華道家 新保逍滄

2020年12月21日

専応口伝と異文化における生花

 


「瓶に花をさす事、いにしえよりあるとはききはべれど、それはうつくしき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまえずたださしいけたるばかりなり」

専応はこの口伝の序文で、生花の誕生を宣言しています。上記の引用は、生花誕生以前の状況を語っているわけです。花の美しさだけをありがたがっている、草木の面白さに気づいてもいない、と。そういう人々とは決別して、生花を誕生させたんだよ、と。

ふと、思ったのは、海外で華道家としている活動している私の現状と生花誕生以前の状況が似ているではないか!ということ。

ありがたいことに私は商業花の依頼もよくいただいています。この写真のような花も作ります。クライアントの満足を第一に考えなければいけません。

日本とは違います。草木の風興をわきまえていない方も多いのです。

もっと花を入れてくれ、もっとカラフルに、長持ちさせてくれ、いろいろなリクエストがありますが、生花が根本からわかっていない方がクライアントの場合、困ることが多いのです。ひどい時には、不愉快な経験をすることもあります。

生花の修養を積めば積むほど、クライアントのニーズから離れていく、時にそんな思いを持つことさえあります。これはなかなか辛い。

私の言うクライアントとは生花の生徒も含まれます。

生花の本質的なところを教えようとすれば、生徒から煙たがられる、そういうこともあります。生花の本質的なところは基本型にある、というのが私の考えです。枝物2、3本、花2、3本で生花の原理を体現していく、その辺りに生花の本質があるのではないかと。

Zoom Ikebana Dojo では、そのような試みをしています。

しかし、このブログで何度も書いてきたことですが、外国人の生徒の多くは、基本型の勉強を厭う傾向にあります。

逆説的ですが、そこにはメリットもあるかもしれません。かなり意地悪な見方ですが、外国人の多くは基本型を厭う、故に、生花がなかなか上達しない、故に、生花学習者に止まり続ける。それは日本の先生には都合が良いのかもしれません。あまりにたくさん上手な方が出てくるということになっては、先生の商売が成り立たないではないですか!生花文化の振興と、家元制度という経済機構の発展には、微妙な関係があるのかもしれません。

以前、日本の著名な華道家のデモンストレーションを当地で拝見したことがあります。色々考え込んでしまいました。当初は、ご自分の本当の最高のところは見せてくださらないのだな、厳しく言えば、手を抜いているな、と思いました。しかし、観客を草木の風興をわきまえていない方々と想定し、そうした方々にどのように楽しんでいただけるか、と考えてのデモンストレーションであったということかもしれません。

草木の風興をわきまえていない方々の中にあって、専応や専応の先人たちは道を開いて行ったわけでしょう。その苦労は、もしかすると、私たち海外で生花に関わる者にはより共感できるものであるかもしれません。


2020年11月18日

Zoom 生花道場カリキュラム:人気のない基本型

 


Zoom 生花道場のカリキュラムには基本型を含めたい、と思っていました。

このブログでも何度か生花の基本型について書いてきました。生花を外国人に教える難しさについて、ということで。

基本型を厭う生徒が多いことと、我流生花が多いこととは関係があるように思えてなりません。調和のとれた詩的な基本型が作れない方には、調和のとれた詩的な自由花は作れないはずです。実は、基本型を嫌がる方こそ、基本型をもっと練習しなければいけない!そういう場合が多いのです。

しかし、嫌がりますね。「もっと基本型をやらないといけないよ」とアドバイスしようものなら、まるで「侮辱された!」とでもいうような反応が返ってくることもあります。しつこくやらせたら、教室をやめていった生徒がいたという話もこのブログで書いたことがあります。

それにしても強調したいのは基本型の重要性。

基本型には生花の詩性の根本が含まれています。そこを体得しないことには、おかしな方向へ行ってしまうのではないか?その習得不足が、諸問題の元凶のひとつかもしれない、とまで思ってしまいます。

Zoom 生花道場のカリキュラムではレベル2で基本型を導入し、8回作ってもらいます。ここで、生花道場のカリキュラムについて、少し説明しておきましょう。レベル1、2、3と、とりあえず3段階用意しています。それぞれ8回のクラスから成り立っています。

レベル1では、生花デザイン原理、生花デザイン要素を優先した基本的な自由花。生花を学ぶということは、「花を花として見ることをやめる」ということです。初めから花の本質を見ることを学んで欲しいのです。専応のいう、花や葉の「よろしき面影」を見出し、瞑想する訓練の始まりです。

レベル2で、基本型の習得(上級者にとっては復習と発展)。レベル2になると、受講者の数が増えない、という予想通りの状況です。面白いですね。しかし、ここが一番やりたかった部分なのですが。

レベル2で使う花型に各流派の既存の基本型を使うのは問題でしょうから、自分で新たに考案しました。生花の基本型とは、多くの流派で似通っていながら、若干違うという現状であるようなので、その方針でいくつか作っておきました。説明の仕方もかなり独自の方法でやっています。それは将来的な発展を踏まえてのこと。基本型で習ったことを将来どのように使えばいいのか、ということを射程に入れて組み立てています。

レベル2は、生徒にとっても私にとっても忍耐を要する段階です。ここを通過することで、幾らかでも生花のレベル向上に貢献できないか、我流生花の蔓延を抑制できないか(大袈裟ですが!)と願っています。我流生花が流行っても、それでお金が儲かればよいという方には問題ないのでしょうが、華道文化のことを思えば、なんとかしたくなります。山根翠堂のいう「死花」ばかりが生花として溢れているというような事態は、できれば避けたいもの。せっかく取り組む以上、そのくらいの抱負はもちたいですね。

レベル2で気づくのはやはり基本型への嫌悪。特に上級者には多少自分流にアレンジしていいよ、としてるのですが、多くの方が自由型にしてしまいます。しかも、行き過ぎている場合が多い。その結果、基本型に備わっている詩性は失われています。これではなんのための基本型の復習なのか、と残念な思いをすることがあります。本当の上級者以外、きちんと復習に徹した方が生花道場の趣旨を活かすことになるでしょう。

レベル3では少し高度な自由花へのヒントを含めることになるでしょう。生徒が喜ぶクラス、というのは見当がつきます。そういうクラスもレベル3辺りには含められたら、と思います。おそらくその辺りになるとまた人気が出てくるかもしれません。

オンライン講座で成功しよう、儲けようと思ったら、人気のトピックを調べて、そういうものだけをやる方が賢明でしょう。基本型をやったり、「生花のデザイン原理とは〜」などと深入りするのは、労多く、利がすくない。そう分かっていても、妥協できないものがあります。

ともかく、Zoom 生花道場は、私にとって何かと勉強になるプロジェクトです。なかなか大変ですが。

2020年10月27日

危うい言葉


 病弱の方とか、酔っ払いとか、フラフラ怪しい足元の様子というのは、一眼でわかります。ほんの数センチでしょうが、本来の位置からはみ出しただけで、少し動きが不自然だな、危ういな、頼りないな、と感じるものです。

特定の人の言葉遣いに、同じような危うさを感じることが時にあります。何度か私の感じている違和感を説明しようと試みてきましたが、上手く納得してもらったことがないのです。すると、こんな感じを持つ人は、あまり多くはないのでしょうか?

例をあげましょうか。ある方は、ご自分の祈りとして、息を吸う時に「讃美」、吐く時に「感謝」と唱えるのだそうです。宗教的な、霊性に関わるような著作も多い方の言葉です。こんな言葉に出会うと、私は「危うい」とすぐに感じます。とくにそれが宗教的な文脈で語られる時、ほとんど拒否反応が起こります。

「讃美」「感謝」!ヒエ〜!

