華道家 新保逍滄

2020年3月24日

自由花における詩性とは何か?(1)


日々、生け花を教える中で出会う疑問を出発点に、じっくり考えていくと、
思いもしなかったところまで考えが及ぶということがよくあります。
例えば以下のような具合。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/12/blog-post.html

毎度のことながら、「外国人に生け花を教えるのは難しい」と思います。
特に、自由花。
基本形を終えて、自由花に移ると、時に、めちゃくちゃになる人が出てきます。
単に強いだけ!
単に個性的なだけ!
単に綺麗なだけ!

何かが欠けているのです。
原因はなんだろう?対策はどうしたらいいのだろう?

まず出発点は、自由花とは何か、ということでしょう。
自由花が提唱されてそろそろ100年です。
その本質の定義も有効な指導方法も確立されていい頃だと思うのですが、
まだそうなっていないように思います。

この辺の議論は置いておきます。また別の機会に考えます。

私の生徒作品を見て、「何かが欠けている!」と感じることが多いわけですが、ここから話を始めます。
欠けている「何か」とは何でしょう?

一言で言えば、詩性です。

ここで生け花とは何かという話を踏まえないといけないでしょうが、それも置いておきます。私は生け花は芸術だという意見には同意できません。問題は「生け花は芸術だ」という方の「芸術」の定義が私の芸術の定義とは異なる点。私は村上隆の芸術論が面白いと思います。彼は「闘争」していますが、私は生け花の世界で不毛な「闘争」をするつもりはありません。

実は、生け花はクラフトだとしたほうが説明しやすいと思っています。
生け花とは一般的には視覚的形態上のデザインを研ぎ澄ませて、詩性をつかもうとするもの、ではないか。
とすると、それはクラフトです。
特殊なクラフトですが、芸術とは言えません。
芸術のようにコンテクストが問題になるのは限られた特殊な場合のみですから。

さて、詩性です。
それは何か?

詩性のない生け花作品とは、すなわち生命のない作品。
生け花とは言えないでしょう。
山根翠堂は死に花と言いましたが、多分、その通りです。

では、どうしたら詩性を手にできるのか?
どうしたら生徒はそれを体現できる力をつけてくれるのか?

ここで自分自身、なかなか掴めないでいるもの、つまり詩性を
教えられるのか、という困難な問題にぶつかってしまいます。
続きは、また、いつか考えることにします。

かすかにひらめいているのは、生け花における詩性を、
環境美学と環境倫理の接点上に定義づけられたら面白いだろうな、ということです。

自由花における詩性とは何か?
なかなか大きな問題です。

2020年3月9日

いけ花とモダニズム:自由花の確立に向けて



華道史の中でも、1920年代からの数十年間は、私にはとても興味深い時期です。
生け花人口は増えていく、
新しい流派が次々生まれる、
生け花戦国時代などと名付けた方もありますね。

西洋モダニズムの影響を受け、生け花はこのままではいけないと、重森三玲の元に勅使河原蒼風、小原豊雲、中川幸夫らが集まって、生け花改革を目論んでいたり、新しい自由花に異を唱えるグループがあったり。いつか自分なりに辿ってみたいと思っています。

今、思いつく仮説がいくつかあります。きちんと検証していかないといけませんが。
「自由花の成立には生け花の原点への回帰という性格があったのではないか」

つまり、生け花に西洋流の芸術の方法を取り入れ、自由花を確立しようという試みは、生け花の本質の探求を推進はしたけれど、最終的に生け花の西洋化はもたらさなかったのではないか。

そんなことを考えつつ、書き始めた日本語のエッセーは以下の通りです。

このブログでも「専応口伝の謎」として何度か書いたトピックです。

続きは、「いけ花文化研究」第8号に掲載される予定です。
自由花の提唱者が主張した「生命」を東洋思想史の中で捉えられないかと思っています。ただ、そう思った途端、困難がもやもやと思い浮かびます。

しかし、モダニズムにさらされ、生け花をどうしよう、
どうしたら当時の現代的な課題に答えられるのか、と華道家たちが熱く燃えていた時代があったのです。そこが私には面白いのです。

現代はどうでしょう。
ポストモダンの時代にあって、喫緊の現代的な課題ははっきりしているのに、生け花からなんの提案もない。安穏としたものです。

もちろん、私に生け花の現状が全て分かっているわけではないのです。
むしろ、何も分かっていないと言われても仕方ないほどですが。

管見ですが、モダニズムの時代に有効であった古臭い提案を繰り返すだけだったり、威厳のあるような態度を作ることに専心し、それが傷つきはしないかと汲々としているだけのように思えます。

それが最も露わになる卑近な例は、コンクールなどに対する嫌悪あるいは過剰な反応。結局、怖いのでしょうか。瑣末なことなのになあ、もっと大きい問題があるのになあと思います。とはいえ、攻撃的になるのでなければ、問題はないのですが。

2020年1月21日

とりあえずーFacebook の問題点

このブログやFacebook などで、何度か触れた問題がありましたが、この問題が解決しましたので、とりあえず報告しておきます。
もしかすると同様の問題でお悩みの方があるかもしれませんので。

問題は昨年度の6月に始まりました。そして解決までに6ヶ月かかりました。

問題とは、メルボルン生け花フェスティバルのサイト(https://waikebana.blogspot.com/)がFacebook、並びにインスタグラムで、コミュニティ・スタンダードに反すると断じられ、それらのソーシャルメディアにリンクが載せられなくなったばかりか、関連のポストが全て削除されてしまったのです。

私たちは広報をFacebook に依存していたため、フェスティバル関連の広報がうまくいかずとても迷惑しました。6月からフェスティバル開催の9月までの3ヶ月間は特に困りました。仕方ないので、どんどん新しいサイトを作りました。20個くらい作りました。それらが次々と、時には数分で攻撃され、封鎖されました。膨大な時間の損失!

