華道家 新保逍滄

2022年8月10日

平和のための生け花

 


1930年代、第2次世界大戦に向けて日本が戦時体制を整えていった頃、「国家のための茶道」とか「国家のための生け花」、「国家のための各種伝統文化」という主張がなされたようです。

茶道あるいは生け花の修行を通じて、精神を鍛え、戦争のもたらす患難に耐え、戦争に勝利しよう、という趣旨だったのでしょう。

とすると、「国家のため」という言葉が、「戦争のため」という言葉に取り替えられたり、両者が同一視される可能性があるように思います。「戦争のための生け花」とは、とんでもない!ということになります。特に、戦後私たちを取り巻く教育やメディアの言説は偏向の強いものでしたから、政治的なこととなると、なかなか正確に考えることが難しくなっています。「『国家のため』ということがすべて悪につながる、というのは冷静な考えではない」と、なかなか考えられなくなっているのではないでしょうか。

ところが最近、日本の平和ボケに警鐘を鳴らす事件が相次いで起こっています。殊に日本のことを最も考えてきた重要な政治家が、自分のことしか考えない愚劣な暴漢に簡単に暗殺されてしまうという事件は、まるで平和ボケ日本の行く末を暗示しているようです。安全確保がなおざりの今のままでは、こんな悲惨なことになってしまうのだよ、国民の財産、生命が守れないのだよ、という警鐘です。

おそらく日本の世論はこれから大きく変わっていくでしょう。メディアの偏向も、見当はずれも明らかになってくるでしょう。日本の世論の成熟を阻止しよう、日本人の意識を目覚めさせたくないというメディアからはまるで断末魔を迎えたかのような激しい言説があふれてきています。

ここで、国家のための文化、ということをもう一度考え直してもいいように思います。

例えば、国家のための生け花。日本文化としての生け花には、国際社会で重要な側面があるのではないでしょうか。もちろん、茶道、柔道、太鼓、音楽、舞踏、料理、アニメなどなど、どのような文化活動にも当てはまることでしょうが。

仮に日本が隣国から攻められるというような事態になったとします。

もちろん、日本近辺には友好国ばかりで、隣国を侵略したり、少数民族を迫害したりするような軍事大国は存在しないと日本のメディアは伝え続けるでしょうが。友好条約があるじゃないか。自己防衛などもってのほか、憲法を守れば平和が守れると訴え続けるでしょう。「憲法を守って、国を滅ぼす立派な日本」を理想としているのでしょうから。

まあ、仮にそのような緊急事態に陥ったとします。

その時、平和維持に、極めて重要な働きをするのが国際世論です。ウクライナが例を示してくれています。国際世論を日本に引き付けるために、文化が大きな働きをするのです。例えば、「あの素晴らしい生け花を持つ国家を滅ぼしていいはずがない」これは強力です。

したがって、生け花をきちんと伝える、多くの方に愛好されるように伝えるということは日本の国防につながるのです。そのような意味での「国家のための生け花」が「平和のための生け花」になる可能性は大きいと思います。

海外で生け花を広めようと、メルボルン生け花フェスティバルを運営し、苦労していますが、そこまで考えていただければ、もっと協力者が現れて下さるはずなのです。自分のことにしか関心がない、自分の流派という家族企業の成長にしか興味がないなど、いろいろな考えがあって当然でしょうが、より大きな目標のもとに、生け花の将来のためにメルボルン生け花フェスティバルが育っていくと面白いでしょうね。

2022年6月23日

出版のお知らせ:伝統文化研究編(京都芸術大学)

 


さらに英語にまつわる話を続けます。先のポストで英語攻略の秘訣を紹介し、英語解読はたやすいなどと書いたばかりです。https://ikebana-shoso.blogspot.com/2022/06/blog-post_21.html

たいていの英書は大丈夫。オーストラリアの大学院から学位がいただける程度の読解力はあるはずなのです。

ところが、これは手強い!と感じた本に最近出くわしました。

Pierre Bourdieu, The Rule of Art, Stanford University Press.

