華道家 新保逍滄

2021年3月29日

メルボルン生花フェスティバルの分かりにくさ

 


先のポストで触れたように、生花に関する様々な活動に関わっていますが、自分にとって最もわかりにくいのが、メルボルン生花フェスティバルです。

まだ1回しか開催していないのですから仕方ない部分もあります。自分の納得できる形になっていないという事もあります。

商業的な事業であれば、経験からやり方がわかります。学問のような個人的なプロジェクトも同様です。どちらも達成目標が明確で、それに向かって手順よく努力していけばいいのです。慣れたものです。また、ボランティアならそのように割り切ってやれるでしょう。

しかし、メルボルン生花フェスティバルには、どうもそれらのどれとも割り切れない部分があり、今まで経験したことのないプロジェクトなのだと感じています。

ある面ではボランティア、ある面では事業、ある面では自分が捨て石になる覚悟を求められます。自分の立場がよくわからないのです。

さらに、自分がどこまでコミットするべきか、についても確信が持てません。支持者があり、多くの方がメリットを認めて下さるなら今後も続き、意義のある活動となり得るでしょう。また、支持者がなければ消えていくでしょう。どのようになっていこうと、それを受け入れる覚悟は持とう、あまりこだわりは持つまい、執着は持つまい、とは思っています。

このイベントを私物化しようなどという考えは持つべきでないと思います。リーダーが自分の利益、便宜だけを優先するようなことはあってはいけないでしょう。人がついていかないでしょう。「より多くの人に生花を」というような大きい目標も達成できません。おそらく、会社組織で運営するなら別でしょうが。

ですから第1回目は私が代表を務めましたが、2021年度からは別の方に代表を代わってもらおうと希望しています。国際的なスケールで、創造的に、そして、平等に(誰でも参加でき、努力した方が相応の機会を得られ、特権者は作らない)、というような基本方針が定着したなら、私は役目を終えたいのですが、その段階なのか、これまた確信が持てません。

このように私にとって実にわかりにくいプロジェクトなのです。リーダーが熱意を持たずに成功するはずはないですから、とりあえずの熱意を持ちつつも、深いところではどう関わったらいいのか、まだ手探り状態なのです。

となると、周囲の方からすれば、おそらくもっとわからないでしょう。相手によって趣旨説明を変えていますが、話が通じなかったり、誤解が生じるのも仕方ないと思います。

メルボルン生花フェスティバルの運営を特に難しくしている根本の理由は、多くの方々にご協力いただかなければ成立しないプロジェクトだから、です。ここが私が関わる他の生花の活動との大きな違いでしょう。

権内・権外という言葉があります。学問研究などは権内の活動と言えるでしょう。自分一人の努力で成功失敗が決まることが多い。基本的に自分次第です。小規模の事業などもある程度、そうかもしれません。

それに対し、メルボルン生花フェスティバルには権外の要素が大部分。私一人がいくら頑張っても、どうにもならないことが多すぎるのです。ですから、初回の開会式で「これは奇跡じゃなかろうか」などと私が大袈裟な発言をしていますが、そこにはそうした事情があるからです。私の関与できない様々なことが上手く組み合わさり(まるで人智を超えた力が働いているかのように)、成功へと導いてくれました。「とびきり運が良かったな」「人に恵まれたな」というのが、初回の実感でした。

そこで、只今の大きな課題は、メルボルン生花フェスティバルへの協力者や関係者をどのように説得し、動機付けしていけばいいのか、です。

例えば、実行委員の方々。ほぼボランティアで、よく頑張って下さいます。しかし、彼らの仕事はかなり大変です。賃金を払って、仕事を割り振るなら簡単です。実際、そうしたいとも思います。会社組織にしてメルボルン生花フェスティバルを運営できれば分かりやすくていいですね。収益は少ないので、経営は苦しいでしょうが。赤字にはならない程度にお金を動かせるのではないかと思います。

