病弱の方とか、酔っ払いとか、フラフラ怪しい足元の様子というのは、一眼でわかります。ほんの数センチでしょうが、本来の位置からはみ出しただけで、少し動きが不自然だな、危ういな、頼りないな、と感じるものです。
特定の人の言葉遣いに、同じような危うさを感じることが時にあります。何度か私の感じている違和感を説明しようと試みてきましたが、上手く納得してもらったことがないのです。すると、こんな感じを持つ人は、あまり多くはないのでしょうか?
例をあげましょうか。ある方は、ご自分の祈りとして、息を吸う時に「讃美」、吐く時に「感謝」と唱えるのだそうです。宗教的な、霊性に関わるような著作も多い方の言葉です。こんな言葉に出会うと、私は「危うい」とすぐに感じます。とくにそれが宗教的な文脈で語られる時、ほとんど拒否反応が起こります。
「讃美」「感謝」!ヒエ〜!
本当に魂から湧き出る言葉というのは、そんな教科書のような、あるいはおしゃれな、それでいて安っぽくて軽薄な流行歌の歌詞のような言葉ではありません。
危うさ。耐えがたい言葉の軽さ。さらに場合によっては欺瞞さえも感じてしまいます。
ことあるごとに名著として紹介するのは、スコッツペックの「平気で嘘をつく人たち」(People of Lie)。もう心理学では古典になっているのではないでしょうか。彼のベストセラー、「愛の精神分析」(Road Less Travelled) が、善の起源を掘り下げた著作であるのに対し、「平気で〜」は、悪の起源の探究でしょう。そこで語られる悪は、なんとも掴みどころがない。日常的に私たちの周囲のどこにでも潜んでいて、とくに犯罪になることもない。
しかし、そこにある魂の欺瞞や腐敗は、人間存在の根本のところに関わってくるように思います。見えない冒涜、沈黙の暴力ではないか。後味の悪い読後感は何十年経っても残っています。
当然、文学でもそのような問題を扱った作品があります。レイモンド・カーヴァーの短編の幾つかとか。村上春樹も多くの作品で同様の問題を意識しつつも、カーヴァーほど巧みには描き切ってはいないように思います(もちろん村上は稀有な文学者ではありますが)。両者の違いは、人間の関係性に対する態度の違いと関連があるのかもしれません。