原因は、ある特定の方が私たちのサイトを不良サイトとして報告したことであるようです。私たちがフェスティバル関連のポストを投稿する。この方が報告する。当のポスト並びにサイトが削除されるということが何度も繰り返されました。

反社会的な営業妨害ですから、法的手段に出ようという意見まであったのです。

この卑劣な犯罪者は誰か?いくつかの方法で、特定できないかと調べてみたところ、その方の居住国もわかり、生け花に関心のある方というところまでわかりました。ついに、約15人のうちの誰かであろうというところまで特定できました。

しかし、その段階で、突然、サイト禁止が解除されました。

私たちはFacebookに何度も毎週のように、「当方は不良サイトではない、この処置は間違いだ」と訴え続けましたが、6ヶ月経ってようやく、Facebook側から対応してもらえたようです。不良サイトとの報告自体が虚偽であり、報告者の違反行為と認めてくれたのです。

Facebookの立場も理解できます。多数の利用者がいるわけです。
不良サイトの取り締まりには、誰か一人が匿名で報告すれば即封鎖、という手段しかないでしょう。報告者は保護しなければいけないでしょう。匿名を認めるしかないでしょう。そして、それを悪用する者が出てくることは承知しているはずです。
しかし、最小限、「悪用だと分かった場合、悪用した者の氏名は公表する」という条件は追加するべきです。それだけで、悪用する者の数はずっと減るはずです。
加害目的で迷惑行為を行うヤクザ者を保護する必要はないのです。

2020年1月14日

持続可能社会の実現を目指して



折笠和文著「マーケティングの批判精神:持続可能社会の実現を目指して」読了。

久しぶりに休暇がとれ、読みたかった本を一気に読みました。
去年、桜の頃に亡くなられた折笠先生は私には特別な方です。
30年以上の付き合いです。
多分、先生は周囲のどなたにも話せないようなことでも
私には気楽に話して下さっていたのではないか、そんな気もします。
なんの遠慮もいらない、気安く付き合える方でした。
私が声をかけると必ず時間を作って下さいました。
大学教授として忙しいはずなのですが、そんなことは一度も口に出したことがない。
どうやって時間を見つけて多数の著作を出版されているのか、不思議でした。
先生の著作の幾つかを経済学の教科書のような形で扱う大学も少なくありません。
そのことを指摘しても「ああ、そうなの?」とあまり関心がなさそうなのです。
だいたい先生と学問のことなど話したことがないのです。
いつもロクでもない冗談を言い合っていました。
メルボルンに遊びにいらっしゃるという約束を果たしてもらえなかったことが残念です。

「広告は、なくせって言いたいんだよ」と先生。
二人で名古屋駅近くの寿司屋で飲んでいた時でした。
「え?経済学の先生がそんなこと言っていいんですか?」
「広告はね、ウソだよ。新保くん、俺はウソが嫌いなんだ」
福島出身の侍が出たなと私は笑ったものですが、あれは先生の本心だったのだなあ、とこの本を読んで納得しました。
そして、「広告がウソだ」という先生の言葉の真意もわかりました。
広告がウソで購買意欲をかき立てているというようなレベルの批判ではないのです。
企業の広告が現在の資本主義社会が存続不可能であるという事実から消費者の目を反らせ、その真実を伝えることなく、消費者を消費中毒にさせようと目論んでいる、という見識に立って、広告はウソだ、と断じているのです。広告の存在自体がウソだというのです。

私は専門が違うので、この本のキチンとした書評は書けません。
ただ、議論の流れには批判されかねない部分が多々あるように思いました。
しかし、そんなことよりも、この本には何としても言わずにいられない、という熱意が溢れています。このままでは地球は危ないという、先生の熱のこもった警告、そして将来への提案は多くの方々に考えて欲しいものです。私にとってはそこが読む価値の中心でした。おそらく大学教授レベルの方々にはこうしたトピックに触れたくない、立場上ここまでは言えないという方も少なくないでしょう。
私は遺言と受け取っています。

グレタ・トゥーンベリさんの言う「気が狂いそうになる程の焦燥」を、先生もまた感受しておられたのだろうと思います。こうした警告を無視できるのは、知的に乏しいか、愚劣で強欲な利己主義者だけだということが世間一般、政治家の間でも常識になり、そこから新しい社会に向けた歩みを始めなければいけないでしょう。

2019年12月10日

生け花上達のコツ(4)


「どうしたらもっと生け花が上手になるのだろう」と自分の問題として考えてきました。
また、「どうして外国人に生け花を教えるのはこうも難しいのだろう」ということも、大きな問題でした。

問題の根本はどこにあるのか?
どうしたら状況を改善できるのか?

実は、このブログで今まであれこれ書いてきたことに、すでに私の答えは出ているように思います。ここでは、改めてこの難問への答え、そして具体的な解決方法まで私なりに考えてみます。

生け花上達のコツ(1)
生け花上達のコツ(2)
生け花上達のコツ(3)
外国人に生け花を教える難しさ(1)
外国人に生け花を教える難しさ(2)
外国人に生け花を教える難しさ(3)
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_26.html

まず結論から。

生け花上達のコツは、短距離走的な練習(瞬発力)と、長距離走的な練習(持久力)双方を継続させること。

前者は時に一つの作品制作に、とことん精魂込めてみるということ。これは常にそうあればいいのでしょうが、なかなかそうもいかないのが実情。

後者は、基本の徹底反復。毎日欠かさず何年も継続させること。

この二つだと思います。実は、私が特に重要だと考えるのは後者。外国人に教える際に、大きな障害となっているのもこの持久力に関わる、忍耐を要する修行方法が納得してもらえないということだと、気付きました。

有名な話があります。イチロー選手は高校時代、1日10分の素振りを365日1日も欠かさなかったそうです。日本人にはおそらく説明の必要もないと思います。生け花でも同じことだなと納得してもらえるでしょう。小さな努力でも、それを継続させることがいかに難しいか。そして、その莫大な効果。そう、莫大な!

