華道家 新保逍滄

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2018年12月29日

生け花と捕鯨(1)


日本が国際捕鯨委員会を脱退するということです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181228-00059221-gendaibiz-pol
残念ながら国際社会において日本側の論理、言い分は全く説得力がありません。
国際社会、ことに先進国の間で嫌われ者になり、
国益を損ねることになるでしょう。

捕鯨については以前にもこのブログで書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_9.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_10.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/nhk.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_16.html

なぜ捕鯨論争で日本に勝ち目がないのか、上のポストに私の意見も書いています。
要は、国際社会では環境に対する態度においてパラダイム・シフトが起こってしまっています。「日本の捕鯨文化を認めろ、認めないお前が悪い」という主張は、相手に改宗を迫るようなもの。そう、これは宗教問題のようなもの、と思ったほうがいいでしょう。何世紀にもわたる宗教戦争でおびただしい数の犠牲者を出してきた歴史を持つ国々を相手に、「改宗しろ」と迫ることの無謀を悟ることも必要かもしれません。

捕鯨問題が生け花と何の関係があるの?と思われるかもしれませんが、
私の中では両者は大いに関係があります。

少し長い話になるかもしれません。
できるだけはしおってまとめておきます。
いつかきちんと書き直すことになるかもしれません。
覚書きとして書いておきます。

まず、先に「遊びとしての生け花(1)(2)」として、
考えたことをもう少し掘り下げておきます。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_78.html

日本の花道史の中で、集約と拡散という対立する方向性のある動きが繰り返し起こってきたということを指摘しました。

集約/拡散というのは少々曖昧な表現です。

おそらくもっと適当な言葉で言い換えられるでしょう。
集約は、制度化、構築化、格式化、規格化とか。吉本隆明なら、共同幻想と言うかもしれません(違っていたらすみません)。
拡散は、脱制度化とか。坂口安吾なら、堕落と言うかもしれません(違っていたらすみません)。

昭和初期、生け花における自由花の派生、重森三玲による「新興いけばな宣言」(1930)は、日本花道史における格花に対する拡散への志向と考えられる、と説明しました。

しかし、実は、そのように捉えるだけでは、不十分です。
世界史的な視点からも考えなければいけません。

現代の生け花のあり方にも多大な影響を与えている重森三玲や勅使河原蒼風(草月流創始者)の生け花改革は、西洋モダニズムの導入でもありました。

それは資本主義と一体となり、世界に広がった世界観。

重森三玲は生け花において「植物はもっとも重要なる素材であるのみである」と言いました。生け花は「芸術」になり、自己を表現するものとなったのです(道であったものが、「芸術」に成り下がったと言えるかもしれない)。そして、花は自己表現の材料でしかない、道義的観念、宗教的訓話などとは無関係だとしたのです。草月流、小原流など、重森の影響を受け、戦後日本で急速に拡大した花道流派の根本にはこうしたモダニズムの考え方があります。

高度経済成長の価値観とぴったりの考え方なのです。

その世界観の特長は、ピカソの言葉に端的に現れています。
ピカソといえば、モダン芸術のチャンピオンの一人。
彼が自然について語った言葉をアンドレ・モーローが伝えています。

Obviously, nature has to exist so that we may rape it!
(分かりきったことだが、自然ってのは俺たちに強姦されるように存在しているんだ)

自然は客観的な対象であり、人間のために存在する資源でしかないということでしょう。
列強が弱い国々を植民地化したように、人類が自然を植民地化して何が悪い。
鯨を必要に応じて殺して何が悪い、ということになるわけです。
花など自己表現の材料でしかない、切ろうが曲げようが好きにして構わないではないか。花がかわいそうだなんて言うんじゃないよ、と。

捕鯨推進派の自然観と、戦後拡大した花道流派の自然観は深いところで重なっているようです。

この話は以下で示唆した、新しい生け花のあり方を探る必要があるのではないか、というところへつながっていきます。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_26.html

2017年6月16日

鯨の巨大便(5)


今年、2017年、4月に帰省したところ、郷土の文芸誌「村松万葉」が廃刊になると知らされました。寄稿者のリストをみると、50代の私が最年少の一人という状況ですから、存続は厳しいのだろうと思われます。この文芸誌を創刊され、32年間、継続してこられた文学者、本間芳男先生のご尽力にお礼申し上げます。
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20170329315525.html

「村松万葉」は新潟県の主要な公立図書館で閲覧できるはずですので、機会がありましたら是非ご覧下さい。また、本間先生の作品も機会がりましたら是非どうぞ。児童文学には、相応の枠組みがあるものと思っていましたが(ちょうどディズニー映画が様々なおとぎ話から残酷な部分を排除してしまうように)、先生の作品には、そんな配慮などまったくないのです。直球を子供達の胸にぶつけていく、力強い本物の文学です。
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E9%96%93-%E8%8A%B3%E7%94%B7/e/B004L26GWE
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/131382.html

このブログでも2回ほど「村松万葉」について、言及しています。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_28.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_8.html