フランスの社会学者の著作を英訳したものです。一文が果てしなく長く、息切れするほどで、さらに文構造が複雑なのです。社会学の英書で、ここまで難解なものはあまり読んだことがありません(もちろん、相当に限られた読書経験内での話でありますが)。これはこの著者の特徴なのか、フランス人はみんなこんな文で考えているのか(フランス語教師の家内によれば、そういうことはないようです)、翻訳のせいなのか、それはよく分かりませんが、とても苦労しました。

翻訳ということでは、例えば、西洋の哲学書など日本語訳だとちんぷんかんぷんなのに、英語だと簡単に理解できるということがよくあります。そうすると、翻訳のせいで実際以上に難しくなっている可能性もあるように思います。

この本は、私が準備していた論文にとって重要な参考書で、なんとか読み込む必要がありました。そして、ともかく仕上げた論文が以下の通り出版されました。

井上治・森田都紀 編集「伝統文化 研究編 (はじめて学ぶ芸術の教科書)」京都芸術大学
第一章 第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相  新保逍滄

戦前の「自由花運動」が開花したのが、戦後の「前衛いけ花」だということが通説のようです。しかし、両者には異質なものがあるように思えました。小さな、しかし本質的な差異。そこを掘り下げてみたいということだったのです。

おそらく、学士レベルの学術論文というのは、こうした小さなところに拘って、きちんと論理的に掘り下げる、ということができたら十分なのではないかと思います。さらに、通説に対し少しでも違った観点を提出できたら上出来でしょう。大論文、世紀の大著などを目指す必要はないのです。そのような点から参考にしていただけたらありがたいです。

また、この「芸術の教科書」所収の論文が山根翠堂という魅力的な華道家の再評価につながれば、とも願っています。よろしければ以下のリンクからご購読下さい。

なお、この出版に至るまでにご協力いただいた多くの方々にお礼申し上げます。私の論文を評価してくださった京都芸術大学の井上治先生、資料提供にご協力いただいた真生流家元山根由美様、4回、5回と校正に付き合ってくださった京都芸術大学出版局藝術学舎担当者の方々、ありがとうございました。

<電子書籍>
リフロー型の電子テキストとして販売。

■Kindleストア 価格¥1200
www.amazon.co.jp/dp/B0B4C36WPM ※予約ページ
■honto  価格¥1200
https://honto.jp/ebook/pd_31775546.html ※予約ページ
等、電子書籍書店にて

<オンデマンド書籍>
デジタル印刷の技術を使い、1部から少部数(300部程度)までの製造に対応するものです。読者の注文を工場で情報受け取りしてから製造します。

以下2店舗で扱います。
■amazonPOD  価格¥1300
www.amazon.co.jp/dp/4909439617
■honto (https://honto.jp/)  価格¥1300
予約ページ準備中


2022年6月21日

思い出すこと:英語の攻略

 


中学高校の頃、英語学習にはとてもたくさんの時間を費やしました。会話ではなく、ただひたすら文法翻訳の練習です。

高校1年生くらいの時だと思いますが、英語にひとつの法則を見つけました。それは誰かから教わったのでも、参考書で見つけたわけでもないと思います。この法則は今でも役立っているのです。もしかすると、誰でも知っている陳腐なことかもしれませんし、教科書にきちんと書いてあることかもしれません。

それでも何人かに話したところ、感心してくださる方もありました。もしかすると面白いことなのかもしれません。私にとっては英語攻略の秘訣でありましたし、この法則に照らして、プロの誤訳を見つけたことも多々あります。また、この法則を無視した日本人の英作文に時々おめにかかります。

それは「& の法則」と、自分で呼んでいるもの。

Andが結ぶものは、文法的に同格であり(名詞と名詞、句と句、文と文、など)、結ばれたものは構文上、同格の機能を持つ(目的語と目的語、連体修飾語と連体修飾語、など)。

