外国人にいけ花を教える難しさ、ということで再び考えてみます。
以前、考えたことは以下です。
最初に断っておきますが、外国人でも生け花がとても上手な方はいらっしゃいます。多くの日本人以上に。私などとてもかなわないなあという方も多いのです。
それは事実なのです。
それでも、一般的に、外国人に教える際には、日本人に教えるのとは違う難しさがあると感じることが多いのです。伸び悩む方、自由花でつまづいてしまう方。いろいろ困難が生じます。それはどこに原因があるのでしょう?
いろいろ理由は考えられます。
一つの深い問題は流派の指導にあると思います。海外で人気を集める流派の多くは、自由花を重視しているようですが、そうした(主に昭和以降に発展した)流派の外国人への指導方針に改善すべき点があるのではないかと思います。外国人に対して日本人と同様に教えていけばいいという前提は見直す必要があるように思います。もちろん、私は草月流以外の事情には無知なのですが。
自由花の重視はいいのですが、どうも海外ではこの自由花に対する勘違いがあるのではないか、という気がするのです。自由花の本質をきちんと教えていない、という現状があるのではないでしょうか。
これは各先生に任せておいていいことではありません。流派できちんと指導していかないと、いけ花の本質的なところは世界に伝わりません。
海外進出に積極的になるのはいいのですが、半端な形でなら弊害が出る可能性が大きいでしょう。例えば、トヨタは、海外進出の際、まず修理工を育成してから車を販売するのだそうです。売るだけ売って、修理はしないということでは信頼に傷がつくのは必至です。
生け花でもそのようなアフターケアが必要だと思います。
自由花とは自己表現だよ、花は生けたら人になるのだよ、というような説明はありますが、それ以上に踏み込んだ説明はほとんどありません。これでは誤解が生じるのは仕方ないでしょう。
海外で生け花を教えていてよく気付くことは、生徒の熱心さ。ことに実作とともに、理論や哲学を学びたいという声が多いのです。ところが海外で生け花を教えている先生でそうした質問に答えられる方はほとんどありません。少しばかりミステリアスな言葉や禅問答のような言葉で生徒の質問から逃げている方が多いのが実情ではないでしょうか。流派のテキストを読んでもそうした問題への回答はほとんどありません。
実は、「自由な自己表現」といった場合、日本人の考える「自己」と外国人(特に西洋人)の考える「自己」とは、同じではないようです。私にはそう思えます。
少し複雑な話になりそうなので、また、気が向いたときに改めて続きを書きます。
多用な時期が続きますので、しばらくはお休みです。