しかし、無報酬で彼らの動機をどのように維持できるのか。

幸いこれまでのところ、メルボルン生花フェスティバルの目指すもの、遠大な夢のような私の話に共感し、「ついていってみようか」という事だと思うのです。「前人樹を植えて、後人涼を得る」。私たちはこの ことわざの「前人」となる覚悟を持てないだろうか。自分達の苦労の果実は、自分達は享受できないかもしれないけれど、次の世代の人達の間では、生花への関心が大きくなるはず。自分達とは違い、先生も容易に生徒が集まるだろうし、生花の癒し効果を生活の一部とする人達も増えるだろう、と。

もちろんこのような精神的とも言える動機づけで動いてくれる方はかなり意識の高い人達で、数はそう多くはありません。反発、離反、傍観も経験しています。仕方ない事です。それを恨んだりすれば私達の負けです。

また、出展者の方々にどのように出展の意義を説明していくか。これも容易ではありません。日本文化の発信の機会として、などというより、個人的なメリットを強調して説得していくことかな、と思います。自分へのチャレンジの機会に、ご自分の教室のPRに、流派のPRに、そのようなところに落とし込んで、それが効果的に達成できるように配慮していくのが基本でしょう。

ただ、日本からの出展者となると、個人的なメリットはそう多くはないでしょうから、身近なメリットを越えた、もっと大きな意義を見出して下さる方に訴求することになるでしょう。

ともかく、もっと理解者、協賛者が増えていくと、メルボルン生花フェスティバルはさらに面白い企画に育っていくでしょう。今の段階でもいくつか突出した特徴がありますが、継続し、実績を積むことができれば、花道史的にも意義のあるイベントとなる可能性もあります。まずは、メルボルン生花フェスティバルの趣旨について、もっと広報していくことが必要であるようです。

2021年3月18日

日本文化の発信(2)

 


次から次へと生花関連の企画を思いついては、取り組んでいます。

生花道場生花ギャラリー賞メルボルン生花フェスティバル、さらに学術的な取り組みなどなど。

お金になるわけでもなく、名声につながるわけでもない。それでもやらざるを得ない。と言うか、基本的には好きなことをやっているだけなのですが。

さらに、来年から「いけばなとは何か」と題し、山根翠堂の名言を英訳していこうと思います。真生流のお家元からお許しをいただきましたので、国際いけ花学会の「いけ花文化研究」に数年かけて連載する予定です。

このタイトルは、西谷啓治の「宗教とは何か」に啓発されたもの。学生時代、最も刺激を受けた本のひとつでした。

私が英訳し、米国の大学で日本古典文学の教授をしている畏友(ネイティブ英語話者)に見ていただければ最高だろうと思います。

内容は山根の遺言とも言うべき「花に生きる人たちへ」(中央公論美術出版)の抄訳になります。この著作は、現代、いけばなに関わる人たちにとっても大きな意義があると思うのです。

ひとつには、いけばなには理念があるということを紹介できるでしょう。いけばなは花型(デザイン)の問題だとしか思っていない方が多いのが海外の実情でしょう。いけばなに関する英語文献を見回したことがありますが、理念についてきちんと述べた類書は少ないのです。

また、誠実にいけばなに生きた方があったということ、そして、本物のいけばなマスターとは、こういう方なのだ、と紹介したいですね。現在、私たちにはロールモデルとなるような方がなかなか見当たらないように思うのです。

さらに、山根の言葉には、いけばなの癒し、あるいは、いけばなと環境問題について考えていく際のヒントがあるように思います。つまり、いけばなと現代の問題の関連を考える際の参考になるかもしれないのです。この点は私にとって重要なポイントです。

現代のいけばなに対する、私の最大の不満は、現代社会の問題にきちんと対峙していないということ(もちろん、例外はあります)。

いけばなは現代社会に何ができるのか?

いけばなは次の世代に何を伝えるのか?