このことがわかると、いくら長く、複雑な英文でもスラスラ解読できるのです。5文型を覚え、「&の法則」が分かっていれば、英語は攻略できると思います。長文読解は大好きな課題でしたが、そこにはパズルを解いていくような面白さがありました。英語は得意科目だったのですが、その根本にあったのは「& の法則」の習得だったのではないかとさえ思います。

もっとも「自分は英語が得意だ」などという儚い幻想は、オーストラリアの大学院に入るや否や、瞬時に消え去ってしまったのですが。

2022年6月20日

思い出すこと:人生の岐路

 


あれが人生の岐路、だったかな、と思うようなことがいくつかあります。いい歳になってくれば、どなたもそんな思いを持たれることでしょうが。

私にはどうも2種類の岐路があったように思います。

ひとつは、外からやってくる岐路、人生の分かれ道。こういう曲面に対し、私はとてもいい加減だったなあと感じます。特に後悔もしていませんが。例えば、大学進学。日本の国立大学に落ちたので、合格していた私大に進むことにしました。いくつか合格通知が来ていたはずなので、探しました。ところが、早稲田からの通知は見つかったのに、慶應のものが見つからない。これも天意かもしれない、と早稲田に進みました。

ただ、合格して嬉しかったのは、慶應でした。というのは英語の試験問題が最高だと思ったからです。受験の得意科目は英語でしたが、自分の力(それほどの力でもなかったですが)を存分に発揮できたと感じたのです。それに対しやりがいがなかったのは東大です。私が受験した年は唐突にも最長文問題に、論説ではなく、小説が出題され、全く歯が立ちませんでした。小説読解は準備ゼロでした。その時点で落第は決定。もう自分の人生には意味がないとまで思い詰めたものですが、今となっては笑い話です。同様にやりがいがなかったのは早稲田の問題で、「こんな問題を解くために何年も受験勉強してきたのではない」などと生意気なことを思ったことを覚えています。

もうひとつ。大学で教職課程をとり、受講し、試験まで受けたのに、成績がついてこない。問い合わせると、私は講座の登録手続きに不備があり、受講資格がなかったとのこと。未登録の授業に出て、せっせと勉強していたわけです。これも天意か、とあっさり教職課程を諦めました。いい加減でもあったと思います。

それに対し、内的な岐路というのもあったように思います。

例えば、生け花。何度か中断しています。その度に帰路に立っていたと言えると思います。どこにたどり着けるか、到達点が見えなかったのです。目標とする人も見当たりませんでした。お金や名声にもつながりそうにない。

しかし、ひとつくらい一生続けたと言えるものを持つことは大切なんじゃなかろうか。走り出したマラソンは絶対完走、これは自分に誓ってきたことですから、同じ態度でやり切ってやろうと。細々と、継続していければいい。こういうことで妥協してしまうと必ず後悔するだろうと思うのです。

こうした岐路というのは、外からやってくる岐路とは少し違うように思います。それについてはまたいつか考えてみます。

2022年5月31日

2022年5月18日

生け花とは何か?(1)


山根翠堂『花に生きる人たちへ』の抄訳が出版されました。以下から無料でダウンロードできます。生け花のあり方を考えたい方々は多くの示唆をいただけることでしょう。
海外における生け花の問題点を考えてきた私にとって、是非とも紹介したい文献でした。










2022, International Journal of Ikebana Studies, Vol.9, 76 - 78
This is a translation of selected passages of “Hana ni ikiru hitotati he (Message for those who live for flowers)”(1967) by Suido Yamane (1893 - 1966). His insight in ikebana is inspirational for those who wish to look deeply into what ikebana is, and for those who are not satisfied with prevailing discussions about ikebana.

