華道家 新保逍滄

2017年12月31日

一日一華:オーストラリアのネイティブで

おなじみのクライアントさんから、ネイティブをたっぷり使ったアレンジの依頼。 前回書いた新しいレンズを使って撮った写真です。 https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/12/blog-post_28.html ブログ用にかなり縮小しています。 こんな写真が撮れるなら、高い値段も受け入れられるような気がしています...

2017年12月28日

デジカメ決定版:試行錯誤の果てに

過去、10年ほど、カメラとレンズにはおそらく100万円以上つぎ込んできたと思います。カメラは6台、レンズは6本。本も10冊くらい買っています。あれこれ合わせると200万に近いかも。 写真は素人です。 しかし、華道家としてできるだけいい花の写真を撮りたい! できれば出版に適する程度のものを。 その一念でこれだけの出費。 この度ようやく最適のカメラ+レンズに出会えました。 写真を撮るたび、「おー!」と興奮しています。 上の犬の写真は、この度の新しいレンズで最初に撮った写真。 なんという明るさ。 犬の瞳の中までカリカリに撮れています。 こんなレンズが欲しかったんだ! ここに至って、気づいたことを書いてみます。素人のカメラ案内です。 1、写真はレンズ。写真の質を決めるのはレンズです。 高いカメラを買っても、安物のレンズをつけていたのではお金の無駄。 それを私はやってきたのです。 もし、これから一眼レフカメラを購入しようかという方がいらっしゃったなら、ご注意下さい。最高のレンズ+必要最低限のカメラがお勧めの取り合わせです。 生花作品は静物ですから、天体写真やスポーツ写真がうまく撮れるという高級カメラである必要はないのです。高級カメラの機能の多くは私たちには不要です。 2、プロや専門家のアドバイスは有益だけれども、私のニーズには最適ではなかったということ。 ・室内での撮影が多い(明るいレンズがいい) ・被写体との距離が取れないことが多い(広角が望ましい) ・花作品のサイズは大きくて4メートル位。 ・静物である。 こうした条件に合うレンズ。 こうしたニーズがはっきりしていればもっと適切なアドバイスが頂け、お金を無駄にすることもなかったでしょう。「クリアな描写」「幅広いジャンルで使える」「高性能なレンズ」などという宣伝文句に惑わされてきました。 3、華道家に必要なのは次の1本だけです。究極の1本。 AF-S...

2017年12月14日

一日一華:思いつきと論証

ある種の本は、いろいろな思いつきをもたらしてくれます。 私の場合、特に、哲学や心理学の入門書のようなものを読んでいると、自分の思考が刺激され、いろいろな空想、仮説が浮かんでくることがあります。 ある事柄と別の事柄との間に繋がりが見えてくることもあります。 例えば、ボードリヤールの資本主義解釈と村上春樹の世界観に関連性が見えたり。 生け花における立花と生花の対比は、日本文化における根源的な二元的な対比と対応しているのではないか?とか。 重要なのは、その思いつきやひらめきをどう発展させるか、でしょう。 そ...

2017年12月8日

21世紀的いけ花考 第65回

新興いけばな宣言(1933)を一つの契機として、生け花は大きく変わっていった、という話でした。一言で言えば、モダン芸術の影響を受けたわけです。その影響は現在まで続いています。現代生け花の課題を国際的な文脈で考えようとすると、様々な疑問が生じてきます。それらをおいおい考えていくことにします。 1、モダニズムとはどんな主張だったのか?ここでの話の流れでは、なぜ精神修養としての生け花が否定されねばならなかったのか?2、前衛生け花はそこから何を学び、生け花をどう変えたのか?その成果は何か?3、モダニズム芸術は、今や過去のものとなり、その歴史的役割を終えている。現代芸術の主流は(モダニズム芸術の要素を含みながらも)ポスト・モダニズム。では、生け花はどうか?モダニズムの影響を受けた草月、小原などは歴史的な役割を終えているということにならないか?そこを検証しては?ということ。断定でも批判でもないです(短絡的な人から襲撃されないといいのですが)。4、生け花にポスト・モダンの要素を取り込み、その課題に取り組むことはできないのか?つまり、生け花で現代芸術がやれないのか?5、西洋文化圏の方が生け花を学ぶ時、西洋化した生け花をどうとらえているのか?前衛生け花が否定した生け花の伝統的な要素(日本人の伝統的な花への態度など)はどう受け取られるのか? 上記4への私の取り組みの例として、Yering...

2017年12月4日

Practice-led Research とは何だろう

Practice-led Research (PLR) について考えています。 約4ヶ月後、環境芸術と生け花について2回の発表を行います。 どちらも聴衆は大学関係者がメインの会議。 半端な発表はできません。 PLRは、芸術学部の大学院レベルで主流の研究方法になるでしょう。 芸術学部での博士課程は、まだ導入に踏み切れていない国が多いようです。 芸術における学問的な方法論が脆弱だからでしょう。 ところが、PLRには少しばかり可能性があります。 私自身は教育心理学で博士号を取っています。 ガチガチのQuantitative...

2017年11月25日

2017年11月20日

一日一華:レセプションに

商業花は、とても勉強になります。 時間、予算、場など様ざまな制約の中で お客様に喜んでいただける作品、満足していただける作品を 作り出さなければいけない。 生の花であるというだけで喜んでいただけるという ありがたさは確かにありますが。 今日は終日商業花に従事。 帰ってニュージランド産のアサリでボンゴレを作り、 ハイネケンで乾杯。 そのあと気楽なテレビとか映画で過ごせるならば そんな生活はとてもいいものだと思います。 私にはそんな日は年に数えるほどしかありません。 華道家としてだけ生きていけるなら、そ...