繰り返しがマジックを生みます。
生け花なら、時に退屈で面倒な基本の練習を続けていくうちに、或る日突然、自分の生けた花が詩(あるいは生命)を持ち始めます。
そこへ至るためには1日も欠かさないという並外れた努力が必要なのです。

それにしても継続の難しさ!
試しに1週間だけでも毎日基本形を作ろうと目標を立てて取り組んでみて下さい。
たいてい4日目くらいにあれこれ面倒が生じて挫折してしまいます。
生け花に生きるという決意のない人は必ずそうなります。
継続するためには、強烈な覚悟と必死の努力が必要なのだと実感させられます。
それでも「継続は力なり」は多くの日本人共通の信念と言っていいでしょう。

ところが外国人にはこうした反復練習を嫌う人が実に多いのです。
「同じこと」「基本」「繰り返し」など退屈。
退屈すなわち苦痛!無意味!愚劣!最低!最悪!
求めるのは、常に何か新しいこと、常に何か違うこと。

この価値観の違いに気づくに至った幾つかの経験をあげます。

まず、このブログで基本の反復練習をさせた生徒のことを紹介しましたが、この生徒、結局辞めてしまいました。大成を期待していたのですが。私の力不足でもあります。

次に、最近、街を歩いていた時、”Nothing but Dull” と言うポスターを見つけました。
メルボルンのクリスマスには街でいろいろな面白い行事がありますよ、というメッセージです。でもこれはよく考えると、「退屈なことは最低!」と言う価値観の表明。
退屈でもそれを繰り返すと、とんでもないことになるのだ、などいうことは理解されそうにありません。

さらに、「そう言えば」とあるお母さんが、ご自分の息子さんのサッカーの練習を見て、日本と違うなと思ったことがあると話してくれました。練習といっても基本的に即試合。パスなど基本動作の徹底練習というような訓練はなし。面白いことだけやっている感じだと。

まだあります。随分以前の話ですが、私がメルボルン・フラワーショーに出展した時のこと。年配の生け花の先生が数人やってきて「毎年、同じようなもの作ってやがる」と蔑んだような言葉をかけられたことがあります。上品で礼儀正しい方々があるものだと思ったのが一つ。もう一つは「同じようなもの」への強い嫌悪、軽蔑。そこには反復すなわち停滞、創造性の欠如といった前提があるのでしょう。表面的には反復、しかし、内実は目に見えない進歩が生じているというような見方はなかなかできないのかもしれません。

反復は、ある時、突然の成長をもたらします。
反復というのは一つの戦略で、意識の突然変異をもたらすのです。
連想して欲しいのは、三昧。東洋の宗教の重要な行です。
生け花の世界に生きる者は花三昧の境地を目指したいもの。

この境地を哲学者西田幾多郎は以下のように語ります。

美術家は能く自然を愛し、自然に一致し自己を自然の中に没することに由りて甫(はじ)めて自然 の真を看破し得るのである。・・・知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好むところに熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知 即愛、愛即知である。(西田幾多郎『善の研究』)

この三昧の境地に達する時、生け花は詩を獲得するのです。

西田のいう「自然の真」とは、「専応口伝」について私が特に問題にした「よろしき面影」と同じ意味と解釈していいでしょう。一般の「専応口伝」の解説において、なぜか重視されてこなかった一節。無視されてきたと言ってもいいほどです。実は華道哲学の根本とされる「専応口伝」の肝なのですが。
専応口伝の謎(1)
専応口伝の謎(2)
専応口伝の謎(3)
専応口伝の謎(4)
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/09/blog-post.html

ここには芸道の形而上学があります。詳しくは私が今準備している論文を参照してもらうしかないのですが、この境地の要点は、以下の通り。

自己と花が合一し、無意識が働く。
花が作り手に話しかけてくる。
花を客体として見ているような境地とは違います。
花材の前に座ると、無意識のうちに手が動き、無我夢中。
気づくと作品ができていた、という三昧境。

瞑想の一つの形態とも言えそうですが、生け花作家はとりあえずはこの無我の境地を目指すべきでしょう。

実は、この境地のさらに先へ行かなければいけないと主張する方もあるのです。
例えば、私が指導を受けた勅使河原宏はその一人です。

しかし、まずは、この境地です!
どうしたら生徒をこの三昧境に導けるのか?

(1)基本を反復練習させることがひとつ。最重要なのですが、前述の通りなかなか容易ではないです。

(2)さらに、無意識で生けさせる経験をさせることでしょう。
考える時間を与えない。
制限時間内で基本形を3作くらい連続で作らせるとか。
私の特訓プログラムの成果はまた来年あたり報告できるでしょう。

(3)そして、芸道の形而上学も可能な限り説明していく必要があります。
日本人なら稽古だ、修行だと納得してくれることが、上記の通り外国人には理解できない場合があるのです。
しかし、心理学ではフローという概念が広く使われるようになっています。中心的なところは共通しています。この考え方を使って説得していくのは有効だと思います。

(4)もうひとつ、付け加えのようになりますが、以下の点も大事だと思っています。
クラスの後、当地の外国人生徒の多くは作った作品を壊さないように自宅へ持って行き、飾っているようです。
しかし、日本人の生徒の場合、壊してしまいます。運びにくいですから。
そして自宅で再度生け直すのです。

この習慣の違いは重要な点を含んでいます。

まず、作品に対する見方が違います。
日本人の立場は作った作品以上に「自分の身になったこと」を重視しているのでしょう。
作品は自分の内的な進歩の影のようなもの。
稽古の本当の目標は自分自身の深化です。
さらに、自宅で作り直すことで練習量が増えるという効果もあります。

生け花は芸術だというと、外国人のような態度になるのでしょう。
生け花はライフスタイルだと教えていこうと思っています。
「家で作り直しなさい」と。
日本人のやり方を私の生徒に徹底してみたいと思います。

もしかするとこんな簡単なことが、外国人に生け花を教える難しさ、外国人の生徒がなかなか成長してくれないという問題の根本にあるのかもしれないのです。

2019年11月25日

外国人に生け花を教える難しさ(3)


外国人にいけ花を教える難しさ、ということで再び考えてみます。
以前、考えたことは以下です。

最初に断っておきますが、外国人でも生け花がとても上手な方はいらっしゃいます。多くの日本人以上に。私などとてもかなわないなあという方も多いのです。

それは事実なのです。

それでも、一般的に、外国人に教える際には、日本人に教えるのとは違う難しさがあると感じることが多いのです。伸び悩む方、自由花でつまづいてしまう方。いろいろ困難が生じます。それはどこに原因があるのでしょう?