https://www.shoso.com.au 



Ikebana News 

31 May 2022: Deadline - Hanadayori, Ikebana by Request 


4 June 2022Ikebana Introduction


10 June 2022: Ikebana Workshop at Richmond Library 


18 June 2022Ikebana Introduction 


18 & 19 June 2022: Ikebana Display for Villa Alba Open Day  


1 July 20221000 Ikebana Challenge 


31 August 2022Ikebana Workshop at the Pub


10 September 2022: Ikebana Performance with Paul Grabowsky

 https://www.ikebanafestival.com


10 & 11 September 2022: Wa Melbourne Ikebana Festival. https://www.ikebanafestival.com

 



2022年4月29日

新論文が掲載されました

 


生花道場に関する研究報告が出版されました。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ikebana/9/0/9_19/_article

外国人に生け花を教えるのはなぜこうも難しいのだろうと、数年間考え続けてきたことが、ようやく形になったように感じます。

A Proposal for Online Ikebana Training: Developing and Evaluating 
a New Curriculum to Teach Ikebana as Meditation 

 Shoso Shimbo

Abstract

The first section of this study is a proposal for a new online ikebana curriculum. Since there is little educational research in ikebana, the proposal is largely a hypothesis based on the author’s experience. New attempts were made to develop a curriculum that values meditation rather than self-expression in the process of creating freestyle ikebana. The second section is a pilot study to evaluate the newly developed curriculum based on a short eight-item survey. Quantitative analysis shows that this curriculum helps advanced students (more than 6 years’ experience in ikebana) to improve their meditation, and qualitative data further confirms that their meditative experiences may not always be a positive experience for the individual, but it’s meaningful nevertheless. Results suggest that resources including video tutorials at the orientation stage contributed to encouraging the advanced level students in particular to meditate more effectively during the creative process of ikebana. 


2022年3月25日

千日挿花行

 


千日挿花行を提案し、広報中です。

生花を一日一作、千日続けてもらおうというものです。モデルは千日回峰行。その命がけの厳しさの足元にも及ばないでしょうが、生花修得には、多少の厳しさは必要ではないかと思います。

「簡単生花」「楽しい生花」「即興生花」。昨今、そんなものばかり目立ちます。商業的に成り立つためには必要なことなのでしょうが。

千日挿花行など、見向きもされないかもしれません。

それでも提案したいのです。

実は、「どうして多くの外国人は生花が修得できないのだろう」と何年も考え続けています。

自然観が違うのか。教材が悪いのか。動機がいけないのか(虚栄心を満たすためとか、金のためとかでやっても、まあ、無理でしょう)。教え方が悪いのか。生花の文化的な価値を本気で考えていないのか。

そもそも生花の指導方法をまともに考えている人がほとんどいません。研究報告などほぼ皆無です。

私は日本語教育に関しては大学院レベルで研究しましたが、日本語教育研究と比べると、生花教育研究など存在しない!と言っていいほどです。

例えば、豪州で日本語教師になるためには大学院レベルで数年間、日本語教授法の勉強をしなければいけません。日本語の勉強ではなく、日本語の指導方法の勉強です。日本語の能力と日本語指導の能力は全く別物。日本語能力だけでいいなら、日本人誰でも豪州の教壇に立てることになります。肝心なのは、指導力です。日本ですと、場合によっては、英語がネイティブだというだけで教壇に立てるということがあったかもしれませんが。

生花教師になるためには、生花の勉強は求められるでしょうが、生花指導方法の勉強までは求められないでしょう。というか、生花指導方法の研究自体、ほぼ皆無なのです。勉強の術がないのです。母語話者だというだけで日本の教壇に立つ外国人と同じような立場の方ばかりなのです。

ですから、私が直面する問題、「いかに外国人に生花を教えたらいいのか」、に対しては、自分で仮説を立てて、検証していくしかありません。

私の仮説ですが、おそらく現在の生花指導がうまくいっていない理由は二つあると思います。この二つとも近代生花(現在、主流となっているいくつかの華道流派)の成立に関係があるように思います。