今回は、2009年度版に寄稿した原稿、「蛭野・魚・地球」を再録します。そして、鯨の巨大便シリーズはひとまずここまでとします。

「村松万葉は文化遺産だと思う。特に年配の方々の思い出話は貴重なものだ。私達が経験し得ない先人の歩みは私達の人生にとても大きなものをもたらしてくれる。そう言う私自身、もう昔話をしてもいい頃か。甥や姪のためにも祖母や父母のことを書きたい。60~70年代の雪国の農家の生活は厳しく、怠惰の入り込む余地などなかった。今も、朝、起きられなかったり、困難に出会ったりすると、「父母を想え、祖母を想え」と自分を叱咤する。それほどの生き方を残してくれた。しかし、父母の時代については、母が健在だからきちんと話してくれるだろう。今回は私が子供の頃の話をひとつ、ふたつ。

故郷を離れて暮らしているせいか、育った蛭野の夢をよく見る。堤の前あたりに見慣れない建物が建っていたり、慈光寺に通じる別の道があるのを発見したり。そして、魚がいろいろな形で出てくる。浅瀬で大きな体を横にしてあえいでいたり、見たこともない色とりどりの魚の群れが気持ちよさそうに泳いでいたり。夢分析でもしてもらったら面白いだろう。「魚」に関連して思い出すことがある。私にとって大切な意味があるのかもしれない。

小一の頃だろう。学校の帰り、区画整備もされていない田圃道を歩いていた。気付くと、ようやく根付いた緑色の稲株の周りの水が真っ白になっていた。次の田も、また次の田も真っ白。ドジョウや蛙などの死体だった。皆、白い腹を上にして、固くなって水に浮いていた。何か大変なことが起こったのだ。一目散に家を目指した。新しい農薬を散布しただけだと知らされた。「それだけのこと」と言われても、何か取り返しの付かないことが起こってしまったのではないか、と心のざわめきは収まらなかった。

それからというもの、水中生物は激減した。いつの間にか数が減り、気付くともう何年も見かけない、という生き物がたくさんいた。私は魚はもちろん、水の中の生き物が大好きだった。水槽の生物はどれだけ見ていても見飽きることがない。ヨコノミは指先に乗る位の丸い蝦の一種。親が子供を腹に抱えていることもある。泳ぐ時、体を横にしてツイツイ泳ぐ。郵便持ちは細長い虫で、頭の後ろに毛のようなものが生えていた。泳ぐとそれがゆらゆら揺れた。ゲンゴロウと水澄ましは似ているけれどゲンゴロウがずっと大きかった。タナゴは横腹にきれいな虹色が浮かんでいて、川で捕まえたときは宝物扱いだった。ドジョウはくねくねと水面に上っては、また水に潜っていく。鯰の子供のようなグズというさえない魚もいた。愛嬌のある顔が好きだった。黒いナツメも不思議な魚だった。そして、少しこわいようなタガメ。

毎年、稲刈りが終わった頃、堤狩りがあったことも思い出す。水を落とした堤で魚を掬い取る。蛭野のどの家にも大きな網があった。大人の関心は鯉だったように思う。鯉は取っても自分のものにできず、いったん全て集め、くじ引きで分配していた。だから子供はフナなどの鯉以外の魚を狙った。普段は見かけない魚がたくさんいた。それを腰のびくに入れ、冷たい泥水に首まで浸かってあさるのだ。堤狩りの後は、しょうゆ味の雑魚煮が何日もおかずにでた。亀が取れることもあったが、それは大変な賞品だった。甲羅に穴をあけ、池の周りにつないでおく。「去年はあの辺で亀が取れた」などということが子供の話題になった。私にとって蛭野は生き物の宝庫だった。そんな話を家内にしていたら、痛いほどの思いが込み上げてきた。

最近、奇形蛙の研究をしている学者に会った。足が3本、5本の蛙、さらに手足がない蛙も世界中で見つかっているという。その数はどんどん増えているらしい。はかないものから順に環境汚染の影響を受けていく。人への悪影響も出始めているというのになかなか動けないでいる。

また、調査捕鯨などという蛮行を続ける国もある。その調査は学問的に稚拙で、国際的な学術誌に採用されたことがない。科学的根拠のないデータを示し、絶滅寸前の野生動物を捕り続け、世界の嫌われ者になっている。メディアも真相を隠している。海外のテレビでは、その国の漁船が血を流しつつ逃れようとする鯨の親子を容赦なく殺し、切り裂く場面を何度も流しているのに。地球はあえいでいる。」

鯨の巨大便(5
鯨の巨大便(4
鯨の巨大便(3
鯨の巨大便(2
鯨の巨大便(1

2017年6月12日

鯨の巨大便(4):長谷川祐子「『なぜ』から始める現代アート」NHK



東京現代美術館のチーフ・キューレター、多摩美術大学特任教授、長谷川祐子「『なぜ』から始める現代アート」(NHK出版)に以下のような一節があります。

「西洋の動物保護団体の人たちは日本人に対して、『なぜ、最大の哺乳類で、人間に近い鯨を殺して食べるのか』と怒っている。『そんなことを言うなら、牛も哺乳類ではないか、なぜ鯨だけ特権化するんだ』、と日本人である私たちは思うわけですが、彼らにとっては違う。」

