華道家 新保逍滄

2021年12月9日

生け花と第二言語習得論

 


学校の英語の授業を受けても英語は話せるようにはならない。英会話を身につけたければ、英会話教室へ。

これは私が日本で学校教育を受けた頃の常識でした(私は大学までは日本です)。昔の話なので、最近はどうなのかわかりません。

学校英語と英会話教室の英語。どうも違いがあるなあ、というのは多くの方が感じておられたことでしょう。いろいろな意見があることでしょうが、大学院で第二言語習得論を少しかじった者からすると、この違いにはとても重要な意味があります。

簡単に説明します。言語教授法の歴史上、学校英語というのは文法翻訳教授法、オーディオ・リンガル法に基づいた指導です。19世紀から60年代くらいまでの指導理念に基づいています。要するに文法重視、ドリルをやって、ネィティブの音声を真似する。根本にあるのは、意識を鍛えて言葉を教えようという考え方。言語習得は習慣形成の結果で、目標は「言葉を教える」ということです。

英会話教室というのは、成功している学校の多くの場合、70年代以降、主流となったコミュニカティブ・アプローチを採用しています。目標は「言葉を使わせる」ことです。最終的な目的は言葉を覚えることではない。言葉を使って何ができるのか、そこを重視します。たとえ完全な外国語でなくても、外国語を使って、切符が買えた、商売が成立した、実際に何か成し遂げることができたなら、それを評価するわけです。そのような言語活動、タスク中心の指導をしていこう、というのがひとつの方針です。

この違いが分かっていない言語教師は問題です。例えば、オーストラリアにおける日本語教育は日本の英語教育と比べはるかに幸運な状況で発展してきています。コミュニカティブ・アプローチが主流で、そこを基に進化しています。ほんの数年日本語を学んだだけだという外国人が上手に日本語を話すのに驚いたことはありませんか?おそらくはコミュニカティブ・アプローチの成果です。

ところが、うちの生徒は歌やゲームを使って短時間でこれだけの単語数を楽しく覚えたとか、そんなことばかり自慢している日本語教師がいます。それを悪いとは言えないでしょうが(悪いと言った方がいいのですが)、重要なのは、テストの点ではないのです。言葉を使って何が実際にできたのか、です。

言葉を「覚えさせる」ことから、言葉を「使わせる」ことへ、という発想の転換ができない教師は、迷惑な化石のような存在。たとえ生徒から人気があっても、21世においては無用で無能な教師です。

コミュニカティブ・アプローチへの転換には、おそらく意識を鍛えるという発想から無意識を含めて鍛えようという発想の転換があったように思います。たとえ教えていない言葉であっても、状況から生徒はその新しい言葉を理解するものです。それはとても重要なことです。言語習得は無意識の領域で生成する創造的なものです。

さて、生け花です。

なぜ、海外の生け花はこれほどレベルが低いのか?

日本には数千の花道流派が存在するようですが、この問題をきちんと考えているところは存在しないように思います。私の論考が注目されることも当面なさそうです。

ふと思うのは、生け花の指導において、学校英語的な指導がなされているのではないか、ということ。型とかデザインとか意識のレベルで認知できることを指導することが中心なのではないでしょうか。

英語教育の目標は、言葉を覚えることではなくて、言葉を使って何が実際にできるかだ、とはっきりしてから指導方法が変わっていったのです。意識レベルの学習から、無意識を含む全人的な学習へ、と。

生け花では、花を使って瞑想できるか否か、その結果が作品になるのです。無意識の働きが大きく関わってきます。さらに突き詰めるなら、生け花の目的は、デザインの優れた作品を作ることというよりも、花を通じて瞑想を深めることなのです。意識から無意識へと焦点を転換させなければいけません。

ところが、海外においては瞑想ということができていないように思います。外国人の多くは生け花を意識の次元で解釈し、まるで西洋フラワーアレンジメントの延長として、デザインの問題として学ぼうとしているように思います。生け花風の作品は出てくるでしょうが、瞑想に基づく生命のある花は出てこないでしょう。

最近、井上治先生国際いけ花学会会長)が、華道とは禅だ、という趣旨の著作を出版されました。とてもタイムリーな出版です。たくさんの方に読まれるといいなと思います。いつかこの著作についてもきちんと考えてみたいと思います。基本的には私の主張と同調です。井上先生とは連日メールでやりとりしていますが、このような立ち入った話はあまりしていないのです。それでも不思議と現代生け花の最大の問題点として、同じ課題(つまり、禅的性格あるいは瞑想体験の欠落)に対峙しているということは、嬉しい発見でしたし、とても力を得た思いです。

さて、瞑想しなさい、無意識を働かせなさい、と言うのは容易ですが、どのように指導していったらいいのか。そのような取り組みは現在、存在しないのではないでしょうか。

特に自由花の指導が問題です。

指導理論がないものですから、多くの流派で縦に伸びる形、とか横に伸びる形とかトピックを作り、作例を示して指導しています。このような指導書で生け花が上達するはずがありません。生気を欠いた駄作が生産され続けるだけです。

海外でも生け花の学習者が増えて、流派の収入が増えれば、それで十分。そんなことでは、生け花の生命は失われてしまいます。

指導しなければいけないのは、作例という結果ではなく、そこへ到るプロセスです。制作過程における瞑想体験を身につけてもらうことです。

そのようなことを考えて、生花道場では制作過程を重視した指導を導入することにしました。初めての試みですから、試行錯誤しながら取り組んでいこうと思います。

生花道場の取り組みについては他のところでも発表していく予定です。

2021年11月18日

生け花と嗜好

 


フランスの社会学者、Bourdieuの"The Rules of Art" は、手強い本ですが、名著とされています。私にとっては専門外の本ですが、自由花運動の分析の際、参考にさせてもらいました。その論考は、京都芸術大学から出版される書籍の一章に加えられるようです。

専門外のことに口を出すのはかなり怖いことだと承知していますので、いろいろ言い訳めいたことを言いたくなります。日本語版が入手できなかったので、英語で読み、それをもとに日本語で論文を書いた、などなどいろいろハンディがあったわけです。

