華道家 新保逍滄

2018年12月29日

生け花と捕鯨(1)


日本が国際捕鯨委員会を脱退するということです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181228-00059221-gendaibiz-pol
残念ながら国際社会において日本側の論理、言い分は全く説得力がありません。
国際社会、ことに先進国の間で嫌われ者になり、
国益を損ねることになるでしょう。

捕鯨については以前にもこのブログで書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_9.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_10.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/nhk.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_16.html

なぜ捕鯨論争で日本に勝ち目がないのか、上のポストに私の意見も書いています。
要は、国際社会では環境に対する態度においてパラダイム・シフトが起こってしまっています。「日本の捕鯨文化を認めろ、認めないお前が悪い」という主張は、相手に改宗を迫るようなもの。そう、これは宗教問題のようなもの、と思ったほうがいいでしょう。何世紀にもわたる宗教戦争でおびただしい数の犠牲者を出してきた歴史を持つ国々を相手に、「改宗しろ」と迫ることの無謀を悟ることも必要かもしれません。

捕鯨問題が生け花と何の関係があるの?と思われるかもしれませんが、
私の中では両者は大いに関係があります。

少し長い話になるかもしれません。
できるだけはしおってまとめておきます。
いつかきちんと書き直すことになるかもしれません。
覚書きとして書いておきます。

まず、先に「遊びとしての生け花(1)(2)」として、
考えたことをもう少し掘り下げておきます。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_78.html

日本の花道史の中で、集約と拡散という対立する方向性のある動きが繰り返し起こってきたということを指摘しました。

集約/拡散というのは少々曖昧な表現です。

おそらくもっと適当な言葉で言い換えられるでしょう。
集約は、制度化、構築化、格式化、規格化とか。吉本隆明なら、共同幻想と言うかもしれません(違っていたらすみません)。
拡散は、脱制度化とか。坂口安吾なら、堕落と言うかもしれません(違っていたらすみません)。

昭和初期、生け花における自由花の派生、重森三玲による「新興いけばな宣言」(1930)は、日本花道史における格花に対する拡散への志向と考えられる、と説明しました。

しかし、実は、そのように捉えるだけでは、不十分です。
世界史的な視点からも考えなければいけません。

現代の生け花のあり方にも多大な影響を与えている重森三玲や勅使河原蒼風(草月流創始者)の生け花改革は、西洋モダニズムの導入でもありました。

それは資本主義と一体となり、世界に広がった世界観。

重森三玲は生け花において「植物はもっとも重要なる素材であるのみである」と言いました。生け花は「芸術」になり、自己を表現するものとなったのです(道であったものが、「芸術」に成り下がったと言えるかもしれない)。そして、花は自己表現の材料でしかない、道義的観念、宗教的訓話などとは無関係だとしたのです。草月流、小原流など、重森の影響を受け、戦後日本で急速に拡大した花道流派の根本にはこうしたモダニズムの考え方があります。

高度経済成長の価値観とぴったりの考え方なのです。

その世界観の特長は、ピカソの言葉に端的に現れています。
ピカソといえば、モダン芸術のチャンピオンの一人。
彼が自然について語った言葉をアンドレ・モーローが伝えています。

Obviously, nature has to exist so that we may rape it!
(分かりきったことだが、自然ってのは俺たちに強姦されるように存在しているんだ)

自然は客観的な対象であり、人間のために存在する資源でしかないということでしょう。
列強が弱い国々を植民地化したように、人類が自然を植民地化して何が悪い。
鯨を必要に応じて殺して何が悪い、ということになるわけです。
花など自己表現の材料でしかない、切ろうが曲げようが好きにして構わないではないか。花がかわいそうだなんて言うんじゃないよ、と。

捕鯨推進派の自然観と、戦後拡大した花道流派の自然観は深いところで重なっているようです。

この話は以下で示唆した、新しい生け花のあり方を探る必要があるのではないか、というところへつながっていきます。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_26.html

2018年12月24日

生け花における芸術とポルノ(1)


先頃、ある花道家のデモンストレーションを拝見しました。

そのデモの主催者側の方に感想を尋ねられたので、次のように答えました。
「初心者を対象にしたデモだから、あのような内容になったのでしょう。
もちろん、見事でしたし、勉強になりました。
でも、あの方の実力をギリギリのところで発揮したものではなかったですね。
本当はもっとすごいことができる方なんですがね」

もちろん、批判などするつもりは一切ありません。
楽しませんていただいたのですから。
私などとても及ばないレベルの方です。

でも、私の本音の一部がポロリと出てしまいました。
生意気なヤツだと思われていないといいのですが。

それはともかく、自分の感じたことから疑問が膨らんできています。
もちろん、今回、デモをして下さった方のことを離れて、です。

もしかすると、花道家の中には、以前は力のこもった、それこそ「芸術」という言葉が相応しいような作品を作っていたのに、今はもう作れなくなった、という方もあるのではないでしょうか?

以前はこんなではなかったのに、今は、綺麗で商業的には好評だろうけど、はっきり言ってつまらない作品ばかりになってしまったというようなことが、あるのではないでしょうか?

それにもかかわらず、本当はこんなではないはず。
少し手を抜いているだけだろう、何か事情があるのだろう。
本当は内に変わらない芸術力を持ち続けているのだろうなどと、寛容な見方をしているのではないでしょうか?

そのようなある種、優しさのようなものが生け花の世界にはあるのではないでしょうか?
それを「ぬるま湯」などと言ってしまうと、厳しい批判のように聞こえるでしょうね。
それがいいとか悪いとかということとは別の話になります。
ただ、生け花の世界にはそうしたゆるい部分がある、と思うのです。

別の領域だったらどうでしょう?
「こいつはもう力を失った、だめだ」などとすぐに切り捨てられてしまうこともあるのです。芸術の世界は通常、そのくらいに厳しいものです。

例えば、文学。
芥川賞を取るくらいの方が、ポルノ小説に転向するということが時折あります。
もちろん、それは簡単に断じるべきではないでしょうが、
純文学に挫折したという見方が大方でしょう(註1)。

そして、ポルノを書き出した作家に対し、本当は内に純文学を書く力があるのだ、とか、いつかまた純文学の大傑作を書くだろうとは、もう誰も思わないでしょう。

つまり、生け花においても純文学からポルノに転向してしまうという方があってもおかしくないのです。もしかすると、そういう方はもう純文学(つまり、芸術としての生け花)に戻る力はなくなっているのかもしれないのです(註2)。

生け花をとりまくゆるい状況に心地よく浸っているだけでなく、
芸術として、生け花を厳しく見ていくということもあっていいのかもしれません。

(註1)ポルノか文学か、ポルノか芸術か、ということに関しては多大な議論があることを承知しています。私は単純にポルノを見下すつもりはありません。
(註2)純文学/ポルノという対立項は、ちょっと誤解を招き安い上に、例として、生け花の状況をあまり適切に捉えられないですね。純文学/大衆文学という対立項で、今回考えた問題を別の観点からいつか考え直してみます。

2018年12月23日

作品集出版に向けて(1)


2019年のクリマスの頃、作品集を自費出版しようかな、と考えています。

問題はいろいろありますが最大のものは費用。
ある出版社に問い合わせたところ、500部で280万円くらい。
安くはないだろうと覚悟していましたが、ここまでとは。

さらに、たとえ本が売れたとしても、1冊につき定価の55%は
出版社の取り分となります。

それだけ出費をする意義があるのだろうか。
ここを考えているところです。

私のお金を使うつもりですが、家内にも相談しないといけない額です。
「意義?そんなものあるわけないじゃない。お金が出て行くだけ。
それでもやらなきゃいけないことってあるでしょう。
あなた自身、きっと嬉しいはず。
だったら、やっていいのよ。
ママがたくさん買ってくれるわ」

彼女は私と全く異質な人間だとよく思いますが、
お金に関しては特にそう思います。

家内の応援にもかかわらず、
自費出版する意義があるのだろうか、と考え続けています。
一体何のために?

2018年12月16日

2018年12月10日

背伸びしすぎる生け花(1)


生け花は日本の伝統芸術のひとつ。
この点では多くの方が賛同してくださるでしょう。

しかし、他の芸術、芸能と比べて背伸びしすぎではないでしょうか?

もしそうだとすると、そこには生け花の特殊性があるように思います。
例えば、音楽、和太鼓とか三味線とか、海外でも人気です。
例えば、陶芸、木工、板画、日本画、能、盆栽などと比べてみてください。

こうした分野で修行をして、先生になったとします。
そうすると師匠とか先生とか言われるようになるでしょうが、
「教授」などという大それたタイトルを使うところはあまりないでしょう。

国内ならともかく海外では少し困ります。
英訳するとプロフェッサーですから。
プロフェッサーと言ったら、通常、大学の先生。
博士号取得は普通、国際的な著作が数十点と言うレベルです。
通常、論文一つ書いたことがない専業主婦が片手間で手にできるタイトルではありません(例外があるかもしれませんが)。
ですから、海外では、花道で「教授」というタイトルをもらっても名刺にプロフェッサーとはなかなか書けない、そこまで傲慢にはなれないという方は多いものです。

(ただ、次のような可能性も考えられます。つまり、教授というタイトルを生け花界が先に使用していて、それを学制が整うにつれ、学校制度の方が拝借したということなのかもしれません。とすれば、生け花界の方こそ迷惑を被っているのかもしれません)

また、「芸術だ、芸術だ」とことさら主張するのも生け花の特徴です。
陶芸家などには「クラフト(工芸)でたくさん。芸術なんて言わんでくれよ」
などと謙虚な方が多いものです。

なぜ生け花がこういうことになったのか。

かつては(戦前あたりでしょうか)料理、生け花、裁縫と、主婦の3つの必修技能のひとつでしかなったのです。
それが、芸術となり、街のお師匠さんが芸術家、あるいは「教授」になり、
ということになったのですね。

どうしてそうなったのか、
どのようにしてそれが可能だったのか、
そして、その弊害は何か(そう、弊害が生じていると思います!)。
生け花の歴史を勉強すると少しずつ分かってきます。

