華道家 新保逍滄

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2023年5月23日

抽象的思考の面白さ:「学術論文の書き方」

 


諸事情あって学術論文を読む機会がよくあります。

学問の世界は広大ですが、私の専門とする領域は非常に狭いものです。教育心理学(博士号)、日本学(修士)、美術(修士)といった文系の中の小さな分野です。その狭い分野の経験しかない者の管見に過ぎないのですが、日本語の文系の論文にはつまらないものが多すぎるのではないでしょうか。 

大学生の論文や博士論文だけでなく、先生方の論文でも、私に言わせれば、論文になっていないのではないか、というものに出くわすことがあります。仮にその論文を英訳しても、出版してくれる学術誌は見つからないかもしれません。もちろん、通常、そんなことを口に出すことはありません。ここだけの話です。

もしかすると私が受けた学問の訓練(修士以上)がオーストラリアの大学においてですので、日本の学術の特殊な事情に不明であるというようなことがあるのかもしれませんが。立派なタイトルの立派な本でありながら、実につまらない、というものもあります。

最近、つまらない論文の共通項が分かってきました。

一言で言えば、抽象的思考がゆるい。

事実の羅列で終わっているようなもの。最悪です。考察がないのでつまらない。

事実の集積、あるいは調査の結果を分析し、グループ分けし、比較し、パターンを見つけ、理論をすくい上げると言った分析や抽象的思考の面白さがない。それをリサーチ・メソドロジー(研究方法)と言いますが、メソドロジーの習得は論文を書く前提です。

あるいは、ある事実(または調査の結果)を分析する段階に、分析ツール(理論)を持ち合わせていないために、思考が支離滅裂になっていたりします。文芸評論めいた著作によくあるケースです。

最近、必要があって香りについてのエッセーを読みました。デザインという言葉の定義を検討しつつ、特定の事象を説明しようとしているものです。私にとっては役に立つ内容でしたが、もう一つ上位の抽象概念(例えばアサンブラージュなど)を持ち出して、デザインを定義し直し、まとめるというところまでいかないと、説得力のある面白い論文にはなりません。

Googleで調べると、「論文の書き方」ということで、たくさんのアドバイスが見つかります。よく見かけるのは論文の構成から説明していくもの。

序論

文献レビュー

方法

調査

結果

分析

考察

結論

などが一般的な構成パターンでしょうか。

ここで最重要なのは「文献レビュー」です。

【必読!】文系学生のための卒論・修論の書き方

というサイトによると、文献レビューとは、以下のように説明されています。

「関連する過去の文献や論文、理論を、その分野の学術的流れや歴史なども含めて要約し、批判的に検討する。用語の定義などもここで。」

「その分野の学術的流れや歴史」というところが大切です。ここを踏まえていなければ、論文は存在する意味がありません。修士論文や博士論文でも、ここがないに等しいというものがありますが、その重要性を十分指導していないなら指導教官の責任は重大です。実は、「なぜ学術的な流れや歴史が重要なのか」という質問をしてくる方を、納得させるのはかなり難しい仕事になるでしょう。それがないと、一部の人々だけで共有される独りよがりなレポートになってしまうからです、と言っても分からない方には分かってもらえないでしょう。

ここで他の人の論文を持ち出して批判や評価をしたりするのはかばかられますので、昨年出版された私の小論文を参考に説明を続けます。今までのところ私の出版物はほとんどが英文なので、私にとっては数少ない日本語で書いた論文のひとつです。

2022. 新保逍滄、第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相「はじめて学ぶ芸術の教科書、伝統文化研究編」井上治、森田都紀(編)、京都芸術大学芸術学舎

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戦前、生け花の世界では、西洋藝術の影響で自由花運動が起こります。生け花の歴史上、とても大きな変革です。これをテーマに論文を書こうという場合、自由花運動をいくら詳しく調べ、記録していってもそれはただのデータの集積でしかありません。

そんなものはいくら内容が詳細であっても、中学校の自由研究レベルであって、大学レベルの論文ではありません。もちろんそれも無意味ではありません。歴史的事実の集積にも用途はあります。ただ、大学のいかなる学位もいただけないでしょう。分析も考察もないからです。リサーチ・メソドロジーのない文章は論文ではありません。

