尊敬される理由もそこにあります。

勝つ為には何をしてもいい、ばれなければいい、相手を傷つけるような行為、言葉も平気、というような人も時にあるわけですが、国際舞台に出てくるほどの日本人にはまずいないでしょう。

そこは学びたいな、と思っています。日本文化としての生け花を外国でやっている者としても、あの上品さ、あの爽やかな日本人たちの姿をロールモデルにしたいなあと。
爽やかであれ。常にそう念じたい。

今、少し気になっているのは、爽やかさとは、真逆の人のこと。

実は、和・メルボルン生け花フェスティバルのウェブサイトへの嫌がらせが続いています。今年の6月以降、7回ほどサイトを作り変えています。匿名でこのサイトを攻撃してくるのです。匿名でできるので、汚い嫌がらせを繰り返すのでしょう。残念なことに、どうもこの方は生け花に若干かかわって(?)おられるようです。

この人の下品な行為を変えることはできません。しかし、このような卑劣で不法な迷惑行為が永遠に許され、続くことはないはずです。この方の名前、所属流派もやがて明らかにされるでしょう。数年後、数十年後になるかもしれませんが。FACEBOOKもいずれは規定を変えるはずです。実名が明らかになると、愚劣で卑怯な言い訳を並べることになるのでしょう。時に犯罪者(児童虐待、無差別殺人、痴漢など)が逮捕され、犯罪動機が報じられることがありますが、呆れることが多いですね。良心も反省もない。同じような言い訳を聞かされることになるのでしょう。特に、なんら顧慮する必要もないのですが、いつか新保が予言した通りになったね、と思っていただけるはずです。

爽やかに生きよう、
爽やかさを核に持つ日本文化に関わる者として歩んでいこう、
とだけ考えていけばいいのだと思います(難しいことですが)。

先にあげた若きアスリート達が、対戦相手が反則行為をしてきた時、どうするか?
汚い嫌がらせをされた時、どうするか?
自明です。
平静に無視するはず。
それに学べばいいのです。

ただ、外交問題などになると、他国の嫌がらせ、攻撃、虚言に黙っているばかりでいいのか、という点も考えなければなりません。文化が違う相手に対しては、自らの正当性、相手の不当も主張する必要があるのかもしれません。黙っていてはやられるばかり、そういう側面はあります。

ですから、再びインターネット上の嫌がらせの問題に戻ると、それに対して黙っているだけではいけないのかもしれません。相手は和の国の住民ではないのでしょうから。とりあえず被害は記録し、公開していきます。

2019年9月28日

メルボルン生け花フェスティバルへのコメント


次回の和:メルボルン生け花フェスティバルは2020年9月19&20日開催予定です。間もなく出展者募集を開始します。 https://waikebana.blogspot.com/

Wa 2019 was a great success. Thank you all for your hard work. Shoso’s thank you message at the opening: https://www.shoso.com.au/2019/09/shosos-speech-at-opening-of-wa-2019.html

Some of comments we received:

“Thank you for the immense amount of organization on the part of yourself and the committee to make the Ikebana Festival such a successful event. I feel fortunate to have found your school and such a talented and dedicated group of artists to work with. I look forward to the 2020 Festival”

“この度は素晴らしい時間を過ごさせていただきました事、大変感謝しております。また、皆さまにも大変お世話になりました。次回また、皆様にお会いできればこんなに嬉しいことはありません。ありがとうございました。”

“Thanks for the great team effort during the weekend. Well done everyone. “

“ I’m writing to thank you for organising such a lovely concert last night. I hope you were happy with the outcome. It certainly was a great experience for all who attended.”

“I am pleased that the Wa Festival was successful. I do know what a huge amount of work goes into such an event.”



2019年9月25日

分かり過ぎる時


分かり過ぎる!という読書経験が何度かあります。
大抵、数年間考え続けてきた問題に、すっぱりと答えてもらえたような時に
感じたものです。

例えば、学生の頃読んだコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」。
「アウトサイダー」が自分が考えてきた問題のキイワードだったのだ!
その言葉を軸に考えればもやもやしたものが一気に整理できる!
なんという名著!

しかし、分かり過ぎると逆に少し不安にもなってきます。
本当に、その理解でいいのだろうか?
そのような形で簡略に整理してしまっていいいのだろうか?
もっと深く考えなくてはいけないのではないか?

最近では中沢新一の「東方的」。
西洋モダニズムの根本にあるものは何だろうかと、考えてきたのですが、よくわからなかったのです。
モダニズム以降、自然の客体視が強くなる、ということは言えそうですが、
その根本には何があるのか?
何がそれをもたらしたのか?
宗教観の変化?
資本主義の拡大?