例えば、現代芸術が真摯に環境問題に取り組んでいるのに、いけばなの大勢はそうはなっていないように思います。時代の動きに関わらない、あるいは時代の求める新しい価値が提示できない、ということでは、いけばな人口が減っていくのは仕方ないことかもしれません。

そのようなわけで、この抄訳が少数であっても関心のある方々に届くならば、大いに意義があるだろうと。

私がやる気になるのは、こういう企画なのです。

2021年3月15日

日本文化の発信(1)

 

先週、当地(オーストラリア)のラジオで東日本大震災の特集をやっていました。

そこに二人の日本専門家が登場し、あれこれ日本社会にコメントしていました。そこで「ああ、そうか」と、「自分がぼんやり思っていたことはこういうことか」と納得したことがあるので書いてみます。

まず、日本文化の紹介者、研究者には大雑把に言って、二つのタイプがあるということ。

一つは、日本文化にある程度の敬意を持った方。というか、日本文化の奥深さを認識し、自分の知らないこともありえると自覚している、謙虚な印象の方。

もう一方は、日本人なんてこんなもんさ、と見下すような態度が明らかな方。専門書を出版していたり、大学の教授であったり、日本政府から賞をいただいていたりと(日本を貶めるような学者を称賛する変なところが日本にはあります)、社会的には成功しているようで、大変結構なことですが、アクセントの強い英語で、大声で話すこんな傲慢な方が酒の席にいたならば、私など速攻で膝蹴りを喰らわしてしまうかもしれません。

しかし、武力行使の前に、こういう方の話も聞いてみるものです。

すると、某国の共産主義は素晴らしい、というようなところに行き着くのです。なあんだ、その筋の方か。その程度の頭しかないのか、と。致命的に勉強不足の輩ではないか。こんな方に「日本人は基本的にみんな馬鹿」などと言われても、相手にする必要はないでしょう。

さらに、海外で日本文化に携わっている自分の立場についてもあれこれ思うことがありましたが、それについてはまた別の機会に。

2021年2月7日

「専応口伝」再びー山根翠堂自由花論との類比

 


「専応口伝」についてあれこれ考えてきたことがようやくまとまりました。と言っても一つの仮説です。想像に任せて書いてみました。学術的に認められるのか、定かではありません。独断と偏見!ということになるかもしれません。

UC Davis の教授等、何人かに読んでいただいたところ、そこそこ面白いじゃないかということであるようで、「いけ花文化研究」に掲載されるようです。

私が指摘していることは、

「専応口伝」には生花の定義として二点、存在論的な定義と認識論的な定義が明言されているのに、なぜか認識論的側面が無視されてきた。

「専応口伝」の定義する自然の象徴としての生花と、天地人を骨格とする生花(せいか)は、似ているけれど、微妙に異なっている。自然の形而上学的把握の有無という点からすれば、両者は異質なものだ。

自由花運動は生花への西洋モダニズムの導入ということだけでなく、本人たちは気づいていないが、無視されてきた生花の本質の再興という側面があったのではないか。

こんな奇論が出てくると、「花道史も面白いじゃないか」という方、さらには、「もっと研究してやろう」「反論してやろう」という方が出てこないだろうか、と密かに期待しています。

実はこのエッセーは、構想している山根翠堂3部作の2つ目です。

一つ目は昨年、Intenernational Academic Forum で発表した論文。趣旨は、戦前の自由花運動と戦後の前衛生花との関係について、前者が後者に引き継がれたという継続性に注目する論者が多いようですが、私の論は、両者は全く異なる、社会学的な見地からは対立関係にあるとするものです。

白状すると、山根翠堂3部作の2つまで、これまで書いたものは、山根の実際の著作を読まずに書いています。一次資料にあたらず論文を書く!なんともひどい話ですが、資料が手に入らないのです。

最後の論文はきちんと一次資料を読んで山根翠堂の思想の根幹に迫ろうかと考えています。

しかし、京都芸大の井上先生とお話した際、井上先生が私が考えていたよりはるかに大きな枠組みで山根を捉えておられることに気付き、果たして、私が取り組む必要があるのかな?と思っているところです。

さらに、生花の学術的研究ということでは、また別の関心が芽生えてきているのです。

ここまで読んで下さった方のために、「いけ花文化研究」に投稿した最新論文の要旨を掲載しておきます。このブログでも専応口伝についてあれこれ書いてきましたが、最もまとまった内容になっているはずです。英文論文なので読みにくいかもしれませんが、機会があればいつか日本語版も発表したいと思います。


