華道家 新保逍滄

2017年2月28日

一日一華:現代芸術が分かった


メルボルンのチョットさんへ。

あ、そうか。
現代芸術が分かった、と感じたことがありました。
それは、あれこれ考えていた時のひらめき。
勘違いだった、という事もあるかもしれませんが。

現代芸術の本質というか、基本的な性格。
以下の違いを示された時、あ、そうか!と。
いけ花とは全く違うのですね。

Art as Commodity / Art as Service

前者が現代芸術の基本的なあり方。
後者はランドアートから環境芸術への系譜で
育ってきた考え方。

間も無く環境芸術について日本で話す予定です。


Shoso will present a paper on the history of Environmental Art at the International Academic Forum in Kobe, Japan in March 2017.  

2017年2月19日

2017年2月16日

一日一華:芸術と解釈と(2)


アストロメリア。
いろいろな使い方のできる楽しい花材です。

また、覚書です。
後でもっと考えられるよう、
思いついたことをメモしておきます。

先に、小説は無限の意味を生産する一つの生きた世界だ、というようなことをお話ししました。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post.html
そういう主張があるということです。
上質の小説とはそいうものだろう、と私は共感します。

では、現代芸術では、どうか?
おそらくそうはならないでしょう。
意味が無限に読み取れるというような作品はあったとしても、とても少ないか、
あるいは、現代「芸術」の範疇に入らないか、だと思います。

前者の例としては、デシャンの幾つかのほとんど意味不明な(と私には思える)作品などがあるでしょう。

後者の例はたくさんあります。現代芸術の定義、コンテクストを無視して作者が好きなように制作すれば、ほとんどが後者になることでしょう。

現代芸術では、むしろ意味を特定していく傾向があるようです。
つまり、無限に意味を生産するというより、
特定の意味が生産できれば良い、無意味であればお話にならない、ということ。

作品に意味を持たせること。
それも特定の意味。
作者が独自に求める、例えば「人生の意味」などではなく、
現代芸術で話題になっている、言わば流行している意味。
評者にわかる意味を伝達できるか否か。
そこが作品の命です。

私のような不明の者には、まるで流行の哲学というファッションを追いかけているだけのようにも見えてきます。追従ばかりじゃないか、と。

それでも、作者の立場では、ではどうしたら作品は意味を持つのか?
これが大事な問いになります。

一つのヒントはアプロプリエーション。
そのストラテジーを駆使する著名アーティストの一人が、Jeff Koons。
とてもわかりやすい例を示してくれています。

2017年2月9日

一日一華:生け花エッセイのご紹介


以前、雑誌に書いた生け花エッセイも公開します。
生け花と禅、生け花と神道について、あれこれ書いています。

2009 The Spiritual Power of Flowers: Ikebana and Shinto, Dare to Dream, Issue 5,    
         pp.26-29.

2007 The Ten Virtues of Ikebana: Ikebana and Zen, Living Now, September to   
         December.

雑誌に書いたエッセイ、学術誌に書いた論文も主なものをまとめてみました。
生け花に関する議論も少しづつですが、増えてきているようです。
私の書いたものに対するメッセージ、引用・転載依頼、問い合わせなども増えてきましたので、一層議論が盛んになることを願って。
少しでもお役に立てればありがたいことです。




2017年2月8日

一日一華:いけ花上達のコツ(1)


メルボルンの花菱レストランにて。

いけ花上達のコツについて思うところがありましたので
覚え書きとして。

いけ花上達のコツとか、秘訣などというのは、相当な実績ある先生でないと書いたり、話したりできない内容だと思います。

私のような修行中の者がおこがましい。
私の生け花指導歴はたかだか20年ほどでしょうか。
傲慢と思われても仕方ないでしょう。
それは承知の上で。

まず、この生徒は伸びないだろうな、そのうち諦めるだろうな、
という、少々がっかりな生徒の特徴から話しましょう。

私のクラスでは、まず、作品を仕上げてもらいます。
そこで、個別アドバイス。
外国人相手ですから、具体的でないと納得してくれません。
さらに、指示内容の理由まで説明しないといけません。
「弱い」「重い」「うるさい」
なんていう抽象的なアドバイスでは生徒は満足しません。
「いいですね」と言っても、それだけでは苦情が出ます。

