2023年10月26日
2023年9月20日
自由花の教え方
このブログでは外国人に生け花を教えるのは難しいという話を何度もしてきました。しかし、そうした問題に拘って考えるという方はあまり多くはないのかもしれません。考えだすと大きな問題になってしまうので、面倒なのかもしれません。
生け花が、その最も重要な部分が理解されずに海外に広まるということ。まるでフラワーアレンジの一種として受け入れられ、教えられているということ。
「金になればいいんだよ。黙っていろ」というような方もあるでしょうが、日本文化が誤解され、その本質が理解されないまま広まっているということに、何か納得できないものを感じる、という方はないものでしょうか。海外における生け花の現状に不誠実なものを感じるという方はないものでしょうか。
最近、ある生け花展に出かけました。出展者はほとんど外国人です。ひとにぎりの優れた作品があるのに、大部分の作品には何かが欠けているのです。何だろう?
それは、生命感。生け花の生命です。
どうしてこのような作品になるのだろう?
ああ、もしかすると、自由花を学ぶ方法に問題があるのかもしれない、と思い至りました。自由花のお手本があり、そのお手本のデザインを真似しているのだろうけれど、お手本の本質は見落としているのではないか。
その本質とは、生け花の生命、あるいは詩性。
すると、自由花の教え方では、基本型を教える場合のように外に現われたデザインやスタイル中心で教えてはいけないのではないか。大部分の生け花コースは、自由花の指導においても安易な形態重視の指導を繰り返していますが、それでは生け花の本質は教えられないのではないか。西洋アレンジメントならそれでいいのかもしれませんが。形態に注目させるのではなく、もっと生け花の内的な機構に注目させるような教え方でないといけないのではないか。
そんなことを考えて、生け花道場の指導方法ももっと吟味していこうと思ったのでした。以下のような広告文を英語で書いて、Googleで日本語に翻訳してみました。
Application opens in November 2023. Book from our Schedule page.
Visit our Curriculum page to find out why our one-year Ikebana Dojo program would help all ikebana students and teachers.
We believe that there is a gap between basic styles and freestyles in many ikebana courses. After learning basic styles, students are encouraged to make freestyles such as "vertical arrangement" or "horizontal arrangement". However, where is the connection between the basic and freestyles? The approach used in such courses can be called a style-based approach to freestyle ikebana. Such courses make many students confused, and will never teach the most important aspect of ikebana; meditation.
Unfortunately, many ikebana practitioners, in particular outside Japan, are learning freestyle ikebana using the style-based approach, copying good "designs"(or something visible), and producing ikebana-like works that lack vital energy. The style-based approach is useful in learning basic styles because you can usually follow diagrams to make a good ikebana.
To make a good freestyle ikebana, however, you need to develop a different competence to see and actualise invisible principles through meditation. Those ikebana principles are not easily visible but recognizable if gazed at by a selfless mind. We call such an approach the principle-based approach, which we use in Ikebana Dojo. We are trying to teach ikebana as art not as design.
Our courses intend to teach the true essence of ikebana.
上記の英語をGoogleの翻訳機能で日本語に訳してみました。下記の通り驚くほど性能が向上していますね。
申し込みは 2023 年 11 月に開始されます。スケジュール ページからご予約ください。
私たちの 1 年間のいけばな道場プログラムがすべてのいけばな生徒と教師に役立つ理由を知るには、カリキュラム ページをご覧ください。
多くのいけばなコースでは、基本スタイルとフリースタイルの間にギャップがあると私たちは考えています。基本的なスタイルを学んだ後は、「縦配置」「横配置」など自由なスタイルを作っていきます。しかし、ベーシックとフリースタイルの関係はどこにあるのでしょうか?このような講座で行われるアプローチは、フリースタイルいけばなに対するスタイルベースのアプローチと言えます。このようなコースは多くの生徒を混乱させ、生け花の最も重要な側面を決して教えません。瞑想。
残念なことに、多くの生け花実践者は、特に日本国外で、スタイルベースのアプローチを使用してフリースタイル生け花を学び、優れた「デザイン」(または目に見えるもの)をコピーし、生命エネルギーに欠ける生け花のような作品を制作しています。スタイルベースのアプローチは、通常は図に従うことで優れた生け花を作成できるため、基本的なスタイルを学ぶのに役立ちます。