An Interpretation of Ikenobo Senno Kuden (16c) and Its Hidden Link to the Rise of Freestyle Ikebana in the Modern Japan


Shoso Shimbo, PhD
RMIT University Short Courses, Australia

Abstract

The introduction of Western modernism to ikebana brought about the Freestyle Ikebana Movement (the FIM) in 1920’s and 1930’s. Suido Yamane, one of the major advocates of the FIM developed a unique theory on Jiyuu bana (freestyle ikebana). This paper points out the similarity between his theory and the metaphysical statement in Senno Kuden, although the latter has not been adequately studied. Seeing ikebana as a representation of life energy did not begin with the reformers in 1920’s & 1930’s. Rather it has been around since the early stages of development in ikebana and deserves more attention. The historical significance of the FIM may lie in its effort to revive a neglected aspect of ikebana tradition.  

要旨

本稿は1920年代から30年代にかけての自由花運動の歴史的意義について考察するものである。明治以降、西洋文明の影響を触媒とする、いけ花における変容は文化変容の一例としてとらえられるが、ここでは自由花運動、殊にその中心人物の一人、山根翠堂の取り組みに焦点を当てる。翠堂の自由花論は形而上的未発である「真実の自己」が形而下的已発「自由花」として発動し、この一点に純形而上学的理としての「生命」が成立していると解釈できよう。これを「専応口伝」の「よろしき面かげを本とし、先祖さし初めし」に認められる本質論と対比してみたい。本質である「面かげ」が未発であり、「よろしき面かげ」における、形而上的本質である面かげの「よろし」さがより純度の高い形而上学的理として措定されていると考えられる。つまり形而上的「面かげ」という未発が「よろし」の働きにより、形而下的已発として挿花が成り立つのである。翠堂が純形而上学的理として把握した「生命」は専応の面かげの「よろし」さと近似した働きを持つのではないか。とすると、自由花運動という文化変容は、看過されてきたいけ花の始原の一側面に回帰しようという衝動を秘めた変容だったのではないだろうか。自由花運動の歴史的評価については前近代から近代への脱却、西洋由来の芸術性の主張という二点が注目されてきたが、いけ花における形而上学の最も重要な一面の再興という側面も検討されるべきだろう。

2020年12月21日

専応口伝と異文化における生花

 


「瓶に花をさす事、いにしえよりあるとはききはべれど、それはうつくしき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまえずたださしいけたるばかりなり」

専応はこの口伝の序文で、生花の誕生を宣言しています。上記の引用は、生花誕生以前の状況を語っているわけです。花の美しさだけをありがたがっている、草木の面白さに気づいてもいない、と。そういう人々とは決別して、生花を誕生させたんだよ、と。

ふと、思ったのは、海外で華道家としている活動している私の現状と生花誕生以前の状況が似ているではないか!ということ。

ありがたいことに私は商業花の依頼もよくいただいています。この写真のような花も作ります。クライアントの満足を第一に考えなければいけません。

日本とは違います。草木の風興をわきまえていない方も多いのです。

もっと花を入れてくれ、もっとカラフルに、長持ちさせてくれ、いろいろなリクエストがありますが、生花が根本からわかっていない方がクライアントの場合、困ることが多いのです。ひどい時には、不愉快な経験をすることもあります。

生花の修養を積めば積むほど、クライアントのニーズから離れていく、時にそんな思いを持つことさえあります。これはなかなか辛い。

私の言うクライアントとは生花の生徒も含まれます。

生花の本質的なところを教えようとすれば、生徒から煙たがられる、そういうこともあります。生花の本質的なところは基本型にある、というのが私の考えです。枝物2、3本、花2、3本で生花の原理を体現していく、その辺りに生花の本質があるのではないかと。