外国人相手の先生は日本人だけを教えている先生より
おそらく苦労していると思います。
その分、教師として力がつくのではないかと思います。
(もちろん日本人を教える際の独特の苦労もあることでしょうが。)

「この作品の真ん中に太い線が走っているね。これは強すぎると思う。生け花というのは中心を強調しすぎると、流動性が無くなる。もっと不安定で、生き生きした感じを出した方が面白いと思うから、この線、やり直そうよ」
というような具合になります。

場合によっては、何度もやり直しを要求します。
そこで諦めてしまうか、食いついてくるか。
要はその違いです。
上達できるか否かの分岐点。

「もうこれ以上、だめです」なんていうのはまだいい方です。
自分の限界を感じているのです。大切なことです。

そうではなくて、もう投げ出してしまう感じ。
これが困るのです。
今日は疲れているし、
自分で満足しているからアドバイスなどもう不要。

あるいは、先生はこう言うが、自作の意図はこれこれである。
よって、今日はこれでいいのだ、とか。
自己の作品を正当化。
おそらく日本人にはあまり見受けられない態度だろうと思うのですが。

一言で言えば、真剣さに欠ける。
と、日本人の私には思えます。

もちろん、外国人生徒の全てがそうだということではないです。
ほとんどの生徒はとても熱心です。
ごく少数の生徒ですが、私の期待する真剣さに欠けるということ。
でも、いい人達です。
ありがたいなとよく思います。私のクラスの雰囲気はとてもいいです。
もしかするとこうしたちょっとイージーな人たちがいい雰囲気を作ってくれているのかもしれません。そう思うと大切な生徒ですね。

この点、日本人の生徒は違います。

(私にも数人日本人の生徒がようやくついてきてくれるようになりました。もっと若い頃から教えていましたが、以前は日本人には相手にされませんでした。実力も、風格もない。当然でしょう。)

日本人が生け花が上達するのは当然です。
真面目なのです。

外国人が不真面目というのではないですが、
学ぶということに対する態度の違い。
(繰り返しますが、すべての外国人がそうだというのではないのです。真剣さが必要な習い事だと、理解している人も多数います。)

この違いを理解し、忍耐を身につけ、
妥協したり、甘んじたりする傾向を乗り越えられないと、
いけ花の本当のところは分からないでしょう。
本当には上達しないでしょう。

とすると、生け花が人間修養ということの意味も、私なりに分かってきます。

生け花を学ぶことが人格を高めるということは、
よく言われますが、それは正確な表現ではないのかもしれないですね。
では、どう言い換えたらいいのか。
それはまた、次回としましょう。
そのうち続きを書きます。

2017年2月6日

21世紀的いけ花考 第55回

 

 前回は、「生け花は芸術かデザインか」などと議論するより、日本独特の精神修養、瞑想あるいは宗教の一種だと、説明してしまってはどうか、という話でした。西洋的な物差しを離れてみてはどうかということです。

 この話を進める前に、確認しておきたいことがあります。日本の生け花は明治以降西洋文化の影響を受けて大きく発展しています。最初は西洋花の型を取り込み、やがて西洋モダン芸術の考え方(その表層的な部分)を吸収し、自由花が発展します。戦後、「生け花は芸術だ」という宣伝が効して、生け花人口が爆発的に拡大しました。

