華道家 新保逍滄

2017年12月31日

一日一華:オーストラリアのネイティブで


おなじみのクライアントさんから、ネイティブをたっぷり使ったアレンジの依頼。

前回書いた新しいレンズを使って撮った写真です。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/12/blog-post_28.html

ブログ用にかなり縮小しています。
こんな写真が撮れるなら、高い値段も受け入れられるような気がしています。


2017年12月28日

デジカメ決定版:試行錯誤の果てに



過去、10年ほど、カメラとレンズにはおそらく100万円以上つぎ込んできたと思います。カメラは6台、レンズは6本。本も10冊くらい買っています。あれこれ合わせると200万に近いかも。

写真は素人です。

しかし、華道家としてできるだけいい花の写真を撮りたい!
できれば出版に適する程度のものを。
その一念でこれだけの出費。

この度ようやく最適のカメラ+レンズに出会えました。

写真を撮るたび、「おー!」と興奮しています。
上の犬の写真は、この度の新しいレンズで最初に撮った写真。
なんという明るさ。
犬の瞳の中までカリカリに撮れています。
こんなレンズが欲しかったんだ!

ここに至って、気づいたことを書いてみます。素人のカメラ案内です。

1、写真はレンズ。写真の質を決めるのはレンズです。
高いカメラを買っても、安物のレンズをつけていたのではお金の無駄。
それを私はやってきたのです。

もし、これから一眼レフカメラを購入しようかという方がいらっしゃったなら、ご注意下さい。最高のレンズ+必要最低限のカメラがお勧めの取り合わせです。

生花作品は静物ですから、天体写真やスポーツ写真がうまく撮れるという高級カメラである必要はないのです。高級カメラの機能の多くは私たちには不要です。

2、プロや専門家のアドバイスは有益だけれども、私のニーズには最適ではなかったということ。

・室内での撮影が多い(明るいレンズがいい)
・被写体との距離が取れないことが多い(広角が望ましい)
・花作品のサイズは大きくて4メートル位。
・静物である。

こうした条件に合うレンズ。

こうしたニーズがはっきりしていればもっと適切なアドバイスが頂け、お金を無駄にすることもなかったでしょう。「クリアな描写」「幅広いジャンルで使える」「高性能なレンズ」などという宣伝文句に惑わされてきました。

3、華道家に必要なのは次の1本だけです。究極の1本。

AF-S Nikkor 24mm 1.4G ED。
希望小売価格 ¥307,800。
詳細のレビューは次でどうぞ。http://kakaku.com/item/K0000089613/?lid=ksearch_kakakuitem_image
http://www.nikon-image.com/products/lens/nikkor/af-s_nikkor_24mm_f14g_ed/

私はオンラインで約20万円で購入しました。
カメラはニコンD800です。発売されてすぐに買いましたが、当時、30万円以上したと思います。
ですから私の現在のデジカメは50万くらいかかっています。

しかし、D800は現在、10万以下で購入できるようです。
とすると、私と同じ組み合わせは、現在、約30万。

試行錯誤がなければ30万で済んだのに、
200万円もかけてしまったというお話でした。
私のような無駄をしないようご注意下さい。

4、繰り返しますが、まずは、レンズ!です。
プロ用のレンズを手にはしましたが、素人の悲しさ。まだまだ使いこなせていません。

2017年12月14日

一日一華:思いつきと論証


ある種の本は、いろいろな思いつきをもたらしてくれます。
私の場合、特に、哲学や心理学の入門書のようなものを読んでいると、自分の思考が刺激され、いろいろな空想、仮説が浮かんでくることがあります。
ある事柄と別の事柄との間に繋がりが見えてくることもあります。

例えば、ボードリヤールの資本主義解釈と村上春樹の世界観に関連性が見えたり。
生け花における立花と生花の対比は、日本文化における根源的な二元的な対比と対応しているのではないか?とか。

重要なのは、その思いつきやひらめきをどう発展させるか、でしょう。
それをいかに論証するか。

例えば、マルクスが社会の発展を資本という観点から説明した時、
「違うんじゃないかな」と思いついた人はきっと多かったと思うのです。

しかし、それをきちんと論証する人が出てくるまでは、思いつきはただの仮説。大した価値はない。破壊力も、生産力もない。

ところが、レビィ・ストロースが未開社会の思考は決して暗愚なものじゃないんだということを論証したことで、早い話、マルクス主義はボロボロになってしまうのです。

もちろん、それほどの業績は時代の最高の知性に委ねるしかないのかもしれませんが、現代芸術について考えていくと、同様の挑戦を求められるのではないか、という気がしています。特に、環境芸術を考えていくと。

2018年、3月に予定されている2回の講演までは、何かまとまった考えができるといいのですが。
http://lornesculpture.com/speakers.php
https://acah.iafor.org/speakers/

2017年12月8日

21世紀的いけ花考 第65回



新興いけばな宣言(1933)を一つの契機として、生け花は大きく変わっていった、という話でした。一言で言えば、モダン芸術の影響を受けたわけです。その影響は現在まで続いています。現代生け花の課題を国際的な文脈で考えようとすると、様々な疑問が生じてきます。それらをおいおい考えていくことにします。

1、モダニズムとはどんな主張だったのか?ここでの話の流れでは、なぜ精神修養としての生け花が否定されねばならなかったのか?
2、前衛生け花はそこから何を学び、生け花をどう変えたのか?その成果は何か?
3、モダニズム芸術は、今や過去のものとなり、その歴史的役割を終えている。現代芸術の主流は(モダニズム芸術の要素を含みながらも)ポスト・モダニズム。では、生け花はどうか?モダニズムの影響を受けた草月、小原などは歴史的な役割を終えているということにならないか?そこを検証しては?ということ。断定でも批判でもないです(短絡的な人から襲撃されないといいのですが)。
4、生け花にポスト・モダンの要素を取り込み、その課題に取り組むことはできないのか?つまり、生け花で現代芸術がやれないのか?
5、西洋文化圏の方が生け花を学ぶ時、西洋化した生け花をどうとらえているのか?前衛生け花が否定した生け花の伝統的な要素(日本人の伝統的な花への態度など)はどう受け取られるのか?


上記4への私の取り組みの例として、Yering Station 彫刻展で ABL賞を受賞した「鯨の胃袋」を紹介します。生け花的要素もあれば、非生け花的要素も。前者については、華道家の感性は容易に指摘できるでしょう。


特に今回は作品が生命を獲得する、その瞬間が強く意識できました。それは生け花ではよく感じること。花1本を生けるだけでいいこともあります。そこから葉を取り除いたり、他の花を加えたりして、作り込んでいくと、ある瞬間に作品が自分の物語を語りだした、と感じることがあります(これはお手本通りに生けるのが生け花と思っている人には得られない経験)。今回、同様の経験をしました。


プラスチックバッグの塊を作ってみると、白、ピンク、黒と色のコントラストが強すぎ。全体を青いシートで包むとずっと効果的。それを金網で包んだのですが、物足りない。金網を手で鷲掴みにすると、面白いシワが表面に出来ました。これはいける、と設置直前の3時間猛攻撃。そこで「作品になった」と感じたのでした。この作品については今後、別の文脈でも触れることになるでしょう。

2017年12月4日

Practice-led Research とは何だろう


Practice-led Research (PLR) について考えています。
約4ヶ月後、環境芸術と生け花について2回の発表を行います。
どちらも聴衆は大学関係者がメインの会議。
半端な発表はできません。

PLRは、芸術学部の大学院レベルで主流の研究方法になるでしょう。
芸術学部での博士課程は、まだ導入に踏み切れていない国が多いようです。
芸術における学問的な方法論が脆弱だからでしょう。
ところが、PLRには少しばかり可能性があります。

私自身は教育心理学で博士号を取っています。
ガチガチのQuantitative Research です。
仮説を立て、統計で検証し、有効か否か、数値で示します。

それに対し、Qualitative Research も、科学かなあということで
ゆっくり認められてきました。
今では、それも過去の話。
人類学、民俗学、社会学、教育学など多方面で優れた業績が上がっています。

芸術にもQualitative Researchなら、使えるのではないか、と多くの方は考えました。
というか、それがほとんど唯一、芸術を科学する方法論だろうと私は思います。
そこで、PLRです。

私の関心は、その方法論。そして今までの成果。
それを調べた上で、発表に繋げたいのです。

まだ、論文を漁り始めたばかりですが、方法論が曖昧なものが多い。
こんなに自分勝手にやって、認めてもらえるのか?
博士号が取れるのか?
これでは日本の文芸評論ではないか。
こんなに主観を入れていいなら、自由で楽しいだろうな、とか。

しかし、私にはまだ方法論がはっきりしてきません。
それをはっきりさせるのが第1の問題。

私は方法論にはうるさい、つもりです。
人文でも方法論がいい加減ではまともな研究にはなりません。
そうそう、博士課程の研究方法の授業では、私は高い評価をもらったものです。
外国人の私には珍しい経験でしたので、よく覚えています。
詳述はしませんが、毎週、ひとつの論文を選んでは、バリディテイ、リライアビリティなどにつき徹底的に分析するというような面白い授業でした。
担当教官が、私ごときを自分が教えた学生の中で最高の学生だ、とまでおっしゃって下さいました。先生はあまりいい学生に恵まれてこなかったのでしょう。

また、科学であるためには知が蓄積されていくことになります。
環境芸術における現在までの研究はどこまで来ているのだろうか?
これが第2の問題。

2017年11月25日

2017年11月20日

一日一華:レセプションに


商業花は、とても勉強になります。
時間、予算、場など様ざまな制約の中で
お客様に喜んでいただける作品、満足していただける作品を
作り出さなければいけない。

生の花であるというだけで喜んでいただけるという
ありがたさは確かにありますが。

今日は終日商業花に従事。
帰ってニュージランド産のアサリでボンゴレを作り、
ハイネケンで乾杯。

そのあと気楽なテレビとか映画で過ごせるならば
そんな生活はとてもいいものだと思います。
私にはそんな日は年に数えるほどしかありません。

華道家としてだけ生きていけるなら、それもいいだろうな、と思います。
しかし、この国、オーストラリアでは少し難しいでしょう。
第一に十分な需要がありません。

そして、また、さらなる目標が見えてしまうと、
華道家として、とどまることもできません。

2017年11月12日

RMIT Short Courses: Ikebana to Contemporary Art

In week 1 & 2 our students learn how to make a basic style Ikebana and its 7 design principles. In week 3 they produce a geometrical drawing using at least one of the principles. The students are encouraged to create several design and art projects applying Japanese aesthetics.  

