華道家 新保逍滄

2021年7月24日

メルボルン花器賞の発想

 

前回、オンライン花展・花信の着想について書きました。

今回は「メルボルン花器賞」の発想についてです。この企画もメルボルン生け花フェスティバルの新しいプログラムとして今年から始めたものです。まだ、うまくいくのかどうかは不明です。うまくいくことがはっきりしてから、「成功への着想」などとして自信たっぷりにお話しできれば、もっと面白いのでしょうが。

今回もまた参考にしていただけるのかどうか分かりませんが、問題打開の方法として、もしかすると一般化できる点があるかもしれません。それほど独特の発想方法ではなく、広く行われていることでしょうが、私にとっては面白い経験でした。

まずは背景です。コロナのせいで海外、州外からの出展者があまり見込めないだろうという非常事態です。すると、開場費用の捻出が難しくなります。どうするか?

もちろん対策は色々あります。最も簡単なのはキャンセルすること。あるいはより小さな安い会場を借りること。

しかし、メルボルンの文化芸術の発信地として知られ、市の中心部にも近く、数年来使っているアボットフォード・コンベント、これに代わる場所はなかなかありません。

会場費用が仮に10万円だとします。出展者からの費用では5万円しか調達できない。不足の5万円をどうするか?ここが出発点だったのです。おそらく似たような状況を経験したことがあるという方もおありでしょう。

まず考えたのは、会場を半分、陶芸教室に貸して、彼らと合同の展覧会にしようという案。

陶芸教室を調べてみると、その数の多さに驚きました。メルボルン近辺で軽く20ほど見つかります。それに比べ、メルボルンで常時営業している生け花教室など一つもないはずです。陶芸はかなり大きなマーケットなのだと気づきました。さて、こちらの条件に合わせて展覧会をやってくれるところがあるだろうか?

しかし、飛び込みでいきなりこんな話をもっていっても、私たち自体あまり実績がないため、なかなかうまく話が進みません。私の営業力は不十分です。

どうしたらいいのか?

問題は、予算です。その枠です。10万という枠組みで考えていると、どうしてもやれることが限られてくるのです。では、この枠組みを二倍にしたらどうか?つまり、20万の予算で発想してみてはどうか?20万遣って、20万入ってくる仕組みができないか?と考えると、途端にオプションが増えます!

会場費の10万に加え、10万の賞金を予算に追加して花器賞を創設しては!?

コンクール出品者から出品費用を集め、さらに、出展作品を販売。その手数料を得て、合計 15万円くらいの収入を得る。それはさほど難しくはないだろう、と。なんと言っても陶芸人口の多さは心強い。不確実な要素はありますが、これは行けそうだ!と思い出すと、もう、いてもたってもいられません。

あれこれ手を回し、賞金額の少ない分、これを意義のある賞にする工夫を考えます。オーストラリアの陶芸では最高峰のヒロエ・スウェンさんに協力を求めますと、快く審査委員長を引き受けてくださいました。これでなんとかなりそうです!オーストラリア史上初(おそらく)の花器賞の発進です。

ここで私が見つけた教訓はこうです。ある予算内で二進も三進もいかない場合、ひとつの試みとして、予算を拡大してみること。資金不足の問題は、より多く遣って、より多く稼げばいいわけです。新しい可能性が開けるかもしれません。

この企画がうまく行ったならば、「なるほど!」と思っていただける、説得力のある話になるのでしょうが。コロナをはじめ様々な障害がある中で、どこまで達成できるのか、今はまだ不透明です。

日本とは違い、感染経路不明の新規感染者が2名出るとロックダウンという厳しい現実。市民は疲弊します。しかし、その効果は大きく、世界的に見てもコロナ対応で最も成功している都市のひとつはメルボルンかもしれません。日々、数千人の新規感染者が出る緊急事態宣言の中、花展を開催し、「こんな状況でよくやった」などと賛辞を贈ったりしている日本とは認識が違います。政治力も違います。

ともかく、募集を開始して間もないのですが、かなりの応募が来ています。まだ目標数には達していませんが、著名な陶芸家からの応募も含まれています。こちらから出展して下さいとお願いするのではなく、先方から出展させて下さいとおっしゃっていただけるのはありがたいですね。嬉しいことに、かなりレベルの高い花器展になりそうなのです。

さらに、生花と陶芸は親和性が高いことに改めて気付きます。二つの領域で相互に関心を寄せ合う関係です。経済的な事情で発案した企画ですが、それを超えたところでも効果が見込めそうです。

いい花器が手に入らないというのは、こちらで生花をやっている方々の共通の悩みでしょう。そこに一つの朗報をもたらすことになるかもしれません。将来的に花器作りに精を出してくれる陶芸家を応援することになるかもしれません。

さらに、花展への来場者を倍増させる効果もあります。陶芸愛好者の層の厚さ、生花に関心のある方も多いのです。観客としても貴重な方々を呼び込むことになるでしょう。

最初の陶芸教室との折半案と比べて、遥かに夢のある、ワクワクするような企画になっているように思います。こういう企画には、協力スタッフも一層力が入るようで、展開を楽しみにしています。スタッフの動機付けに効果があるなら、それは最大のメリットかもしれません。


2021年6月22日

オンライン花展、花信の発想

 