時に、例えば「歴史上重要なものであることが分かった」などと「分析、考察」を唐突に付け加えたりしている場合もあるようですが、そんなものは考察とは言いません。

自分の収集したデータや調査結果を俯瞰して、距離を置いて眺め、一体ここでは何が起こっているのか、と客観的に捉える視点、抽象的に考えていく力。重要なのはそこです。観察された事象をまとめたり、比較したりして、関係性やパターンを見出すという抽象的な思考力を養っていない方には、学術論文の作成はかなり困難でしょう。もしかすると、事実を集積して、暗記して、という知は日本の受験勉強型の知の使い方かもしれません。受験型秀才の得意とするところでしょう。しかし、私がここで説明しようとしている学術論文作成に要する知とはもっと創造的な知なのではないかと思います。

さて、私の論文に戻りましょう。自由花運動はどのような角度から検討していけばいいのでしょう?

これは生け花の変革です。生け花すなわち文化のひとつです。

ということは文化変容という切り口から分析できないだろうかと検討してみます。それでうまくいかなければ、また別の切り口を探すまでです。この段階で、私の思考は、自由花運動を離れています。歴史的な事象を離れ、抽象的な理論に注意が向いています。

文化変容にはどんな理論があるのだろう?

どんな研究があるのだろう?

類似の問題を扱った研究はないだろうか?

と、みていくといくらでも出てきます。文化人類学、社会学、カルチャル・スタディーズなどなど。この段階、つまり文献レビューの前段階ですが、ここに時間をかけることが重要です。もちろん、予め自分の分野が特定されているならその中で文化変容についての論文を次々読んでいきます。

文化変容理論の中では、特にフランスの社会学者ピエール・ブルデューの理論の影響力が大きいということがわかりましたので、彼の主著を読んでいきます。これにはかなり苦労しました。

ブルデューの芸術変容の理論を理解すればするほど、自由花運動についての記述に、疑問点が生じてきます。理論を手にすることで、研究の対象がより明確に見えてくるのです。

最大の疑問は、戦前の自由花運動が戦後の前衛生け花に発展していったという主流の言説は正しいのだろうか、というもの。両者には共通点もあるのですが、相違点も非常に多い。

相違点に注目するなら、自由花運動は「前衛芸術」的であるのに、戦後の前衛生け花は前衛というより「商業芸術」に近いのではないか、と思えてきました。歴史的事象の描写ではなく、その解釈に注力しています。

特に、ブルデューの芸術変容の理論がここでも当てはまるのか?と考えていきます。ブルデューの理論に反する点はないか、もしあるとすれば、ブルデューの芸術変容の理論に欠点や改変を要する点があるのかもしれません。理論を磨き上げていく感じです。そして、なんとか抽象的なレベルで新しい解釈の可能性を提示することができました。

ここまで到達して、私の論文はほぼ完了です。論文の骨格ができ、重要な要点は掴めたので、あとは書き上げるだけです。

小さな発見でいいのです。通説に疑問を投げかけることまでできれば十分でしょう。良ければぜひご一読を。


関連のポスト

生け花と嗜好

出版のお知らせ

思い出すこと:留学生として


2022年6月23日

出版のお知らせ:伝統文化研究編(京都芸術大学)

 


さらに英語にまつわる話を続けます。先のポストで英語攻略の秘訣を紹介し、英語解読はたやすいなどと書いたばかりです。https://ikebana-shoso.blogspot.com/2022/06/blog-post_21.html

たいていの英書は大丈夫。オーストラリアの大学院から学位がいただける程度の読解力はあるはずなのです。

ところが、これは手強い!と感じた本に最近出くわしました。

Pierre Bourdieu, The Rule of Art, Stanford University Press.