Zoom Ikebana Dojo では、そのような試みをしています。

しかし、このブログで何度も書いてきたことですが、外国人の生徒の多くは、基本型の勉強を厭う傾向にあります。

逆説的ですが、そこにはメリットもあるかもしれません。かなり意地悪な見方ですが、外国人の多くは基本型を厭う、故に、生花がなかなか上達しない、故に、生花学習者に止まり続ける。それは日本の先生には都合が良いのかもしれません。あまりにたくさん上手な方が出てくるということになっては、先生の商売が成り立たないではないですか!生花文化の振興と、家元制度という経済機構の発展には、微妙な関係があるのかもしれません。

以前、日本の著名な華道家のデモンストレーションを当地で拝見したことがあります。色々考え込んでしまいました。当初は、ご自分の本当の最高のところは見せてくださらないのだな、厳しく言えば、手を抜いているな、と思いました。しかし、観客を草木の風興をわきまえていない方々と想定し、そうした方々にどのように楽しんでいただけるか、と考えてのデモンストレーションであったということかもしれません。

草木の風興をわきまえていない方々の中にあって、専応や専応の先人たちは道を開いて行ったわけでしょう。その苦労は、もしかすると、私たち海外で生花に関わる者にはより共感できるものであるかもしれません。


2020年11月18日

Zoom 生花道場カリキュラム:人気のない基本型

 


Zoom 生花道場のカリキュラムには基本型を含めたい、と思っていました。

このブログでも何度か生花の基本型について書いてきました。生花を外国人に教える難しさについて、ということで。

基本型を厭う生徒が多いことと、我流生花が多いこととは関係があるように思えてなりません。調和のとれた詩的な基本型が作れない方には、調和のとれた詩的な自由花は作れないはずです。実は、基本型を嫌がる方こそ、基本型をもっと練習しなければいけない!そういう場合が多いのです。

しかし、嫌がりますね。「もっと基本型をやらないといけないよ」とアドバイスしようものなら、まるで「侮辱された!」とでもいうような反応が返ってくることもあります。しつこくやらせたら、教室をやめていった生徒がいたという話もこのブログで書いたことがあります。

それにしても強調したいのは基本型の重要性。

基本型には生花の詩性の根本が含まれています。そこを体得しないことには、おかしな方向へ行ってしまうのではないか?その習得不足が、諸問題の元凶のひとつかもしれない、とまで思ってしまいます。

Zoom 生花道場のカリキュラムではレベル2で基本型を導入し、8回作ってもらいます。ここで、生花道場のカリキュラムについて、少し説明しておきましょう。レベル1、2、3と、とりあえず3段階用意しています。それぞれ8回のクラスから成り立っています。

レベル1では、生花デザイン原理、生花デザイン要素を優先した基本的な自由花。生花を学ぶということは、「花を花として見ることをやめる」ということです。初めから花の本質を見ることを学んで欲しいのです。専応のいう、花や葉の「よろしき面影」を見出し、瞑想する訓練の始まりです。

レベル2で、基本型の習得(上級者にとっては復習と発展)。レベル2になると、受講者の数が増えない、という予想通りの状況です。面白いですね。しかし、ここが一番やりたかった部分なのですが。

レベル2で使う花型に各流派の既存の基本型を使うのは問題でしょうから、自分で新たに考案しました。生花の基本型とは、多くの流派で似通っていながら、若干違うという現状であるようなので、その方針でいくつか作っておきました。説明の仕方もかなり独自の方法でやっています。それは将来的な発展を踏まえてのこと。基本型で習ったことを将来どのように使えばいいのか、ということを射程に入れて組み立てています。

レベル2は、生徒にとっても私にとっても忍耐を要する段階です。ここを通過することで、幾らかでも生花のレベル向上に貢献できないか、我流生花の蔓延を抑制できないか(大袈裟ですが!)と願っています。我流生花が流行っても、それでお金が儲かればよいという方には問題ないのでしょうが、華道文化のことを思えば、なんとかしたくなります。山根翠堂のいう「死花」ばかりが生花として溢れているというような事態は、できれば避けたいもの。せっかく取り組む以上、そのくらいの抱負はもちたいですね。