長谷川は日本人の一般論として、なぜ鯨だけ特権化するんだ、と書いているわけです。彼女自身が鯨についてどう考えているかは明確ではありません。一般の日本人よりなのだろう、とは推察できますが。

ただ、明確なのは、彼女が捕鯨についてきちんと考えていないということです。
西洋の人たちの怒りを理解しようとしていないということです。

長谷川は現代芸術に関わる方です。現代芸術とは現代の文化、社会に関わる芸術のこと。後に述べるように、日本の捕鯨は現代社会、国際関係を考える上で、とても象徴的な事項です。その重要な事項に対して、深く考察していない。浅薄な認識で、西洋人の捕鯨にまつわる芸術作品を解釈しても、おそらく意味のある洞察は得られないでしょう。彼女の影響ある立場を考えれば、それは怠慢かもしれません。

長谷川のいう一般的な(おそらく長谷川も同調している)日本人の見解が、なぜ間違っているかは、先に書いた私のエッセーで明確になると思いますので、説明は省略します。現代の国際社会の文脈で、鯨と牛が同じだとは言えない、と了解してもらえるといいのですが。
鯨の巨大便(3):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_10.html

ここでは西洋の人たちの怒りについて考えてみます。
You Tube で、Japanese Whalingを検索し、いくつか見て下さい。
その下に様々なコメントがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=VqFoHhV2ARI
https://www.youtube.com/watch?v=n0UURL8AUdY

とても引用する気になりませんが、「死ね!」「アホ!」といったレベルの罵詈雑言の投げ合いです。

おそらく、日本が捕鯨を続けるためには、捕獲数がエコシステムに影響しない程度の少数のものであるということ(存続可能なレベルであること)を科学的に証明すること、さらに、殺し方を、家畜を殺す時のような痛みを伴わないやり方に変えることなどが、最低限必要でしょう。

しかし、仮にそれができたとして、納得してもらえるでしょうか?

私はおそらく無理だと思います。
捕鯨論争において、日本には勝ち目がないと思います。

なぜか。

捕鯨というのものが、自然破壊のイメージそのものだからです。
環境破壊の象徴だからです。

捕鯨には、何頭鯨を殺したとか、科学的に数値化できる部分があります。
しかし、同時に、人間が、最新技術を使って、無力な美しい野生動物を虐殺しているという情緒的なイメージがどうしても払拭できません。

これは、いくら説得に努めても、納得してもらえるものではありません。
ちょうど、宗教のようなものです。
篤信の方を棄教させようとするようなもの。力づくでも無理でしょう。

1960年代、環境問題が注目を浴びるようになり、
1980年代以降、地球温暖化、絶滅種の急増、環境破壊の規模の大きさに世界中が目覚めてしまっています。パラダイム・シフトが起こったのです。

科学技術で、自然を開拓し(環境を破壊し)、資源を採取し、人類の富を増やす、
という近代の人間中心主義モデルは、もう古いものになっています。
古いだけでなく、憎むべき過去の行為という見方が広まっています。
おそらく、その憎しみの中には、自分たちの過去に対する後悔、羞恥、反省も含まれています。後悔があるがゆえに、他者の自然破壊に対する憎しみは、一層増します(植民地政策に対しても、同様の態度が見られるように思います)。

現在の主流はエコ中心主義と言っていいと思いますが、
そこには、人間中心主義の自然破壊への憎悪が存分に含まれています。

そして、人間中心主義の自然破壊の最も分かりやすい、典型的なイメージが日本の捕鯨なのです。象徴なのです。*1

ですから、捕鯨論争で西洋の人たちに対峙するのは、宗教戦争を戦うようなものなのです。出口はなく、ただ、憎しみの連鎖という悲惨な結果しか残しません。そこに気づいているから日本以外のどの国も捕鯨になど手を出さないのです。韓国が始めようとしたが、国際的な非難を浴び、即、取りやめたと前回書きましたね。

捕鯨にこだわって、わずかな利益(一握りの売国奴、資本家が儲かるだけ)のために、国際的な信用を失うのはあまりに馬鹿げたことです。

鯨など食べたことがないという人も多いと思いますが、捕鯨などどうでもいい、と無関心ではいないで下さい。日本国内では偏向報道のため、気づかないでしょうが、捕鯨は重要な国際問題です。皆が「捕鯨は国辱だ」「時代遅れだ」「クールじゃない」と断言したらいいのです。そんな声は、国際関係に優れた実績を作っている現政権にならば届くのではないか、と期待しているのですが。

日本の本当の力は、人間中心主義ではなく、エコ中心主義の新しい世の中でこそ開花するものだと思います。エコ中心主義で世界をリードできるだけの力、伝統、技術、人間力を持った国です。そう信じているのは私だけではないと思います。

鯨の巨大便(1):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_8.html
鯨の巨大便(2):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_9.html
鯨の巨大便(3):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_10.html

