「どうしたらもっと生け花が上手になるのだろう」と自分の問題として考えてきました。
また、「どうして外国人に生け花を教えるのはこうも難しいのだろう」ということも、大きな問題でした。
問題の根本はどこにあるのか?
どうしたら状況を改善できるのか?
実は、このブログで今まであれこれ書いてきたことに、すでに私の答えは出ているように思います。ここでは、改めてこの難問への答え、そして具体的な解決方法まで私なりに考えてみます。
生け花上達のコツ(1)
生け花上達のコツ(2)
生け花上達のコツ(3)
外国人に生け花を教える難しさ(1)
外国人に生け花を教える難しさ(2)
外国人に生け花を教える難しさ(3)
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_26.html
まず結論から。
生け花上達のコツは、短距離走的な練習(瞬発力)と、長距離走的な練習(持久力)双方を継続させること。
前者は時に一つの作品制作に、とことん精魂込めてみるということ。これは常にそうあればいいのでしょうが、なかなかそうもいかないのが実情。
後者は、基本の徹底反復。毎日欠かさず何年も継続させること。
この二つだと思います。実は、私が特に重要だと考えるのは後者。外国人に教える際に、大きな障害となっているのもこの持久力に関わる、忍耐を要する修行方法が納得してもらえないということだと、気付きました。
有名な話があります。イチロー選手は高校時代、1日10分の素振りを365日1日も欠かさなかったそうです。日本人にはおそらく説明の必要もないと思います。生け花でも同じことだなと納得してもらえるでしょう。小さな努力でも、それを継続させることがいかに難しいか。そして、その莫大な効果。そう、莫大な!
繰り返しがマジックを生みます。
生け花なら、時に退屈で面倒な基本の練習を続けていくうちに、或る日突然、自分の生けた花が詩(あるいは生命)を持ち始めます。
そこへ至るためには1日も欠かさないという並外れた努力が必要なのです。
それにしても継続の難しさ!
試しに1週間だけでも毎日基本形を作ろうと目標を立てて取り組んでみて下さい。
たいてい4日目くらいにあれこれ面倒が生じて挫折してしまいます。
生け花に生きるという決意のない人は必ずそうなります。
継続するためには、強烈な覚悟と必死の努力が必要なのだと実感させられます。
それでも「継続は力なり」は多くの日本人共通の信念と言っていいでしょう。
ところが外国人にはこうした反復練習を嫌う人が実に多いのです。
「同じこと」「基本」「繰り返し」など退屈。
退屈すなわち苦痛!無意味!愚劣!最低!最悪!
求めるのは、常に何か新しいこと、常に何か違うこと。
この価値観の違いに気づくに至った幾つかの経験をあげます。
まず、このブログで基本の反復練習をさせた生徒のことを紹介しましたが、この生徒、結局辞めてしまいました。大成を期待していたのですが。私の力不足でもあります。
次に、最近、街を歩いていた時、”Nothing but Dull” と言うポスターを見つけました。
メルボルンのクリスマスには街でいろいろな面白い行事がありますよ、というメッセージです。でもこれはよく考えると、「退屈なことは最低!」と言う価値観の表明。
退屈でもそれを繰り返すと、とんでもないことになるのだ、などいうことは理解されそうにありません。
さらに、「そう言えば」とあるお母さんが、ご自分の息子さんのサッカーの練習を見て、日本と違うなと思ったことがあると話してくれました。練習といっても基本的に即試合。パスなど基本動作の徹底練習というような訓練はなし。面白いことだけやっている感じだと。
まだあります。随分以前の話ですが、私がメルボルン・フラワーショーに出展した時のこと。年配の生け花の先生が数人やってきて「毎年、同じようなもの作ってやがる」と蔑んだような言葉をかけられたことがあります。上品で礼儀正しい方々があるものだと思ったのが一つ。もう一つは「同じようなもの」への強い嫌悪、軽蔑。そこには反復すなわち停滞、創造性の欠如といった前提があるのでしょう。表面的には反復、しかし、内実は目に見えない進歩が生じているというような見方はなかなかできないのかもしれません。
反復は、ある時、突然の成長をもたらします。
反復というのは一つの戦略で、意識の突然変異をもたらすのです。
連想して欲しいのは、三昧。東洋の宗教の重要な行です。
生け花の世界に生きる者は花三昧の境地を目指したいもの。
この境地を哲学者西田幾多郎は以下のように語ります。
美術家は能く自然を愛し、自然に一致し自己を自然の中に没することに由りて甫(はじ)めて自然 の真を看破し得るのである。・・・知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好むところに熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知 即愛、愛即知である。(西田幾多郎『善の研究』)
この三昧の境地に達する時、生け花は詩を獲得するのです。
西田のいう「自然の真」とは、「専応口伝」について私が特に問題にした「よろしき面影」と同じ意味と解釈していいでしょう。一般の「専応口伝」の解説において、なぜか重視されてこなかった一節。無視されてきたと言ってもいいほどです。実は華道哲学の根本とされる「専応口伝」の肝なのですが。
専応口伝の謎(1)
専応口伝の謎(2)
専応口伝の謎(3)
専応口伝の謎(4)
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ここには芸道の形而上学があります。詳しくは私が今準備している論文を参照してもらうしかないのですが、この境地の要点は、以下の通り。
自己と花が合一し、無意識が働く。
花が作り手に話しかけてくる。
花を客体として見ているような境地とは違います。
花材の前に座ると、無意識のうちに手が動き、無我夢中。
気づくと作品ができていた、という三昧境。
瞑想の一つの形態とも言えそうですが、生け花作家はとりあえずはこの無我の境地を目指すべきでしょう。
実は、この境地のさらに先へ行かなければいけないと主張する方もあるのです。
例えば、私が指導を受けた勅使河原宏はその一人です。
しかし、まずは、この境地です!
どうしたら生徒をこの三昧境に導けるのか?
(1)基本を反復練習させることがひとつ。最重要なのですが、前述の通りなかなか容易ではないです。
(2)さらに、無意識で生けさせる経験をさせることでしょう。
考える時間を与えない。
制限時間内で基本形を3作くらい連続で作らせるとか。
私の特訓プログラムの成果はまた来年あたり報告できるでしょう。
(3)そして、芸道の形而上学も可能な限り説明していく必要があります。
日本人なら稽古だ、修行だと納得してくれることが、上記の通り外国人には理解できない場合があるのです。
しかし、心理学ではフローという概念が広く使われるようになっています。中心的なところは共通しています。この考え方を使って説得していくのは有効だと思います。
(4)もうひとつ、付け加えのようになりますが、以下の点も大事だと思っています。
クラスの後、当地の外国人生徒の多くは作った作品を壊さないように自宅へ持って行き、飾っているようです。
しかし、日本人の生徒の場合、壊してしまいます。運びにくいですから。
そして自宅で再度生け直すのです。
この習慣の違いは重要な点を含んでいます。
まず、作品に対する見方が違います。
日本人の立場は作った作品以上に「自分の身になったこと」を重視しているのでしょう。
作品は自分の内的な進歩の影のようなもの。
稽古の本当の目標は自分自身の深化です。
さらに、自宅で作り直すことで練習量が増えるという効果もあります。
生け花は芸術だというと、外国人のような態度になるのでしょう。
生け花はライフスタイルだと教えていこうと思っています。
「家で作り直しなさい」と。
日本人のやり方を私の生徒に徹底してみたいと思います。
もしかするとこんな簡単なことが、外国人に生け花を教える難しさ、外国人の生徒がなかなか成長してくれないという問題の根本にあるのかもしれないのです。