レベル2で気づくのはやはり基本型への嫌悪。特に上級者には多少自分流にアレンジしていいよ、としてるのですが、多くの方が自由型にしてしまいます。しかも、行き過ぎている場合が多い。その結果、基本型に備わっている詩性は失われています。これではなんのための基本型の復習なのか、と残念な思いをすることがあります。本当の上級者以外、きちんと復習に徹した方が生花道場の趣旨を活かすことになるでしょう。

レベル3では少し高度な自由花へのヒントを含めることになるでしょう。生徒が喜ぶクラス、というのは見当がつきます。そういうクラスもレベル3辺りには含められたら、と思います。おそらくその辺りになるとまた人気が出てくるかもしれません。

オンライン講座で成功しよう、儲けようと思ったら、人気のトピックを調べて、そういうものだけをやる方が賢明でしょう。基本型をやったり、「生花のデザイン原理とは〜」などと深入りするのは、労多く、利がすくない。そう分かっていても、妥協できないものがあります。

ともかく、Zoom 生花道場は、私にとって何かと勉強になるプロジェクトです。なかなか大変ですが。

2020年10月27日

危うい言葉


 病弱の方とか、酔っ払いとか、フラフラ怪しい足元の様子というのは、一眼でわかります。ほんの数センチでしょうが、本来の位置からはみ出しただけで、少し動きが不自然だな、危ういな、頼りないな、と感じるものです。

特定の人の言葉遣いに、同じような危うさを感じることが時にあります。何度か私の感じている違和感を説明しようと試みてきましたが、上手く納得してもらったことがないのです。すると、こんな感じを持つ人は、あまり多くはないのでしょうか?

例をあげましょうか。ある方は、ご自分の祈りとして、息を吸う時に「讃美」、吐く時に「感謝」と唱えるのだそうです。宗教的な、霊性に関わるような著作も多い方の言葉です。こんな言葉に出会うと、私は「危うい」とすぐに感じます。とくにそれが宗教的な文脈で語られる時、ほとんど拒否反応が起こります。

「讃美」「感謝」!ヒエ〜!

本当に魂から湧き出る言葉というのは、そんな教科書のような、あるいはおしゃれな、それでいて安っぽくて軽薄な流行歌の歌詞のような言葉ではありません。

危うさ。耐えがたい言葉の軽さ。さらに場合によっては欺瞞さえも感じてしまいます。

ことあるごとに名著として紹介するのは、スコッツペックの「平気で嘘をつく人たち」(People of Lie)。もう心理学では古典になっているのではないでしょうか。彼のベストセラー、「愛の精神分析」(Road Less Travelled) が、善の起源を掘り下げた著作であるのに対し、「平気で〜」は、悪の起源の探究でしょう。そこで語られる悪は、なんとも掴みどころがない。日常的に私たちの周囲のどこにでも潜んでいて、とくに犯罪になることもない。

しかし、そこにある魂の欺瞞や腐敗は、人間存在の根本のところに関わってくるように思います。見えない冒涜、沈黙の暴力ではないか。後味の悪い読後感は何十年経っても残っています。

当然、文学でもそのような問題を扱った作品があります。レイモンド・カーヴァーの短編の幾つかとか。村上春樹も多くの作品で同様の問題を意識しつつも、カーヴァーほど巧みには描き切ってはいないように思います(もちろん村上は稀有な文学者ではありますが)。両者の違いは、人間の関係性に対する態度の違いと関連があるのかもしれません。

また、哲学書を読んでみても、言葉の軽さにはすぐに気がつきます。頭で哲学をやっている人と哲学を生きている人の文章は違います。例えば、森有正の言葉の誠実さ、実直な盤石さ。内奥から紡ぎ出す言葉の重さ。内部で熟成された経験を彫り込み、他になんとも名付けようがないことを確認して、言葉を選び、定義していく。そこに立ち現れる詩性には惹かれます。

それに対し、大仰な言葉、「真実」「愛」などという言葉を軽々しく使って人を導こうというような方は、危ういな、近づいてはいけないな、と思います。

例えば、「愛」という言葉は、人がその一生を生き切って、この生が即ち自分の考える愛というものだよ、と示すような時に初めて使いうる言葉でしょう。一生をかけて定義しなければいけない言葉です。そうした言葉の重みが感得できない、精神性のかけらも分かっていない浅薄な者が安易に口にできる言葉ではないのです。