中沢は4次元への関心だとし、
そこからキュビズムの発生、抽象芸術の発生、さらにデシャンの難解な作品まで説明してしまいます。
その議論は、面白く、私の頭の中で様々な事柄が繋がっていきます。
「専応口伝」解釈にも関連してくる、
村上春樹の異世界にも関係してくる、等々。

これは面白い!名著だ!

しかし、少し気になります。
ここまで簡略に説明してもらっていいいのだろうか?
ここまで分かってしまっていいのだろうか?

確かに学問的な傍証はついていますし、説得力はあります。
しかし、先行研究への言及が少ないように思います。
学問において、斬新で画期的な新説などなかなか生まれるものではないのです。
他にも同じような説があるということだともう少し安心できるのですが。
もう少し考えてみることにします。

2019年9月11日

プラスチック生け花


プラスチックの造花で生け花を作ってくれというリクエスト。
造花なら、それは生け花ではないでしょう。

特定の文化圏の方からのリクエストです。
生け花とは・・・と説明するのもひとつですが、
とりあえずやってみよう、と。

造花のレベルが高いことにも感心。

1週間もたない商品ということでは
特定の文化圏では受け入れられないのでしょう。
高いお金は出してもらえません。

多少高くても、長期間もつものを、というのは理解できますが、生け花とは何か、また考え込んでしまいます。

2019年9月6日

生け花の本質、そして活け手の危険性


2019年度のメルボルン生け花フェスティバルが終了しました。
私のスタッフをはじめ本当に多くの方々が頑張って下さいました。
心よりお礼申し上げます。

フェスティバルについてはまた別の機会にまとめてみます。

今回は、個人的に気付いたことから。

パフォーマンスをはじめあれこれやったせいでしょうが、私の評判がとてもいいのです。
勘違いされそうな言い方ですね。つまり、私の実力以上にちやほやしてもらっているなあ、という感じがするのです。

確かに、生け花パフォーマンスなどあまり見たことがないという方が多いのでしょうが、私へのおほめの言葉が予想以上なのです。過剰です。たかが生け花です。それが少しばかり上手だからと言って、それがなんでしょう。

自分はまだまだ、という思いが私は強いのです。
しかし、そうでない場合、おそらく、このような扱いをされたなら多くの方が、いわゆる天狗になってしまうのではないでしょうか?海外では特にそういう危険性があるように思います。

実力以上にちやほやされるということが重なるとどうなるか?
まず、傲慢になりやすいでしょう。
また、おそらく自分の実力はさほどではないということに内心気付いているせいでしょうが、他者を批判するようになります。他人を悪く言うことで、自分を高めようというわけです。

こうなってしまうと花の活け手としての成長も完全に止まってしまいます。
それは本当に危険で残念なことです。不幸にしてそのような方に出会ったならば、素早く離れることです。

聖賢の言葉を思い出してみましょう。

子曰く、古の学者は己の為めにし、今の学者は人の為めにす。
「昔の学び手は自分の修養のために学問をしたものだが、今のは知識をひけらかすためにするようになっちまったね。」(佐久協「高校生が感動した『論語』」)

自分の修養のためということがなくなってしまうと生け花は終わりです。他人の評価や名声を得るためにやっているということでは作者の目が曇ってしまうのです。

今回のフェスティバルで共催された国際いけ花学会の例会でも「専応口伝」について話しましたが、最近、このブログでも考えてきたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/blog-post_12.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/nature-in-ikebana.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/08/blog-post.html

「専応口伝」の最も重要なメッセージは、生け花は花材の良き面影に基づいて作るものだ、ということだと思います。

良き面影。
この言葉は注意して考えなければいけません。

詳述はできませんが、面影とは肉眼で見えるイメージのことではないのです。
例えば、亡き人の面影が心に残っているというような文脈で使う言葉です。
つまり、心の眼で見えるものが面影です。

花を心の眼で見なさい。
そこで見えるものを基にして制作しなさい。

これが専応のメッセージの本質です。
そうしてできたものこそ、本当の生け花であり、宇宙を象徴するような生命力を持つのだ、という深遠な精神哲学がそこにあるわけです。

面影を見る心の眼を研ぎ澄ませる、それが花道の修養ということになるでしょう。
それは瞑想と同義です。
そこに他者の評価など入り込む余地はないのです。

「このようにしたら評判になるかな」などと考えているようでは、生け花は終わりだということ。他人の悪口を言いだしたら、その活け手は邪道に入っているということです。

心の眼で花を見ていない、あるいは心の眼が曇っている
ということでは生け花は作れないのです。

2019年8月7日

メルボルン生け花フェスティバル Update 5


「専応口伝」の謎として考えたことを、エッセーにしたばかりですが、ついでにメルボルン生け花フェスティバル内で講義もしてしまおうということになりました。

日曜日の朝9時開始ですから聴衆はおそらくあまり多くはないでしょう。ただ、対象は花道史をあまり詳しく知らない方々も多く含まれるはずです。どうしたら有意義な話だったと思っていただけるか。花道史をもっと勉強してみたいと思っていただけたら、私は満足です。かなり大胆な仮説を提出することになります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/blog-post_12.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/nature-in-ikebana.html