14 February 2018: A new term of Japanese Aesthetics starts at RMIT. http://bit.ly/1IFmuyl



www.shoso.com.au

2017年11月6日

一日一華:レストランに


かつては一人で山歩き、自転車旅をよくしたものです。
知床半島、三浦半島、佐渡島、伊豆半島、紀伊半島などなど。
メルボルン近辺もあちこち廻っています。

それがばったりなくなってしまいました。
そのせいか、と思うことがあります。

飛行機が苦手になってきました。
閉所恐怖症か、パニックアタックか。
あの苦しさは、なんとも耐え難いもので、
飛行機から外に逃げ出したい、狂ったような衝動が抑え難い。
周囲から空気がなくなっていくように感じ、呼吸困難。

最近は、少し混んだ電車に乗っても
足の裏が熱くなってきて、気分が悪くなってきます。
似た症状です。

対策は禅の呼吸で精神を落ち着かせること。
私にはそれしかありません。

しかし、山歩きを再開して、効果を見てみようとも思っています。

2017年11月4日

21世紀的いけ花考 第64回


 現在の生け花に多大な影響を与えた重森三玲の芸術観。それを世界(というか西洋)の芸術史に照らして考えてみましょう。重森が草月流初代家元勅使河原蒼風、小原流家元小原豊雲らと生け花の改革に取り組んでいたのは大正末から昭和の初め。重森は「生け花は芸術だ」と主張したわけですが、彼の考える芸術とは19世紀後期から20世紀初期の西洋モダニズム芸術でしょう。彼の名前自体、ミレーから拝借したものですし、抽象芸術(初期フォーマリズム)の火付け役、カンディンスキーなども彼の崇敬した芸術家であったようです。

 モダニズムとはどのような芸術運動なのでしょう?ここを理解しておくのは重要です。現在、華道の3大流派とされる池坊、草月、小原のうち戦後飛躍的に伸長した草月、小原など前衛生け花諸流派の主張は「生け花は芸術だ」でした。モダニズムの芸術だということ。そして、日本の伝統的な生け花、精神修養としての生け花を否定したわけです。

 もちろん、全面的に否定することはできませんし、曖昧な部分も多かったでしょう。もしかすると掛け声ばかりで、中身は伝統的な要素を温存させていたということだったかもしれません。また、流派によっては、重森の影響を受けはしたけれど、その思想を変容させていったという場合もあるでしょう(草月流における勅使原宏の仕事のように)。

 しかし、建前は生け花の革新だったのです。そして、それが多くの日本人を惹きつけ、戦後、前代未聞の生け花ブームを巻き起こしたのです。

 海外に生け花人口を増やすことに最も成功したのは草月でしょう。実は、草月とは言わば日本文化と西洋文化の混成。西洋化した生け花。「日本文化だと思って生け花を勉強していたら、中身はどうも(今や時代遅れとなった)モダニズムじゃないか」ということにもなりかねない。

 さて、以上を踏まえると、またもや様々な疑問が生じてきます。それらをリストアップし、整理しておかないと大変なことになりそうです。枝葉末節にこだわらず、「生け花とは何か?」「生け花はどこへ向かうべきか?」などについて、大胆に推論し、現代の生け花の可能性を過激に探っていきましょう。

 今回紹介するのは、最近の結婚式装花の一部。私は彫刻に庭園デザイン、インスタレーション、ブーケも手がけますので、こんな大層な依頼がきます。マイヤーのミューラルホールを2000本のバラで彩りました。 

 ホストすることで、収益もあり、募金もできる私たちの生け花ワークショップ。11月はMade in JapanKazari で開催です。開催希望の企業、団体、募集中です。顧客リストをお持ちのビジネスに最適のイベントです。


2017年11月2日

一日一華:レストランに


To cling to some outdated notion of artistic autonomy, individualist creative freedom,  or transgressive and free avant-garde identity, divorced from any duty or responsibility for environmental considerations, is to advocate, intentionally or not, for the status quo of neoliberal exceptionalism and its destructive ecoside.  (T. J. Demos, 2016: 265, Decolonizing Nature)

ここも最近、ちょっと感心したというか、興奮した本の一節。

環境の問題に目を向けないで、
創造の自由だとか、前衛だとか
芸術家気取ってんじゃねえよ。
そういうのは、結局、環境破壊に肩入れしているってことなんだよオ。

と、まあ、喧嘩口調で訳したくなるような部分ですね。

実は、これ、私が秘かに感じていることなのです。
口には出せませんが。
現代芸術に対して、そして、いけばなの世界に対しても。

自分の作品を通じて、静かに、そして強く
伝えていきたいことがあります。

最近、私の彫刻作品が現代彫刻展で、ある賞を受賞しました。
http://www.shoso.com.au/2017/10/contemporary-sculpture-award-for-shoso.html

嬉しかったのは、審査員による私の作品の分析が実に深かったこと。
ここまで読み取って下さるのか、と感心しました。

賞金もありがたかったですし、
外国の芸術の土俵で評価していただけたという感慨もあります。

海外で芸術家としてやっていくというのは、
力のない者にとっては常に疎外されているような気持ちになりやすいもの。
ですから、この受賞は特別でした。

それにも増して、分かってもらえた、
自分の言葉が通じたという満足感は大きいものでした。

2017年10月16日

2017年10月7日

2017年10月4日

21世紀的いけ花考 第63回


 重森三玲の芸術としての生け花論では、草木など自己表現のための材料でしかない、ということでした。戦後大躍進した草月流、小原流などに影響を与えた、この主張がいかに日本の伝統に反するものであるかを理解するためには、生け花の起源にまで遡る必要があります。

 土橋寛が「遠く古代に源流する花見の習俗が、『立花』を経て『活け花』という生活文化を生み出すに至った」(「日本語に探る古代信仰」中公新書)と書いていますが、正論でしょう。

 花とは鼻なのです。花の語源については諸説ありますが、私は冗談ともとれるこの説が好きです。鼻は顔の先端。外界に接する部位。花もまた外界・異世界と接する存在です。この外界とは、つまり、聖なる世界。この類比の論理で、花と鼻がつながるのです。日本語は面白いですね。

 花見で春の訪れを祝うのですが、本来の趣意は花を見ることで生命力を強化すること(タマフリと言います)。また、山に咲いた花の枝を折り、田植えの際に田に挿すという風習もあったようです。ようやく訪れた春の生気・神性。それは花に宿っているわけですが、豊作を願って、それを田に移そうということでしょう。古来から伝わる日本における花の性格が少し分かってくるでしょう。難しい言葉では呪物崇拝とかマナイズムなどと言います。

 まず、花は生命力に満ちた存在とみなされていたということ。これは了解できるでしょう。しかし、生命力とか「いきいきした感じ」などという表現では、言葉足らずな感じがします。その力は神秘的で日常を超えた聖なるものでもあります。さらに、その力は伝染します。魂に流れ入り、魂を振り起こしてくれます。花とはそうした霊力・呪力を持つ存在。本来、花は神聖なるものという認識が立花にも、生け花にもあったのです。

 つまり、重森の主張は、精神修行としての生け花を否定しただけでなく、この伝統的な花に対する見方をも否定したのです。これをどう考えたらいいのか。世界史的な見地から再検討すべきです。大変なことになりそうですが、次回に続きます。

 今回の作品はレズリー・キホー・ギャラリーズでの松山智一展に活けた小品のひとつ。松山さんの色の祝祭に対し、色を渋く押さえ込んで対峙しました。

 10月7、8日にアボッツフォード・コンベントで華道展和開催、また、22日からのYering Station彫刻展に選出されました。どちらも観光名所です。ぜひ、お越し下さい。さらに、25日からはRMITでの公開短期講座・日本美学も新学期開始。今月は忙しくなりそうです。

2017年9月26日

一日一華:レンギョウ



メルボルン大学で開催された The Japanese Australian Poetry Festival のためのいけばな。

連翹は我が家の庭から。

毎年色々な機会に使っています。
今年は、今回が最後でしょう。

連翹は1年のほとんどは、あまり綺麗な植物ではないですが、
春のこの彩り、ほんの数週間のためには、納得。
庭が明るくなるし、いけばなにも使える。
重宝しています。

2017年9月24日

一日一華:結婚式の花準備中


結婚式の装花を準備中。
今週は全てこのプロジェクトのために。

いけばなだけやっていければいいのですが、
そうもいきません。
私の特殊な事情によるのでしょうが、
彫刻もやれば、西洋花もやります。
庭のデザインまでやります。

今回はバラだけで約2000本を注文済み。
それくらいのスケールのプロジェクトです。

問題は人手がないこと。

おそらく日本で先生が個展をやるということになると、
生徒さんはボランティアで協力してくれるでしょうね。
勉強になるはずです。

安い月謝で教えてもらっているのだから、
こういう機会にお返ししなければ、ということもあるでしょう。

今回の仕事は私にとって個展のようなもの。
しかし、私の生徒からはなかなか協力が得られません。
お金を払っても難しいでしょうね。

文化の違いですから、仕方ないのです。

プロの集団を雇えればいいのですが、
このような仕事が頻繁にあるわけでもない。

お金を払っても、また難しい。
あまり仕事ができない方にお金を払い、
仕事ができる方、例えば私の生徒にはボランティアでお願いするというような
おかしなことにもなりかねません。

なんとかいい方法を見つけたいのですが。

2017年9月19日

一日一華:穢れとしてのプラスチック


オーストラリア人原住民の信仰には、
自然と共生するための叡智が多く含まれているようです。

それは神道でもそうでしょう。
穢(けが)れとして禁忌してきた信仰の背後には
エコシステムを維持するために意義深いものがあるようです。

自然を守るために、自らの行動を慎む、ということ。
それは叡智と言えるでしょう。

「古代信仰の叡智に注目を」と何人かは繰り返し訴えていますが、まだまだ。
資本主義社会は欲望追求に忙しい。
自らの行動を慎むなどという考えは微塵もない。

例えば、自然の立場からすれば、プラスチックなど極めて有害。
海洋に浮遊しては、亀などの水生動物が誤って食べて悶絶死、
海底に沈んでは、マイクロ・プラスチックとなって小生物まで汚染し、殺す。
当然、人体へも危害を及ぼす。
「プラスチックは穢らわしい」という感覚が生まれ、
それを信仰にまでもっていけないか。

地球環境の汚染、疲弊をどうしたらいいのか。
あれこれ考えざるをえません。

2017年9月11日

一日一華:そして書くということ(4)


今年も国際いけ花学会の学術誌のエッセー部門の編集のお手伝いをしています。
いけ花体験談など募集中ですので、ぜひご投稿下さい。
2017年度は九月末日締め切り。
日本語では900字程度。
投稿料は無料で、採用された場合、学術誌を1部進呈します。
http://www.ikebana-isis.org/p/toukoukitei.html
https://ikebanastudies.wordpress.com/2017/09/01/call-for-ikebana-essays-4/

編集作業の苦労については以前にもここに書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_17.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_30.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_86.html

900字程度という短さですから、個人的な体験談、発見、洞察などでまとめるのが無難でしょう。

先に、ボツになる例として、他人を批判するような内容のもの、
事実を羅列しただけのもの、などをあげました。

今年も早速、ボツにしたエッセーがあります。
今回の問題は根っこの部分では、上にあげた2例ととてもよく似ています。

日本の侘び寂びとは、こういうもので、いけばなではこのように具体化されている、というような内容でした。

面白い内容です。
でも、ボツです。

おそらく私も大学生の頃、そんな種類の文章を書いていたかもしれません。
哲学めいたエッセー。

それはそれでいいのです。例えば、ブログに発表するとか、チラシに使うとか。そういうことならそれでいいのです。

でも、大学の先生に提出したらば、ボツでしょう。

私にも苦い思い出があります。

豪州の大学で最初の修士を始めた頃、学士論文を英訳し、要約を提出しろと求められたのです。

内容は、原始仏教の縁起論をデリダの理論を応用して読み解くといったようなものでした。自信満々で提出しました。

ところが評価は最低のD。

不満でしたから、当時、東大の客員教授をしていたオーストラリア人の友人に送って、読んでもらいました。

Dが相当!という返事。

Distinction のDだったのか?と思いましたが、今は、ダメということがよくわかります。オーストラリアの大学院で鍛えられたせいです。

さて、どこがいけないのか?