その辺もいずれお話しします。
しかし、あまりはっきり話すと今以上に敵を作りそうな話題なので、
注意しながら、気の向いた時に続きを書きます。

2018年12月4日

遊びとしての生け花(2)


前回の話の続きです。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html

道としての生け花
遊びとしての生け花

とても大雑把に言ってしまうと、上記、2つの態度が生け花にはあるように思います。
もちろん、前回考えたように、どちらも大切なアプローチ。

この対立は、よく考えてみると、華道史の中で繰り返し現れる対立や論争の根本にも関係してくるように思います。つまり、これら歴史上の対立する立場をどんどん還元していくと、根本に花は修行なのか、遊びなのか、という方向性の相違に行き着くように思います。仮にこの方向性の違いを集中/拡散という二項対立として捉えてみましょう。

この辺は私のお得意の仮説なのですが。

例えば、千利休が花は野にあるようにと茶花のエッセンスを主張しました。
これは当時の立華に対抗する投げ入れ花の主張だったと思います。
立華の集中性に対する、投げ入れの拡散性の主張と解釈できます。

つまり、千利休の言葉をその言葉だけから解釈するのでは、その真意はつかめません。その言葉がどのような文脈(歴史的、社会的)で発せられたのか、と考え、そこにある一種の攻撃性も踏まえて解釈すべきでしょう。

また、勅使河原蒼風らの自由花運動、前衛花運動は、格花などの定式化された様式の持つ集中性への対抗として拡散性を主張していると言えそうです。

さらに、生け花コンクールにむやみに抗議してくる人の言い分を聞いていると、そこには拡散性を否定する集中性への志向が伺えます(https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_19.html)。
つまり、コンクールなどという遊びの要素(拡散性)を否定したい、道(集中性)の主張と解釈できるわけです。

いずれにせよ、華道史を見ると、集中性が高まると、反動として拡散への動きが興る、そして、拡散は集中から批判される、ということが繰り返されているように思います。

この対立はどこに落ち着くのでしょうか。

遊びとしての生け花 (1)


生け花への態度について。

生け花は修行だ、道だ。日々鍛錬、精進して、高い境地を目指すもの、という考え方もあると思います。

また、一方、楽しいからやるんだ。花をいけること自体、単純に面白い。余暇にやっているから続く、そういう態度もあるでしょう。

私は前者の考え方に惹かれてきました。

生徒にももっと頑張りなさい、昇級しなさい、教える機会があれば教えなさい、機会を作ってあげるから展覧会に出品しなさい、コンクールがあるから参加しなさい、という具合で生徒を鼓舞してきました。それはそれ。
生徒は増えてきていますから、賛同してくれる生徒が多いのでしょう。

しかし、後者の立場も気になっています。

この立場にはいろいろなパターンがあります。
どの流派にも関わらず自己流でやっていく方。
あるいは流派を離脱して活動する方。
また、流派に一応所属はするけれど、マイペース。
特に昇級を目指すわけでもなく、
師範になることにさほど魅力も感じない。
誰が上手だなどということにもさほど関心はない。
花を通して人生を語ることもない。

でも、花をいけることは楽しい。
自分の人生を精神的に豊かにしてくれる。
だからやめられない、疲れない、息抜きになる、癒しになる。
このような花との関わり方も大切にすべきだろうと思います。

高い境地、深い洞察、それらを体得する喜びだけが生け花の目的ではないでしょう。遊びでやってもいいはずです。ゆる〜く花と関わっていくのもいいと思います。花をいけることには遊びの要素もあるわけですから、その楽しさを大切にしていいはずです。

ゆる〜いアプローチから味のある花、魅力的な活け手も生まれてくる可能性があるように思います。

もしかすると、どちらのアプローチであれ、突き詰めていけば(ここが大切なところでしょうが)、最終的に到達できるところは案外近いのではないか、とも思っています。

2018年12月2日

2018年12月1日

生け花ライブ



生け花に関してはいろいろなことをやっています。
実は、そのほとんどは方便だと思っています。

生け花ギャラリー賞を運営しているのは
賞を取ることを奨励してるのではありません。
その他にもいろいろな見方があるでしょうが、
根本のところでは、生け花学習者の動機付け、サポートを目指しています。

生徒には、商業的な機会は積極的に掴みなさい、
教えられる状況になったら教え始めなさい、と言っています。
それも、お金を得ることが目的ではありません。
生け花を長く、継続的に続けるために役立つと思うからです。
長く続けないと生け花の本当の目的を感得できないでしょうから。
お金が入ってくると、やはり続くのです。

生け花はお金や名声を得るためにあるのではないでしょう。
根本的には、生をいくばくか豊かにするためのもの。
それだけです。
そこに気付いて貰えば十分です。
できればより多くの方に。

生け花展やら生け花フェスティバルやら
またまたパフォーマンスまで、いろいろやりますが、
それら一つ一つがそれ自体で目的だということはなく、
結局、皆、方便なのです。

2018年11月26日

生徒への感謝と生け花への妄想


外国人の生徒に生け花を教えるのがいかに難しいか、
などということとをあれこれ書いてきたのですが、
実は、それは本当に小さなこと。
http://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post_3.html

私の生徒はすごいなあと感心することが、ずっと多いのです。

もちろん、日本とは違いますから、例えば、制作協力を依頼しても、駆けつけてくれる人の数には限りがあります。その他、日本の華道教師が当然のこととして享受しているようなメリットは享受できないことが多いです。しかし、それも小さなこと。

なんといっても、熱心な生徒さんが多い。
しかも和気藹々とやっています。
これほど教師にとってやりやすいことはない。
とてもいい雰囲気で教室が運営できていますから、生徒が増え続けるばかりです。
ありがたいな、といつも感謝しています。

今月で、2018年度のレッスンも終了。来年2月まで約3ヶ月、休暇です。
昨晩、上級者向けに宿題のリストをメールしました。
3項目ほどあったのですが、その一つは、
生け花ギャラリーに投稿すること。
https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

すると、該当者のほぼ全員がその日のうちに投稿。
なんという真面目な方々なのだ!

彼女らをどうサポートしていくか。
そんなことを今考えています。

海外での最大の問題はマーケットが小さすぎるということ!
生け花をいくら修得しても、それが収入源になるということは難しい。
生け花を学ぼう、生け花の装花を依頼しよう、などというニーズが少なすぎるのです。
これは現実的な難問。
私の生徒がいくら上手になっても、個人ではこの壁はなかなか超えられないでしょう。

解決策は、生け花の普及、定着。
これには大規模な戦略が必要です。
既存の組織などは成果をあげていないのですから。

今考えているのは、メルボルン・生け花・フェスティバルの開催。
メルボルンを海外における生け花の首都にしよう!などと豪語しています。

ここで、一つのパターンができたら、これを世界規模で拡大します。
例えば、シンガポール・生け花・フェスティバル
アムステルダム・生け花・フェスティバル
ニューヨーク・生け花・フェスティバルなどというのが世界中にできてくる。
これを一斉にやってみる。
国際生け花・デーなんていうのができるかもしれない。
生け花の認知度は一気に上がります。
生け花教師への需要もぐっと増える。
ここまでくると妄想ですが、そういうことを考える人も必要でしょう。

現在、地球環境が壊滅的なことになっています。
人類最大の危機が迫っています。

自然との関わりを再考しなければいけない時期にきています。
この人類的な課題に、一つの示唆を与える要素が生け花にあるのでは?と感じています。
自然=資源という近代資本主義社会の自然観を超えた自然観が、そこにはあります。

間もなくユネスコの学術誌に書いた私の論文が出版されるようです。
そこでも、そのような生け花の環境芸術としての可能性について書いています。

今こそ生け花をもっと普及させなければいけない、ということです。

2018年11月23日

生け花ギャラリー賞:生け花とコンクール


生け花とコンクールについては、いつか歴史的な見地からもきちんと書いてみたいなあと思っています。

今までも以下のようなことを考えてきました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/06/blog-post_21.html
http://ikebanaaustralia.blogspot.com/p/faq.html

生け花とコンクール(競争)はどうも相性が良くないのでしょうか。

私は現代芸術の方が主な活動領域です。ついでに生け花をやっているようなところがあります。現代芸術の方から生け花を見ると、おかしいなあというところがたくさん目に付きます。そのひとつが、コンクール、賞、競争に対する態度の違い。

もちろん現代芸術には賞もコンクールもたくさんあります。多くの人がそこへの入賞を目指していますが、また、落選したとか、希望がかなわなかったしても、それは芸術家にとっては当たり前のこと。誰でも失意は経験するもの、とサバサバしたものです。でないとやっていけないのです。ある意味で、競争(あるいは批評)に対してとても成熟した態度を持つ方が大半です。

ところが生け花ではどうもそういうことにはなっていません。生け花は芸術だと一方では主張する。そう主張している本人が、芸術にはつきものの競争(そして批評)を毛嫌いするというところがあります。歴史的にもそのような例があります。

もちろん、競争には長所も短所もあります。また、競争を否定することにも、長所、短所があります。それを踏まえて、競争のプラス面を楽しんでいいのではないでしょうか。競争を毛嫌いする人は、競争に対する態度が未熟なのではないか?未熟な競争心が強すぎるのではないか?それが私の仮説です。

私たちも生け花学習者向けのコンクール、生け花ギャラリー賞を運営していますから、毛嫌いされる、批判されるということが時にあります。さらに、卑劣な方法で攻撃してくる人まであります。情けないものです。対抗処置として署名運動を始めました。実のところ、趣旨は、生け花に卑劣さは無縁だと間接的に訴えたいのです。早く大人になって、一緒に楽しんだらいいではないか、それが無理なら、どうかお構いなく、と言いたいところです。ご協力お願いいたします。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_19.html