2017年11月12日

2017年11月6日

一日一華:レストランに

かつては一人で山歩き、自転車旅をよくしたものです。 知床半島、三浦半島、佐渡島、伊豆半島、紀伊半島などなど。 メルボルン近辺もあちこち廻っています。 それがばったりなくなってしまいました。 そのせいか、と思うことがあります。 飛行機が苦手になってきました。 閉所恐怖症か、パニックアタックか。 あの苦しさは、なんとも耐え難いもので、 飛行機から外に逃げ出したい、狂ったような衝動が抑え難い。 周囲から空気がなくなっていくように感じ、呼吸困難。 最近は、少し混んだ電車に乗っても 足の裏が熱くなってきて、気分...

2017年11月4日

21世紀的いけ花考 第64回

 現在の生け花に多大な影響を与えた重森三玲の芸術観。それを世界(というか西洋)の芸術史に照らして考えてみましょう。重森が草月流初代家元勅使河原蒼風、小原流家元小原豊雲らと生け花の改革に取り組んでいたのは大正末から昭和の初め。重森は「生け花は芸術だ」と主張したわけですが、彼の考える芸術とは19世紀後期から20世紀初期の西洋モダニズム芸術でしょう。彼の名前自体、ミレーから拝借したものですし、抽象芸術(初期フォーマリズム)の火付け役、カンディンスキーなども彼の崇敬した芸術家であったようです。  モダニズムとはどのような芸術運動なのでしょう?ここを理解しておくのは重要です。現在、華道の3大流派とされる池坊、草月、小原のうち戦後飛躍的に伸長した草月、小原など前衛生け花諸流派の主張は「生け花は芸術だ」でした。モダニズムの芸術だということ。そして、日本の伝統的な生け花、精神修養としての生け花を否定したわけです。  もちろん、全面的に否定することはできませんし、曖昧な部分も多かったでしょう。もしかすると掛け声ばかりで、中身は伝統的な要素を温存させていたということだったかもしれません。また、流派によっては、重森の影響を受けはしたけれど、その思想を変容させていったという場合もあるでしょう(草月流における勅使原宏の仕事のように)。  しかし、建前は生け花の革新だったのです。そして、それが多くの日本人を惹きつけ、戦後、前代未聞の生け花ブームを巻き起こしたのです。  海外に生け花人口を増やすことに最も成功したのは草月でしょう。実は、草月とは言わば日本文化と西洋文化の混成。西洋化した生け花。「日本文化だと思って生け花を勉強していたら、中身はどうも(今や時代遅れとなった)モダニズムじゃないか」ということにもなりかねない。  さて、以上を踏まえると、またもや様々な疑問が生じてきます。それらをリストアップし、整理しておかないと大変なことになりそうです。枝葉末節にこだわらず、「生け花とは何か?」「生け花はどこへ向かうべきか?」などについて、大胆に推論し、現代の生け花の可能性を過激に探っていきましょう。  今回紹介するのは、最近の結婚式装花の一部。私は彫刻に庭園デザイン、インスタレーション、ブーケも手がけますので、こんな大層な依頼がきます。マイヤーのミューラルホールを2000本のバラで彩りました。   ホストすることで、収益もあり、募金もできる私たちの生け花ワークショップ。11月はMade...

2017年11月2日

2017年10月16日

2017年10月7日

2017年10月4日

21世紀的いけ花考 第63回

 重森三玲の芸術としての生け花論では、草木など自己表現のための材料でしかない、ということでした。戦後大躍進した草月流、小原流などに影響を与えた、この主張がいかに日本の伝統に反するものであるかを理解するためには、生け花の起源にまで遡る必要があります。  土橋寛が「遠く古代に源流する花見の習俗が、『立花』を経て『活け花』という生活文化を生み出すに至った」(「日本語に探る古代信仰」中公新書)と書いていますが、正論でしょう。  花とは鼻なのです。花の語源については諸説ありますが、私は冗談ともとれるこの説が好きです。鼻は顔の先端。外界に接する部位。花もまた外界・異世界と接する存在です。この外界とは、つまり、聖なる世界。この類比の論理で、花と鼻がつながるのです。日本語は面白いですね。  花見で春の訪れを祝うのですが、本来の趣意は花を見ることで生命力を強化すること(タマフリと言います)。また、山に咲いた花の枝を折り、田植えの際に田に挿すという風習もあったようです。ようやく訪れた春の生気・神性。それは花に宿っているわけですが、豊作を願って、それを田に移そうということでしょう。古来から伝わる日本における花の性格が少し分かってくるでしょう。難しい言葉では呪物崇拝とかマナイズムなどと言います。  まず、花は生命力に満ちた存在とみなされていたということ。これは了解できるでしょう。しかし、生命力とか「いきいきした感じ」などという表現では、言葉足らずな感じがします。その力は神秘的で日常を超えた聖なるものでもあります。さらに、その力は伝染します。魂に流れ入り、魂を振り起こしてくれます。花とはそうした霊力・呪力を持つ存在。本来、花は神聖なるものという認識が立花にも、生け花にもあったのです。  つまり、重森の主張は、精神修行としての生け花を否定しただけでなく、この伝統的な花に対する見方をも否定したのです。これをどう考えたらいいのか。世界史的な見地から再検討すべきです。大変なことになりそうですが、次回に続きます。  今回の作品はレズリー・キホー・ギャラリーズでの松山智一展に活けた小品のひとつ。松山さんの色の祝祭に対し、色を渋く押さえ込んで対峙しました。 p.p1...

2017年9月26日

一日一華:レンギョウ

メルボルン大学で開催された The Japanese Australian Poetry Festival のためのいけばな。 連翹は我が家の庭から。 毎年色々な機会に使っています。 今年は、今回が最後でしょう。 連翹は1年のほとんどは、あまり綺麗な植物ではないですが、 春のこの彩り、ほんの数週間のためには、納得。 庭が明るくなるし、いけばなにも使える。 重宝していま...