しかし、私の審美眼というか、言語感覚も確固たるものではないかもしれません。というのは、以前、ある宗教家の著作にいたく感心したのに、間も無くこの方がイカサマ師だったと分かったということがあります。実情はよく分かりません。もしかすると清廉な初心で宗教活動を始めたのに、堕ちていったということかもしれません。初めからあったペテン性を私が見抜けなかったということかもしれません。

ともかく、危うい言葉には気をつけないと。

2020年10月18日

Zoom 生花道場11〜12月の予定

 


11、12月は、基本型をもう一度見直してみようというシリーズです。

初心者にも入りやすいことでしょう。

上級者は基本型の中に含まれているデザイン原理にもう一度意識的になっていただきたいと思います。できればテキストブック・レベル!(と教室でコメントしたりしますが)の基本型を目指してください。

Zoom Ikebana Dojo

2020年9月17日

2020年9月10日

Zoom 生花道場への序論

 

Zoom 生花道場についてはいつかきちんと成果を報告したいと思っています。失敗もありますし、成長し続けるものでしょうから、途中報告と言うことになるでしょうが。

始めてから2、3ヶ月でしかないですが、いろいろな試行錯誤を重ねてきています。ですから、いけ花で、あるいは他の科目でオンライン指導を導入したいという方に、私たちの経験は幾らかは参考にしてもらえるのではないかと思います。私たちの回り道や苦労を避けてもらうということになるかもしれません。

以前も書いたことですが、気楽に始めたのです。メルボルンのロックダウンはなかなか解除されないので、ちょっと始めてみようかといった具合。

それがとんでもないことになっている、様な気がします。

ともかくよく考えさせられます。自分の能力が試されている感じがします。

特に必要なのは、2種類の思考力ではないかと思います。

一つは、コースデザイン力。指導内容をどの様に伝えていくか、と考えていく力。これには実は私が大学院でやった応用言語学のトレーニングが役立っています。ひとつの成果は新しいいけばなカリキュラムを作ってしまったことでしょうか。国際社会に適応できるいけばなの指導モデルとは?などと考えた人はおそらく今までなかったのではないでしょうか?伝統的な指導を英語に「翻訳」する試みはあっても、そこに「創造」はあまり求められなかったのではないかと思います。

もう一つは、問題解決力。と言ってもうまく言いえていませんが。問題が起こります。その原因を分析します。そこで従来の方法を改め、根本まで掘り返し、全く新しい方法を考え出す創造力、です。実は、これは私が20代の頃に起業して、ずっとやり続けるしかなかったことです。ビジネスの世界でサバイブする根本の力だと思います。と言っても私など、スケールの小さい世界でチマチマやってきたに過ぎませんが。

こうして新しいアイディアが生まれた時というのは、実に嬉しいものです。病みつきになるほどです。もちろん、それが即、問題解決につながったり、利益につながったりということにはならないかもしれませんが。この興奮は学問でもよく味わってきました。テキストの新しい解釈に気づいた時など、これは大発見だ!などと、一人で悦に入るということになります。他の方に認めていただけるかどうか、これはまた別の問題になりますが。そんなところが私にはあります。

オンライン指導を始めてみると、次々に新しい問題が生じ、対策を練っていかないといけません。それが実感です。ですから、与えられたレールの上を安穏と生きていけばいいという生き方をしてきた人には、オンライン指導で成果を出すということは難しいかもしれません。とはいえ、不器用な私たちがあれこれ考え込んだり、つまづいているところをスイスイ乗り越えてうまくやっているという方もきっとあることでしょう。そこがこの時代の面白いところ。

ひとつの大きな課題は、ZOOMをどう指導に使うか、ということ。

オンライン指導は対面指導にかないません。マイナスの点ばかりです。でも、プラスの点もあります。そこを徹底的に洗い出していきました。

私がよく考えていたのは、織田信長の鉄砲についてのエピソードです。確かに威力はあるが、火をつけてから弾丸を発射するまで数分かかる。しかも命中率は低い。これでは戦場で使い物にならない、と多くの大名が相手にしなかったものを、信長は使い方を工夫して大きな戦力にしたという有名な話です。史実かどうかはわかりませんが、ZOOMには使い方次第で、きっと鉄砲の様な力が見つかるはずなのです。

