華道家 新保逍滄

2021年3月29日

メルボルン生花フェスティバルの分かりにくさ

 


先のポストで触れたように、生花に関する様々な活動に関わっていますが、自分にとって最もわかりにくいのが、メルボルン生花フェスティバルです。

まだ1回しか開催していないのですから仕方ない部分もあります。自分の納得できる形になっていないという事もあります。

商業的な事業であれば、経験からやり方がわかります。学問のような個人的なプロジェクトも同様です。どちらも達成目標が明確で、それに向かって手順よく努力していけばいいのです。慣れたものです。また、ボランティアならそのように割り切ってやれるでしょう。

しかし、メルボルン生花フェスティバルには、どうもそれらのどれとも割り切れない部分があり、今まで経験したことのないプロジェクトなのだと感じています。

ある面ではボランティア、ある面では事業、ある面では自分が捨て石になる覚悟を求められます。自分の立場がよくわからないのです。

さらに、自分がどこまでコミットするべきか、についても確信が持てません。支持者があり、多くの方がメリットを認めて下さるなら今後も続き、意義のある活動となり得るでしょう。また、支持者がなければ消えていくでしょう。どのようになっていこうと、それを受け入れる覚悟は持とう、あまりこだわりは持つまい、執着は持つまい、とは思っています。

このイベントを私物化しようなどという考えは持つべきでないと思います。リーダーが自分の利益、便宜だけを優先するようなことはあってはいけないでしょう。人がついていかないでしょう。「より多くの人に生花を」というような大きい目標も達成できません。おそらく、会社組織で運営するなら別でしょうが。

ですから第1回目は私が代表を務めましたが、2021年度からは別の方に代表を代わってもらおうと希望しています。国際的なスケールで、創造的に、そして、平等に(誰でも参加でき、努力した方が相応の機会を得られ、特権者は作らない)、というような基本方針が定着したなら、私は役目を終えたいのですが、その段階なのか、これまた確信が持てません。

このように私にとって実にわかりにくいプロジェクトなのです。リーダーが熱意を持たずに成功するはずはないですから、とりあえずの熱意を持ちつつも、深いところではどう関わったらいいのか、まだ手探り状態なのです。

となると、周囲の方からすれば、おそらくもっとわからないでしょう。相手によって趣旨説明を変えていますが、話が通じなかったり、誤解が生じるのも仕方ないと思います。

メルボルン生花フェスティバルの運営を特に難しくしている根本の理由は、多くの方々にご協力いただかなければ成立しないプロジェクトだから、です。ここが私が関わる他の生花の活動との大きな違いでしょう。

権内・権外という言葉があります。学問研究などは権内の活動と言えるでしょう。自分一人の努力で成功失敗が決まることが多い。基本的に自分次第です。小規模の事業などもある程度、そうかもしれません。

それに対し、メルボルン生花フェスティバルには権外の要素が大部分。私一人がいくら頑張っても、どうにもならないことが多すぎるのです。ですから、初回の開会式で「これは奇跡じゃなかろうか」などと私が大袈裟な発言をしていますが、そこにはそうした事情があるからです。私の関与できない様々なことが上手く組み合わさり(まるで人智を超えた力が働いているかのように)、成功へと導いてくれました。「とびきり運が良かったな」「人に恵まれたな」というのが、初回の実感でした。

そこで、只今の大きな課題は、メルボルン生花フェスティバルへの協力者や関係者をどのように説得し、動機付けしていけばいいのか、です。

例えば、実行委員の方々。ほぼボランティアで、よく頑張って下さいます。しかし、彼らの仕事はかなり大変です。賃金を払って、仕事を割り振るなら簡単です。実際、そうしたいとも思います。会社組織にしてメルボルン生花フェスティバルを運営できれば分かりやすくていいですね。収益は少ないので、経営は苦しいでしょうが。赤字にはならない程度にお金を動かせるのではないかと思います。

しかし、無報酬で彼らの動機をどのように維持できるのか。

幸いこれまでのところ、メルボルン生花フェスティバルの目指すもの、遠大な夢のような私の話に共感し、「ついていってみようか」という事だと思うのです。「前人樹を植えて、後人涼を得る」。私たちはこの ことわざの「前人」となる覚悟を持てないだろうか。自分達の苦労の果実は、自分達は享受できないかもしれないけれど、次の世代の人達の間では、生花への関心が大きくなるはず。自分達とは違い、先生も容易に生徒が集まるだろうし、生花の癒し効果を生活の一部とする人達も増えるだろう、と。

もちろんこのような精神的とも言える動機づけで動いてくれる方はかなり意識の高い人達で、数はそう多くはありません。反発、離反、傍観も経験しています。仕方ない事です。それを恨んだりすれば私達の負けです。

