華道家 新保逍滄

2023年5月23日

抽象的思考の面白さ:「学術論文の書き方」

 


諸事情あって学術論文を読む機会がよくあります。

学問の世界は広大ですが、私の専門とする領域は非常に狭いものです。教育心理学(博士号)、日本学(修士)、美術(修士)といった文系の中の小さな分野です。その狭い分野の経験しかない者の管見に過ぎないのですが、日本語の文系の論文にはつまらないものが多すぎるのではないでしょうか。 

大学生の論文や博士論文だけでなく、先生方の論文でも、私に言わせれば、論文になっていないのではないか、というものに出くわすことがあります。仮にその論文を英訳しても、出版してくれる学術誌は見つからないのではないでしょうか。もちろん、通常、そんなことを口に出すことはありません。ここだけの話です。

もしかすると私が受けた学問の訓練(修士以上)がオーストラリアの大学においてですので、日本の学術の特殊な事情に不明であるというようなことがあるのかもしれませんが。立派なタイトルの立派な本でありながら、実につまらない、というものもあります。

最近、つまらない論文の共通項が分かってきました。

一言で言えば、抽象的思考がゆるい。

事実の羅列で終わっているようなもの。最悪です。考察がないのでつまらない。

事実の集積、あるいは調査の結果を分析し、グループ分けし、比較し、パターンを見つけ、理論をすくい上げると言った分析や抽象的思考の面白さがない。それをリサーチ・メソドロジー(研究方法)と言いますが、メソドロジーの習得は論文を書く前提です。

あるいは、ある事実(または調査の結果)を分析する段階に、分析ツール(理論)を持ち合わせていないために、思考が支離滅裂になっていたりします。文芸評論めいた著作によくあるケースです。

最近、必要があって香りについてのエッセーを読みました。デザインという言葉の定義を検討しつつ、特定の事象を説明しようとしているものです。私にとっては役に立つ内容でしたが、もう一つ上位の抽象概念(例えばアサンブラージュなど)を持ち出して、デザインを定義し直し、まとめるというところまでいかないと、説得力のある面白い論文にはなりません。

Googleで調べると、「論文の書き方」ということで、たくさんのアドバイスが見つかります。よく見かけるのは論文の構成から説明していくもの。

序論

文献レビュー

調査

結果

分析

考察

結論

などが一般的な構成パターンでしょうか。

ここで最重要なのは「文献レビュー」です。

【必読!】文系学生のための卒論・修論の書き方

というサイトによると、文献レビューとは、以下のように説明されています。

「関連する過去の文献や論文、理論を、その分野の学術的流れや歴史なども含めて要約し、批判的に検討する。用語の定義などもここで。」

「その分野の学術的流れや歴史」というところが大切です。ここを踏まえていなければ、論文は存在する意味がありません。修士論文や博士論文でも、ここがないに等しいというものがありますが、その重要性を十分指導していないなら指導教官の責任は重大です。実は、「なぜ学術的な流れや歴史が重要なのか」という質問をしてくる方を、納得させるのはかなり難しい仕事になるでしょう。それがないと、一部の人々だけで共有される独りよがりなレポートになってしまうからです、と言っても分からない方には分かってもらえないでしょう。

ここで他の人の論文を持ち出して批判や評価をしたりするのはかばかられますので、昨年出版された私の小論文を参考に説明を続けます。今までのところ私の出版物はほとんどが英文なので、私にとっては数少ない日本語で書いた論文のひとつです。

2022. 新保逍滄、第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相「はじめて学ぶ芸術の教科書、伝統文化研究編」井上治、森田都紀(編)、京都芸術大学芸術学舎

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戦前、生け花の世界では、西洋藝術の影響で自由花運動が起こります。生け花の歴史上、とても大きな変革です。これをテーマに論文を書こうという場合、自由花運動をいくら詳しく調べ、記録していってもそれはただのデータの集積でしかありません。