しかし、優れたフリースタイル生け花を作るには、瞑想を通じて目に見えない原理を理解し、実現するための別の能力を開発する必要があります。これらの生け花の原則は、簡単に目に見えるものではありませんが、無私な心で見つめれば認識できます。このようなアプローチを私たちは原則ベースのアプローチと呼び、いけばな道場ではそれを採用しています。
私たちのコースは生け花の真髄を教えることを目的としています。
2023年5月23日
抽象的思考の面白さ:「学術論文の書き方」
諸事情あって学術論文を読む機会がよくあります。
学問の世界は広大ですが、私の専門とする領域は非常に狭いものです。教育心理学(博士号)、日本学(修士)、美術(修士)といった文系の中の小さな分野です。その狭い分野の経験しかない者の管見に過ぎないのですが、日本語の文系の論文にはつまらないものが多すぎるのではないでしょうか。
大学生の論文や博士論文だけでなく、先生方の論文でも、私に言わせれば、論文になっていないのではないか、というものに出くわすことがあります。仮にその論文を英訳しても、出版してくれる学術誌は見つからないかもしれません。もちろん、通常、そんなことを口に出すことはありません。ここだけの話です。
もしかすると私が受けた学問の訓練(修士以上)がオーストラリアの大学においてですので、日本の学術の特殊な事情に不明であるというようなことがあるのかもしれませんが。立派なタイトルの立派な本でありながら、実につまらない、というものもあります。
最近、つまらない論文の共通項が分かってきました。
一言で言えば、抽象的思考がゆるい。
事実の羅列で終わっているようなもの。最悪です。考察がないのでつまらない。
事実の集積、あるいは調査の結果を分析し、グループ分けし、比較し、パターンを見つけ、理論をすくい上げると言った分析や抽象的思考の面白さがない。それをリサーチ・メソドロジー(研究方法)と言いますが、メソドロジーの習得は論文を書く前提です。
あるいは、ある事実(または調査の結果)を分析する段階に、分析ツール(理論)を持ち合わせていないために、思考が支離滅裂になっていたりします。文芸評論めいた著作によくあるケースです。
最近、必要があって香りについてのエッセーを読みました。デザインという言葉の定義を検討しつつ、特定の事象を説明しようとしているものです。私にとっては役に立つ内容でしたが、もう一つ上位の抽象概念(例えばアサンブラージュなど)を持ち出して、デザインを定義し直し、まとめるというところまでいかないと、説得力のある面白い論文にはなりません。
Googleで調べると、「論文の書き方」ということで、たくさんのアドバイスが見つかります。よく見かけるのは論文の構成から説明していくもの。
序論
文献レビュー
方法
調査
結果
分析
考察
結論
などが一般的な構成パターンでしょうか。
ここで最重要なのは「文献レビュー」です。
【必読!】文系学生のための卒論・修論の書き方
というサイトによると、文献レビューとは、以下のように説明されています。
「関連する過去の文献や論文、理論を、その分野の学術的流れや歴史なども含めて要約し、批判的に検討する。用語の定義などもここで。」
「その分野の学術的流れや歴史」というところが大切です。ここを踏まえていなければ、論文は存在する意味がありません。修士論文や博士論文でも、ここがないに等しいというものがありますが、その重要性を十分指導していないなら指導教官の責任は重大です。実は、「なぜ学術的な流れや歴史が重要なのか」という質問をしてくる方を、納得させるのはかなり難しい仕事になるでしょう。それがないと、一部の人々だけで共有される独りよがりなレポートになってしまうからです、と言っても分からない方には分かってもらえないでしょう。
ここで他の人の論文を持ち出して批判や評価をしたりするのはかばかられますので、昨年出版された私の小論文を参考に説明を続けます。今までのところ私の出版物はほとんどが英文なので、私にとっては数少ない日本語で書いた論文のひとつです。
2022. 新保逍滄、第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相「はじめて学ぶ芸術の教科書、伝統文化研究編」井上治、森田都紀(編)、京都芸術大学芸術学舎
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戦前、生け花の世界では、西洋藝術の影響で自由花運動が起こります。生け花の歴史上、とても大きな変革です。これをテーマに論文を書こうという場合、自由花運動をいくら詳しく調べ、記録していってもそれはただのデータの集積でしかありません。
そんなものはいくら内容が詳細であっても、中学校の自由研究レベルであって、大学レベルの論文ではありません。もちろんそれも無意味ではありません。歴史的事実の集積にも用途はあります。ただ、大学のいかなる学位もいただけないでしょう。分析も考察もないからです。リサーチ・メソドロジーのない文章は論文ではありません。
時に、例えば「歴史上重要なものであることが分かった」などと「分析、考察」を唐突に付け加えたりしている場合もあるようですが、そんなものは考察とは言いません。
自分の収集したデータや調査結果を俯瞰して、距離を置いて眺め、一体ここでは何が起こっているのか、と客観的に捉える視点、抽象的に考えていく力。重要なのはそこです。観察された事象をまとめたり、比較したりして、関係性やパターンを見出すという抽象的な思考力を養っていない方には、学術論文の作成はかなり困難でしょう。もしかすると、事実を集積して、暗記して、という知は日本の受験勉強型の知の使い方かもしれません。受験型秀才の得意とするところでしょう。しかし、私がここで説明しようとしている学術論文作成に要する知とはもっと創造的な知なのではないかと思います。
さて、私の論文に戻りましょう。自由花運動はどのような角度から検討していけばいいのでしょう?
これは生け花の変革です。生け花すなわち文化のひとつです。
ということは文化変容という切り口から分析できないだろうかと検討してみます。それでうまくいかなければ、また別の切り口を探すまでです。この段階で、私の思考は、自由花運動を離れています。歴史的な事象を離れ、抽象的な理論に注意が向いています。
文化変容にはどんな理論があるのだろう?
どんな研究があるのだろう?
類似の問題を扱った研究はないだろうか?