侘び寂びのエッセーの例で説明しましょう。問題の根っこは同じですから。

まず、侘び寂びというような美学用語はきちんと定義しないといけません。その上で使うこと。様々な解釈が存在しますから、なぜそのような意味で用いるのかという説明も必要です。

「自分はこう考える」というのもいいですが、他人の定義を踏まえ、批判し、その上で自分の解釈を持ち出すこと。

そうした準備がなく、「私の解釈では侘びとはこれこれだ」などとやられても、話にならないのです。

結局、こうした難しそうな専門用語はできるだけ使わないことです。書いている本人は、知識をひけらかしたいのかもしれませんが、逆に、無知を晒しているだけなのです。

この辺のところは、分かる人には分かる。
分からない人に説明するのはとても難しいです。

かつての私もなぜあの画期的な哲学的学士論文が評価されないのか、全く理解できませんでしたから。

ともかく、ここでの結論は、「短いエッセーでは専門用語は避けよう」ということです。

2017年9月4日

21世紀的いけ花考 第62回



 生け花は精神修行か、という話です。生け花は道徳でも宗教でもない、「芸術」だ、というのが重森三玲の主張。生け花を大きく変えました。重森については作庭家としての評価は高いのですが、生け花研究家としてはまだ評価が定まっていないように思います。資料が少ない上に私の勉強不足もあって、詳述はできませんので悪しからず。重森の主張で最も気になるのは、彼が「芸術」をどのように捉えていたのか、ということ。それが生け花をどのように変えたのでしょう?

 戦後から現在まで、生け花は芸術だという主張が主流です。その主張の根本は重森の芸術観だと言えるでしょう。よく議論されるのは、生け花の材料である草木への重森の態度。「それをどんなに曲げ様と、折ろうと勝手であり、さうすることにって草木が可愛そうだとか、自然性を否定するとか考えている人々は、頭から挿花をやらぬ方がよい」つまり、自己表現のための素材でしかないという唯物論。利用するだけの客観的な対象物。ここは注目したい点。

 実は、生け花の精神性は様々な切り口で議論することができます。型、自然観、修行論、素材論等々。畏友井上治さん(京都造形芸術大学)の「花道の思想」(思文閣)でもその多重性が詳しく議論されています。おそらくここまで深い論考は生け花研究始まって以来の成果でしょう。そうそう、この本の元になった論文に感心して私がファンレターを書いたのがきっかけで国際いけ花学会を共に創設するに至ったのでした。

 ただ、生け花の素材としての草木への態度の奥にある日本人の精神性については、あともう少し掘り下げて欲しかったです。依代としての草木への態度が、生け花の起源の一つとして言及されるのですが、その後、神道的な要素と生け花との関連が深く議論されることはほとんどありません。

 本来、花は日本人にとって神聖なもの。そこが納得できると、重森の主張がいかに生け花の伝統に反するものか、そして、重森の思想を引き継いで発展した草月流をはじめとする戦後の前衛生け花運動が、伝統的な生け花といかに断絶するものであるか、理解できるでしょう。次回は日本人にとっての花とは何かについて、再確認しておきましょう。

 今回紹介するのはレセプションへの商業花。いろいろ試みて楽しんでいます。

 さて、8月に生け花ギャラリー賞の発表がありました。1万6千人超の注目を集めるコンクールとなりました。また、10月7、8日には和・華道展がアボッツフォード・コンベントで開催されます。お見逃しなく。

2017年9月3日

一日一華:オンライン指導


生け花のオンライン指導についてもあれこれ検討しています。
とりあえず、作品の添削指導をやっています。
http://www.shoso.com.au/p/e-learning.html

私の生徒からのリクエストでやっていることが多いのですが、
最近は面識のない方からのリクエストにも応じています。

利用してみようという方は歓迎です。

おそらくこれはそこそこの可能性を秘めていると思います。
そこそこです。
利用者に、どこまで満足してもらえるか。
難しい面がたくさんありますから、どこまで伸ばせるか、未知数です。

最も難しいのは、教材の一方通行ができない点。
与えるだけでなく、個別の対応が求められるという点。
ビジネス的にはあまり効率が良くないのです。

私としても、本当にやる気のある生徒でないと、
わずかなお金のために自分の時間を費やしたくはないです。

私の生徒(生け花師範)に協力してもらって、もっとシステム化できないか
という事も検討しています。

もう一つはオンラインコース。
こちらは教材は出来上がっていますが、もう少し手を加えたいというのがあって、なかなか発売に至っていません。
おそらくこちらはかなり大きくなる可能性はあると思います。

なぜなら、現在の日本の生け花の多くは家元制に依存していますから、
どの花道流派もオンライン指導には手をつけられないのです。
家元制は、オンライン指導などが広まると、立ちいかなくなります。

つまり、オンラインで学びたいというニーズはあるのに、指導しようという人がいない、というのが現状なのです。

しかし、オンラインで生け花はどこまで学べるものでしょうか。
本当にやろうとなると、試行錯誤を覚悟することになるでしょう。

2017年8月27日

一日一華:2017年いけ花ギャラリー賞


2017年いけ花ギャラリー賞がようやく発表になりました。
https://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/2017/08/ikebana-gallery-award-2017.html

生け花学習者向けの(師範は除く)コンクールです。
ですから、師範の方々の作品と比べれば、多少未熟な点はあると思います。

でも、今年はレベルが上がってきましたね、と何人かの審査員に言われました。
それは大切なことだと思います。

何と言っても16000人超の方々が見て下さる受賞結果です。
年々、その数は大きくなっています。
その中には世界中の生け花学習者が多く含まれます。
多少とも参考になるような作品でないことにはこの人気も続かないでしょう。

通常、生け花学習者の作品がこれほど多くの方々の目に触れる機会はあまりないでしょう。
おそらく著名華道家の作品でもこの数はなかなか達成できないはずです。
そう考えると、この賞も特徴あるものになってきたように思います。
審査員の方々、私のスタッフのみなさん、皆、ボランティアでよく頑張って下さっています。改めてお礼申し上げます。

2017年8月21日

2017年8月13日

いけ花上達のコツ(3)


生け花上達のコツは、瞬発力と持久力でしょう。
それらについては、いずれもっと詳しく書くことがあるでしょう。
その時は、このタイトル、「上達のコツ」にもっとふさわしい内容になるはずです。

しかし、今は、少々別のことを考えています。

第1回目、2回目は以下のとおりですが、第2回目に書いた問題について、さらにあれこれ考えているのです。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/08/blog-post_9.html

つまり、生け花を外国人に効果的に教えるにはどうしたらいいのか?

この問題にきちんと対処するならば、
いけ花指導を国際的に展開する上でも、とても役立つはずです。

日本には、千以上の生け花流派があるようです。
海外展開を目指したいという流派も多いはずです。

おそらくそれはとてもたやすいことでしょう。

海外には習いたいという人が多いからです。
さらに、その需要に答える指導方法を確立している流派がないからです。
外国人にきちんと教えられる生け花教師を養成しようなどと真面目に考えている流派はないと私には思えます。間違っているかもしれませんが。

「英語ができればいいのでは?」
実際、それだけでは不十分です。

前回私が指摘した、教えにくい外国人生徒の典型的なタイプに
対応できる指導力についてきちんと考えている流派があるでしょうか?

つまり、作品に独特のクセがあり、
自分の作品の未熟さを謙虚に認めることがなく、
言葉で、訂正すべき点の説明を求めてくる。

海外で教えている方ならおそらく出会ったことがあるタイプではないでしょうか?
「こういうタイプにはいけ花は向かない」と切り捨てたくなりますが、
こういう方は、程度の差はありますが、とても多いのですね。

生け花流派が、その流派の家元やトップクラスの師範を海外に派遣することはよくあります。
デモをやったり、海外会員を指導をしたり。
それはそれで重要でしょうが、海外の生徒数を伸ばすことが目的であるならば、
上記のような教えにくい外国人生徒を上手に教える方法を指導できる講師を派遣して、
海外の教師に指導実習すべきです。

それが本当に流派の将来のためになる投資です。
生け花教師の作家としてのレベルアップも大切ですが、指導者としてのレベルアップがより重要なのです。

さらに、上級師範のテストというのがありますが、特定流派の場合ですが、私の知る限り、とてもお粗末なものです。
実習と筆記試験。実習はともかく、筆記試験の内容は、家元の言葉を自分なりに解釈しなさいというようなもの。
生け花、芸術についての小論文。
芸術大学の大学院レベルで学んだ人には容易すぎますし、
その家元の言葉について容易に歴史的な限界を指摘できるでしょう。
私の「21世紀的いけ花考」を読んでおけば、容易にパスできるレベル。

むしろ上級レベルの師範の昇級試験には次のようなテストはどうでしょう?

ある外国人生徒が作った作品を提示します。
そして、この作品を講評しなさい、と求めます。 
さらに、手直ししなさい。
その結果、どう良くなったか言語で説明しなさい、とやるのです。

実は、これこそ、海外で生け花を教えている私たちが日々直面している問題なのです。

しかし、また、手直しし、なぜそれが必要なのかを言葉で説明できたとしても、
おそらく、達成できるのは、目的の90%くらいまでだろうと思います。
つまり、バランス、コントラスト、リズム、パターン、ハーモニーなど様々なデザイン原理の共通の用語を用いて説明しても、生け花の9割程度しか説明できないのではないかと思います。

最後の1割は、言語でどうしても言いあわらせないだろうと思います。
それこそ、生け花がデザインを超える側面なのです。

今回書いた問題はとても大きいものですので、いつかまた、解説します。

2017年8月9日

一日一華:いけ花上達のコツ(2)


いけ花上達のコツについて再び。
第1回目は以下でした。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html

結論から始めれば、要は瞬発力と持久力ということだと思います。

第1回目に書いたことは、瞬発力について、ということになるでしょう。
1回1回の作品制作に際し、全力投球する集中力、瞬発力。
そして、そうした訓練を長く、何年も継続させる持久力。
陸上競技の短距離と長距離、それぞれに求められる力が必要なのだと思います。

それはそうなのですが、
外国人に教えるということでは、やはり独特の苦労があります。
前回、学ぶ態度の違いということを書きました。

結局、同じことなのでしょうが、手強い生徒が何人かいます。

多少下手でも、個人で楽しんでいこうという方ならそれでいいと思います。
私の指導もそれ相応で。

ところが、自分は指導者を目指す、とか、
いけ花をデザインの仕事に生かすのだ、とか、
とても動機が強い生徒の場合、きちんと学んで欲しいなあと思います。

すると、私も厳しくなるのですね。
となると、日本人ではありえないような指導上の難しさに直面することになります。

何でしょう、彼らのあの作品の独特のクセは?