*1、もう一つの典型的イメージは象の密漁でしょう。象は絶滅に瀕していますが、密漁が止まりません。この事態の主な原因のひとつが、日本人の象牙の印鑑等への執着だと厳しい批判がなされています。
http://news.nationalgeographic.com/2015/12/151210-Japan-ivory-trade-african-elephants/
http://www.japantimes.co.jp/news/2017/02/28/national/crime-legal/japan-tighten-control-domestic-ivory-trade/#.WUCFnxOGO_o

鯨の巨大便(5
鯨の巨大便(4
鯨の巨大便(3
鯨の巨大便(2
鯨の巨大便(1

2017年6月10日

鯨の巨大便(3):書評・柳澤桂子「すべてのいのちが愛おしい」(集英社)


以下は、生命科学者から孫へのメッセージと題された、柳澤桂子「すべての命が愛おしい」(集英社)の一節。著者はお茶の水女子大学名誉博士とあります。

「里菜ちゃんへ
鯨を食べたことがありますか?おばあちゃんの子供のころ、(略)よく食べました。(略)その後、環境保護団体から「鯨をとってはいけない」という圧力がかかりました。
鯨は賢くて優しい動物だからであり、野生動物なので絶滅しかねないからだというのです。
では、牛や豚は賢くないのでしょうか。環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。(略)
確かに鯨捕りは残酷です。でも鯨をとることで生計を立てている人もいました。そのひとたちは鯨捕りが禁止されると生活に困ることになるのです。今では鯨の肉を見かけることはほとんどありません。
生き物を食べなければ、私たちは生きられません。どんな動物だって、死にたくはないでしょう。食事をいただけることに感謝して、たいせつにいただきましょう。」

この本は不思議な本です。「すべての命が愛おしい」とあるように、全編、命のたいせつさが繰り返し語られます。ところが、相手が鯨になると、途端にそんな思いやりが吹き飛んでしまいます。「鯨以外のすべての命が愛おしい」としたほうがいいでしょう。

これはなんなのでしょう?
日本で捕鯨に反対すると立場が悪くなるというような空気があるのでしょうか?
私の知る限り、捕鯨推進派には、攻撃的で、感情的、相手の意見を理解しよう、議論しようという基本的な態度ができていない方が多いようには思いますが。こんな人と関わるくらいなら、黙っていようと思ってしまうのでしょうか?

おそらく、上に引用した一節は、大方の日本人に共感を持って読んでもらえる内容でしょう。一見、特に何の問題も無いようです。
しかし、よく見ると、様々な問題点を含んでいます。

環境保護団体の立場を、「牛や豚は賢くないのでしょうか」と批判しています。
しかし、「野生動物なので絶滅しかねないから」という部分には批判の言葉がありません。批判のしようが無いから逃げているのです。卑劣さが現れています。

「環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。」揚げ足取りのような卑怯な論法。相手は、絶滅に瀕する野生動物は食べないと言っているだけなのです。それをあえて誤解したふりをして、「それじゃあ、あんたは肉を食べないの?何も殺さないの?」と、批判しているのです。相手を攻撃したいだけなのです。知的な会話ができる、誠意ある書き手ではないと分かります。

「鯨をとることで生計を立てている人」とありますが、捕鯨を行っているのは大企業です。江戸時代のような頼りない船で鯨を獲りに行っているわけではありません。腐りきった悪徳資本家がやっていることなのです。「生計を立てる」とか「生活に困る」という表現で、捕鯨をしているのが貧しい人たちであるかのようなイメージ操作をしています。

もちろん実際に捕鯨船で働いている人たちは、生計を立てるために従事しているのでしょう。しかし、捕鯨の仕事は体力的にも精神的にも極めて重労働だろうと思います。そうした体力、精神力があれば、他の領域でも十分活躍できるはずです。

「生き物を食べなければ、私たちは生きられません」だから、鯨を食べてもいい、と捕鯨を正当化しています。これも間違いです。短絡的すぎます。
絶滅に瀕する野生動物を食べなくても、人間は生きていけます。
存続可能な方法で、蛋白源をとりつつ生きていくのがまっとうなのです。
時代が違うのです。

さらに私の言う日本人特有の◯✕思考です。
国際的な視点が全く欠けています。国内でだけ、個人の頭の中でだけ通用する理屈です。
科学者として当然の、地球環境の破壊に歯止めが効かなくなっているという現状に対する真摯な洞察がありません。
読み手をマインドコントロールするのが目的で書かれているようです。
外国の人には、詭弁を使う人とみなされ、全く相手にされないでしょう。
それは無知か、さもなくば誠意が無い人間の特徴とされます。
このような本が出版されるのは間違っていると思います。

暗愚な捕鯨推進派の典型的な意見ですから(知的な推進派もあるのでしょうが)、
以前私が遠慮がちに書いた批判を再録します。
反論のひとつにはなっているでしょう。

提言:捕鯨論争における日本人の思考

「鯨を殺すなだと?羊を殺しているくせに。命を奪っているのだから同じことじゃないか」こんな議論をよく聞きます。その度、これではプロレスの場外乱闘だなと思います。リングの中で戦っていたのが、突然,一方が場外に出て、折りたたみの椅子を振り回し、相手をはり倒す。「どうだ、返答のしようがないではないか。こちらの勝ちだ」そんなイメージが浮かぶのです。