フランスの社会学者の著作を英訳したものです。一文が果てしなく長く、息切れするほどで、さらに文構造が複雑なのです。社会学の英書で、ここまで難解なものはあまり読んだことがありません(もちろん、相当に限られた読書経験内での話でありますが)。これはこの著者の特徴なのか、フランス人はみんなこんな文で考えているのか(フランス語教師の家内によれば、そういうことはないようです)、翻訳のせいなのか、それはよく分かりませんが、とても苦労しました。

翻訳ということでは、例えば、西洋の哲学書など日本語訳だとちんぷんかんぷんなのに、英語だと簡単に理解できるということがよくあります。そうすると、翻訳のせいで実際以上に難しくなっている可能性もあるように思います。

この本は、私が準備していた論文にとって重要な参考書で、なんとか読み込む必要がありました。そして、ともかく仕上げた論文が以下の通り出版されました。

井上治・森田都紀 編集「伝統文化 研究編 (はじめて学ぶ芸術の教科書)」京都芸術大学
第一章 第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相  新保逍滄

戦前の「自由花運動」が開花したのが、戦後の「前衛いけ花」だということが通説のようです。しかし、両者には異質なものがあるように思えました。小さな、しかし本質的な差異。そこを掘り下げてみたいということだったのです。

おそらく、学士レベルの学術論文というのは、こうした小さなところに拘って、きちんと論理的に掘り下げる、ということができたら十分なのではないかと思います。さらに、通説に対し少しでも違った観点を提出できたら上出来でしょう。大論文、世紀の大著などを目指す必要はないのです。そのような点から参考にしていただけたらありがたいです。

また、この「芸術の教科書」所収の論文が山根翠堂という魅力的な華道家の再評価につながれば、とも願っています。よろしければ以下のリンクからご購読下さい。

なお、この出版に至るまでにご協力いただいた多くの方々にお礼申し上げます。私の論文を評価してくださった京都芸術大学の井上治先生、資料提供にご協力いただいた真生流家元山根由美様、4回、5回と校正に付き合ってくださった京都芸術大学出版局藝術学舎担当者の方々、ありがとうございました。

<電子書籍>
リフロー型の電子テキストとして販売。

■Kindleストア 価格¥1200
www.amazon.co.jp/dp/B0B4C36WPM ※予約ページ
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https://honto.jp/ebook/pd_31775546.html ※予約ページ
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<オンデマンド書籍>
デジタル印刷の技術を使い、1部から少部数(300部程度)までの製造に対応するものです。読者の注文を工場で情報受け取りしてから製造します。

以下2店舗で扱います。
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予約ページ準備中


2022年5月18日

生け花とは何か?(1)


山根翠堂『花に生きる人たちへ』の抄訳が出版されました。以下から無料でダウンロードできます。生け花のあり方を考えたい方々は多くの示唆をいただけることでしょう。
海外における生け花の問題点を考えてきた私にとって、是非とも紹介したい文献でした。










2022, International Journal of Ikebana Studies, Vol.9, 76 - 78
This is a translation of selected passages of “Hana ni ikiru hitotati he (Message for those who live for flowers)”(1967) by Suido Yamane (1893 - 1966). His insight in ikebana is inspirational for those who wish to look deeply into what ikebana is, and for those who are not satisfied with prevailing discussions about ikebana.

https://www.shoso.com.au 



Ikebana News 

31 May 2022: Deadline - Hanadayori, Ikebana by Request 


4 June 2022Ikebana Introduction


10 June 2022: Ikebana Workshop at Richmond Library 


18 June 2022Ikebana Introduction 


18 & 19 June 2022: Ikebana Display for Villa Alba Open Day  


1 July 20221000 Ikebana Challenge 


31 August 2022Ikebana Workshop at the Pub


10 September 2022: Ikebana Performance with Paul Grabowsky

 https://www.ikebanafestival.com


10 & 11 September 2022: Wa Melbourne Ikebana Festival. https://www.ikebanafestival.com

 



2021年11月16日

生け花とポストモダン

 


河合隼雄対話集「こころの声を聴く」(新潮文庫)の中で、ちょっと気になる部分があります。村上春樹とのやりとりです。


河合「日本の読者はプレモダンの人もたくさんいるから、ポストモダンみたいに見える人もいるんですね。それも大きい問題でしょうね。モダンをまだ通過していない人(笑)(略)

僕が心配しているのは、西洋の場合はモダンを通過してポストモダンに行くけれど、日本がモダンを回避してポストモダンに行った場合です」

村上「それはすごい問題になりますね。(略)」


私は生け花の文脈で、生け花の近代化について考えています。戦中、戦後の自由花運動から前衛いけばなの生け花ブームのあたりのことになります。

私見では、生花における近代化はかなり曖昧な表層的なものだったと思います。日本文学における近代化などと比較して考えても、やはり物足りないですね。もちろん私の知見は極めて限られていますが、おそらく重要な問題を提起したのは山根翠堂ただ一人かなと思います。