ZOOMを従来のワークショップ型の指導の枠組みの中で使っても、それを生かし切ることにはなりません。オンライン指導をいかに対面指導に近づけるか、という発想では新しいものは生まれないでしょう。オンライン指導を対面指導の「代わりに」使うという発想ではなく、対面指導とは「別のもの」と考えて、オンライン指導の特徴、強みを活かす方法を探る方が生産的である様に思います。

結局、「学ぶ」ということを突き詰めて考え、従来の学びのモデルを壊し、新しいモデルを考えるということになりました。

もちろん、ここで「そんな新しい学習方法にはついていけない」という消費者が出てくることは当然です。その問題への対処もまた難しい。

そこで、マーケティングです。新しい学習モデルができてもそれを上手にパッケージにし、様々な方法でPRしていかないことには商品として成立しません。

私たちには大きな資本があるわけではありません。主導役の私の実力、知名度もたかが知れている。出発点がかなり厳しいのです。

ナイナイづくしの中で、あるのは優れたスタッフのみ。と言っても皆、ほとんどボランティアです。「将来、お金が入るからね、多分」と説得し、あれこれと協力してもらっているのです。

驚くのは、スタッフの熱意。「こんないけばな指導プログラム、世界で一つだけだ、誰にも真似ができない、いけばなを世界に広げることになる」などと皆、大変なプライドと情熱を持って取り組んでくれています。この熱血集団のためにも、多少でもお金になってくれるといいのですが。どうなりますか。

スタッフに協力してもらったのは、まず、親しみやすい、品のあるロゴ作成。これは欠かせません。ロゴのフォントを選ぶのにも数日議論しています。そしてYouTubeの活用。ビデオ編集、SNSの活用など、私には手の回らないことが多いのです。

日本からもZOOM 生花道場への参加者があると面白いだろうなと思っています。日本語案内はこちら。


2020年8月20日

作品集 「新保逍滄2020」


 作品集 「新保逍滄2020」

ようやく完成しました。eBook - Aus$4.99

以下、右側の拡大アイコンをクリックするとサンプルをご覧いただけます。



はじめに

この作品集「Shoso 2020」は「Shoso 2016」以降の作品、2016年から2020年までの新保逍滄の作品を紹介するものです。この間の活動の焦点のひとつは環境芸術における生花の可能性の追求であったと言えそうです。環境破壊の元凶が資本主義でありながら、資本主義のシステム内でしか環境芸術は存在できないのでしょうか。純粋な環境芸術のひとつの形は「贈与」にも似た概念芸術ということになるのかもしれません。相手を決めず、報酬を求めず、できれば匿名で贈る行為。それは自然界の隅々にまで浸透する資本主義に対峙しうる最後の砦。あるいはそれを本物の精神文化と呼んでもいいのではないでしょうか。すると「贈与」は日々の生花の修練が深いところで意味するものとも似通ってくるようにも思えます。孤軍奮闘の折にふと浮かんだ想念です。

Introduction

This is the second collection of Shoso Shimbo’s work , following the first collection, Shoso 2016. It focuses on his works from 2016 to 2020. This is a significant period for Shoso’s career as an artist, expanding the possibilities of Ikebana into the areas of contemporary art, and environmental art in particular.

Shoso has been exploring environmental art from an Ikebana perspective. It is in a sense investigating Western art in the light of Eastern traditions of art.

Some traditional aspects of Eastern art can offer a different perspective on our attitudes to the environment. Art may not be able to instantly solve the difficult problems we currently face, but it can raise questions about the role of capitalism in environmental degradation.

Shoso 2020 reveals his direction toward new type of minimalism, where Japanese aesthetics are re-examined in the age of environmental crisis. Shoso is exploring the possibilities of a union between environmental aesthetics and environmental ethics.

Shoso Shimbo

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