いけ花の先輩の方々、著名な先生方の作品を拝見していると、
ある時点で独自の境地を開かれるのだな、とよく感じます。
その点では多くの方が共通しています。
しかし、作品は二つのタイプに分かれるように思います。
ひとつは、解釈可能な作品。独特の作品でありながら、多くは国際的な現代芸術の文脈で解釈可能な作品。
もうひとつは、解釈不可能な作品。作者の圧力のこもった作品であることは理解出来ますが、なんら意味を生成しない作品。独りよがりな作品。場合によってはそのような作品を新しい境地を開いたなどとありがたがっているのかもしれませんが、私には勉強不足かつ徒労に思えます。もちろん、現在の私自身が勉強不足ということかもしれません。いけ花の奥深さがまだまだ分かっていない、それは確かでしょう。
90年代、勅使河原宏は流麗な割竹のインスタレーションを多く作っていました。ある意味で分かり易い作品群でした。
それが、最晩年、竹の格子を重ねたような作品を作り始めました。
独自の境地を開いたということだったかもしれません。
多くの方々はうまく理解できなかったようです。
しかし、西洋の現代芸術のコンテクストを参照すると、
作品の解釈が可能なのです。
私の初めての宏論はそういう趣旨でした。
The International Journal of Ikebana Studies, 1, p.31-52.)
いろいろなことを深く勉強された方だったのだろうと思います。
だからこそ独りよがりな境地などに陥らなかったのでしょう。