以下が最新のプログラムです。随分、生け花フェスティバルらしくなっているように思います。少ない予算でここまで出来れば将来のためにきっと役立つことでしょう。もしかすると別の地域の方が、参考にしたいから見にいってみようか、などということになるかもしれません。まあ、それはまだでしょうか。

メルボルンで生け花を学習したいという人がもっと出てくるようにしたい、ということで始まった企画ですが、そのような目標は個人ではなかなか達成できないものです。小さいパイを仲間内で取り合うのではなく、パイそのものを一挙に大きくしようという試みです。メルボルンでの問題は、生け花の認知度が低すぎるということです。生け花は実にマージナルな存在。一般の大多数の方からすると、ちょっと変わった人や傲慢な人が集まって何かやっているという程度の認識だと思います。
生け花の認知度を上げたいという、私たちの目標は、なかなか分かってもらえないのですが、細々と続けていければ少しづつ理解も得られるでしょうし、協賛者も成果も出てくるかなと思います。

協賛者がいないとか、無視されるとかならたいしたことではないのですが、卑怯な手段で妨害してくる人もいるのですね。これには手を焼いています。心貧しい不幸な人生を歩んでいるのでしょうが、生け花をやっている人でしょうから、もう少し幸せになって欲しいものです。この残念な敗残者についてはまたいつか話す機会があるかもしれません。あるいは、ないかもしれません。


Event Details

Wa: Ikebana Exhibition (Free) 
Curator: Rachel Iampolski 
11am - 5pm, Saturday 31 August 2019
10am - 5pm, Sunday 1 September 2019
Rosina Auditorium, Abbotsford Convent, Melbourne
https://abbotsfordconvent.com.au/visit/visitor-information

Wa: Ikebana Exhibition Opening (Private Function)
10am - 11am, Saturday 31 August 2019
Invitation Only

Wa Ikebana Award - Application Closed
The winner of the Wa Ikebana Award 2019 will be announced during the opening ceremony.

Wa: Ikebana Exhibition Artists' Talk (Free)
11am - 12:00pm, Saturday 31 August 2019
Rosina Auditorium
MC: Takako Routledge
Admission Free
Booking: https://www.trybooking.com/BDQEZ
Please note:
1. The number of tickets for Artists Talk is very limited.
2. If you could not obtain a ticket online, you may be asked to wait for a while to form a new group. Please follow advice from our floor managing staff. Your safety is our first priority. 
3. If it is too crowded, however, please come back to Rosina after 1pm to enjoy our exhibition. Abbotsford Convent has several art galleries, beautiful garden, and nice cafes. 
4. If you have any question, please ask our friendly staff at the reception desk.      

Wa: Ikebana Demonstration - Over 50% tickets sold
12pm - 1:00pm, Saturday 31 August 2019
Rosina Auditorium
MC: Shoan Lo
Fee: $5
Booking: https://www.trybooking.com/BDQES
Six demonstrators will create Ikebana works in 6 min. each. We are pleased to announce that Ms Kagawa, Professor in Ichiyo School, from Tokyo will be one of the presenters. Other presenters include Sandra Marker (Sogetsu NSW), Shoan LoShokai IkebanaAkemi Suzuki Aileen (Shoto) Duke. Many of our demonstrators are members of Wa Melbourne Ikebana Festival Committee. We appreciate their hard work for this festival. We are fortunate to have an anonymous sponsor for this demonstration.
Please note:
1. The number of tickets for Ikebana Demonstration is very limited. About 40 seats only.
2. If you could not obtain a ticket online, you may watch the demo standing (no seat available on the day). Please follow advice from our floor managing staff. Your safety is our first priority. 
3. If it is too crowded, however, please come back to Rosina after 1pm to enjoy our exhibition & the works created by our demonstrators. Abbotsford Convent has several art galleries, beautiful garden, and nice cafes. 

