生け花とは何か、という話から、あちこち話が飛んでいます。「生け花は精神修行」だというのは、共感者も多い有力な生け花の定義。しかし、その中身はなかなか複雑。禅との関連で説明することもできそうですが、よく考えると、過去数回にわたって書いたように、多数の疑問点が出てきます。
さらに、生け花とは何かと考えていくと、日本文化とは何か、ということにまで話が繋がっていくことにも気づいていただけたでしょうか。これは生け花の歴史についても言えることです。生け花の歴史を追っていくと、日本の歴史を学ぶことになります。武士階級が力を持つと、それが生け花の形に影響を与えます。商人が経済力を持つと、そのニーズにあった生け花が生まれます。日本文化、社会の変遷と共に、生け花は変容するのです。生け花は日本文化の一部ですが、その一部は全体との関連で常に変化しているということです。
さて、「生け花は精神修行」だとして、その中身をさらに考えていくことにしましょう。歴史や文化の話にもなりますが、その前に、今、現在、私たちは生け花を精神修行として実践しているでしょうか?もし、そうだとすれば、生け花指導の中に精神的な内容が含まれていなければならないはず。また、生け花師範ともなれば、高徳な方が増えてくるはず。しかし、私の個人的な所感では、そうはなっていません。愚劣な部分も目立ちます。もちろん、これは個人差、地域差、流派間の差などがあり、簡単には言い切れないでしょうが。
実は、戦前、「生け花は精神修行」だという通説を、真っ向から否定した人物があります。この方が日本の生け花の方向を大きく変えたと言ってもいいでしょう。三大流派のうち、草月流、小原流の家元が師事した先生でした。他にも多くの有力な華道家が彼の生け花改革運動に協賛しています。生け花は精神修養ではなくなったのです。
生け花に多大な影響を与えたこの人物とは、重森三玲。以前にもこのエッセーで紹介したことがありますね。昭和を代表する庭園デザイナー。私が日本庭園に興味を持ち、庭園デザイナーの資格を取るまでになったのはこの方の作品にふれたせいでもあります。次回は重森について、もう少し触れ、私の持論まで持って行きましょう。
6月には私がNGVで生け花の講演を行いましたが、8月には国際いけ花学会会長がメルボルン大学で講演をなさいます。ぜひお越し下さい。
今月紹介するのは花菱レストランに活けた作品。私にとっては毎週のトレーニングです。
さらに、生け花とは何かと考えていくと、日本文化とは何か、ということにまで話が繋がっていくことにも気づいていただけたでしょうか。これは生け花の歴史についても言えることです。生け花の歴史を追っていくと、日本の歴史を学ぶことになります。武士階級が力を持つと、それが生け花の形に影響を与えます。商人が経済力を持つと、そのニーズにあった生け花が生まれます。日本文化、社会の変遷と共に、生け花は変容するのです。生け花は日本文化の一部ですが、その一部は全体との関連で常に変化しているということです。
さて、「生け花は精神修行」だとして、その中身をさらに考えていくことにしましょう。歴史や文化の話にもなりますが、その前に、今、現在、私たちは生け花を精神修行として実践しているでしょうか?もし、そうだとすれば、生け花指導の中に精神的な内容が含まれていなければならないはず。また、生け花師範ともなれば、高徳な方が増えてくるはず。しかし、私の個人的な所感では、そうはなっていません。愚劣な部分も目立ちます。もちろん、これは個人差、地域差、流派間の差などがあり、簡単には言い切れないでしょうが。
実は、戦前、「生け花は精神修行」だという通説を、真っ向から否定した人物があります。この方が日本の生け花の方向を大きく変えたと言ってもいいでしょう。三大流派のうち、草月流、小原流の家元が師事した先生でした。他にも多くの有力な華道家が彼の生け花改革運動に協賛しています。生け花は精神修養ではなくなったのです。
生け花に多大な影響を与えたこの人物とは、重森三玲。以前にもこのエッセーで紹介したことがありますね。昭和を代表する庭園デザイナー。私が日本庭園に興味を持ち、庭園デザイナーの資格を取るまでになったのはこの方の作品にふれたせいでもあります。次回は重森について、もう少し触れ、私の持論まで持って行きましょう。
6月には私がNGVで生け花の講演を行いましたが、8月には国際いけ花学会会長がメルボルン大学で講演をなさいます。ぜひお越し下さい。
今月紹介するのは花菱レストランに活けた作品。私にとっては毎週のトレーニングです。