華道家 新保逍滄

2016年4月29日

Wye River Project 2016  そして腕時計の話



今年もローン彫刻展に選ばれました。二年に1度の芸術祭、今年は州政府支援の作品依頼。しかも、昨年度末、山火事で大変な災害を受けたワイーリバー地域コミュニティの復興支援の一環としてという大役でした。
その経緯についてはまたいつか書くことがあるでしょう。

今回はその関連で時計の話。

急勾配な被災地の焼け跡から材料を運び出し、
4輪駆動のピックアップトラックで移動、
ビーチに作品制作という、肉体的にとてもきつい制作作業でした。
上部のビデオをご参照下さい。
そして、そんな状況に根をあげたのが私の時計。
ネジが飛んでしまったのです。左の時計です。





















以前、一年に3個も時計を買うことになったという話を書いたことがあります。
それは一つの時計で全ての状況に使えるものを、
という考えでいたための失敗でした。

華道家は社交の場と制作作業の場、少なくとも2種類の時計が必要だというのが結論。
デザイン重視の時計と機能重視の時計、両立は難しいと悟ったのです。

社交用にはスイス製の時計。問題はあるものの、まあ、悪くはない。
高級時計とも言えないレベルですが、十分。
現在も使っています。

問題は作業用の時計。
とにかく見易く、正確でなければいけない。
デザインよりも機能第一。
デモなど数分のミスも許されません。
さらに、私は彫刻家でもあるため作業内容は土木作業員なみの過酷さです。
特に、今回のワイーリバーでは。
タフな時計でなければいけなかったのです。

高校生の頃からセイコー・クォーツで満足してきました。
ソーラーや自動巻(エコドライブとかいうのかな?)なども試したことがありますが、
正確さという点では若干心もとないように思います。

そこで、セイコーのパルサーブランドの時計を選びました。写真の左。
デザインもそこそこ。
私の好みはシンプルな薄型ですが、作業用ですから仕方ないでしょう。
用が足せればいい。道具です。
見易い。それほど高くもない。
少し厚いのですが、まあ、邪魔にならない程度。

しかし、時間が狂うのです。
朝確認すると10分ほども早かったり、遅かったり。
まさかセイコー社のものが?
何度もそんな調子。
保証期間中だったので、店に持って行って点検依頼しました。
すると、数週間後、新品と交換してくれました。
さすがセイコー社。プライドがあるのだなと思いました。
粗悪品など出せないのでしょう。
たまたま問題のある時計が私に当たったのでしょう。
(実はセイコー社への落胆はこれが二回目ですが。以前書いたエッセー参照のこと)
1000個のうち1個くらいはそういうこともあるでしょう。
新品交換ですから、文句は言えません。

しかし、よく見ると秒針が12時を指す時、
文字盤の最上点に針が一致しないのです。
多分、気にするほどでもないのでしょうが、私にはあまり気持ちが良くない。
そして日にちの設定がなかなかうまくいかない。
お昼に翌日の表示に変わっていたり。
さらに、重労働となると、ネジが知らぬ間になくなっている。
まだ保証期間中ですが、もう諦めました。
使う気になれません。
またも失敗。
やはり安物はダメなのか。

どうしてそれほど落胆するのか?
そこには愛着の問題があると思います。
私の場合ですが、使っているものには愛着を覚えます。
車も家も高級品ではないもののそこそこ快適で、信頼できる。
次の車もやはりトヨタかな、と自然に思ってしまいます。

多分、愛着は人間関係にも言えることでしょう。
「伊勢物語」でも奥さんへの気持ちをそんな言葉で表現している部分がありました。
唐衣きつつ慣れにしつまあれば、というあたり。
激しい恋愛感情というより、慣れ親しんだ人への愛着。
それはとてもよくわかります。
そして、そうした愛着が煩悩の種となると悟った時、
日本の詩人は旅に出るのですね。
西行、芭蕉、皆そうです。