Ikebana Workshops for Beginners
1-5pm, Saturday 31 August 2019 - Ichiyo School
10am-5pm, Sunday 1 September 2019 - Sogetsu School Shoso Shimbo Group
Duration: 50 min
Venue: Yellow Room, Rosina (Yellow Room is next to Rosina Auditorium)
Fee: $35 per person
Booking: http://bit.ly/IkebanaConvent 

Ikebana Conference - New Event!
Wa: Melbourne Ikebana Festival is pleased to host a regular conference of the International Society of Ikebana Studies国際いけ花学会 ). 
Shoso Shimbo will talk about "Influence of the Western Modernism on Perception of Nature in Ikebana: A New Interpretation of Ikenobo Senno Kuden (1542) and Its Hidden Link to the Rise of Free Style Ikebana in the Modern Japan"
9am - 10am, Sunday 1 September 2019
Fee: $10
Booking: https://www.trybooking.com/BEKXZ

Ikebana for Kids
1pm & 2pm, Sunday 1 September 2019
Duration: 45 min
Venue: Rosina Auditorium
Age: Year 1 - Year 6
Fee: $25
Booking: http://bit.ly/IkebanaConventKids

Ikebana Performance with live Music - Over 80% tickets Sold 
7pm - 8pm, Saturday 31 August 2019
Salon, Melbourne Recital Centre
Booking: http://bit.ly/IkebanaGrigoryan
Shoso Shimbo will create an Ikebana installation with live music by the internationally renowned Grigoryan Brothers.
Details: https://waikebana.blogspot.com/2019/03/ikebana-performance-at-wa.html



http://www.shoso.com.au
https://www.facebook.com/ikebanaaustralia

2019年8月2日

「専応口伝」の謎 4


以下でお話ししたように、「専応口伝」の謎として考えたことをエッセーにまとめました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/blog-post_12.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/07/nature-in-ikebana.html

さらに、これらを元にトークまでやることになりました。

「専応口伝」の生け花の本質論は、2つの側面を持っています。
その一つは広く了解されてきた。
ところが、他の一つはほとんど無視されてきた、というのが私の意見です。

この後者が、西洋文明の衝撃によって、再認識された。
それが1920年代の自由花の成立に関係しているのではないだろうか、ということです。

自由花というのは、わかったようでわからない。
いろいろな先生がいろいろな定義をされています。
本当のところはどうだったのでしょう?
そんなところをお話しできれば思っています。

国際いけ花学会、秋季例会を以下の通り開催いたします。今回はメルボルン・いけ花・フェスティバルの一環としての開催です。是非、ご出席下さい。
会員以外の方の聴講も、歓迎します。

日時:2019年9月1日(日) 午前9時~10時

場所:Rosina Auditorium, Abbotsford Convent, Melbourne, Australia
https://abbotsfordconvent.com.au/visit/visitor-information

報告者:新保逍滄(華道家、彫刻家)

題目:Influence of the Western Modernism on Perception of Nature in Ikebana: A New Interpretation of Ikenobo Senno Kuden (1542) and Its Hidden Connection to the Rise of Free Style Ikebana in the Modern Japan

参加費用:$10

参加予約:https://www.trybooking.com/BEKXZ

*英語での講演です。
*お問い合わせ:isis.ikebana@gmail.com
*国際いけ花学会の学術誌、「いけ花文化研究」($20)を会場で販売いたします。

2019年7月25日

「専応口伝」の謎 3 - Nature in Ikebana


多忙な日々が続き、情報や刺激をたくさん受け取りながら、内省するということがない時間が続くと、体験が深まっていかないという焦りを感じます。

そこで、先に「専応口伝」についてあれこれ考えたことをまとめてエッセーにしてみました。あっという間に6000字くらいの長さになってしまいました。論文とはとても言えない代物。一つの仮説として読んでいただけたら面白いかもしれません。国際いけ花学会編「いけ花文化研究」第6号に掲載されるのではないかと思います。



いけ花における自然:存続可能性を超えて(1)

新保 逍滄*

要旨

いけ花史上、明治前から始まる西洋文化、殊にモダンアート運動の影響によってもたらされたいけ花における文化変容は、いけ花の本質に関わる問題を内包しているだけでなく、西洋文化における自然観と非西洋文化圏の自然観との相克、統合の可能性と不可能性という問題をも浮き彫りにすることができるであろう。西洋文化の生花への受容に意識的だった山根翠堂、重森三玲、勅使河原宏らを中心に、東洋思想の流れの中で彼らの取り組みを捉えてみたい。

 西洋文化受容を契機としていけ花が表象するものが、象徴としての宇宙的秩序から、生命へと変化したという見解があるが、それら双方向への志向は「専応口伝」の中にすでに言及されているのである。従来の「専応口伝」解釈には不十分な部分があったのかもしれない。

 いけ花が外的に何を表象するかという議論が中心であったものが、導入された西洋文化の衝撃によって、その内的な始源においていけ花を捉え直さざるをえなかったという事情があるのではないだろうか。そこにはいけ花の本質の探求だけではなく、日本的自然観の再検討も含まれていたであろう。

Abstract

Western culture, in particular the Modernism Art Movement has had an influence on Ikebana since the Meiji period. Ikebana has undergone a cultural transformation that is closely related to a redefinition of Ikebana, incorporating a reconsideration of the attitude to nature in Japan. This study focus on the woks by Suido Yamane (1893 - 1966), Mirei Shigemori (1896 -1975) and Hiroshi Teshigahara (1927 - 2001) who were particularly conscious of the influence of Western culture on Ikebana.

