外国人に生け花を教えるのは難しいという話の続きです。
前回の話は以下です。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post_3.html
今回は特に難しいと感じている生徒についてです。
つまり特殊なケーススタディ。外国人全般に当てはまるわけではないでしょう。
この生徒の作品は
ともかく強いだけ。
ともかく花がどっさりあるだけ。
そこにはポエトリイがないのです。
そこで、私の対策は、基本形の徹底復習。
基本形を選んだのは、この生徒の問題の核心が、
バランスのおかしさ、
間のおかしさ、
調和のなさ、といったことで、基本が身についていないということだったからです。
おそらくその方針は正しいと思います。
その方針が有効だった生徒も出ていますから。
10回位やってもらおうとしたのですが、とにかく抵抗します。
「今回は基本形の中でも、その応用形をやる」とか、
「今回は特別な花器を使う(基本形には不適)」とか。
とにかく一番単純な基本形!
皆が一番最初に習うシンプルな基本形を完璧に作ってくれと
言っているのですが、聞いてくれません。
これはなんだろう?
どうも、この生徒にとって基本形を今更やらされるというのはプライドに関わることであるようなのです。性格的に少し特別なところがあります。周りの人を圧倒し、すごい!と思われることに喜びを感じているようです。
さらに、この生徒は、基本形を美しいとは思っていないようでもあります。
基本形には生け花の美しさのすべてがあります。
そこを身につけないことには、まともな生け花が作れるわけはないのです。
実は基本形はとても難しいのだよと説明してもなかなか聞いてくれません。
この生徒にとっては自分が美しいと思うものしか作れません。
それはシンプルな美しさを持つ作品ではなく、
ともかくゴテゴテ、やたらうるさく、強いだけの作品なのです。
自分、自分、自分で溢れかえっています。
ふと思いました。これはお手上げだ、と。
生け花は人間修行だと言われます。
謙虚さのない人、傲慢な人には無理です。
生け花に求めるもの、つまり学ぶ動機が違うのです。
他からの賞賛や、自分の劣等感の補償を求めることだけが目的では、
生け花の本質には到達できないでしょう。
日本人が数世紀をかけて作ってきた美の基準、そこへ至る方法。
まずは、それに敬意を払うこと。
自我流の入り込む余地はないのです。
特に、初心者にとっては自己を滅却してお手本を真似しつつ
基本を身につけることが最優先。
無私の境地です。
先生の言葉に素直に従うことも大切です。
我が強すぎないほうがいいのです。
ここは日本人が得意とするところかもしれません。
しかし、そういう態度が身についていない人には難しいでしょう。
そうして基本形とともに、
基本的な生け花の原則を身につける。
そのあとで初めて、自由形を楽しんだらいいのです。
基本形などつまらん、自由形だけで行こうというのなら、生け花など習う必要はないのです。
教えるのが大変です。これが結論。
しかし、さらなる問題は、話がここで終わらないということ。
実は、上記のような自我流の生け花作品を作り続ける人が海外には少なからずいます。
面白いことに、それが評価されたり、
お金を払う人があったり、
時に何かの賞を取ったりします。
日本でなら自我流では評価されず、いずれ淘汰されてしまうでしょう。
しかし、周囲も生け花とは何かよくわかっていない状況ですと、
自我流生け花も淘汰されず、ああ、こんなものかと受け入れられるわけです。
しかし、それが悪いことでしょうか?
おそらく、通常の基準からすれば、生け花とは言えないでしょうが、本人は生け花だと主張します。日本の流派から師範やらなにやらの肩書きを手に入れたりもします。周りの方も評価します。
とすれば、放っておくしかないのではないでしょうか?
(たくさんの人に教える立場になって欲しくないなあとは、こっそり思いますが)
「こんなの生け花じゃない」などと言えば、喧嘩になるでしょうし。
(そういえば私もよくそんなことを言われますが)
他人が評価を得ているのに、ケチをつけるようなことは人間として恥ずかしいことでしょう。
また、時に、そうした方が、とても味のある作品を作ることも稀にあるのです。
海外における生け花の状況はなかなか面白いのです。