2018年11月19日

フェースブックをより安全に、より賢明に


署名ご協力のお願い
フェースブックをより安全に、より賢明に!https://www.change.org/p/facebook-make-facebook-safer-wiser
 フェースブックは、オンライン上のいじめ、嫌がらせなどへの対策として、使用者が不愉快だ、嫌がらせだなどと感じた場合、フェースブックへ報告できるシステムを導入しました。報告されるとそのポストは直ちにフェースブックから削除されます。
 効果的である反面、悪用される可能性も否定できません。そのような迷惑を被ったものとして、事態の改善を求めたいと思います。
 私どもは2012年からオンライン上での国際生け花コンクール、生け花ギャラリー賞を主催しています。運営スタッフ、国際的な審査員共々、ボランティアにて生け花学習者のサポートになればということで続けています。
 2018年8月に本年度の受賞者をフェースブック上で発表しました。その報告は2万人ほどの方々に届いたのですが、間もなくファースブック上から削除されてしまいました。
 再度、ブログ上の結果 http://bit.ly/IkebanaAward18 を、フェースブックに送信しようとすると、次のようなエラーメッセージが出ます。
 警告:このメッセージは禁止された内容を含んでいます。フェースブックの他の方がアビューシブ(悪態、誹謗)だと報告しているからです。
 私たちのポストは、励ましと感謝の言葉ばかりが並んでいるのですが。 http://bit.ly/IkebanaAward18
 フェースブックに3度にわたって報告しましたが、事態は改善されていません。
 なお、同時期に生徒作品の写真も突然削除されました。こちらはフェースブックに報告後、回復しました。
 フェースブックに期待したいのは、以下の2点です。
1、2018年度の受賞者報告を回復してほしい、
2、フェースブックへの報告機能が悪用されないよう改善してほしい
 この署名活動は、生け花の世界で私たちが経験した出来事を、日本、世界各地で生け花に関わる多くの方々と共有したいために始めたものです。以下のリンクからぜひ署名にご協力下さい。

We understand that Facebook is working hard against online bulling, abuse or harassment. However, we would like Facebook to work harder in this regard. 
If someone does not like a post, she or he can report it to Facebook as offensive or abusive. Then, Facebook immediately removes such a post. That’s sound like a good system. But what happens if someone abuses the system to harass others anonymously? That’s exactly what happened to us. 
We have been running an international online ikebana flower competition since 2012. All of our administrative staff and internationally renowned judges are working hard as volunteers simply to encourage and support ikebana students around the world. 
We posted the result of the this year’s competition in August 2018. http://bit.ly/IkebanaAward18 The post reached about 20,000 people. But shortly after the announcement the post disappeared from our Facebook page, facebook.com/IkebanaGallery/.
When we try to post again, we get this message - “Warning: This Message Contains Blocked Content. Your message couldn't be sent because it includes content that other people on Facebook have reported as abusive”.
As you can see, our post is full of encouragements, good will and gratitude. http://bit.ly/IkebanaAward18
We have reported Facebook this case three times, but no improvement has been made.    
Around the same time, our photo albums of the students works were also deleted from our Facebook page. We reported it to Facebook and they came back shortly. 
We would like Facebook
1. to bring back our post announcing the results of the competition, and 
2. to put in more checks and balances so that the system will not be abused in this way in the future.   
We started this petition to let ikebana lovers in Japan and all other parts of the world know about this unfortunate case and encourage them to unite for a better ikebana world. 
We have asked the Headmasters of all major ikebana schools in Japan, Ikebana International and other ikebana related organisations to support this petition.    

2018年11月1日

外国人に生け花を教える難しさ(2)


外国人に生け花を教えるのは難しいという話の続きです。
前回の話は以下です。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post_3.html

今回は特に難しいと感じている生徒についてです。
つまり特殊なケーススタディ。外国人全般に当てはまるわけではないでしょう。

この生徒の作品は
ともかく強いだけ。
ともかく花がどっさりあるだけ。
そこにはポエトリイがないのです。

そこで、私の対策は、基本形の徹底復習。

基本形を選んだのは、この生徒の問題の核心が、
バランスのおかしさ、
間のおかしさ、
調和のなさ、といったことで、基本が身についていないということだったからです。

おそらくその方針は正しいと思います。
その方針が有効だった生徒も出ていますから。

10回位やってもらおうとしたのですが、とにかく抵抗します。
「今回は基本形の中でも、その応用形をやる」とか、
「今回は特別な花器を使う(基本形には不適)」とか。

とにかく一番単純な基本形!
皆が一番最初に習うシンプルな基本形を完璧に作ってくれと
言っているのですが、聞いてくれません。

これはなんだろう?

どうも、この生徒にとって基本形を今更やらされるというのはプライドに関わることであるようなのです。性格的に少し特別なところがあります。周りの人を圧倒し、すごい!と思われることに喜びを感じているようです。
さらに、この生徒は、基本形を美しいとは思っていないようでもあります。

基本形には生け花の美しさのすべてがあります。
そこを身につけないことには、まともな生け花が作れるわけはないのです。
実は基本形はとても難しいのだよと説明してもなかなか聞いてくれません。
この生徒にとっては自分が美しいと思うものしか作れません。
それはシンプルな美しさを持つ作品ではなく、
ともかくゴテゴテ、やたらうるさく、強いだけの作品なのです。
自分、自分、自分で溢れかえっています。

ふと思いました。これはお手上げだ、と。

生け花は人間修行だと言われます。
謙虚さのない人、傲慢な人には無理です。

生け花に求めるもの、つまり学ぶ動機が違うのです。
他からの賞賛や、自分の劣等感の補償を求めることだけが目的では、
生け花の本質には到達できないでしょう。

日本人が数世紀をかけて作ってきた美の基準、そこへ至る方法。
まずは、それに敬意を払うこと。
自我流の入り込む余地はないのです。
特に、初心者にとっては自己を滅却してお手本を真似しつつ
基本を身につけることが最優先。
無私の境地です。

先生の言葉に素直に従うことも大切です。
我が強すぎないほうがいいのです。
ここは日本人が得意とするところかもしれません。
しかし、そういう態度が身についていない人には難しいでしょう。

そうして基本形とともに、
基本的な生け花の原則を身につける。
そのあとで初めて、自由形を楽しんだらいいのです。

基本形などつまらん、自由形だけで行こうというのなら、生け花など習う必要はないのです。
教えるのが大変です。これが結論。

しかし、さらなる問題は、話がここで終わらないということ。

実は、上記のような自我流の生け花作品を作り続ける人が海外には少なからずいます。
面白いことに、それが評価されたり、
お金を払う人があったり、
時に何かの賞を取ったりします。

日本でなら自我流では評価されず、いずれ淘汰されてしまうでしょう。
しかし、周囲も生け花とは何かよくわかっていない状況ですと、
自我流生け花も淘汰されず、ああ、こんなものかと受け入れられるわけです。

しかし、それが悪いことでしょうか?

おそらく、通常の基準からすれば、生け花とは言えないでしょうが、本人は生け花だと主張します。日本の流派から師範やらなにやらの肩書きを手に入れたりもします。周りの方も評価します。

とすれば、放っておくしかないのではないでしょうか?
(たくさんの人に教える立場になって欲しくないなあとは、こっそり思いますが)

「こんなの生け花じゃない」などと言えば、喧嘩になるでしょうし。
(そういえば私もよくそんなことを言われますが)
他人が評価を得ているのに、ケチをつけるようなことは人間として恥ずかしいことでしょう。

また、時に、そうした方が、とても味のある作品を作ることも稀にあるのです。

海外における生け花の状況はなかなか面白いのです。

2018年9月17日

役者脱落宣言


前回のポストで私が好きなLove Actually について書いたところ、
思いついたことがあります。

私が役者への夢を完全に諦めた出来事。

役者になろうなどと本気で思ったことはないのですが、
オーディションに来ないかと声をかけられ、出かけて行ったことは3、4回あります。
なかなかギャラがよろしかったのです。

しかし、その最後のオーディションでのこと。
最後というのは、もう2度とオーディションへなど行くことはないでしょうから。

日本の航空会社のコマーシャルのための制作でした。
セリフはなし、経験不要ということでした。
これは私にぴったりだと思ったのですが、行ってみると、要求は、
「君は、日本の禅僧だ。日本庭園を作っている。作り終えた時、自作の庭を眺め、至福の表情を浮かべてほしい」。
これをカメラの前でやるのです。

3回やりました。
諦めました。

私がニコリと笑っても、視聴者は私が自作への満足感を表していると感じ取れるでしょうか?変なこと考えているんだろう、くらいにしか思われないでしょう。

考えてみると、果たしてプロの役者でもセリフなしで、そんな表情を作れる方がありますか?笠智衆さんくらいでないと無理ではないでしょうか?

役者さんの大変さが少し分かったように思うのです。
半端な気持ちでやれる仕事ではないのです。

Love Actually 礼賛


私は映画はあまり見ません。
DVDコレクションも20本も持っていないでしょう。
(もっとも最近、これらに加え、「男はつらいよ」全巻取り揃えましたが)
それでも幾つかの作品は、年に1回くらい繰り返し見ています。
その一つは、Love Actually。

日本でどのような評価がされているのかと思って、
幾つか映画評を読んでみました。
共感できる映画評がありませんでした。

この作品はとてもおしゃれです。
成熟した、大人のコメディ。
これを日本人が作れるか、と思うとまず不可能でしょう。

日本で名優とされる方々は、多くは眉間にしわ寄せて人生を語ったり、
怒鳴ったりというような役が多い。

コメディと言っても、ボケとツッコミのやり取りが多く、
どうもいじめの文化かなあと思ったりします。

例えば、Love Actually のヒュー・グラントのキャラクター、
私は大好きなのですが、これを演じられる人は、まずいないでしょう。
ユーモアがあり、冗談がうまく、
自分の状況をちょっと距離を置いて眺めて、やれやれと溜息をついたり。
そこに人柄の良さ、誠実さ、余裕、人生への態度が現れる。

おそらく、最近、亡くなられた樹木希林さんはそんな役が演じられる稀な方じゃなかったかと思います。思いがけず、樹木さんとヒュー・グラントが重なってしまいました。
素人の思いつきですが。

2018年9月3日

外国人に生け花を教える難しさ



以前、「生け花上達のコツ」ということで書き出したところ、外国人に生け花を教える難しさ、という話に変わっていったのでした。今回はその話の続きです。

https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/08/blog-post_9.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/08/blog-post_13.html

草月流の場合、5冊教科書があり、1、2冊目は基本型、以後、自由花ということになります。おそらく、日本人にはそれでいいのでしょう。私のクラスでも日本人の場合、あまり問題はありません。