本当に魂から湧き出る言葉というのは、そんな教科書のような、あるいはおしゃれな、それでいて安っぽくて軽薄な流行歌の歌詞のような言葉ではありません。

危うさ。耐えがたい言葉の軽さ。さらに場合によっては欺瞞さえも感じてしまいます。

ことあるごとに名著として紹介するのは、スコッツペックの「平気で嘘をつく人たち」(People of Lie)。もう心理学では古典になっているのではないでしょうか。彼のベストセラー、「愛の精神分析」(Road Less Travelled) が、善の起源を掘り下げた著作であるのに対し、「平気で〜」は、悪の起源の探究でしょう。そこで語られる悪は、なんとも掴みどころがない。日常的に私たちの周囲のどこにでも潜んでいて、とくに犯罪になることもない。

しかし、そこにある魂の欺瞞や腐敗は、人間存在の根本のところに関わってくるように思います。見えない冒涜、沈黙の暴力ではないか。後味の悪い読後感は何十年経っても残っています。

当然、文学でもそのような問題を扱った作品があります。レイモンド・カーヴァーの短編の幾つかとか。村上春樹も多くの作品で同様の問題を意識しつつも、カーヴァーほど巧みには描き切ってはいないように思います(もちろん村上は稀有な文学者ではありますが)。両者の違いは、人間の関係性に対する態度の違いと関連があるのかもしれません。

また、哲学書を読んでみても、言葉の軽さにはすぐに気がつきます。頭で哲学をやっている人と哲学を生きている人の文章は違います。例えば、森有正の言葉の誠実さ、実直な盤石さ。内奥から紡ぎ出す言葉の重さ。内部で熟成された経験を彫り込み、他になんとも名付けようがないことを確認して、言葉を選び、定義していく。そこに立ち現れる詩性には惹かれます。

それに対し、大仰な言葉、「真実」「愛」などという言葉を軽々しく使って人を導こうというような方は、危ういな、近づいてはいけないな、と思います。

例えば、「愛」という言葉は、人がその一生を生き切って、この生が即ち自分の考える愛というものだよ、と示すような時に初めて使いうる言葉でしょう。一生をかけて定義しなければいけない言葉です。そうした言葉の重みが感得できない、精神性のかけらも分かっていない浅薄な者が安易に口にできる言葉ではないのです。

しかし、私の審美眼というか、言語感覚も確固たるものではないかもしれません。というのは、以前、ある宗教家の著作にいたく感心したのに、間も無くこの方がイカサマ師だったと分かったということがあります。実情はよく分かりません。もしかすると清廉な初心で宗教活動を始めたのに、堕ちていったということかもしれません。初めからあったペテン性を私が見抜けなかったということかもしれません。

ともかく、危うい言葉には気をつけないと。

2020年10月18日

Zoom 生花道場11〜12月の予定

 


11、12月は、基本型をもう一度見直してみようというシリーズです。

初心者にも入りやすいことでしょう。

上級者は基本型の中に含まれているデザイン原理にもう一度意識的になっていただきたいと思います。できればテキストブック・レベル!(と教室でコメントしたりしますが)の基本型を目指してください。

Zoom Ikebana Dojo

2020年9月17日

2020年9月10日

Zoom 生花道場への序論

 

Zoom 生花道場についてはいつかきちんと成果を報告したいと思っています。失敗もありますし、成長し続けるものでしょうから、途中報告と言うことになるでしょうが。

始めてから2、3ヶ月でしかないですが、いろいろな試行錯誤を重ねてきています。ですから、いけ花で、あるいは他の科目でオンライン指導を導入したいという方に、私たちの経験は幾らかは参考にしてもらえるのではないかと思います。私たちの回り道や苦労を避けてもらうということになるかもしれません。

以前も書いたことですが、気楽に始めたのです。メルボルンのロックダウンはなかなか解除されないので、ちょっと始めてみようかといった具合。

それがとんでもないことになっている、様な気がします。

ともかくよく考えさせられます。自分の能力が試されている感じがします。

特に必要なのは、2種類の思考力ではないかと思います。

一つは、コースデザイン力。指導内容をどの様に伝えていくか、と考えていく力。これには実は私が大学院でやった応用言語学のトレーニングが役立っています。ひとつの成果は新しいいけばなカリキュラムを作ってしまったことでしょうか。国際社会に適応できるいけばなの指導モデルとは?などと考えた人はおそらく今までなかったのではないでしょうか?伝統的な指導を英語に「翻訳」する試みはあっても、そこに「創造」はあまり求められなかったのではないかと思います。

もう一つは、問題解決力。と言ってもうまく言いえていませんが。問題が起こります。その原因を分析します。そこで従来の方法を改め、根本まで掘り返し、全く新しい方法を考え出す創造力、です。実は、これは私が20代の頃に起業して、ずっとやり続けるしかなかったことです。ビジネスの世界でサバイブする根本の力だと思います。と言っても私など、スケールの小さい世界でチマチマやってきたに過ぎませんが。

こうして新しいアイディアが生まれた時というのは、実に嬉しいものです。病みつきになるほどです。もちろん、それが即、問題解決につながったり、利益につながったりということにはならないかもしれませんが。この興奮は学問でもよく味わってきました。テキストの新しい解釈に気づいた時など、これは大発見だ!などと、一人で悦に入るということになります。他の方に認めていただけるかどうか、これはまた別の問題になりますが。そんなところが私にはあります。

オンライン指導を始めてみると、次々に新しい問題が生じ、対策を練っていかないといけません。それが実感です。ですから、与えられたレールの上を安穏と生きていけばいいという生き方をしてきた人には、オンライン指導で成果を出すということは難しいかもしれません。とはいえ、不器用な私たちがあれこれ考え込んだり、つまづいているところをスイスイ乗り越えてうまくやっているという方もきっとあることでしょう。そこがこの時代の面白いところ。

ひとつの大きな課題は、ZOOMをどう指導に使うか、ということ。

オンライン指導は対面指導にかないません。マイナスの点ばかりです。でも、プラスの点もあります。そこを徹底的に洗い出していきました。

私がよく考えていたのは、織田信長の鉄砲についてのエピソードです。確かに威力はあるが、火をつけてから弾丸を発射するまで数分かかる。しかも命中率は低い。これでは戦場で使い物にならない、と多くの大名が相手にしなかったものを、信長は使い方を工夫して大きな戦力にしたという有名な話です。史実かどうかはわかりませんが、ZOOMには使い方次第で、きっと鉄砲の様な力が見つかるはずなのです。

ZOOMを従来のワークショップ型の指導の枠組みの中で使っても、それを生かし切ることにはなりません。オンライン指導をいかに対面指導に近づけるか、という発想では新しいものは生まれないでしょう。オンライン指導を対面指導の「代わりに」使うという発想ではなく、対面指導とは「別のもの」と考えて、オンライン指導の特徴、強みを活かす方法を探る方が生産的である様に思います。

結局、「学ぶ」ということを突き詰めて考え、従来の学びのモデルを壊し、新しいモデルを考えるということになりました。

もちろん、ここで「そんな新しい学習方法にはついていけない」という消費者が出てくることは当然です。その問題への対処もまた難しい。

そこで、マーケティングです。新しい学習モデルができてもそれを上手にパッケージにし、様々な方法でPRしていかないことには商品として成立しません。

私たちには大きな資本があるわけではありません。主導役の私の実力、知名度もたかが知れている。出発点がかなり厳しいのです。

ナイナイづくしの中で、あるのは優れたスタッフのみ。と言っても皆、ほとんどボランティアです。「将来、お金が入るからね、多分」と説得し、あれこれと協力してもらっているのです。

驚くのは、スタッフの熱意。「こんないけばな指導プログラム、世界で一つだけだ、誰にも真似ができない、いけばなを世界に広げることになる」などと皆、大変なプライドと情熱を持って取り組んでくれています。この熱血集団のためにも、多少でもお金になってくれるといいのですが。どうなりますか。

スタッフに協力してもらったのは、まず、親しみやすい、品のあるロゴ作成。これは欠かせません。ロゴのフォントを選ぶのにも数日議論しています。そしてYouTubeの活用。ビデオ編集、SNSの活用など、私には手の回らないことが多いのです。

日本からもZOOM 生花道場への参加者があると面白いだろうなと思っています。日本語案内はこちら。


2020年8月20日

作品集 「新保逍滄2020」


 作品集 「新保逍滄2020」

ようやく完成しました。eBook - Aus$4.99

以下、右側の拡大アイコンをクリックするとサンプルをご覧いただけます。



はじめに

この作品集「Shoso 2020」は「Shoso 2016」以降の作品、2016年から2020年までの新保逍滄の作品を紹介するものです。この間の活動の焦点のひとつは環境芸術における生花の可能性の追求であったと言えそうです。環境破壊の元凶が資本主義でありながら、資本主義のシステム内でしか環境芸術は存在できないのでしょうか。純粋な環境芸術のひとつの形は「贈与」にも似た概念芸術ということになるのかもしれません。相手を決めず、報酬を求めず、できれば匿名で贈る行為。それは自然界の隅々にまで浸透する資本主義に対峙しうる最後の砦。あるいはそれを本物の精神文化と呼んでもいいのではないでしょうか。すると「贈与」は日々の生花の修練が深いところで意味するものとも似通ってくるようにも思えます。孤軍奮闘の折にふと浮かんだ想念です。

Introduction

This is the second collection of Shoso Shimbo’s work , following the first collection, Shoso 2016. It focuses on his works from 2016 to 2020. This is a significant period for Shoso’s career as an artist, expanding the possibilities of Ikebana into the areas of contemporary art, and environmental art in particular.