ひとつは、生花が瞑想体験だということが身についていない。

もうひとつは、生花が稽古を要する、つまり、練習を積み重ねて体得していくものだということが理解されていない。

ですから、現在必要な指導方法の要諦は、第一に、「瞑想の教え方」を含むものであること、次に、稽古という身体的な(頭で理解するものではなく)経験を積み重ねていくものであること、でしょう。

私が主導している生花道場では、それら二つを目指して、生花美学プログラム(瞑想重視)、千日挿花行(稽古重視)という二つのプログラムを提供しています。かなり稀な試みではないかと思います。どんな成果が出るのか、楽しみです。

2022年2月9日

生花デモンストレーションの問題点


 YouTubeなどでも生花デモンストレーションを気軽に視聴できるようになり、ありがたいですね。ただ、ひとつ気がかりな点があります。海外で生花を教えている者からすると、私の生徒など、誤解しかねないな、と思う点があるのです。

それは、デモでは「制作の過程を見せてもらっている」と、単純に思い込むことです。実は、デモというのは、結果なのです。デモでは見せられない試行錯誤や瞑想の段階を踏まえて、その結果、作られたものです。99%、そうだと思います。

例えば、デモでは5分ほどで1作いけ上げる場合があります。しかし、実際は、その5分の過程を見せるために、作者は1時間、あるいはそれ以上、準備したり、変更したり、試行錯誤したりしているものです。それは当然です。

実は、この1時間の試行錯誤、瞑想こそ、本当の制作過程であり、教えなければいけない、見せなければいけないものなのです。

このままでは、生花とは「短時間で直感的に綺麗なものを作るものだ」「サクサクと作り上げていくものなのだ」などと思い込む人が出てくる可能性があるように思います。

その何が問題か、といえば、「生花は深く考えて、瞑想しつつ、作っていくものだ」という重要な点、生花の生命ともいえる点が見落とされる可能性があることです。

私が指導で、常に言っていることは「もっと考えなさい」、この一事です。君は考えていないね。せっかく授業料を払っても、何も考えずに作品を作り続けては、少しも進歩しないよ。立派な免状はもらえても、意味がない。生花という瞑想体験を知らずに、師範だ、マスターだなどと言うんじゃないよ、と。厳しく聞こえるかもしれませんが、誠意を持って教えようとすれば、やむを得ないでしょう。これは外国人に生花を教える難しさをあれこれ考えてきた私の、生花の現状に対する提言でもあります。

では、どうすればいいのか?

生花指導に新しい方法を採用することでしょう。
制作過程における瞑想の重要さを強調するような教え方に変えていくことです。

例えば、ひとつの作品を5分で仕上げるデモのようなものを教材とするのではなく(そんなものは腐る程ありますね。「5分で作る簡単生花」といった類のビデオとか)、実際、その作品を作るのに要した1時間以上もの試行錯誤、それを瞑想として、意味あるものとして、教えるということに方向転換しなければいけません。通常は、その試行錯誤を無駄なもの、見せたくないものとして編集して、削除してしまうのでしょうが。

そんなことに気づいて取り組んでいる方はあまりいないようなので、自分でやるしかないでしょう。生花道場ではそんな困難な試みを目指しています。

https://www.shoso.com.au 

2022年1月13日

生花習得理論

 


言語学の中でも特に面白いのは、言語習得理論かもしれません。

60年代にチョムスキーが言語習得装置(LAD)なるものを想定して、どうも子供には言語を習得する能力が先天的に備わっているようだねえ、ということで、あれこれ研究が進んできました。

さらに、外国語は、それを実際に使う(コミュニーケーションする)必要があるという状況で、最も効果的に身につくんじゃなかろうか、という話にもなってきました。

コミュニーケーションしようと「実際に言葉を使うこと」が、習得につながる!