ま、それはともかく、最近、気になった事があったので、ここにメモしておきます。いつか、もっと大きいものに膨らんでいくかもしれません。

Bourdieuの分析は、早い話、社会階層と芸術の嗜好が関連しているということ。上流階級が知的な純粋芸術、クラシック音楽を好み、中産階級、無産階級が大衆芸術、大衆音楽を好む。さらにクラシック音楽を好む子供が、気づくと上流階級に、ロックを好む上流階級の子供が成長すると無産階級に移行しているという原因と結果が逆転するようなことも起こり得ます。

嗜好というのは、思っている以上に不思議で、強力な力を持つものであるようです。

ただ、私が今、考えていることは、嗜好の問題として解釈していいのか。よくわからないのです。

それは、例えば、海外における生け花の現状についてです。

このブログで何度か書いてきましたが、日本人にはなかなか真似のできない生け花がよく存在します。失礼なことは書きたくないので、表現が難しいのですが、個性の強い生け花です。わかる方にはわかっていただけるでしょう。

それについてあれこれ考えてきました。この非詩的な生け花はどこから生じるのか、どうしたらうまく指導できるのか、と。さらに、自分なりの対応策を目指し、(私の考える)生け花の詩性を学んでもらいたいと、生け花コースまで作ってしまいました。

しかし、非詩的な花が多くの方に支持されるなら、そして、作者も満足、鑑賞者も満足、という状況なら、これをなんとかしようという私の立場に、意味があるのでしょうか?

例えば、ラップが好きだという若者に向かって、「そんなもの音楽じゃないよ。音楽の生命がない。モーツァルトを聞きなさい」などと言って笑われる老人に似ていないでしょうか?彼らにとっては、それこそが音楽なのです。新しい音楽として生きており、クラシック音楽はそこに音楽の本質があるかもしれないけれど、屍に過ぎない、興味はわかないということでしょう。

結局、他人の嗜好にあれこれ言っても仕方ないということでしょうか。海外における非詩的な生け花も生け花の新しい形なのかもしれません。

Bourdieuに戻ると、彼は、特定の芸術について、あれがいい、これがいいと議論し、闘争する「場」があって、そこからその時代に特有の芸術の定義が生まれるというようなことも書いています。

とすると、成り行き任せではなく、この生け花の「場」において、あれこれ発言してみる、批判してみる、そこに何か意味があるのかもしれません。たとえ敵を作ったり、嫌われたりするということがあったとしても。それは、先人も皆通ってきたプロセスなのです。

2021年11月16日

生け花とポストモダン

 


河合隼雄対話集「こころの声を聴く」(新潮文庫)の中で、ちょっと気になる部分があります。村上春樹とのやりとりです。


河合「日本の読者はプレモダンの人もたくさんいるから、ポストモダンみたいに見える人もいるんですね。それも大きい問題でしょうね。モダンをまだ通過していない人(笑)(略)

僕が心配しているのは、西洋の場合はモダンを通過してポストモダンに行くけれど、日本がモダンを回避してポストモダンに行った場合です」

村上「それはすごい問題になりますね。(略)」


私は生け花の文脈で、生け花の近代化について考えています。戦中、戦後の自由花運動から前衛いけばなの生け花ブームのあたりのことになります。

私見では、生花における近代化はかなり曖昧な表層的なものだったと思います。日本文学における近代化などと比較して考えても、やはり物足りないですね。もちろん私の知見は極めて限られていますが、おそらく重要な問題を提起したのは山根翠堂ただ一人かなと思います。

そして、生け花では「モダンを回避してポストモダンに行く」ということが、かなりの可能性で起こりえます。それが「すごい問題になる」のかどうか。全くも問題ないということになるかもしれません。また、いつか、考えがまとまったら書くことにします。

生け花におけるポストモダンとは何か。

それを実践している方々が、ほんの数名ですが、あるわけです。その人たちの活動は刺激的です。


2021年10月31日

Zoom 生花道場、レベル3

 


生花道場はのんびりと続けています。

レベル1では、自由型でデザイン要素、デザイン原理を8回で導入。

レベル2では、基本型を復習しながらデザインの基本を8回再確認。

レベル3では、デザインから離れるということを目指して8回の予定。

ともかくこのコースの根本を作ってしまいたかったので、全24課程とし、一区切りしようと思っています。その後で、いろいろ改変していけばいいでしょう。

既存の生花コースとはかなり違うものになっているのではないかと思います。

なんと言っても体系的で、理論的に整然としています。

海外で生花を教えてきた私が経験した指導上の難しさをどう克服するか、その問題への一つの回答になっています。

レベル1、2はともかく、レベル3のコースに関しては、なかなか最終的な形が決まりませんでした。発表までにかなり時間がかかってしまいました。

いくつか論文エッセーを仕上げ、考え続けてきたことがようやく形になりました。

生花の自由型に関してはまともな教程は存在しないように思います。というか、きちんとしたものを提出した流派、指導者はいないのではないでしょうか?もちろん私は数千ある流派の教本を全て調べたわけではないですが。主要な流派の教本を見る限り、はっきり申し上げて、かなり雑です。海外の学習者のニーズには合っていません。履修してお金を払えば、師範やら教授やら様々な立派な称号はいただけるのでしょうが、本物の力がつくというわけではないのではないでしょうか。便宜的に、数合わせのために教程を組んでいるだけなのではないかと思われるものまであります。

また、既存の流派の教本を元に作った教程を自分の教程として販売している方もありますが、そこには新しいものを作って行こうという意志などほとんどありません。

さらに問題なのは、既存の教程を終え、指導者の立場になった場合、教える力が同時についているということがないだろうと思われることです。あのような全体像が不明瞭な教本で指導しようとしても、指導の方法について示唆は得られないでしょう。もちろん、例外的に教師として有能な方も稀に現れるでしょうが。

傲慢に聞こえるかもしれませんが、今後の、国際社会での生花のことを本気で考えるなら、この程度の批判は遠慮する必要はないでしょうし、許してももらえるでしょう。もちろん、生花の現状を批判する以上、批判されることも覚悟しないといけないでしょうが。