There is an argument that under the influence of Western culture, there was a shift in the view of what Ikebana symbolically represents from universal structural orders to life energy. However, these external and internal approaches were both mentioned in the classic Ikebana text, Senno Kuden (1542). This concept of Ikebana as a representation of life energy did not begin with the reformers, it has been around since the early stage of development in Ikebana and deserves more attention. This study suggests that, after encountering Western culture, it became necessary for Ikebana artists and theorists to reconsider the essence of Ikebana that reflects the differences in the perception of nature in the West and in Japan.

*新保逍滄 華道家、彫刻家、メルボルン生け花フェスティバル書記長、RMIT大学短期講座「日本美学」講師、生け花ギャラリー賞代表

Monash大学日本学修士、美術修士、RMIT大学教育学部博士号取得

2019年7月12日

「専応口伝」の謎 2


「専応口伝」について、再び。
まず、前回書いたことは、訂正しなければいけません。

「この一流は野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし、花葉を飾り、よろしき面かげを本とし、先祖さし初めしより一道世に広まりて、都鄙のもて遊びとなれる也」

この部分ですが、
「この一流は」
(1)野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし
(2)花葉を飾り、よろしき面かげを本とし
「先祖さし初めし」に続く。

と、通常の解釈に従う方が無難です。
なぜなら、「面かげ」という言葉ですが、その近くに面かげの対象、つまり名詞がないといけません。何の「面かげ」かがはっきりしなくなるからです。
その名詞とは、「花葉」ということになるでしょう。
ですから「花葉を飾り」と「よろしき面かげを本とし」とを離して考えない方がいいのです。

実は、上記(1)と(2)は同じことを繰り返しているのだと気付きました。
もちろん、意味は別です。

野山水辺 / をのずからなる姿
花葉 / よろしき面かげ

この2項対立において、
前者が知覚対象(全体把握は不可能)
後者が対象の全体あるいは本質
という関係になっているのです。

要するに、生け花とは目には見えないものを表現しているのだし、
そのためには、素材の目に見えないものを本にしているのだよ、ということ。

フッサールの知覚の現象学的還元を専応は先取りしていたのでした。

別の機会にもっと詳しく説明します。


2019年7月6日

「専応口伝」の謎 1


生け花について考えていると、「専応口伝」はどうしてもその作業の出発点になってきます。それについて書かれたものはたくさんあります。しかし、ほとんどの解説はあまりに薄っぺらです。特に、みなさんがブログなどで読むことのできる解説のほとんどは読む価値のないものが多いようです。

もしかすると私がこれから書こうとすることも、無意味なブログの解説のひとつ、ということになるかもしれませんが。

ともかく、「専応口伝」の謎について、です。
おそらく私の知る限り誰もまともに考えたことのない謎。
そして、花道の核心にも関わってくる謎。

次の有名な序文を熟読してみましょう。

「瓶に花を挿す事いにしへよりあるとはきき侍れど、それは美しき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまへず、只さし生けたる計りなり。この一流は野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし、花葉を飾り、よろしき面かげを本とし、先祖さし初めしより一道世に広まりて、都鄙のもて遊びとなれる也」

注目すべきは、第2の文章。
生け花の核心を述べた文章としてもっとも重要視されているものだと思います。

「この一流は」
1、野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし
2、花葉を飾り
3、よろしき面かげを本とし
この3つの修飾節が、「先祖さし初めし」にかかっていきます。

これはおかしいと思いませんか?
ここには不自然な分かりにくさがあるのです。

実はこの3つの修飾節、順番が逆です。

本来、以下のようにならなければなりません。
1、よろしき面かげを本とし
2、花葉を飾り
3、野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし

「先祖さし初めし」に続く。
これで初めて意味が自然に通るのです。

なぜこんな事になったのか?
なぜ不自然な順にしているのか?
なぜ5世紀もの間、誰も問題にしなかったのか?
そのために花道史上、どんな問題が起こったのか?
あるいは私の言っている事自体がおかしいのか?

いずれ私の考えを発表します。

しかし、私の説は特殊なものかもしれません。

通常は、
「この一流は」
1、野山水辺をのずからなる姿を居上にあらはし
2、花葉を飾り、よろしき面かげを本とし
以上の2つの修飾節が、関連し合うことなく、並列の関係で
「先祖さし初めし」に続く、ということになるのでしょうか。

この場合の問題点は「よろしき面かげを本とし」があまりに軽視されてきたということ。
面かげとは何か。

これもまた別の機会に。

2019年6月27日

一日一華:当たり前


最近のある出来事。
自分では当たり前と思っていたことが、
実は、他の人からすると全く思いもつかない考え方だった、
ということだったのかな、と反省しているところです。

私は数十年生け花をやっています。
生け花の課題、問題点、可能性、そうしたことを考えるのは、
私にとっては当たり前のことです。

特に、生け花は全体としては衰退していると思います。
そこで、何か対応を考えようとするのは、私にとっては当たり前のこと。

どうしたらより多くのいけ花学習者を獲得できるのか?
これから生け花はどういう方向を目指すべきなのか?
ポストモダンの文化的状況に生け花をどう対応させるか?