言葉は、「学んで」身につけるもの、ではなく、「使って」身につけるものだ、ということ。

この点はよく考えてみる必要があると思います。例えば、試験のため、世間体のため、など様々な理由で私たちは外国語の勉強をするわけです。しかし、おそらくもっと切羽詰まった事情があって、身につけなければ自分の生存に関わるとか、コミュニケーションできなければ、他の子供と遊べないなどという状況であれば、もっと迅速に言語は身につくのかもしれません。

そこに言葉の存在理由があります。

さて、生花ではどうでしょう?

何が「生花習得装置」に最も効果的なのでしょう?生花の存在理由、本質的な意義はなんでしょう?

言葉であれば、コミュニーケーション。実際の意味のやりとりです。(文法やら何やらを学ぶために言葉が存在するわけではないのです。当然ですが)

では、生花では?

なんのために生花をやるのでしょう?他者からの称賛、自尊感情の向上、見栄、賞状、金銭的な報酬、どうもそうした外在的な価値を求めている人の作品は、やはり、そこまでのもの、という感じがあります。

「どうだ、すごいだろう」と人を驚ろかすことに躍起になっていたり、綺麗さを求めるばかりで、やたらにうるさく、装飾的、少しも面白くないとか、そういう作品はよくあります。

そうではなくて、より内在的な価値を求めて、花を生けざるを得ないというような方の作品がやはり面白いのです。おそらく、単純に面白くてやめられないという方が、やはりいい作品を生み出しているようです。

この動機の違いを踏まえたところから、つまり、花にどう向き合うかと考えるところから、本物の華道論も始まるのだろうと思います。

2022年1月10日

生花道場:年間計画

 


生花道場カリキュラムは24回。

1ヶ月に2回開催すると、1年で修了予定です。そこで、なんとか2022年、1月から再開したかったのです。すると年末には2期目の修了者が出ることになるのですから。

幸いにも、カリキュラムもほぼ完成、参加者も集まり(満席)、開始できることになりました。

いろいろな点で既存の諸問題に挑戦するような面白い内容になっていると思います。その内容をまとめているのですが、英語で6000語を超えてしまいました。国際いけ花学会の学術誌に投稿予定です。うまくいけば出版され、オンラインで無料で読んでいただけるでしょう。

いつか日本語でも紹介したいと思います。


2021年12月9日

生け花と第二言語習得論

 


学校の英語の授業を受けても英語は話せるようにはならない。英会話を身につけたければ、英会話教室へ。

これは私が日本で学校教育を受けた頃の常識でした(私は大学までは日本です)。昔の話なので、最近はどうなのかわかりません。

学校英語と英会話教室の英語。どうも違いがあるなあ、というのは多くの方が感じておられたことでしょう。いろいろな意見があることでしょうが、大学院で第二言語習得論を少しかじった者からすると、この違いにはとても重要な意味があります。

簡単に説明します。言語教授法の歴史上、学校英語というのは文法翻訳教授法、オーディオ・リンガル法に基づいた指導です。19世紀から60年代くらいまでの指導理念に基づいています。要するに文法重視、ドリルをやって、ネィティブの音声を真似する。根本にあるのは、意識を鍛えて言葉を教えようという考え方。言語習得は習慣形成の結果で、目標は「言葉を教える」ということです。

英会話教室というのは、成功している学校の多くの場合、70年代以降、主流となったコミュニカティブ・アプローチを採用しています。目標は「言葉を使わせる」ことです。最終的な目的は言葉を覚えることではない。言葉を使って何ができるのか、そこを重視します。たとえ完全な外国語でなくても、外国語を使って、切符が買えた、商売が成立した、実際に何か成し遂げることができたなら、それを評価するわけです。そのような言語活動、タスク中心の指導をしていこう、というのがひとつの方針です。