オンライン花展、花信(Hanadayori)の準備が整ってきました。
素晴らしいゲスト出展者にも恵まれ、とても幸運な初回開催となりそうです。

花信について、まず話したいことは、その発想の原点です。
私にとっては少し変わったアプローチでした。何かの参考にしていただけるのか、それは不明ですが、少しお話ししてみましょう。

通常、ある製品を開発する際、既存の成功している製品から発想していくということはよくあると思います。

例えば、マツダのSUVがヒットした、となると、トヨタはそれとほとんど同じような製品でありながら、少し室内が広いとか、特別な装備を加えるなどして対抗する新製品を発売します。

あるいは、あるイベントがあって、そこそこうまくいったという場合、そこからヒントを得て、さらにいろいろな改良点を加えて、発展させ、新しいイベントを企画する、というようなこともよくあると思います。

つまり、AからA+を考えていくというやり方です。おそらくこれが普通の製品開発でしょう。

今回の花信は、そういう典型的な製品開発とは少し違った方法でブレイン・ストーミングしていきました。

オンライン花展をやりたいという発案がありました。それは、いろいろな意味で私達、メルボルン生花フェスティバルにふさわしい、ということだったのです。問題は、いかにやるか、ということ。

出発点として、既存のオンライン花展をいくつか見てみました。
何かもの足りないのです。でもそれが何なのか、また、どうすればいいのか全く見当もつきません。

そこで、A, B, C, D それぞれが含んでいないものについて考えて見ました。非A、非B、 非C、 非D、それらの共通項はなんだろう?と考えたのです。それぞれに欠けているものの共通項です。それがわかると、もしかすると既存のオンライン展覧会の物足りなさの根本原因がわかるかもしれません。なかなか思いつきませんでしたが、突然、あ、そうか!と。

欠けているのは2 Way のインターラクションです。両方向性!

つまり、既存のオンライン花展のほとんどは、制作者から観衆へ、という一方通行なのです。制作者はもちろん観衆のことを考えてはいるでしょうが、自分の修行の成果を発表したいということが主になるのではないでしょうか。観衆の立場からすると、綺麗だとか、勉強になるとかいうことはもちろんあるでしょうが、もしかすると「よく分からない。ただの自己満足じゃないか」なんていうこともあるかもしれません。

そうではなく、観衆の心を撃つ花、観衆の求める花を展示する展覧会にできないか、とアイディアが膨らんできました。

そこで、世界中からリクエストを募集して、生花作家にリクエストに応じてもらおう、という企画ができたのです。観衆から華道家へ、華道家から観衆へ、という両方向の流れが生まれます。通常より一手間余計にかかるのですが、その手間が何十倍にもこの企画を面白いものにしてくれるでしょう。もちろん、他にももっといい方法はあるでしょうが、とりあえずは私たちの手の届く範囲ではこの辺りからでしょう。

広く一般にリクエストを公募することで、普段、生花に関心のない方にまで興味を持っていただけるかもしれません。「世界の人たちは、今、花に何を求めているのか」、これは多くの方にとって興味深い問いでもあるでしょう。そんな生花の原点を問うような企画になるかもしれません。

参加して下さった世界各国の華道家の方々からどのような花信が届くのか、楽しみにしたいと思います。2021年9月4日に公開予定です。

2021年6月19日

外国人に生け花を教える難しさ(5)

 

何度もお断りしていますが、外国人の中にはとても生花が上手な方がいらっしゃいます。それはまずきちんと確認しておきたいと思います。

それでも、時々、「これは外国人の作品だな、日本人はこういう作品は作らないな」と思うことがあるのです。それが、私の生徒の場合、どのように指導したらいいのだろう、と悩むことになります。

ひとつ特徴的なのは、線の硬さ。まあ、例えば、直立不動(気をつけ!)のままダンスを踊っている感じです。不自然で、硬いなあと感じます。詩性も楽しさも感じられません。

もしかすると、「生花は自己表現」だという教えを勘違いしているのではないでしょうか。

「生花は自己表現」だという主張は1920年代頃から日本の生花の世界でなされているものです。西洋芸術のモダニズムの影響でしょう。つまり、西洋の考え方を日本人向けに紹介した教えです。

生花とは自然素材を尊重しつつ、自然の美しさを表現するものという前提があって、それを踏まえて、そこに自己主張も加えてみませんか、という程度の理解で受けとられたのかもしれません。というのは、とことん自己表現だけの(素材の自然性を完全否定した)生花はあまり存在しないように思うからです。基本的に自然素材の持っている面白さ、美しさを発見したなら、それをあえて壊すようなことはしないだろうと思うのです。

自己を表現した生花、と言っても、そこに表現された自己とは、自然の一部としての自己かもしれません。自分も自然の一部だと認識しつつ、自然素材の持つ味、線、動きを尊重しつつ、制作していくわけで、人と自然の共同作業のようなもの。

おそらくその創造過程の理想は無私の境地ではないでしょうか。深い瞑想状態とも言えるでしょう。生花の創造体験の一番深いところですが、皆さん、いろいろな表現でそれを説明してくださっています。「花と話しつついけていく」とか、「花と一体になっていけるのだ」とか。私なら「頭で作るな、無意識で作ろう」とでも言うかもしれません。華道史上、稀有の華道家であった山根翠堂は次のように書いています。

「花をいける人の心が、花の心に同化して、花のように美しい心にならなければ、決して、その本来の使命に忠実な、真に芸術的な『いけ花』はできません」(「花に生きる人たちへ」)

