新興いけばな宣言(1933)を一つの契機として、生け花は大きく変わっていった、という話でした。一言で言えば、モダン芸術の影響を受けたわけです。その影響は現在まで続いています。現代生け花の課題を国際的な文脈で考えようとすると、様々な疑問が生じてきます。それらをおいおい考えていくことにします。
1、モダニズムとはどんな主張だったのか?ここでの話の流れでは、なぜ精神修養としての生け花が否定されねばならなかったのか?
2、前衛生け花はそこから何を学び、生け花をどう変えたのか?その成果は何か?
3、モダニズム芸術は、今や過去のものとなり、その歴史的役割を終えている。現代芸術の主流は(モダニズム芸術の要素を含みながらも)ポスト・モダニズム。では、生け花はどうか?モダニズムの影響を受けた草月、小原などは歴史的な役割を終えているということにならないか?そこを検証しては?ということ。断定でも批判でもないです(短絡的な人から襲撃されないといいのですが)。
4、生け花にポスト・モダンの要素を取り込み、その課題に取り組むことはできないのか?つまり、生け花で現代芸術がやれないのか?
5、西洋文化圏の方が生け花を学ぶ時、西洋化した生け花をどうとらえているのか?前衛生け花が否定した生け花の伝統的な要素(日本人の伝統的な花への態度など)はどう受け取られるのか?
上記4への私の取り組みの例として、Yering Station 彫刻展で ABL賞を受賞した「鯨の胃袋」を紹介します。生け花的要素もあれば、非生け花的要素も。前者については、華道家の感性は容易に指摘できるでしょう。
特に今回は作品が生命を獲得する、その瞬間が強く意識できました。それは生け花ではよく感じること。花1本を生けるだけでいいこともあります。そこから葉を取り除いたり、他の花を加えたりして、作り込んでいくと、ある瞬間に作品が自分の物語を語りだした、と感じることがあります(これはお手本通りに生けるのが生け花と思っている人には得られない経験)。今回、同様の経験をしました。
プラスチックバッグの塊を作ってみると、白、ピンク、黒と色のコントラストが強すぎ。全体を青いシートで包むとずっと効果的。それを金網で包んだのですが、物足りない。金網を手で鷲掴みにすると、面白いシワが表面に出来ました。これはいける、と設置直前の3時間猛攻撃。そこで「作品になった」と感じたのでした。この作品については今後、別の文脈でも触れることになるでしょう。