そんなものはいくら内容が詳細であっても、中学校の自由研究レベルであって、大学レベルの論文ではありません。もちろんそれも無意味ではありません。歴史的事実の集積にも用途はあります。ただ、大学のいかなる学位もいただけないでしょう。分析も考察もないからです。リサーチ・メソドロジーのない文章は論文ではありません。

時に、例えば「歴史上重要なものであることが分かった」などと「分析、考察」を唐突に付け加えたりしている場合もあるようですが、そんなものは考察とは言いません。

自分の収集したデータや調査結果を俯瞰して、距離を置いて眺め、一体ここでは何が起こっているのか、と客観的に捉える視点、抽象的に考えていく力。重要なのはそこです。観察された事象をまとめたり、比較したりして、関係性やパターンを見出すという抽象的な思考力を養っていない方には、学術論文の作成はかなり困難でしょう。

さて、私の論文に戻りましょう。自由花運動はどのような角度から検討していけばいいのでしょう?

これは生け花の変革です。生け花すなわち文化のひとつです。

ということは文化変容という切り口から分析できないだろうかと検討してみます。それでうまくいかなければ、また別の切り口を探すまでです。この段階で、私の思考は、自由花運動を離れています。歴史的な事象を離れ、抽象的な理論に注意が向いています。

文化変容にはどんな理論があるのだろう?

どんな研究があるのだろう?

類似の問題を扱った研究はないだろうか?

と、みていくといくらでも出てきます。文化人類学、社会学、カルチャル・スタディーズなどなど。この段階、つまり文献レビューの前段階ですが、ここに時間をかけることが重要です。もちろん、予め自分の分野が特定されているならその中で文化変容についての論文を次々読んでいきます。

文化変容理論の中では、特にフランスの社会学者ピエール・ブルデューの理論の影響力が大きいということがわかりましたので、彼の主著を読んでいきます。これにはかなり苦労しました。

ブルデューの芸術変容の理論を理解すればするほど、自由花運動についての記述に、疑問点が生じてきます。理論を手にすることで、研究の対象がより明確に見えてくるのです。

最大の疑問は、戦前の自由花運動が戦後の前衛生け花に発展していったという主流の言説は正しいのだろうか、というもの。両者には共通点もあるのですが、相違点も非常に多い。

相違点に注目するなら、自由花運動は「前衛芸術」的であるのに、戦後の前衛生け花は前衛というより「商業芸術」に近いのではないか、と思えてきました。歴史的事象の描写ではなく、その解釈に注力しています。そして抽象的なレベルで新しい解釈の可能性を提示することができました。

ここまで到達して、私の論文はほぼ完了です。論文の骨格ができ、重要な要点は掴めたので、あとは書き上げるだけです。

小さな発見でいいのです。通説に疑問を投げかけることまでできれば十分でしょう。良ければぜひご一読を。


関連のポスト

生け花と嗜好

出版のお知らせ

思い出すこと:留学生として


2023年3月30日

香水「花信コレクション」予約受付開始

 


花信 Hanadayoi - Ikebana by Request は6月に発表予定。これを記念して、新しい香水コレクション Hanadayori が発売されます。ただいま、先行予約受付中です。
香水売り上げの一部はメルボルン・生け花フェスティバルの運営費用に当られます。


 


2023年3月17日

2023年3月6日

『専応口伝』における「面かげ」の形而上学(英語版)



先に紹介した論文の英語版は以下です。

Abstract

Senno Kuden (16th century) historically presents the most influential definition of ikebana, which includes both ontological and epistemological concerns in representation. Although the former contributed to the development of the common definition of ikebana as a symbolic representation of nature or the universe, the latter has been largely ignored. This study points out that the latter has not only significant meanings in understanding Senno’s teaching on ikebana, but also a strong connection with the traditional Japanese aesthetics that values contemplative awareness of the transiency of beings.