説明が難しいのですが、私の日本人の生徒の場合、作品がとても洗練された感じがします。
弱点も見つけやすいですし、指導も楽。
自分の伝えたいことが、すっと受け取ってもらえていると感じることが多いです。

ところが、一部の(1割ほどですから、大したことではないのですが)外国人には、何度注意しても直らない特徴があります。生徒作品は、次のフェースブック上で紹介していますので、ご参照下さい。https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

作品がうるさいのです。
色使いに品がないのです。
ただ強いだけ、繊細さがないのです。
あるいは、力がこもっていないこともあります。

これは、文化の違いなのだろうか、と思うことがあります。
美意識の違い、なのかもしれないです。

ある生徒は、くねくねした枝物をよく持ってきます。前回は梅でした。
確かに、素材は綺麗。それらをてんこ盛りにした上、足元を赤と白の椿で埋め尽くします。
初年度の生徒ならともかく、2、3年やっている生徒がこんなことでは!
と、珍しく腹が立ちます。
いけばなを教えて腹がたつなんて本当に珍しいこと。

椿を全部撤去しろ。
枝をもっと切り取れ、と。
もちろん、そんなに厳しくは言えないです。
怒りを隠して、やんわりと諭します。

しかし、
素直には従ってくれません。
テキストのサンプルはこうなっているとか、
枝のここが一番美しいのにとか。
自作を正当化します。

それに、理屈で対抗していかなければいけません。
こうなると、教えるのは楽ではありません。
時に、理屈で説明できなくても、ダメと感じることがありますし。
「ダメなものはダメだ!」と言いたくなりますが、
それで納得する相手ではないのです。

綺麗な素材を使っているのですから、
確かに、綺麗ではあります。

でも、生け花が目指す美しさは、もっと別のものです。

たとえば、ありふれた花材でも、雑草でも、
素材を組み合わせ、デザインする。
そこから美しさが生まれるのです。
美しさは、素材から直接生まれるのではなく、
作者が作り出すものです。

素材発の美しさではなく、作者発の美しさ。
それが生け花の美しさなのです。

学ぶ態度に謙虚さがないならば、徒労だろうな、とか、
下手で傲慢な師範を育てるよりは、やめてもらったほうがありがたいとか、
思い悩むことはありますが、
長く、忍耐を持って続けてくれれば、
いつか身につけてくれるのだろうと信じつつ。

そして、また、大部分の生徒はきちんと育っているじゃないか、
と自分を鼓舞してみたり。

結局のところ、伸びるか、伸びないか、
その違いは学ぶ態度にあるとよく思います。

ふと気付いたのですが、伸びる生徒はアジア系の生徒に多いようです。
それは師の教えを大切にしようという、儒教的な文化の影響でしょうか。
先生に反駁したりすることもないですね。
先生からするととても教え易い。
生け花などの芸事にはそうした態度が重要なのだろうと思います。

ところが、上下関係よりも横の関係を重視する文化圏出身の生徒の場合、
上記の通り、独特の苦労があるわけです。
教えにくい生徒はなかなか上達してくれません。

生け花の教師ほど楽しい仕事はないといつも皆に言っています。
それでも、瑣末な苦労があるのですね。

2017年8月6日

21世紀的いけ花考 第61回


 「生花は精神修行か」という話です。16世紀に池坊専応が「専応口伝」で、生花は仏教的な悟りに至る道だと言ってくれました。私たちはその言葉を頼りに励んでいるわけです。通念としても生花は精神修行だろうと多くの日本人が思っているでしょう。
 
 しかし、昭和8年、重森三玲が「生花は精神修行じゃない。道徳とは無関係だ」と宣言します。では、生花とは何か?芸術なのだ、というわけです。新興生花宣言と言います。これが日本の生花を大きく変えていくのです。
 
 昭和時代は生花史上、最大の激動期だったでしょう。「華日記ー昭和生け花戦国史」(早坂暁)という面白い本がありますが、これは昭和の華道界の混沌について。昭和初め自由花が初登場。これは革新的なことでした。10年頃に新興生花宣言。戦争のため生花は壊滅状態。戦後、生花人口急増。30〜40年代、空前絶後の生花ブーム到来。

 これらの流れは全て繋がっています。自由花、さらに芸術としての生花宣言があって、生花ブームが生まれるわけです。つまり、精神修行としての生花という側面は影が薄くなっているのです。重森の影響と言えるでしょう。今回の話をふまえ、重森の考えを、次回探ってみます。

 その前に、私自身のことを少し。おそらく、生花が精神修行だと確信できていたら、私ももう少し早くに本気になれたでしょう。生花に足のつま先をちょいとつけた頃、本当に生花をやって大丈夫かなと悩んだものです。現在、遠藤周作研究者として活躍している旧友にも不安を語ったことがあります。これを続けて、自分はどこに到達できるのだろう?人生をかけていいのか?後で「しまった」なんてことにならないか。「生花は道なんだから、大丈夫じゃなかろうか」「そうかな」というようなやり取りをした覚えがあります。共に確信はなかったと思います。私が長い間、フラフラしていたのも重森のせいかもしれないのです。
 
 さて、8月18日、国際いけ花学会会長、小林善帆先生の講演がメルボルン大学で開催されます。是非お越し下さい。

 また、私の生徒の師範取得者が増えてきました。彼女らに協力してもらい、救世軍と提携し、募金活動としての生花ワークショップを発案しました。生花史上初の試みかもしれません。私たちのワークショップを開催すると、1時間あたり$200の収益があり、$50募金できるという仕組み。カフェ、成人教育機関、美術館、図書館、教会などで活用してみませんか?
 
 今回、紹介するのは来年度用の無料カレンダーに選んだ作品。私のサイトからダウンロードできます。 


2017年7月31日

いけ花ギャラリー賞について(2)



いけ花ギャラリー賞をより面白くしようと、ピープルズ・チョイス・アワードを設けました。フェイスブック上でのいいねの数を競う人気投票です。私はあれこれ工夫するのが好きなんですね。

やってみると、これがまた面白く、勉強になります。

基本的に遊びでしょう。
厳密な審査で決まる賞ではありません。
それはそうなんです。が、しかし、、、

まず、プラスの面から。
最大のプラスの面は、ポストが俄然多数の方に拡散するということ。
私たちのポストは、通常、数百から千人くらいに届きます。
せいぜい2千人とまりです。
しかし、この人気投票受付のポストは1万5千人超に届きます。


これはこの賞を一層格式のあるものへとしていく準備として重要なことです。
注目されないことには賞の権威もつきません。

次に、生徒は普段では経験したこともないほどの「いいね」をもらったり、コメントをもらったりすることになります。これは大きな自信につながるようです。それだけで、ピープルズ・チョイス・アワードの意義は十分です。

ちょっと、ネガティブな面。

まず、必要以上に熱くなる人があるということ。競争心丸出しで、「いいね」をくれと宣伝するのですね。たかがピープルズ・チョイス・アワードでしかないのです。
それを獲得したからといって、何でしょう。
しかし、なかなか冷静になれない方があるのです。

そこで、一人3作以上を選ぶこと。
一つの作品のみをシェアしないこと、アルバム全体を(予選通過作品の全作)をシェアすること、などとお願いしています。

しかし、1作のみをシェアし、この作品を「いいね」してくれとやる方がよく出てきます。

これは、フェアじゃないと思います。そういう人が出たら、ピープルズ・チョイス・アワードはキャンセルするとまで言っています。

しかし、こういう行為を不公平と断じるとしても、どこまで厳密に対処するか、
これはかなり難しい問題です。

なぜ、そういうことをするのか、というと、一つには私たちの指示を理解できない方があります。英語の問題もあるでしょう。また、ピープルズ・チョイス・アワードとは、結局、友人に拡散して、できるだけ多数の「いいね」をもらう、そういうものだと思っている方があるようなのです。つまり文化的な差異です。さらに、当方の指示など読みもしないという方もあります。

しかし、大多数の方は当方の指示に従って、冷静に選んで下さいます。
そういうたしなみのある、私たちが期待する楽しみ方をして下さいます。
それは多く、特定の文化圏の方です。

逆に、大騒ぎをして、不公平でも何でもやり、賞を取ったが勝ち、とやるのも別の特定の文化圏の方に多いようです。

文化の差というのはどうしようもないのかなと思ったりします。

例えば、スポーツの国際試合などでも、一般に日本人はアンフェアな選手など嫌いでしょう。たとえ勝ったとしても反則が多いような選手、態度が良くない選手は応援しないでしょう。

ところが、勝てばいいじゃないか、という国があることも見聞きしているはずです。
文化の違いということでは、似ています。

どこまで許容するか、どこから厳密に対応するか、
異文化と付き合う上では重要な問題でしょう。

2017年7月26日

一日一華:超えるということ(2)


フェースブックを見ていると、
著名人の略歴を紹介したビデオがよく出てきますね。
1、若い頃は厳しい境遇にもめげず、努力した。
2、その結果、今では、資産数千億。世界有数の億万長者だ。
3、皆も苦労に負けずに、頑張ろうね。
というポジティブなメッセージ。

私の反応は、
1、なるほど、そうだったのか。大変だったろうな。
2、それで?
3、そう言われてもなあ。
多分、あまり素直でないのでしょうね。

でも、億万長者になりたいと、それほど強く思えるものでしょうか?
もちろん、私も裕福ではないですから、お金はあればありがたい。
しかし、遣い切れないほどの資産を手にして、
それだけで人は満たされるものでしょうか?

おそらく、例えば日本の引き込もりの方はもちろん、多くの若い人たちも
上のようなメッセージを与えられても、しらけてしまうのではないでしょうか?
「よおし、自分もやるぞ」というような動機付けにはならないだろうと思うのです。
人生の成功って、そんなものなの?その程度?という具合に。

自己実現だとか、好きなことを精一杯やってみようとか
言われても何をやっていいのかわからない。
現実的な仕事も生活の手段としてはやらざるをえないと了解できるものの、
そこにあまり意味を見出せない。
生き甲斐が見つけられない。
自分の命をかけてみよう、
燃やし尽くそうというほどに熱くなれるものが見つからない。
そういう悩みは多いと思います。

これは仕方ないことだと思います。
なぜ仕方ないことなのか?
では、どうすればいいのか。

「あること」に気づく必要があるのではないか、と私は思います。
「あること」とは、上記のようなビデオのメッセージ、
努力して、困難を克服して、人間的にも成長して、お金を掴もうよ、というメッセージの出処はどこか、ということ。

それを歴史的に理解すること。

そして、もしかすると、現在は、そうした価値観が終焉を迎えているのではないか、ということにまで考え及ぶ必要があるのでは?