と、みていくといくらでも出てきます。文化人類学、社会学、カルチャル・スタディーズなどなど。この段階、つまり文献レビューの前段階ですが、ここに時間をかけることが重要です。もちろん、予め自分の分野が特定されているならその中で文化変容についての論文を次々読んでいきます。
文化変容理論の中では、特にフランスの社会学者ピエール・ブルデューの理論の影響力が大きいということがわかりましたので、彼の主著を読んでいきます。これにはかなり苦労しました。
ブルデューの芸術変容の理論を理解すればするほど、自由花運動についての記述に、疑問点が生じてきます。理論を手にすることで、研究の対象がより明確に見えてくるのです。
最大の疑問は、戦前の自由花運動が戦後の前衛生け花に発展していったという主流の言説は正しいのだろうか、というもの。両者には共通点もあるのですが、相違点も非常に多い。
相違点に注目するなら、自由花運動は「前衛芸術」的であるのに、戦後の前衛生け花は前衛というより「商業芸術」に近いのではないか、と思えてきました。歴史的事象の描写ではなく、その解釈に注力しています。
特に、ブルデューの芸術変容の理論がここでも当てはまるのか?と考えていきます。ブルデューの理論に反する点はないか、もしあるとすれば、ブルデューの芸術変容の理論に欠点や改変を要する点があるのかもしれません。理論を磨き上げていく感じです。そして、なんとか抽象的なレベルで新しい解釈の可能性を提示することができました。
ここまで到達して、私の論文はほぼ完了です。論文の骨格ができ、重要な要点は掴めたので、あとは書き上げるだけです。
小さな発見でいいのです。通説に疑問を投げかけることまでできれば十分でしょう。良ければぜひご一読を。
関連のポスト
2022年6月23日
出版のお知らせ:伝統文化研究編(京都芸術大学)
さらに英語にまつわる話を続けます。先のポストで英語攻略の秘訣を紹介し、英語解読はたやすいなどと書いたばかりです。https://ikebana-shoso.blogspot.com/2022/06/blog-post_21.html
たいていの英書は大丈夫。オーストラリアの大学院から学位がいただける程度の読解力はあるはずなのです。
ところが、これは手強い!と感じた本に最近出くわしました。
Pierre Bourdieu, The Rule of Art, Stanford University Press.
フランスの社会学者の著作を英訳したものです。一文が果てしなく長く、息切れするほどで、さらに文構造が複雑なのです。社会学の英書で、ここまで難解なものはあまり読んだことがありません(もちろん、相当に限られた読書経験内での話でありますが)。これはこの著者の特徴なのか、フランス人はみんなこんな文で考えているのか(フランス語教師の家内によれば、そういうことはないようです)、翻訳のせいなのか、それはよく分かりませんが、とても苦労しました。
翻訳ということでは、例えば、西洋の哲学書など日本語訳だとちんぷんかんぷんなのに、英語だと簡単に理解できるということがよくあります。そうすると、翻訳のせいで実際以上に難しくなっている可能性もあるように思います。
この本は、私が準備していた論文にとって重要な参考書で、なんとか読み込む必要がありました。そして、ともかく仕上げた論文が以下の通り出版されました。
井上治・森田都紀 編集「伝統文化 研究編 (はじめて学ぶ芸術の教科書)」京都芸術大学第一章 第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相 新保逍滄
リフロー型の電子テキストとして販売。
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https://honto.jp/ebook/pd_31775546.html ※予約ページ
等、電子書籍書店にて
<オンデマンド書籍>
デジタル印刷の技術を使い、1部から少部数(300部程度)までの製造に対応するものです。読者の注文を工場で情報受け取りしてから製造します。
以下2店舗で扱います。
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www.amazon.co.jp/dp/4909439617
■honto (https://honto.jp/) 価格¥1300
予約ページ準備中
2022年5月18日
生け花とは何か?(1)
2022, International Journal of Ikebana Studies, Vol.9, 76 - 78
31 May 2022: Deadline - Hanadayori, Ikebana by Request
4 June 2022: Ikebana Introduction
10 June 2022: Ikebana Workshop at Richmond Library
18 June 2022: Ikebana Introduction
18 & 19 June 2022: Ikebana Display for Villa Alba Open Day
1 July 2022: 1000 Ikebana Challenge
31 August 2022: Ikebana Workshop at the Pub
10 September 2022: Ikebana Performance with Paul Grabowsky
https://www.ikebanafestival.com
10 & 11 September 2022: Wa Melbourne Ikebana Festival. https://www.ikebanafestival.com
2021年12月9日
生け花と第二言語習得論
学校の英語の授業を受けても英語は話せるようにはならない。英会話を身につけたければ、英会話教室へ。
これは私が日本で学校教育を受けた頃の常識でした(私は大学までは日本です)。昔の話なので、最近はどうなのかわかりません。