Author Information
Shoso Shimbo, International Society of Ikebana Research, Australia

Paper Information
Conference: KAMC2022
Stream: Aesthetics and Design

This paper is part of the KAMC2022 Conference Proceedings (View) 
Full Paper
1. View / Download the full paper in a new tab/window

2. Academia

To cite this article:
Shimbo S. (2022) Seeing the Invisible: Applying Discourse Analysis to the Introduction of Senno Kuden ISSN: 2436-0503 – The Kyoto Conference on Arts, Media & Culture 2022: Official Conference Proceedings https://doi.org/10.22492/issn.2436-0503.2022.6
To link to this article:  https://doi.org/10.22492/issn.2436-0503.2022.6


日本語版

『専応口伝』における「面かげ」の形而上学

要旨

『専応口伝』序文にディスコース分析を応用し、従来あまり注目されてこなかった序文中の主要語「よろしき面かげ」の重要性について考察してみたい。「よろしき面かげ」はもうひとつの主要語「をのずからなる姿」とともに形而上学的な文脈で理解されるべきである。「をのずからなる姿」がいけ花を大自然の象徴的表現と定義したのに対し、「よろしき面かげ」はいけ花の始原についての定義と解釈できる。専応の教えは存在の無常性を瞑想を通じて認識することで、草や花の純粋な本質を捉え、それをもとにして挿してゆくものだということになる。さらにこの点において専応のいけ花の思想は日本の美意識の典型的な内的機構とも強い関連性があることが明らかになるのである。

全文は以下より。

2023年3月3日

上品さという常識の言語化を

 

生け花を嗜むということは、特定の流派に属するという以前に、日本文化に関わるということです。日本文化を学ぶ場合、それは同時に上品さを身につけていくことでもあるでしょう。これはあまりに自明で、基本でもあるため、わざわざ言うまでもないこと、ではないでしょうか。

生け花をやっている下品な方というのは通常あり得ないわけです。私などでも公の前で生け花のデモをやるとなれば、言葉遣いはもちろん、服装にも気をつけます。不潔ないでたちで花をいける花道家など見たことがないでしょう。セクシーな衣装で花をいける、などというのはありそうですが、これも実際には見たことはないですね。たとえあったとしても、「まあ、冗談だろう」ということになります。

それは、日本人にとってはあまりに自明すぎて、わざわざ口にする必要もないというレベルの常識です。おそらく日本の伝統文化の根本では、精神的に高貴で洗練された方(あるいは天皇陛下かもしれませんが)とのつながりを想定してきたということと関係があるのかもしれません。

では、この上品さへの志向を外国人に理解してもらっているでしょうか?

上品さをどう英訳したらいいのかな、と考えていたとき、偶然見つけた言葉があります。

Be Kind and Courteous. 

親切かつ礼儀正しくあれ。ぴったりですね。

華道流派によっては外国人の生徒に対しても行動規範や精神的な指標を示す場合もあるでしょう。さらに最近は、パワハラ、モラハラ、いじめなどが生じないよう規範を作る場合も増えていると思います。そんなものに黙って耐えるなどという時代ではありません。問題になれば、その流派の組織のあり方が問題になるはずです。

Be Kind and Courteous. 

「上品であれ」ということは、生け花に関わろうという日本人にとっては暗黙の了解事項でしょうが、外国では「生け花をやる以上、上品であろうとすることは必須の前提条件だよ。上品さを備えていない人がいい生け花を作れるはずがないんだよ」と、言語化してきちんと伝えていくことが必要ではないかと思います。

教育や年齢や経済状態などにかかわらずどなたにも生け花を嗜んでいただきたいものですが、他人の悪口ばかりで、上品さなどに関心がないという方はできれば関わってほしくないものです。学歴や職歴といった社会的な評価が得られなかった人たちが、自分の評価(Self-esteem)を補償するために、生け花の教師資格を利用する場合もあるかもしれませんが、上品さという当然の前提を欠いている人が集まれば、いじめや嫌がらせが横行するということになりかねません。

生け花作品は作者の人格の延長です。品のある作品に出会いたくて、上品な人柄に触れたくて、私たちは展覧会にも出かけるわけです。

海外における生け花グループの会員心得の最初に次の一言を明記すべきだと思います。

Be Kind and Courteous.