つまり、そうした価値観を超える時期にきているのではないか。

もしそうだとすると、もっと新しい価値観はどのようなものか。
その価値観は、もしかすると、上記のようなビデオメッセージにしらけてしまう人々までをも熱くするのではないか。

そんなことまで、考えさせてくれたのが、前回(https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post_25.html)紹介した以下の本だったのです。
T.J. Demos (2016) Decolonizing Nature: Contemporary Art and the Politics of Ecology.

いずれ、内容を紹介できると思います。

既存の価値観を超えるということは、どういうことかと考えていくことになるでしょう。

2017年7月25日

一日一華:超えるということ(1)


久しぶりにいい本に出会ったなあ、と、感心したのが、
T.J. Demos (2016) Decolonizing Nature: Contemporary Art and the Politics of Ecology.
著者はUC, Santa Cruzの教授。

こういう上質の本を読むと、頭の中がスッキリ整理される感じがします。
本の内容については、おいおい紹介することもあるでしょう。
今準備している論文では、重要な参考文献になるでしょう。

さらに、読みながら、思ったのは、「超える」ということ。

個人的な定義でしかないですが、超えるという経験を何度かしてきました。

ある宗教者の著作を集中的に読んだことがあります。
かなり画期的な主張だと感心していました。
心酔とまではいきませんが。
自分を反省するためにはとても役立ちました。

それがある出来事から、この宗教者の生き方に落胆。
すると、ネガティブな情報ばかりが入ってくるというような経験をしたことがあります。
その時に、超えたという感じを持ったのです。

超えるということは、超える以前の自分が対象化されるということ。
やや客観的に見ることができます。距離ができるのです。
以前の自分の輪郭がはっきりしてきます。自分の限界でもあります。
同時に、感心していた宗教者のことも客観的に見ることができます。
その限界もはっきりしてきます。

おそらく、政治的な転向などにも当てはまることでしょう。
私自身は経験がないので、よくわかりませんが。

私自身については、戦後教育を受けたものですから
どちらかといえば、左翼的な言説に惹かれたものです。
反日的で、日本などという悪徳な国家権力は潰してしまえといった具合でした。
それが日本のマスコミの主流でしたし、
著名な学者の大多数の意見でもありました。
それに同意しない者は、好戦的で、頭が悪い右翼連中としか思えませんでした。

しかし、今は、そうした左翼的な考え方は超えたなと感じます。
もちろん、いきなり右翼になってしまったわけではないです。
右翼と関わるつもりもありません。
ただ、洗脳されていたのだなとは、分かってしまいました。

日本の左翼は、結局、勉強不足。
きちんと勉強すれば、誰でも洗脳が解けます。

ここでも、超えてしまうと、
左翼思想が対象化でき、その限界がはっきりしてきます。

左翼的な主張をしていられるほど、日本には余裕はないのです。
日本はそれほど絶対的でもないし、日本の平和も盤石ではない。
国際上、かなり危うい立場なのです。

日本の左翼の平和に関する主張(例えば、シールズとかいう学生グループの主張)は、諸外国の、例えばオーストラリアの小学生でも呆れかえるレベルです。世界のどの国でもあのような主張が大手メディアで取り上げられることは決してありません。(一つでも見つけられた方がありましたら、お知らせ下さい。私はお詫びします。さらに賞金も差し上げます)。

しかし、こうした日本の現実が特異なものであるということは、ある程度勉強しないことには分からないようになっています。通常、日本では、勉強すればするほど左翼になっていくのです。そこを超えるほどの猛勉強が必要なのです。

ところが、最近は、インターネットを中心に、きちんとした、正鵠を得た主張に触れる機会が増えてきたようです。日本の左翼メディア(日本を狙う共産主義国家寄り)を対象化できる、つまり、超えられる機会が増えてきたように思います。ちょっと脇道に逸れてみるだけで、簡単に超えていけるのかもしれません。

そして、左翼の洗脳が解けた人は、「自分も洗脳が解けた!」と恥ずかしがらずに声を上げること。
それが役に立つのではないかなと思います。

現代日本では、左翼から右翼に変わる人はあっても、
右翼から左翼に変わる人はいないそうです。

必ずしも左翼から右翼に変わる必要はないと思いますが、
左翼の洗脳からは早く脱して、
自分の頭で物事を考えられる人が増えたほうがいい。
それは確かだと思います。

さて、以上の話が、最初に提示した本の内容と
どう関わってくるのか、ということですが、それはまた次の機会とします。
長くなりそうなので。

2017年7月20日

いけ花ギャラリー賞について(1)


2017年度のいけ花ギャラリー賞の準決勝進出の17作品が発表になりました。
ピープルズ・チョイス賞には、どなたも投票できるようになっていますので、ぜひご参加ください。お一人3作品以上を「いいね!」して下さい。締め切りは7月末日です。
https://www.facebook.com/pg/IkebanaGallery/photos/?tab=album&album_id=1232144103581414

いけ花ギャラリー賞については、思うところがいろいろあります。
嬉しいことのは一つは、準決勝に選ばれただけで、喜んでくれる方が多いということ。
世界各地から感謝のメッセージが届いています。

そして、この発表のポストが約1万人にまで拡散するということ。
他のフェースブックでのポストでは、私たちには通常とても達成できない数値です。
おそらく著名なフラワーアーティストででもない限り、なかなか達成できないでしょう。
選ばれた生徒にとっても、もちろん、普段見てもらえない人たちにまで作品を見てもらえ、励ましのコメントをいただけるわけです。

生徒の作品のレベルが上がってきたこともあるでしょう。
いけ花における賞が注目を集めるということもあるでしょう。

この賞の趣旨などについては、国際いけ花学会の学術誌第4号に発表しましたので、機会がありましたら、読んでみて下さい。4号はまだ発売中ですので、全文を掲載するわけにはいきませんが、一部のみ以下に紹介します。4号のお申し込みは以下からどうぞ。
http://www.ikebana-isis.org/p/blog-page_1825.html

いけ花ギャラリー賞の目指すもの
新保逍滄

 2012年以来、オンラインいけ花コンクール、Ikebana Gallery Award (IGA) を年1回開催しています。世界中のいけ花学習者が流派を問わず無料で参加できる世界初のオンライン・コンクールです。2015年度にはフェースブック上での受賞発表通知は約1万人の方々に届くほどになりました(http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/, https://www.facebook.com/IkebanaGallery/)。

端緒

 IGAを思いついたきっかけは幾つかあります。最大のものは、オーストラリアで美術修士を履修中から幾つかの彫刻公募展に入選してきた私自身の経験です。他の出品者やキューレーターから批評をいただける、他の出品者の作品から刺激を受けるなど、とても有意義な勉強になりました。さらに、公募展入選は一つの業績として履歴書に書けます。すると、仕事の機会も増えますし、自分の意識も変わってきます。いけ花の世界にいた者にとって芸術の世界はとても新鮮でした。いけ花でもこのような機会が作れないかと思ったのです。

 さらに、ネットのブログでは、多数の先生方が自分のいけ花作品の紹介をされていることに気づきました。しかし、生徒作品はなかなか見かけません。「人様に見せるほどのものではない」と先生も生徒も思っているのかもしれません。しかし、私のサイト(www.shoso.com.au)で、生徒の作品を掲載すると私の作品の時以上に訪問者が増えるのです。生徒作品への関心は潜在的にあるように思えました。自作をより多くの人に見せたい、また他の生徒の作品を見たいという希望は、多くの外国人の生徒にとって自然なものであるようです。その機会を提供することが、生徒の学習動機を高めることになるかもしれません。こうして生徒のためのオンライン公募展というアイディアの芽は育っていったのでした。

趣旨

 このコンクールの趣旨は次の二点としました。「世界各国でいけ花を学ぶ生徒のため、作品紹介と学習体験を分かち合う場を提供することで、いけ花学習をサポートすること」そして、「芸術としてのいけ花の認知度を高め、世界のより多くの人々にいけ花を伝えること」

 私は日本でいけ花の基礎を勉強した後、オーストラリアでも勉強を続けてきました。オーストラリア人の先生、故カーリン・パターソンさん宅で週1回、10名ほどの生徒とともに数年間学びました。とても狭い世界でした。作品発表の機会もほとんどありませんし、限られた他の生徒の作品にしか触れる機会がありません。また、いけ花自体、認知度が低いという状況で勉強を続けていくわけです。日本とは違います。世界中の多くのいけ花学習者が同じような状況で勉強を続けていることでしょう。第一の趣旨は、そうした方々への小さな力になれないか、という思いを反映したものです。特に海外の場合、いけ花の先生には作品発表の機会も、所属流派からのサポートもあることでしょう。しかし、生徒へのサポートとなると流派からの組織的なものなどほとんどないのが実情ではないでしょうか。インターネットのおかげで従来難しかった多くのことが少しの手間と費用で可能になっています。このコンクールの目指すサポートもその一例でしょう。

 さらに、この賞がいけ花の認知度を上げる契機になればなお素晴らしいと思います。この第二の趣旨は理想です。IGAの知名度が上がったならば、それを通じていけ花に触れたという方が出てくる可能性があります。実は、これはソーシャル・メディアが発達している現状では大いにありうることです。面白いポストだなと思った方が拡散するという事態は実際に生じているようです。それがいけ花について知識のない方々にも届くということが現実になっています。さらにIGA受賞者が受賞を契機に活動の場をより広げていける可能性もあります。

以下、運営方法などを詳述しています。

2017年7月12日

一日一華:ちょっとさんへ


商業花では様々な制約の中で制作しなければいけません。
時間、予算、クライアントの花についての要望などなど。
大変ですが、それでも楽しいなと思える仕事です。

さて、生け花と芸術の違いを最も意識するのは
私の場合、公募展への応募に際してです。

もちろん、芸術家としての応募です。
生け花アーティストとしての公募展への出品の機会など当地では存在しません。

応募に必要となるものは、
1、作品の趣旨
2、作品の写真
3、作者の履歴書
4、過去作品サンプル
だいたい以上が通常求められるものです。
さらに申込手数料として、日本円で5000円程度支払います。

これらの書類を用意するたびに、
生け花とは違う世界だな、と感じます。

求められる項目の一つ一つについて
生け花の世界だけにいたのでは、通用しないな、と思います。

いずれ、その辺を詳しくお話ししたいと思います。

ありがたいことに私は公募展にはそこそこ入選しています。

しかし、まだまだだなと思います。
まず、応募数が少なすぎるなと反省しています。

ある公募展のオープニングで、「年に50ほど応募するんだが、そのうち3割通れば上出来さ」などと笑っていたアーティストがいました。
当地の彫刻界では著名な方です。

ともかく、コンクールや賞、公募展、とても多いのです。
そこでアーティストは鍛えられるのでしょう。

生け花の世界で「生け花ギャラリー賞」を設けても
なかなか皆さん、腰が重い。

生け花は芸術だ、
というのは掛け声ばかり、という面はあるでしょう。
こうした事情については、いずれ、詳しくお話しします。

2017年7月10日

一日一華:花菱レストランに


昭和時代、生け花ブームが起こりました。
そのキーワードは、「生け花は芸術だ!」だったと思います。
生け花は芸術になったのです。

しかし、伝統的な生け花のあり方と、芸術との「いいとこ取り」だったように思います。
日本で起こる文化変容ではよくあるパターンです。
詳しい説明はいずれ私のエッセーシリーズ、「21世紀的生け花考」で取り上げますが。

その結果、

芸術家なのに華道家の看板で活動する人と
華道家なのに芸術家のふりをする人が出てきたのではないでしょうか。

どちらも普段はまともな生け花作品を作っているのに、
展覧会などでは、よくわからない作品を出してきます。
(と、一般の方には見えるのではないでしょうか?)