学校英語と英会話教室の英語。どうも違いがあるなあ、というのは多くの方が感じておられたことでしょう。いろいろな意見があることでしょうが、大学院で第二言語習得論を少しかじった者からすると、この違いにはとても重要な意味があります。
簡単に説明します。言語教授法の歴史上、学校英語というのは文法翻訳教授法、オーディオ・リンガル法に基づいた指導です。19世紀から60年代くらいまでの指導理念に基づいています。要するに文法重視、ドリルをやって、ネィティブの音声を真似する。根本にあるのは、意識を鍛えて言葉を教えようという考え方。言語習得は習慣形成の結果で、目標は「言葉を教える」ということです。
英会話教室というのは、成功している学校の多くの場合、70年代以降、主流となったコミュニカティブ・アプローチを採用しています。目標は「言葉を使わせる」ことです。最終的な目的は言葉を覚えることではない。言葉を使って何ができるのか、そこを重視します。たとえ完全な外国語でなくても、外国語を使って、切符が買えた、商売が成立した、実際に何か成し遂げることができたなら、それを評価するわけです。そのような言語活動、タスク中心の指導をしていこう、というのがひとつの方針です。
この違いが分かっていない言語教師は問題です。例えば、オーストラリアにおける日本語教育は日本の英語教育と比べはるかに幸運な状況で発展してきています。コミュニカティブ・アプローチが主流で、そこを基に進化しています。ほんの数年日本語を学んだだけだという外国人が上手に日本語を話すのに驚いたことはありませんか?おそらくはコミュニカティブ・アプローチの成果です。
ところが、うちの生徒は歌やゲームを使って短時間でこれだけの単語数を楽しく覚えたとか、そんなことばかり自慢している日本語教師がいます。それを悪いとは言えないでしょうが(悪いと言った方がいいのですが)、重要なのは、テストの点ではないのです。言葉を使って何が実際にできたのか、です。
言葉を「覚えさせる」ことから、言葉を「使わせる」ことへ、という発想の転換ができない教師は、迷惑な化石のような存在。たとえ生徒から人気があっても、21世においては無用で無能な教師です。
コミュニカティブ・アプローチへの転換には、おそらく意識を鍛えるという発想から無意識を含めて鍛えようという発想の転換があったように思います。たとえ教えていない言葉であっても、状況から生徒はその新しい言葉を理解するものです。それはとても重要なことです。言語習得は無意識の領域で生成する創造的なものです。
さて、生け花です。
日本には数千の花道流派が存在するようですが、この問題をきちんと考えているところは存在しないように思います。私の論考が注目されることも当面なさそうです。
ふと思うのは、生け花の指導において、学校英語的な指導がなされているのではないか、ということ。型とかデザインとか意識のレベルで認知できることを指導することが中心なのではないでしょうか。
英語教育の目標は、言葉を覚えることではなくて、言葉を使って何が実際にできるかだ、とはっきりしてから指導方法が変わっていったのです。意識レベルの学習から、無意識を含む全人的な学習へ、と。
生け花では、花を使って瞑想できるか否か、その結果が作品になるのです。無意識の働きが大きく関わってきます。さらに突き詰めるなら、生け花の目的は、デザインの優れた作品を作ることというよりも、花を通じて瞑想を深めることなのです。意識から無意識へと焦点を転換させなければいけません。
ところが、海外においては瞑想ということができていないように思います。外国人の多くは生け花を意識の次元で解釈し、まるで西洋フラワーアレンジメントの延長として、デザインの問題として学ぼうとしているように思います。生け花風の作品は出てくるでしょうが、瞑想に基づく生命のある花は出てこないでしょう。
最近、井上治先生(国際いけ花学会会長)が、華道とは禅だ、という趣旨の著作を出版されました。とてもタイムリーな出版です。たくさんの方に読まれるといいなと思います。いつかこの著作についてもきちんと考えてみたいと思います。基本的には私の主張と同調です。井上先生とは連日メールでやりとりしていますが、このような立ち入った話はあまりしていないのです。それでも不思議と現代生け花の最大の問題点として、同じ課題(つまり、禅的性格あるいは瞑想体験の欠落)に対峙しているということは、嬉しい発見でしたし、とても力を得た思いです。
さて、瞑想しなさい、無意識を働かせなさい、と言うのは容易ですが、どのように指導していったらいいのか。そのような取り組みは現在、存在しないのではないでしょうか。
特に自由花の指導が問題です。
指導理論がないものですから、多くの流派で縦に伸びる形、とか横に伸びる形とかトピックを作り、作例を示して指導しています。このような指導書で生け花が上達するはずがありません。生気を欠いた駄作が生産され続けるだけです。
海外でも生け花の学習者が増えて、流派の収入が増えれば、それで十分。そんなことでは、生け花の生命は失われてしまいます。
指導しなければいけないのは、作例という結果ではなく、そこへ到るプロセスです。制作過程における瞑想体験を身につけてもらうことです。
そのようなことを考えて、生花道場では制作過程を重視した指導を導入することにしました。初めての試みですから、試行錯誤しながら取り組んでいこうと思います。
生花道場の取り組みについては他のところでも発表していく予定です。
2021年11月16日
生け花とポストモダン
河合隼雄対話集「こころの声を聴く」(新潮文庫)の中で、ちょっと気になる部分があります。村上春樹とのやりとりです。
河合「日本の読者はプレモダンの人もたくさんいるから、ポストモダンみたいに見える人もいるんですね。それも大きい問題でしょうね。モダンをまだ通過していない人(笑)(略)
僕が心配しているのは、西洋の場合はモダンを通過してポストモダンに行くけれど、日本がモダンを回避してポストモダンに行った場合です」
村上「それはすごい問題になりますね。(略)」