2017年9月24日

一日一華:結婚式の花準備中

結婚式の装花を準備中。 今週は全てこのプロジェクトのために。 いけばなだけやっていければいいのですが、 そうもいきません。 私の特殊な事情によるのでしょうが、 彫刻もやれば、西洋花もやります。 庭のデザインまでやります。 今回はバラだけで約2000本を注文済み。 それくらいのスケールのプロジェクトです。 問題は人手がないこと。 おそらく日本で先生が個展をやるということになると、 生徒さんはボランティアで協力してくれるでしょうね。 勉強になるはずです。 安い月謝で教えてもらっているのだから、 こうい...

2017年9月19日

一日一華:穢れとしてのプラスチック

オーストラリア人原住民の信仰には、 自然と共生するための叡智が多く含まれているようです。 それは神道でもそうでしょう。 穢(けが)れとして禁忌してきた信仰の背後には エコシステムを維持するために意義深いものがあるようです。 自然を守るために、自らの行動を慎む、ということ。 それは叡智と言えるでしょう。 「古代信仰の叡智に注目を」と何人かは繰り返し訴えていますが、まだまだ。 資本主義社会は欲望追求に忙しい。 自らの行動を慎むなどという考えは微塵もない。 例えば、自然の立場からすれば、プラスチックなど極...

2017年9月11日

一日一華:そして書くということ(4)

今年も国際いけ花学会の学術誌のエッセー部門の編集のお手伝いをしています。 いけ花体験談など募集中ですので、ぜひご投稿下さい。 2017年度は九月末日締め切り。 日本語では900字程度。 投稿料は無料で、採用された場合、学術誌を1部進呈します。 http://www.ikebana-isis.org/p/toukoukitei.html https://ikebanastudies.wordpress.com/2017/09/01/call-for-ikebana-essays-4/ 編集作業の苦労については以前にもここに書いたことがあります。 https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_17.html https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_30.html https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_86.html 900字程度という短さですから、個人的な体験談、発見、洞察などでまとめるのが無難でしょう。 先に、ボツになる例として、他人を批判するような内容のもの、 事実を羅列しただけのもの、などをあげました。 今年も早速、ボツにしたエッセーがあります。 今回の問題は根っこの部分では、上にあげた2例ととてもよく似ています。 日本の侘び寂びとは、こういうもので、いけばなではこのように具体化されている、というような内容でした。 面白い内容です。 でも、ボツです。 おそらく私も大学生の頃、そんな種類の文章を書いていたかもしれません。 哲学めいたエッセー。 それはそれでいいのです。例えば、ブログに発表するとか、チラシに使うとか。そういうことならそれでいいのです。 でも、大学の先生に提出したらば、ボツでしょう。 私にも苦い思い出があります。 豪州の大学で最初の修士を始めた頃、学士論文を英訳し、要約を提出しろと求められたのです。 内容は、原始仏教の縁起論をデリダの理論を応用して読み解くといったようなものでした。自信満々で提出しました。 ところが評価は最低のD。 不満でしたから、当時、東大の客員教授をしていたオーストラリア人の友人に送って、読んでもらいました。 Dが相当!という返事。 Distinction...

2017年9月4日

21世紀的いけ花考 第62回

 生け花は精神修行か、という話です。生け花は道徳でも宗教でもない、「芸術」だ、というのが重森三玲の主張。生け花を大きく変えました。重森については作庭家としての評価は高いのですが、生け花研究家としてはまだ評価が定まっていないように思います。資料が少ない上に私の勉強不足もあって、詳述はできませんので悪しからず。重森の主張で最も気になるのは、彼が「芸術」をどのように捉えていたのか、ということ。それが生け花をどのように変えたのでしょう?  戦後から現在まで、生け花は芸術だという主張が主流です。その主張の根本は重森の芸術観だと言えるでしょう。よく議論されるのは、生け花の材料である草木への重森の態度。「それをどんなに曲げ様と、折ろうと勝手であり、さうすることにって草木が可愛そうだとか、自然性を否定するとか考えている人々は、頭から挿花をやらぬ方がよい」つまり、自己表現のための素材でしかないという唯物論。利用するだけの客観的な対象物。ここは注目したい点。  実は、生け花の精神性は様々な切り口で議論することができます。型、自然観、修行論、素材論等々。畏友井上治さん(京都造形芸術大学)の「花道の思想」(思文閣)でもその多重性が詳しく議論されています。おそらくここまで深い論考は生け花研究始まって以来の成果でしょう。そうそう、この本の元になった論文に感心して私がファンレターを書いたのがきっかけで国際いけ花学会を共に創設するに至ったのでした。  ただ、生け花の素材としての草木への態度の奥にある日本人の精神性については、あともう少し掘り下げて欲しかったです。依代としての草木への態度が、生け花の起源の一つとして言及されるのですが、その後、神道的な要素と生け花との関連が深く議論されることはほとんどありません。  本来、花は日本人にとって神聖なもの。そこが納得できると、重森の主張がいかに生け花の伝統に反するものか、そして、重森の思想を引き継いで発展した草月流をはじめとする戦後の前衛生け花運動が、伝統的な生け花といかに断絶するものであるか、理解できるでしょう。次回は日本人にとっての花とは何かについて、再確認しておきましょう。  今回紹介するのはレセプションへの商業花。いろいろ試みて楽しんでいます。 さて、8月に生け花ギャラリー賞の発表がありました。1万6千人超の注目を集めるコンクールとなりました。また、10月7、8日には和・華道展がアボッツフォード・コンベントで開催されます。お見逃しなく。 p.p1...

2017年9月3日

一日一華:オンライン指導

生け花のオンライン指導についてもあれこれ検討しています。 とりあえず、作品の添削指導をやっています。 http://www.shoso.com.au/p/e-learning.html 私の生徒からのリクエストでやっていることが多いのですが、 最近は面識のない方からのリクエストにも応じています。 利用してみようという方は歓迎です。 おそらくこれはそこそこの可能性を秘めていると思います。 そこそこです。 利用者に、どこまで満足してもらえるか。 難しい面がたくさんありますから、どこまで伸ばせるか、未知数で...