Shoso has been exploring environmental art from an Ikebana perspective. It is in a sense investigating Western art in the light of Eastern traditions of art.

Some traditional aspects of Eastern art can offer a different perspective on our attitudes to the environment. Art may not be able to instantly solve the difficult problems we currently face, but it can raise questions about the role of capitalism in environmental degradation.

Shoso 2020 reveals his direction toward new type of minimalism, where Japanese aesthetics are re-examined in the age of environmental crisis. Shoso is exploring the possibilities of a union between environmental aesthetics and environmental ethics.

2020年8月18日

思い出すこと:留学生として


出版予定のeBook作品集のために自分の略歴を用意していて、学歴は少し普通じゃなかったな、と思いました。自分で選んだ歩みなので私には不思議でも何でもないのです。自分の中では一つに繋がっています。しかし、日本学修士、教育学博士、美術修士と進みましたから多くの方からすると、何だこいつ?と思われても仕方ないでしょう。本物の学者は普通、一処で頑張るものですが、あちらへ行ったりこちらへ行ったりしているように見えるでしょう。自慢話になるでしょうが、少し説明してみましょうか。歳をとると自慢話が多くなるようで。

日本の大学を卒業するまでは、まあ、そこそこ普通だったでしょう。
それから留学生になりました。
東洋哲学を学士で取っていて、修士号は宗教学が第一希望でした。
しかし、どういった具合か、日本研究科に入ってしまいました。おそらく私の英語力が不足だったのかもしれません。豪州で少しの間、日本語教師をしたいという希望があったせいかもしれません。でも、日本学研究の中で宗教学をやってもいいなと思っていました。

修士に入ってみると、単位数を稼ぐ必要から自分が思いもしていなかった科目を勉強させられます。応用言語学です。日本語教師になるためには必要な科目でしたが。しかし、修士論文は宗教関係がやりたかったので、指導教官とあれこれ相談して、日本の新興宗教を社会学的に研究するということになりました。あまり乗り気ではなかったです。興味のある対象でも、方法でもなかったのですが、教官が社会学者だったのです。結果的には面白い研究体験でしたが。いろいろ状況に流されています。

社会学も応用言語学も何だかやり切った感じがしなかったのですが、修士号が終わった時、強く感じたことがあります。これが学問か!自分が学士でやったことなど、学問なんて言えるレベルじゃなかったな、ということ。

そして、修士の学生の頃、クラスメートの日本人と話しあったことも思い出します。メルボルンで最初の友達でした。日本人留学生を見てみろ。3分の1は脱落する。次の3分1はギリギリで卒業させてもらっている。でも最後の3分の1はトップクラスで卒業している。俺たちはトップで卒業しよう、と。彼は優秀な男だったので余裕でトップクラスでした。おまけに上品でハンサムでユーモアのセンスがあって、こんな日本人もいるのかと呆れたものです。「日本人にしては」英語がうまい、「日本人にしては」背が高い、「日本人にしては」ハンサムだ、俺は「日本人にしては」って言われるのが大嫌いなんだと言っていました。私にはその畏友の気持ちがよくわかりませんでした。そんなこと言われたことがなかったので。二人のアパートが近かったので、いつも通学は彼の古いカローラで送ってもらっていました。不便な立地の大学でしたので、ありがたかったです。私は英語で散々苦労しましたが、Honours(底辺レベルの)という成績はいただきました。

それから思いがけず博士号に進みます。実は変わった先生に出会い、ヘッドハンティングされたのです。「君の修士の成績は良いじゃないか、授業料免除の手続きをしてやろう」という言葉にそそのかされ彼の元へ。教育心理学者です。そこで私の博士号は教育学になります。生活のため大学で日本語教師をしていたので、やれないこともなかろうと、やるからにはベストを尽くそうということでした。ここで役立ったのが応用言語学です。この段階では永住権を取っていたのでもう留学生ではありませんでした。どうも確信は持てないのですが、永住権があれば豪州の大学院は無料ではないかと思います。

指導教官は大学の先生らしからぬ方でしたが、親切でした。
私のために奨学金の案内を取り寄せてくれ、申請しろ、と。
日本の奨学金と違い、返済不要の奨学金です。それでも私は気がすすみませんでした。
「このお金は何に使えばいいんですか?」
不思議なことを言う奴だという顔で私をみて、「生きるためさ」
「生活はできているんで、結構です」
私は事情があって生活ができる以上のお金は必要なかったのです。授業料免除だけで十分ありがたかったのです。お金が必要な学生に回してあげたほうが世のためでしょう。

私の指導教官については破天荒な話もありますが、それはまた別の機会に。私の卒業後、少しして彼は大学を離れ、民間で仕事を始めました。そのほうがふさわしい方かと思います。

博士課程でもいくつか大切なことを学んだように思います。
まず、新しく未知の学問領域に入っていく方法です。これは後に趣味で美術修士に入りますが(これも学費免除)、その際にも役立ちました。

新しい学問に入っていくには、その全体像をできるだけ早く掴むことだと思います。その学問領域の中心はここらで、全体はここからここまで、というおおよその範囲を掴むのです。私が最初に受講させられた教育学概論はその目的のためにうってつけでした。1冊の概論書をもとに、毎回1章ずつ異なる研究分野を紹介してもらいます。大学院生向けのとてもいい入門書でした。歴史的研究、社会学的研究、文化人類学的研究、心理学的研究等々。12章で大まかな全体が掴めます。

この授業で面白かったのは、毎週、論文分析の宿題が出たこと。翌週までに出版された学術論文を分析して、リライアビリティ、バリディティ(日本語訳がよくわかりません)、統計など20ほどの項目につき批判的に分析するのです。これは面白かった。学術誌に出版された論文であっても、完全無欠とは言えないのです。実際、酷いものが多いのです。私は学生としてあまり先生に褒められた記憶はないのですが、この講座の定年間際の先生には、新保は自分の教授生活で最優秀の学生だと言ってもらえました。おそらく手強い学生ばかり相手にされてきた気の毒な先生だったのでしょう。ともかくありがたい講座でした。リサーチ・メソドロジー(研究方法)は、きちんとやっておかないと道を踏み外します。

そして、博士が終わった時、ああこれが学問か、と思ったものです。自分が修士でやった事などとても学問と言える代物ではなかったな、と。自分が登ったと思っていた山を、さらに高いところから見下ろしている感じです。

こんな具合にトレーニングを積んできたので、最後の美術修士は本当に楽しくやれました。それについてはまたいつか気が向いた時に。

ただ、教育学学士、修士をやっていない人間がなぜ教育学博士号に入れるのか、芸大に行っていない人間がなぜいきなり美術修士に入れるのか、この辺は私にもよくわかりません。逆になぜ行けないのかと尋ねてもいいのではないでしょうか。重要なのは研究の方法論です。そこさえ身についていれば、どの学問でもきちんと考えていけるように思います。

2020年8月16日

2020年8月12日

彫刻:木蓮、完成しました。

 



Magnolia Flower

Designed by Shoso Shimbo & Shoan Lo
Stainless Steel, 450 x 1200 x 450

The form of this sculpture was inspired by the magnolia flower. Flowers have held spiritual significance since ancient times. In some cultures, the magnolia flower signifies an enduring true love that lasts throughout time and space. 

Based on Ikebana aesthetics, this sculpture shows the different stages of an opening flower. As the viewers walk around, the flower may slowly open before their eyes. 