そして、生け花では「モダンを回避してポストモダンに行く」ということが、かなりの可能性で起こりえます。それが「すごい問題になる」のかどうか。全くも問題ないということになるかもしれません。また、いつか、考えがまとまったら書くことにします。

生け花におけるポストモダンとは何か。

それを実践している方々が、ほんの数名ですが、あるわけです。その人たちの活動は刺激的です。


2021年10月15日

外国人に生け花を教える難しさ(6)


外国人に生け花を教える難しさ、ということで何回か考えてきました。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/search/label/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA 

その難しさの原因は何だろう、どうしたらあの独特で強烈な癖(失礼!)が矯正できるのだろう?と、あれこれ考えてきました。

ひとつのことを考えだすと、あれこれと仮説が出てきたり、あれやこれやとつながってきたりするのがいつものことです。すると、ひとつのエッセーができたりします。ちょうど著名なオンライン・ジャーナルからメルボルン生け花フェスティバルの広報を兼ねて、寄稿しないか、と誘われたので、以下のような記事を掲載してもらいました。よければ読んでみてください。


私のひとつの仮説は、生け花をデザインとして解析し、制作しようとするところから非詩的な生け花が生まれるのではないか、というもの。非詩的などと仮に名付けてみましたが、近代生け花の大家、山根翠堂なら「死花」と切り捨ててしまったかもしれません。

説明は難しいですが、生け花の花が造花と変わりないような生け花作品。あるいは、造花で作った方がいいのではないか、というような生け花作品でしょうか。

生命のない生け花、即ち詩性のない生け花ができるのはなぜか?

原因は、生け花はデザイン、つまり人為による知的な工芸品である、つまり、生け花は作者、人を表現するものだという考えに由来するのではないでしょうか。西洋のフラワーアレンジメントは、そうした考えに基づいているように私には思えます。

つまり、素材の本質(すなわち自然)を表現しようというのではなく、素材に「人が何をしたか」を表現したいということ。そこを面白がっているのです。作者が直感した自然、その深さではなく、人やそのテクニックが関心の対象なのです。西洋のフラワーアレンジメントの延長として生け花を学んでいるという外国人も多いのかもしれません。両者は根本に大きな違いがあると思いますが、どれだけの人がそれを認識しているでしょうか。

このような自然より人を優先する態度は、戦前、西洋モダニズムが日本に紹介された際、その中心思想のひとつとして日本の生け花界に影響を与えました。現在、西洋ではモダニズムは反省と批判の対象でしかないですが、日本の生け花の多くは、今だにモダニズムのアプローチの主張を繰り返しています。そろそろ目覚めて欲しいものです。正直なところ、私はうんざりしています。

しかし、ふと、思うのは、日本ではそれでいいのかもしれないということ。

日本人にいくら「人を表現しろ」と教えても、日本人は自然に、作品に「自然」が入ってくるのではないでしょうか。修行を積むにつれ、生きた花になっていくのではないでしょうか。

しかし、日本人には自然なこの推移が、外国人には難しいのかもしれないのです。
外国人に「人を表現しろ」と教えると、本当に、人だけになってしまい、死花のまま、なかなか生きた花にならないということではないか。

もし、そうだとすると、自然に対する態度において、日本人とは重要な違いがあるのかもしれない、などとまで考えてしまいす。

しかし、このような仮説自体、カルチャル・ナショナリズムと批判されかねない意見です。決して、あからさまに、うかつに公言してはいけません。そこは承知しつつも、どうしたらいいのだろうと、悩む日々なのです。

2021年6月19日

外国人に生け花を教える難しさ(5)

 

何度もお断りしていますが、外国人の中にはとても生花が上手な方がいらっしゃいます。それはまずきちんと確認しておきたいと思います。

それでも、時々、「これは外国人の作品だな、日本人はこういう作品は作らないな」と思うことがあるのです。それが、私の生徒の場合、どのように指導したらいいのだろう、と悩むことになります。