 文化の押しつけだの、国際法がどうのこうの。門外漢の私には判断のしようがない事柄ですが、皮肉や罵倒も含め多くの議論が場外乱闘状態。漁業関係者(大企業ですが)が可愛そうだ,などという感情論も横行。しかし、論点を整理して、同じリングに立って、つまり共通の認識を確認しつつ、議論を進めていけば、争点の核心も明確になり、それほど感情的になる問題でもないと思うのです。

 第一の共通認識:捕鯨、賛成反対双方ともまずは、人間の在り方の基本を確認しましょう。人間は他の生命を奪って生存するしか無い生き物です。殺傷が罪だというなら人間は罪な存在です。100人のうち99人くらいまではこの点で同意できるはずです。もちろん1人くらいはあらゆる殺傷は罪だ、自分は殺傷せずに生きるという方があるかもしれませんが。日本人が食事の前に手を合わせ「いただきます」と言うのも、命をいただいているという罪の意識と感謝の表れかもしれません。自然とのつながりを確認する精神的な行為と言えるでしょう。

 次に考えなければいけないのは、その殺傷の罪にも重いものと、軽いものがあるという点です。これは思考しかできない人には受け入れがたい点かもしれません。殺傷即ち罪、罪即ちと考えがちです。冒頭の「羊を殺しているくせに」という議論が思考だということに気付いて下さい。日本で教育を受けると思考になりやすいのではないでしょうか。しかし、これは断じて正さなければいけません。外国人ときちんと議論できないだけでなく、実は簡単に権力やカリスマ的な存在にマインドコントロールされてしまうからです。

 さて、野生動物を食べることと家畜を食べること。どちらも罪なことでしょうが、どちらがより罪が重いでしょうか?第一の共通認識から外れずに、場外に出ずに考えて下さい。同じということはなく、やはり区別が必要ではないでしょうか。どこかで線を引く必要があるでしょう。その線引きに必要なのが第二の共通認識です。

 第二の共通認識:現在、人間の力は巨大です。数百年前とは比較になりません。人間のために絶滅した種は数知れず、自然環境の破壊には歯止めが利きません。過去はこうであったとか、伝統的にどうであったとかいう議論も置いておきましょう。問題は今現在です。地球の存続可能性を考えることはこの時代に生きる者の義務です。この認識を踏まえると、野生動物より家畜を食べる方が罪としては軽いのではないか、ということになるでしょう。地球の存続可能性という尺度で、ここまではやむを得ない罪、ここからは犯してはいけない罪、と判断していく知恵を持ち、それを良識として共有していくことが必要なのです。

 さて、ようやく捕鯨問題です。調査捕鯨は欺瞞だとか、暴力的な抗議運動、マスコミの偏向報道、政治利用などなど様々な問題がありますが、上記の共通認識を踏まえれば、真摯に問題の核心に迫っていくことができるように思います。思考だけは禁物です。「~しかない」とか、「~は傲慢だ」というような断定的で歯切れの良い議論は一般の人々を誘導するには効果的ですが、思考であることが多いのです。核心は白黒がつけにくいグレーの部分での議論になり、それは忍耐を要するものになることでしょう。皮肉な態度や感情論、揚げ足取りのような議論もやめましょう。卑怯な場外乱闘はやめていただきたい。

 以上が私の提言の要点です。独特の意見というのではなく、常識的な意見だと思いますが、政府の正式見解などもこうした視点で点検してみるといいでしょう。オーストラリアで生活していると、酒の席でまで鯨論争に引き込まれ、不快な意見を聞くことになるので、我慢できず書いてしまいました。個人的な意見もありますが、ここでは控えます。以下は若干の補足です。

 今現在でも野生動物を食べることが即ちではありません。鯨を食べること即ちではないでしょう。ただ、存続可能なのか、という点が問題の核心なのです。存続可能だというのであれば、それをどう科学的に証明するか。どうやら現在の人間の知恵では解答は無いようです。鯨の中には絶滅に瀕していない種があると日本の科学者が調査結果を出しても、方法論が非科学的と相手にされないということもあるようです。これも腹の立つ、感情的になりかねない点でしょう。鯨の年齢を測るには耳あかを調べる「しかない」、そのためには鯨を多数殺す「しかない」という議論も聞いたことがあります。ところが日本以外の科学者はそんなことはないと反論します。そこで腹を立てのでなく、忍耐強く、共通の方法論的認識に基づいてグレーの部分での議論を重ねていくしかないでしょう。

 国益にならないのだから いっそのこと捕鯨などやめたらどうだ、という意見も出てくるでしょう。案外,日本はこんな路線をとるかもしれません。外国との軋轢が生じ、国辱だなどという運動が国内に起こって、あっさり方針を変えるたということはいくつか歴史に例がありますから。

 もちろん捕鯨論争で最重要なのは日本政府や日本のマスコミの対応です。日本は比較的世論が政治に反映しにくい部分がありますし(もちろんこれも比較的ということ。民意を無視し、企業の意向だけを優先するひどい独裁国家が存在することは承知していますが)、政府やマスコミの見解を鵜呑みにする国民も少なくない。そうした現状にも拘らず、この問題で、新しい、世界に通用する対応ができないものでしょうか。日本の叡智を示すことができないものでしょうか。原発事故への対応を見るとあまり期待はできそうにありませんが。