Floating Petals

Designed by Shoso Shimbo & Shoan Lo 

The work represents flower petals floating on running water. This combination is one of the most highly admired poetic images in Japanese culture. It signifies both the transience of our existence and the eternal cycle of nature, our spirituality. The metal flowers come from Hiromitsu blacksmith in Izumo, Japan.

Web: Le Pine Funerals

葬儀会館への制作依頼には木蓮の花からイメージを膨らませた。古代より花は精神的な意味を持つものとされてきた。類人猿もまた死者に花を手向けたという。木蓮の花は時空を超えた永遠の愛を象徴するとする文化圏もある。非対称性を用いたことで、周りを歩くと彫刻の花が徐々に開いていく様子が感じられる。

流れの花びらは、花の刹那性と流れの永遠性(大自然あるいは精神性)の対比として日本文化史上、最も親しまれてきたイメージのひとつであろう。壁作品はこのモチーフを元にしている。桜の花弁は出雲の鍛冶職人に特別に制作していただいた。

身近な人をなくした人へ幾らかでも寄り添える作品が作れるだろうか。芸術家としてのキャリア中、最も厳しい、妥協が許されない状況での制作となった。クライアントから喜んで頂け、ひとまず安心したものです。

ポスト・モダンの方法論としては、Hybridizationにあたるかもしれません。幾つかの文化的な影響をひとつの作品に取り込んで、新しい創造を試みているという意味で。現代芸術に散見される奇抜な表現とか見すぼらしい自己表現などは、特定の状況下でそれなりの価値はあるのでしょうが、死を見つめる人の前にあってどれほどの意味があるでしょう。そのような流行を追いかけるだけの薄っぺらなお遊びは不快な障害物でしかないでしょう。

むしろ自我など滅却した職人の伝統的な仕事の流儀に倣うしかないように思えました。花が開く一瞬の生命の緊張感が捉えられないか、そこだけに専念し、それが形になっていればありがたいと思います。

2020年8月8日

生花道場 2020年8月の予定

 

日本の皆様のご参加歓迎いたします。日本語案内

15 August 2020
Special Program - Using more than 5 materials
Apply by 11 August


25 August 2020
Special Program with Mr Katayama
Apply by 11 August - New Deadline!
Mr Katayama agreed to facilitate 2 sessions on 25 August. A few more extra seats are available now.
Please apply soon. We changed application deadline because the participants need some time to prepare for this very special Dojo session.

5 September 2020
Ikebana Aesthetics Program - Line 1
Please check our post about the sessions in September & October. 

生花道場というのはかなり変わった企画だろうと思います。

海外における通常の生け花教室とは、違います。
基本的には民間の私的なビジネスです。
公的な機関でも、非営利を謳う組織でもありません。

実はたくさんの方々に御協力いただけませんかと
お願いしていますが、あまりいいお返事はいただけません。
それは仕方ないと思います。あまり儲かる話でもないですし。
素性もよくわからないということもあるでしょう。

それでも、
勝手なお願いであるにもかかわらず、ありがたいことに御協力くださる方はいらっしゃいます。時に、日本の花道界を代表するような方々から。

おそらく、いくつか面白い、独特なところを認めていただいているせいではないかと思います。

まず、ひとつは海外で生花振興を目的にしているというところ。関心を持って下さる方々は、海外での活動歴があるなど、海外での生花学習者のことを考えて下さる方であるように思います。
しかし、海外の生花学習者になんらかの関心を持つ方が日本にどれだけいらっしゃるでしょう?おそらく多くの方々にとってあまり関係ないですね。

海外の生花学習者を新しい市場として関心を持つ方もあるでしょうが、おそらく大きな花道流派の一部の方々などに限られるでしょう。また、海外進出したいということであっても、問題はたくさんあります。特定流派という家内企業の海外進出ということにとどまらず、日本の文化、生花を海外でどのように伝えていくかということになると、難しい、大きい問題がたくさん出てきます。お金だけ集めて、あとは勝手にやってくれというわけにはいきません。かなり覚悟のいることです。

生花道場にご協力いただける理由が、もうひとつあるかもしれません。それは生花道場が生花ギャラリー賞メルボルン生花フェスティバルとともに、海外における生花振興運動の一環だということだけでなく、それが、小規模ながら長く続いてきた活動の一環だとご理解いただいているせいだろうと思います。生花道場自体は新しいのですが、10年ほどの
ボランティアを含む活動実績が信用の裏付けになっているのかもしれません。そう考えると、信用というのは小さなものであっても簡単には手にできない、しかし、獲得できたなら強力な資産になると言えそうです。

とはいえ、非力の少人数が試行錯誤を続けている現状です。
様々な不理解や問題にも立ち向かっていかなければいけません。
最大の幸運は、とても優秀な方々が味方になってくれているということ。
スタッフには、いつか儲かる話も出てくるから、とか、次の世代のために捨て石になる覚悟を持ったらいいじゃないかと鼓舞しています。鼓舞になっているかはわかりませんが。

さらに、ありがたいのは、この事業を本業としてやる必要がないということ。
これはきちんと事業展開した経験のある方
はご理解いただけるでしょう。キャッシュフローの現状をみれば、ビジネスとして存続できるレベルではありません。
幸運にもそこまでの厳しさを求められません。

まあ、どこまで行けるのか。
自分の仕事も大事にしつつ、とりあえずもう少し続けていけたらと思っています。
いろいろ学ぶことも多いので、それらについてもいつか紹介していきます。

あらためて日本の皆様のご協力をお願いいたします。

2020年7月27日

孤軍奮闘 ー 作品集出版に向けて


まもなく作品集を自費出版します。
と言っても安価なeBOOK 主体なので、どれほど広く行き渡るのか、怪しいところです(ハードカバーの実物版も注文できるのですが)。
「Shoso 2020」
として、前回2016年版の続きということになります。
過去4年間の活動をまとめたものですが、私にしては忙しい日々を過ごしたものです。
時に自作を振り返ってもみるのもいいかもしれません。都市封鎖継続中のメルボルンですから、いい機会です。

反省点は多々ありますが、いくつか気付いた点があります。

まず、一つは自分の作品のスタイルができてきたかな、ということ。
それがいいことなのかどうかはわかりませんが、ともかく、全体的にクリーンな傾向が強まっているように思います。以前と比べて、より単純で、清浄な方向へ向かっているように思います。

なぜこうなったのか、と考えているのですが、私のアート系の関心の出発点には車のデザインがあったせいかもしれません。子供の頃、車のデザインを無数に描いていたものです。車を見る目というのは、かなり発達していたように思います。説明が難しいのですが、例えば、ある車の新型車が発表されたとします。それを横から見て、テールライトの位置が以前のデザインより数センチ下がっただけで、すぐに全体からして「低すぎる」と気付いたりします。そういう目というか、感覚は生け花でも生きていると最近気付きました。おそらく似たような経験は多くの方がお持ちでしょう。車でないにしろ。子供の頃の経験には不思議なものがありますね。

もう一つ、4年間の活動をリストにしてみて、ふと、思い至ったことがあります。生け花の世界から現代芸術の、殊にその環境芸術に殴り込みをかけるという無謀な取り組みをやっているのは、おそらく世界で私一人ではないか?と。自分ではそこにやむにやまれぬものを感じ、非力ながら取り組んできたのですが、「こんなこと、他の華道家の誰もやっていないではないか」と今更ながら気付き、少し愉快な気持ちになりました。だから誰にも分かってもらえないし、相手にもされないのか、と妙に納得。好きなことをやっているのだから、共感者が得られないのは当たり前、と覚悟するしかないのでしょう。

作品集には以下の活動歴を掲載予定です。孤軍奮闘のひとつの成果として、ユネスコの学術誌に環境芸術についての論文が掲載されました。次の段階への小さなステップができたようにも感じています。

「Shoso 2020」まもなく、仕上がります。ご覧いただければ幸いです。

Shoso's Activities  2016 - 2020


Group Exhibitions (Curated)  展覧会

2019 Wa ∙ Ikebana Exhibition, Abbotsford Convent (Since 2015)

2019 Sogetsu Victoria Group Exhibition, Hawthorn Town Hall

2018 Yering Station Sculpture Exhibition

2017 Yering Station Sculpture Exhibition


Commissioned Works / Special Displays (selected) 主な制作依頼等

2020 New Year’s display, Koko restaurant, Crown Hotel (Since 2009) 

2020 Sculpture commission, Le Pine, Kew East, Melbourne

2019 Ikebana performance, Suntory Roku Launch, Crown Hotel 

2019 Ikebana display, RMIT Open Day

2019 Ikebana performance with the Gregorian Brothers, Melbourne Recital Centre

2019 Ikebana performance: The way of flower, Melbourne Recital Centre

2018 Biennale of Australian Art (BOAA), Ballarat

2018 Ikebana performance, International Academic Forum, Kobe, Japan

2018 Lorne Sculpture

2016 Ikebana Display, the Snow Travel Expo, Japan Foundation  

2016 Wye River Project, Lorne Sculpture 


Awards 受賞

2019 Shop Window Competition, Melbourne International Flower and Garden Show  (2nd Place)

2017 The Arnold Bloch Leiber Prize 17th Annual Yarra Valley Arts / Yering Station Contemporary Sculpture Exhibition & Awards


Publication 出版

2020 Environmental art as public art, UNESCO Observatory, Multi-Disciplinary Research in the Arts, 6, 1.9. 

2018 Nature in ikebana: Beyond sustainability (いけ花における自然:存続可能性を超えて). International Journal of Ikebana Studies (IJIS), 6, pp. 55- 60.  