しかし、前者は現代芸術の文脈を踏まえた作品であることが多いようです。
(典型的な例は勅使河原宏でしょう)
後者は、独りよがりな解釈不能な作品になっています。

この違いはどこから来るのか?
現代の生け花作家の課題の一つはこの辺にもあるように思います。

2017年7月9日

一日一華:宙に浮く森


宙に浮く森を、というリクエスト。
メルボルンの和食カフェChottoさん、です。

前回のポストで、海外における生け花教師の立場について触れました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post.html

どうも日本とは違う。
日本のように、生け花教師という立場に対する社会的な認識がない、
ということが大きな違いでしょう。

ということは、
どのような在り方をしてもいいということでもあります。

日本と同じような華道教師を目指してもいいでしょう。
自宅教室で地域の方々に花を教える、というのが基本でしょうか。

あるいは、もっと活動の場を広げてもいいのではないかとも思います。
すると、芸術の世界に関わってくることになるでしょう。

その際、最大の難関は、芸術家という立場への理解。

私の経験の範囲内での話ですが、
簡単にいえば、芸術家には実技と理論、双方が求められます。

実技だけで活躍しているように見える芸術家もあります。
割合は少ないですが。
芸大など出ていなくても、作品が素晴らしいという方はあるのですね。
それで十分ではないかと思えます。

しかし、話してみると、多くの方が
機会があれば、芸大で学位(修士以上)を取りたいんだ、と言います。

また、私がオーストラリアの大学で美術修士を履修していた時、
半数以上の生徒が、年配の方々でした。
彼らはある程度、芸術家として実績を積んでいる方々。
そうした方々が、一層のキャリアアップの方便として、
芸大で学位を目指しているのです。

それに対し、学部からそのまま大学院に入ってくる
20代の若い学生は数が限られていました。
残念なことに、彼らは学位を取っても、
その後、芸術家として活動する人はかなり少ないようです。

芸術家としてキャリアを積むのはなかなか大変です。
おっと、話が逸れてしまいました。

今回お話ししたいことは、理論の大切さということ。
芸術家として活動していく際に、
大学院で学ぶ程度の理論を身につけると有利、
あるいは、それが望ましい、という状況であるようなのです。

理論は芸術家としての実技面にも必要になってきますし、
社会的にも、つまり、芸術家として認めてもらうためにも大切なのだということです。

要するに、華道家を超えて、芸術家を目指そうということになると、
理論が求められるということ。
芸大に行ける機会があれば、理想的ですが、
なかなか難しい場合が多いでしょう。

一つの方法は、自分で覚悟を決めて取り組むことでしょう。
独学でもいいのです。

以上が、基本です。

この基本を外れると、困ったことになるのです。
勘違いをしている方もよく見かけます。
勘違いの具体例についてはまた別の機会に。

予想できるでしょうが、本人は芸術家のつもりでも
まったくそう認めてもらえない場合もあれば、
理論など持ち合わせていないのに、持っているふりをするというような
場合も出てくるのです。

生け花というのは、勘違いの温床になりやすい、
危うさを持っているように思います。

2017年7月7日

21世紀的いけ花考 第60回


 生け花とは何か、という話から、あちこち話が飛んでいます。「生け花は精神修行」だというのは、共感者も多い有力な生け花の定義。しかし、その中身はなかなか複雑。禅との関連で説明することもできそうですが、よく考えると、過去数回にわたって書いたように、多数の疑問点が出てきます。

 さらに、生け花とは何かと考えていくと、日本文化とは何か、ということにまで話が繋がっていくことにも気づいていただけたでしょうか。これは生け花の歴史についても言えることです。生け花の歴史を追っていくと、日本の歴史を学ぶことになります。武士階級が力を持つと、それが生け花の形に影響を与えます。商人が経済力を持つと、そのニーズにあった生け花が生まれます。日本文化、社会の変遷と共に、生け花は変容するのです。生け花は日本文化の一部ですが、その一部は全体との関連で常に変化しているということです。

 さて、「生け花は精神修行」だとして、その中身をさらに考えていくことにしましょう。歴史や文化の話にもなりますが、その前に、今、現在、私たちは生け花を精神修行として実践しているでしょうか?もし、そうだとすれば、生け花指導の中に精神的な内容が含まれていなければならないはず。また、生け花師範ともなれば、高徳な方が増えてくるはず。しかし、私の個人的な所感では、そうはなっていません。愚劣な部分も目立ちます。もちろん、これは個人差、地域差、流派間の差などがあり、簡単には言い切れないでしょうが。

 実は、戦前、「生け花は精神修行」だという通説を、真っ向から否定した人物があります。この方が日本の生け花の方向を大きく変えたと言ってもいいでしょう。三大流派のうち、草月流、小原流の家元が師事した先生でした。他にも多くの有力な華道家が彼の生け花改革運動に協賛しています。生け花は精神修養ではなくなったのです。
 
 生け花に多大な影響を与えたこの人物とは、重森三玲。以前にもこのエッセーで紹介したことがありますね。昭和を代表する庭園デザイナー。私が日本庭園に興味を持ち、庭園デザイナーの資格を取るまでになったのはこの方の作品にふれたせいでもあります。次回は重森について、もう少し触れ、私の持論まで持って行きましょう。

 6月には私がNGVで生け花の講演を行いましたが、8月には国際いけ花学会会長がメルボルン大学で講演をなさいます。ぜひお越し下さい。

 今月紹介するのは花菱レストランに活けた作品。私にとっては毎週のトレーニングです。

2017年7月2日

生け花ギャラリー賞応募締め切り


メルボルンの日本レストラン、花菱にて。

さて、6月末に2017年度のいけ花ギャラリー賞の応募を締め切りました。
まだまだ応募数が少ないなと感じます。

この賞の意義、目標などは、国際いけ花学会の学術誌、いけ花文化研究第4号(2016年度版)に書く機会がありました。
http://www.ikebana-isis.org/p/blog-page_1825.html

私の生徒たちはかなり積極的になってきました。
この賞の意義が少しづつ理解されてきています。

いけ花の狭い世界の中だけで活動していくならば、この賞はあまり必要はないのです。
従来のまま、自宅教室で何人かの生徒を教えて細々やっていくということならば。
しかし、海外では若干状況が違います。

1、教室についてもインターネットで検索されます。自分のホームページを作り、自分のCVを掲載することになるでしょう。
2、自宅教室以外の場で教える機会があります。
3、商業花、芸術祭での展示を求められることがあります。
4、芸術展へ出品したい時もあります。
5、メディアに出る機会があります。

こうした状況で常に必要なのが、CVです。
芸術家としての履歴書です。

履歴書に「〜先生の指導のもと、〜年修行した」というくらいしか書くことがないという生け花教師が多いのです。こういう方は海外ではまともにはやっていけないだろうと思います。アマチュアとみなされ、プロとはみなされないでしょう。もちろん、数人の生徒を集めて自宅教室を維持していくということは可能でしょうが、それ以上の活動は難しいでしょう。

本人は「町の生け花師匠」ということでもいいでしょうが、海外ではそのような立場に対する認知はほとんどないのです。「芸術家として、どれほどの人なのだろう」という目で見られるのだと覚悟しなければいけません。

展覧会歴、展示歴、受賞歴、出版歴、メディア歴、などを示して、初めてこの人は本気だなと、認めてもらえるのです(学歴なども記載できれば理想的)。

コミュニティセンター、学校、教会での指導など、ちょっとした指導の機会にもCVの提出が求められます。

ですから、生け花教師は、自分の生徒のCVをどうしたらより充実したものにできるか、活動の機会を広げさせてあげられるか、きちんと考えるべきです。展覧会への出展の機会を与えたり、特別展示の機会を見つけてあげたり。さらに、賞を獲得できる機会を紹介してあげるとか。自分のことだけで手一杯という方も多いでしょうが、自分の怠惰の口実になっていないか、反省すべきです。

賞と言っても、生け花学習者には、そのような機会が少ない上に、受賞に至るのはなかなか大変です。時間もお金もかかります。おそらく海外のフラワーショーなどには参加の機会があるかもしれません。しかし、西洋の商業花と競争していくのは容易ではありません。つい「競争なんて生け花学習者のやることではない」などという考え方に傾くこともあるでしょう。

そこで、お金もかからず、手軽に参加できるのが、この「いけ花ギャラリー賞」なのです。
まもなく、私の生徒の中から、師範取得者が次々に出てきます。
彼女らのCVには、「〜年いけ花ギャラリー賞最優秀賞受賞」という項目が、燦然と輝いていることでしょう(笑)。
彼女らの活動の機会は、きっと増えるでしょう。おそらく、実力以上の機会にも恵まれるでしょう。それがさらなる成長をもたらしくれるはずです。

「いけ花ギャラリー賞」に対する認知はまだまだこれからです。
できるだけ早く、より多くの協賛者が出てくることを願っています。
まずは、海外でいけ花を指導している方々にご理解願いたいと思います。

2017年6月27日

生け花で募金活動


生け花で募金活動がやれないか?