「同化」という言葉の意味は深いと思います。花は素材という客観的対象以上の存在になるのです。

ところが、ことに戦後、海外にも生花学習者が増えていきます。

そこで「生花は自己表現だ」という教えを伝えた場合、本来自分たちの考え方が戻ってきているわけです。日本文化だと思って生花を始めてみたら、中身は西洋文化じゃないか、と。自然は制作のための素材でしかない、ということがそのまま受け取られます。日本では前提としてあった自然観がないわけです。

自分は自分、自然は素材。人と自然は断絶しています。

この指摘は多くの著名な方々が、日本人の自然観対西洋人の自然観として書いていることと共通しています。おそらくそのような日本人論を読んだことがあるという方も多いでしょう。実は、それはあまりに紋切り型で、単純すぎる対比です。日本国外でそんな話をしたら、誰にも相手にされません。

しかし、こと「生花は自己表現だ」という主張の解釈について考えていくと、この紋切り型の比較が参考になるように思います。

では、外国人にどう教えていくべきか。

まず、外国人には「生花は自己表現だ」などということは言わない方がいいでしょう。それは自然を尊重する表現ができた後で、ゆっくり考えて貰えばいいことなのです。「花を愛さなくても生花はできるんだぜ」というような本を出している外国人がいます。こういう勘違いが起きないようにするためにも、これは大切なことだと思います。こういう生花教師を輩出している流派はその指導に検討すべき点があるのかもしれません。

次に、もっと花を見つめなさい、瞑想しなさい、ということを強調して指導していくことかな、と思います。最近、その趣旨で英語であれこれ書いてみました。そういう指導ができないと、海外では私たちはまともな生花を教え、伝えていくことができないように思うからです。生花を教えるということの本質は、生花が瞑想だということを教えることだと思います。

おそらくこれは日本国内ではそれほど意識しなくてもいいことだと思います。説明しなくても生徒は自然に瞑想体験を身につけていくのではないでしょうか。生花とは「本来そういうもの」だからです。しかし、外国人に生花を教える際には、最大の障壁になるように思います。

最近、ある生徒から、もっと別な方法で指導してくれとあれこれ言われたことがあります。この障壁の手前で迷っている生徒の一人です。

その希望をよく考えてみたところ、彼女の生花理解がわかってきました。おそらくいろいろなデザインの型を覚え、花という材料をそれに当てはめて生花を作るのだと考えているようなのです。自分の頭にある型、それを表現するために花を素材(客観的な対象)として使う。そのためにいろいろな効果的な型を教えてくれということに行き着くのです。先に書いた西洋人的自然観による生花理解の典型です。基本型の勉強はそのような態度で始めることになるでしょうが、自由型に移って、数年したならば(ましてや師範をとったならば)、そのような、頭だけで作ろうという態度ではいけません。生花の本質に至ることはできません。

生花のデザインは自分の頭から捻り出すのではなく、むしろ無私の境地で素材から(あるいは自分の無意識から)抽出するものだと教えたいものです。そこには、花との共同作業、一体化、同化、といった瞑想体験が必要です。花を客観的対象として見ているだけでは到達できない境地です。生徒がそこを理解し、体得できるかどうか。そこがポイントのような気がします。

デザインという結果ばかりをみていてはいけない。過程を重視しなさい。

生花はデザインじゃない。

生花は瞑想なんだと、強調していくことでしょう。

それで生徒が離れていくなら、仕方ないですね。金のためだけに生花指導をやっているわけではないのです。譲れないものは譲れません。

もしかすると、生徒は自然観の変更を迫られるかもしれません。その変更が可能なら、生花を海外に広める意義はとても大きいように思います。


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2021年5月7日

花信(Hanadayori)プレスリリース

 報道関係各位

2021年5月5日年

和·メルボルン生け花フェスティバル



「今、こんな花が見たい!」という世界の方々からの

リクエストに華道家がお応えする

オンライン生け花展「花信 Hanadayori」を

9月に開催します。

今、世界はどんな生け花を欲しているのか




和·メルボルン生け花フェスティバルは、「今、どのような生け花が見たいか」への回答を世界から公募し、それに日本国内外の華道家が応じるオンライン生け花展、Hanadayori 花信: Ikebana by Request を2021年9月4日に開催致します。 

URLhttps://www.ikebanafestival.com/news/hanadayori-online-exhibition 


Hanadayori 実施概要】

イベント名:Hanadayori 花信: Ikebana by Request

開催日:20219月4日開催

会場名:オンライン·イベント、https://www.ikebanafestival.com

協力者:片山健(草月流師範、いけばなインターナショナル福岡支部名誉顧問)ほか、日本国内、海外の華道家約50名の参加を予定。


参加方法(一般の方):ファーストネーム、居住地(国、市)、どんな花が見たいか、その理由、背景などを次のコンタクフォームで6月10までに通知:https://www.ikebanafestival.com/contact


参加方法(華道家)

6月10日までに:氏名、メールアドレス、流派などを次のフォームで登録: https://form.jotform.com/211216934314852

6月中旬:選出された方々にリクエスト内容を個別に送付。

7月末:作品画像送付

9月4日:リクエスト内容とともに作品公開


Hanadayoriで実施する内容

1、「どんないけ花が見たいですか?」とSNSを通じ、世界中の方に問いかけ、リクエストを募集。リクエストには、個人的な事情、理由なども付記していただきます。

2、約50のリクエストを選出。ひとつひとつに応じる形で、華道家に新作を依頼し、作品画像を送っていただきます。

3、送付された画像を当方で編集し、リクエストと作品を並べてYouTubeで発表します。鑑賞者はコメント欄にて華道家にメッセージを送ることができます。


従来の多くのオンライン花展と比べ、鑑賞者から華道家へ、華道家から鑑賞者へという双方向的な活動となることを目指しています。花信とは、リクエストをし、花の開花を心待ちにする鑑賞者へ、個人的なユニークな花の便りを華道家から届けるという意味で名付けたものです。