2017 Ikebana in environmental art (環境芸術におけるいけ花の可能性), International Journal of Ikebana Studies (IJIS), 5, pp. 109-113.

2016 Environmental art and ikebana, International Journal of Ikebana Studies (IJIS), 4, pp. 27-38. 


Conference Papers  国際学術会議                                                                                              

2020  Nature in Ikebana: The freestyle ikebana movement in the 1920’s and 1930’s, and its effect on Avant-garde Ikebana after the war. The 11th Asian Conference on Arts & Humanities, The International  Academic Forum (virtual presentation). 

2018 Creativity & Education: Environmental art as a vehicle of message. Central de Studii European, Facultatea de Drept, Universitatea Alexandru Ioan Cuza, Co-funded by the Erasmus + Programme of the European Union, 17 April, Iasi, Romania.     

2018 Environmental art as public art. Creating Utopia Conference, Sponsored by Deakin University, Lorne Sculpture Biennale, March 22 - 25, Qdos Arts, Lorne.  

2018 Japanese aesthetics and environmental art. The Asian Conference on Arts and Humanities, The International  Academic Forum. March 30 - April 1, Kobe, Japan.    

2017 Transition of environmental art: In search of the strategies for sustainability. The Asian Conference on Arts and Humanities, The International Academic Forum. March 30 - April 2, Kobe, Japan.


2020年7月11日

生花入門



色々な機会があるごとに生花入門レベルの雑文を書いてきました。商業誌からユネスコの学術誌まで。それらを以下のページにまとめてみました。
生け花の歴史や文化背景については、日本語でも出版物が少ないですね。井上治さん(京都芸術大学)の『花道の思想』(思文閣出版)は稀有で重要な著作です。英語となると、さらに生け花の資料が少ないですから、多少ともお役に立てるかなと思っています。生け花はただのクラフトではなく、思想的にも深いものを持っているかも?などと多少でも感じてもらえたらありがたいものです。


2020年6月17日

生花道場カリキュラム



コロナの影響もあってオンラインで生け花指導ができないか、と考えはじめました。
すでに多く方が取り組んでおられますね。
あまり大きな期待も持たず、気楽に始めたのですが、これが大変なことに!
頭を絞りに絞る、大変な時間を食うプロジェクト、生花道場になりました。

おそらくもっと楽で、いい加減な方法もあったと思うのです。
あまり儲からないプロジェクトなのだから、と割り切れば。

Zoomをどう効果的に使うか?
私が関わっている他のプログラム、生け花ギャラリー賞和メルボルン生け花フェスティバルとどう関連付けるか?
タダで教材を公開し、どこで収益を出すか?
既存の多数の流派の指導とどのように競合を避けるか(小さいプロジェクトですからそんな心配は不要なのですが)?
カリキュラムがないと教育効果が上がらない。ではそれをどう作るか?他の方がやっているように基本型1、2、3などと作っていくか?
私個人が全て取り仕切るのはなく、できるだけ早く私のスタッフに主導権を渡したい。そのためにはどのようなシステムがいいのか?
ゲスト・ファシリテーターをお招きすれば謝礼も出したい。しかし、希望される謝礼の額はみな異なる。これにどう対処するか?
結局、このプロジェクトの目標は何なのだ?
さらに、つまるところ自分は生け花で何がしたいのか?

最後は自分の存在理由まで自問することになりました。
まったくあきれてしまいます。

まずは、この生花道場プロジェクトに関する自分の考えを書き出していったところ、一つの小論ができてしまいました。英文もほぼできあがっているので、こちらも間もなく発表します。

多くの方にご協力を依頼する以上、私の意図、プロジェクトの意義をきちんと説明するのが礼儀でしょうから、これは最初に必要なことだったのです。

参加して下さる方にも説明は必要でしょう。どうも通常の生け花コースとは違うようだが、何を考えて企画しているのだろう?お金を出して参加して大丈夫だろうか?などという疑問はきっとおありでしょう。

ある専門家の方にまず読んでいただいたところ、素晴らしいとお褒めいただき、気を良くしたのですが、同時に改定すべき点を多数指摘していただきました。本当にありがたいです。過激なところは可能な限り削ったのですが、まだまだ取扱注意を要する部分がありますね。学問の世界では批判は当たり前、血も涙もない厳しい世界ですが、生け花の世界ではどうもそのようにはなっていないようです。意図せず他人を傷つけたりすることがないか、気をつないといけないようです。

おひまなときにでもお読みいただければ幸いです。リンクは2つ用意しました。


短期公開講座におけるいけ花紹介案:デザイン理論と「専応口伝」

新保逍滄

要旨

現在、日本国外におけるいけ花人口は必ずしも増大しているとは言えないだろう。いけ花の国際的な浸透を妨げている可能性のある諸要因の中から、ここではいけ花の目的とその指導方法に注目してみたい。それらが受け入れ側のニーズに合っていないということはないであろうか。オーストラリアの大学における短期公開講座でいけ花紹介を導入する際に、問題となる現状、その対策として実践している事項を報告したい。いけ花の目的としては、環境問題の深刻化から従来とは別の側面、その環境芸術としての側面に注目してもいいのではないだろうか。また、指導カリキュラムについては、伝統的な指導方法の意義を認めつつも、外国人になじみのある視覚デザイン理論を用い、基礎レベルへの案内となるカリキュラムを提示してみたい。このカリキュラムの元となる理論は「専応口伝」の洞察に近似したものであることも示したい。


2020年6月11日

ビデオ作品例:バランス1

 

見て、作って、フィードバックを。https://zoomikebanadojo.blogspot.com/

Video tutorial for our session on 20 June 2020. 
Watch, try & get feedback!

How to join?  See our post about our session on 20 June 2020.
What is Balance 1?  Our program is based on the Dojo Curriculum

2020年5月31日

災いを転じて福となす(2)



Zoom を使った生け花レッスンの構想はあったのですが、なかなか動けずにいました。何のためにやるのか、というところがはっきりしなかったのです。労は多く、益は少なかろうと。

私が生け花に積極的に関わった例では、生け花ギャラリー賞和メルボルン生け花フェスティバルがあります。どちらも小規模ながら、苦労の多いプロジェクトですが、出発点は、生徒のためということでした。現在は、おかげさまで多くの方々のご支援をいただいています。

前者については、生け花学習者が参加できるコンクールが少ない上に、競争が激しい状況でしたので、生徒が履歴書に書ける受賞経験が持てるように、生け花の生徒だけが参加できる国際的なコンクールを作ってしまえばいいという発想でした。多くのボランティアの方々に支えられて継続中です。

また、和メルボルン生け花フェスティバルも、出展の機会が少ない生徒に機会を与えるためというところから出発したのです。それがのちに成長し、世界中から出展者をお呼びしよう、メルボルンの人たちに生け花をもっとPRする機会にしようというところまで発展していったわけです。