ひとつ特徴的なのは、線の硬さ。まあ、例えば、直立不動(気をつけ!)のままダンスを踊っている感じです。不自然で、硬いなあと感じます。詩性も楽しさも感じられません。

もしかすると、「生花は自己表現」だという教えを勘違いしているのではないでしょうか。

「生花は自己表現」だという主張は1920年代頃から日本の生花の世界でなされているものです。西洋芸術のモダニズムの影響でしょう。つまり、西洋の考え方を日本人向けに紹介した教えです。

生花とは自然素材を尊重しつつ、自然の美しさを表現するものという前提があって、それを踏まえて、そこに自己主張も加えてみませんか、という程度の理解で受けとられたのかもしれません。というのは、とことん自己表現だけの(素材の自然性を完全否定した)生花はあまり存在しないように思うからです。基本的に自然素材の持っている面白さ、美しさを発見したなら、それをあえて壊すようなことはしないだろうと思うのです。

自己を表現した生花、と言っても、そこに表現された自己とは、自然の一部としての自己かもしれません。自分も自然の一部だと認識しつつ、自然素材の持つ味、線、動きを尊重しつつ、制作していくわけで、人と自然の共同作業のようなもの。

おそらくその創造過程の理想は無私の境地ではないでしょうか。深い瞑想状態とも言えるでしょう。生花の創造体験の一番深いところですが、皆さん、いろいろな表現でそれを説明してくださっています。「花と話しつついけていく」とか、「花と一体になっていけるのだ」とか。私なら「頭で作るな、無意識で作ろう」とでも言うかもしれません。華道史上、稀有の華道家であった山根翠堂は次のように書いています。

「花をいける人の心が、花の心に同化して、花のように美しい心にならなければ、決して、その本来の使命に忠実な、真に芸術的な『いけ花』はできません」(「花に生きる人たちへ」)

「同化」という言葉の意味は深いと思います。花は素材という客観的対象以上の存在になるのです。

ところが、ことに戦後、海外にも生花学習者が増えていきます。

そこで「生花は自己表現だ」という教えを伝えた場合、本来自分たちの考え方が戻ってきているわけです。日本文化だと思って生花を始めてみたら、中身は西洋文化じゃないか、と。自然は制作のための素材でしかない、ということがそのまま受け取られます。日本では前提としてあった自然観がないわけです。

自分は自分、自然は素材。人と自然は断絶しています。

この指摘は多くの著名な方々が、日本人の自然観対西洋人の自然観として書いていることと共通しています。おそらくそのような日本人論を読んだことがあるという方も多いでしょう。実は、それはあまりに紋切り型で、単純すぎる対比です。日本国外でそんな話をしたら、誰にも相手にされません。

しかし、こと「生花は自己表現だ」という主張の解釈について考えていくと、この紋切り型の比較が参考になるように思います。

では、外国人にどう教えていくべきか。

まず、外国人には「生花は自己表現だ」などということは言わない方がいいでしょう。それは自然を尊重する表現ができた後で、ゆっくり考えて貰えばいいことなのです。「花を愛さなくても生花はできるんだぜ」というような本を出している外国人がいます。こういう勘違いが起きないようにするためにも、これは大切なことだと思います。こういう生花教師を輩出している流派はその指導に検討すべき点があるのかもしれません。

次に、もっと花を見つめなさい、瞑想しなさい、ということを強調して指導していくことかな、と思います。最近、その趣旨で英語であれこれ書いてみました。そういう指導ができないと、海外では私たちはまともな生花を教え、伝えていくことができないように思うからです。生花を教えるということの本質は、生花が瞑想だということを教えることだと思います。

おそらくこれは日本国内ではそれほど意識しなくてもいいことだと思います。説明しなくても生徒は自然に瞑想体験を身につけていくのではないでしょうか。生花とは「本来そういうもの」だからです。しかし、外国人に生花を教える際には、最大の障壁になるように思います。

最近、ある生徒から、もっと別な方法で指導してくれとあれこれ言われたことがあります。この障壁の手前で迷っている生徒の一人です。

その希望をよく考えてみたところ、彼女の生花理解がわかってきました。おそらくいろいろなデザインの型を覚え、花という材料をそれに当てはめて生花を作るのだと考えているようなのです。自分の頭にある型、それを表現するために花を素材(客観的な対象)として使う。そのためにいろいろな効果的な型を教えてくれということに行き着くのです。先に書いた西洋人的自然観による生花理解の典型です。基本型の勉強はそのような態度で始めることになるでしょうが、自由型に移って、数年したならば(ましてや師範をとったならば)、そのような、頭だけで作ろうという態度ではいけません。生花の本質に至ることはできません。