いろいろ理由は考えられます。

一つの深い問題は流派の指導にあると思います。海外で人気を集める流派の多くは、自由花を重視しているようですが、そうした(主に昭和以降に発展した)流派の外国人への指導方針に改善すべき点があるのではないかと思います。外国人に対して日本人と同様に教えていけばいいという前提は見直す必要があるように思います。もちろん、私は草月流以外の事情には無知なのですが。

自由花の重視はいいのですが、どうも海外ではこの自由花に対する勘違いがあるのではないか、という気がするのです。自由花の本質をきちんと教えていない、という現状があるのではないでしょうか。

これは各先生に任せておいていいことではありません。流派できちんと指導していかないと、いけ花の本質的なところは世界に伝わりません。

海外進出に積極的になるのはいいのですが、半端な形でなら弊害が出る可能性が大きいでしょう。例えば、トヨタは、海外進出の際、まず修理工を育成してから車を販売するのだそうです。売るだけ売って、修理はしないということでは信頼に傷がつくのは必至です。
生け花でもそのようなアフターケアが必要だと思います。

自由花とは自己表現だよ、花は生けたら人になるのだよ、というような説明はありますが、それ以上に踏み込んだ説明はほとんどありません。これでは誤解が生じるのは仕方ないでしょう。

海外で生け花を教えていてよく気付くことは、生徒の熱心さ。ことに実作とともに、理論や哲学を学びたいという声が多いのです。ところが海外で生け花を教えている先生でそうした質問に答えられる方はほとんどありません。少しばかりミステリアスな言葉や禅問答のような言葉で生徒の質問から逃げている方が多いのが実情ではないでしょうか。流派のテキストを読んでもそうした問題への回答はほとんどありません。

実は、「自由な自己表現」といった場合、日本人の考える「自己」と外国人(特に西洋人)の考える「自己」とは、同じではないようです。私にはそう思えます。

少し複雑な話になりそうなので、また、気が向いたときに改めて続きを書きます。
多用な時期が続きますので、しばらくはお休みです。

2019年11月8日

和:メルボルン生け花フェスティバル成功の秘訣(4)


メルボルン生け花フェスティバルについての雑感4回目です。前回分は以下です。

このフェスティバルの大きな特徴のひとつは、生け花展に外部からの出展者を募集したということ。

現状:メルボルンには生け花をやっている方が少ない。
理想:多くの出展者を迎え、この花展をフェスティバルと名のつくものにしたい。

現状と理想の間に大きなギャップがあります。
解決策は、メルボルンの他から出展者を迎えればいい!

しかし、どうしたら州外、さらに海外、日本から出展者をお呼び出来るのか?
これは難問です。

出展者にとっては旅費やら滞在費、かなりの出費になります。「観光旅行のついでに花展に参加してこよう」というような気軽さで参加していただいても、もちろんありがたいですが、やはりフェスティバル自体が海外からのお客様を呼べるほどに魅力的でなければいけないでしょう。

大きなスポンサーがあって、資金に余裕があれば、あれこれできるでしょう。
しかし、これは正真正銘の小予算イベント。
収入としては出展者各自から4000円ほどしか徴収していないのです。
(それとスポンサーの援助、匿名の寄付があり、とても助かりましたが)

これで国際的文化イベントができるのか?

できたのですね!

確かに小さい規模ではありましたが。日本から2名、ベトナムから1名、他州から2名の出展がありました。これは私たちにとっては奇跡的な(!)出来事でした。おかげさまで州政府の文部大臣代理、市会議員からも開会式にご来臨いただくことにもなりました。第1回目としては予想以上の成果です。

では、具体的にどんな戦略を用いたのか。
お金が使えないなら、頭を使い、体を使うしかないでしょう。

1、「メルボルン生け花フェスティバル」という名称:これがメルボルンで突出した生け花イベントというブランド効果を生んでいます。もちろん最大、最高の生け花イベントとはまだ言えないでしょうが、名前だけはとても立派。今後もっと注目を浴びることでしょう。日本からの出展者が履歴書に「メルボルン生け花フェスティバル出展」と書けるのです。その重要性が分かる方は、ブランドの重要性が分かっていらっしゃるはずです。

2、和生け花賞の実施:新人の生け花教師のキャリア・アップをお手伝いしたいということで、師範取得4年以内の方を対象とした賞を設けました。生け花の世界に競争原理を持ち込むことには相変わらず抵抗があるようです。説明には努めていますが、他人の考え方を変えことはできません。批判だけなら無視すればいいのですが、犯罪レベルの嫌がらせまで受けることにもなります。

ともかく、重要なのは、日本からの出展者に賞金とともに、「和・メルボルン生け花フェスティバル金賞受賞」と履歴書に書けるチャンスを提供したいということ。

作品が雑誌などにとり上げられる時、あるいは公共機関、民間の文化教室などに生け花教師として応募する時に、国際的な芸術コンクールでの受賞歴がどれほど大きな威力を発揮するか、いずれ実感していただけるでしょう。所属する流派外からの評価をいただいているということは、強力な武器になるものです。私自身、プロの芸術家ですからこの点はよく認識しています。