2017年8月27日

一日一華:2017年いけ花ギャラリー賞

2017年いけ花ギャラリー賞がようやく発表になりました。 https://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/2017/08/ikebana-gallery-award-2017.html 生け花学習者向けの(師範は除く)コンクールです。 ですから、師範の方々の作品と比べれば、多少未熟な点はあると思います。 でも、今年はレベルが上がってきましたね、と何人かの審査員に言われました。 それは大切なことだと思います。 何と言っても16000人超の方々が見て下さる受賞結果です。 ...

2017年8月21日

2017年8月13日

いけ花上達のコツ(3)

生け花上達のコツは、瞬発力と持久力でしょう。 それらについては、いずれもっと詳しく書くことがあるでしょう。 その時は、このタイトル、「上達のコツ」にもっとふさわしい内容になるはずです。 しかし、今は、少々別のことを考えています。 第1回目、2回目は以下のとおりですが、第2回目に書いた問題について、さらにあれこれ考えているのです。 https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html https://ikebana-shoso.blo...

2017年8月9日

一日一華:いけ花上達のコツ(2)

いけ花上達のコツについて再び。 第1回目は以下でした。 https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html 結論から始めれば、要は瞬発力と持久力ということだと思います。 第1回目に書いたことは、瞬発力について、ということになるでしょう。 1回1回の作品制作に際し、全力投球する集中力、瞬発力。 そして、そうした訓練を長く、何年も継続させる持久力。 陸上競技の短距離と長距離、それぞれに求められる力が必要なのだと思います。 それはそう...

2017年8月6日

21世紀的いけ花考 第61回

 「生花は精神修行か」という話です。16世紀に池坊専応が「専応口伝」で、生花は仏教的な悟りに至る道だと言ってくれました。私たちはその言葉を頼りに励んでいるわけです。通念としても生花は精神修行だろうと多くの日本人が思っているでしょう。    しかし、昭和8年、重森三玲が「生花は精神修行じゃない。道徳とは無関係だ」と宣言します。では、生花とは何か?芸術なのだ、というわけです。新興生花宣言と言います。これが日本の生花を大きく変えていくのです。    昭和時代は生花史上、最大の激動期だったでしょう。「華日記ー昭和生け花戦国史」(早坂暁)という面白い本がありますが、これは昭和の華道界の混沌について。昭和初め自由花が初登場。これは革新的なことでした。10年頃に新興生花宣言。戦争のため生花は壊滅状態。戦後、生花人口急増。30〜40年代、空前絶後の生花ブーム到来。  これらの流れは全て繋がっています。自由花、さらに芸術としての生花宣言があって、生花ブームが生まれるわけです。つまり、精神修行としての生花という側面は影が薄くなっているのです。重森の影響と言えるでしょう。今回の話をふまえ、重森の考えを、次回探ってみます。  その前に、私自身のことを少し。おそらく、生花が精神修行だと確信できていたら、私ももう少し早くに本気になれたでしょう。生花に足のつま先をちょいとつけた頃、本当に生花をやって大丈夫かなと悩んだものです。現在、遠藤周作研究者として活躍している旧友にも不安を語ったことがあります。これを続けて、自分はどこに到達できるのだろう?人生をかけていいのか?後で「しまった」なんてことにならないか。「生花は道なんだから、大丈夫じゃなかろうか」「そうかな」というようなやり取りをした覚えがあります。共に確信はなかったと思います。私が長い間、フラフラしていたのも重森のせいかもしれないのです。    さて、8月18日、国際いけ花学会会長、小林善帆先生の講演がメルボルン大学で開催されます。是非お越し下さい。  また、私の生徒の師範取得者が増えてきました。彼女らに協力してもらい、救世軍と提携し、募金活動としての生花ワークショップを発案しました。生花史上初の試みかもしれません。私たちのワークショップを開催すると、1時間あたり$200の収益があり、$50募金できるという仕組み。カフェ、成人教育機関、美術館、図書館、教会などで活用してみませんか?    今回、紹介するのは来年度用の無料カレンダーに選んだ作品。私のサイトからダウンロードできます。  p.p1...

2017年7月31日

いけ花ギャラリー賞について(2)

いけ花ギャラリー賞をより面白くしようと、ピープルズ・チョイス・アワードを設けました。フェイスブック上でのいいねの数を競う人気投票です。私はあれこれ工夫するのが好きなんですね。 やってみると、これがまた面白く、勉強になります。 基本的に遊びでしょう。 厳密な審査で決まる賞ではありません。 それはそうなんです。が、しかし、、、 まず、プラスの面から。 最大のプラスの面は、ポストが俄然多数の方に拡散するということ。 私たちのポストは、通常、数百から千人くらいに届きます。 せいぜい2千人とまりです。 しかし、この人気投票受付のポストは1万5千人超に届きます。 p.p1...

2017年7月26日

一日一華:超えるということ(2)

フェースブックを見ていると、 著名人の略歴を紹介したビデオがよく出てきますね。 1、若い頃は厳しい境遇にもめげず、努力した。 2、その結果、今では、資産数千億。世界有数の億万長者だ。 3、皆も苦労に負けずに、頑張ろうね。 というポジティブなメッセージ。 私の反応は、 1、なるほど、そうだったのか。大変だったろうな。 2、それで? 3、そう言われてもなあ。 多分、あまり素直でないのでしょうね。 でも、億万長者になりたいと、それほど強く思えるものでしょうか? もちろん、私も裕福ではないですから、お金はあればありがたい。 しかし、遣い切れないほどの資産を手にして、 それだけで人は満たされるものでしょうか? おそらく、例えば日本の引き込もりの方はもちろん、多くの若い人たちも 上のようなメッセージを与えられても、しらけてしまうのではないでしょうか? 「よおし、自分もやるぞ」というような動機付けにはならないだろうと思うのです。 人生の成功って、そんなものなの?その程度?という具合に。 自己実現だとか、好きなことを精一杯やってみようとか 言われても何をやっていいのかわからない。 現実的な仕事も生活の手段としてはやらざるをえないと了解できるものの、 そこにあまり意味を見出せない。 生き甲斐が見つけられない。 自分の命をかけてみよう、 燃やし尽くそうというほどに熱くなれるものが見つからない。 そういう悩みは多いと思います。 これは仕方ないことだと思います。 なぜ仕方ないことなのか? では、どうすればいいのか。 「あること」に気づく必要があるのではないか、と私は思います。 「あること」とは、上記のようなビデオのメッセージ、 努力して、困難を克服して、人間的にも成長して、お金を掴もうよ、というメッセージの出処はどこか、ということ。 それを歴史的に理解すること。 そして、もしかすると、現在は、そうした価値観が終焉を迎えているのではないか、ということにまで考え及ぶ必要があるのでは? つまり、そうした価値観を超える時期にきているのではないか。 もしそうだとすると、もっと新しい価値観はどのようなものか。 その価値観は、もしかすると、上記のようなビデオメッセージにしらけてしまう人々までをも熱くするのではないか。 そんなことまで、考えさせてくれたのが、前回(https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post_25.html)紹介した以下の本だったのです。 T.J....