これがあるとないとで、グループのあり方が大きく変わってくるのではないでしょうか。

2023年2月24日

我慢・我慢

 


海外で生け花の先生方と接していると、ここは我慢だな、と感じることが時にあります。きっともうすぐ状況は変わってくる、と思ってはいますが。

先生方への要望はあります。
しかし、非難でも、愚痴でも、嘲弄でもなく、「もう少し勉強なさいませんか」という要望を伝えるのはなかなか難しいものです。

例えば、大変親切な生け花の先生がいらっしゃいます。
私のためにわざわざ時間を割いて、お話して下さいます。
「いいかい、生け花というのはね、云々」
「天地人と言って、宇宙を表すものでね・・・」
そこで、私が「それは、歴史的には、象徴的表現を説明的表現と勘違いしたもので」と口を挟むや、「そこは大事じゃない」と私を制し、ご自分の御高説を滔々と話し続けられるわけです。

失礼ながらこの方はいけばなに関する英文書籍を2、3冊は読んでおられると思います。一般向けのガイドブックのようなものが出ています。
しかし、それで生け花の大家のようにお話をなさるには、相手があまり良くない。
「これを読んで勉強しなさい」とご自分の書かれた2ページほどの生け花論を手渡して下さいました。

もちろん、私は礼儀正しいですから、黙って聞いて、お礼申し上げましたが(それでなくても傲慢な奴と思われかねない)、いろいろ考えていました。

・ 早く終わらないかな?(失礼)
・ 私の論文、ひとつでいいから読んで欲しいな。まずは、"Ikebana in English" かな。
・ いけ花文化研究ならエッセーも論文も無料で読み放題なのにな。
・ 国際いけ花学会の例会に参加されれば、もう少し深い知識が得られるのにな、とか。

ただ、数十年前と比べ、現在、格段に情報量も増え、情報へのアクセスもしやすくなっています。生け花に対する一般の人たちの理解も深まっています。間もなくもう少し努力し、勉強しないと先生としてやっていくのが困難という事態になるはずです。生け花の世界では通常の教職と異なり、専門知識が少なくとも技術さえあれば教授とか立派なタイトルをいただけるようになっているようですが、そのメッキがすぐに剥がれるということになるでしょう。

例えば、昨年、ある新聞に私のことが取り上げられました。
短いインタビューでしたので、あまり期待していなかったのですが、なんとも深い記事に仕上げていただきました。専門外の方でも生け花に対し、これほどの深い理解を示しておられるのです。

ですから、あともう少しの我慢だなと思っています。

国際いけ花学会の次回例会が3月25日に開催されます。
内容は生け花教師どなたにとっても(流派に関わらず)とても価値のある内容になるはずです。ご自宅で聴講でき、しかも無料です。
ぜひご活用下さい。

2023年2月23日

『専応口伝』における「面かげ」の形而上学

 


新しいエッセーが出版されました。よろしければリンク先からダウンロードして目を通していただければ幸いです。今回は日本語版と英語版両方が出版される予定ですが、以下のリンクは日本語版です。


新保逍滄(2023)『専応口伝』における「面かげ」の形而上学International Journal of Ikebana Studies,10, 21-28.

https://doi.org/10.57290/ikebana.10.0_21


『専応口伝』についてはこのブログでも何度も書いています。そこにはどうも謎の部分があって、私にとってはとても気になる問題でした。ようやく納得のいく形で出版できたので一安心です。

生け花についてあれこれ考え、どうして外国人に教えるのはこうも難しいのだろうと日々悩んできたことの延長線上にこの論文ができたように感じています。「生け花とは何か」ということが、ここで自分なりに了解できたようにも思います。そしてここからいろいろな問題にまた発展していけるのではないかなと。