実際、初回の金賞受賞者は広島のYさんでしたが、「受賞までできて、本当にメルボルンに来た甲斐があった」とおっしゃっていました。

いつか、「和・メルボルン生け花フェスティバル金賞受賞」が、新人生け花教師の国際的な登竜門になるというようなことになったら楽しいでしょうね。

3、国際いけ花学会例会の共催:今回は私が研究発表を行っただけですが、出席者には花展出展だけではなく、それにプラスする経験が提供できたと思います。花道史については突っ込んだ質問もありました。

もちろん私の話を聞くために日本からやってくるという方はないでしょうが、出展のついでに聞いてみたら、多少ためになった、ということになれば十分。やがてはもっと重要な発表も行われるでしょう。国際的な研究者が登場するかもしれません。貴重な学習、意見交換の場にもなるでしょう。また、「メルボルンの国際学会で研究発表をした」という実績が必要な研究者もあるのです。そうした方々のニーズに応えるものになっていくでしょう。

花展出展+α の経験を提供する、独特の企画として継続したいものです。

4、生け花パフォーマンス:このイベントについてはいろいろな文脈から解説ができるでしょう。ここではマーケティングの観点から説明してみます。多少お金をかけてでも、この生け花フェスティバルに「特別イベント」を設けたいという希望はありました。強力な看板になるようなイベント。海外からの出展者にも興味を持ってもらえるほどの。

しかし、私たちの生徒や出展者に負担をお願いできませんから(当地の現実!)、このイベント開催費用は全額私の自腹です。このくらいのお金は使ってもいいかなという金額の上限。

この額では日本から著名な華道家をお呼びはできません。また日本で著名であっても、当地では日本文化や生け花に関心のある方々にしか訴求できません。また、高額の費用で招いたとしても、様々な制約があり、失礼ながらこちらの期待に見合った仕事(デモやワークショップ)をしていただけるのか、これも分かりません。私たちがあれこれ言える立場ではないのです。このようなことを考え、特別イベントとして日本から華道家をお呼びするというオプションは捨てました。

自分がやるしかない。失敗すれば自分のお金、評判とも失われる。成功すれば、経費のかなりの部分が回収できる、という危ないギリギリのところ。他人のお金ならこんな無責任なことはできません。しかし、こんな遊びをやってもいい歳になったかなと思って正当化しました。

世界的なミュージシャンとのコラボ、パフォーマンスを提供することに。私が選んだのは国際的に活躍するグリゴリヤン・ブラザース。クラシックに関心のある方々でしたら知らない人はないというくらいの実力派ミュージシャン。

会場はメルボルン・リサイタル・センターの一択。オーストラリアで最高のコンサート会場です。世界的な音楽家を招くにはここしかないでしょう。会場費用は高いのですが、彼らの膨大な会員数を持つメールや季刊プログラム雑誌で広報していただけるだけでなく、メルボルンの権威あるエイジ紙文化欄に毎週コンサートの広告が載るのです。この新聞紙上に「グリゴリヤン・ブラザース」というビッグネームと提供者「メルボルン生け花フェスティバル」が、同じ行に並んで掲載されることの意味は、お金に代えられないほど大きいものがあります。いわば、メルボルン最高の文化芸術の情報源で、国際的に著名なアーティストを広告塔にしてしまうようなもの。

実際、このイベントのおかげで人気のクラシックFMラジオからメルボルン生け花フェスティバルについてのインタビューを受けました。通常の生け花展がメディアに取り上げられるということは、実に少ないのが現実ですから、一つの成果かもしれません。

一流のコンサートへは出かける、しかし、生け花には関心がないという層があります。この層への訴求効果としては有効だったかと思います。結果は満席御礼。ヨーロッパ某国の領事夫妻もいらっしゃっていましたし、海外、州外からの出展者の多くの方からも楽しんでいただけたようです。

そこで、すぐに次年度の予約をとりました。協力に同意してくれたミュージシャンは、ポール・グラボウスキイ。ジェズピアノの巨匠。海外から私のショーを見に来るという方はあまりないでしょうが、ポールのコンサートならおそらく国内、海外からも観客が集まることでしょう。

5、キューレーターの活用:この展覧会が「国際的な文化イベント」であるため、プロを目指すキューレーターの卵にとっては格好の実践の機会になります。彼らは履歴書に書ける実績を熱心に求めています。今回は当地の芸術学部博士過程で学ぶ、そこそこ経験のある方をキューレーターに採用しました。比較的安価である上、出展者にとっても通常の生け花展とは一味違う、勉強の場になったと思います。さらに出展者はCVに、Curated Exhibition 出展、つまり、少し格式ある展覧会に出展経験ありと記載できるわけです。芸術の領域で活動したいと希望する方には魅力的なポイントになるでしょう。

6、おもてなし:日本からわざわざやってきて出展してくださる方をきちんとおもてなししたいという気持ちはあるのですが、これもまた費用面で無理。出展料4000円程度をいただくだけでは、なんともしようがありません。

実は、しっかりおもてなしができるようにと、観光と花展参加を合わせたツアー・オプションも企画したのですが、催行可能な需要はありませんでした。しばらく、このオプションはPRしないこととします。特定の先生の社中、あるいは華道クラブ等から団体で参加したいというような、ありがたいリクエストがあれば、即、対応させていただくことにしたいと思います。

では、どうするか?