しかし、いくら自分でいい教程だと主張しても、「美術修士、教育学博士が作ったコースだ」などと(恥ずかしげもなく)宣伝しても、取り組んでくれる方がいない以上、意味がないでしょう。一人でも参加して下さる方があれば、続けてみて、改変しつつ、史上最強の生花コースにしていこう、この教程は今後、多くの生花コース改変のきっかけになるかもしれないよ、などとスタッフに大言壮語していました。

幸い広報初日に数件申し込みがあり、これなら参加者から色々声を聞きながら取り組んでいけるかな、と思っているところです。

2021年10月15日

外国人に生け花を教える難しさ(6)


外国人に生け花を教える難しさ、ということで何回か考えてきました。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/search/label/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA 

その難しさの原因は何だろう、どうしたらあの独特で強烈な癖(失礼!)が矯正できるのだろう?と、あれこれ考えてきました。

ひとつのことを考えだすと、あれこれと仮説が出てきたり、あれやこれやとつながってきたりするのがいつものことです。すると、ひとつのエッセーができたりします。ちょうど著名なオンライン・ジャーナルからメルボルン生け花フェスティバルの広報を兼ねて、寄稿しないか、と誘われたので、以下のような記事を掲載してもらいました。よければ読んでみてください。


私のひとつの仮説は、生け花をデザインとして解析し、制作しようとするところから非詩的な生け花が生まれるのではないか、というもの。非詩的などと仮に名付けてみましたが、近代生け花の大家、山根翠堂なら「死花」と切り捨ててしまったかもしれません。

説明は難しいですが、生け花の花が造花と変わりないような生け花作品。あるいは、造花で作った方がいいのではないか、というような生け花作品でしょうか。

生命のない生け花、即ち詩性のない生け花ができるのはなぜか?

原因は、生け花はデザイン、つまり人為による知的な工芸品である、つまり、生け花は作者、人を表現するものだという考えに由来するのではないでしょうか。西洋のフラワーアレンジメントは、そうした考えに基づいているように私には思えます。

つまり、素材の本質(すなわち自然)を表現しようというのではなく、素材に「人が何をしたか」を表現したいということ。そこを面白がっているのです。作者が直感した自然、その深さではなく、人やそのテクニックが関心の対象なのです。西洋のフラワーアレンジメントの延長として生け花を学んでいるという外国人も多いのかもしれません。両者は根本に大きな違いがあると思いますが、どれだけの人がそれを認識しているでしょうか。

このような自然より人を優先する態度は、戦前、西洋モダニズムが日本に紹介された際、その中心思想のひとつとして日本の生け花界に影響を与えました。現在、西洋ではモダニズムは反省と批判の対象でしかないですが、日本の生け花の多くは、今だにモダニズムのアプローチの主張を繰り返しています。そろそろ目覚めて欲しいものです。正直なところ、私はうんざりしています。

しかし、ふと、思うのは、日本ではそれでいいのかもしれないということ。

日本人にいくら「人を表現しろ」と教えても、日本人は自然に、作品に「自然」が入ってくるのではないでしょうか。修行を積むにつれ、生きた花になっていくのではないでしょうか。

しかし、日本人には自然なこの推移が、外国人には難しいのかもしれないのです。
外国人に「人を表現しろ」と教えると、本当に、人だけになってしまい、死花のまま、なかなか生きた花にならないということではないか。

もし、そうだとすると、自然に対する態度において、日本人とは重要な違いがあるのかもしれない、などとまで考えてしまいす。

しかし、このような仮説自体、カルチャル・ナショナリズムと批判されかねない意見です。決して、あからさまに、うかつに公言してはいけません。そこは承知しつつも、どうしたらいいのだろうと、悩む日々なのです。

2021年9月7日

花信:今、世界が求める花がここに

オンライン花展、HANADAYORI 2021が公開されました。
世界中の方々からリクエストを募集し、
華道家に個別に挑戦していただくという初の試みでしたが、
予想以上の仕上がりでとても満足しています。

生け花ならではの力、心を撃つ花のメッセージ。
そのようなものが感じていただけるものになれば、と願っていましたが、
公開初日から「涙が溢れました」というようなメッセージをいただきました。
私たちが目指していたものが少しは達成できたのかもしれません。

ご協力いただいた多くの方々にお礼申し上げます。






2021年7月24日

メルボルン花器賞の発想

 

前回、オンライン花展・花信の着想について書きました。

今回は「メルボルン花器賞」の発想についてです。この企画もメルボルン生け花フェスティバルの新しいプログラムとして今年から始めたものです。まだ、うまくいくのかどうかは不明です。うまくいくことがはっきりしてから、「成功への着想」などとして自信たっぷりにお話しできれば、もっと面白いのでしょうが。

今回もまた参考にしていただけるのかどうか分かりませんが、問題打開の方法として、もしかすると一般化できる点があるかもしれません。それほど独特の発想方法ではなく、広く行われていることでしょうが、私にとっては面白い経験でした。

まずは背景です。コロナのせいで海外、州外からの出展者があまり見込めないだろうという非常事態です。すると、開場費用の捻出が難しくなります。どうするか?

もちろん対策は色々あります。最も簡単なのはキャンセルすること。あるいはより小さな安い会場を借りること。

しかし、メルボルンの文化芸術の発信地として知られ、市の中心部にも近く、数年来使っているアボットフォード・コンベント、これに代わる場所はなかなかありません。

会場費用が仮に10万円だとします。出展者からの費用では5万円しか調達できない。不足の5万円をどうするか?ここが出発点だったのです。おそらく似たような状況を経験したことがあるという方もおありでしょう。

まず考えたのは、会場を半分、陶芸教室に貸して、彼らと合同の展覧会にしようという案。

陶芸教室を調べてみると、その数の多さに驚きました。メルボルン近辺で軽く20ほど見つかります。それに比べ、メルボルンで常時営業している生け花教室など一つもないはずです。陶芸はかなり大きなマーケットなのだと気づきました。さて、こちらの条件に合わせて展覧会をやってくれるところがあるだろうか?

しかし、飛び込みでいきなりこんな話をもっていっても、私たち自体あまり実績がないため、なかなかうまく話が進みません。私の営業力は不十分です。

どうしたらいいのか?