日本の古典は私の専門分野ではないので、様々なご意見、ご批判をいただくことになってしまいましたが、しばらくは、この問題に戻ってくる必要はないでしょう。その点でも安心です。

生け花の定義に関わる問題なので、いろいろ批判されたり、議論が起こるということになれば、なおありがたいところです。

要旨

『専応口伝』序文にディスコース分析を応用し、従来あまり注目されてこなかった序文中の主要語「よろしき面かげ」の重要性について考察してみたい。「よろしき面かげ」はもうひとつの主要語「をのずからなる姿」とともに形而上学的な文脈で理解されるべきである。「をのずからなる姿」がいけ花を大自然の象徴的表現と定義したのに対し、「よろしき面かげ」はいけ花の始原についての定義と解釈できる。専応の教えは存在の無常性を瞑想を通じて認識することで、草や花の純粋な本質を捉え、それをもとにして挿してゆくものだということになる。さらにこの点において専応のいけ花の思想は日本の美意識の典型的な内的機構とも強い関連性があることが明らかになるのである。

2023年2月19日

いけばな療法学会にて

2023年2月19日、いけばな療法学会にていけ花普及への取り組みについてお話しさせていただきました。主にメルボルンいけばなフェスティバルについて紹介させていただきました。同フェステイバルについては、このブログでも何度か取り上げていますのでご参照ください。使用したキーノートを以下に掲載します。
















2023年2月11日

花信:Hanadayori 23 ー 出展者リスト

 



オンライン華展、花信の出展者とリクエストが発表されました。https://www.ikebanafestival.com/hanadayori-2023/hanadayori-2023-update

「花信:今、世界が求める花がここに」とあるとおり世界中から様々なリクエストが集まりました。個人的な記念の花のリクエストはもちろん、華道家にもっと挑戦してほしいという趣旨のリクエストが多かったように思います。なかには生け花についてあまりご存知ないのかなと思われるような方からのリクエストもあり、これはこれで面白いですね。制作担当の方は大変でしょうが。

ありきたりの花や
自己満足な花、
他人の目にどう映るかということだけを意識した花、
現代芸術を真似したような花などを、人々は求めていないのではないでしょうか。

前回の作品集では、感涙したというような感想がいくつかありましたが、通常の華道展でそのような感想を持つ方がどれほどあるでしょう。

今回もまた本当に人を撃つ花が出展されるのではないかと楽しみにしています。生け花はこんなにすごい力を持っているんだよと世界中の方々に伝えられたらいいですね。23年度版は6月ごろ作品集公開の予定です。

ご参加いただいた華道家の皆様にお礼申し上げます。メルボルン生け花フェスティバルの一環として実施しているこの企画、次回はおそらく2年後になるでしょうが、日本からもっと出展者が増えてくれることを願っています。

2022年12月24日

2022年12月2日

花信:Hanadayori ーリクエスト募集中

 


和·メルボルン生け花フェスティバルは、「今、こんな花が見たい!」というリクエストを世界中から公募し、それに日本国内外の華道家が応じるオンライン生け花展、Hanadayori 花信: Ikebana by Requestを2023年4月より公開致します。

リクエスト、参加して下さる華道家も同時募集中。



2022年11月9日

ラーメン屋と生け花と存在論


 日本で美味しいラーメンを食べるというのは、海外に住む私にとって大きな楽しみの一つでした。最近は、メルボルンでも美味しいラーメン屋があちこちにできていますので、それほど大きなことではなくなっていますが。

 先頃、東京に短期滞在した時、珍しくまずいラーメンに当たってしまいました。これはおかしいと翌日、また別のラーメン屋に出かけたのですが、こちらもはずれ。2日続けてがっかりすることになり、もうラーメンはいいや、ということで東京を離れました。

 自分がラーメン屋だったら、と考えてしまいます。とても競争の激しい業界ですが、私はきっと繁盛店を目指します。どうしたらもっと美味しい、人気のラーメンを提供できるかと、勉強し、常に改良していくのではないかと思います。しかし、一方、このラーメンは師匠から学んだ伝統の味なのだ、一切変えたりしない、というような立場もあることでしょう。そのせいで人気がなくなり、店は衰退し、潰れるかもしれません。本当の味が分からない客がいけないのでしょうか?客のニーズを尊重しない店主が問題なのでしょうか?
 