これは出展者個人によって反応は違うのですが、デモの機会を提供してみました。「出展だけではなく、謝礼を払いますので、デモもなさいませんか?」と。

余計な負担はお断りという方もあるでしょうが、このチャレンジを好意的に受けとって下さる方もあるのです。せっかくメルボルンまでやってきたのだから、いろいろチャレンジしてみたい、能動的に時間を過ごしたい、と。今年、東京から参加して下さったK先生はこういったタイプの方かなと思いました。出展に加え、素晴らしいデモも披露して下さいました。

これを「おもてなし」と言ってはいけないでしょうが、もっとアクティブに参加する機会を提供するということは、ひとつのサービスになるとは思います。来年は、デモ実践者を世界的に公募してみようかと思っています。

7、もうひとつ、今年はメタセントという香水会社がスポンサーを引き受けてくれました。実はこの会社の社長が私の生徒なのです。せっかくいらっしゃっていただくのに、十分なお礼もできないんだ、と嘆いていたところ、「先生、私に任せて」と。国外、州外からの出展者全員に、高級香水を中心としたギフトセットを提供していただきました。

国際的な出展者をお呼びするための主な戦略は、上記のようなものでした。今後、ますますいろいろなものを検討し、追加していこうと思っています。
ぜひ、参加をご検討ください。次回は2020年9月19&20日開催です。

メルボルン生け花フェスティバルの様子は写真、ビデオなどでも随時紹介していく予定です。https://waikebana.blogspot.com/

和メルボルン生け花フェスティバル参加要項は以下のリンクより


2019年10月23日

和:メルボルン生け花フェスティバル成功の秘訣(3)


メルボルン生け花フェスティバルについての雑感3回目です。
前回分は以下です。

メルボルン生け花フェスティバルの目標は、一言で言って「生け花人口の拡大」。
もっと多くの人に生け花の魅力を伝えたい、ということ。

もちろんメルボルンでも従来からそのような努力は続けられてきました。しかし、生け花展を開催しても、見に来てくれる方は限られているようです。日本に興味のある方々、つまりすでに生け花にある程度関心のある方々が主なのです。この状況は戦後メルボルンに生け花が伝えられて以来、あまり変わっていないのではないでしょうか。

メルボルンの人口は約500万(東京の半分)。それに対して生け花人口はせいぜい300人くらいかと思います。統計がないので、全くの勘でしかないですが、実際に指導している生け花の先生はおそらく10人から20人くらいでしょう。都市の人口からして生け花人口が少なすぎるのです(それは同時に潜在的に巨大なマーケットがあるということでもあります)。

こうした状況を変えたい!
これがこのフェスティバルのミッションです。
なぜか?

1)環境保護の立場から:自然破壊、温暖化が進むなか、生け花が危機的状況にある人類にある示唆を与えるかもしれない。生け花が即、地球を救うと主張するつもりはありません。詳述はできませんが、生け花が本来的に(ことに近代化以前)もっている自然観は西洋文化に典型的な自然を客体視する態度とは異なります。ここを明らかにし、生け花を深く理解してもらうことで、自然に対する態度の見直しへの示唆が可能かもしれません。

ただ、この点を主張する際には注意が必要です。日本の伝統的な「自然と共生する態度」から新しい時代の方向への示唆を得ようというのは、有効だとは思います。例えば、梅原猛さんの以下の主張。実に興味深いものがあります。
しかし、このような主張は日本国内でならともかく、国際的な学術会議などでは、本当に注意が必要です。それほど明瞭に割り切れるものではないからです。簡単に揚げ足を取られかねません。ですから私の説明も歯切れの悪いものになっています。
 
しかし、私の生徒に対しては、ズバリと言わないといけません。「生け花の発展は地球を救うんだ!」「手遅れになる前に、生け花をひろめよう!」と。

生け花の歴史をみると、社会が変化するとそれに呼応するように生け花が変化してきた、と言えると思います。社会変化が先行し、生け花に変化をもたらすということ。江戸時代の生花(せいか)の展開、戦前の自由花の提唱などいずれもそうです。

しかし、環境問題が危機的状況にある今日、生け花が社会文化の価値観を先導するような役割を果たすべきではないでしょうか?生け花が社会を変えられないか?

これは巨大な提言ですね。

日本の生け花は一般的に家元制度に基づいているせいでしょうか、何名かのお家元のお言葉を拝読することはありますが、主な関心は流派という家内企業のためにということになりやすいような印象を受けます。地球規模で生け花の課題を考えよう、生け花の大きな夢を語ろうなどという方がもっと出てくると面白いと思うのですが。

生け花でお友達の輪を広め、世界平和に貢献しましょうなどという方もあるようです。それも悪くないでしょうが、私にはあまり響いてきません。それはおそらく私が現代芸術家の間で学んできたからかもしれません。現代社会の課題、文化状況を哲学的に語る彼らの中にあって、生け花が伝統文化としてのあり方の中に留まる必要はないのではないかと思うようになってきました。

私は自由な分、勝手なことが言える。その分、風当たりは強くなるということはあるかもしれません。ただ、生け花にもっと大きいものを期待していいのではないかとは思っています。そうでないと燃えないでしょう。わずかばかりの金、名声などというスケールの小さいもののために情熱が持てますか?命をかけられますか?

とはいえ、このような価値観、生け花を現代芸術の文脈の中におこうというようなアプローチは、これまた注意が必要です。こんなことを考えているのは、このフェスティバルに関わっている人たちの中でも、私一人くらいのものでしょうし、多くの方から共感が得られるとも思っていません。ですから、こうした思いを内に秘め(と言いつつ、読者の少ないこのブログで発散している!)、やれることを探っていくしかないのです。周囲の方に受け入れられる範囲内で、言葉を選びつつ、メンバーを鼓舞していくしかないのです。

2)生け花の癒し効果への注目:鬱を抱えたご婦人がちょっとしたことがきっかけで生け花に触れた。そこから生きる力を得た、という例が私たちの身近で起こっています。

生け花をもっと多くの方に伝えたい、花の力でもっと多くの方々の人生を明るいものに!

以上のような目標を掲げると、「では、メルボルン生け花フェスティバルはどうあればいいのか?」ということが少しはっきりしてきます。従来の生け花展では行われなかったことも積極的にあれこれやってみよう、ということがひとつです。

より広範囲の方々にアピールしよう!