Hanadayori実施の目的


この企画は、世界中の生け花鑑賞者と華道家をつなぐことだけでなく、パンデミックのために苦難を強いられている多くの人々に花の力を通じてささやかな喜びと癒しを届けることを目指しています。


従来のオンライン花展では、鑑賞者の欲するものを汲み取る試みは比較的少なかったように思われます。現代の生け花は本当に鑑賞者の欲するものを提供できているのか、鑑賞者と華道家をもっと結びつけることはできないか、そうした思いのもと、この企画が計画されました。


和·メルボルン生け花フェスティバルの主目的は、生け花の活性化、生け花人口の増大です。その目的達成のためにも、Hanadayoriは有効な企画でしょう。


出展者プロフィール

片山健 http://www.ken-katayama.net/profile.html

他多数。現在、交渉中。


和·メルボルン生け花フェスティバルについて

メルボルンの華道家グループが2015年以来開催されてきた合同花展を発展させ、2019年、和·メルボルン生け花フェスティバルとして発足。花展に加え、ワークショップ、デモ、学会(国際いけ花学会との共催)などを同時開催。特に、メルボルン·リサイタルセンターでの国際的な演奏家グレゴリャン·ブラザースとの生け花パフォーマンスは好評を博しました。2021年には、国際的なジャズピアニスト、ポール·グラボウスキーとの共演が予定されています。また、花器賞が新設されました。


和·メルボルン生け花フェスティバル 

https://www.ikebanafestival.com

https://ja.wikipedia.org/wiki/和·メルボルン生け花フェスティバル



【お問い合わせ先】

代表:新保逍滄

e-mail: wa.ikebana@gmail.com


2021年3月29日

メルボルン生花フェスティバルの分かりにくさ

 


先のポストで触れたように、生花に関する様々な活動に関わっていますが、自分にとって最もわかりにくいのが、メルボルン生花フェスティバルです。

まだ1回しか開催していないのですから仕方ない部分もあります。自分の納得できる形になっていないという事もあります。

商業的な事業であれば、経験からやり方がわかります。学問のような個人的なプロジェクトも同様です。どちらも達成目標が明確で、それに向かって手順よく努力していけばいいのです。慣れたものです。また、ボランティアならそのように割り切ってやれるでしょう。

しかし、メルボルン生花フェスティバルには、どうもそれらのどれとも割り切れない部分があり、今まで経験したことのないプロジェクトなのだと感じています。

ある面ではボランティア、ある面では事業、ある面では自分が捨て石になる覚悟を求められます。自分の立場がよくわからないのです。

さらに、自分がどこまでコミットするべきか、についても確信が持てません。支持者があり、多くの方がメリットを認めて下さるなら今後も続き、意義のある活動となり得るでしょう。また、支持者がなければ消えていくでしょう。どのようになっていこうと、それを受け入れる覚悟は持とう、あまりこだわりは持つまい、執着は持つまい、とは思っています。

このイベントを私物化しようなどという考えは持つべきでないと思います。リーダーが自分の利益、便宜だけを優先するようなことはあってはいけないでしょう。人がついていかないでしょう。「より多くの人に生花を」というような大きい目標も達成できません。おそらく、会社組織で運営するなら別でしょうが。

ですから第1回目は私が代表を務めましたが、2021年度からは別の方に代表を代わってもらおうと希望しています。国際的なスケールで、創造的に、そして、平等に(誰でも参加でき、努力した方が相応の機会を得られ、特権者は作らない)、というような基本方針が定着したなら、私は役目を終えたいのですが、その段階なのか、これまた確信が持てません。

このように私にとって実にわかりにくいプロジェクトなのです。リーダーが熱意を持たずに成功するはずはないですから、とりあえずの熱意を持ちつつも、深いところではどう関わったらいいのか、まだ手探り状態なのです。

となると、周囲の方からすれば、おそらくもっとわからないでしょう。相手によって趣旨説明を変えていますが、話が通じなかったり、誤解が生じるのも仕方ないと思います。

メルボルン生花フェスティバルの運営を特に難しくしている根本の理由は、多くの方々にご協力いただかなければ成立しないプロジェクトだから、です。ここが私が関わる他の生花の活動との大きな違いでしょう。

権内・権外という言葉があります。学問研究などは権内の活動と言えるでしょう。自分一人の努力で成功失敗が決まることが多い。基本的に自分次第です。小規模の事業などもある程度、そうかもしれません。

それに対し、メルボルン生花フェスティバルには権外の要素が大部分。私一人がいくら頑張っても、どうにもならないことが多すぎるのです。ですから、初回の開会式で「これは奇跡じゃなかろうか」などと私が大袈裟な発言をしていますが、そこにはそうした事情があるからです。私の関与できない様々なことが上手く組み合わさり(まるで人智を超えた力が働いているかのように)、成功へと導いてくれました。「とびきり運が良かったな」「人に恵まれたな」というのが、初回の実感でした。