鯨の巨大便(5
鯨の巨大便(4
鯨の巨大便(3
鯨の巨大便(2
鯨の巨大便(1

2017年6月9日

鯨の巨大便(2)


鯨の巨大便(1)で、捕鯨は国益を損なうと書きました。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_8.html
それは政治的な見解です。

より重要なのは、科学的な見解。
捕鯨はエコロジーを破壊します。
地球の存続可能性こそ緊急の問題です。

しかし、政治的な問題として話したほうが、日本は反捕鯨へ動くのではないか、
そこで政治的な問題として書いているのです。
そこをもう少し詳しく説明します。


「調査捕鯨などという蛮行を続ける国もある。その調査は学問的に稚拙で、国際的な学術誌に採用されたことがない。科学的根拠のないデータを示し、絶滅寸前の野生動物を捕り続け、世界の嫌われ者になっている。メディアも真相を隠している。海外のテレビでは、その国の漁船が血を流しつつ逃れようとする鯨の親子を容赦なく殺し、切り裂く場面を何度も流しているのに。地球はあえいでいる」

以前、私がある文集に寄稿した文章の一部。そのテレビのナレーションでは、次のような説明がつきます。

日本の捕鯨船が鯨の親子を見つける。
日本の漁師はまず、子供を狙う。動きが鈍いから。
子供の体に銛を次々に打ち込む。
赤い血が吹き出す。子供は怯え、悶え苦しむ。
母親は泣き叫ぶが、血みどろの自分の子供のそばを離れない。
それこそ残虐で卑劣な日本人漁師の思う壺。
普段ならすぐにでも逃げ出す母親の目玉をめがけて銛を打ち込む。
目玉が破裂する。
さらに銛を打ち込む。打ち込む。
鯨の嗚咽がいつまでも続く。
血みどろの海面からやがて二つの死体が捕鯨船に引き上げられていく。

https://youtu.be/mFjVbLPCwQ4
https://youtu.be/Dw90fQJl6xI
https://youtu.be/D8e1kb4D4nY

こういう画像が世界中で放映されているのです。
日本への反感、憎しみが生まれるのは当然でしょう。

確かに日本人は面白いアニメを作った、いい車を作った、
しかし、所詮、鯨の親子を容赦なく殺せるレベルの低い野蛮な民族だ。

日本が、近隣の国の核の脅威にさらされている。
領土侵犯され、侵略の危機に瀕している。

そこで、国際社会が日本を助けようと思うか?
日本のために立ち上がろう、
血を流してでも。
そう諸外国が思うでしょうか?

日本は現状では自国の安全、防衛さえ外国に頼らざるをえない国です。

「日本が侵略されても、知ったことか。
鯨にとっては
地球の環境保全のためには
日本などなくなったほうがいいかもしれない」
そういう人は出てきます。

鯨はただの哺乳類の一つではないのです。
極めて政治的な象徴的な存在です。

それはおかしい。理性的ではない。
他の動物とどこが違うのか、と怒ってみても、
諸外国の人々の認識を変えることはできません。

捕鯨が国益を損なうとはそういうことです。

たかが、「鯨ごときで!」と思われるかもしれません。
しかし、日本の安倍首相が豪州の首相に会った時、まず、捕鯨の話が出るのです。
鯨の問題、なんとかしてくれんかい?
わかったわかった、なんていう話があるんでしょう。
おそらく日本のメディアには報道されないのでしょうが。

それから、もっと実際的な話に移るのです。つまり、
経済的な相互依存関係を維持しましょうね(日本の経済は諸外国との取引なしに成立しません)とか、
有事の際は、理解と協力を頼むよ(日本の近隣には、けしからぬ動きをする軍事国家があります。しかし、日本は自分で自国を防衛できないのですから)とか。
そういう話になるのだろうと思います。

捕鯨の問題は、それくらい重要なのです。
捕鯨をなんとかすると言っておきながら、何もしないじゃないか、ということになれば、
日本は信頼を失うことになり、国益の損失にまで至るだろうと思います。

また、捕鯨をやるぞ!と宣言したものの、予想外の国際的な批判を浴びて、即撤回した国がありますね。数年前ですが、覚えていますか?韓国です。
捕鯨を行うことが、国際関係を維持していく上で、極めて不利だと即、判断したのです。
世界を巻き込んであれこれ工作して、自国の利益を追求するのが得意な国は、国際的な政治感覚が優れています。賢いのです。

それに対して、日本ときたら。

一部の悪徳資本家の世論操作にのせられて、学者は買収され、政府も一緒になって、誰にも理解されない詭弁を弄し、捕鯨を続ける浅はかさ。傲慢。醜態。

世界で日本だけなのです。そんなことをしているのは。

次は別の観点から捕鯨の問題を考えてみます。

2017年6月8日

鯨の巨大便(1)


日本の捕鯨がまた始まると報じられました。
世界がどのようにそれを見ているか、
日本ではほとんど報じられないようです。

捕鯨論争については、以前にもこのブログで書いたことがあります。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_8.html