 本家の西洋芸術は常に進化、発展しています。分家の日本の「芸術」、生け花は、実は本家とは全く別の発展をしているのです。分家が「これは芸術」だと言っても、本家は「それは芸術とは言えないなあ」という事態になっています。この問題についてはまたいつか触れることがあるでしょう。西洋的な物差しを離れるということは、「芸術」としての生け花論という興味深い問題をひとまず置いておきましょうということです。

 さて、「生け花は精神修養だよ」と言っても、相手がすんなり分かってくれるとは限りません。日本人にはすぐ理解できる点が理解してもらえない。まず、芸道の理解が難しい。先に技術さえあれば描ける花の絵(ことに印象派以前)などは高尚な芸術とは見なさないという態度が西洋芸術にはあるということを指摘しましたね。ところが生け花の修行といったら多くは技術の鍛錬。ですから西洋芸術風の解釈をすれば、生け花など低俗なクラフトともなりかねない。

 しかし、日本では花道であり、人間修養だということになる。実は、これも簡単に納得してはいけない点です。技術を尊重するというのはいいでしょう。しかし、それがなぜ精神性の獲得につながるのか?技術の鍛錬とは空間的で時間的です。客観的に観察も測定も可能です。ところが精神性とか悟りということになるとそれは時空を超えた領域の話。全く性質が異なるこの二者がどうして結びつくと言えるのか?哲学的な思考に慣れている人は簡単には納得してくれません。さてどうしたものか?

 今回紹介するのはあるクリニックのレセプションにいけた作品。オフィス等への週替わりの花も受け付けています。

 さて、今年は二月からRMIT Short Coursesでの「生け花から現代芸術へ」、さらに、フィッツロイ図書館でも入門講座を担当します。市内近辺でちょっと試しにやってみようかという方、歓迎です。いい出会いもあるでしょう。

www.shoso.com.au

2017年2月5日

一日一華:いけ花論文のご紹介


過去数年間に発表したいけ花論文をいくつか公開します。
いけ花研究の基礎的な文献紹介になっているのではないかと思います。
今後いけ花研究を目指す方に参考にしていただければ幸いです。
https://independent.academia.edu/ShosoShimbo





2017年2月2日

一日一華:レセプションに。芸術と解釈と(1)


ピンクのデルフィニウムです。
当地では珍しく、値段も普通の青いものに比べ2倍。
それでも使ってみたくなります。

医院のレセプションで、癒しをテーマにした作品を
というリクエストですので、ふさわしいでしょう。

さて、数日前、安倍公房のインタビューをYou Tubeで見ました。
小説とは何か、さらに、芸術とは何か、
芸術作品の解釈はどうあるべきか、などと
あれこれ考えてしまいました。

自分の小説が学校の教科書に載り、
この作品の主題、作者の意図を答えよというような問題が付いている。
あんなもの、答えられるわけがない!
自分でも答えられない。
答えられたなら、小説など書かずに、
その主題というやつを、自分の主張として発表するさ、
というような話でした。

さらに、小説とは地図のようなものだという指摘も私には面白い点でした。
私は地図が好きです。
まもなく初めて神戸に行く予定ですが、
行ったことのない土地の地図を眺めては
あれこれ想像するのはとても楽しみです。

小説が地図だということは、
そこから様々な意味が無限に読み取れるということです。
それが一つの生命体のように。
小説とは一つの生きた世界なのです。
無限の意味生産装置といえば味気ないですが。
作家はそれを創造し、提出するだけ。

それにもかかわらず、小説作品を評して、
「作者の意図」「作品の真実」
などとその意味を固定してしまうのは、
小説の命を奪う行為でしょう。
文芸評論家や学校の先生のやっていることは
そういう不毛なことなのです。

この解釈の問題は現代芸術のコンセプトを考える際にも気になる点です。
西洋現代芸術の特殊性はその辺にもあるのではないか。
さらに生け花ではこのような問題があるだろうか、
などと考えています。
続きはまた気が向いたときに。

ここで書いたことは覚え書き。
「21世紀的いけ花考」に、もう少しまとまった形で書いていきます。



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