華道家 新保逍滄

2015年3月2日

21世紀的いけ花考(33)


 室町時代に登場したいけ花(総称)の異端、生花は「主流の立花と違って、うちは花に新しい生命を与えているのだ」と主張したらしい、と推察しました。これはどういうことでしょう?

 単純に考えれば、新しい生命とはおそらく芸術的な(当時、そのような言葉は存在しませんでしたが)生命でしょう。生物学的な生命ではなく、象徴的な生命。立花は形式的で、生き生きした生命感がない。それに対し、生花は切り取ることで一度は生物学的な生命を終えた花に、新しく芸術としての生命を与え、蘇らせているのだ、ということでしょうか。確かに、それで意味は通ります。立花批判として了解出来ます。

 しかし、それでは私は満足出来ないのです。言葉の上で何となく分かるというのは、どうも信用出来ない。もっと考え尽くさなければ。

 以前、いけ花の本質とは何か?というテーマで書かれた博士論文を読んだことがあります。博士論文です。結論は「生き生きした感じ」だというのです。唖然としました。確かにたくさんの文献が引用されてはいますが、この薄さは少々気の毒で批判さえできません。

 おそらく私がこれから考えようとしていることも生花の本質の追究。それを論文ではなく、平易な言葉で書いてみたいのです。

 生花は切花に生を与えているというのですが、その「生」とは何か?「生」は日本文化の中でどのようにとらえられてきたのか?「日本文化における生の認識について」と焦点を絞れば「生き生きした感じ」などと結論して笑われることもなく、もう少し深い論考になることでしょう。

 日本の歴史を通じてある程度共通する生の認識、日本的な生の概念があるのでしょうか?あるよ、と教えてくれるのは小林秀雄。この問題に関する彼の文章は学術的ではありませんが、参考になります。

 今月紹介するのは、クラウンホテルの此処レストランに活けた正月の花。毎年お声をかけていただいています。当然のことながら商業花ですから自分勝手に活けるわけにはいきません。安全性と便宜性を重視し、できるだけ持ちのいい花を選んでいると、毎年似たようなデザインになりがち。それでも限られた範囲で工夫をしています。

 さて、今年の3月にはメルボルンフラワーショーへの出展、4月には国際いけ花学会での研究発表などを予定しています。詳細は私のサイトをご参照下さい。

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