問題は、予算です。その枠です。10万という枠組みで考えていると、どうしてもやれることが限られてくるのです。では、この枠組みを二倍にしたらどうか?つまり、20万の予算で発想してみてはどうか?20万遣って、20万入ってくる仕組みができないか?と考えると、途端にオプションが増えます!

会場費の10万に加え、10万の賞金を予算に追加して花器賞を創設しては!?

コンクール出品者から出品費用を集め、さらに、出展作品を販売。その手数料を得て、合計 15万円くらいの収入を得る。それはさほど難しくはないだろう、と。なんと言っても陶芸人口の多さは心強い。不確実な要素はありますが、これは行けそうだ!と思い出すと、もう、いてもたってもいられません。

あれこれ手を回し、賞金額の少ない分、これを意義のある賞にする工夫を考えます。オーストラリアの陶芸では最高峰のヒロエ・スウェンさんに協力を求めますと、快く審査委員長を引き受けてくださいました。これでなんとかなりそうです!オーストラリア史上初(おそらく)の花器賞の発進です。

ここで私が見つけた教訓はこうです。ある予算内で二進も三進もいかない場合、ひとつの試みとして、予算を拡大してみること。資金不足の問題は、より多く遣って、より多く稼げばいいわけです。新しい可能性が開けるかもしれません。

この企画がうまく行ったならば、「なるほど!」と思っていただける、説得力のある話になるのでしょうが。コロナをはじめ様々な障害がある中で、どこまで達成できるのか、今はまだ不透明です。

日本とは違い、感染経路不明の新規感染者が2名出るとロックダウンという厳しい現実。市民は疲弊します。しかし、その効果は大きく、世界的に見てもコロナ対応で最も成功している都市のひとつはメルボルンかもしれません。日々、数千人の新規感染者が出る緊急事態宣言の中、花展を開催し、「こんな状況でよくやった」などと賛辞を贈ったりしている日本とは認識が違います。政治力も違います。

ともかく、募集を開始して間もないのですが、かなりの応募が来ています。まだ目標数には達していませんが、著名な陶芸家からの応募も含まれています。こちらから出展して下さいとお願いするのではなく、先方から出展させて下さいとおっしゃっていただけるのはありがたいですね。嬉しいことに、かなりレベルの高い花器展になりそうなのです。

さらに、生花と陶芸は親和性が高いことに改めて気付きます。二つの領域で相互に関心を寄せ合う関係です。経済的な事情で発案した企画ですが、それを超えたところでも効果が見込めそうです。

いい花器が手に入らないというのは、こちらで生花をやっている方々の共通の悩みでしょう。そこに一つの朗報をもたらすことになるかもしれません。将来的に花器作りに精を出してくれる陶芸家を応援することになるかもしれません。

さらに、花展への来場者を倍増させる効果もあります。陶芸愛好者の層の厚さ、生花に関心のある方も多いのです。観客としても貴重な方々を呼び込むことになるでしょう。

最初の陶芸教室との折半案と比べて、遥かに夢のある、ワクワクするような企画になっているように思います。こういう企画には、協力スタッフも一層力が入るようで、展開を楽しみにしています。スタッフの動機付けに効果があるなら、それは最大のメリットかもしれません。


2021年6月22日

オンライン花展、花信の発想

 


オンライン花展、花信(Hanadayori)の準備が整ってきました。
素晴らしいゲスト出展者にも恵まれ、とても幸運な初回開催となりそうです。

花信について、まず話したいことは、その発想の原点です。
私にとっては少し変わったアプローチでした。何かの参考にしていただけるのか、それは不明ですが、少しお話ししてみましょう。

通常、ある製品を開発する際、既存の成功している製品から発想していくということはよくあると思います。

例えば、マツダのSUVがヒットした、となると、トヨタはそれとほとんど同じような製品でありながら、少し室内が広いとか、特別な装備を加えるなどして対抗する新製品を発売します。

あるいは、あるイベントがあって、そこそこうまくいったという場合、そこからヒントを得て、さらにいろいろな改良点を加えて、発展させ、新しいイベントを企画する、というようなこともよくあると思います。

つまり、AからA+を考えていくというやり方です。おそらくこれが普通の製品開発でしょう。

今回の花信は、そういう典型的な製品開発とは少し違った方法でブレイン・ストーミングしていきました。

オンライン花展をやりたいという発案がありました。それは、いろいろな意味で私達、メルボルン生花フェスティバルにふさわしい、ということだったのです。問題は、いかにやるか、ということ。

出発点として、既存のオンライン花展をいくつか見てみました。
何かもの足りないのです。でもそれが何なのか、また、どうすればいいのか全く見当もつきません。

そこで、A, B, C, D それぞれが含んでいないものについて考えて見ました。非A、非B、 非C、 非D、それらの共通項はなんだろう?と考えたのです。それぞれに欠けているものの共通項です。それがわかると、もしかすると既存のオンライン展覧会の物足りなさの根本原因がわかるかもしれません。なかなか思いつきませんでしたが、突然、あ、そうか!と。

欠けているのは2 Way のインターラクションです。両方向性!

つまり、既存のオンライン花展のほとんどは、制作者から観衆へ、という一方通行なのです。制作者はもちろん観衆のことを考えてはいるでしょうが、自分の修行の成果を発表したいということが主になるのではないでしょうか。観衆の立場からすると、綺麗だとか、勉強になるとかいうことはもちろんあるでしょうが、もしかすると「よく分からない。ただの自己満足じゃないか」なんていうこともあるかもしれません。

そうではなく、観衆の心を撃つ花、観衆の求める花を展示する展覧会にできないか、とアイディアが膨らんできました。

そこで、世界中からリクエストを募集して、生花作家にリクエストに応じてもらおう、という企画ができたのです。観衆から華道家へ、華道家から観衆へ、という両方向の流れが生まれます。通常より一手間余計にかかるのですが、その手間が何十倍にもこの企画を面白いものにしてくれるでしょう。もちろん、他にももっといい方法はあるでしょうが、とりあえずは私たちの手の届く範囲ではこの辺りからでしょう。