生け花に関心がないばかりか、日本と違い「生け花とは何か」知らない方も多いのが現状。こうした方々にどのようにアプローチしたらいいのか?取り組んでみたのは以下のようなこと。

子供向け生け花ワークショップ、安価なワークショップ(未体験者にも生ける楽しさを感じてもらえないか)、国際的な音楽家とのコラボ・パフォーマンス(生け花に関心はない、しかし、豪州最高のコンサート会場へは出かけるという層へのアピール)、さらに次回からは生け花ディナーショーも計画しています。新規の顧客開発を狙っています。まるでビジネスのような語り口ですが、そういう側面もある!と割り切っていいと思っています。

生け花をより深く理解してもらおう!

デモ、トーク、コンクールなど、いずれも単に生け花展を見てもらうだけでは十分に伝わらない生け花の魅力をアピールすることを目指しています。

さらに国際いけ花学会とコンフェレンスを共催しています。今回は私が自由花の誕生には西洋モダニズムの影響があったけれども、要は自由花とは生け花本来のあり方を再確認したものだったのではないかというような話をしました。現在、生け花の癒し効果についてあれこれやっている方がありますので、近いうちに研究発表ということになるかもしれません。

さて、メルボルン生け花フェスティバルの大きな課題がもうひとつあります。最大の課題だったでしょう。
どうしたら州外、海外(特に日本!)の方から出展していただけるか?
これは先例も少なく、大きな難問でした。
これについてはまた次の機会とします。


お知らせ:和メルボルン生け花フェスティバル参加要項は以下のリンクよりhttps://waikebana.blogspot.com/p/blog-page.html


2019年10月17日

和:メルボルン生け花フェスティバル成功の秘訣(2)


メルボルン生け花フェスティバルについての雑感を続けます。
前回は以下です。

運営委員たちと反省会をしたのですが、その内容がとても面白く、これは記事にして学術誌に投稿してみようということになりました。「大成功おめでとう」などと多数の方から言われて気分が舞い上がった時期を終えて、少し落ち着いた時点で話し合えたことも良かったのでしょう。
もしかすると、他の地域で生け花フェスティバルや類似のイベントを開催する際の参考になるかもしれません。また、海外での生け花事情を知る上でも面白いかもしれません。

しかし、前回も書きましたが、これは「主催者側」の反省点です。他の立場からは別の見方がありうるでしょう。

実は、主催者側の反省点の最大のものは、人手不足!

これは予想できたことです。前回までは展覧会中心でした。今回からはそれに加え、ワークショップ、トーク、デモ、子供向け生け花教室、賞、パフォーマンス、講義、キューレーターの導入、マーケットまで加わったのですから。さらに、市議会議員、州政府教育文化大臣代理、他州、海外からの出展者まで迎えることになりましたし。



展覧会からフェスティバルに。

この発展に伴い、準備と運営業務が膨大なものになりました。様々な障害に見舞われることにもなりました。どうしても行き届かないところが出てくるのです。
私たちの運営委員はとても優秀なチームで、「このチームで起業したら多分うまくいくだろうなあ」と、ささやかな実業家だった私が思ったりしたほど。
それでもさすがに3、4人だけでは細部まで対応できなかったようです。
「失敗も不手際も出てくるよ。それから学んでくれたらいいんだ。君たちが成長する機会にして欲しいんだ。失敗したって守ってあげるから」とは、初めから言っていたのです。

ともかく、来年は運営委員を約3倍の数の熱血集団にしないといけないでしょう。

今後の課題のひとつはそれだけの人が動いてくれるか、です。

運営母体は企業組織ではなく、複数流派が集まっただけのゆるい共同体。私たちの出展者、関係者全てが一丸となっている、とまではまだ言えないでしょう。
「展覧会だけで十分」「オタクがやりたくてやっているんでしょう?なんで忙しい思いをして利益にもならないことを手伝わなければいけないの?」と言う傍観者的な方もありえます。
小さな不満があればすぐ離れていくようなところもあります。
また、あそこがまずい、ここが不十分と批判ばかりの人もありえます(そんな難点の数々は承知しているので、どうしたら良くなるかを一緒に考えて欲しいもの)。
しかし、それは杞憂でした。来年の新体制ではもっと多くの方を執行グループに取り込んでいけるでしょう。

本気で取り組んだ人たちだけが味わえる充実感、成長の実感をより多くの方と共有できるはずです。今年、展覧会場の後片付けが済んで、会場のドアを閉めた時、私たち運営委員が薄暗い中で笑顔を見合わせ、感じた高揚感、です。
「やったね」と私。
「少しの間、面倒なこと考えないことにしませんか?」
「そうだね」
大きな大会で勝利したスポーツチームのようでした。

「今回、運営委員の仕事ぶりにはすごいものがあったように思うが、なぜこんなにやってくれたんだろう?それは大事な成功要因だと思うんだが」と反省会で私が尋ねると、すぐに「先生が私たちには使命があるって言ってくれたから」とか、「花の力でしょう」とか。

メルボルン生け花フェスティバルの使命。
それをきちんと共有していかないことには人は動いてくれないのでしょう。

さらにその使命が、例えば新保個人が儲かるようにとか、有名になるためにとか、ある流派(あるいは企業)の利益、発展のためとか、要するに小欲だけでは、ここまでの成功は達成できなかったはず。「これは天の助けか」(大げさですが)と思うほどの奇跡的な幸運な出来事が次々と起こらなかったはず。さらに、私たちのチームはここまで燃えなかったと思います。

ただ、小欲を否定はしませんでした。
それも目指そうよ。例えば、このフェスティバルの結果、君たちの仕事も生徒も増えるかもしれないよ!と。

でも、本当に目指すのは、もっと大きいものなんだ。
大欲を持とう、と私は説得に努めたのです。

私たちの大欲、目指したいもの。
それは生け花の今日的な課題でもあります。
(もちろん、それをユメだよと嗤う人も批判する人もあるのですが)