2017年7月25日

一日一華:超えるということ(1)

久しぶりにいい本に出会ったなあ、と、感心したのが、 T.J. Demos (2016) Decolonizing Nature: Contemporary Art and the Politics of Ecology. 著者はUC, Santa Cruzの教授。 こういう上質の本を読むと、頭の中がスッキリ整理される感じがします。 本の内容については、おいおい紹介することもあるでしょう。 今準備している論文では、重要な参考文献になるでしょう。 さらに、読みながら、思ったのは、「超える」ということ。 個...

2017年7月20日

いけ花ギャラリー賞について(1)

2017年度のいけ花ギャラリー賞の準決勝進出の17作品が発表になりました。 ピープルズ・チョイス賞には、どなたも投票できるようになっていますので、ぜひご参加ください。お一人3作品以上を「いいね!」して下さい。締め切りは7月末日です。 https://www.facebook.com/pg/IkebanaGallery/photos/?tab=album&album_id=1232144103581414 いけ花ギャラリー賞については、思うところがいろいろあります。 嬉しいことのは一つは、準決勝に選ばれただけで、喜んでくれる方が多いということ。 世界各地から感謝のメッセージが届いています。 そして、この発表のポストが約1万人にまで拡散するということ。 他のフェースブックでのポストでは、私たちには通常とても達成できない数値です。 おそらく著名なフラワーアーティストででもない限り、なかなか達成できないでしょう。 選ばれた生徒にとっても、もちろん、普段見てもらえない人たちにまで作品を見てもらえ、励ましのコメントをいただけるわけです。 生徒の作品のレベルが上がってきたこともあるでしょう。 いけ花における賞が注目を集めるということもあるでしょう。 この賞の趣旨などについては、国際いけ花学会の学術誌第4号に発表しましたので、機会がありましたら、読んでみて下さい。4号はまだ発売中ですので、全文を掲載するわけにはいきませんが、一部のみ以下に紹介します。4号のお申し込みは以下からどうぞ。 http://www.ikebana-isis.org/p/blog-page_1825.html いけ花ギャラリー賞の目指すもの 新保逍滄  2012年以来、オンラインいけ花コンクール、Ikebana...

2017年7月12日

一日一華:ちょっとさんへ

商業花では様々な制約の中で制作しなければいけません。 時間、予算、クライアントの花についての要望などなど。 大変ですが、それでも楽しいなと思える仕事です。 さて、生け花と芸術の違いを最も意識するのは 私の場合、公募展への応募に際してです。 もちろん、芸術家としての応募です。 生け花アーティストとしての公募展への出品の機会など当地では存在しません。 応募に必要となるものは、 1、作品の趣旨 2、作品の写真 3、作者の履歴書 4、過去作品サンプル だいたい以上が通常求められるものです。 さらに申込手数料と...

2017年7月10日

一日一華:花菱レストランに

昭和時代、生け花ブームが起こりました。 そのキーワードは、「生け花は芸術だ!」だったと思います。 生け花は芸術になったのです。 しかし、伝統的な生け花のあり方と、芸術との「いいとこ取り」だったように思います。 日本で起こる文化変容ではよくあるパターンです。 詳しい説明はいずれ私のエッセーシリーズ、「21世紀的生け花考」で取り上げますが。 その結果、 芸術家なのに華道家の看板で活動する人と 華道家なのに芸術家のふりをする人が出てきたのではないでしょうか。 どちらも普段はまともな生け花作品を作っているの...

2017年7月9日

一日一華:宙に浮く森

宙に浮く森を、というリクエスト。 メルボルンの和食カフェChottoさん、です。 前回のポストで、海外における生け花教師の立場について触れました。 https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post.html どうも日本とは違う。 日本のように、生け花教師という立場に対する社会的な認識がない、 ということが大きな違いでしょう。 ということは、 どのような在り方をしてもいいということでもあります。 日本と同じような華道教師を目指してもいいでし...

2017年7月7日

21世紀的いけ花考 第60回

 生け花とは何か、という話から、あちこち話が飛んでいます。「生け花は精神修行」だというのは、共感者も多い有力な生け花の定義。しかし、その中身はなかなか複雑。禅との関連で説明することもできそうですが、よく考えると、過去数回にわたって書いたように、多数の疑問点が出てきます。  さらに、生け花とは何かと考えていくと、日本文化とは何か、ということにまで話が繋がっていくことにも気づいていただけたでしょうか。これは生け花の歴史についても言えることです。生け花の歴史を追っていくと、日本の歴史を学ぶことになります。武士...

2017年7月2日

生け花ギャラリー賞応募締め切り

メルボルンの日本レストラン、花菱にて。 さて、6月末に2017年度のいけ花ギャラリー賞の応募を締め切りました。 まだまだ応募数が少ないなと感じます。 この賞の意義、目標などは、国際いけ花学会の学術誌、いけ花文化研究第4号(2016年度版)に書く機会がありました。 http://www.ikebana-isis.org/p/blog-page_1825.html 私の生徒たちはかなり積極的になってきました。 この賞の意義が少しづつ理解されてきています。 いけ花の狭い世界の中だけで活動していくならば、こ...