しかし、外国人の場合、このカリキュラムでは5人に1人くらいしか目的のレベルに到達できません。もちろん、これは私のクラスでのことであり、私の指導力不足という限界があるのは承知していますが。

自由花に入っていくと、多くの生徒がおかしな作品を作り出します。しかも、その生徒独特のクセのようなものが毎回表れます。貧弱だったり、色使いが混乱していたり。単に力強いだけだったり。結局、基本が身についていないのでしょう。私が生徒に与えるコメントは、以下のようなものが多くなります。

「綺麗な作品だね。でも、綺麗さを作品の目標にしてはいけない。生け花の原則に則って制作しましょう(これは綺麗な作品だけど、生け花と言えないよ)」

「生け花は数学だ。日本の美学は数学だ。君の作品のどこに数学があるんだ」

「弱い!君は瞑想していない。花と君の間に大きな距離があるんだ。もっと花と話しなさい (だんだんイライラしてきます)」

「花でお遊びして何になる。なんのために生け花やっているんだ!」とまでは、直接は言いません。だんだんコメントが厳しくなっていくのです。

私の生徒作品はフェースブックに紹介していますので、よければご覧ください。
https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

そこで対策です。2つほど考えて実践しています。
効果はまだわかりませんので、詳しくは紹介できません。

ただ、ひとつは基本型の徹底復習。
これは不評です。やりたがりません。

しかし、完璧な基本型を作れれば、かなり効果があるのではないかと思っています。
そのような基本型を持てることが流派の最小限の存立条件でしょう。

ともかく、だまし、だまし上級者(実力での上級ではなく、カリキュラム上の上級)にも基本型の練習をさせています。
結果がどうなるか、いずれ報告できるでしょう。

補記:もしかすると、外国人(ことに西洋人)への生け花指導の難しさには、自然観の違いが根本にあるのかもしれません。日本人の神道的な自然観 (自然を客体視しない)への共感が生け花の修得には必要になってくるのではないか、これは大きな、そして、かなり魅力的な仮説です。



2018年 生け花ギャラリー賞


2018年度の生け花ギャラリー賞が発表になりました。

ご察しいただけるように、このプロジェクト運営はなかなか時間がかかります。

生徒作品ということで、まだまだ不十分な作品が多いのですが、
それでも生徒にとっては数万人の方々に自作を見てもらえる機会となる、
さらに
国際レベルの審査員(日本で最も著名な美術館長、兵庫県立美術館長蓑豊先生を含む)に作品を見てもらえる機会となる、

しかも、それが無料。

それらは、やはり華道史上意義あるプロジェクトと評される根拠でしょう。

それに、選出された生徒の喜び!ときたら大変なものです。

「生徒への励まし、生け花を学び続ける動機付けになれば」ということで始まったプロジェクトですから当初の目的は達成できているように思います。関係者の努力も報われるというもの。

そして、毎回いろいろな課題が出てきます。
それらについてはまた別の機会に話しましょう。

さらに、相変わらず抵抗勢力の嫌がらせは続きます(笑!)。
そこには生け花の特殊性があるように思います。
例えば、絵画コンクールとか、音楽コンクールであれば、
このような嫌がらせはないだろうと思います。

海外の方々からは、「生け花とは審査されるべきじゃないだろう」、「賞が生け花に関係あるか?」とか、私たちのフェースブックに書き込まれます。生け花になると、権威主義的な発言をされる方が多いと感じます。

もちろん、異論を持つのも、反対意見を持つのも自由です。しかし、私たちの結果発表に合わせて嫌がらせを書くという心性は普通ではないです。受賞者、おめでとう、ご協力いただいた方々、ご苦労様、というムードの中へ水を差すような書き込みをするわけですから。話して分かり合える相手ではないでしょう。こういう方に限って「生け花マスター」などと自称されていることが多いので手がつけられません。

私もこのプロジェクトの意義をあれこれ書いていますが、一人一人相手に議論するつもりもありません。そこまで暇ではないのです。

また、日本の生け花の教師、生徒からは静かに無視されています。
海外発の賞である、超流派の賞であるなどいろいろ事情はあるでしょうが
日本の生け花のあり方の一面を反映していると思います。
各流派主催のコンクールですと、上からの意向にしたがって参加すればいいのですが、
自分で判断しなければいけない要素があると慎重になるのかもしれません。
しかし、いずれ状況は変わってくるだろうと楽観視しています。

このような経験を通して、結局、生け花とは何か?
なんのために生け花をやるのか、その最大公約数は何か?
と個人的に考えているところです。

問題は生け花が容易に金や名声に結びつくというところにあるのではないでしょうか。

それを最大に利用しているのは、家元制度、流派という組織かもしれません。
もちろん、それが悪いなどと言うつもりはないです。
日本文化に特徴的な現象で、興味深いものです。貢献度も大きいでしょう。

ただ、生け花の本質はもしかすると、そんなところにはないのではないか、とも思うのです。
生け花は魂を磨くための一つの技術です。
自分のためだけに日々修練していければいい。
それだけのものだと思います。

2018年7月27日

生け花ギャラリー賞決勝進出の条件


私たちの主催する2018年度生け花ギャラリー賞の準決勝15作品が7月に発表になりました。

この15作品は過去1年間に生け花ギャラリー・facebook に投稿された作品から選ばれます。

選ぶのは生け花ギャラリー賞委員会メンバー。全員師範を有する生け花教師。世界各地の先生がボランティアで協力して下さっています。そしてこの中から5作品が決勝進出です。私たちの審査員の先生方に送り、審査していただくのです。

この5作品の選出には、私たちの審査員の一人にご協力いただいています。日本の生け花研究家としてはおそらく最高レベルの方です。この選出はかなり難しい作業だと思います。選ばれた作品をみると、先生がとても慎重に選んで下さっていることがよくわかります。なるほどなあ、といつも感心します。結果は、まもなく発表になりますので、facebook あるいはブログにご注目下さい。

「上手くまとまっているというより、世界観のようなものがある作品が今後の伸びしろがあるのではないか」というコメントを、今回、先生からいただきました。

ここには注意すべき点が幾つかあります。

ひとつは、「上手くまとまっている」ことのもろさ、です。生徒作品ですから、初心者の作品と言っていいと思います。初心者でも上級者のある部分を真似て、それなりのまとまった作品を作ることができると思います。学習上は必須の過程です。しかし、それだけでは決勝まで行けないということです。

そのような作品には欠けているものがあります。
先生はそれを「世界観のようなもの」と表現されました。

私は、それは瞑想性ではないかと思います。最近、生徒作品を見ていてよく感じることは、瞑想を経ているかどうかが作品に生命が宿るかどうかを決める、ということです。

制作の過程で、素材をしっかり見つめ、素材と語り合い、素材を生かしているか、ということです。表現は難しくなりますが、様々な方が同じようなことを色々な表現で語っておられるはずです。

本当に瞑想し、悩み抜いて、作られた作品は判ります。

同時に、とにかく綺麗に仕上げようとか、人を驚かしてやろうというような意図で作られた作品、細部への配慮が欠けた軽率な作品、というのは安っぽくて、見ていてイライラしてきます。

その次元を突破していただきたい。

おそらく、生け花が瞑想だというような経験、生け花の喜び、というのもそこら辺にあると思います。なんとか、師範取得前に、そのような境地を体得して欲しいと思います。時間はかかりますが、そこまで到達できた方でないと、生け花ギャラリー賞決勝進出は叶わないでしょう。

今回書いたことはいつかもう少し掘り下げてまた考えてみます。

2018年7月18日

ワークショップの目的


Ikebana Workshops

Shoso Shimbo and his students conduct Ikebana workshops at a special price.
Book early. Number of tickets are limited.

When: 7 October 2018
Where: Breakfast Parlour, Abbotsford Convent, Melbourne
$35

Details

先に、生け花教師には技術指導だけでなく、指導力指導も必要ではないか、と書きました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/07/blog-post.html

指導力のない生け花教師に将来はありません(ちょっと言い過ぎか)!
教え方が下手では、生徒が増えない、教える機会が減る。
教える機会が少なくなると、生け花も生活から遠ざかります。
どうしても生け花に費やす時間が減っていきます。
その結果、生け花の上達も限られるのです。
10年、20年かけて先生方を見てみればそういう結論になります。

私の生徒から力のある教師を育てたい。
すると指導力指導にも力を入れざるをえません。
10年、20年計画です。

指導力指導の一環として、まもなく開催する生け花展でワークショップを同時開催し、
私の生徒たち(新人教師、上級の生徒)に指導実習をしてもらおうと思っています。
いろいろ配慮する点があります。

料金も適当に設定しないといけないでしょう。
高すぎては満席にならず、また文句も出やすくなる。
安すぎては赤字になる。ビジネスマンと自負する私には赤字のオプションはありえません。
限られた時間内にたくさんの生徒に指導の機会を作るため、少人数クラスとし、多数のセッションを設けます。定員9人のクラスを8回予定しています。
新しい生徒獲得と、新人教師、教師予備軍の実習という二つの目的を持っていますから。
参加した生徒(クライアント)にはアンケートに答えてもらい、良かったところ、改良すべき点をフィードバックしてもらいます。きついコメントがあるかもしれません。お金を頂く以上、覚悟しないといけません。

私の生徒たちも大変ですが、どうなるか、楽しみです。

2018年7月16日

2018年度生け花ギャラリー賞準決勝


恒例の生け花ギャラリー賞、準決勝進出作品が発表となりました。ぜひご覧ください。
https://ikebanaaustralia.blogspot.com/2018/07/semi-finalists-for-ikebana-gallery.html
Facebookは以下になります。人気投票も受け付けていますので、よければご参加ください。
https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

この賞創設の意図についてはあちこちで書いています。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/05/blog-post_28.html

最大の動機は、生け花をキャリアとして取り組んでいきたいという方を助けたいということ。
特に、海外では、生け花で幾らかの収入を得るということ自体、なかなか難しい。
海外で生け花をキャリアにできるという人は極めて少ないのです。
幸運にも、私はその一人です。
とはいえ、日本とは状況が違います。
私の活動範囲はおそらく日本の一般の生け花教師よりはるかに広いでしょう。
私の状況については、別の機会に書くことがあるかもしれません。

ともかく、

私は、海外で生け花で収入を得る人がもっと増えてほしいと思っています。
教室を運営するのが一般的でしょうが、そのような形でいいですから、生け花で稼いでほしいと思っています。

なぜか?