そこで、只今の大きな課題は、メルボルン生花フェスティバルへの協力者や関係者をどのように説得し、動機付けしていけばいいのか、です。

例えば、実行委員の方々。ほぼボランティアで、よく頑張って下さいます。しかし、彼らの仕事はかなり大変です。賃金を払って、仕事を割り振るなら簡単です。実際、そうしたいとも思います。会社組織にしてメルボルン生花フェスティバルを運営できれば分かりやすくていいですね。収益は少ないので、経営は苦しいでしょうが。赤字にはならない程度にお金を動かせるのではないかと思います。

しかし、無報酬で彼らの動機をどのように維持できるのか。

幸いこれまでのところ、メルボルン生花フェスティバルの目指すもの、遠大な夢のような私の話に共感し、「ついていってみようか」という事だと思うのです。「前人樹を植えて、後人涼を得る」。私たちはこの ことわざの「前人」となる覚悟を持てないだろうか。自分達の苦労の果実は、自分達は享受できないかもしれないけれど、次の世代の人達の間では、生花への関心が大きくなるはず。自分達とは違い、先生も容易に生徒が集まるだろうし、生花の癒し効果を生活の一部とする人達も増えるだろう、と。

もちろんこのような精神的とも言える動機づけで動いてくれる方はかなり意識の高い人達で、数はそう多くはありません。反発、離反、傍観も経験しています。仕方ない事です。それを恨んだりすれば私達の負けです。

また、出展者の方々にどのように出展の意義を説明していくか。これも容易ではありません。日本文化の発信の機会として、などというより、個人的なメリットを強調して説得していくことかな、と思います。自分へのチャレンジの機会に、ご自分の教室のPRに、流派のPRに、そのようなところに落とし込んで、それが効果的に達成できるように配慮していくのが基本でしょう。

ただ、日本からの出展者となると、個人的なメリットはそう多くはないでしょうから、身近なメリットを越えた、もっと大きな意義を見出して下さる方に訴求することになるでしょう。

ともかく、もっと理解者、協賛者が増えていくと、メルボルン生花フェスティバルはさらに面白い企画に育っていくでしょう。今の段階でもいくつか突出した特徴がありますが、継続し、実績を積むことができれば、花道史的にも意義のあるイベントとなる可能性もあります。まずは、メルボルン生花フェスティバルの趣旨について、もっと広報していくことが必要であるようです。

2021年3月18日

日本文化の発信(2)

 


次から次へと生花関連の企画を思いついては、取り組んでいます。

生花道場生花ギャラリー賞メルボルン生花フェスティバル、さらに学術的な取り組みなどなど。

お金になるわけでもなく、名声につながるわけでもない。それでもやらざるを得ない。と言うか、基本的には好きなことをやっているだけなのですが。

さらに、来年から「いけばなとは何か」と題し、山根翠堂の名言を英訳していこうと思います。真生流のお家元からお許しをいただきましたので、国際いけ花学会の「いけ花文化研究」に数年かけて連載する予定です。

このタイトルは、西谷啓治の「宗教とは何か」に啓発されたもの。学生時代、最も刺激を受けた本のひとつでした。

私が英訳し、米国の大学で日本古典文学の教授をしている畏友(ネイティブ英語話者)に見ていただければ最高だろうと思います。

内容は山根の遺言とも言うべき「花に生きる人たちへ」(中央公論美術出版)の抄訳になります。この著作は、現代、いけばなに関わる人たちにとっても大きな意義があると思うのです。

ひとつには、いけばなには理念があるということを紹介できるでしょう。いけばなは花型(デザイン)の問題だとしか思っていない方が多いのが海外の実情でしょう。いけばなに関する英語文献を見回したことがありますが、理念についてきちんと述べた類書は少ないのです。

また、誠実にいけばなに生きた方があったということ、そして、本物のいけばなマスターとは、こういう方なのだ、と紹介したいですね。現在、私たちにはロールモデルとなるような方がなかなか見当たらないように思うのです。

さらに、山根の言葉には、いけばなの癒し、あるいは、いけばなと環境問題について考えていく際のヒントがあるように思います。つまり、いけばなと現代の問題の関連を考える際の参考になるかもしれないのです。この点は私にとって重要なポイントです。

現代のいけばなに対する、私の最大の不満は、現代社会の問題にきちんと対峙していないということ(もちろん、例外はあります)。

いけばなは現代社会に何ができるのか?

いけばなは次の世代に何を伝えるのか?

例えば、現代芸術が真摯に環境問題に取り組んでいるのに、いけばなの大勢はそうはなっていないように思います。時代の動きに関わらない、あるいは時代の求める新しい価値が提示できない、ということでは、いけばな人口が減っていくのは仕方ないことかもしれません。

そのようなわけで、この抄訳が少数であっても関心のある方々に届くならば、大いに意義があるだろうと。

私がやる気になるのは、こういう企画なのです。

2021年3月15日

日本文化の発信(1)

 

先週、当地(オーストラリア)のラジオで東日本大震災の特集をやっていました。

そこに二人の日本専門家が登場し、あれこれ日本社会にコメントしていました。そこで「ああ、そうか」と、「自分がぼんやり思っていたことはこういうことか」と納得したことがあるので書いてみます。