私の印象でしかないですが、オーストラリアでは募金活動が日本以上に盛んです。
様々な工夫を凝らした活動があります。
積極的に参加する人が多く、社会に定着しているように見えます。

私がやるとしたら、どうなるか?
まず、不透明感をなくしたい。
私がお金を集める役をしながら、お金を直接扱わないことはできないか?
私を素通りして、寄付金が全額、慈善団体に直接届くようにしたい。
できるのですね。

さらに、募金する人も儲かる、募金を集める私も儲かる、という状況から
生まれる利益を慈善団体に還元するようにできないか。

つまり、募金する人は、通常、1000円募金すれば、自分の財布から1000円減ったと感じるでしょう。
しかし、私の理想とするのは、例えば、3000円一緒に儲けましょう、そのうちから1000円だけを募金して下さいませんか、というようなシステムを作りたいのです。
1000円減っても、2000円儲かるわけです。
気楽に募金できるでしょう。
気負いはないか、自己満足か、売名か、偽善か、等ややこしい心理的なあれこれにとらわれることなく、募金してもらえないか。

そんなことができるのか。
できるのですね。

今回立ち上げたのは、そんなプロジェクトです。
https://salvoscommunityfundraising.everydayhero.com/au/shoso
http://www.shoso.com.au/p/workshop.html

これが成立する要因は、
生け花ワークショップから上がる私たちの収益を抑えたこと。
新しく師範になった生徒に教える機会を提供したいという希望があります。
将来、生け花の生徒を増やすことにつながるのですから、
賃金が多少安くても協力してくれとお願いしています。
しかし、実際は、そこそこ収益があります。
大学の非常勤講師の時給の2倍くらいは払うつもりです。

ワークショップ参加者からすれば、他より多少高い費用であっても、自分の参加費用から明示された定額が慈善団体に寄付される、となれば、勉強もでき、寄付もできる、一石二鳥。

要するに、ワークショップの売り手よし、買い手よし、
おまけに世の中のためにもなるという3方よしのプロジェクトになったと思います。

次は、きちんとマーケティングし、お客様を増やすことです。
これからが本番です。

2017年6月23日

2017年6月21日

2017年6月16日

鯨の巨大便(5)


今年、2017年、4月に帰省したところ、郷土の文芸誌「村松万葉」が廃刊になると知らされました。寄稿者のリストをみると、50代の私が最年少の一人という状況ですから、存続は厳しいのだろうと思われます。この文芸誌を創刊され、32年間、継続してこられた文学者、本間芳男先生のご尽力にお礼申し上げます。
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20170329315525.html

「村松万葉」は新潟県の主要な公立図書館で閲覧できるはずですので、機会がありましたら是非ご覧下さい。また、本間先生の作品も機会がりましたら是非どうぞ。児童文学には、相応の枠組みがあるものと思っていましたが(ちょうどディズニー映画が様々なおとぎ話から残酷な部分を排除してしまうように)、先生の作品には、そんな配慮などまったくないのです。直球を子供達の胸にぶつけていく、力強い本物の文学です。
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E9%96%93-%E8%8A%B3%E7%94%B7/e/B004L26GWE
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/131382.html

このブログでも2回ほど「村松万葉」について、言及しています。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_28.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_8.html

今回は、2009年度版に寄稿した原稿、「蛭野・魚・地球」を再録します。そして、鯨の巨大便シリーズはひとまずここまでとします。

「村松万葉は文化遺産だと思う。特に年配の方々の思い出話は貴重なものだ。私達が経験し得ない先人の歩みは私達の人生にとても大きなものをもたらしてくれる。そう言う私自身、もう昔話をしてもいい頃か。甥や姪のためにも祖母や父母のことを書きたい。60~70年代の雪国の農家の生活は厳しく、怠惰の入り込む余地などなかった。今も、朝、起きられなかったり、困難に出会ったりすると、「父母を想え、祖母を想え」と自分を叱咤する。それほどの生き方を残してくれた。しかし、父母の時代については、母が健在だからきちんと話してくれるだろう。今回は私が子供の頃の話をひとつ、ふたつ。

故郷を離れて暮らしているせいか、育った蛭野の夢をよく見る。堤の前あたりに見慣れない建物が建っていたり、慈光寺に通じる別の道があるのを発見したり。そして、魚がいろいろな形で出てくる。浅瀬で大きな体を横にしてあえいでいたり、見たこともない色とりどりの魚の群れが気持ちよさそうに泳いでいたり。夢分析でもしてもらったら面白いだろう。「魚」に関連して思い出すことがある。私にとって大切な意味があるのかもしれない。

小一の頃だろう。学校の帰り、区画整備もされていない田圃道を歩いていた。気付くと、ようやく根付いた緑色の稲株の周りの水が真っ白になっていた。次の田も、また次の田も真っ白。ドジョウや蛙などの死体だった。皆、白い腹を上にして、固くなって水に浮いていた。何か大変なことが起こったのだ。一目散に家を目指した。新しい農薬を散布しただけだと知らされた。「それだけのこと」と言われても、何か取り返しの付かないことが起こってしまったのではないか、と心のざわめきは収まらなかった。

それからというもの、水中生物は激減した。いつの間にか数が減り、気付くともう何年も見かけない、という生き物がたくさんいた。私は魚はもちろん、水の中の生き物が大好きだった。水槽の生物はどれだけ見ていても見飽きることがない。ヨコノミは指先に乗る位の丸い蝦の一種。親が子供を腹に抱えていることもある。泳ぐ時、体を横にしてツイツイ泳ぐ。郵便持ちは細長い虫で、頭の後ろに毛のようなものが生えていた。泳ぐとそれがゆらゆら揺れた。ゲンゴロウと水澄ましは似ているけれどゲンゴロウがずっと大きかった。タナゴは横腹にきれいな虹色が浮かんでいて、川で捕まえたときは宝物扱いだった。ドジョウはくねくねと水面に上っては、また水に潜っていく。鯰の子供のようなグズというさえない魚もいた。愛嬌のある顔が好きだった。黒いナツメも不思議な魚だった。そして、少しこわいようなタガメ。

毎年、稲刈りが終わった頃、堤狩りがあったことも思い出す。水を落とした堤で魚を掬い取る。蛭野のどの家にも大きな網があった。大人の関心は鯉だったように思う。鯉は取っても自分のものにできず、いったん全て集め、くじ引きで分配していた。だから子供はフナなどの鯉以外の魚を狙った。普段は見かけない魚がたくさんいた。それを腰のびくに入れ、冷たい泥水に首まで浸かってあさるのだ。堤狩りの後は、しょうゆ味の雑魚煮が何日もおかずにでた。亀が取れることもあったが、それは大変な賞品だった。甲羅に穴をあけ、池の周りにつないでおく。「去年はあの辺で亀が取れた」などということが子供の話題になった。私にとって蛭野は生き物の宝庫だった。そんな話を家内にしていたら、痛いほどの思いが込み上げてきた。

最近、奇形蛙の研究をしている学者に会った。足が3本、5本の蛙、さらに手足がない蛙も世界中で見つかっているという。その数はどんどん増えているらしい。はかないものから順に環境汚染の影響を受けていく。人への悪影響も出始めているというのになかなか動けないでいる。

また、調査捕鯨などという蛮行を続ける国もある。その調査は学問的に稚拙で、国際的な学術誌に採用されたことがない。科学的根拠のないデータを示し、絶滅寸前の野生動物を捕り続け、世界の嫌われ者になっている。メディアも真相を隠している。海外のテレビでは、その国の漁船が血を流しつつ逃れようとする鯨の親子を容赦なく殺し、切り裂く場面を何度も流しているのに。地球はあえいでいる。」

鯨の巨大便(5
鯨の巨大便(4
鯨の巨大便(3
鯨の巨大便(2
鯨の巨大便(1

2017年6月12日

鯨の巨大便(4):長谷川祐子「『なぜ』から始める現代アート」NHK



東京現代美術館のチーフ・キューレター、多摩美術大学特任教授、長谷川祐子「『なぜ』から始める現代アート」(NHK出版)に以下のような一節があります。

「西洋の動物保護団体の人たちは日本人に対して、『なぜ、最大の哺乳類で、人間に近い鯨を殺して食べるのか』と怒っている。『そんなことを言うなら、牛も哺乳類ではないか、なぜ鯨だけ特権化するんだ』、と日本人である私たちは思うわけですが、彼らにとっては違う。」

長谷川は日本人の一般論として、なぜ鯨だけ特権化するんだ、と書いているわけです。彼女自身が鯨についてどう考えているかは明確ではありません。一般の日本人よりなのだろう、とは推察できますが。

ただ、明確なのは、彼女が捕鯨についてきちんと考えていないということです。
西洋の人たちの怒りを理解しようとしていないということです。

長谷川は現代芸術に関わる方です。現代芸術とは現代の文化、社会に関わる芸術のこと。後に述べるように、日本の捕鯨は現代社会、国際関係を考える上で、とても象徴的な事項です。その重要な事項に対して、深く考察していない。浅薄な認識で、西洋人の捕鯨にまつわる芸術作品を解釈しても、おそらく意味のある洞察は得られないでしょう。彼女の影響ある立場を考えれば、それは怠慢かもしれません。

長谷川のいう一般的な(おそらく長谷川も同調している)日本人の見解が、なぜ間違っているかは、先に書いた私のエッセーで明確になると思いますので、説明は省略します。現代の国際社会の文脈で、鯨と牛が同じだとは言えない、と了解してもらえるといいのですが。
鯨の巨大便(3):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_10.html

ここでは西洋の人たちの怒りについて考えてみます。
You Tube で、Japanese Whalingを検索し、いくつか見て下さい。
その下に様々なコメントがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=VqFoHhV2ARI
https://www.youtube.com/watch?v=n0UURL8AUdY

とても引用する気になりませんが、「死ね!」「アホ!」といったレベルの罵詈雑言の投げ合いです。

おそらく、日本が捕鯨を続けるためには、捕獲数がエコシステムに影響しない程度の少数のものであるということ(存続可能なレベルであること)を科学的に証明すること、さらに、殺し方を、家畜を殺す時のような痛みを伴わないやり方に変えることなどが、最低限必要でしょう。

しかし、仮にそれができたとして、納得してもらえるでしょうか?

私はおそらく無理だと思います。
捕鯨論争において、日本には勝ち目がないと思います。

なぜか。

捕鯨というのものが、自然破壊のイメージそのものだからです。
環境破壊の象徴だからです。

捕鯨には、何頭鯨を殺したとか、科学的に数値化できる部分があります。
しかし、同時に、人間が、最新技術を使って、無力な美しい野生動物を虐殺しているという情緒的なイメージがどうしても払拭できません。

これは、いくら説得に努めても、納得してもらえるものではありません。
ちょうど、宗教のようなものです。
篤信の方を棄教させようとするようなもの。力づくでも無理でしょう。

1960年代、環境問題が注目を浴びるようになり、
1980年代以降、地球温暖化、絶滅種の急増、環境破壊の規模の大きさに世界中が目覚めてしまっています。パラダイム・シフトが起こったのです。

科学技術で、自然を開拓し(環境を破壊し)、資源を採取し、人類の富を増やす、
という近代の人間中心主義モデルは、もう古いものになっています。
古いだけでなく、憎むべき過去の行為という見方が広まっています。
おそらく、その憎しみの中には、自分たちの過去に対する後悔、羞恥、反省も含まれています。後悔があるがゆえに、他者の自然破壊に対する憎しみは、一層増します(植民地政策に対しても、同様の態度が見られるように思います)。

現在の主流はエコ中心主義と言っていいと思いますが、
そこには、人間中心主義の自然破壊への憎悪が存分に含まれています。

そして、人間中心主義の自然破壊の最も分かりやすい、典型的なイメージが日本の捕鯨なのです。象徴なのです。*1

ですから、捕鯨論争で西洋の人たちに対峙するのは、宗教戦争を戦うようなものなのです。出口はなく、ただ、憎しみの連鎖という悲惨な結果しか残しません。そこに気づいているから日本以外のどの国も捕鯨になど手を出さないのです。韓国が始めようとしたが、国際的な非難を浴び、即、取りやめたと前回書きましたね。

捕鯨にこだわって、わずかな利益(一握りの売国奴、資本家が儲かるだけ)のために、国際的な信用を失うのはあまりに馬鹿げたことです。

鯨など食べたことがないという人も多いと思いますが、捕鯨などどうでもいい、と無関心ではいないで下さい。日本国内では偏向報道のため、気づかないでしょうが、捕鯨は重要な国際問題です。皆が「捕鯨は国辱だ」「時代遅れだ」「クールじゃない」と断言したらいいのです。そんな声は、国際関係に優れた実績を作っている現政権にならば届くのではないか、と期待しているのですが。