広く一般にリクエストを公募することで、普段、生花に関心のない方にまで興味を持っていただけるかもしれません。「世界の人たちは、今、花に何を求めているのか」、これは多くの方にとって興味深い問いでもあるでしょう。そんな生花の原点を問うような企画になるかもしれません。

参加して下さった世界各国の華道家の方々からどのような花信が届くのか、楽しみにしたいと思います。2021年9月4日に公開予定です。

追記:花信公開されました。

2021年6月19日

外国人に生け花を教える難しさ(5)

 

何度もお断りしていますが、外国人の中にはとても生花が上手な方がいらっしゃいます。それはまずきちんと確認しておきたいと思います。

それでも、時々、「これは外国人の作品だな、日本人はこういう作品は作らないな」と思うことがあるのです。それが、私の生徒の場合、どのように指導したらいいのだろう、と悩むことになります。

ひとつ特徴的なのは、線の硬さ。まあ、例えば、直立不動(気をつけ!)のままダンスを踊っている感じです。不自然で、硬いなあと感じます。詩性も楽しさも感じられません。

もしかすると、「生花は自己表現」だという教えを勘違いしているのではないでしょうか。

「生花は自己表現」だという主張は1920年代頃から日本の生花の世界でなされているものです。西洋芸術のモダニズムの影響でしょう。つまり、西洋の考え方を日本人向けに紹介した教えです。

生花とは自然素材を尊重しつつ、自然の美しさを表現するものという前提があって、それを踏まえて、そこに自己主張も加えてみませんか、という程度の理解で受けとられたのかもしれません。というのは、とことん自己表現だけの(素材の自然性を完全否定した)生花はあまり存在しないように思うからです。基本的に自然素材の持っている面白さ、美しさを発見したなら、それをあえて壊すようなことはしないだろうと思うのです。

自己を表現した生花、と言っても、そこに表現された自己とは、自然の一部としての自己かもしれません。自分も自然の一部だと認識しつつ、自然素材の持つ味、線、動きを尊重しつつ、制作していくわけで、人と自然の共同作業のようなもの。

おそらくその創造過程の理想は無私の境地ではないでしょうか。深い瞑想状態とも言えるでしょう。生花の創造体験の一番深いところですが、皆さん、いろいろな表現でそれを説明してくださっています。「花と話しつついけていく」とか、「花と一体になっていけるのだ」とか。私なら「頭で作るな、無意識で作ろう」とでも言うかもしれません。華道史上、稀有の華道家であった山根翠堂は次のように書いています。

「花をいける人の心が、花の心に同化して、花のように美しい心にならなければ、決して、その本来の使命に忠実な、真に芸術的な『いけ花』はできません」(「花に生きる人たちへ」)

「同化」という言葉の意味は深いと思います。花は素材という客観的対象以上の存在になるのです。

ところが、ことに戦後、海外にも生花学習者が増えていきます。

そこで「生花は自己表現だ」という教えを伝えた場合、本来自分たちの考え方が戻ってきているわけです。日本文化だと思って生花を始めてみたら、中身は西洋文化じゃないか、と。自然は制作のための素材でしかない、ということがそのまま受け取られます。日本では前提としてあった自然観がないわけです。

自分は自分、自然は素材。人と自然は断絶しています。

この指摘は多くの著名な方々が、日本人の自然観対西洋人の自然観として書いていることと共通しています。おそらくそのような日本人論を読んだことがあるという方も多いでしょう。実は、それはあまりに紋切り型で、単純すぎる対比です。日本国外でそんな話をしたら、誰にも相手にされません。

しかし、こと「生花は自己表現だ」という主張の解釈について考えていくと、この紋切り型の比較が参考になるように思います。

では、外国人にどう教えていくべきか。

まず、外国人には「生花は自己表現だ」などということは言わない方がいいでしょう。それは自然を尊重する表現ができた後で、ゆっくり考えて貰えばいいことなのです。「花を愛さなくても生花はできるんだぜ」というような本を出している外国人がいます。こういう勘違いが起きないようにするためにも、これは大切なことだと思います。こういう生花教師を輩出している流派はその指導に検討すべき点があるのかもしれません。

次に、もっと花を見つめなさい、瞑想しなさい、ということを強調して指導していくことかな、と思います。最近、その趣旨で英語であれこれ書いてみました。そういう指導ができないと、海外では私たちはまともな生花を教え、伝えていくことができないように思うからです。生花を教えるということの本質は、生花が瞑想だということを教えることだと思います。

おそらくこれは日本国内ではそれほど意識しなくてもいいことだと思います。説明しなくても生徒は自然に瞑想体験を身につけていくのではないでしょうか。生花とは「本来そういうもの」だからです。しかし、外国人に生花を教える際には、最大の障壁になるように思います。

最近、ある生徒から、もっと別な方法で指導してくれとあれこれ言われたことがあります。この障壁の手前で迷っている生徒の一人です。

その希望をよく考えてみたところ、彼女の生花理解がわかってきました。おそらくいろいろなデザインの型を覚え、花という材料をそれに当てはめて生花を作るのだと考えているようなのです。自分の頭にある型、それを表現するために花を素材(客観的な対象)として使う。そのためにいろいろな効果的な型を教えてくれということに行き着くのです。先に書いた西洋人的自然観による生花理解の典型です。基本型の勉強はそのような態度で始めることになるでしょうが、自由型に移って、数年したならば(ましてや師範をとったならば)、そのような、頭だけで作ろうという態度ではいけません。生花の本質に至ることはできません。

生花のデザインは自分の頭から捻り出すのではなく、むしろ無私の境地で素材から(あるいは自分の無意識から)抽出するものだと教えたいものです。そこには、花との共同作業、一体化、同化、といった瞑想体験が必要です。花を客観的対象として見ているだけでは到達できない境地です。生徒がそこを理解し、体得できるかどうか。そこがポイントのような気がします。

