華道家 新保逍滄

2021年12月9日

生け花と第二言語習得論

 


学校の英語の授業を受けても英語は話せるようにはならない。英会話を身につけたければ、英会話教室へ。

これは私が日本で学校教育を受けた頃の常識でした(私は大学までは日本です)。昔の話なので、最近はどうなのかわかりません。

学校英語と英会話教室の英語。どうも違いがあるなあ、というのは多くの方が感じておられたことでしょう。いろいろな意見があることでしょうが、大学院で第二言語習得論を少しかじった者からすると、この違いにはとても重要な意味があります。

簡単に説明します。言語教授法の歴史上、学校英語というのは文法翻訳教授法、オーディオ・リンガル法に基づいた指導です。19世紀から60年代くらいまでの指導理念に基づいています。要するに文法重視、ドリルをやって、ネィティブの音声を真似する。根本にあるのは、意識を鍛えて言葉を教えようという考え方。言語習得は習慣形成の結果で、目標は「言葉を教える」ということです。

英会話教室というのは、成功している学校の多くの場合、70年代以降、主流となったコミュニカティブ・アプローチを採用しています。目標は「言葉を使わせる」ことです。最終的な目的は言葉を覚えることではない。言葉を使って何ができるのか、そこを重視します。たとえ完全な外国語でなくても、外国語を使って、切符が買えた、商売が成立した、実際に何か成し遂げることができたなら、それを評価するわけです。そのような言語活動、タスク中心の指導をしていこう、というのがひとつの方針です。

この違いが分かっていない言語教師は問題です。例えば、オーストラリアにおける日本語教育は日本の英語教育と比べはるかに幸運な状況で発展してきています。コミュニカティブ・アプローチが主流で、そこを基に進化しています。ほんの数年日本語を学んだだけだという外国人が上手に日本語を話すのに驚いたことはありませんか?おそらくはコミュニカティブ・アプローチの成果です。

ところが、うちの生徒は歌やゲームを使って短時間でこれだけの単語数を楽しく覚えたとか、そんなことばかり自慢している日本語教師がいます。それを悪いとは言えないでしょうが(悪いと言った方がいいのですが)、重要なのは、テストの点ではないのです。言葉を使って何が実際にできたのか、です。

言葉を「覚えさせる」ことから、言葉を「使わせる」ことへ、という発想の転換ができない教師は、迷惑な化石のような存在。たとえ生徒から人気があっても、21世においては無用で無能な教師です。

コミュニカティブ・アプローチへの転換には、おそらく意識を鍛えるという発想から無意識を含めて鍛えようという発想の転換があったように思います。たとえ教えていない言葉であっても、状況から生徒はその新しい言葉を理解するものです。それはとても重要なことです。言語習得は無意識の領域で生成する創造的なものです。

さて、生け花です。

なぜ、海外の生け花はこれほどレベルが低いのか?

日本には数千の花道流派が存在するようですが、この問題をきちんと考えているところは存在しないように思います。私の論考が注目されることも当面なさそうです。

ふと思うのは、生け花の指導において、学校英語的な指導がなされているのではないか、ということ。型とかデザインとか意識のレベルで認知できることを指導することが中心なのではないでしょうか。

英語教育の目標は、言葉を覚えることではなくて、言葉を使って何が実際にできるかだ、とはっきりしてから指導方法が変わっていったのです。意識レベルの学習から、無意識を含む全人的な学習へ、と。

生け花では、花を使って瞑想できるか否か、その結果が作品になるのです。無意識の働きが大きく関わってきます。さらに突き詰めるなら、生け花の目的は、デザインの優れた作品を作ることというよりも、花を通じて瞑想を深めることなのです。意識から無意識へと焦点を転換させなければいけません。

ところが、海外においては瞑想ということができていないように思います。外国人の多くは生け花を意識の次元で解釈し、まるで西洋フラワーアレンジメントの延長として、デザインの問題として学ぼうとしているように思います。生け花風の作品は出てくるでしょうが、瞑想に基づく生命のある花は出てこないでしょう。

最近、井上治先生国際いけ花学会会長)が、華道とは禅だ、という趣旨の著作を出版されました。とてもタイムリーな出版です。たくさんの方に読まれるといいなと思います。いつかこの著作についてもきちんと考えてみたいと思います。基本的には私の主張と同調です。井上先生とは連日メールでやりとりしていますが、このような立ち入った話はあまりしていないのです。それでも不思議と現代生け花の最大の問題点として、同じ課題(つまり、禅的性格あるいは瞑想体験の欠落)に対峙しているということは、嬉しい発見でしたし、とても力を得た思いです。

さて、瞑想しなさい、無意識を働かせなさい、と言うのは容易ですが、どのように指導していったらいいのか。そのような取り組みは現在、存在しないのではないでしょうか。

特に自由花の指導が問題です。

指導理論がないものですから、多くの流派で縦に伸びる形、とか横に伸びる形とかトピックを作り、作例を示して指導しています。このような指導書で生け花が上達するはずがありません。生気を欠いた駄作が生産され続けるだけです。

海外でも生け花の学習者が増えて、流派の収入が増えれば、それで十分。そんなことでは、生け花の生命は失われてしまいます。

指導しなければいけないのは、作例という結果ではなく、そこへ到るプロセスです。制作過程における瞑想体験を身につけてもらうことです。

そのようなことを考えて、生花道場では制作過程を重視した指導を導入することにしました。初めての試みですから、試行錯誤しながら取り組んでいこうと思います。

生花道場の取り組みについては他のところでも発表していく予定です。

Shoso Shimbo

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