日本の本当の力は、人間中心主義ではなく、エコ中心主義の新しい世の中でこそ開花するものだと思います。エコ中心主義で世界をリードできるだけの力、伝統、技術、人間力を持った国です。そう信じているのは私だけではないと思います。

鯨の巨大便(1):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_8.html
鯨の巨大便(2):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_9.html
鯨の巨大便(3):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_10.html

*1、もう一つの典型的イメージは象の密漁でしょう。象は絶滅に瀕していますが、密漁が止まりません。この事態の主な原因のひとつが、日本人の象牙の印鑑等への執着だと厳しい批判がなされています。
http://news.nationalgeographic.com/2015/12/151210-Japan-ivory-trade-african-elephants/
http://www.japantimes.co.jp/news/2017/02/28/national/crime-legal/japan-tighten-control-domestic-ivory-trade/#.WUCFnxOGO_o

鯨の巨大便(5
鯨の巨大便(4
鯨の巨大便(3
鯨の巨大便(2
鯨の巨大便(1

2017年6月10日

鯨の巨大便(3):書評・柳澤桂子「すべてのいのちが愛おしい」(集英社)


以下は、生命科学者から孫へのメッセージと題された、柳澤桂子「すべての命が愛おしい」(集英社)の一節。著者はお茶の水女子大学名誉博士とあります。

「里菜ちゃんへ
鯨を食べたことがありますか?おばあちゃんの子供のころ、(略)よく食べました。(略)その後、環境保護団体から「鯨をとってはいけない」という圧力がかかりました。
鯨は賢くて優しい動物だからであり、野生動物なので絶滅しかねないからだというのです。
では、牛や豚は賢くないのでしょうか。環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。(略)
確かに鯨捕りは残酷です。でも鯨をとることで生計を立てている人もいました。そのひとたちは鯨捕りが禁止されると生活に困ることになるのです。今では鯨の肉を見かけることはほとんどありません。
生き物を食べなければ、私たちは生きられません。どんな動物だって、死にたくはないでしょう。食事をいただけることに感謝して、たいせつにいただきましょう。」

この本は不思議な本です。「すべての命が愛おしい」とあるように、全編、命のたいせつさが繰り返し語られます。ところが、相手が鯨になると、途端にそんな思いやりが吹き飛んでしまいます。「鯨以外のすべての命が愛おしい」としたほうがいいでしょう。

これはなんなのでしょう?
日本で捕鯨に反対すると立場が悪くなるというような空気があるのでしょうか?
私の知る限り、捕鯨推進派には、攻撃的で、感情的、相手の意見を理解しよう、議論しようという基本的な態度ができていない方が多いようには思いますが。こんな人と関わるくらいなら、黙っていようと思ってしまうのでしょうか?

おそらく、上に引用した一節は、大方の日本人に共感を持って読んでもらえる内容でしょう。一見、特に何の問題も無いようです。
しかし、よく見ると、様々な問題点を含んでいます。

環境保護団体の立場を、「牛や豚は賢くないのでしょうか」と批判しています。
しかし、「野生動物なので絶滅しかねないから」という部分には批判の言葉がありません。批判のしようが無いから逃げているのです。卑劣さが現れています。

「環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。」揚げ足取りのような卑怯な論法。相手は、絶滅に瀕する野生動物は食べないと言っているだけなのです。それをあえて誤解したふりをして、「それじゃあ、あんたは肉を食べないの?何も殺さないの?」と、批判しているのです。相手を攻撃したいだけなのです。知的な会話ができる、誠意ある書き手ではないと分かります。

「鯨をとることで生計を立てている人」とありますが、捕鯨を行っているのは大企業です。江戸時代のような頼りない船で鯨を獲りに行っているわけではありません。腐りきった悪徳資本家がやっていることなのです。「生計を立てる」とか「生活に困る」という表現で、捕鯨をしているのが貧しい人たちであるかのようなイメージ操作をしています。

もちろん実際に捕鯨船で働いている人たちは、生計を立てるために従事しているのでしょう。しかし、捕鯨の仕事は体力的にも精神的にも極めて重労働だろうと思います。そうした体力、精神力があれば、他の領域でも十分活躍できるはずです。

「生き物を食べなければ、私たちは生きられません」だから、鯨を食べてもいい、と捕鯨を正当化しています。これも間違いです。短絡的すぎます。
絶滅に瀕する野生動物を食べなくても、人間は生きていけます。
存続可能な方法で、蛋白源をとりつつ生きていくのがまっとうなのです。
時代が違うのです。

さらに私の言う日本人特有の◯✕思考です。
国際的な視点が全く欠けています。国内でだけ、個人の頭の中でだけ通用する理屈です。
科学者として当然の、地球環境の破壊に歯止めが効かなくなっているという現状に対する真摯な洞察がありません。
読み手をマインドコントロールするのが目的で書かれているようです。
外国の人には、詭弁を使う人とみなされ、全く相手にされないでしょう。
それは無知か、さもなくば誠意が無い人間の特徴とされます。
このような本が出版されるのは間違っていると思います。

暗愚な捕鯨推進派の典型的な意見ですから(知的な推進派もあるのでしょうが)、
以前私が遠慮がちに書いた批判を再録します。
反論のひとつにはなっているでしょう。

提言:捕鯨論争における日本人の思考

「鯨を殺すなだと?羊を殺しているくせに。命を奪っているのだから同じことじゃないか」こんな議論をよく聞きます。その度、これではプロレスの場外乱闘だなと思います。リングの中で戦っていたのが、突然,一方が場外に出て、折りたたみの椅子を振り回し、相手をはり倒す。「どうだ、返答のしようがないではないか。こちらの勝ちだ」そんなイメージが浮かぶのです。

 文化の押しつけだの、国際法がどうのこうの。門外漢の私には判断のしようがない事柄ですが、皮肉や罵倒も含め多くの議論が場外乱闘状態。漁業関係者(大企業ですが)が可愛そうだ,などという感情論も横行。しかし、論点を整理して、同じリングに立って、つまり共通の認識を確認しつつ、議論を進めていけば、争点の核心も明確になり、それほど感情的になる問題でもないと思うのです。

 第一の共通認識:捕鯨、賛成反対双方ともまずは、人間の在り方の基本を確認しましょう。人間は他の生命を奪って生存するしか無い生き物です。殺傷が罪だというなら人間は罪な存在です。100人のうち99人くらいまではこの点で同意できるはずです。もちろん1人くらいはあらゆる殺傷は罪だ、自分は殺傷せずに生きるという方があるかもしれませんが。日本人が食事の前に手を合わせ「いただきます」と言うのも、命をいただいているという罪の意識と感謝の表れかもしれません。自然とのつながりを確認する精神的な行為と言えるでしょう。

 次に考えなければいけないのは、その殺傷の罪にも重いものと、軽いものがあるという点です。これは思考しかできない人には受け入れがたい点かもしれません。殺傷即ち罪、罪即ちと考えがちです。冒頭の「羊を殺しているくせに」という議論が思考だということに気付いて下さい。日本で教育を受けると思考になりやすいのではないでしょうか。しかし、これは断じて正さなければいけません。外国人ときちんと議論できないだけでなく、実は簡単に権力やカリスマ的な存在にマインドコントロールされてしまうからです。

 さて、野生動物を食べることと家畜を食べること。どちらも罪なことでしょうが、どちらがより罪が重いでしょうか?第一の共通認識から外れずに、場外に出ずに考えて下さい。同じということはなく、やはり区別が必要ではないでしょうか。どこかで線を引く必要があるでしょう。その線引きに必要なのが第二の共通認識です。

 第二の共通認識:現在、人間の力は巨大です。数百年前とは比較になりません。人間のために絶滅した種は数知れず、自然環境の破壊には歯止めが利きません。過去はこうであったとか、伝統的にどうであったとかいう議論も置いておきましょう。問題は今現在です。地球の存続可能性を考えることはこの時代に生きる者の義務です。この認識を踏まえると、野生動物より家畜を食べる方が罪としては軽いのではないか、ということになるでしょう。地球の存続可能性という尺度で、ここまではやむを得ない罪、ここからは犯してはいけない罪、と判断していく知恵を持ち、それを良識として共有していくことが必要なのです。

 さて、ようやく捕鯨問題です。調査捕鯨は欺瞞だとか、暴力的な抗議運動、マスコミの偏向報道、政治利用などなど様々な問題がありますが、上記の共通認識を踏まえれば、真摯に問題の核心に迫っていくことができるように思います。思考だけは禁物です。「~しかない」とか、「~は傲慢だ」というような断定的で歯切れの良い議論は一般の人々を誘導するには効果的ですが、思考であることが多いのです。核心は白黒がつけにくいグレーの部分での議論になり、それは忍耐を要するものになることでしょう。皮肉な態度や感情論、揚げ足取りのような議論もやめましょう。卑怯な場外乱闘はやめていただきたい。

 以上が私の提言の要点です。独特の意見というのではなく、常識的な意見だと思いますが、政府の正式見解などもこうした視点で点検してみるといいでしょう。オーストラリアで生活していると、酒の席でまで鯨論争に引き込まれ、不快な意見を聞くことになるので、我慢できず書いてしまいました。個人的な意見もありますが、ここでは控えます。以下は若干の補足です。

 今現在でも野生動物を食べることが即ちではありません。鯨を食べること即ちではないでしょう。ただ、存続可能なのか、という点が問題の核心なのです。存続可能だというのであれば、それをどう科学的に証明するか。どうやら現在の人間の知恵では解答は無いようです。鯨の中には絶滅に瀕していない種があると日本の科学者が調査結果を出しても、方法論が非科学的と相手にされないということもあるようです。これも腹の立つ、感情的になりかねない点でしょう。鯨の年齢を測るには耳あかを調べる「しかない」、そのためには鯨を多数殺す「しかない」という議論も聞いたことがあります。ところが日本以外の科学者はそんなことはないと反論します。そこで腹を立てのでなく、忍耐強く、共通の方法論的認識に基づいてグレーの部分での議論を重ねていくしかないでしょう。

 国益にならないのだから いっそのこと捕鯨などやめたらどうだ、という意見も出てくるでしょう。案外,日本はこんな路線をとるかもしれません。外国との軋轢が生じ、国辱だなどという運動が国内に起こって、あっさり方針を変えるたということはいくつか歴史に例がありますから。

 もちろん捕鯨論争で最重要なのは日本政府や日本のマスコミの対応です。日本は比較的世論が政治に反映しにくい部分がありますし(もちろんこれも比較的ということ。民意を無視し、企業の意向だけを優先するひどい独裁国家が存在することは承知していますが)、政府やマスコミの見解を鵜呑みにする国民も少なくない。そうした現状にも拘らず、この問題で、新しい、世界に通用する対応ができないものでしょうか。日本の叡智を示すことができないものでしょうか。原発事故への対応を見るとあまり期待はできそうにありませんが。

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