2017年6月27日

生け花で募金活動

生け花で募金活動がやれないか? 私の印象でしかないですが、オーストラリアでは募金活動が日本以上に盛んです。 様々な工夫を凝らした活動があります。 積極的に参加する人が多く、社会に定着しているように見えます。 私がやるとしたら、どうなるか? まず、不透明感をなくしたい。 私がお金を集める役をしながら、お金を直接扱わないことはできないか? 私を素通りして、寄付金が全額、慈善団体に直接届くようにしたい。 できるのですね。 さらに、募金する人も儲かる、募金を集める私も儲かる、という状況から 生まれる利益を慈善...

2017年6月23日

2017年6月21日

2017年6月16日

鯨の巨大便(5)

今年、2017年、4月に帰省したところ、郷土の文芸誌「村松万葉」が廃刊になると知らされました。寄稿者のリストをみると、50代の私が最年少の一人という状況ですから、存続は厳しいのだろうと思われます。この文芸誌を創刊され、32年間、継続してこられた文学者、本間芳男先生のご尽力にお礼申し上げます。 http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20170329315525.html 「村松万葉」は新潟県の主要な公立図書館で閲覧できるはずですので、機会がありましたら是非ご覧下さい。また、本間先生の作品も機会がりましたら是非どうぞ。児童文学には、相応の枠組みがあるものと思っていましたが(ちょうどディズニー映画が様々なおとぎ話から残酷な部分を排除してしまうように)、先生の作品には、そんな配慮などまったくないのです。直球を子供達の胸にぶつけていく、力強い本物の文学です。 https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E9%96%93-%E8%8A%B3%E7%94%B7/e/B004L26GWE http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/131382.html このブログでも2回ほど「村松万葉」について、言及しています。 http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_28.html http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_8.html 今回は、2009年度版に寄稿した原稿、「蛭野・魚・地球」を再録します。そして、鯨の巨大便シリーズはひとまずここまでとします。 「村松万葉は文化遺産だと思う。特に年配の方々の思い出話は貴重なものだ。私達が経験し得ない先人の歩みは私達の人生にとても大きなものをもたらしてくれる。そう言う私自身、もう昔話をしてもいい頃か。甥や姪のためにも祖母や父母のことを書きたい。60~70年代の雪国の農家の生活は厳しく、怠惰の入り込む余地などなかった。今も、朝、起きられなかったり、困難に出会ったりすると、「父母を想え、祖母を想え」と自分を叱咤する。それほどの生き方を残してくれた。しかし、父母の時代については、母が健在だからきちんと話してくれるだろう。今回は私が子供の頃の話をひとつ、ふたつ。 故郷を離れて暮らしているせいか、育った蛭野の夢をよく見る。堤の前あたりに見慣れない建物が建っていたり、慈光寺に通じる別の道があるのを発見したり。そして、魚がいろいろな形で出てくる。浅瀬で大きな体を横にしてあえいでいたり、見たこともない色とりどりの魚の群れが気持ちよさそうに泳いでいたり。夢分析でもしてもらったら面白いだろう。「魚」に関連して思い出すことがある。私にとって大切な意味があるのかもしれない。 小一の頃だろう。学校の帰り、区画整備もされていない田圃道を歩いていた。気付くと、ようやく根付いた緑色の稲株の周りの水が真っ白になっていた。次の田も、また次の田も真っ白。ドジョウや蛙などの死体だった。皆、白い腹を上にして、固くなって水に浮いていた。何か大変なことが起こったのだ。一目散に家を目指した。新しい農薬を散布しただけだと知らされた。「それだけのこと」と言われても、何か取り返しの付かないことが起こってしまったのではないか、と心のざわめきは収まらなかった。 それからというもの、水中生物は激減した。いつの間にか数が減り、気付くともう何年も見かけない、という生き物がたくさんいた。私は魚はもちろん、水の中の生き物が大好きだった。水槽の生物はどれだけ見ていても見飽きることがない。ヨコノミは指先に乗る位の丸い蝦の一種。親が子供を腹に抱えていることもある。泳ぐ時、体を横にしてツイツイ泳ぐ。郵便持ちは細長い虫で、頭の後ろに毛のようなものが生えていた。泳ぐとそれがゆらゆら揺れた。ゲンゴロウと水澄ましは似ているけれどゲンゴロウがずっと大きかった。タナゴは横腹にきれいな虹色が浮かんでいて、川で捕まえたときは宝物扱いだった。ドジョウはくねくねと水面に上っては、また水に潜っていく。鯰の子供のようなグズというさえない魚もいた。愛嬌のある顔が好きだった。黒いナツメも不思議な魚だった。そして、少しこわいようなタガメ。 毎年、稲刈りが終わった頃、堤狩りがあったことも思い出す。水を落とした堤で魚を掬い取る。蛭野のどの家にも大きな網があった。大人の関心は鯉だったように思う。鯉は取っても自分のものにできず、いったん全て集め、くじ引きで分配していた。だから子供はフナなどの鯉以外の魚を狙った。普段は見かけない魚がたくさんいた。それを腰のびくに入れ、冷たい泥水に首まで浸かってあさるのだ。堤狩りの後は、しょうゆ味の雑魚煮が何日もおかずにでた。亀が取れることもあったが、それは大変な賞品だった。甲羅に穴をあけ、池の周りにつないでおく。「去年はあの辺で亀が取れた」などということが子供の話題になった。私にとって蛭野は生き物の宝庫だった。そんな話を家内にしていたら、痛いほどの思いが込み上げてきた。 最近、奇形蛙の研究をしている学者に会った。足が3本、5本の蛙、さらに手足がない蛙も世界中で見つかっているという。その数はどんどん増えているらしい。はかないものから順に環境汚染の影響を受けていく。人への悪影響も出始めているというのになかなか動けないでいる。 また、調査捕鯨などという蛮行を続ける国もある。その調査は学問的に稚拙で、国際的な学術誌に採用されたことがない。科学的根拠のないデータを示し、絶滅寸前の野生動物を捕り続け、世界の嫌われ者になっている。メディアも真相を隠している。海外のテレビでは、その国の漁船が血を流しつつ逃れようとする鯨の親子を容赦なく殺し、切り裂く場面を何度も流しているのに。地球はあえいでいる。」 鯨の巨大便(5) 鯨の巨大便(4) 鯨の巨大便(3) 鯨の巨大便(2) 鯨の巨大便(1) p.p1...