それが生け花を人生の一部として、継続させるきっかけになるからです。
上達し続けるためにも、実際に指導していくということが大切だと思っています。
生徒にもそのように説得しています。
商業的な機会を積極的につかめ、と促しています。
そんなことを言っているのは私くらいでしょうが。
それには理由があります。

私は海外で生け花が上手だなと関心した人々に何人か会っています。
しかし、同時に、数年経つと、生け花をやめていたり、
ちっとも進歩していなかったり、
そういう人が多いのです。

それに対し、以前それほど上手とも思えなかった方が、
数年でとても進歩していることもあります。
そういう方は決まって、指導などの活動をされています。

生け花の上達には時間がかかります。
その長い修行を継続させることはどうしたら可能か?
最もてっとり早いのは生け花が幾ばくかの収入源になってくれること。

そこまで考えて、サポート策を考えている生け花教師は、おそらく私一人かなと思います。私への共感者、賛同者が全くないですから(私の側近教師たちを除いて)。私を批判する人はありますが。
「俺はあなたの10年後を心配して、言っているんだ」
なんてアドバイスする先生はあまりいないのでしょうね。

本当は各流派が検討すべき問題です。

しかし、そこまで取り組んでいる流派は一つもありません。
海外会員を収入源としか見ていないのではないかと思うこともよくあります。
海外会員を増やしたいと意図した活動は散見します。
しかし、海外の事情を踏まえて、自立をサポートするまではいっていません。
趣味として生け花をやる人を開拓しているだけです。

おそらく、海外に最大の生け花学習者を抱えているのは草月流でしょう。
大手の草月流がこの問題について動いてくれたら素晴らしいでしょうね。

ともかく、

私の意図は、「生け花ギャラリー賞受賞」と履歴書に書ける生け花学習者、教師を増やしたいということ。

それが生徒を集めるのに役立ったり、
コンクールに出品する助けになったり、
制作依頼を得る助けになるのではないか、
それらが最大の効果でしょう。

さらに、受賞者は自信をもてるはずですし、
生け花にもっと精進しようという方が多く出てくるのではないか。
そういうところも目指しています。

 そして、もうひとつ。

今後、取り組みたいのは、生け花教師の指導力をどう伸ばすか、という問題。
技術はある、しかし、指導力がないという教師は問題です。

技術については、各流派、いろいろな取り組みがあります。
しかし、指導力については、どうでしょう?

「素晴らしい作品を作る。しかし、教え方が下手すぎ」という先生より、
「多少、技術は劣る。しかし、教え方がうまい」という先生の方が
実際には、生徒数も増え、生け花文化拡散には効果的なのです。

しかし、「海外での指導」となると言葉の問題、文化の問題などいろいろあって、一筋縄ではいきません。

今いろいろ考えているところです。

2018年6月27日

一日一華:締め切りが破れない


私は締め切りを破ったことがほとんどないように思います。

確かに、人生後半ともなれば、締め切りをうっかり忘れていたとか、体調不調でお手上げ、ということは何回かあったと思います。ただ、自分がきちんと意識した場合、不思議とやり遂げているのです。

原稿依頼の締め切り、
彫刻制作の締め切り、などなど。

実は、今日も無理だと思っていた6000語の英文論文を仕上げ、
学会誌の担当者に送付したところです。

時々、よく間に合ったなあと自分でも感心することがあります。
周りの人たちにもよく感心されています。
「だめだあ、時間ねえ」とぼやいても
「あなたは大丈夫」としか返事してもらえないのです。

タイムマネジメント能力かもしれません。
学生の頃もあまり無茶な長時間の勉強もせず、やるべきことはやってこれたように思います。

しかし、もっと関係があるように思うのは長距離走者だった経験。
中学、高校の頃ですが、どんなに苦しくても絶対完走すると自分に誓って、それを守り通しました。一度でも脱落すると、それが癖になってきっといつも脱落するような人間になってしまうんだ、と自分に言い聞かせていたものです。

それにしても、あの長距離走の苦しさ!
自分を追い込んで意識が朦朧とするまで走り続けた日々を思うと
この程度の苦しさ、なんでもない。
そう思うことが度々でした。

おそらく自分を少しは強くしてくれた経験だったようです。

2018年6月25日

一日一華:再び新書について


先に、「最近、新書は劣化したのではないか」などと書きました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/05/blog-post_21.html

ところが早速前言撤回。
神道について知りたくて、買った2冊が面白かったのです。
「神道とは何か」伊藤聡、中公新書
「神道・儒教・仏教」森和也、ちくま新書

もちろん、神道はとても奥深いもので、ほんの数冊読んで何かがわかってくるというものではないのです。

ただ、禅宗の思想があまりに神道に似ているという思いがずっとありました。
もしかすると神道というのは日本人の宗教心の根底にある感性的な部分に関わり、
それを言語化した時に仏教という形になるのではないか、などと考えたことがあります。

突拍子もない仮説、と思っていましたら、そうではなく、
専門の学者の中にも私と同じ洞察を持って、理論化している方があることを知りました。

もちろん、それが「真実」だというようなことはないのです。「真実」などという用語はあまり使わないほうがいいでしょう。
しかし、一つの仮説として有意義な考え方ではあるようです。

2018年6月21日

生け花とコンクール(2):グーグル翻訳を訂正


先に投稿した記事にグーグルで翻訳した「生け花とコンクール」についての文章を載せていました。あのままではやはり意味不明のところがあります。以下で最低限の訂正をしておきます。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/06/blog-post_38.html

「私たちはIkebana Gallery Award(IGA)を宣伝しようとしていますが、 "私たちの主人 マスター(あるいは)先生はIkebanaを裁かれる は審査されるべきではないと言った" "なぜ競争しなければならないのですか?"というステートメントを聞くことがあります。


結局のところ、誰もが自分の信念や哲学を持つことが許されています。彼らが私たちを嫌がらせたり、オンラインで非倫理的に行動したりしない限り、私たちはそれらを無視して、私たちだけを離れるように求めることができます 構わないでいただきたいとお願いするだけです。もし彼らが永続的なもしつこいのであれば、私たちができることは、私たちのウェブサイト上のミッションステートメントを読むように求めることだけです。

しかし、いけばなの審査や競争については、そのような狭い視点(視点の狭さ)についていくつかの注意すべき点があります。

1. 3つの主要な生け花学校流派(池坊、大原小原、草月)は、今日は本場の花火大会独自の生け花コンクールを運営しています。彼らは、生け花での競技の利点を認識しています。しかし、1000以上の学校流派がある生け花の分野では、彼らが「受賞者勝者」であることに注意する必要があります。他の学校流派の中には、勝者の態度が必ずしも正しいとは言えず、生け花での競技には否定的な態度をとることさえあるかもしれない。それらの大規模な学校流派を攻撃する代わりに、私たちは今のところ、小さくて簡単な目標ターゲットであるため、彼らの一部が私たちを攻撃するかもしれません。


2. 歴史的に、生け花の開発発展には常に競争が存在していた。しかし、生け花の競争という概念は、例えば現代のプロスポーツの競争概念と同じではありません。例えば勝利度が高く、時には重視される場合もあります。勝ち負けが過度に重視されるというものではありません。

原則として、生け花は内なる追求です。我々の主な焦点は、外部的に表現されたものではなく、それに匹敵するものではなく、内部的な成長です。したがって、比較できるものではないのです。西洋モダニズムが1920年代と1930年代の生け花に影響を与えた後でさえ、西洋美術のスタイルに従った競技は必ずしも十分に認識適切に受容はされていなかった。いくつかの大会は全く成功しなかった。生け花競技の歴史は魅力的な研究テーマですが、ここでは詳しく説明しません。

しかし、いけばな競技会が適切に管理運営され、適切注意を払って注目されているのを見て、私は個人的には、生け花の実務者に実践者(関係者)優しいフレンドリーな競争を楽しむには十分に成熟している(西洋化している)と感じています。私はIGAが肯定的なケーススタディを提示しとなり、研究者がすでに述べたように歴史的に重要であることを証明すると確信しています。誰もがIGAでは勝者です。

3.海外の生け花談話に関する言論は、日本のものとは時々異なる。私は「生け花はこれとそうでなければなりませんこうでなければいけない、ああでなければいけない」という言葉をあまりにも頻繁に聞いています。海外の生け花のマスター(およびそのフォロワー)は、日本のマスターよりも信頼できる権威主義的である可能性があります。彼らは生け花を神秘的にする傾向があります。彼らはしばしば怒り、他者を批判しがちです。さらに、彼らは競争を嫌う。私たちはそれらの "マスター"から離れておく必要があるかもしれません。

4. IGAのメリットと必要性については、次の記事をお読みください。 http://ikebanaaustralia.blogspot.com/p/faq.html

以上。

あともう一歩というところでしょうか。

先ごろ、ふと思いついて、日本語で書いたものをグーグルで翻訳してみました。
英文の文章が必要だったのですが、グーグルで訳したものにちょいと手を加えればいいかなと思ったのです。

ところが、それは全く違っていました。何の役にも立ちませんでした。
自分で初めから英語で書いていくしかありませんでした。

グーグルがすごいことになっているとは認めますが、
重要なところでつまずいているようで、
結論は、やはりあともう少しかな、と思います。

2018年6月19日

花道史の基礎知識:神道の方へ(2)


日本文化史上の生け花の位置付けについて分かりやすい講義を見つけました。
筑波大学名誉教授今井雅治先生の日本語学習者向けの講義ですが、外国の方に日本文化、生け花を紹介したいという方にもとても役立つことでしょう。

https://jfcairo.wordpress.com/2013/01/06/ikebana/

この講義の中で私が関心を持った点はたくさんあります。
私の話(「生け花・環境芸術・神道」)の出発点として都合がいいので、おいおい説明していきます。

まず、注目したいのは、生け花と西洋アレンジメントの大きな違いについての説明。
「最終的には悟りを目指していること」これが生け花、
「美しさの追求」これが西洋花、とされています。