生徒に出展の機会を作ってあげたい、受賞可能なコンクールを作ってあげたい、さて次は、指導力強化のプロジェクトを作ってあげたいと思い立ちました。

私の生徒に関しては、皆さん性格が素晴らしい。生け花の作品力もかなり付いている。受賞歴、出版歴まで一つ二つ書けるようになった。当地でプロとして通用する段階まであと一歩というところです。もう一つ必要なのが、指導力です。上手に教えられないと、生徒がついてこない、教室が成り立たない、華道教師としてやっていくのは難しくなります。

そこで思いついたのはティーム・ティーチングです。経験ある教師と新米教師が共同で授業をする。新米教師は先輩の技を盗んだらいいでしょう。とても有意義な経験になると思います。あるいは自分ならもっと上手にやれるということもあるかもしれません。

このティーム・ティーチングとZoom を使った生け花レッスンを組み合わせようという発想が出てきました。とりあえずは私と組んでもらって、二人で生徒を教える。その新人教師が一人で教えられるということになったら、バトンを渡して主導的な立場で教えてもらう、そんな訓練の機会にしたいと思ったのです。

該当する新人教師に招待のメールを送りました。ところが返事があったのは一人だけ。あとの数人はからは返事もありません。

私と一緒に教えている期間は無料だよとしたのが問題なのかもしれません。しかし、憶測はやめましょう。日本とは文化が違いますから、いろいろがっかりすることは多いのです。一人相撲ということはよくあります。とりあえず希望者一人のみと組んで始めてみようと思います。

さて、本題はここからです。
落胆はしましたが、待てよ、と。

何も私の生徒にこだわる必要はないのです。世界中から、できれば日本の著名な華道家にも指導的な立場でご参加いただければ、なお面白いではないか、と発想を変えました。

おそらくそうすることで、世界のより多くの生け花学習者のお役に立てるはずですし、指導に当たられる先生にも意義深い仕事にしていただけるはずです。謝礼の問題を含め色々な問題は出てきますが、何とかやれそうな気がしています。もちろん、うまくいかないかもしれません。それはそれでいいでしょう。

ともかく、災いを転じて福となす、です。

上機嫌で新しいウェブサイトを1日で作ってしまいました。ぜひご覧下さい。さらに、生徒として、あるいは教師として、Zooom生け花道場にご参加下さいますようお願い申し上げます。楽しい出会いもあり、気楽な雰囲気の中、英会話の練習までしていただけます。さらに、参加費用も格安となっています。お気軽にどうぞ。

2020年5月30日

災いを転じて福となす(1)


災いを転じて福となす

最近立て続けに、このことわざを思い起こすような経験をしました。どちらも難と思えたものが、とても良い結果になりました。さらに、この福は予想もしなかった成果をもたらし、私の状況まで変わってしまったと感じるほどです。

まず、一つ目は、コロナの影響で、国際郵便が停止、手配してもらっていた私の論文の資料が日本から届かないという事態に。国際学会の論文の締め切りは5月末。

もちろん、諦めてもいいのです。国際学会への参加は自主的なものです。私は大学の専任教師とは違います。気楽な公開講座「日本美学」を担当しているだけなので、大学から論文発表へのプレッシャーはゼロ。しかし、せっかく培った学術的な技術を使わないことには、自分が納得しないのです。大学の図書館使い放題という特権を活かさないといけないでしょう。世界中の論文、本の主要なものほとんどが無料でダウンロードできます。

さて、一次資料を見ずに1920年代、30年代の自由花運動について何が書けるだろうか?何も書けませんよ、実際。

しかし、疑問点はたくさんありました。なぜ、30年代、第2次大戦の直前に自由花運動が起こるのだろう?国家が戦時体制に向かっている時期です。日本華道史の中でも私には最も面白いところ。

自由花運動とは、要するに一つの文化変容です。山根翠堂、重森三玲の論争がそのピークだろうと思います。そうすると、文化変容理論で有名なPierre Bourdieuの理論を当てはめてみることはできないだろうか?

あれあれ。ぴったりではないか!

山根、重森らの思想内容はかっこに入れて、中身を全く検討することなく(資料がなく検討できないので)、彼らの立場と社会の外的要因との関係だけに注目し、さらに、戦後の前衛生け花との比較を試みると、両者の違いがはっきりしてきました。「戦前の自由花運動の開花が、戦後の前衛生け花だ」という見方が普通でしょうが、Pierre Bourdieuによれば、両者は対立関係ということになります。全く性格が違います。

あまりに興奮したので、執筆中、日本でもっとも著名な華道研究家のお一人に何度もメールしてしまいました。お忙しい方なのですが、一つ一つに丁寧なお返事をいただき、恐縮しています。

学術論文というのは、その程度の発見でいいのです。歴史的な事柄について、事実を羅列するだけの論文がありますが、実はそれは退屈な中学生の自由研究レベル。また、やたらと難しい言葉、断定表現ばかりで何を言っているのか分からない論文もありますが、それは威張りたいだけの方が書いているのでしょうか。

幾つかの歴史的な出来事がどう関係しているのか、そこにどんな意味があるのか、通説を覆すことはできないか、そこまで考えてはじめて大卒レベルの論文になります。理論がなければそこまで考えられません。

今回は、久しぶりに納得のいく論文になりました。出版されたら、またリンク先をこのサイトの出版リストに掲載します。とはいえ、正味1週間で書いた英語論文なので、いずれ猛反省することになるかもしれませんが。次の方が乗り越えていく踏み台になれば十分でしょう。

二つ目の「災い転じて」は、最近慌てて始めたZoom 生け花道場に関する出来事。長くなってきたので、それはまた、次の機会とします。


2020年5月25日

Zoom 生け花道場、次回のご案内



English Site: Zoom Ikebana Dojo (Click)

Zoom生け花道場に参加しませんか?英語で生け花を学びたい方、教えたい方、歓迎します。

2020年6月の予定(日本時間)
:
6月6日(土曜日)3:00pm - 3:40pm, 申込締切:5月30日
6月20日(土曜日)3:00pm - 3:40pm, 申込締切:6月13日

参加方法:日本語案内

2020年5月17日

Zoom生け花道場日本語案内


Zoom生け花道場の日本語案内ができました。
https://zoomikebanadojo.blogspot.com/p/blog-page.html

生け花を学びつつ、英会話も同時に練習したい、というような方にお勧めします。

何度かこのブログで書いたことがあるのですが、私のクラスはとてもいい生徒さんが多い。
わざわざメルボルンにいらしゃるまでもなく、日本から参加できますよ、ということなのですが、需要があるでしょうか。

2020年5月13日

一日一華:自分が気にいったら


配達用の生け花です。
運びやすく、贈答品らしく、
そんな心がけが必要でしょう。

さて、自分が感動すると、どうしても他人と分かち合いたくなる、というところがあります。

それは、あまり意味がないということは承知しています。
十分承知しています。
なんといっても、私は家内と映画の好みが合ったことがないのです。
自分がいいと思った映画が身近な人にことごとく否定されると、
自分の感動は誰とも分かち合えないのだと、ゆるゆると分かってきます。

それでも、いい映画を見たり、いい本を読んだりすると
他人に薦めたくなる、という欲求は抑えがたい。

多分、若い頃にいい友達に恵まれていたせいでしょう。
多分、彼らは皆、我慢強かったのかもしれないですね。
私の興奮によく付き合ってもらっていました。

で、最近、読んだ本がとても面白かったのです。
内容についてはまたいつか触れるでしょうが。
もし、関心のある分野が、日本学、モダニズム、日本近代文学、川端文学、カルチャル・ナショナリズム、ジャポニズムなどでしたら、次の本、オススメです。久しぶりに興奮しました。機会あるごとに周りの方々に薦めまくっています。用意していた生け花論を大きく書き変えることになりました。

Roy Starrs (2011), Modernism and Japanese Culture. Palgrave Macmillan.