私は生け花の文脈で、生け花の近代化について考えています。戦中、戦後の自由花運動から前衛いけばなの生け花ブームのあたりのことになります。
私見では、生花における近代化はかなり曖昧な表層的なものだったと思います。日本文学における近代化などと比較して考えても、やはり物足りないですね。もちろん私の知見は極めて限られていますが、おそらく重要な問題を提起したのは山根翠堂ただ一人かなと思います。
そして、生け花では「モダンを回避してポストモダンに行く」ということが、かなりの可能性で起こりえます。それが「すごい問題になる」のかどうか。全くも問題ないということになるかもしれません。また、いつか、考えがまとまったら書くことにします。
生け花におけるポストモダンとは何か。
それを実践している方々が、ほんの数名ですが、あるわけです。その人たちの活動は刺激的です。
2021年10月31日
Zoom 生花道場、レベル3
生花道場はのんびりと続けています。
レベル1では、自由型でデザイン要素、デザイン原理を8回で導入。
レベル2では、基本型を復習しながらデザインの基本を8回再確認。
レベル3では、デザインから離れるということを目指して8回の予定。
ともかくこのコースの根本を作ってしまいたかったので、全24課程とし、一区切りしようと思っています。その後で、いろいろ改変していけばいいでしょう。
既存の生花コースとはかなり違うものになっているのではないかと思います。
なんと言っても体系的で、理論的に整然としています。
海外で生花を教えてきた私が経験した指導上の難しさをどう克服するか、その問題への一つの回答になっています。
レベル1、2はともかく、レベル3のコースに関しては、なかなか最終的な形が決まりませんでした。発表までにかなり時間がかかってしまいました。
いくつか論文やエッセーを仕上げ、考え続けてきたことがようやく形になりました。
生花の自由型に関してはまともな教程は存在しないように思います。というか、きちんとしたものを提出した流派、指導者はいないのではないでしょうか?もちろん私は数千ある流派の教本を全て調べたわけではないですが。主要な流派の教本を見る限り、はっきり申し上げて、かなり雑です。海外の学習者のニーズには合っていません。履修してお金を払えば、師範やら教授やら様々な立派な称号はいただけるのでしょうが、本物の力がつくというわけではないのではないでしょうか。便宜的に、数合わせのために教程を組んでいるだけなのではないかと思われるものまであります。
また、既存の流派の教本を元に作った教程を自分の教程として販売している方もありますが、そこには新しいものを作って行こうという意志などほとんどありません。
さらに問題なのは、既存の教程を終え、指導者の立場になった場合、教える力が同時についているということがないだろうと思われることです。あのような全体像が不明瞭な教本で指導しようとしても、指導の方法について示唆は得られないでしょう。もちろん、例外的に教師として有能な方も稀に現れるでしょうが。
傲慢に聞こえるかもしれませんが、今後の、国際社会での生花のことを本気で考えるなら、この程度の批判は遠慮する必要はないでしょうし、許してももらえるでしょう。もちろん、生花の現状を批判する以上、批判されることも覚悟しないといけないでしょうが。
しかし、いくら自分でいい教程だと主張しても、「美術修士、教育学博士が作ったコースだ」などと(恥ずかしげもなく)宣伝しても、取り組んでくれる方がいない以上、意味がないでしょう。一人でも参加して下さる方があれば、続けてみて、改変しつつ、史上最強の生花コースにしていこう、この教程は今後、多くの生花コース改変のきっかけになるかもしれないよ、などとスタッフに大言壮語していました。
幸い広報初日に数件申し込みがあり、これなら参加者から色々声を聞きながら取り組んでいけるかな、と思っているところです。
2021年6月19日
外国人に生け花を教える難しさ(5)
何度もお断りしていますが、外国人の中にはとても生花が上手な方がいらっしゃいます。それはまずきちんと確認しておきたいと思います。
それでも、時々、「これは外国人の作品だな、日本人はこういう作品は作らないな」と思うことがあるのです。それが、私の生徒の場合、どのように指導したらいいのだろう、と悩むことになります。
ひとつ特徴的なのは、線の硬さ。まあ、例えば、直立不動(気をつけ!)のままダンスを踊っている感じです。不自然で、硬いなあと感じます。詩性も楽しさも感じられません。
もしかすると、「生花は自己表現」だという教えを勘違いしているのではないでしょうか。
「生花は自己表現」だという主張は1920年代頃から日本の生花の世界でなされているものです。西洋芸術のモダニズムの影響でしょう。つまり、西洋の考え方を日本人向けに紹介した教えです。
生花とは自然素材を尊重しつつ、自然の美しさを表現するものという前提があって、それを踏まえて、そこに自己主張も加えてみませんか、という程度の理解で受けとられたのかもしれません。というのは、とことん自己表現だけの(素材の自然性を完全否定した)生花はあまり存在しないように思うからです。基本的に自然素材の持っている面白さ、美しさを発見したなら、それをあえて壊すようなことはしないだろうと思うのです。
自己を表現した生花、と言っても、そこに表現された自己とは、自然の一部としての自己かもしれません。自分も自然の一部だと認識しつつ、自然素材の持つ味、線、動きを尊重しつつ、制作していくわけで、人と自然の共同作業のようなもの。
おそらくその創造過程の理想は無私の境地ではないでしょうか。深い瞑想状態とも言えるでしょう。生花の創造体験の一番深いところですが、皆さん、いろいろな表現でそれを説明してくださっています。「花と話しつついけていく」とか、「花と一体になっていけるのだ」とか。私なら「頭で作るな、無意識で作ろう」とでも言うかもしれません。華道史上、稀有の華道家であった山根翠堂は次のように書いています。