まず、日本文化の紹介者、研究者には大雑把に言って、二つのタイプがあるということ。

一つは、日本文化にある程度の敬意を持った方。というか、日本文化の奥深さを認識し、自分の知らないこともありえると自覚している、謙虚な印象の方。

もう一方は、日本人なんてこんなもんさ、と見下すような態度が明らかな方。専門書を出版していたり、大学の教授であったり、日本政府から賞をいただいていたりと(日本を貶めるような学者を称賛する変なところが日本にはあります)、社会的には成功しているようで、大変結構なことですが、アクセントの強い英語で、大声で話すこんな傲慢な方が酒の席にいたならば、私など速攻で膝蹴りを喰らわしてしまうかもしれません。

しかし、武力行使の前に、こういう方の話も聞いてみるものです。

すると、某国の共産主義は素晴らしい、というようなところに行き着くのです。なあんだ、その筋の方か。その程度の頭しかないのか、と。致命的に勉強不足の輩ではないか。こんな方に「日本人は基本的にみんな馬鹿」などと言われても、相手にする必要はないでしょう。

さらに、海外で日本文化に携わっている自分の立場についてもあれこれ思うことがありましたが、それについてはまた別の機会に。

2021年2月7日

「専応口伝」再びー山根翠堂自由花論との類比

 


「専応口伝」についてあれこれ考えてきたことがようやくまとまりました。と言っても一つの仮説です。想像に任せて書いてみました。学術的に認められるのか、定かではありません。独断と偏見!ということになるかもしれません。

UC Davis の教授等、何人かに読んでいただいたところ、そこそこ面白いじゃないかということであるようで、「いけ花文化研究」に掲載されるようです。

私が指摘していることは、

「専応口伝」には生花の定義として二点、存在論的な定義と認識論的な定義が明言されているのに、なぜか認識論的側面が無視されてきた。

「専応口伝」の定義する自然の象徴としての生花と、天地人を骨格とする生花(せいか)は、似ているけれど、微妙に異なっている。自然の形而上学的把握の有無という点からすれば、両者は異質なものだ。

自由花運動は生花への西洋モダニズムの導入ということだけでなく、本人たちは気づいていないが、無視されてきた生花の本質の再興という側面があったのではないか。

こんな奇論が出てくると、「花道史も面白いじゃないか」という方、さらには、「もっと研究してやろう」「反論してやろう」という方が出てこないだろうか、と密かに期待しています。

実はこのエッセーは、構想している山根翠堂3部作の2つ目です。

一つ目は昨年、Intenernational Academic Forum で発表した論文。趣旨は、戦前の自由花運動と戦後の前衛生花との関係について、前者が後者に引き継がれたという継続性に注目する論者が多いようですが、私の論は、両者は全く異なる、社会学的な見地からは対立関係にあるとするものです。

白状すると、山根翠堂3部作の2つまで、これまで書いたものは、山根の実際の著作を読まずに書いています。一次資料にあたらず論文を書く!なんともひどい話ですが、資料が手に入らないのです。

最後の論文はきちんと一次資料を読んで山根翠堂の思想の根幹に迫ろうかと考えています。

しかし、京都芸大の井上先生とお話した際、井上先生が私が考えていたよりはるかに大きな枠組みで山根を捉えておられることに気付き、果たして、私が取り組む必要があるのかな?と思っているところです。

さらに、生花の学術的研究ということでは、また別の関心が芽生えてきているのです。

ここまで読んで下さった方のために、「いけ花文化研究」に投稿した最新論文の要旨を掲載しておきます。このブログでも専応口伝についてあれこれ書いてきましたが、最もまとまった内容になっているはずです。英文論文なので読みにくいかもしれませんが、機会があればいつか日本語版も発表したいと思います。


An Interpretation of Ikenobo Senno Kuden (16c) and Its Hidden Link to the Rise of Freestyle Ikebana in the Modern Japan


Shoso Shimbo, PhD
RMIT University Short Courses, Australia

Abstract

The introduction of Western modernism to ikebana brought about the Freestyle Ikebana Movement (the FIM) in 1920’s and 1930’s. Suido Yamane, one of the major advocates of the FIM developed a unique theory on Jiyuu bana (freestyle ikebana). This paper points out the similarity between his theory and the metaphysical statement in Senno Kuden, although the latter has not been adequately studied. Seeing ikebana as a representation of life energy did not begin with the reformers in 1920’s & 1930’s. Rather it has been around since the early stages of development in ikebana and deserves more attention. The historical significance of the FIM may lie in its effort to revive a neglected aspect of ikebana tradition.  

要旨

本稿は1920年代から30年代にかけての自由花運動の歴史的意義について考察するものである。明治以降、西洋文明の影響を触媒とする、いけ花における変容は文化変容の一例としてとらえられるが、ここでは自由花運動、殊にその中心人物の一人、山根翠堂の取り組みに焦点を当てる。翠堂の自由花論は形而上的未発である「真実の自己」が形而下的已発「自由花」として発動し、この一点に純形而上学的理としての「生命」が成立していると解釈できよう。これを「専応口伝」の「よろしき面かげを本とし、先祖さし初めし」に認められる本質論と対比してみたい。本質である「面かげ」が未発であり、「よろしき面かげ」における、形而上的本質である面かげの「よろし」さがより純度の高い形而上学的理として措定されていると考えられる。つまり形而上的「面かげ」という未発が「よろし」の働きにより、形而下的已発として挿花が成り立つのである。翠堂が純形而上学的理として把握した「生命」は専応の面かげの「よろし」さと近似した働きを持つのではないか。とすると、自由花運動という文化変容は、看過されてきたいけ花の始原の一側面に回帰しようという衝動を秘めた変容だったのではないだろうか。自由花運動の歴史的評価については前近代から近代への脱却、西洋由来の芸術性の主張という二点が注目されてきたが、いけ花における形而上学の最も重要な一面の再興という側面も検討されるべきだろう。