こういう問題意識を持っている方は多いように思います。
私はいろいろな生け花関係者とお話しする機会に恵まれてきましたが、
それらは共通の問題意識でした。

もちろん、自分のために生け花をやるのだという方もあるのでしょう。
しかし、私は本当に「自分のためだけに生け花がやれる」ということが
よく理解できません。

ある生徒とじっくり話す機会があり、
この生徒からは私のことが全くわかってもらっていない、と気付いたのです。

私の生け花指導のミッション、目的というものを
きちんと説明しておかなければ、と思いました。

別の生徒から自分のミッションをきちんと発表することは
大事ですよ、とアドバイスされました。
それが嫌ならクラスに来ないでください、そう言ったらいいんです、と。
そこまで言う必要はないでしょうが。

ただ、私の意図が共有されていないと、この生徒はなぜこちらへ動かないのだろう?
というような少々困った経験をすることになるのだ、と
今更ながら、気付いた次第。


2019年6月22日

メルボルン生け花フェスティバル Update 4


2019年6月末:出展者申し込み締め切り
7月1日:デモ、アーティスト・トーク予約開始
8月31日&9月1日:和・メルボルン生け花フェスティバル開催
詳細は次まで。http://waikebana.blogspot.com

先日、クラスで生徒に協力をお願いしました。
これだけの国際的な生け花文化祭に一人$40で出展できるんだよ!と。
$40と言ったら、4000円弱でしょうか。
パスタ一皿くらいの値段でしょう。
日本だったら10倍はするよ。
これはすごいことなんだけど、実は私たちの会計は火の車なんだ、と。
保険、会場費用、デモンストレーターへの謝礼、それに海外からの出展者にお礼もしたいのになあ、と。
そこで、お願いがあります。
寄付じゃないよ。ワークショップをPRしてほしい。
友達、知り合いに参加を呼びかけてほしい。
実はワークショップからの収益はとても助かるんだよ、と。
皆、真剣に私の話に耳を傾けてくれます。
帰り際に皆チラシを手にして帰ってくれました。
たぶん大丈夫かなと思ったものです。

すると、次の週には、
外国からの出展者のためのお土産は私の会社が提供しますから、という方、
今度著名な億万長者に会うので、スポンサーをお願いしてみますね、
さらに、匿名でお願いね、と$1000(10万円くらいでしょうか)寄付してくれる生徒が出てきました。
なんとも心強い生徒達です。
この団結力があれば、きっとこのイベントはうまくいくだろうな、と思います。
このイベントをいいものにしたいという生徒達の気持ちが
出展者、来訪者の方々に伝わるならば、きっとすばらしいものになるでしょう。

2019年6月13日

メルボルン生け花フェスティバル Update 3




メルボルン生け花フェスティバルとか、
メルボルン生け花月間、というような企画は必要かなと、長い間、思っていました。

メルボルンでは、生け花はまだマイナーな存在です。
「生け花って何?」という方も多い。
あと10倍くらいは生け花学習者が増えて当然と思います。
もっとピーアールしなければいけない。
その目的のためには、メルボルン生け花フェスティバルというのは
効果があるのではないか、と。

いろいろな方に協力をお願いしたのですが、なかなか成果が上がりません。
私の力不足、さらに、先立つ資本がない。

ともかく、「もうグループ展覧会なんて呼ばせない、生け花フェスティバルだ!」と宣言してみました。
私の生徒には笑われたものです。
「フェスティバルと言ったら、普通は・・・」
確かに。

実は、はじめはスポンサーを探そう、日本から著名な方を呼んでやろう、
などという方向で動いていたのです。力のないものがいきなりホームランを狙うようなものでしょうか。

それを諦めました。挫折が転換点になりました。

お金をあまりかけることなく、あれこれ工夫できないか。
他に頼るのではなく、自力で何ができるか考えてみようと。
すると、そこそこフェスティバルらしくなってきました。

まずは、会場を従来の3倍くらいの規模に拡大(300人収容。会場費用はあまり変わらない)
生け花の様々な側面を見せる (デモ、トーク、ワークショップ、さらにパフォーマンス:いずれも私たちが従来やってきた活動をほんの少し拡大するだけ)
外部からも出展者を迎える(出展者が少なくてはフェスティバルとは言い難いでしょう。私たちは小さなグループかもしれませんが、世界中から出展者を招けばいいのです!
幸い日本他諸外国からも出展者希望者がありました(まだ募集中です)。