とはいえ、こんな専門書、「そうか、自分も読んでみよう!」なんていう方はあまりいないでしょうね。分かってはいるんですが。

Zoomで生け花


Zoomを生け花指導に使えないか、と多くの方が取り組んでおられるようです。数あるインターネットを使っての指導の試みの中では、とても面白いものだと思っています。
やがては、家元制度の根幹を揺るがすほどのことになるかもしれないと、個人的には思います。

私が同時に考えているのは、指導という「教師から生徒へ」という一方的な使い方だけでなく、共同学習の機会にできないか、ということ。

ファシリテーターを一人に担当してもらう。
参加者で励ましあい、各自の勉強のペースメーカーの機会になるような使い方です。
これは難しいでしょうかね。
私が少々かじった応用言語学の方では、Cooperative Languge Learning という、グループワークの多用などで、かなり影響のあった指導方法があります。上位の力のあるものから、下位の生徒へという一方的な情報の流れ(伝統的な指導方法) を改善していく力がありました。生徒は先生からだけでなく、他の生徒からもたくさん学ぶのだということを示しました。

生け花の現状は、家元制度が強固です。それ以外はなかなか通用していないでしょう。
それが悪いとは思いませんが、それが全てだ、とも思いません。
もっと多様であっていいのでないでしょうか。

生け花の力をつけるために、本当に大切なのは自分でやること。
受け身ではいけないのです。
参加者の間で、自主トレやろう!というような空気ができると、共同学習はうまくいくでしょう。そうしたら受講料も安くていいだろう、と。
ただ修行の場で無料というのは私は好みません。緊張感がなくなります。

実は、私の中にあるモデルは、故勅使河原宏の男子専科クラスです。
私が参加した頃ですから、もうかなり昔の話。
5、6人のクラスメートの一人は假屋崎さんでした。
ちなみに彼はクラスの優等生、初心者の私は最底辺でした。

あの学習環境は特殊なものでした。
特に宏家元から何かを学ぼうということではなかったと思います。
だいたい家元からのアドバイスは、せいぜい一言、「重い」とか。
もちろん、宏家元は頂点に立つ特別な方でしたから、そこにいらっしゃるだけでありがたかったのですが。

何かを教えてもらう、というよりも、各自自分のベストを尽くす機会、と捉えていたのではないでしょうか。参加者はそうした自分の限界へ挑戦する場を求めていたようでした。

免状を取るためとか、評価を得るためとか、あれこれくだらないことはどうでもいい。
もっと、真剣に生け花に向き合っていたように思います。
修行者の集まりといった感じでした。
そんな環境が作れないか。
いつか私にもっと力がついたら、きっとうまくいくのでしょうが。
どうなりますか。
ダメでもともと。しばらくはいろいろ研究してみます。
日本からも以下の生け花道場への参加者募集中です。
一緒に考えてみませんか?



2020年5月5日

生け花エッセー連載70回達成



メルボルンの月刊日本語新聞、伝言ネットに10年近く書き続けた生け花紹介記事の連載が70回で終了しました。100回くらいまで行けそうでしたが。

一度も締切を破らなかったということが少し誇りに思えます。
日本語だけでなく英語にも訳さなければいけないので、そんなに楽ではないのですよ。

私には、多分、そういう粘り強いところがあります。
というか、途中で妥協したり、投げ出したりするのが嫌なのです。
自分でやると決めたら絶対完走する。
中学生の頃、あまり優秀でもない長距離走者でしたが、棄権したことは一度もないです。
おそらく、一度棄権してしまうとクセになるんじゃないかと思うのです。
成人してから特に苦労したのは、博士号。
これも途中で放棄する理由は、日々100以上ありましたが、なんとか乗り切りました。

ただ、エッセーの内容についてはまだまだ至らない点が多いと思います。
自分がわからないことについて書いているのですから。
生け花については知らないことばかりです。
それでも、知っていることを元にして、考えを広げていく、
仮説を作って、それを検証していく、
そうした思考の組み立て方は、訓練してきたので、
その辺りが、もしかしたら面白く読んでもらえる点かもしれません。

間違ったことを書いてもいいんじゃないでしょうか。
今の自分の知っている範囲では、こう考えられます、という態度で書いてきたと思います。それは学術論文でも同じこと。
基本的に学術論文は特定の条件、範囲内での真実に一番近いところを書くわけです。
絶対の真実ではありません。

いけないのは、知的に不誠実な文章。
知的に誠実か否か、この区別ができることはとても重要です。

知的に不誠実な文章というのは、断定表現が多く、真実、真相、絶対などという重い言葉を軽々しく使うのがひとつの特徴でしょう。「〜事件の真相」「愛の真実」「〜芸術の究極的原点」とか。安っぽいジャーナリズムに頻出するタイトルですが、学術書では滅多に使われません。

ともかく、このブログの右欄、トピックの項、「生け花私論」をクリックすると全て読んでいただけます。お暇なときにでもどうぞ。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/search/label/%E7%94%9F%E3%81%91%E8%8A%B1%E7%A7%81%E8%AB%96

英語版は以下です。
www.shoso.com.au

2020年4月19日

分からない理由:重森三玲をめぐって


都市封鎖中のメルボルンですが、私の日常は相変わらず。
半日は論文作成に、半日は生け花作成に。
いろいろあってその通りにはいかないのですが。
ともかく、論文の締め切りがあるので、研究は続けています。

先頃、探していたトピックについての論文がようやく見つかりました。
「重森三玲の作庭思想における『自然』に関する言説について」
上野友輝、河内浩志、秦明日香
日本建築学会計画系論文集(2018年)

重森は戦前の「新興いけ花宣言」起草の中心人物。
彼の思想をもっと探りたいのです。

期待に胸を膨らませて読んでいくと、これが分からない!
原典の引用、それについての論者の解説が延々と続くのですが、
重森の言葉は理解できるのに、論者の解釈が理解できないのです。

例えば、
「自然が永遠の存在であることによって、自然を基本とする庭は永遠である。
永遠を作り出す作者も、同時にこの永遠を目指しているのである。
・・・作者が何かしら永遠に生きようとしてる態度が永遠のモダンとなったのである・・・」

ここで重森は自然という形而下の存在と、永遠、あるいは永遠のモダンという形而上学を対比させて自分の美学を説明しているのです。

ところが、上野らの論文は以下のように説明します。

「重森が捉える『永遠のモダン』とは、永遠に生きられる作品を作り出そうとする作者の態度のことである」

態度?
態度ということはないでしょう。

重森の原典を熟読すれば、作者の態度が永遠のモダンとなる、つまり、態度すなわち実存的な作者のあり方が、永遠のモダンという美学に昇華されると言っているのであって、態度=永遠のモダンではありません。日本語の読解力不足レベルの誤解です。これでは重森の美学は無視されてしまいます。

さらに、1940年代、50年代、60年代に出版された彼の論説を
同一の論理上に位置付けようとしています。

数十年間に渡る重森の言説において、例えば、「自然」という言葉が、全く同じ意味で使われているという前提で分析され、結論づけられています。
これも無茶な前提です。

2日ほど、「これは何だ?」と考えました。
なぜこの論文は分からないのだろう?
こんな経験は、長年、学問の世界に片足だけつけてきた私にも初めてのことです。

結局、現在の私の結論は「この論文はひどすぎる!」。
この論者、福井大学助教授、博士課程の学生の方々には申し訳ないですが。

おそらく、彼らは意味論の基本を無視しているのだと思います。

例えば、Analyzing meaning, Paul Kroeger (2018)という意味論の入門書の冒頭では、以下の二つの違いを区別することが意味論の出発点だとしています。
sentences  vs. utterances 
文字通りの言説 対 発話
発話(日本の学会でどのように訳出されているのか調べていませんが)の意味は、その文字表現だけ見ていても分かりません。文脈を含めて理解に努めないと意味は伝わりません。

この論文の欠点は言説の文字表現だけを見て解釈を試みている点でしょう。
意味論の基本も、哲学の基本も無視した稀に見るハチャメチャな論文です。

と批判するだけなら、容易ですが、
どのように建設的に、私の論文に組み込んでいくか、
重森という巨大な思想家を私のいけばな論にどう位置付けていくか、
大変な作業です。

2020年4月14日

日本のコロナ対応が心配で仕方ない


コロナについては私は全くの素人。
それでも日本の対応の遅れは心配でした。
ようやくの緊急事態宣言。
それでも、まだ心配で、以下のような専門家の意見に共感します。

https://diamond.jp/articles/-/233957?fbclid=IwAR20Uay8DflC1kG3372TKXupiXFEaYNwDDbBUTA582CGdBlHJ7SUPUS2UKE

https://www.covid19-yamanaka.com/index.html

私は喫緊の事態については何も言えないのですが、なぜ日本ではこんな危機感の欠けたことになっているのだろうか、ということには思いつくことがあります。いずれも仮説ではありますが。