2020年12月21日

専応口伝と異文化における生花

 


「瓶に花をさす事、いにしえよりあるとはききはべれど、それはうつくしき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまえずたださしいけたるばかりなり」

専応はこの口伝の序文で、生花の誕生を宣言しています。上記の引用は、生花誕生以前の状況を語っているわけです。花の美しさだけをありがたがっている、草木の面白さに気づいてもいない、と。そういう人々とは決別して、生花を誕生させたんだよ、と。

ふと、思ったのは、海外で華道家としている活動している私の現状と生花誕生以前の状況が似ているではないか!ということ。

ありがたいことに私は商業花の依頼もよくいただいています。この写真のような花も作ります。クライアントの満足を第一に考えなければいけません。

日本とは違います。草木の風興をわきまえていない方も多いのです。

もっと花を入れてくれ、もっとカラフルに、長持ちさせてくれ、いろいろなリクエストがありますが、生花が根本からわかっていない方がクライアントの場合、困ることが多いのです。ひどい時には、不愉快な経験をすることもあります。

生花の修養を積めば積むほど、クライアントのニーズから離れていく、時にそんな思いを持つことさえあります。これはなかなか辛い。

私の言うクライアントとは生花の生徒も含まれます。

生花の本質的なところを教えようとすれば、生徒から煙たがられる、そういうこともあります。生花の本質的なところは基本型にある、というのが私の考えです。枝物2、3本、花2、3本で生花の原理を体現していく、その辺りに生花の本質があるのではないかと。

Zoom Ikebana Dojo では、そのような試みをしています。

しかし、このブログで何度も書いてきたことですが、外国人の生徒の多くは、基本型の勉強を厭う傾向にあります。

逆説的ですが、そこにはメリットもあるかもしれません。かなり意地悪な見方ですが、外国人の多くは基本型を厭う、故に、生花がなかなか上達しない、故に、生花学習者に止まり続ける。それは日本の先生には都合が良いのかもしれません。あまりにたくさん上手な方が出てくるということになっては、先生の商売が成り立たないではないですか!生花文化の振興と、家元制度という経済機構の発展には、微妙な関係があるのかもしれません。

以前、日本の著名な華道家のデモンストレーションを当地で拝見したことがあります。色々考え込んでしまいました。当初は、ご自分の本当の最高のところは見せてくださらないのだな、厳しく言えば、手を抜いているな、と思いました。しかし、観客を草木の風興をわきまえていない方々と想定し、そうした方々にどのように楽しんでいただけるか、と考えてのデモンストレーションであったということかもしれません。

草木の風興をわきまえていない方々の中にあって、専応や専応の先人たちは道を開いて行ったわけでしょう。その苦労は、もしかすると、私たち海外で生花に関わる者にはより共感できるものであるかもしれません。


2020年11月18日

Zoom 生花道場カリキュラム:人気のない基本型

 


Zoom 生花道場のカリキュラムには基本型を含めたい、と思っていました。

このブログでも何度か生花の基本型について書いてきました。生花を外国人に教える難しさについて、ということで。

基本型を厭う生徒が多いことと、我流生花が多いこととは関係があるように思えてなりません。調和のとれた詩的な基本型が作れない方には、調和のとれた詩的な自由花は作れないはずです。実は、基本型を嫌がる方こそ、基本型をもっと練習しなければいけない!そういう場合が多いのです。

しかし、嫌がりますね。「もっと基本型をやらないといけないよ」とアドバイスしようものなら、まるで「侮辱された!」とでもいうような反応が返ってくることもあります。しつこくやらせたら、教室をやめていった生徒がいたという話もこのブログで書いたことがあります。

それにしても強調したいのは基本型の重要性。

基本型には生花の詩性の根本が含まれています。そこを体得しないことには、おかしな方向へ行ってしまうのではないか?その習得不足が、諸問題の元凶のひとつかもしれない、とまで思ってしまいます。

Zoom 生花道場のカリキュラムではレベル2で基本型を導入し、8回作ってもらいます。ここで、生花道場のカリキュラムについて、少し説明しておきましょう。レベル1、2、3と、とりあえず3段階用意しています。それぞれ8回のクラスから成り立っています。

レベル1では、生花デザイン原理、生花デザイン要素を優先した基本的な自由花。生花を学ぶということは、「花を花として見ることをやめる」ということです。初めから花の本質を見ることを学んで欲しいのです。専応のいう、花や葉の「よろしき面影」を見出し、瞑想する訓練の始まりです。

レベル2で、基本型の習得(上級者にとっては復習と発展)。レベル2になると、受講者の数が増えない、という予想通りの状況です。面白いですね。しかし、ここが一番やりたかった部分なのですが。

レベル2で使う花型に各流派の既存の基本型を使うのは問題でしょうから、自分で新たに考案しました。生花の基本型とは、多くの流派で似通っていながら、若干違うという現状であるようなので、その方針でいくつか作っておきました。説明の仕方もかなり独自の方法でやっています。それは将来的な発展を踏まえてのこと。基本型で習ったことを将来どのように使えばいいのか、ということを射程に入れて組み立てています。