私の知識が十分でないことを承知しつつも、
日本には、この論争での勝ち目はない、と思っています。

捕鯨反対が国是となっているオーストラリアでも捕鯨推進派はあります。
日本人ですが。
恥ずかしいほど貧弱な議論を繰り広げていた人があります。

捕鯨推進派の主な意見は上述のブログに述べた通り。
どの主張も、国際社会を納得させるのに十分なものではありません。
調査だ、文化だ、環境保全だ、など、
いずれも妥当性がありません。
論拠が弱すぎて、詭弁にしか聞こえません。

他にも、鯨を殺すことで、鯨が食用にしている小魚が増える。
よって人間の食資源が確保されるのだ、という議論もよく聞きます。
確かに、もっともらしく聞こえます。

これは日本政府も用いた論法だったのでしょうか?
「日本政府のバカな見解」と、笑っている学者がありました。
なぜバカなのか?

鯨を殺すことで、小魚が増えたか?
実際には減ったのです。

どういうことか?

鯨が殺されると、鯨の糞が減る。
鯨の巨大便は、まるでキノコ雲のごとく海中に噴射されるらしいのです。
あっぱれな光景だろうと想像します。

その糞はプランクトンなどの微生物のエサになるのです。
鯨が減ることで、糞が減る、すると、プランクトンが減る、
すると、お分かりですね。
プランクトンをエサにしている小魚が減るのです。

生態系はこのように循環しています。
微妙なバランスを保ちながら。

鯨が減れば小魚が増えるのだ、などという議論を振り回すのは、
自らの低脳をひけらかしているようなもの。

それだけで信憑性は地に落ちます。
議論できる、まっとうな相手ではない、と。

野生動物を殺すというのは蛮行、
これが世界の常識。
正当性はありません。
しかも、絶滅危惧種を殺すことのダメージは大きすぎます。

捕鯨もいずれは衰退します。
存続可能な産業ではありません。
政府は業界関係者を支援をしつつも、
他の業種への移行をサポートするべきです。

もちろん、捕鯨をやっているのは近代的な設備を備えた捕鯨船。大企業です。
日本政府への圧力、マスコミ操作、世論操作もお手の物の大金持ちの悪徳業者ですから、
そこまで配慮が必要かは分かりませんが。

技術が発達したことで廃れた産業はたくさんありますね。
蒸気機関車、現像フィルムとか、
捕鯨も似たようなもの。
(新技術の登場というより、環境の変化によるのでしょうが)

環境問題が人類共通の最重要課題となっている今日、
捕鯨を続けることの不利益(国家としての不利益、資本家は儲かったとしても)。
蒙昧。恥。
世界からバカもの扱いされ、
憎悪され続ける日本はあまりに情けない。

「日本は私の大好きな国だけれど、日本の捕鯨だけは憎む」
などというコメントもソシャル・メディアでは多いのです。

しかしながら、国内では日本の捕鯨を批判する意見がなかなか報じられない。
マスコミや政府に無批判、
無関心な人が多い現状。

世界のほぼすべての国が良心から(さらに政治的な配慮から)
手を出さない捕鯨を
金のために唯一続ける日本の醜態。

国際社会の批判を無視して、隣国を侵略、虐殺し、領土を拡大し、
自らの領海外に軍事基地を作ってしまうヤクザな軍国主義国家がある。

それと同レベルで語られる日本の捕鯨。

一部のヤクザな資本家の懐を潤すために、国が動けない。
それは、一部の軍需産業を潤すために
戦争への動きが止められなかった
戦前の日本の状況さえ連想させます。

損なう国益が大き過ぎます。

鯨の巨大便(5
鯨の巨大便(4
鯨の巨大便(3
鯨の巨大便(2
鯨の巨大便(1

2016年7月8日

再び村松萬葉について:捕鯨論争


先のポストに続いて、村松萬葉に投稿したエッセーを紹介しましょう。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_28.html

普段は身辺雑記を投稿することが多いのです。
ちょっと恥ずかしいようなことを書いたりしています。
しかし、政治、社会について、
抑えきれず書いてしまうこともあります。
以下の数年前の文章もそんな心境で書いたもの。

政治的なこととなると冷静に話ができない方が時にあります。
いつの時代でも、どこでもそうでした。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_23.html
攻撃的な反論もあることを十分承知しつつも、
紹介しておきたいエッセーです。

提言:捕鯨論争における日本人の思考

「鯨を殺すなだと?羊を殺しているくせに。命を奪っているのだから同じことじゃないか」こんな議論をよく聞きます。その度、これではプロレスの場外乱闘だなと思います。リングの中で戦っていたのが、突然,一方が場外に出て、折りたたみの椅子を振り回し、相手をはり倒す。「どうだ、返答のしようがないではないか。こちらの勝ちだ」そんなイメージが浮かぶのです。

 文化の押しつけだの、国際法がどうのこうの。門外漢の私には判断のしようがない事柄ですが、皮肉や罵倒も含め多くの議論が場外乱闘状態。漁業関係者(大企業ですが)が可愛そうだ,などという感情論も横行。しかし、論点を整理して、同じリングに立って、つまり共通の認識を確認しつつ、議論を進めていけば、争点の核心も明確になり、それほど感情的になる問題でもないと思うのです。