2017年6月12日

鯨の巨大便(4):長谷川祐子「『なぜ』から始める現代アート」NHK

東京現代美術館のチーフ・キューレター、多摩美術大学特任教授、長谷川祐子「『なぜ』から始める現代アート」(NHK出版)に以下のような一節があります。 「西洋の動物保護団体の人たちは日本人に対して、『なぜ、最大の哺乳類で、人間に近い鯨を殺して食べるのか』と怒っている。『そんなことを言うなら、牛も哺乳類ではないか、なぜ鯨だけ特権化するんだ』、と日本人である私たちは思うわけですが、彼らにとっては違う。」 長谷川は日本人の一般論として、なぜ鯨だけ特権化するんだ、と書いているわけです。彼女自身が鯨についてどう考えているかは明確ではありません。一般の日本人よりなのだろう、とは推察できますが。 ただ、明確なのは、彼女が捕鯨についてきちんと考えていないということです。 西洋の人たちの怒りを理解しようとしていないということです。 長谷川は現代芸術に関わる方です。現代芸術とは現代の文化、社会に関わる芸術のこと。後に述べるように、日本の捕鯨は現代社会、国際関係を考える上で、とても象徴的な事項です。その重要な事項に対して、深く考察していない。浅薄な認識で、西洋人の捕鯨にまつわる芸術作品を解釈しても、おそらく意味のある洞察は得られないでしょう。彼女の影響ある立場を考えれば、それは怠慢かもしれません。 長谷川のいう一般的な(おそらく長谷川も同調している)日本人の見解が、なぜ間違っているかは、先に書いた私のエッセーで明確になると思いますので、説明は省略します。現代の国際社会の文脈で、鯨と牛が同じだとは言えない、と了解してもらえるといいのですが。 鯨の巨大便(3):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_10.html ここでは西洋の人たちの怒りについて考えてみます。 You...

2017年6月10日

鯨の巨大便(3):書評・柳澤桂子「すべてのいのちが愛おしい」(集英社)