一つは、インフルエンザ類への対応とSARS類への対応が、根本的に異なるということが、特に指導層に理解されていないのではないか。感染力が全く違うのだそうです。SARSでひどい思いをした台湾、韓国、香港などは比較的に早めの対応が取れていたように思います。日本にはそうした経験がなかったということが一つの問題点でしょう。今回、一つの教訓を得るために大きな犠牲を払うしかないのでしょうか。他国のように医学の専門家を重要な政策決定に参画させるというようなことはできなかったのでしょうか。

もう一つは、いわゆる「平和ボケ」という要素はないか?「コロナ?対岸の火じゃないか。そんな忌々しい話は聞きたくない、暗い話は口にするのも嫌、もっと心楽しくなることに心を向けていたい」というような風潮があるのではないでしょうか?
これは平安時代の貴族の意識に似ているように思えます。危険、汚い、きつい仕事は他人任せ。紛争やら疫病やら忌まわしい話は口にしない、口にすると言霊が悪を呼ぶというような意識を持つ方が少なからずあるのではないか。もちろん、これも私の仮説。見当違いかもしれません。

さらに、日本のマスコミ、報道のレベルの低さ。これが今回の事態を悪化させている一因のように思えます。例えば、上記のリンクのような専門家の意見、経験をいったいどれだけのマスコミが取り上げているでしょう?海外の惨状のレポートがもっとあってもいいのではないでしょうか?

あるいは、コロナの死者数なんて大したことではないという医療関係者もあるようですから、そうした方々の意見も紹介してもらってもいいでしょう(もしかすると巧妙に論理をスリ違える、不純な動機で書かれた政治的なデマかもしれませんが。デマ記事の特徴は、ある事柄を不当に過小評価し、ある事柄を針小棒大に過大評価することです。)。

現状は、元スポーツ選手がああ言った、漫画家がこう言った、芸能人らしき人がこんなコメントをした、とか。素人の井戸端会議。ジャーナリズムとは言えません。
こんなことをやっているのでは、従来のマスコミは終わったと、間もなく多くの方が気づくことでしょう。政治批判も仕方ないでしょうが、意地の悪い、恨みを込めたような汚い罵倒の言葉での批判が多すぎます。批判する方もかなり洗脳されているのではないでしょうか。

ともかく、もっと必須のニュースがあると思います。
どうしたら犠牲者の数を最小限にできるのか、
どうしたら医療崩壊が防げるのか、
ということに焦点を当てるべきです。

さらに、マスコミ関連では、コロナについてコメンテーターと言われる方があれこれ言っていますね。その内容も私には少し気になります。
日本人は体質的にどうも感染しにくいのではないか、
日本人は衛生管理が行き届いているからひどいことにはならないだろう、
日本人は民度が高いからきっと最悪の事態を回避できるだろう、とか、
その通りならいいな、と思います。

先の大戦で、敗戦間近になっても、今に神風が吹いて事態が一変するのだ、と信じていた方があったように聞いています。それにどこか共通する根拠のない楽観主義が日本を支配しているのではないでしょうか。

2020年4月9日

外国人に生け花を教える難しさ(4)


海外で生け花を教える苦労について、あれこれ書いてきました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post_3.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/11/blog-post.html

今回はもう一つの重要なこと。あまりはっきり語りたくない方もあるでしょうが、お金のこと。お金に関して私が難しいなと思ったこと、反省したことなどを少しだけ紹介します。

おそらくお金を儲けようと、それが最大の動機で生け花指導をするという人はあまりないでしょう。第一、それほど儲かりません。他にもっと楽に儲かる方法があるでしょうね。

主要な指導動機の一つは、生徒と親しい関係、協力的な関係を楽しみたいということだと思うのです。私が、現在、自分の人生を豊かにし、支えてくれている女性三人を挙げるとすれば、母親、家内、仕事上のパートナー、となるでしょうが、四人目以降には私の生け花の生徒さんらが続きます。そうした良好な関係を長く築いていくために気をつけるべき点はたくさんあります。やはり、品性下劣、他人の悪口ばかり言っているというような先生からは誰も習いたくないでしょう。

そして、そうした先生の態度や生き様とともに、もう一つ重要なのは、お金のこと。
注意しないと生徒との関係を傷つけることにもなりかねません。
私自身、苦い思いをしつつ学んだことがいくつもあります。
生徒の方で配慮してくれ、などという態度は通用しません。
日本とは違います。

特に、指導料の設定には苦労してきました。
何度も改定しています。
どれほど苦労して詳細に決めても、どこかに抜け穴があったり、
思いもしない解釈をされたり、
生徒へのやむを得ない場合の「特例のサービス」(お情けというか配慮)のつもりが、生徒からは「権利」のような解釈をされたり。
言わなくてもわかってもらえる、などということはありえません。

生徒から誤解が出る、2通りの解釈が生じるなどというのは100%先生の責任と思うべきです。ですから私は生徒を非難はできない、自分の責任と覚悟はしていますが、難しいと思うことが多いのです。
生徒のためにと思って、サービスを与えたり、寛容になればなるほど、結果的に、期待していたのとは反対の、落胆するようなことになることが多いように思います。お金を頂く者がそんなことを言っても、愚痴にしかならないでしょうが。
海外ですから、お金に対しては厳しい方が多いのは当然。
日本と同じような態度ではいけないでしょう。

また、日本の芸道の世界では当然とされているような先生に対する敬意や礼儀は、残念ながら海外で教える私たちは享受できない、と思ったほうがいいようです。
「何を偉ぶっているんだ?正規の学位があるわけじゃない、たかが花のインストラクターじゃないか」と、実際、そこまでは言わないでしょうが、その程度の認識と覚悟することも必要でしょう。

ともかく、お勧めしたいのは、料金体系はできるだけシンプルであること。
特例やら割引やら、そうしたことは好意であっても、おそらく誤解の元。
提示した、決まった額を淡々とビジネスライクに頂く。それだけの方がいいと思います。

最近経験した問題点を一つ紹介しましょう。
少し長くなるかもしれないので、また、次の機会に続けます。

2020年3月26日

自由花における詩性とは何か?(2)


とても大きなトピックを選んでしまいました。

第1回目は以下です。

どこかへたどり着けるのでしょうか?
一般に、あれこれ難しいことをつぶやきながら、結局、何のまとまりもなく、しり切れとんぼ、などということはよくあるようです。
ブログとはその程度のものが多い。

幸い、私の場合、一つの論文程度のものにはかろうじてたどり着いていますから(拙いながら)、続けてみようと思います。時間はかかるかもしれませんが。

以下は前回書いたことへの補足です。

以前このブログのどこかでも書いたことがあると思うのですが、
生け花と芸術の違いについて確認しておきます。

生け花と芸術(具体的には彫刻など)の違いは、
俳句と小説の違いに似ています。

有名な俳句、何でもいいです。
古池や蛙とびこむ水の音
動と静の対比、見事に詩性が達成できているように思います。
その面白さ、そこに立ち現れる世界、おそらく多くの日本人が共感できるものだと思います。感性的な面白さを狙っているのでしょう。

小説とは少々目指すものが違います。
小説は意味生産装置です。

俳句 / 小説
生け花 / 彫刻

生け花とは俳句的であり、彫刻とは小説的です。
つまり、生け花が詩性を求めるのに対し、芸術としての彫刻は意味を求めるということ。
生け花は限られた場合でしか意味が問題にされないので、一般には芸術には含まれないと言っていいと思います。

しかし、ただのクラフトか、ただのデザインか、となると、その領域を超えています。

例えば、アップルのロゴ。
とても洗練された、計算されたデザインです。
ある種の詩性に近いものはあると思います。

しかし、生け花は自然素材を扱うということ、
その扱いにおいて作者の態度が表出されるというところが特徴です。
そこがデザインを超えていく部分です。
詩性が生まれる部分です。

重要なのは、作者の態度、感性。
するとそれを磨く過程、修行ということも重要になってきます。
そこに、環境美学、さらに倫理の問題も重なってくるのではないか、
そのあたりを考えているところです。

俳句が日本文化圏で発達したということと
生け花もまた日本文化圏で発達したということにも注意が必要かもしれません。

生け花を外国人に教える難しさには
俳句を外国人に教える難しさに共通するものがあるのかもしれません。

Shoso Shimbo

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