 第一の共通認識:捕鯨、賛成反対双方ともまずは、人間の在り方の基本を確認しましょう。人間は他の生命を奪って生存するしか無い生き物です。殺傷が罪だというなら人間は罪な存在です。100人のうち99人くらいまではこの点で同意できるはずです。もちろん1人くらいはあらゆる殺傷は罪だ、自分は殺傷せずに生きるという方があるかもしれませんが。日本人が食事の前に手を合わせ「いただきます」と言うのも、命をいただいているという罪の意識と感謝の表れかもしれません。自然とのつながりを確認する精神的な行為と言えるでしょう。

 次に考えなければいけないのは、その殺傷の罪にも重いものと、軽いものがあるという点です。これは思考しかできない人には受け入れがたい点かもしれません。殺傷即ち罪、罪即ちと考えがちです。冒頭の「羊を殺しているくせに」という議論が思考だということに気付いて下さい。日本で教育を受けると思考になりやすいのではないでしょうか。しかし、これは断じて正さなければいけません。外国人ときちんと議論できないだけでなく、実は簡単に権力やカリスマ的な存在にマインドコントロールされてしまうからです。

 さて、野生動物を食べることと家畜を食べること。どちらも罪なことでしょうが、どちらがより罪が重いでしょうか?第一の共通認識から外れずに、場外に出ずに考えて下さい。同じということはなく、やはり区別が必要ではないでしょうか。どこかで線を引く必要があるでしょう。その線引きに必要なのが第二の共通認識です。

 第二の共通認識:現在、人間の力は巨大です。数百年前とは比較になりません。人間のために絶滅した種は数知れず、自然環境の破壊には歯止めが利きません。過去はこうであったとか、伝統的にどうであったとかいう議論も置いておきましょう。問題は今現在です。地球の存続可能性を考えることはこの時代に生きる者の義務です。この認識を踏まえると、野生動物より家畜を食べる方が罪としては軽いのではないか、ということになるでしょう。地球の存続可能性という尺度で、ここまではやむを得ない罪、ここからは犯してはいけない罪、と判断していく知恵を持ち、それを良識として共有していくことが必要なのです。

 さて、ようやく捕鯨問題です。調査捕鯨は欺瞞だとか、暴力的な抗議運動、マスコミの偏向報道、政治利用などなど様々な問題がありますが、上記の共通認識を踏まえれば、真摯に問題の核心に迫っていくことができるように思います。思考だけは禁物です。「~しかない」とか、「~は傲慢だ」というような断定的で歯切れの良い議論は一般の人々を誘導するには効果的ですが、思考であることが多いのです。核心は白黒がつけにくいグレーの部分での議論になり、それは忍耐を要するものになることでしょう。皮肉な態度や感情論、揚げ足取りのような議論もやめましょう。卑怯な場外乱闘はやめていただきたい。

 以上が私の提言の要点です。独特の意見というのではなく、常識的な意見だと思いますが、政府の正式見解などもこうした視点で点検してみるといいでしょう。オーストラリアで生活していると、酒の席でまで鯨論争に引き込まれ、不快な意見を聞くことになるので、我慢できず書いてしまいました。個人的な意見もありますが、ここでは控えます。以下は若干の補足です。

 今現在でも野生動物を食べることが即ちではありません。鯨を食べること即ちではないでしょう。ただ、存続可能なのか、という点が問題の核心なのです。存続可能だというのであれば、それをどう科学的に証明するか。どうやら現在の人間の知恵では解答は無いようです。鯨の中には絶滅に瀕していない種があると日本の科学者が調査結果を出しても、方法論が非科学的と相手にされないということもあるようです。これも腹の立つ、感情的になりかねない点でしょう。鯨の年齢を測るには耳あかを調べる「しかない」、そのためには鯨を多数殺す「しかない」という議論も聞いたことがあります。ところが日本以外の科学者はそんなことはないと反論します。そこで腹を立てのでなく、忍耐強く、共通の方法論的認識に基づいてグレーの部分での議論を重ねていくしかないでしょう。

 国益にならないのだから いっそのこと捕鯨などやめたらどうだ、という意見も出てくるでしょう。案外,日本はこんな路線をとるかもしれません。外国との軋轢が生じ、国辱だなどという運動が国内に起こって、あっさり方針を変えるたということはいくつか歴史に例がありますから。

 もちろん捕鯨論争で最重要なのは日本政府や日本のマスコミの対応です。日本は比較的世論が政治に反映しにくい部分がありますし(もちろんこれも比較的ということ。民意を無視し、企業の意向だけを優先するひどい独裁国家が存在することは承知していますが)、政府やマスコミの見解を鵜呑みにする国民も少なくない。そうした現状にも拘らず、この問題で、新しい、世界に通用する対応ができないものでしょうか。日本の叡智を示すことができないものでしょうか。原発事故への対応を見るとあまり期待はできそうにありませんが。

Shoso Shimbo

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