生花のデザインは自分の頭から捻り出すのではなく、むしろ無私の境地で素材から(あるいは自分の無意識から)抽出するものだと教えたいものです。そこには、花との共同作業、一体化、同化、といった瞑想体験が必要です。花を客観的対象として見ているだけでは到達できない境地です。生徒がそこを理解し、体得できるかどうか。そこがポイントのような気がします。

デザインという結果ばかりをみていてはいけない。過程を重視しなさい。

生花はデザインじゃない。

生花は瞑想なんだと、強調していくことでしょう。

それで生徒が離れていくなら、仕方ないですね。金のためだけに生花指導をやっているわけではないのです。譲れないものは譲れません。

もしかすると、生徒は自然観の変更を迫られるかもしれません。その変更が可能なら、生花を海外に広める意義はとても大きいように思います。


関連の記事

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2021年3月18日

日本文化の発信(2)

 


次から次へと生花関連の企画を思いついては、取り組んでいます。

生花道場生花ギャラリー賞メルボルン生花フェスティバル、さらに学術的な取り組みなどなど。

お金になるわけでもなく、名声につながるわけでもない。それでもやらざるを得ない。と言うか、基本的には好きなことをやっているだけなのですが。

さらに、来年から「いけばなとは何か」と題し、山根翠堂の名言を英訳していこうと思います。真生流のお家元からお許しをいただきましたので、国際いけ花学会の「いけ花文化研究」に数年かけて連載する予定です。

このタイトルは、西谷啓治の「宗教とは何か」に啓発されたもの。学生時代、最も刺激を受けた本のひとつでした。

私が英訳し、米国の大学で日本古典文学の教授をしている畏友(ネイティブ英語話者)に見ていただければ最高だろうと思います。

内容は山根の遺言とも言うべき「花に生きる人たちへ」(中央公論美術出版)の抄訳になります。この著作は、現代、いけばなに関わる人たちにとっても大きな意義があると思うのです。

ひとつには、いけばなには理念があるということを紹介できるでしょう。いけばなは花型(デザイン)の問題だとしか思っていない方が多いのが海外の実情でしょう。いけばなに関する英語文献を見回したことがありますが、理念についてきちんと述べた類書は少ないのです。

また、誠実にいけばなに生きた方があったということ、そして、本物のいけばなマスターとは、こういう方なのだ、と紹介したいですね。現在、私たちにはロールモデルとなるような方がなかなか見当たらないように思うのです。

さらに、山根の言葉には、いけばなの癒し、あるいは、いけばなと環境問題について考えていく際のヒントがあるように思います。つまり、いけばなと現代の問題の関連を考える際の参考になるかもしれないのです。この点は私にとって重要なポイントです。

現代のいけばなに対する、私の最大の不満は、現代社会の問題にきちんと対峙していないということ(もちろん、例外はあります)。

いけばなは現代社会に何ができるのか?

いけばなは次の世代に何を伝えるのか?

例えば、現代芸術が真摯に環境問題に取り組んでいるのに、いけばなの大勢はそうはなっていないように思います。時代の動きに関わらない、あるいは時代の求める新しい価値が提示できない、ということでは、いけばな人口が減っていくのは仕方ないことかもしれません。

そのようなわけで、この抄訳が少数であっても関心のある方々に届くならば、大いに意義があるだろうと。

私がやる気になるのは、こういう企画なのです。

2021年2月7日

「専応口伝」再びー山根翠堂自由花論との類比

 


「専応口伝」についてあれこれ考えてきたことがようやくまとまりました。と言っても一つの仮説です。想像に任せて書いてみました。学術的に認められるのか、定かではありません。独断と偏見!ということになるかもしれません。