「花をいける人の心が、花の心に同化して、花のように美しい心にならなければ、決して、その本来の使命に忠実な、真に芸術的な『いけ花』はできません」(「花に生きる人たちへ」)
「同化」という言葉の意味は深いと思います。花は素材という客観的対象以上の存在になるのです。
ところが、ことに戦後、海外にも生花学習者が増えていきます。
そこで「生花は自己表現だ」という教えを伝えた場合、本来自分たちの考え方が戻ってきているわけです。日本文化だと思って生花を始めてみたら、中身は西洋文化じゃないか、と。自然は制作のための素材でしかない、ということがそのまま受け取られます。日本では前提としてあった自然観がないわけです。
自分は自分、自然は素材。人と自然は断絶しています。
この指摘は多くの著名な方々が、日本人の自然観対西洋人の自然観として書いていることと共通しています。おそらくそのような日本人論を読んだことがあるという方も多いでしょう。実は、それはあまりに紋切り型で、単純すぎる対比です。日本国外でそんな話をしたら、誰にも相手にされません。
しかし、こと「生花は自己表現だ」という主張の解釈について考えていくと、この紋切り型の比較が参考になるように思います。
では、外国人にどう教えていくべきか。
まず、外国人には「生花は自己表現だ」などということは言わない方がいいでしょう。それは自然を尊重する表現ができた後で、ゆっくり考えて貰えばいいことなのです。「花を愛さなくても生花はできるんだぜ」というような本を出している外国人がいます。こういう勘違いが起きないようにするためにも、これは大切なことだと思います。こういう生花教師を輩出している流派はその指導に検討すべき点があるのかもしれません。
次に、もっと花を見つめなさい、瞑想しなさい、ということを強調して指導していくことかな、と思います。最近、その趣旨で英語であれこれ書いてみました。そういう指導ができないと、海外では私たちはまともな生花を教え、伝えていくことができないように思うからです。生花を教えるということの本質は、生花が瞑想だということを教えることだと思います。
おそらくこれは日本国内ではそれほど意識しなくてもいいことだと思います。説明しなくても生徒は自然に瞑想体験を身につけていくのではないでしょうか。生花とは「本来そういうもの」だからです。しかし、外国人に生花を教える際には、最大の障壁になるように思います。
最近、ある生徒から、もっと別な方法で指導してくれとあれこれ言われたことがあります。この障壁の手前で迷っている生徒の一人です。
その希望をよく考えてみたところ、彼女の生花理解がわかってきました。おそらくいろいろなデザインの型を覚え、花という材料をそれに当てはめて生花を作るのだと考えているようなのです。自分の頭にある型、それを表現するために花を素材(客観的な対象)として使う。そのためにいろいろな効果的な型を教えてくれということに行き着くのです。先に書いた西洋人的自然観による生花理解の典型です。基本型の勉強はそのような態度で始めることになるでしょうが、自由型に移って、数年したならば(ましてや師範をとったならば)、そのような、頭だけで作ろうという態度ではいけません。生花の本質に至ることはできません。
生花のデザインは自分の頭から捻り出すのではなく、むしろ無私の境地で素材から(あるいは自分の無意識から)抽出するものだと教えたいものです。そこには、花との共同作業、一体化、同化、といった瞑想体験が必要です。花を客観的対象として見ているだけでは到達できない境地です。生徒がそこを理解し、体得できるかどうか。そこがポイントのような気がします。
デザインという結果ばかりをみていてはいけない。過程を重視しなさい。
生花はデザインじゃない。
生花は瞑想なんだと、強調していくことでしょう。
それで生徒が離れていくなら、仕方ないですね。金のためだけに生花指導をやっているわけではないのです。譲れないものは譲れません。
もしかすると、生徒は自然観の変更を迫られるかもしれません。その変更が可能なら、生花を海外に広める意義はとても大きいように思います。
関連の記事
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2020/04/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post_3.html
2021年2月7日
「専応口伝」再びー山根翠堂自由花論との類比
「専応口伝」についてあれこれ考えてきたことがようやくまとまりました。と言っても一つの仮説です。想像に任せて書いてみました。学術的に認められるのか、定かではありません。独断と偏見!ということになるかもしれません。
UC Davis の教授等、何人かに読んでいただいたところ、そこそこ面白いじゃないかということであるようで、「いけ花文化研究」に掲載されるようです。
私が指摘していることは、
「専応口伝」には生花の定義として二点、存在論的な定義と認識論的な定義が明言されているのに、なぜか認識論的側面が無視されてきた。
「専応口伝」の定義する自然の象徴としての生花と、天地人を骨格とする生花(せいか)は、似ているけれど、微妙に異なっている。自然の形而上学的把握の有無という点からすれば、両者は異質なものだ。
自由花運動は生花への西洋モダニズムの導入ということだけでなく、本人たちは気づいていないが、無視されてきた生花の本質の再興という側面があったのではないか。
こんな奇論が出てくると、「花道史も面白いじゃないか」という方、さらには、「もっと研究してやろう」「反論してやろう」という方が出てこないだろうか、と密かに期待しています。
実はこのエッセーは、構想している山根翠堂3部作の2つ目です。
一つ目は昨年、Intenernational Academic Forum で発表した論文。趣旨は、戦前の自由花運動と戦後の前衛生花との関係について、前者が後者に引き継がれたという継続性に注目する論者が多いようですが、私の論は、両者は全く異なる、社会学的な見地からは対立関係にあるとするものです。