以下は、生命科学者から孫へのメッセージと題された、柳澤桂子「すべての命が愛おしい」(集英社)の一節。著者はお茶の水女子大学名誉博士とあります。 「里菜ちゃんへ 鯨を食べたことがありますか?おばあちゃんの子供のころ、(略)よく食べました。(略)その後、環境保護団体から「鯨をとってはいけない」という圧力がかかりました。 鯨は賢くて優しい動物だからであり、野生動物なので絶滅しかねないからだというのです。 では、牛や豚は賢くないのでしょうか。環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。(略) 確かに鯨捕りは残酷です。でも鯨をとることで生計を立てている人もいました。そのひとたちは鯨捕りが禁止されると生活に困ることになるのです。今では鯨の肉を見かけることはほとんどありません。 生き物を食べなければ、私たちは生きられません。どんな動物だって、死にたくはないでしょう。食事をいただけることに感謝して、たいせつにいただきましょう。」 この本は不思議な本です。「すべての命が愛おしい」とあるように、全編、命のたいせつさが繰り返し語られます。ところが、相手が鯨になると、途端にそんな思いやりが吹き飛んでしまいます。「鯨以外のすべての命が愛おしい」としたほうがいいでしょう。 これはなんなのでしょう? 日本で捕鯨に反対すると立場が悪くなるというような空気があるのでしょうか? 私の知る限り、捕鯨推進派には、攻撃的で、感情的、相手の意見を理解しよう、議論しようという基本的な態度ができていない方が多いようには思いますが。こんな人と関わるくらいなら、黙っていようと思ってしまうのでしょうか? おそらく、上に引用した一節は、大方の日本人に共感を持って読んでもらえる内容でしょう。一見、特に何の問題も無いようです。 しかし、よく見ると、様々な問題点を含んでいます。 環境保護団体の立場を、「牛や豚は賢くないのでしょうか」と批判しています。 しかし、「野生動物なので絶滅しかねないから」という部分には批判の言葉がありません。批判のしようが無いから逃げているのです。卑劣さが現れています。 「環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。」揚げ足取りのような卑怯な論法。相手は、絶滅に瀕する野生動物は食べないと言っているだけなのです。それをあえて誤解したふりをして、「それじゃあ、あんたは肉を食べないの?何も殺さないの?」と、批判しているのです。相手を攻撃したいだけなのです。知的な会話ができる、誠意ある書き手ではないと分かります。 「鯨をとることで生計を立てている人」とありますが、捕鯨を行っているのは大企業です。江戸時代のような頼りない船で鯨を獲りに行っているわけではありません。腐りきった悪徳資本家がやっていることなのです。「生計を立てる」とか「生活に困る」という表現で、捕鯨をしているのが貧しい人たちであるかのようなイメージ操作をしています。 もちろん実際に捕鯨船で働いている人たちは、生計を立てるために従事しているのでしょう。しかし、捕鯨の仕事は体力的にも精神的にも極めて重労働だろうと思います。そうした体力、精神力があれば、他の領域でも十分活躍できるはずです。 「生き物を食べなければ、私たちは生きられません」だから、鯨を食べてもいい、と捕鯨を正当化しています。これも間違いです。短絡的すぎます。 絶滅に瀕する野生動物を食べなくても、人間は生きていけます。 存続可能な方法で、蛋白源をとりつつ生きていくのがまっとうなのです。 時代が違うのです。 さらに私の言う日本人特有の◯✕思考です。 国際的な視点が全く欠けています。国内でだけ、個人の頭の中でだけ通用する理屈です。 科学者として当然の、地球環境の破壊に歯止めが効かなくなっているという現状に対する真摯な洞察がありません。 読み手をマインドコントロールするのが目的で書かれているようです。 外国の人には、詭弁を使う人とみなされ、全く相手にされないでしょう。 それは無知か、さもなくば誠意が無い人間の特徴とされます。 このような本が出版されるのは間違っていると思います。 暗愚な捕鯨推進派の典型的な意見ですから(知的な推進派もあるのでしょうが)、 以前私が遠慮がちに書いた批判を再録します。 反論のひとつにはなっているでしょう。 提言:捕鯨論争における日本人の◯✕思考 「鯨を殺すなだと?羊を殺しているくせに。命を奪っているのだから同じことじゃないか」こんな議論をよく聞きます。その度、これではプロレスの場外乱闘だなと思います。リングの中で戦っていたのが、突然,一方が場外に出て、折りたたみの椅子を振り回し、相手をはり倒す。「どうだ、返答のしようがないではないか。こちらの勝ちだ」そんなイメージが浮かぶのです。  文化の押しつけだの、国際法がどうのこうの。門外漢の私には判断のしようがない事柄ですが、皮肉や罵倒も含め多くの議論が場外乱闘状態。漁業関係者(大企業ですが)が可愛そうだ,などという感情論も横行。しかし、論点を整理して、同じリングに立って、つまり共通の認識を確認しつつ、議論を進めていけば、争点の核心も明確になり、それほど感情的になる問題でもないと思うのです。  第一の共通認識:捕鯨、賛成反対双方ともまずは、人間の在り方の基本を確認しましょう。人間は他の生命を奪って生存するしか無い生き物です。殺傷が罪だというなら人間は罪な存在です。100人のうち99人くらいまではこの点で同意できるはずです。もちろん1人くらいはあらゆる殺傷は罪だ、自分は殺傷せずに生きるという方があるかもしれませんが。日本人が食事の前に手を合わせ「いただきます」と言うのも、命をいただいているという罪の意識と感謝の表れかもしれません。自然とのつながりを確認する精神的な行為と言えるでしょう。  次に考えなければいけないのは、その殺傷の罪にも重いものと、軽いものがあるという点です。これは◯✕思考しかできない人には受け入れがたい点かもしれません。殺傷即ち罪、罪即ち✕と考えがちです。冒頭の「羊を殺しているくせに」という議論が◯✕思考だということに気付いて下さい。日本で教育を受けると◯✕思考になりやすいのではないでしょうか。しかし、これは断じて正さなければいけません。外国人ときちんと議論できないだけでなく、実は簡単に権力やカリスマ的な存在にマインドコントロールされてしまうからです。  さて、野生動物を食べることと家畜を食べること。どちらも罪なことでしょうが、どちらがより罪が重いでしょうか?第一の共通認識から外れずに、場外に出ずに考えて下さい。同じということはなく、やはり区別が必要ではないでしょうか。どこかで線を引く必要があるでしょう。その線引きに必要なのが第二の共通認識です。  第二の共通認識:現在、人間の力は巨大です。数百年前とは比較になりません。人間のために絶滅した種は数知れず、自然環境の破壊には歯止めが利きません。過去はこうであったとか、伝統的にどうであったとかいう議論も置いておきましょう。問題は今現在です。地球の存続可能性を考えることはこの時代に生きる者の義務です。この認識を踏まえると、野生動物より家畜を食べる方が罪としては軽いのではないか、ということになるでしょう。地球の存続可能性という尺度で、ここまではやむを得ない罪、ここからは犯してはいけない罪、と判断していく知恵を持ち、それを良識として共有していくことが必要なのです。  さて、ようやく捕鯨問題です。調査捕鯨は欺瞞だとか、暴力的な抗議運動、マスコミの偏向報道、政治利用などなど様々な問題がありますが、上記の共通認識を踏まえれば、真摯に問題の核心に迫っていくことができるように思います。◯✕思考だけは禁物です。「~しかない」とか、「~は傲慢だ」というような断定的で歯切れの良い議論は一般の人々を誘導するには効果的ですが、◯✕思考であることが多いのです。核心は白黒がつけにくいグレーの部分での議論になり、それは忍耐を要するものになることでしょう。皮肉な態度や感情論、揚げ足取りのような議論もやめましょう。卑怯な場外乱闘はやめていただきたい。  以上が私の提言の要点です。独特の意見というのではなく、常識的な意見だと思いますが、政府の正式見解などもこうした視点で点検してみるといいでしょう。オーストラリアで生活していると、酒の席でまで鯨論争に引き込まれ、不快な意見を聞くことになるので、我慢できず書いてしまいました。個人的な意見もありますが、ここでは控えます。以下は若干の補足です。  今現在でも野生動物を食べることが即ち✕ではありません。鯨を食べること即ち✕ではないでしょう。ただ、存続可能なのか、という点が問題の核心なのです。存続可能だというのであれば、それをどう科学的に証明するか。どうやら現在の人間の知恵では解答は無いようです。鯨の中には絶滅に瀕していない種があると日本の科学者が調査結果を出しても、方法論が非科学的と相手にされないということもあるようです。これも腹の立つ、感情的になりかねない点でしょう。鯨の年齢を測るには耳あかを調べる「しかない」、そのためには鯨を多数殺す「しかない」という議論も聞いたことがあります。ところが日本以外の科学者はそんなことはないと反論します。そこで腹を立てのでなく、忍耐強く、共通の方法論的認識に基づいてグレーの部分での議論を重ねていくしかないでしょう。  国益にならないのだから...

Shoso Shimbo

ページビューの合計

593,198

Copyright © 2025 Shoso Shimbo | Powered by Blogger

Design by Anders Noren | Blogger Theme by NewBloggerThemes.com