生け花は修行であり、西洋花は芸術である、と言い換えてもいいかしれません。

私の21世紀的生け花考(「花を留める」ー伝言ネット版)シリーズなどを読んで下さった方はすぐに、「あれ?」と思われることでしょう。

私が何度か指摘していることですが、1930年代の新興いけばな宣言以降に人気を得た生け花流派(つまり現在日本で主流をなしている生け花)、草月流などは生け花は芸術だと宣言したわけです。
つまり、修行としての生け花という本質を捨てているのです。
生け花は西洋花と同じところを目指す「芸術」になったということ。

ここにはとても深い問題があります。私が先のエセー・シリーズで何度か触れた問題です。また、別の機会に続けます。

2018年6月17日

パニック・アタック攻略法


もう1年ほど前になりますが、自分にはパニック・アタックの症状があるのではないかと書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/11/blog-post_6.html

今年の四月に日本、ヨーロッパを5週間ほど旅行しました。
仕事とホリデーを兼ねたもので楽しみにしていましたが、最も心配したのは飛行機内でのパニック・アタック。長い旅ですから。
あの症状が出ると、気持ち悪さ、苦しさは耐えがたい。
呼吸困難に加え、機内で叫んで、外へ抜け出したいという狂ったような衝動に突き動かされます。
乗り物酔い X 閉所恐怖症、そんなところかと思いますが。

ところが、今回はその症状は全く出ませんでした。
機内で、来るかな、という予感は何回かありました。
その度、禅の呼吸。
そして、ラベンダーの香りを吸引。
家内の持っていたラベンダー入りのアイ・マスクを鼻にあて乗り切りました。
私の場合、匂いが引き金になる場合が多かったのです。
アロマセラピーの絶大な効果、ということになるかもしれません。

「私が横にいたから大丈夫だったんでしょう」と家内は言いますので、
そうかもしれないねえ、と言っておきます。

ともかく旅行にラベンダーは必携となりました。

2018年6月15日

生け花コンクール(1):ここまで来たか、グーグル翻訳


グーグルの翻訳がすごいということを最近、よく聞きます。
私は英語でもよく記事やら雑文やらを書きます。
しかし、それをグーグルを使って訳すということをしたことがありません。

ちょっと、実験してみたくなりました。
最近、生け花コンクールについて書いた英文の雑文は以下です。

これをグーグルで訳すと以下になります。

「私たちはIkebana Gallery Award(IGA)を宣伝しようとしていますが、 "私たちの主人はIkebanaを裁かれるべきではないと言った" "なぜ競争しなければならないのですか?"というステートメントを聞くことがあります。結局のところ、誰もが自分の信念や哲学を持つことが許されています。彼らが私たちを嫌がらせたり、オンラインで非倫理的に行動したりしない限り、私たちはそれらを無視して、私たちだけを離れるように求めることができます。もし彼らが永続的なものであれば、私たちができることは、私たちのウェブサイト上のミッションステートメントを読むように求めることです。

しかし、いけばなの審査や競争については、そのような狭い視点についていくつかの点があります。

1. 3つの主要な生け花学校(池坊、大原、草月)は、今日は本場の花火大会を運営しています。彼らは、生け花での競技の利点を認識しています。しかし、1000人以上の学校がある生け花の分野では、彼らが「受賞者」であることに注意する必要があります。他の学校の中には、勝者の態度が必ずしも正しいとは言えず、生け花での競技には否定的な態度をとることさえあるかもしれない。それらの大規模な学校を攻撃する代わりに、私たちは今のところ、小さくて簡単な目標であるため、彼らの一部が私たちを攻撃するかもしれません。


歴史的に、生け花の開発には常に競争が存在していた。しかし、生け花の競争という概念は、現代のプロスポーツの競争概念と同じではありません。例えば、勝利度が高く、時には重視される場合もあります。

原則として、生け花は内なる追求です。我々の主な焦点は、外部的に表現されたものではなく、それに匹敵するものではなく、内部的な成長です。したがって、西洋モダニズムが1920年代と1930年代の生け花に影響を与えた後でさえ、西洋美術のスタイルに従った競技は必ずしも十分に認識されていなかった。いくつかの大会は全く成功しなかった。生け花競技の歴史は魅力的な研究テーマですが、ここでは詳しく説明しません。

しかし、いけばな競技会が適切に管理され、適切な注意を払っているのを見て、私は個人的には、生け花の実務者が優しい競争を楽しむには十分に成熟していると感じています。私はIGAが肯定的なケーススタディを提示し、研究者がすでに述べたように歴史的に重要であることを証明すると確信しています。誰もがIGAの勝者です。

3.海外の生け花談話は、日本のものとは時々異なる。私は「生け花はこれとそうでなければなりません」という言葉をあまりにも頻繁に聞いています。海外の生け花のマスター(およびそのフォロワー)は、日本のマスターよりも信頼できる可能性があります。彼らは生け花を神秘的にする傾向があります。彼らはしばしば怒り、他者を批判しがちです。さらに、彼らは競争を嫌う。私たちはそれらの "マスター"から離れておく必要があるかもしれません。

4. IGAのメリットと必要性については、次の記事をお読みください。 http://ikebanaaustralia.blogspot.com/p/faq.html

以上です。

例えば、大学でのテストで、日本語を学ぶ学生がこの程度に訳したとしたら、多分、不合格ではないでしょう。きっとパス程度の成績は取れるはずです。
日本語教師をしている知人が何人かいますので、尋ねてみようと思います。

内容的にはかなり複雑なものですが、そこそこ意味が通ります。何箇所か重大な問題のある部分がありますが、私の言いたいこともおおよそ翻訳できています。このことの意味するものは何か?

神道の方へ(1)


自然破壊、環境汚染にはなかなか有効な手立てが出てこないまま、
地球は危機的な状況へと向かっています。

この現代の危機は、現代人の精神の危機と対応しているのではないか。

特に、主要な宗教が死生観、ことに死に対して有効な回答を提示しえていないということと関係があるように思えます。

私がそう考えるのには理由があります。
が、この話は長くなりそうなので、またの機会に続きます。

2018年6月8日

フェイク・マスターズ


海外の生け花の世界には独特のものがあります。
そのうちの一つは、私が勝手にフェイク・マスターズと呼んでいる方々の存在。
フェイクですから、偽物。
ちょっと失礼ですから明言、公言はしません。
(ブログに書いたら、公言ですかね。読者は少ないでしょうが)


マスターというからには、生け花で言えば家元とか、師範とか
いろいろな言い方がありますが、要するに大家、達人ですね。
その真似をしている人が多いのです。
その方々の言動には、なかなか面白いものがあります。

私はそのモデルはどこにあるのだろうとずっと考えていますが、思い当たりません。
多分、空手の映画とか、どこかそのあたりにあるのだろうなあと思います。
どこか悟り切った風格があり、黙っていても人々は尊敬してくるのが当然、と言うところがあります。

しかし、悲しいかな。フェイクなのです。
まず、実力が伴わない。
道を修めようというものの真剣さがない。
そして傲慢なのです。

日本では家元とか名人とされる人々に会ったことがあるという方も多いでしょう。
おそらくその謙虚さ、フレンドリーさ、ユーモアのセンスに驚くという印象を持たれる方が多いのではないでしょうか。
一言で言えば、「爽やか」です(達人の持つ爽やかさについては、また別に考えます)。
少なくとも、私が出会った、数名の方々に関してはそうでした。傲慢な方など一人もいません。

ところが、海外にはいるんですね。
ちょっと滑稽な大師範が。
おそらく、学歴とか社会的なステータスとかといった点であまり高い自己評価を得られなかった方が、生け花を少しかじって、突然、偉くなったような気分になるのではないでしょうか(どうしてそういうことになるかというと、それは日本文化が海外において特別な存在だから。ここは面白い点ですからいつかもっと詳しくお話ししましょう)。

そういう方々も生け花の流派にとっては有用でしょうから、特にあれこれ言うつもりはありません。役職を与え、きちんと仕事をこなしてくれればいいわけでしょう。

有害になるのは、彼らが他の人をコントロールしようとしだす時。
時に、生け花のテクニック以上にいじめのテクニックに秀でているなどということになると周囲は迷惑です。

おそらく、戦後、海外で生け花を指導する日本人も多かったはずです。その大部分は女性だったでしょう。英語力その他様々な制約があり、「おかしいな」と思うことがあっても、なかなかはっきりものを言う方は少なかったのではないでしょうか。日本人としての、花道家としてのたしなみもあるはずです。昨今、世界を見渡しても、無礼で遠慮のないのは私くらいでしょう。

最近、私が英文で短い注意書きを書いたところ、思いがけないほどの反響がありました。
http://www.shoso.com.au/2018/06/ikebana-competition.html
海外における怪しいマスターの特徴として、
生け花を神秘化する
いつも腹を立てていて、他人を中傷する
実力主義のコンクールを嫌う
などと言う点を、冗談半分で書いたのです。

こういった権威的な方々のために、苦労している方が多いのではないでしょうか。
モヤモヤがスッキリしたというようなコメントもありました。

だからと言って、こういう方々に対抗しようとか、成敗しようとか
そんな苦労をするつもりはありません。
今以上に敵を作る必要はないのです。

ただ、私にできることは、そういうマスターは真物じゃないかもしれないよ、と諭すだけ。それで十分ではないかと思います。

そして、当然のことですが、私自身、マスターなどと自称しないようにと心がけています。ところが、様々な機会に紹介される際、生け花マスターと言われるのです。宣伝ですから仕方ないのですが、その度に訂正しています。

2018年5月28日

生け花ギャラリー賞について(3)


お知らせ:この度、Ikebana Gallery Awardでは蓑豊先生(兵庫県立美術館館長金沢21世紀美術特任館長、大阪市立美術館名誉館長)に審査員としてご協力いただくことになりました。蓑先生は日本を代表する美術館長として国際的にご活躍中です。「超美術館革命」(角川新書)他著書多数。https://www.artm.pref.hyogo.jp/ 
 先生の芸術に対するご見識の高さを審査結果に反映させていただけることでしょう。
 