デザインという結果ばかりをみていてはいけない。過程を重視しなさい。

生花はデザインじゃない。

生花は瞑想なんだと、強調していくことでしょう。

それで生徒が離れていくなら、仕方ないですね。金のためだけに生花指導をやっているわけではないのです。譲れないものは譲れません。

もしかすると、生徒は自然観の変更を迫られるかもしれません。その変更が可能なら、生花を海外に広める意義はとても大きいように思います。


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2021年5月7日

花信(Hanadayori)プレスリリース

 報道関係各位

2021年5月5日年

和·メルボルン生け花フェスティバル



「今、こんな花が見たい!」という世界の方々からの

リクエストに華道家がお応えする

オンライン生け花展「花信 Hanadayori」を

9月に開催します。

今、世界はどんな生け花を欲しているのか




和·メルボルン生け花フェスティバルは、「今、どのような生け花が見たいか」への回答を世界から公募し、それに日本国内外の華道家が応じるオンライン生け花展、Hanadayori 花信: Ikebana by Request を2021年9月4日に開催致します。 

URLhttps://www.ikebanafestival.com/news/hanadayori-online-exhibition 


Hanadayori 実施概要】

イベント名:Hanadayori 花信: Ikebana by Request

開催日:20219月4日開催

会場名:オンライン·イベント、https://www.ikebanafestival.com

協力者:片山健(草月流師範、いけばなインターナショナル福岡支部名誉顧問)ほか、日本国内、海外の華道家約50名の参加を予定。


参加方法(一般の方):ファーストネーム、居住地(国、市)、どんな花が見たいか、その理由、背景などを次のコンタクフォームで6月10までに通知:https://www.ikebanafestival.com/contact


参加方法(華道家)

6月10日までに:氏名、メールアドレス、流派などを次のフォームで登録: https://form.jotform.com/211216934314852

6月中旬:選出された方々にリクエスト内容を個別に送付。

7月末:作品画像送付

9月4日:リクエスト内容とともに作品公開


Hanadayoriで実施する内容

1、「どんないけ花が見たいですか?」とSNSを通じ、世界中の方に問いかけ、リクエストを募集。リクエストには、個人的な事情、理由なども付記していただきます。

2、約50のリクエストを選出。ひとつひとつに応じる形で、華道家に新作を依頼し、作品画像を送っていただきます。

3、送付された画像を当方で編集し、リクエストと作品を並べてYouTubeで発表します。鑑賞者はコメント欄にて華道家にメッセージを送ることができます。


従来の多くのオンライン花展と比べ、鑑賞者から華道家へ、華道家から鑑賞者へという双方向的な活動となることを目指しています。花信とは、リクエストをし、花の開花を心待ちにする鑑賞者へ、個人的なユニークな花の便りを華道家から届けるという意味で名付けたものです。


Hanadayori実施の目的


この企画は、世界中の生け花鑑賞者と華道家をつなぐことだけでなく、パンデミックのために苦難を強いられている多くの人々に花の力を通じてささやかな喜びと癒しを届けることを目指しています。


従来のオンライン花展では、鑑賞者の欲するものを汲み取る試みは比較的少なかったように思われます。現代の生け花は本当に鑑賞者の欲するものを提供できているのか、鑑賞者と華道家をもっと結びつけることはできないか、そうした思いのもと、この企画が計画されました。


和·メルボルン生け花フェスティバルの主目的は、生け花の活性化、生け花人口の増大です。その目的達成のためにも、Hanadayoriは有効な企画でしょう。


出展者プロフィール

片山健 http://www.ken-katayama.net/profile.html

他多数。現在、交渉中。


和·メルボルン生け花フェスティバルについて

メルボルンの華道家グループが2015年以来開催されてきた合同花展を発展させ、2019年、和·メルボルン生け花フェスティバルとして発足。花展に加え、ワークショップ、デモ、学会(国際いけ花学会との共催)などを同時開催。特に、メルボルン·リサイタルセンターでの国際的な演奏家グレゴリャン·ブラザースとの生け花パフォーマンスは好評を博しました。2021年には、国際的なジャズピアニスト、ポール·グラボウスキーとの共演が予定されています。また、花器賞が新設されました。


和·メルボルン生け花フェスティバル 

https://www.ikebanafestival.com

https://ja.wikipedia.org/wiki/和·メルボルン生け花フェスティバル



【お問い合わせ先】

代表:新保逍滄

e-mail: wa.ikebana@gmail.com


追記:花信が公開されました。

2021年3月29日

メルボルン生花フェスティバルの分かりにくさ

 


先のポストで触れたように、生花に関する様々な活動に関わっていますが、自分にとって最もわかりにくいのが、メルボルン生花フェスティバルです。

まだ1回しか開催していないのですから仕方ない部分もあります。自分の納得できる形になっていないという事もあります。

商業的な事業であれば、経験からやり方がわかります。学問のような個人的なプロジェクトも同様です。どちらも達成目標が明確で、それに向かって手順よく努力していけばいいのです。慣れたものです。また、ボランティアならそのように割り切ってやれるでしょう。

しかし、メルボルン生花フェスティバルには、どうもそれらのどれとも割り切れない部分があり、今まで経験したことのないプロジェクトなのだと感じています。

ある面ではボランティア、ある面では事業、ある面では自分が捨て石になる覚悟を求められます。自分の立場がよくわからないのです。

さらに、自分がどこまでコミットするべきか、についても確信が持てません。支持者があり、多くの方がメリットを認めて下さるなら今後も続き、意義のある活動となり得るでしょう。また、支持者がなければ消えていくでしょう。どのようになっていこうと、それを受け入れる覚悟は持とう、あまりこだわりは持つまい、執着は持つまい、とは思っています。

このイベントを私物化しようなどという考えは持つべきでないと思います。リーダーが自分の利益、便宜だけを優先するようなことはあってはいけないでしょう。人がついていかないでしょう。「より多くの人に生花を」というような大きい目標も達成できません。おそらく、会社組織で運営するなら別でしょうが。

ですから第1回目は私が代表を務めましたが、2021年度からは別の方に代表を代わってもらおうと希望しています。国際的なスケールで、創造的に、そして、平等に(誰でも参加でき、努力した方が相応の機会を得られ、特権者は作らない)、というような基本方針が定着したなら、私は役目を終えたいのですが、その段階なのか、これまた確信が持てません。

このように私にとって実にわかりにくいプロジェクトなのです。リーダーが熱意を持たずに成功するはずはないですから、とりあえずの熱意を持ちつつも、深いところではどう関わったらいいのか、まだ手探り状態なのです。