 ここで考えた繁盛店と衰退店の典型的な態度の違いこそ、私が生け花を海外で教えていこうという時に、思い悩む問題に関わってきます。どうも私の行き方は繁盛店の行き方ではないような気がしてくるのです。

 様々な方があり、一般化はできないのですが、ある共通の問題を抱えている方々があります。しかし、その本人たちにここが問題ですよ、と指摘することも憚られる、デリケートなものなのです。下手に指摘しようものなら、ハイランキング(高位)の方々であることもあり、大変な不興を買うということにもなりかねない。一言で言えば、彼らの生け花作品は「生きていない」のです。造花で作ったような生け花なのです。これをどういうふうに伝えていったらいいのか、と大いに悩むところです。

 海外における私の立場は上で考えた衰退店のようなものかもしれません。こんなまずいもの食えないよ、と相手にされない。時流に合わないものとして、客に見放され、廃れていくしかないのかもしれません。いろいろな状況を黙って見過ごすしかないのかもしれません。あるいは、まずいものをうまく工夫して、食べさせるということが可能でしょうか?

 一体何の話か、と思われるでしょうが、またも専応口伝の「よろしき面影をもととして」挿していくという、生け花本来の制作態度についての解釈の話なのです。生け花の元になるのは、心で観た草木の「面影」であって、肉眼で見た草木の「姿」ではないのです。草木と対峙して、そこに何を認めるか。それが西洋人と東洋人では違うのではないか、その違いが生け花における差異となっているのではないか。

 仮に西洋人の生け花に「自己(小さい自我)」を表しているだけ、「自然」や「生命」が表れていない、と感じることがあるとすれば、その原因は精神伝統の違いによるものではないか。この人は、花を「ただの材料」「ただの花」としか見ていない、花のよろしき面影まで瞑想して作っていない、ということが、見て分かるようになってくると、生け花指導は別の段階に入ってきます。そのために、様々な苦労をすることになります。生け花を楽しく鑑賞できなくなります。

 要するに、西洋人が本当に生け花を学ぼうというのであれば、東洋人の精神伝統を体得する必要があるのではないか。西洋の精神伝統の立場で生け花を学んでも核心にはいたれないだろうと思います。生け花は花の「存在」からしか立ち現れませんが、その花の「存在」に直面することができないからです。

 井筒俊彦は「意識と存在」の導入部で、西洋の精神的伝統の一つの典型として、サルトルの「嘔吐」を取り上げ、東洋的精神伝統と対比しています。嘔吐の意味するものは「『存在』の無分別的真相をそのまま本源的な姿で表層意識的に受け止めようとすれば、元々『・・・の意識』であるものが『・・・』を失って宙に迷い、自己破壊の危機に晒されること」だとしています。

 それに対し、東洋の精神伝統では、このような場合「嘔吐」に追い込まれはしないとしています。「絶対無分別の『存在』に直面しても狼狽しないだけの準備が初めから方法的、組織的になされているからだ」というのです。生け花を本当に学ぶということは、この準備を学ぶということが前提になっているのだろうと思います(私が提唱する千日挿花行は、この準備という性格があるのではないかと思っています)。

 最近、生け花のデモを披露してくれなどというリクエストがありました。海外の「高位の」華道家だと自称される方々が聴衆なので、生け花における瞑想とは、などと説明しようとしていたら、断られました。これはどうも衰退店のやり方であるようです。デザイン重視の繁盛店のやり方でやってくれということらしいのです。そんなデモでは、意味がないなあと不本意ながらも、どんな状況でも機嫌よく、ベストを尽くしていくという心がけを持ちたいものです。

https://www.shoso.com.au 

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