 私どもは今後ともより多くの生け花学習者へ、履歴書の受賞歴に記載できる賞を無料で提供したい所存です。日本からの多数の応募をお待ちしています。
生け花ギャラリー賞募集要項日本語版:http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/p/japanese.html

 ご講演、著書を通じ、そのお仕事ぶりに圧倒され、さらに夕食をご一緒させていただき、そのお人柄に心服する者として、蓑先生から私たちのプロジェクトに貴重なお時間をさいていただけることに感激しています。
 なぜこのような小さなプロジェクトに国際的にご活躍の多忙な先生が関わって下さるのだろう?これは多くの方が抱く疑問でしょう。私もよくは分かりません。お願いしても、よくて断られるか、無視されても当然と思っていました。ところが快く引き受けて下さいました。
 推測ですが、このプロジェクトは私たちが営利目的でやっているものではないということ、これから生け花を真剣に学ぼうとする人たちを助けたいという、ただそのために私たちが骨をおっているというところを認めていただけたのではないかと思っています。先生はとても直感の鋭い方です。
 実は、半信半疑のような目を向けられることもあるのです。本人の心のスケール相応に相手が見えるのでしょう。そこそこ(「完全に」と主張すると窮屈になりますので、「そこそこ」で十分)純粋に他人のために動く人間もいるのだと、なかなか信じられない、生け花をやる人は皆自分のため、自分の流派のためにだけ活動するものだと硬く思い込んでいる人もあるようです。もちろん状況の変化に応じて、将来このプロジェクトもボランティアに頼るだけでなく、もっとビジネス化していく必要が生じるかもしれませんが。
 私は生け花ギャラリー賞・選考委員としてボランティアで協力してくれる私の生徒たちには、これは花道史の一つになる活動なんだよ、他の生け花学習者を応援し、励ますことができるんだよ、と鼓舞しています。私たちにとってはとても意味のある活動です。
 この機会に生け花ギャラリー賞について書いてきた文章を以下にまとめておきます。

「応募しようかな」とお考えの方へのメッセージ
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post.html

生け花ギャラリー賞発表のお知らせ
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/08/blog-post_27.html

生け花ギャラリー賞について(1)
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post_20.html

生け花ギャラリー賞について(2)
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post_31.html

生け花ギャラリー賞の目指すもの(「いけ花文化研究」所収)
https://www.academia.edu/36680038/Ikebana_Gallery_Award_no_mezasu_mono_International_Journal_of_Ikebana_Studies_Vol.5_2016_pp.92-95


2018年5月21日

一日一華:新書について


最近1年くらいについてですが、私の読書は多分80%くらいが英文。ほとんど学術関連です。
20%くらいが日本語。その約半分(つまり10%くらい)が小説などの娯楽としての読書、そして、他の半分が日本語での学術書。

日本語の学術書は、私の論文に使えるものが限られているため、結果的に新書が多くなっています。

新書というのは、私にとっては学生時代から特別なものです。
学生時代の友人と読んだ新書の冊数を競争したこともありました。
当時は1日1冊という勢いで読んでいたものです。
講談社現代新書、岩波新書, 中公新書など内容が充実していて、何といっても信頼できます。

平川彰先生から仏教学を学んだことがありますが、大学の講義1年間で学ぶことが先生の1冊の新書(「現代人のための仏教」)に書かれている!と感じたこともあります。それほどの充実ぶり。他にも名著がたくさんありますね。

特に自分の知らない分野、専門でない分野について、その入門的な役割を期待してしまいます。そこから興味深い点はもっと深めていけばいい。
そういう期待は、あまり裏切られたことはなかったのです。
つい最近まで。

今は、日本の新書はどうなってしまったのだろう、と感じています。

現在、私は日本語での読書量がとても少ない上に、日本の本屋を覗くのは数年に1回という有様ですから、見当違いかもしれませんが。

最近は神道に関心があって、先月、日本で関連の新書を数冊購入しました。
驚いたのは、ベスト新書の一冊。

まず、日本語があちこちおかしい。2ページに1箇所くらいの割合で、文法が乱れていて、文章の意味が不明瞭。主語と述語が一致しないため、意味がいくつかに取れてしまいます。話し言葉ではそういうことが起こるかもしれませんが、書き言葉にしたならば、訂正すべきでしょう。これはもちろん著者のせいでしょうけれど、国語力のなさは編集の方がきちんと補うべきです。呆れています。

さらに、論理が飛躍し、ちょっとついていけない。これは学問的に考えるということをしたことがない人の語りです。こんな雑文を新書として出版してはいけないでしょう。

昨今は読み手も気をつけて新書を選ばなければいけない、ということなのでしょうか。タイトルだけでなく、著者略歴、前書き、後書きなどもチェックしないと後悔しそうです。

2018年5月17日

21世紀的いけ花考 第70回(最終回)


江戸後期、明治大正期にそれぞれいけばなブームが起こったという話でした。前者では生花(せいか)という単純化されたいけばなが目玉商品であり、後者では盛花という一層手軽に生け花を活けられる様式が目玉商品でした。

さて、3回目のいけばなブームが起こるのは戦後。そのブームの中心にいたのが草月流創始者、勅使川原蒼風。蒼風は従来の生け花を様々に批判していきますが、特に、模倣という一つの指導方法を否定していきます。初心者は模倣して覚えていくしかないように思えます。しかし、上級になっても模倣ということではいけない。作者の創意が尊重されねばならないということだったのでしょう。

西洋モダニズムの影響を受けて(というかそのいいとこどりをしつつ)自由花が1920年代に提唱され、その動きを引き継ぐように前衛花という目玉商品が注目を集めたのでした。キャッチコピーは、「生け花は芸術だ!」。「注目を集めた」と書いたのは、賞賛ばかりでなく、批判も多かったからです。本当に芸術か?芸術とは何だろう?そうした議論を避けることはできません。しかし、ブームの渦中にあっては、勢いのある議論がまかりとおります。蒼風らの運動には、旧来の生け花にまつわる種々のしがらみなども払拭できるかもしれない、という期待と後押しもあったのではないでしょうか。おそらく歴史的な評価を受けるのはこれからでしょう。

実は、草月流がもっと面白くなるのは、1980年代以降、3代家元の宏からだろうと思いますが、宏の仕事についてはここでは語ることはできません。というのは、発行者様の事情により私の連載は今回限りとなったからです。発行、編集担当の皆様には実に長らくお世話にな りました。読者の評判などまったく意に介せず続けてこられたのは幸運でした。読む人はあまりいないのだろうと思っていましたが、最近、初めて「伝言ネットの記事を読んで、習うことにしました」という生徒さんがやってきました。読んで下さる方もいらっしゃるのですね。ありがとうございました。文章を書くのは、日本語でなら全く苦ではないので続けろと言われればいつまでも続けられます。しかも、10年間、一度も締め切りを破ったことがないように思います。しかし、一区切りつけるのも新しい方向を探るためには必要なことでしょう。伝言ネットスタッフ、読者の皆様、そして私の英文をチェックしてくれた私のパートナー、ジュリーそして義母、パットにあらてめてお礼申し上げます。

21世紀的いけ花考 第69回



 日本史上の生け花ブームは社会・文化現象。その歴史を調べることで、日本社会もよりよく理解できます。より深く研究しようという方が出てきたら嬉しいですね。また、ブームの研究は即ちヒット商品の研究。成功のコツは世間のニーズをつかんで、革新的で魅力ある商品を提供すること、これが教訓でしょうか。

 ここで少々脱線。明治期のブームについて補足します。このブーム以前は個人指導が主でした。月謝は定額ではなかったようです。生徒が自分の経済状況に応じて支払っていたようです。前近代的ですが、私もそうしたいなと思うことがあります。私のクラスは格安で、日本で学ぶよりはるかに安く習得できます。ですからもっと日本人の方にご利用いただきたいものです。私の教え方が合うという方は速習できるでしょう。ただ、最近は格安で教えるのもどうかなと思っています。早く多くの師範を育成したいと格安にしているわけですが、値段に惹かれて教室に来る方は継続できない場合が多く、メリットがないのです。ともかく、明治、大正期のブームでは教室で集団で教えるという形態が定着していきます。 

 また、生け花の教師は主に男性でした。ところが、明治期、女性師範が急増しました。理由が推測できますか?日清、日露戦争です。司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでみて下さい。この必読書を戦争礼賛などと批判をする人もありますが、偏向マスコミに洗脳されているのでしょう。その浮薄さは危険です。ちょうど、癌が怖いから、癌について見るのも聞くのも嫌と言っているようなもの。予防にはなりません。それはさておき、すざましい数の日本男子が戦死しています。戦争未亡人にとって生け花師範というのは選択肢の一つだったのでしょう。 

 さらに、剣山について。このブームでの目玉商品は盛花。生け花を簡便にしました。実は、その簡便さの一因は剣山にあります。明治期に創案され、幾つかの変遷がありました。大正期に改良した剣山を使い、池坊から独立したのが安達流。改良剣山一つで大手の一流派が生まれるのです。剣山については追手門学院大学准教授小林善帆先生(国際いけ花学会会長)より一部ご教示いただきました。先生は広辞苑最新版の「いけ花」の項を執筆担当されています。

 さて、今月紹介するのはホーム・パーティーでの迎え花。強引な取り合わせが楽しいでしょう。4月には神戸の交際会議とルーマニアの大学で生け花と環境芸術について講演の予定。桜が楽しみです。

2018年3月10日

21世紀的生け花考 第68回


 今回は明治・大正期の生け花ブームについて考えてみましょう。ブームとは複数の要因が重なって起こるもの。単純には説明ができません。まず、分かっていることはこのブームを支えたのは若い女性であったということ。明治女性は生け花に何を求めたのか。女性と社会の関係から考えていくといいでしょう。しかし、未開の研究領域という感じがします。明快な説明には出会っていませんので、以下は私の仮説です。

