華道家 新保逍滄

2016年9月27日

一日一華:ちょっとさんへ


白樺に山吹、
それに、ネコヤナギ。
「北国の春」といったところ。

歌詞の中ではコブシも出てきますね。
我が家の庭ではコブシが終わって、
山吹が咲いています。
白樺も芽吹いてきました。
メルボルンはようやく春です。


2016年9月19日

2016年9月12日

2016年9月11日

一日一華:クリニックのレセプション


新しいクライアントへの春のアレンジメント。
商業花では、サイズ、その他、様々なクライアントのニーズに応えなければいけません。
おそらく発生した当時のいけ花もそうした柔軟なものだったと思います。
それが、規定の古典花の繰り返しになり、柔軟性を失っていったのかもしれません。

連翹も黄梅も我が家の庭から採取したもの。

2016年9月6日

21世紀的いけ花考:第50回


 現代芸術といけ花の違いについてあれこれ書いてきました。しかし、どうも木を見て森を見ずではないか、という感じがします。両者の相違点はたくさんあって、いずれも重要ではありますが、根本的な違いをがっちり押さえておかないことには、どうも腑に落ちないということになりかねません。

 「どちらも『芸術』。根本は同じさ」というのは浅薄。きちんと考えれば違いばかりがごろごろ出てきます。では、最も肝心な違いとは何でしょう?A Bとの違いが分かるというのはとても大切です。違いが分かると、A が、そしてBが一層よく分かるようになるからです。豪州に住んでいると日本との様々な違いに気づきますね。その結果、日本が一層よく分かるようになります。違いが分かると理解が深まるのです。A Bも同じだよ、なんていうのは、A Bも分かっていないということです。

 現代芸術といけ花の根本的な違いとは何でしょう?この違いに気付いてもらえば、芸術もいけ花も一層よく理解できるというポイントは何でしょう?現代芸術もいけ花もやる制作者としての主観的な見解ですが、両者の違いは小説と俳句の違いに似ています。現代芸術は小説、いけ花は俳句として鑑賞したらいいのではないでしょうか。もしかすると私の「いけ花・俳句論」は現代芸術の本質は西洋文化的、いけ花の本質は日本文化的というようなありきたりな文化比較論になってしまうのかもしれません。それも悪くないでしょう。現代芸術、そして、いけ花を一層よく理解してもらうのに役立てていただければ十分です。いけ花・俳句論については、次回からお話ししていきましょう。

 今月はレズリー・キーホー・ギャラリーズでの小林秀明展に小路光男の花器を使っていけたもの。オープニングには小路さんもいらっしゃったそうですが、気に入っていただけたか気になります。一杯やりましょうという約束を果たせないでいるのが残念。

 主花は木瓜。様々な使い方ができ、楽しい花材です。我が家では白、ピンク、赤、と3株育てています。この作品に限らず言えることですが、数十本の花材一つ一つを長さ、位置を計算しながら活けていく過程は瞑想そのもの。集中した無我の時間で、一度味わうと病みつきになります。多くの方に経験していただきたいものです。まずは10月8、9日の私たちの花展にお越しいただければ幸いです。


2016年9月5日

一日一華:二つの戦争


メルボルン、花菱レストランへの今週の花。

日本近隣の国々が騒々しいせいでしょう。
最近は、どこへ行っても戦争をどう避けるか、
どうしたら平和が維持できるのか、という話に巻き込まれます。

日本のマスコミは日本周辺の不安材料をあまり報道していないようで、
日本全体がのんびり構えているように見えます。
日本のマスコミは意図的に国民を白痴化しようと
努めているのかもしれません。
あるいは、根拠のない楽観主義がはびこっているのでしょうか。

「憲法改正反対」「日本を戦争のできる国にするな」という声はよく耳にします。
そうした話に注意してみると、気付くことが幾つかあります。

まず、彼らの言う戦争とは、日本の侵略戦争のことであるようです。
戦前、日本は侵略戦争を行った(と彼らは主張します)。
そのために徴兵制や軍事拡大が国是であった。
あのような戦時体制を二度と経験したくない。
というのが大まかな主張。

今現在、日本が侵略戦争を行えるでしょうか?
植民地主義が国際的に批判されている中で、
日本が侵略戦争を開始すれば、
国際連合軍相手に戦うことになります。
即、敗戦です。
それが分からないような政権が、日本の現体制から生まれるでしょうか?
日本はそこまで退化していないです。心配の必要はないでしょう。

「第二大戦前夜を見てみろ、今の日本と状況はとても似ている」
というような議論もとても多い。
これは日本人大衆の無知につけ込んで、不安を煽る意図的な議論です。
意図的と私が断じるのは、そうした議論で民衆を非現実的な幻想に閉じ込めておくことで、有利になる人、国があるからです。
現実から目をそらすよう誘導しているのです。
本当の不安の正体を見えないようにしよう、としているのではないでしょうか。

もっと、国際情勢を知り、日本の現状を理解する必要があります。
心配しなければいけないのは
外への侵略戦争に引っ張り出されることではなく、
外からの侵略戦争に巻き込まれることなのです。
戦場に無理やり送り出されることではなく、
日本が戦場になってしまうことなのです。
そちらの方こそ今、心配しなければいけない。
その上で、現状の憲法で非常時に対応できるのかな、と
考えていくべきでしょう。

いくら対外的に攻める戦争を放棄しますと頑張っても、
攻めてくる相手にはどうにも手立てがないのです。
相手が攻めてくれば、戦争が始まります。

その現実を見たくないために(あるいは意図的に隠すために)、
全く必要のない心配をしている(させている)のではないでしょうか?

日本が対外的に仕掛けていく侵略戦争と、
外部から日本が侵略され、その防衛のための戦争とを
まず、区別をすること。

前者は非現実的で心配はないが、後者は現実的で心配なのだと早く気づいていただきたい。
日本を「戦争ができない国」にすることで、前者は防ぐことができても、
後者は防ぎようがないのです。この二つの戦争を一緒くたにしてはいけません。

「戦争ができない国」であれば、平和が維持できる、一切の戦争がなくなる、二つの戦争のどちらも防げるというような議論は間違っています。
そのようなお花畑の平和論はとても危険です。
「戦争ができない国」ほど、攻めやすいものはない。
即、国土をいただき、略奪虐殺やり放題。
侵略したい国にとっては願ってもない餌食です。

以上は誰が考えても明らか。国際的な常識です。
そのことに、「今、気付いた」という方があるとすれば、それはマスコミの洗脳にかかっていたということ。

日本のマスコミの多くは
日本を侵略したい国々に近い人間達が牛耳っているのだ、
日本人白痴化を狙っているのだ、
危険な平和論で日本人を洗脳しているのだ、と
早く気づいていただきたい。

また、「侵略されたら戦争などせず、相手のなすがままにしていましょう」
「相手が欲しいという島があれば差し上げましょう」
というのに近い議論まであります。
これもまた、日本を侵略したい国々に近い人間達の言説。

チベットがどうなっているのか、
国家を失った難民がどうなっているのか、
少しでも調べてみるべきです。

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2016年9月2日

Shoso Shimbo

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