白状すると、山根翠堂3部作の2つまで、これまで書いたものは、山根の実際の著作を読まずに書いています。一次資料にあたらず論文を書く!なんともひどい話ですが、資料が手に入らないのです。
最後の論文はきちんと一次資料を読んで山根翠堂の思想の根幹に迫ろうかと考えています。
しかし、京都芸大の井上先生とお話した際、井上先生が私が考えていたよりはるかに大きな枠組みで山根を捉えておられることに気付き、果たして、私が取り組む必要があるのかな?と思っているところです。
さらに、生花の学術的研究ということでは、また別の関心が芽生えてきているのです。
ここまで読んで下さった方のために、「いけ花文化研究」に投稿した最新論文の要旨を掲載しておきます。このブログでも専応口伝についてあれこれ書いてきましたが、最もまとまった内容になっているはずです。英文論文なので読みにくいかもしれませんが、機会があればいつか日本語版も発表したいと思います。
An Interpretation of Ikenobo Senno Kuden (16c) and Its Hidden Link to the Rise of Freestyle Ikebana in the Modern Japan
2020年11月18日
Zoom 生花道場カリキュラム:人気のない基本型
Zoom 生花道場のカリキュラムには基本型を含めたい、と思っていました。
このブログでも何度か生花の基本型について書いてきました。生花を外国人に教える難しさについて、ということで。
基本型を厭う生徒が多いことと、我流生花が多いこととは関係があるように思えてなりません。調和のとれた詩的な基本型が作れない方には、調和のとれた詩的な自由花は作れないはずです。実は、基本型を嫌がる方こそ、基本型をもっと練習しなければいけない!そういう場合が多いのです。
しかし、嫌がりますね。「もっと基本型をやらないといけないよ」とアドバイスしようものなら、まるで「侮辱された!」とでもいうような反応が返ってくることもあります。しつこくやらせたら、教室をやめていった生徒がいたという話もこのブログで書いたことがあります。
それにしても強調したいのは基本型の重要性。
基本型には生花の詩性の根本が含まれています。そこを体得しないことには、おかしな方向へ行ってしまうのではないか?その習得不足が、諸問題の元凶のひとつかもしれない、とまで思ってしまいます。
Zoom 生花道場のカリキュラムではレベル2で基本型を導入し、8回作ってもらいます。ここで、生花道場のカリキュラムについて、少し説明しておきましょう。レベル1、2、3と、とりあえず3段階用意しています。それぞれ8回のクラスから成り立っています。
レベル1では、生花デザイン原理、生花デザイン要素を優先した基本的な自由花。生花を学ぶということは、「花を花として見ることをやめる」ということです。初めから花の本質を見ることを学んで欲しいのです。専応のいう、花や葉の「よろしき面影」を見出し、瞑想する訓練の始まりです。
レベル2で、基本型の習得(上級者にとっては復習と発展)。レベル2になると、受講者の数が増えない、という予想通りの状況です。面白いですね。しかし、ここが一番やりたかった部分なのですが。
レベル2で使う花型に各流派の既存の基本型を使うのは問題でしょうから、自分で新たに考案しました。生花の基本型とは、多くの流派で似通っていながら、若干違うという現状であるようなので、その方針でいくつか作っておきました。説明の仕方もかなり独自の方法でやっています。それは将来的な発展を踏まえてのこと。基本型で習ったことを将来どのように使えばいいのか、ということを射程に入れて組み立てています。
レベル2は、生徒にとっても私にとっても忍耐を要する段階です。ここを通過することで、幾らかでも生花のレベル向上に貢献できないか、我流生花の蔓延を抑制できないか(大袈裟ですが!)と願っています。我流生花が流行っても、それでお金が儲かればよいという方には問題ないのでしょうが、華道文化のことを思えば、なんとかしたくなります。山根翠堂のいう「死花」ばかりが生花として溢れているというような事態は、できれば避けたいもの。せっかく取り組む以上、そのくらいの抱負はもちたいですね。
レベル2で気づくのはやはり基本型への嫌悪。特に上級者には多少自分流にアレンジしていいよ、としてるのですが、多くの方が自由型にしてしまいます。しかも、行き過ぎている場合が多い。その結果、基本型に備わっている詩性は失われています。これではなんのための基本型の復習なのか、と残念な思いをすることがあります。本当の上級者以外、きちんと復習に徹した方が生花道場の趣旨を活かすことになるでしょう。
レベル3では少し高度な自由花へのヒントを含めることになるでしょう。生徒が喜ぶクラス、というのは見当がつきます。そういうクラスもレベル3辺りには含められたら、と思います。おそらくその辺りになるとまた人気が出てくるかもしれません。
オンライン講座で成功しよう、儲けようと思ったら、人気のトピックを調べて、そういうものだけをやる方が賢明でしょう。基本型をやったり、「生花のデザイン原理とは〜」などと深入りするのは、労多く、利がすくない。そう分かっていても、妥協できないものがあります。
ともかく、Zoom 生花道場は、私にとって何かと勉強になるプロジェクトです。なかなか大変ですが。
2020年5月30日
災いを転じて福となす(1)
2020年4月19日
分からない理由:重森三玲をめぐって
都市封鎖中のメルボルンですが、私の日常は相変わらず。
半日は論文作成に、半日は生け花作成に。
いろいろあってその通りにはいかないのですが。
ともかく、論文の締め切りがあるので、研究は続けています。
先頃、探していたトピックについての論文がようやく見つかりました。
「重森三玲の作庭思想における『自然』に関する言説について」
上野友輝、河内浩志、秦明日香
日本建築学会計画系論文集(2018年)
重森は戦前の「新興いけ花宣言」起草の中心人物。
彼の思想をもっと探りたいのです。
期待に胸を膨らませて読んでいくと、これが分からない!