レベル2は、生徒にとっても私にとっても忍耐を要する段階です。ここを通過することで、幾らかでも生花のレベル向上に貢献できないか、我流生花の蔓延を抑制できないか(大袈裟ですが!)と願っています。我流生花が流行っても、それでお金が儲かればよいという方には問題ないのでしょうが、華道文化のことを思えば、なんとかしたくなります。山根翠堂のいう「死花」ばかりが生花として溢れているというような事態は、できれば避けたいもの。せっかく取り組む以上、そのくらいの抱負はもちたいですね。

レベル2で気づくのはやはり基本型への嫌悪。特に上級者には多少自分流にアレンジしていいよ、としてるのですが、多くの方が自由型にしてしまいます。しかも、行き過ぎている場合が多い。その結果、基本型に備わっている詩性は失われています。これではなんのための基本型の復習なのか、と残念な思いをすることがあります。本当の上級者以外、きちんと復習に徹した方が生花道場の趣旨を活かすことになるでしょう。

レベル3では少し高度な自由花へのヒントを含めることになるでしょう。生徒が喜ぶクラス、というのは見当がつきます。そういうクラスもレベル3辺りには含められたら、と思います。おそらくその辺りになるとまた人気が出てくるかもしれません。

オンライン講座で成功しよう、儲けようと思ったら、人気のトピックを調べて、そういうものだけをやる方が賢明でしょう。基本型をやったり、「生花のデザイン原理とは〜」などと深入りするのは、労多く、利がすくない。そう分かっていても、妥協できないものがあります。

ともかく、Zoom 生花道場は、私にとって何かと勉強になるプロジェクトです。なかなか大変ですが。

2020年10月27日

危うい言葉


 病弱の方とか、酔っ払いとか、フラフラ怪しい足元の様子というのは、一眼でわかります。ほんの数センチでしょうが、本来の位置からはみ出しただけで、少し動きが不自然だな、危ういな、頼りないな、と感じるものです。

特定の人の言葉遣いに、同じような危うさを感じることが時にあります。何度か私の感じている違和感を説明しようと試みてきましたが、上手く納得してもらったことがないのです。すると、こんな感じを持つ人は、あまり多くはないのでしょうか?

例をあげましょうか。ある方は、ご自分の祈りとして、息を吸う時に「讃美」、吐く時に「感謝」と唱えるのだそうです。宗教的な、霊性に関わるような著作も多い方の言葉です。こんな言葉に出会うと、私は「危うい」とすぐに感じます。とくにそれが宗教的な文脈で語られる時、ほとんど拒否反応が起こります。

「讃美」「感謝」!ヒエ〜!

本当に魂から湧き出る言葉というのは、そんな教科書のような、あるいはおしゃれな、それでいて安っぽくて軽薄な流行歌の歌詞のような言葉ではありません。

危うさ。耐えがたい言葉の軽さ。さらに場合によっては欺瞞さえも感じてしまいます。

ことあるごとに名著として紹介するのは、スコッツペックの「平気で嘘をつく人たち」(People of Lie)。もう心理学では古典になっているのではないでしょうか。彼のベストセラー、「愛の精神分析」(Road Less Travelled) が、善の起源を掘り下げた著作であるのに対し、「平気で〜」は、悪の起源の探究でしょう。そこで語られる悪は、なんとも掴みどころがない。日常的に私たちの周囲のどこにでも潜んでいて、とくに犯罪になることもない。

しかし、そこにある魂の欺瞞や腐敗は、人間存在の根本のところに関わってくるように思います。見えない冒涜、沈黙の暴力ではないか。後味の悪い読後感は何十年経っても残っています。

当然、文学でもそのような問題を扱った作品があります。レイモンド・カーヴァーの短編の幾つかとか。村上春樹も多くの作品で同様の問題を意識しつつも、カーヴァーほど巧みには描き切ってはいないように思います(もちろん村上は稀有な文学者ではありますが)。両者の違いは、人間の関係性に対する態度の違いと関連があるのかもしれません。

また、哲学書を読んでみても、言葉の軽さにはすぐに気がつきます。頭で哲学をやっている人と哲学を生きている人の文章は違います。例えば、森有正の言葉の誠実さ、実直な盤石さ。内奥から紡ぎ出す言葉の重さ。内部で熟成された経験を彫り込み、他になんとも名付けようがないことを確認して、言葉を選び、定義していく。そこに立ち現れる詩性には惹かれます。

それに対し、大仰な言葉、「真実」「愛」などという言葉を軽々しく使って人を導こうというような方は、危ういな、近づいてはいけないな、と思います。

例えば、「愛」という言葉は、人がその一生を生き切って、この生が即ち自分の考える愛というものだよ、と示すような時に初めて使いうる言葉でしょう。一生をかけて定義しなければいけない言葉です。そうした言葉の重みが感得できない、精神性のかけらも分かっていない浅薄な者が安易に口にできる言葉ではないのです。

しかし、私の審美眼というか、言語感覚も確固たるものではないかもしれません。というのは、以前、ある宗教家の著作にいたく感心したのに、間も無くこの方がイカサマ師だったと分かったということがあります。実情はよく分かりません。もしかすると清廉な初心で宗教活動を始めたのに、堕ちていったということかもしれません。初めからあったペテン性を私が見抜けなかったということかもしれません。

ともかく、危うい言葉には気をつけないと。

Shoso Shimbo

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