前回の話の続きです。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html
道としての生け花
遊びとしての生け花
とても大雑把に言ってしまうと、上記、2つの態度が生け花にはあるように思います。
もちろん、前回考えたように、どちらも大切なアプローチ。
この対立は、よく考えてみると、華道史の中で繰り返し現れる対立や論争の根本にも関係してくるように思います。つまり、これら歴史上の対立する立場をどんどん還元していくと、根本に花は修行なのか、遊びなのか、という方向性の相違に行き着くように思います。仮にこの方向性の違いを集中/拡散という二項対立として捉えてみましょう。
この辺は私のお得意の仮説なのですが。
例えば、千利休が花は野にあるようにと茶花のエッセンスを主張しました。
これは当時の立華に対抗する投げ入れ花の主張だったと思います。
立華の集中性に対する、投げ入れの拡散性の主張と解釈できます。
つまり、千利休の言葉をその言葉だけから解釈するのでは、その真意はつかめません。その言葉がどのような文脈(歴史的、社会的)で発せられたのか、と考え、そこにある一種の攻撃性も踏まえて解釈すべきでしょう。
また、勅使河原蒼風らの自由花運動、前衛花運動は、格花などの定式化された様式の持つ集中性への対抗として拡散性を主張していると言えそうです。
さらに、生け花コンクールにむやみに抗議してくる人の言い分を聞いていると、そこには拡散性を否定する集中性への志向が伺えます(https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_19.html)。
つまり、コンクールなどという遊びの要素(拡散性)を否定したい、道(集中性)の主張と解釈できるわけです。
いずれにせよ、華道史を見ると、集中性が高まると、反動として拡散への動きが興る、そして、拡散は集中から批判される、ということが繰り返されているように思います。
この対立はどこに落ち着くのでしょうか。