 不明なのは生け花ブームを支えた若い女性の社会的な立場。専業主婦人口が増えるのは大正期以降ですから、彼女らはこのブームの主な担い手ではなかったでしょう。注目すべきは婚前の女性。つまり、花嫁修行のひとつとして生け花を習うということが主流だったようです。

 明治の国策は富国強兵。女性はそれを支える「家」にあって良妻賢母を目指しました。明治民法(明治31年公布)によってそれ以外の生き方は容易ではないという事情もありました。結婚は最大の関心事だったはず。できるだけ有利な条件を求めるのは必然。

 重要なのは女学校・高等女学校ができ、非正規科目ながら生け花やお茶が教えられることが多かったということ(正規の場合もあり)。女学校出→インテリ→生け花ができる→婚活に有利、というイメージの連係ができたのでしょう。お嬢様なら生け花ができる→生け花ができるならお嬢様(たとえ学がなくとも)ということで生け花のニーズが増大したのではないか。要は生け花がブランディング効果を獲得。手頃な投資だったのです。

 この時期、生け花の側にもブームを加速する工夫がありました。顕著なのは小原流による盛花のPR(明治末期)。剣山(明治期に初出)や七宝を使い、浅い水盤に花を生けます。最大の特徴は従来の生け花をさらに容易にしたものだったということ。デザインも単純でほとんど誰でも花が生けられるようになったのです。さらに、洋風住宅が増えてきましたが、そこにもぴったり。しかも真新しい西洋花も生けられる。生け花の楽しい面がドンと前に出たわけです。これは流行るでしょう。現在でも多くの生け花教室で、最初に習うのは盛花。次回に続きます。

 今月紹介するのは花菱レストランに活けた作品。毎週楽しくやらせてもらっています。3月はローン彫刻展に環境芸術2作を出展。さらに、同展の環境芸術会議でもトークを依頼されています。国際的なアーティスト、研究者も集うビクトリア州最大の屋外芸術祭。是非お越し下さい。http://lornesculpture.com

2018年2月22日

一日一華:生け花と存続可能性


今年初めて我が家の庭に植えたフウセンカズラがよく育ってくれました。
庭のブーゲンビリアと取り合わせ。
ガラス花器は生徒さんから頂いたもの。

さて、環境芸術についての発表が迫っています。
テーマは存続可能性と美学。
生け花との関連、などなど。

さんざん言われ続けていることですが、
現代西洋文明は特に環境問題において、存続不可能な状況。
その発展モデル、知の方法とも危機的です。

その根源は何か。
産業革命、植民地主義、君主制、資本主義の成立、ルネッサンス、
デカルト的二元論、ベーコン哲学、キリスト教だとか、アルファベットの成立だとかいろいろな説があります。

根本は、自然疎外。
自然を対象化し、資源とみなす考え方。

生け花にも同じ態度を持ち込んだのが、
新興いけばな宣言でしょう。
花など芸術的な自己表現の材料でしかない、という。
現在、生け花の主流となっている多くの流派に共通する態度です。

しかし、生け花は本来、自然と人との一体感、調和に根ざしたものだったのです。
それが、昭和はじめあたりから、西洋の自然に対する態度を慌てて学び、
生け花を変えていこうという動きがあったわけです。

今現在、西洋の方から自然に対する自らの態度への見直しが起こっています。
そのような見地から、異文化、ことにネイティブ文化への関心が高まっています。
日本の生け花は本来、一つのお手本を示すことができたはずです。
しかし、今現在主流になっている生け花に、その力はありません。

2018年2月12日

2018年2月5日

21世紀的いけ花考:第67回


 生け花の現状、将来の課題を探ろうと大上段に構えています。まず、生け花の歴史を簡単におさらいしておきましょう。簡略な華道史は何度かここで話していますが、今回はまた別の角度から。今回は生け花ブームに焦点を当てて、その成功の要諦を探ってみます。

 華道史上、重要なブームは江戸時代後期、明治期、戦後と3回起こっています。室町時代、立て花が生まれ、立華に発展。江戸時代初期に立華が大成。この辺りまでは生け花は社会の上層部で細々と行われていたのでしょう。庶民は絶えず紛争に巻き込まれ、余裕がなかったはずです。

 ところが江戸時代、260年間も大規模な紛争のなかった、世界史的にも稀な安定した時代でした。よく人類史上最も幸福な時代とされるパクス・ロマーナ、ローマの平和とされた時代もせいぜい200年間。しかも、必ずしも常時平和ではなかったのです。学校で習う歴史を鵜呑みにしていると、明治期に文明開化が起こり、それ以前は暗黒の封建社会などと考えがちですが、江戸時代についてきちんと考えないと日本文化の本質を見失うことになります。この特別な時代、文化、経済が大発展します。

 社会が安定し、経済が発展すると、生活に余裕ができ、余暇を楽しもうということになります。特に多くの女性が余暇を求めたのは江戸時代が初めてでしょう。時間とお金ができると日本女性の関心は花に向かうようで、生け花を習いたいという需要が生まれます。ところが、当時、生け花と言ったら代表的なのは立華。制作するのに数日かかります。一般女性には、そこまでの余裕はない。せいぜい2時間位で楽しみたい。

 そこで考案されたのが、生花(せいか/しょうか)。立華を大胆に簡略化。天地人という3点をおさえて、不等辺三角形を作るとそこそこの生け花ができるのです。結果、生け花人口が爆発的に増え、新流派も多数成立。これが第1回目の生け花ブームの核心。新しいニーズの特定+それに見合った商品開発=成功。3回の生け花ブームにはそれぞれの目玉商品があります。そこをおさえておけばいいのです。

 さて、今年、ローン・スカルプチャー、インターナショナル・アカデミック・フォーラムで環境芸術と生け花について講演を行うことになりました。特に後者では、日本一の美術館長と尊敬する蓑豊先生とともにフューチャード・プレゼンターに。大変なことになっています。 

 今月紹介するのはある医院レセプションへの商業花。ハイレベルの生け花を毎週ご希望でしたら、逍滄チームの花をご検討下さい。

2018年1月19日

一日一華:写真花の難しさ


生け花の写真は難しいなあと、よく思いますが、
この作品など、その典型的な例。
奥行きがなくなるのです。
前後にかなり広がっている作品ですが、
写真では前後の広がりがほとんど感じられません。
元の生け花作品の味が半減した感じがします。
そうしたことも考慮して写真花に臨むといいのでしょう。

2018年1月9日

21世紀的いけ花考:第66回



 西洋芸術のモダニズムの影響を受け、日本の生け花は大きく変わっていきました。その影響は現在まで続いています。昭和初めの生け花改革運動は、従来の生け花の何を改革しようとしていたのでしょう?

 15世紀、立て花の成立から始まった生け花、そのすべてを否定し、まったく新しい生け花を提唱しようとしたのではありません。では、何を否定したのか?この運動に関わっていた人々の間でもこの点で合意があったのか、よく分かりません。抜本的な改革を意図していた方もあったかもしれませんが、この改革運動の中心人物の一人、草月流初代家元勅使河原蒼風などは、どうもそうではないようです。

「かつていけばなの世界では『まねぶ』ことの方に重きを置きすぎて、悪いことがはやった。決められた形をそっくりまねるのでなければいけてはいけない、この流儀にはこの形しかない、この形を皆でいけるのだというような。非常に非芸術的な時代があった。これが江戸末期のいけばなの悪弊だった。(略)これは明治になっても大正になってもその停滞から抜け出ることができなかった」(「蒼風講義録から 4 平凡を非凡にする」)

 つまり、蒼風が批判しているのは江戸末期から大正までの生け花のある側面。生け花の全てを批判しているわけではないのです。批判の対象は、模倣させるという指導のあり方、制作態度。小さな点です。重要ですが。別の観点から見れば、これはモダニズムの「いいとこ取り」なのです。ここは後に詳述します。

 さて、江戸末から大正までの期間とは、生け花史上重要な時期。そのあたりに大きな生け花ブームが2回起こっているのです。江戸後期、明治期の2回。ともに流派の数が爆発的に増加した時期。3回目はもちろん戦後の最大のブーム。草月流、小原流などがリードしました。大手の池坊も様々な改変を経てブームを担い、今日に至っています。 

 さて、次回は、過去3回の生け花ブームについて、特徴を簡単に述べておきましょうか。それで日本華道史の要点も蒼風の立場もよりよく理解できるでしょう。

 今回は1年前の正月花を紹介します。クラウンの此処に活けたもの。今年もクリスマスから新年にかけて展示しますのでご覧下さい。

 今年は3月にローン彫刻展、9月にビエナーレ・オブ・オーストラリアン・アートに参加予定です。昨年度、イェーリング・ステーション彫刻展で入賞した作品を最初の作品とし、「公共芸術としての環境芸術」シリーズの続編をこれらの芸術祭で発表予定です。お楽しみに。

2018年1月7日

一日一華:天命



随分、歳若い頃から自分の天職はなんだろうか?と考えてきたように思います。


今の生き方が自分の天命なのか、と現在でも考えていますし、
あまり自信もない。

ただ、次々にやってくる挑戦に懸命に立ち向かっているだけというのが実感。

しかし、次々挑戦をいただけるということは、
自分が恵まれた場所にいるということではないか、
もしかすると天命を歩んでいるということではないか、と思ったりしています。

次の興味深い、天命についてのエッセーを読んだ時、そんな思いを強くしました。
http://blog.jog-net.jp/201801/article_1.html

今、直面しているのは、三月の2回のスピーチの依頼。
多分、今までの講演の中でも最大の挑戦。
本当にやり遂げられるのか、
全力を出し切っても、力が及ぶのか、
しばらく自分との戦いが続きます。

Friday 23 March 2018: Shoso will talk about environmental art at the Lorne Sculpture 2018. http://www.lornesculpture.com/speakers.php

30 March 2018: Shoso will conduct an Ikebana demo as a featured presenter at the Asian Conference on Arts and Humanities 2018, The International Academic Forum, Kobe, Japan. https://iafor.org

環境芸術と生け花について話します。

特に、神戸では蓑豊氏とともにフューチャード・プレゼンターに指名されていますので責任は重いです。蓑先生については以下のポストでも書いています。

https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/05/blog-post_26.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/05/blog-post_31.html

Shoso Shimbo

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