今年も国際いけ花学会の学術誌のエッセー部門の編集のお手伝いをしています。
いけ花体験談など募集中ですので、ぜひご投稿下さい。
2017年度は九月末日締め切り。
日本語では900字程度。
投稿料は無料で、採用された場合、学術誌を1部進呈します。
http://www.ikebana-isis.org/p/toukoukitei.html
https://ikebanastudies.wordpress.com/2017/09/01/call-for-ikebana-essays-4/
編集作業の苦労については以前にもここに書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_17.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_30.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_86.html
900字程度という短さですから、個人的な体験談、発見、洞察などでまとめるのが無難でしょう。
先に、ボツになる例として、他人を批判するような内容のもの、
事実を羅列しただけのもの、などをあげました。
今年も早速、ボツにしたエッセーがあります。
今回の問題は根っこの部分では、上にあげた2例ととてもよく似ています。
日本の侘び寂びとは、こういうもので、いけばなではこのように具体化されている、というような内容でした。
面白い内容です。
でも、ボツです。
おそらく私も大学生の頃、そんな種類の文章を書いていたかもしれません。
哲学めいたエッセー。
それはそれでいいのです。例えば、ブログに発表するとか、チラシに使うとか。そういうことならそれでいいのです。
でも、大学の先生に提出したらば、ボツでしょう。
私にも苦い思い出があります。
豪州の大学で最初の修士を始めた頃、学士論文を英訳し、要約を提出しろと求められたのです。
内容は、原始仏教の縁起論をデリダの理論を応用して読み解くといったようなものでした。自信満々で提出しました。
ところが評価は最低のD。
不満でしたから、当時、東大の客員教授をしていたオーストラリア人の友人に送って、読んでもらいました。
Dが相当!という返事。
Distinction のDだったのか?と思いましたが、今は、ダメということがよくわかります。オーストラリアの大学院で鍛えられたせいです。
さて、どこがいけないのか?
侘び寂びのエッセーの例で説明しましょう。問題の根っこは同じですから。
まず、侘び寂びというような美学用語はきちんと定義しないといけません。その上で使うこと。様々な解釈が存在しますから、なぜそのような意味で用いるのかという説明も必要です。
「自分はこう考える」というのもいいですが、他人の定義を踏まえ、批判し、その上で自分の解釈を持ち出すこと。
そうした準備がなく、「私の解釈では侘びとはこれこれだ」などとやられても、話にならないのです。
結局、こうした難しそうな専門用語はできるだけ使わないことです。書いている本人は、知識をひけらかしたいのかもしれませんが、逆に、無知を晒しているだけなのです。
この辺のところは、分かる人には分かる。
分からない人に説明するのはとても難しいです。
かつての私もなぜあの画期的な哲学的学士論文が評価されないのか、全く理解できませんでしたから。
ともかく、ここでの結論は、「短いエッセーでは専門用語は避けよう」ということです。