華道家 新保逍滄

2021年6月19日

外国人に生け花を教える難しさ(5)

 

何度もお断りしていますが、外国人の中にはとても生花が上手な方がいらっしゃいます。それはまずきちんと確認しておきたいと思います。

それでも、時々、「これは外国人の作品だな、日本人はこういう作品は作らないな」と思うことがあるのです。それが、私の生徒の場合、どのように指導したらいいのだろう、と悩むことになります。

ひとつ特徴的なのは、線の硬さ。まあ、例えば、直立不動(気をつけ!)のままダンスを踊っている感じです。不自然で、硬いなあと感じます。詩性も楽しさも感じられません。

もしかすると、「生花は自己表現」だという教えを勘違いしているのではないでしょうか。

「生花は自己表現」だという主張は1920年代頃から日本の生花の世界でなされているものです。西洋芸術のモダニズムの影響でしょう。つまり、西洋の考え方を日本人向けに紹介した教えです。

生花とは自然素材を尊重しつつ、自然の美しさを表現するものという前提があって、それを踏まえて、そこに自己主張も加えてみませんか、という程度の理解で受けとられたのかもしれません。というのは、とことん自己表現だけの(素材の自然性を完全否定した)生花はあまり存在しないように思うからです。基本的に自然素材の持っている面白さ、美しさを発見したなら、それをあえて壊すようなことはしないだろうと思うのです。

自己を表現した生花、と言っても、そこに表現された自己とは、自然の一部としての自己かもしれません。自分も自然の一部だと認識しつつ、自然素材の持つ味、線、動きを尊重しつつ、制作していくわけで、人と自然の共同作業のようなもの。

おそらくその創造過程の理想は無私の境地ではないでしょうか。深い瞑想状態とも言えるでしょう。生花の創造体験の一番深いところですが、皆さん、いろいろな表現でそれを説明してくださっています。「花と話しつついけていく」とか、「花と一体になっていけるのだ」とか。私なら「頭で作るな、無意識で作ろう」とでも言うかもしれません。華道史上、稀有の華道家であった山根翠堂は次のように書いています。

「花をいける人の心が、花の心に同化して、花のように美しい心にならなければ、決して、その本来の使命に忠実な、真に芸術的な『いけ花』はできません」(「花に生きる人たちへ」)

「同化」という言葉の意味は深いと思います。花は素材という客観的対象以上の存在になるのです。

ところが、ことに戦後、海外にも生花学習者が増えていきます。

そこで「生花は自己表現だ」という教えを伝えた場合、本来自分たちの考え方が戻ってきているわけです。日本文化だと思って生花を始めてみたら、中身は西洋文化じゃないか、と。自然は制作のための素材でしかない、ということがそのまま受け取られます。日本では前提としてあった自然観がないわけです。

自分は自分、自然は素材。人と自然は断絶しています。

この指摘は多くの著名な方々が、日本人の自然観対西洋人の自然観として書いていることと共通しています。おそらくそのような日本人論を読んだことがあるという方も多いでしょう。実は、それはあまりに紋切り型で、単純すぎる対比です。日本国外でそんな話をしたら、誰にも相手にされません。

しかし、こと「生花は自己表現だ」という主張の解釈について考えていくと、この紋切り型の比較が参考になるように思います。

では、外国人にどう教えていくべきか。

まず、外国人には「生花は自己表現だ」などということは言わない方がいいでしょう。それは自然を尊重する表現ができた後で、ゆっくり考えて貰えばいいことなのです。「花を愛さなくても生花はできるんだぜ」というような本を出している外国人がいます。こういう勘違いが起きないようにするためにも、これは大切なことだと思います。こういう生花教師を輩出している流派はその指導に検討すべき点があるのかもしれません。

次に、もっと花を見つめなさい、瞑想しなさい、ということを強調して指導していくことかな、と思います。最近、その趣旨で英語であれこれ書いてみました。そういう指導ができないと、海外では私たちはまともな生花を教え、伝えていくことができないように思うからです。生花を教えるということの本質は、生花が瞑想だということを教えることだと思います。

おそらくこれは日本国内ではそれほど意識しなくてもいいことだと思います。説明しなくても生徒は自然に瞑想体験を身につけていくのではないでしょうか。生花とは「本来そういうもの」だからです。しかし、外国人に生花を教える際には、最大の障壁になるように思います。

最近、ある生徒から、もっと別な方法で指導してくれとあれこれ言われたことがあります。この障壁の手前で迷っている生徒の一人です。

その希望をよく考えてみたところ、彼女の生花理解がわかってきました。おそらくいろいろなデザインの型を覚え、花という材料をそれに当てはめて生花を作るのだと考えているようなのです。自分の頭にある型、それを表現するために花を素材(客観的な対象)として使う。そのためにいろいろな効果的な型を教えてくれということに行き着くのです。先に書いた西洋人的自然観による生花理解の典型です。基本型の勉強はそのような態度で始めることになるでしょうが、自由型に移って、数年したならば(ましてや師範をとったならば)、そのような、頭だけで作ろうという態度ではいけません。生花の本質に至ることはできません。

生花のデザインは自分の頭から捻り出すのではなく、むしろ無私の境地で素材から(あるいは自分の無意識から)抽出するものだと教えたいものです。そこには、花との共同作業、一体化、同化、といった瞑想体験が必要です。花を客観的対象として見ているだけでは到達できない境地です。生徒がそこを理解し、体得できるかどうか。そこがポイントのような気がします。

デザインという結果ばかりをみていてはいけない。過程を重視しなさい。

生花はデザインじゃない。

生花は瞑想なんだと、強調していくことでしょう。

それで生徒が離れていくなら、仕方ないですね。金のためだけに生花指導をやっているわけではないのです。譲れないものは譲れません。

もしかすると、生徒は自然観の変更を迫られるかもしれません。その変更が可能なら、生花を海外に広める意義はとても大きいように思います。


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