これらのプログラムの中でパフォーマンスだけは、少し特異なもの。
私が選んだのは国際的なミュージシャン。
「メルボルン生け花フェスティバル」を一般の方々に知っていただくには
これ以上の方々は滅多にないでしょう。

ただ、催行するにはお金の額が他のプログラムと桁違いです。
しかし、私の生徒やサポーターの集客力を考えると、かなりチケットが売れるのではないか、利益は出ないとしても、最悪の場合でも私の赤字はさほど大きなものにはならないだろうと。将来への広告費用として考えたら悪くはないでしょう。

このパフォーマンスについては書きたいことがあれこれありますので、また別の機会に。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/04/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/03/blog-post_14.html

ともかく、こうして「メルボルン生け花フェスティバル」第1回目は誕生に向けて動き出しています。成功か否かの鍵は、おそらく私の生徒たち、協賛メンバーがどこまで、熱い思いを持ち続けられるか、私がそこを大切にできるか、かなと思います。

そして、今もっとも気がかりなのは、実は、お客様の数が多すぎたらどうしようか、ということ。これについてはまた別の機会に。

メルボルンの花展に出展しませんか?
日本からのご参加をお待ちしています。
https://waikebana.blogspot.com/p/blog-page.html




2019年6月9日

メルボルン生け花フェスティバル Update 2



メルボルン生け花フェスティバルのおおよそのところが決まりました。
スタッフは皆準備に取り掛かっています。
しかし、まだ、どうなるのかわからないところがあります。
3ヶ月の準備期間に思いがけない、面白いことが起こるのではないか、
そんな予感があります。

美術修士号くらい持っているキューレーターを入れてみたい、
写真家の卵に写真を撮ってもらったら、出展者は喜ぶだろうなあ、
花の名前の付いた製品を作っている著名香水店に出店してもらえないか、
オープニングには当地のそれなりの方をお呼びできないか、
生け花をもっと面白い形で紹介するワークショップ、アートパフォーマンスを
手配できないか、
オープニングに著名な和太鼓奏者が「とび入りしましょうか」などと言ってくれている、
などなど。

今までの生け花展の多くは、トップダウンだったろうと思います。
上の方が様々な決定をし、メンバーがそれに従う、という。
私が私の生徒やスタッフに言っているのは、「メルボルン生け花フェスティバルはフレームワークなんだ。その中に入りそうなものがあったら、それを盛り上げてくれそうなことがあったらなんでも提案し、自分で企画しなさい」ということ。
さらに、「自分は実行委員長でありながら、二日間とも会場に顔を出せないんだよ」と。
随分ひどいものです。

生け花にはいろいろな面があるのです。展覧会だけで終わる必要はない。
もちろん面倒は増えます。

例えば、私のスタッフに小さなスケールで子供向けのワークショップをやったことがある生徒がいます。彼女に今回はIkebana For Kids の企画、運営を任せました。
内容、料金、全て決めなさい、と。
収益が出たら、少しは運営側に払って下さい。
赤字なら無料だよ、と。
これはビジネスの経験の乏しい人にとっては一つのビジネス予行体験。
さらに様々な法的な部分も整えないと子供向け事業は成り立ちません。
これもいい勉強です。

彼女が一人でIkebana For Kids と言う企画を作り、教会のホールを有料で借り、自分で宣伝しても、利益が出るほどのことにはなかなかならないだろうと思います。
それが、メルボルンの実情です。
「華道師範」と言う看板を出してすぐ人が集まるわけではないのです。
ところが、「メルボルン生け花フェスティバル」と言う、いわばブランドの元、やってもらえば小さな成功体験にしてもらえるのではないか、と思うわけです。
それを将来に生かしてもらえないか。
自分の生徒の華道家としてのキャリアの心配などする必要がないという先生も多いでしょうが、メルボルンという土地柄、多少の配慮が必要かなと感じています。

Ikebana For Kids
私の予想ですが、おそらく前売りチケットは完売するでしょう。
「メルボルン生け花フェスティバル」はかなりの観客動員力を持っています。
その点では少し特異なイベントです。
https://waikebana.blogspot.com/p/program.html

2019年6月3日

メルボルン生け花フェスティバル Update


メルボルン生け花フェスティバルまで3ヶ月を切りました。
6月末まで日本からの出展者のお申し込みを受け付けています。
まだ、日本からの申込者は数名ですが、とても楽しみな方々です。
私たちのサイトでご紹介できればと思っています。
www.waikebana.blogspot.com

今回は私が1年限定で実行委員長を担当させていただきます。
いつも思うことですが、私の周りの方々はいい人が多い。
ですからとてもやりやすいのです。ありがたいことです。