原典の引用、それについての論者の解説が延々と続くのですが、
重森の言葉は理解できるのに、論者の解釈が理解できないのです。
例えば、
「自然が永遠の存在であることによって、自然を基本とする庭は永遠である。
永遠を作り出す作者も、同時にこの永遠を目指しているのである。
・・・作者が何かしら永遠に生きようとしてる態度が永遠のモダンとなったのである・・・」
ここで重森は自然という形而下の存在と、永遠、あるいは永遠のモダンという形而上学を対比させて自分の美学を説明しているのです。
ところが、上野らの論文は以下のように説明します。
「重森が捉える『永遠のモダン』とは、永遠に生きられる作品を作り出そうとする作者の態度のことである」
態度?
態度ということはないでしょう。
重森の原典を熟読すれば、作者の態度が永遠のモダンとなる、つまり、態度すなわち実存的な作者のあり方が、永遠のモダンという美学に昇華されると言っているのであって、態度=永遠のモダンではありません。日本語の読解力不足レベルの誤解です。これでは重森の美学は無視されてしまいます。
さらに、1940年代、50年代、60年代に出版された彼の論説を
同一の論理上に位置付けようとしています。
数十年間に渡る重森の言説において、例えば、「自然」という言葉が、全く同じ意味で使われているという前提で分析され、結論づけられています。
これも無茶な前提です。
2日ほど、「これは何だ?」と考えました。
なぜこの論文は分からないのだろう?
こんな経験は、長年、学問の世界に片足だけつけてきた私にも初めてのことです。
結局、現在の私の結論は「この論文はひどすぎる!」。
この論者、福井大学助教授、博士課程の学生の方々には申し訳ないですが。
おそらく、彼らは意味論の基本を無視しているのだと思います。
例えば、Analyzing meaning, Paul Kroeger (2018)という意味論の入門書の冒頭では、以下の二つの違いを区別することが意味論の出発点だとしています。
sentences vs. utterances
文字通りの言説 対 発話
発話(日本の学会でどのように訳出されているのか調べていませんが)の意味は、その文字表現だけ見ていても分かりません。文脈を含めて理解に努めないと意味は伝わりません。
この論文の欠点は言説の文字表現だけを見て解釈を試みている点でしょう。
意味論の基本も、哲学の基本も無視した稀に見るハチャメチャな論文です。
と批判するだけなら、容易ですが、
どのように建設的に、私の論文に組み込んでいくか、
重森という巨大な思想家を私のいけばな論にどう位置付けていくか、
大変な作業です。
2020年3月26日
自由花における詩性とは何か?(2)
2020年3月24日
自由花における詩性とは何か?(1)
日々、生け花を教える中で出会う疑問を出発点に、じっくり考えていくと、
思いもしなかったところまで考えが及ぶということがよくあります。
例えば以下のような具合。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
毎度のことながら、「外国人に生け花を教えるのは難しい」と思います。
特に、自由花。
基本形を終えて、自由花に移ると、時に、めちゃくちゃになる人が出てきます。
単に強いだけ!
単に個性的なだけ!
単に綺麗なだけ!
何かが欠けているのです。
原因はなんだろう?対策はどうしたらいいのだろう?
まず出発点は、自由花とは何か、ということでしょう。
自由花が提唱されてそろそろ100年です。
その本質の定義も有効な指導方法も確立されていい頃だと思うのですが、
まだそうなっていないように思います。
この辺の議論は置いておきます。また別の機会に考えます。
私の生徒作品を見て、「何かが欠けている!」と感じることが多いわけですが、ここから話を始めます。
欠けている「何か」とは何でしょう?
一言で言えば、詩性です。
ここで生け花とは何かという話を踏まえないといけないでしょうが、それも置いておきます。私は生け花は芸術だという意見には同意できません。問題は「生け花は芸術だ」という方の「芸術」の定義が私の芸術の定義とは異なる点。私は村上隆の芸術論が面白いと思います。彼は「闘争」していますが、私は生け花の世界で不毛な「闘争」をするつもりはありません。
実は、生け花はクラフトだとしたほうが説明しやすいと思っています。
生け花とは一般的には視覚的形態上のデザインを研ぎ澄ませて、詩性をつかもうとするもの、ではないか。
とすると、それはクラフトです。
特殊なクラフトですが、芸術とは言えません。
芸術のようにコンテクストが問題になるのは限られた特殊な場合のみですから。
さて、詩性です。
それは何か?
詩性のない生け花作品とは、すなわち生命のない作品。
生け花とは言えないでしょう。
山根翠堂は死に花と言いましたが、多分、その通りです。
では、どうしたら詩性を手にできるのか?
どうしたら生徒はそれを体現できる力をつけてくれるのか?
ここで自分自身、なかなか掴めないでいるもの、つまり詩性を
教えられるのか、という困難な問題にぶつかってしまいます。
続きは、また、いつか考えることにします。
かすかにひらめいているのは、生け花における詩性を、
環境美学と環境倫理の接点上に定義づけられたら面白いだろうな、ということです。
自由花における詩性とは何か?
なかなか大きな問題です。

