UC Davis の教授等、何人かに読んでいただいたところ、そこそこ面白いじゃないかということであるようで、「いけ花文化研究」に掲載されるようです。

私が指摘していることは、

「専応口伝」には生花の定義として二点、存在論的な定義と認識論的な定義が明言されているのに、なぜか認識論的側面が無視されてきた。

「専応口伝」の定義する自然の象徴としての生花と、天地人を骨格とする生花(せいか)は、似ているけれど、微妙に異なっている。自然の形而上学的把握の有無という点からすれば、両者は異質なものだ。

自由花運動は生花への西洋モダニズムの導入ということだけでなく、本人たちは気づいていないが、無視されてきた生花の本質の再興という側面があったのではないか。

こんな奇論が出てくると、「花道史も面白いじゃないか」という方、さらには、「もっと研究してやろう」「反論してやろう」という方が出てこないだろうか、と密かに期待しています。

実はこのエッセーは、構想している山根翠堂3部作の2つ目です。

一つ目は昨年、Intenernational Academic Forum で発表した論文。趣旨は、戦前の自由花運動と戦後の前衛生花との関係について、前者が後者に引き継がれたという継続性に注目する論者が多いようですが、私の論は、両者は全く異なる、社会学的な見地からは対立関係にあるとするものです。

白状すると、山根翠堂3部作の2つまで、これまで書いたものは、山根の実際の著作を読まずに書いています。一次資料にあたらず論文を書く!なんともひどい話ですが、資料が手に入らないのです。

最後の論文はきちんと一次資料を読んで山根翠堂の思想の根幹に迫ろうかと考えています。

しかし、京都芸大の井上先生とお話した際、井上先生が私が考えていたよりはるかに大きな枠組みで山根を捉えておられることに気付き、果たして、私が取り組む必要があるのかな?と思っているところです。

さらに、生花の学術的研究ということでは、また別の関心が芽生えてきているのです。

ここまで読んで下さった方のために、「いけ花文化研究」に投稿した最新論文の要旨を掲載しておきます。このブログでも専応口伝についてあれこれ書いてきましたが、最もまとまった内容になっているはずです。英文論文なので読みにくいかもしれませんが、機会があればいつか日本語版も発表したいと思います。


An Interpretation of Ikenobo Senno Kuden (16c) and Its Hidden Link to the Rise of Freestyle Ikebana in the Modern Japan


Shoso Shimbo, PhD
RMIT University Short Courses, Australia

Abstract

The introduction of Western modernism to ikebana brought about the Freestyle Ikebana Movement (the FIM) in 1920’s and 1930’s. Suido Yamane, one of the major advocates of the FIM developed a unique theory on Jiyuu bana (freestyle ikebana). This paper points out the similarity between his theory and the metaphysical statement in Senno Kuden, although the latter has not been adequately studied. Seeing ikebana as a representation of life energy did not begin with the reformers in 1920’s & 1930’s. Rather it has been around since the early stages of development in ikebana and deserves more attention. The historical significance of the FIM may lie in its effort to revive a neglected aspect of ikebana tradition.  

要旨

本稿は1920年代から30年代にかけての自由花運動の歴史的意義について考察するものである。明治以降、西洋文明の影響を触媒とする、いけ花における変容は文化変容の一例としてとらえられるが、ここでは自由花運動、殊にその中心人物の一人、山根翠堂の取り組みに焦点を当てる。翠堂の自由花論は形而上的未発である「真実の自己」が形而下的已発「自由花」として発動し、この一点に純形而上学的理としての「生命」が成立していると解釈できよう。これを「専応口伝」の「よろしき面かげを本とし、先祖さし初めし」に認められる本質論と対比してみたい。本質である「面かげ」が未発であり、「よろしき面かげ」における、形而上的本質である面かげの「よろし」さがより純度の高い形而上学的理として措定されていると考えられる。つまり形而上的「面かげ」という未発が「よろし」の働きにより、形而下的已発として挿花が成り立つのである。翠堂が純形而上学的理として把握した「生命」は専応の面かげの「よろし」さと近似した働きを持つのではないか。とすると、自由花運動という文化変容は、看過されてきたいけ花の始原の一側面に回帰しようという衝動を秘めた変容だったのではないだろうか。自由花運動の歴史的評価については前近代から近代への脱却、西洋由来の芸術性の主張という二点が注目されてきたが、いけ花における形而上学の最も重要な一面の再興という側面も検討されるべきだろう。

Shoso Shimbo

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