きっといいフェスティバルになることでしょう。

考えてみると私は人との出会いに恵まれてきたなあとよく思います。

もちろん難しい人と出会ったことはあります。
尊敬していたのに、実は虚偽の人だったというようなこともありました。
必要以上に失望し、気持ちは落ち着きませんでした。
礼儀知らずなものですから相手がどれほど偉い方であってもためらうことなく声をかけていましたが、以来、慎重になりました。

また、Eric Berne の交流分析に出てくる、"See What You Made Me Do" (あなたのせいだよ)というパターンにもちこむ人や、スコッツペックの「平気で嘘をつく人たち」のような、少し壊れている人にも関わったことはありますが、あまり長くは続きません。
先方から私が嫌われてしまいます。
私が逃げてしまう、というのがより正確な表現なのかもしれませんが。

しかし、あのような人たちと関わらずに生活し、活動できるのだからやはりありがたい!
と、結局、自分の幸運に感謝するわけです。

2019年6月2日

メルボルン生け花フェスティバル参加者募集中


メルボルンの花展に出展しませんか?
日本からの申込締切は6月末日です。

詳細は次からどうぞ。waikebana.blogspot.com

上記サイトでは出展者の紹介も行っています。
サイトへ行き、Label のExhibitor をクリックして下さい。

2019年4月30日

読書の愉しみ:生け花ーその可能性の中心


基本的に読書は好きです。
しかし、残念なことに愉しみのための読書はしばらくしていません。

今のところ、学術論文を書くための読書がほとんどですが、
その核になる書物から、少し離れた書物、
参考文献に加えられるかどうか、怪しいあたりの書物に、実は、とても面白いものが多いのです。

今、気になっているのは西洋モダニズムのいけばなへの影響。

「日本美術を見る眼」(高階秀爾)は、江戸末期以降、日本美術が西洋モダニズムを競って取り入れたあり様を教えてくれますが、おそらく同様の、新しいものへの激しい憧れが生け花の世界にもあったのだろうと思われます。

もっとも顕著なのは昭和8年成立とされる「新興いけばな宣言」。
生け花を大きく変えていくことになり、草月流、小原流などの比較的新しい華道流派にも影響を与えています。

こうした流派は、人気からして現在、日本の華道界の中心的存在でしょうが、西洋モダニズムの影響をたっぷり受けた流派と言っていいと思います。

しかし、西洋モダニズムの行き詰まりがはっきりしてくるにつれ、生け花のあり方にも再度、新しいものが求められているのではないか。ポスト・モダニズムの時代に、いつまでも花は自己表現だとか、人間中心だとかモダニズムの哲学を振り回しているわけにいかないでしょう。

新たな生け花革命が求められているのではないか。

私が注目しているのは、西洋モダニズムの影響を受ける以前の生け花のあり方。

そこには、モダニズムを乗り越え、ディープ・エコロジーを取り入れるヒントがあるのではないか。

西洋のキリスト教思想からは、人間主義的(人間のための)エコロジーしか生まれてこない、とされます。おそらく自然を客体視する態度が根本にあるからでしょう。それを超えた、つまり、人間中心主義を超えたエコロジー(ディープ・エコロジー)にこそ、新しい可能性があるのではないか。

それは「神と自然と人間が同心円的にひとつの世界を作っている世界観」(「修験道という生き方」宮城泰年、田中利典、内山節)に基づく生け花(あるいは環境芸術)のあり方を考えることに繋がってきます。

同著の田中によると、「神殺しの日本」(梅原猛)で、梅原は明治以前に戻れとおっしゃっているらしいですが、生け花についても同様かもしれない。明治以前、西洋モダニズムの影響を受ける以前の生け花のあり方に光を当て、それを現在の文脈で再度学び直せないか。

そんなことを考えていると、唐突に、しかし、確信的に「修験道やるしかないだろう!」と思えてきます。

さらに、そんなことを考えていると、以下のような、ゾクゾクするような一節にであったりするのです。

「上田氏は、神道的宗教においてまず何よりも先行するのは『神との対面』であると言っています。私たちは普通、私たちの世界像の枠組みの中で神に出会うと考えています。(中略)それは本当の宗教体験ではないというのです。真の宗教体験では、一切に先行して『神との対面』があるのです。つまり自然があるかないかより先に『神に対面』するのです」(「日本の宗教とキリストの道」門脇佳吉)

20年以上前でしょうか、オウム事件のあった後でしたが、友人に誘われて、上智大学での門脇氏の講演を聴講したことがあります。以来、門脇氏には心服しています。「道の形而上学」「身の形而上学」は名著。その他のすべての著書をじっくり読んでみたい方です。

ともかく、こうした様々なことをあれこれ考えているわけです。
論文の締め切りまでに、少しでも何かまとまった考えが生まれてくるのか。
とんでもない問題に首を突っ込んでいるような気もしています。

Shoso Shimbo

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