となると、周囲の方からすれば、おそらくもっとわからないでしょう。相手によって趣旨説明を変えていますが、話が通じなかったり、誤解が生じるのも仕方ないと思います。

メルボルン生花フェスティバルの運営を特に難しくしている根本の理由は、多くの方々にご協力いただかなければ成立しないプロジェクトだから、です。ここが私が関わる他の生花の活動との大きな違いでしょう。

権内・権外という言葉があります。学問研究などは権内の活動と言えるでしょう。自分一人の努力で成功失敗が決まることが多い。基本的に自分次第です。小規模の事業などもある程度、そうかもしれません。

それに対し、メルボルン生花フェスティバルには権外の要素が大部分。私一人がいくら頑張っても、どうにもならないことが多すぎるのです。ですから、初回の開会式で「これは奇跡じゃなかろうか」などと私が大袈裟な発言をしていますが、そこにはそうした事情があるからです。私の関与できない様々なことが上手く組み合わさり(まるで人智を超えた力が働いているかのように)、成功へと導いてくれました。「とびきり運が良かったな」「人に恵まれたな」というのが、初回の実感でした。

そこで、只今の大きな課題は、メルボルン生花フェスティバルへの協力者や関係者をどのように説得し、動機付けしていけばいいのか、です。

例えば、実行委員の方々。ほぼボランティアで、よく頑張って下さいます。しかし、彼らの仕事はかなり大変です。賃金を払って、仕事を割り振るなら簡単です。実際、そうしたいとも思います。会社組織にしてメルボルン生花フェスティバルを運営できれば分かりやすくていいですね。収益は少ないので、経営は苦しいでしょうが。赤字にはならない程度にお金を動かせるのではないかと思います。

しかし、無報酬で彼らの動機をどのように維持できるのか。

幸いこれまでのところ、メルボルン生花フェスティバルの目指すもの、遠大な夢のような私の話に共感し、「ついていってみようか」という事だと思うのです。「前人樹を植えて、後人涼を得る」。私たちはこの ことわざの「前人」となる覚悟を持てないだろうか。自分達の苦労の果実は、自分達は享受できないかもしれないけれど、次の世代の人達の間では、生花への関心が大きくなるはず。自分達とは違い、先生も容易に生徒が集まるだろうし、生花の癒し効果を生活の一部とする人達も増えるだろう、と。

もちろんこのような精神的とも言える動機づけで動いてくれる方はかなり意識の高い人達で、数はそう多くはありません。反発、離反、傍観も経験しています。仕方ない事です。それを恨んだりすれば私達の負けです。

また、出展者の方々にどのように出展の意義を説明していくか。これも容易ではありません。日本文化の発信の機会として、などというより、個人的なメリットを強調して説得していくことかな、と思います。自分へのチャレンジの機会に、ご自分の教室のPRに、流派のPRに、そのようなところに落とし込んで、それが効果的に達成できるように配慮していくのが基本でしょう。

ただ、日本からの出展者となると、個人的なメリットはそう多くはないでしょうから、身近なメリットを越えた、もっと大きな意義を見出して下さる方に訴求することになるでしょう。

ともかく、もっと理解者、協賛者が増えていくと、メルボルン生花フェスティバルはさらに面白い企画に育っていくでしょう。今の段階でもいくつか突出した特徴がありますが、継続し、実績を積むことができれば、花道史的にも意義のあるイベントとなる可能性もあります。まずは、メルボルン生花フェスティバルの趣旨について、もっと広報していくことが必要であるようです。

2021年3月18日

日本文化の発信(2)

 


次から次へと生花関連の企画を思いついては、取り組んでいます。

生花道場生花ギャラリー賞メルボルン生花フェスティバル、さらに学術的な取り組みなどなど。

お金になるわけでもなく、名声につながるわけでもない。それでもやらざるを得ない。と言うか、基本的には好きなことをやっているだけなのですが。

さらに、来年から「いけばなとは何か」と題し、山根翠堂の名言を英訳していこうと思います。真生流のお家元からお許しをいただきましたので、国際いけ花学会の「いけ花文化研究」に数年かけて連載する予定です。

このタイトルは、西谷啓治の「宗教とは何か」に啓発されたもの。学生時代、最も刺激を受けた本のひとつでした。

私が英訳し、米国の大学で日本古典文学の教授をしている畏友(ネイティブ英語話者)に見ていただければ最高だろうと思います。

内容は山根の遺言とも言うべき「花に生きる人たちへ」(中央公論美術出版)の抄訳になります。この著作は、現代、いけばなに関わる人たちにとっても大きな意義があると思うのです。

ひとつには、いけばなには理念があるということを紹介できるでしょう。いけばなは花型(デザイン)の問題だとしか思っていない方が多いのが海外の実情でしょう。いけばなに関する英語文献を見回したことがありますが、理念についてきちんと述べた類書は少ないのです。

また、誠実にいけばなに生きた方があったということ、そして、本物のいけばなマスターとは、こういう方なのだ、と紹介したいですね。現在、私たちにはロールモデルとなるような方がなかなか見当たらないように思うのです。

さらに、山根の言葉には、いけばなの癒し、あるいは、いけばなと環境問題について考えていく際のヒントがあるように思います。つまり、いけばなと現代の問題の関連を考える際の参考になるかもしれないのです。この点は私にとって重要なポイントです。

現代のいけばなに対する、私の最大の不満は、現代社会の問題にきちんと対峙していないということ(もちろん、例外はあります)。

いけばなは現代社会に何ができるのか?

いけばなは次の世代に何を伝えるのか?