次回に続きます。

第3回:https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/10/blog-post_23.html

お知らせ:和メルボルン生け花フェスティバル参加要項は以下のリンクよりhttps://waikebana.blogspot.com/p/blog-page.html

2019年10月15日

和:メルボルン生け花フェスティバル成功の秘訣(1)


今年の8月31日、9月1日に開催した生け花フェスティバルについての雑感を書いていきます。

最近、ようやく2、3の生徒たちと小さな反省会をやる機会がありましたが、面白い意見が出るものです。近いうちにもう少し多くの方々と話し合いたいと思っています。

話の中心は、次回どうしたらもっと改善できるか?ということ。皆、自分が「主催者側の人間である」という見地から、意味のある反省点をたくさん出してくれました。
「お客様」「傍観者」という見地からは、また別な反省点、批判も出てくるのでしょうが。

ともかく、次回は、2020年9月19日、20日に開催が決定。
次回はもっといいものになるでしょう。
参加申し込みもできるだけ早く開始したいと思います。

反省点も重要ですが、まずは、成功要因から話を始めます。

私見では、今回の最大の成功要因は運営委員チームの機動力。これに尽きます。
彼女たちへの感謝は私のスピーチでも述べた通り。

生け花フェスティバルはもちろん、いろいろな企画を実行していくために
このような有能なチームを作れるか否か、それが成功の鍵を握っているように思います。

問題があっても次々解決策を生み出す。
指示を待つことなく、自主的に課題に取り組む。
ともかく迅速!皆色々あって忙しい方々なのですが。
そんな熱血チームと仕事ができたことを誇りに思っています。

私は、今回のみ実行委員長ということで、旗振り役でした。

私がリーダーとして気をつけたことがいくつかあります。その辺りからまずお話ししましょう。

いかにチームのメンバーに主体的に動いてもらえるか、
やる気になってもらえるか、そこには特に気をつけました。
チームは皆ボランティアですから配慮が必要です。

私自身、やる気にしてくれるリーダーの元でも、
やる気を削ぐリーダーの元でも仕事をしたことがあります。

まず、リーダーの一番重要な役目は、自分たちの仕事の使命をきちんと伝えることでしょう。

なぜ、メルボルン生け花フェスティバルが必要なのか、
その使命は何か?
ここを繰り返し強調してきました。

私が何を伝えたのか、
その結果、どのようにチームが燃えたのか、
それはまた次回とします。

第2回:https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/10/2.html
第3回:https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/10/blog-post_23.html

お知らせ:和メルボルン生け花フェスティバル参加要項は以下のリンクよりhttps://waikebana.blogspot.com/p/blog-page.html

2019年10月7日

日本人でよかった


美輪明宏さんが、テレビのインタビューで最近の若い日本人は素晴らしいじゃないですか、日本の未来は明るいですよ、と言っていたのにとても共感しました(私はテレビは見ないので、You Tube で見たのですが)。

美輪さんが、例えば、とあげた若者は、羽生結弦、内村航平、錦織圭等々。
精一杯頑張る、礼儀正しい、謙虚。
日本人の多くが大切にする価値観、品格を体現しているような人たちです。多くの日本人がとても誇りに思っているはずです。特にスポーツにおいては、日本人はフェアな戦いをします。きれいなのです。そこに我々は感動するのです。日本人が海外で尊敬される理由もそこにあります。

勝つ為には何をしてもいい、ばれなければいい、相手を傷つけるような行為、言葉も平気、というような人も時にあるわけですが、国際舞台に出てくるほどの日本人にはまずいないでしょう。

そこは学びたいな、と思っています。日本文化としての生け花を外国でやっている者としても、あの上品さ、あの爽やかな日本人たちの姿をロールモデルにしたいなあと。
爽やかであれ。常にそう念じたい。

今、少し気になっているのは、爽やかさとは、真逆の人のこと。

実は、和・メルボルン生け花フェスティバルのウェブサイトへの嫌がらせが続いています。今年の6月以降、7回ほどサイトを作り変えています。匿名でこのサイトを攻撃してくるのです。匿名でできるので、汚い嫌がらせを繰り返すのでしょう。残念なことに、どうもこの方は生け花に若干かかわって(?)おられるようです。

この人の下品な行為を変えることはできません。しかし、このような卑劣で不法な迷惑行為が永遠に許され、続くことはないはずです。この方の名前、所属流派もやがて明らかにされるでしょう。数年後、数十年後になるかもしれませんが。FACEBOOKもいずれは規定を変えるはずです。実名が明らかになると、愚劣で卑怯な言い訳を並べることになるのでしょう。時に犯罪者(児童虐待、無差別殺人、痴漢など)が逮捕され、犯罪動機が報じられることがありますが、呆れることが多いですね。良心も反省もない。同じような言い訳を聞かされることになるのでしょう。特に、なんら顧慮する必要もないのですが、いつか新保が予言した通りになったね、と思っていただけるはずです。

爽やかに生きよう、
爽やかさを核に持つ日本文化に関わる者として歩んでいこう、
とだけ考えていけばいいのだと思います(難しいことですが)。

先にあげた若きアスリート達が、対戦相手が反則行為をしてきた時、どうするか?
汚い嫌がらせをされた時、どうするか?
自明です。
平静に無視するはず。
それに学べばいいのです。

ただ、外交問題などになると、他国の嫌がらせ、攻撃、虚言に黙っているばかりでいいのか、という点も考えなければなりません。文化が違う相手に対しては、自らの正当性、相手の不当も主張する必要があるのかもしれません。黙っていてはやられるばかり、そういう側面はあります。

ですから、再びインターネット上の嫌がらせの問題に戻ると、それに対して黙っているだけではいけないのかもしれません。相手は和の国の住民ではないのでしょうから。とりあえず被害は記録し、公開していきます。

Shoso Shimbo

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