また、出展者の方々にどのように出展の意義を説明していくか。これも容易ではありません。日本文化の発信の機会として、などというより、個人的なメリットを強調して説得していくことかな、と思います。自分へのチャレンジの機会に、ご自分の教室のPRに、流派のPRに、そのようなところに落とし込んで、それが効果的に達成できるように配慮していくのが基本でしょう。

ただ、日本からの出展者となると、個人的なメリットはそう多くはないでしょうから、身近なメリットを越えた、もっと大きな意義を見出して下さる方に訴求することになるでしょう。

ともかく、もっと理解者、協賛者が増えていくと、メルボルン生花フェスティバルはさらに面白い企画に育っていくでしょう。今の段階でもいくつか突出した特徴がありますが、継続し、実績を積むことができれば、花道史的にも意義のあるイベントとなる可能性もあります。まずは、メルボルン生花フェスティバルの趣旨について、もっと広報していくことが必要であるようです。

2021年3月18日

日本文化の発信(2)

 


次から次へと生花関連の企画を思いついては、取り組んでいます。

生花道場生花ギャラリー賞メルボルン生花フェスティバル、さらに学術的な取り組みなどなど。

お金になるわけでもなく、名声につながるわけでもない。それでもやらざるを得ない。と言うか、基本的には好きなことをやっているだけなのですが。

さらに、来年から「いけばなとは何か」と題し、山根翠堂の名言を英訳していこうと思います。真生流のお家元からお許しをいただきましたので、国際いけ花学会の「いけ花文化研究」に数年かけて連載する予定です。

このタイトルは、西谷啓治の「宗教とは何か」に啓発されたもの。学生時代、最も刺激を受けた本のひとつでした。

私が英訳し、米国の大学で日本古典文学の教授をしている畏友(ネイティブ英語話者)に見ていただければ最高だろうと思います。

内容は山根の遺言とも言うべき「花に生きる人たちへ」(中央公論美術出版)の抄訳になります。この著作は、現代、いけばなに関わる人たちにとっても大きな意義があると思うのです。

ひとつには、いけばなには理念があるということを紹介できるでしょう。いけばなは花型(デザイン)の問題だとしか思っていない方が多いのが海外の実情でしょう。いけばなに関する英語文献を見回したことがありますが、理念についてきちんと述べた類書は少ないのです。

また、誠実にいけばなに生きた方があったということ、そして、本物のいけばなマスターとは、こういう方なのだ、と紹介したいですね。現在、私たちにはロールモデルとなるような方がなかなか見当たらないように思うのです。

さらに、山根の言葉には、いけばなの癒し、あるいは、いけばなと環境問題について考えていく際のヒントがあるように思います。つまり、いけばなと現代の問題の関連を考える際の参考になるかもしれないのです。この点は私にとって重要なポイントです。

現代のいけばなに対する、私の最大の不満は、現代社会の問題にきちんと対峙していないということ(もちろん、例外はあります)。

いけばなは現代社会に何ができるのか?

いけばなは次の世代に何を伝えるのか?

例えば、現代芸術が真摯に環境問題に取り組んでいるのに、いけばなの大勢はそうはなっていないように思います。時代の動きに関わらない、あるいは時代の求める新しい価値が提示できない、ということでは、いけばな人口が減っていくのは仕方ないことかもしれません。

そのようなわけで、この抄訳が少数であっても関心のある方々に届くならば、大いに意義があるだろうと。

私がやる気になるのは、こういう企画なのです。

2021年3月15日

日本文化の発信(1)

 

先週、当地(オーストラリア)のラジオで東日本大震災の特集をやっていました。

そこに二人の日本専門家が登場し、あれこれ日本社会にコメントしていました。そこで「ああ、そうか」と、「自分がぼんやり思っていたことはこういうことか」と納得したことがあるので書いてみます。

まず、日本文化の紹介者、研究者には大雑把に言って、二つのタイプがあるということ。

一つは、日本文化にある程度の敬意を持った方。というか、日本文化の奥深さを認識し、自分の知らないこともありえると自覚している、謙虚な印象の方。

もう一方は、日本人なんてこんなもんさ、と見下すような態度が明らかな方。専門書を出版していたり、大学の教授であったり、日本政府から賞をいただいていたりと(日本を貶めるような学者を称賛する変なところが日本にはあります)、社会的には成功しているようで、大変結構なことですが、アクセントの強い英語で、大声で話すこんな傲慢な方が酒の席にいたならば、私など速攻で膝蹴りを喰らわしてしまうかもしれません。

しかし、武力行使の前に、こういう方の話も聞いてみるものです。

すると、某国の共産主義は素晴らしい、というようなところに行き着くのです。なあんだ、その筋の方か。その程度の頭しかないのか、と。致命的に勉強不足の輩ではないか。こんな方に「日本人は基本的にみんな馬鹿」などと言われても、相手にする必要はないでしょう。

さらに、海外で日本文化に携わっている自分の立場についてもあれこれ思うことがありましたが、それについてはまた別の機会に。

Shoso Shimbo

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