例えば、現代芸術が真摯に環境問題に取り組んでいるのに、いけばなの大勢はそうはなっていないように思います。時代の動きに関わらない、あるいは時代の求める新しい価値が提示できない、ということでは、いけばな人口が減っていくのは仕方ないことかもしれません。

そのようなわけで、この抄訳が少数であっても関心のある方々に届くならば、大いに意義があるだろうと。

私がやる気になるのは、こういう企画なのです。

2021年3月15日

日本文化の発信(1)

 

先週、当地(オーストラリア)のラジオで東日本大震災の特集をやっていました。

そこに二人の日本専門家が登場し、あれこれ日本社会にコメントしていました。そこで「ああ、そうか」と、「自分がぼんやり思っていたことはこういうことか」と納得したことがあるので書いてみます。

まず、日本文化の紹介者、研究者には大雑把に言って、二つのタイプがあるということ。

一つは、日本文化にある程度の敬意を持った方。というか、日本文化の奥深さを認識し、自分の知らないこともありえると自覚している、謙虚な印象の方。

もう一方は、日本人なんてこんなもんさ、と見下すような態度が明らかな方。専門書を出版していたり、大学の教授であったり、日本政府から賞をいただいていたりと(日本を貶めるような学者を称賛する変なところが日本にはあります)、社会的には成功しているようで、大変結構なことですが、アクセントの強い英語で、大声で話すこんな傲慢な方が酒の席にいたならば、私など速攻で膝蹴りを喰らわしてしまうかもしれません。

しかし、武力行使の前に、こういう方の話も聞いてみるものです。

すると、某国の共産主義は素晴らしい、というようなところに行き着くのです。なあんだ、その筋の方か。その程度の頭しかないのか、と。致命的に勉強不足の輩ではないか。こんな方に「日本人は基本的にみんな馬鹿」などと言われても、相手にする必要はないでしょう。

さらに、海外で日本文化に携わっている自分の立場についてもあれこれ思うことがありましたが、それについてはまた別の機会に。

2021年2月7日

「専応口伝」再びー山根翠堂自由花論との類比

 


「専応口伝」についてあれこれ考えてきたことがようやくまとまりました。と言っても一つの仮説です。想像に任せて書いてみました。学術的に認められるのか、定かではありません。独断と偏見!ということになるかもしれません。

UC Davis の教授等、何人かに読んでいただいたところ、そこそこ面白いじゃないかということであるようで、「いけ花文化研究」に掲載されるようです。

私が指摘していることは、

「専応口伝」には生花の定義として二点、存在論的な定義と認識論的な定義が明言されているのに、なぜか認識論的側面が無視されてきた。

「専応口伝」の定義する自然の象徴としての生花と、天地人を骨格とする生花(せいか)は、似ているけれど、微妙に異なっている。自然の形而上学的把握の有無という点からすれば、両者は異質なものだ。

自由花運動は生花への西洋モダニズムの導入ということだけでなく、本人たちは気づいていないが、無視されてきた生花の本質の再興という側面があったのではないか。

こんな奇論が出てくると、「花道史も面白いじゃないか」という方、さらには、「もっと研究してやろう」「反論してやろう」という方が出てこないだろうか、と密かに期待しています。

実はこのエッセーは、構想している山根翠堂3部作の2つ目です。

一つ目は昨年、Intenernational Academic Forum で発表した論文。趣旨は、戦前の自由花運動と戦後の前衛生花との関係について、前者が後者に引き継がれたという継続性に注目する論者が多いようですが、私の論は、両者は全く異なる、社会学的な見地からは対立関係にあるとするものです。

白状すると、山根翠堂3部作の2つまで、これまで書いたものは、山根の実際の著作を読まずに書いています。一次資料にあたらず論文を書く!なんともひどい話ですが、資料が手に入らないのです。

最後の論文はきちんと一次資料を読んで山根翠堂の思想の根幹に迫ろうかと考えています。

しかし、京都芸大の井上先生とお話した際、井上先生が私が考えていたよりはるかに大きな枠組みで山根を捉えておられることに気付き、果たして、私が取り組む必要があるのかな?と思っているところです。

さらに、生花の学術的研究ということでは、また別の関心が芽生えてきているのです。

ここまで読んで下さった方のために、「いけ花文化研究」に投稿した最新論文の要旨を掲載しておきます。このブログでも専応口伝についてあれこれ書いてきましたが、最もまとまった内容になっているはずです。英文論文なので読みにくいかもしれませんが、機会があればいつか日本語版も発表したいと思います。


An Interpretation of Ikenobo Senno Kuden (16c) and Its Hidden Link to the Rise of Freestyle Ikebana in the Modern Japan


Shoso Shimbo, PhD
RMIT University Short Courses, Australia

Abstract

The introduction of Western modernism to ikebana brought about the Freestyle Ikebana Movement (the FIM) in 1920’s and 1930’s. Suido Yamane, one of the major advocates of the FIM developed a unique theory on Jiyuu bana (freestyle ikebana). This paper points out the similarity between his theory and the metaphysical statement in Senno Kuden, although the latter has not been adequately studied. Seeing ikebana as a representation of life energy did not begin with the reformers in 1920’s & 1930’s. Rather it has been around since the early stages of development in ikebana and deserves more attention. The historical significance of the FIM may lie in its effort to revive a neglected aspect of ikebana tradition.  

要旨

本稿は1920年代から30年代にかけての自由花運動の歴史的意義について考察するものである。明治以降、西洋文明の影響を触媒とする、いけ花における変容は文化変容の一例としてとらえられるが、ここでは自由花運動、殊にその中心人物の一人、山根翠堂の取り組みに焦点を当てる。翠堂の自由花論は形而上的未発である「真実の自己」が形而下的已発「自由花」として発動し、この一点に純形而上学的理としての「生命」が成立していると解釈できよう。これを「専応口伝」の「よろしき面かげを本とし、先祖さし初めし」に認められる本質論と対比してみたい。本質である「面かげ」が未発であり、「よろしき面かげ」における、形而上的本質である面かげの「よろし」さがより純度の高い形而上学的理として措定されていると考えられる。つまり形而上的「面かげ」という未発が「よろし」の働きにより、形而下的已発として挿花が成り立つのである。翠堂が純形而上学的理として把握した「生命」は専応の面かげの「よろし」さと近似した働きを持つのではないか。とすると、自由花運動という文化変容は、看過されてきたいけ花の始原の一側面に回帰しようという衝動を秘めた変容だったのではないだろうか。自由花運動の歴史的評価については前近代から近代への脱却、西洋由来の芸術性の主張という二点が注目されてきたが、いけ花における形而上学の最も重要な一面の再興という側面も検討されるべきだろう。

Shoso Shimbo

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