千日挿花行を提案し、広報中です。
生花を一日一作、千日続けてもらおうというものです。モデルは千日回峰行。その命がけの厳しさの足元にも及ばないでしょうが、生花修得には、多少の厳しさは必要ではないかと思います。
「簡単生花」「楽しい生花」「即興生花」。昨今、そんなものばかり目立ちます。商業的に成り立つためには必要なことなのでしょうが。
千日挿花行など、見向きもされないかもしれません。
それでも提案したいのです。
実は、「どうして多くの外国人は生花が修得できないのだろう」と何年も考え続けています。
自然観が違うのか。教材が悪いのか。動機がいけないのか(虚栄心を満たすためとか、金のためとかでやっても、まあ、無理でしょう)。教え方が悪いのか。生花の文化的な価値を本気で考えていないのか。
そもそも生花の指導方法をまともに考えている人がほとんどいません。研究報告などほぼ皆無です。
私は日本語教育に関しては大学院レベルで研究しましたが、日本語教育研究と比べると、生花教育研究など存在しない!と言っていいほどです。
例えば、豪州で日本語教師になるためには大学院レベルで数年間、日本語教授法の勉強をしなければいけません。日本語の勉強ではなく、日本語の指導方法の勉強です。日本語の能力と日本語指導の能力は全く別物。日本語能力だけでいいなら、日本人誰でも豪州の教壇に立てることになります。肝心なのは、指導力です。日本ですと、場合によっては、英語がネイティブだというだけで教壇に立てるということがあったかもしれませんが。
生花教師になるためには、生花の勉強は求められるでしょうが、生花指導方法の勉強までは求められないでしょう。というか、生花指導方法の研究自体、ほぼ皆無なのです。勉強の術がないのです。母語話者だというだけで日本の教壇に立つ外国人と同じような立場の方ばかりなのです。
ですから、私が直面する問題、「いかに外国人に生花を教えたらいいのか」、に対しては、自分で仮説を立てて、検証していくしかありません。
私の仮説ですが、おそらく現在の生花指導がうまくいっていない理由は二つあると思います。この二つとも近代生花(現在、主流となっているいくつかの華道流派)の成立に関係があるように思います。
ひとつは、生花が瞑想体験だということが身についていない。
もうひとつは、生花が稽古を要する、つまり、練習を積み重ねて体得していくものだということが理解されていない。
ですから、現在必要な指導方法の要諦は、第一に、「瞑想の教え方」を含むものであること、次に、稽古という身体的な(頭で理解するものではなく)経験を積み重ねていくものであること、でしょう。
私が主導している生花道場では、それら二つを目指して、生花美学プログラム(瞑想重視)、千日挿花行(稽古重視)という二つのプログラムを提供しています。かなり稀な試みではないかと思います。どんな成果が出るのか、楽しみです。