この違いが分かっていない言語教師は問題です。例えば、オーストラリアにおける日本語教育は日本の英語教育と比べはるかに幸運な状況で発展してきています。コミュニカティブ・アプローチが主流で、そこを基に進化しています。ほんの数年日本語を学んだだけだという外国人が上手に日本語を話すのに驚いたことはありませんか?おそらくはコミュニカティブ・アプローチの成果です。

ところが、うちの生徒は歌やゲームを使って短時間でこれだけの単語数を楽しく覚えたとか、そんなことばかり自慢している日本語教師がいます。それを悪いとは言えないでしょうが(悪いと言った方がいいのですが)、重要なのは、テストの点ではないのです。言葉を使って何が実際にできたのか、です。

言葉を「覚えさせる」ことから、言葉を「使わせる」ことへ、という発想の転換ができない教師は、迷惑な化石のような存在。たとえ生徒から人気があっても、21世においては無用で無能な教師です。

コミュニカティブ・アプローチへの転換には、おそらく意識を鍛えるという発想から無意識を含めて鍛えようという発想の転換があったように思います。たとえ教えていない言葉であっても、状況から生徒はその新しい言葉を理解するものです。それはとても重要なことです。言語習得は無意識の領域で生成する創造的なものです。

さて、生け花です。

なぜ、海外の生け花はこれほどレベルが低いのか?

日本には数千の花道流派が存在するようですが、この問題をきちんと考えているところは存在しないように思います。私の論考が注目されることも当面なさそうです。

ふと思うのは、生け花の指導において、学校英語的な指導がなされているのではないか、ということ。型とかデザインとか意識のレベルで認知できることを指導することが中心なのではないでしょうか。

英語教育の目標は、言葉を覚えることではなくて、言葉を使って何が実際にできるかだ、とはっきりしてから指導方法が変わっていったのです。意識レベルの学習から、無意識を含む全人的な学習へ、と。

生け花では、花を使って瞑想できるか否か、その結果が作品になるのです。無意識の働きが大きく関わってきます。さらに突き詰めるなら、生け花の目的は、デザインの優れた作品を作ることというよりも、花を通じて瞑想を深めることなのです。意識から無意識へと焦点を転換させなければいけません。

ところが、海外においては瞑想ということができていないように思います。外国人の多くは生け花を意識の次元で解釈し、まるで西洋フラワーアレンジメントの延長として、デザインの問題として学ぼうとしているように思います。生け花風の作品は出てくるでしょうが、瞑想に基づく生命のある花は出てこないでしょう。

最近、井上治先生国際いけ花学会会長)が、華道とは禅だ、という趣旨の著作を出版されました。とてもタイムリーな出版です。たくさんの方に読まれるといいなと思います。いつかこの著作についてもきちんと考えてみたいと思います。基本的には私の主張と同調です。井上先生とは連日メールでやりとりしていますが、このような立ち入った話はあまりしていないのです。それでも不思議と現代生け花の最大の問題点として、同じ課題(つまり、禅的性格あるいは瞑想体験の欠落)に対峙しているということは、嬉しい発見でしたし、とても力を得た思いです。

さて、瞑想しなさい、無意識を働かせなさい、と言うのは容易ですが、どのように指導していったらいいのか。そのような取り組みは現在、存在しないのではないでしょうか。

特に自由花の指導が問題です。

指導理論がないものですから、多くの流派で縦に伸びる形、とか横に伸びる形とかトピックを作り、作例を示して指導しています。このような指導書で生け花が上達するはずがありません。生気を欠いた駄作が生産され続けるだけです。

海外でも生け花の学習者が増えて、流派の収入が増えれば、それで十分。そんなことでは、生け花の生命は失われてしまいます。

指導しなければいけないのは、作例という結果ではなく、そこへ到るプロセスです。制作過程における瞑想体験を身につけてもらうことです。

そのようなことを考えて、生花道場では制作過程を重視した指導を導入することにしました。初めての試みですから、試行錯誤しながら取り組んでいこうと思います。

生花道場の取り組みについては他のところでも発表していく予定です。

Shoso Shimbo

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