ともかく愛着があるがゆえに、信用が傷ついた時、
必要以上に落胆するのではないかと思います。
最初にセイコー社の時計に落胆した時、私は本社に手紙を書いています。
2度の修理でも異常無しと返事され、それでも或る日突然
数時間の誤差が生じているという事態でしたから。
全額返金に応じてもらいました。
そのお金でスイス製腕時計を買ったのです。

今回、セイコーをもう一度試してみようと思ったのですが、
やはりダメでした。
私の過酷な状況には適さないということです。

次の時計を探しました。
スイスアーミー社のものを予定していましたが、
数軒店を回り、私の希望を告げると紹介されたのがカシオのGショック。
しかし、デザインが私の好みに合いません。
ごつい上に大き過ぎ、重そうで、
文字盤がごちゃごちゃしていて見にくい。
急ぎの場合、瞬時に時間が分かるようでなければいけません。

ふと「これはどう?」と家内。
「なかなかいいね」と私。
写真の右。
黒い服を着ることが多いので、黒い時計はよく合います。
厚いのですが、小さいのであまり邪魔になることもない。
しかも、用意していた予算よりずっと安い。

しかし、商品名がベイビーG!
これはかなりひどい命名。
ベイビーなどと記された物を身につけられるか?
これは子供用か、女性用の時計かと尋ねると、
カシオの時計は皆、ユニセックスだという返事。
「ベイビー、いいんじゃない?」家内はニヤニヤ。
「これは黒字で書いてあるから見えないわよ」
そこで購入に至った次第。

カシオのサイトで調べてみると
ベイビーGとはやはり女性用であるらしい。
「こんなの女の子がつけるわけないでしょ」と家内。
しかし、そうでもないのかもしれない。
ともかく、今のところとても満足しています。
求めていたのは、プラスチックの塊のようなベイビーGだったのか。

さらにもう一つ気付いたことは、私が時計を知らなすぎるということ。
あまり関心がないのです。
だからどうでもいい。
そして間違った選択をしてきたということ。
愛用するものはやはり慎重に選びたいものですが。

先日、オーストラリアの田舎に住む女性の友人が
新しい車を買いたいのだけれどと相談してきました。
車なら私はそこそこ詳しいと自惚れています。
「燃費のいい4輪駆動がいいのだけれど」
「それならマツダのCX5だね」
「それ、試乗したことがある。安心した。それにする」
よく知っている商品なら間違えずに選べるし、
アドバイスもできるのです。

時計というのは、私にとって車を買うほどの真剣さが必要でない、
しかし、愛着が生まれやすい、
そこで問題が生まれやすいものなのでしょう。
時間が狂うとか、ネジが飛ぶなどということで
必要以上に落胆してしまうのです。















2016年3月29日

21世紀的いけ花考 (45)




 現代芸術の命は意味だという話でした。拙作を例に意味はコンテクストから生まれるということをお話ししましょう。コンテクストには作品の素材、配置、構成など作品内の要素に関する内的コンテクストと、作品外の要素、つまり歴史や社会状況などを含めた外的コンテクストがあるというところまで前回お話したのでした。

 金網で顔を作るという出発点は苦し紛れの選択でした。金網とはフェンスを含め内部と外部を遮る働きがあります。一般には鳥かご、監獄をはじめ内部にいる者の自由を奪うもの。内と外、不自由と自由という対立が生まれます。現在、不法移民、難民の問題が問題になっています。難民を囚人のように扱う理不尽。

 拙作を一つの鳥かごに見立ててはどうだろう?通常の鳥かごとは逆に鳥が外で自由にしている。拙作の頭上に鳥の楽園を作れないか。バララット美術館の周辺でパロットなどの美しい野鳥をたくさん見かけました。花や枝をアレンジし、餌を吊るし、バードバスを設置すれば可能。実際、完成した作品には野鳥がよくやってきました。カラスが多かったのですが。

 そこでさらにひらめきました。有名な肖像画で背景が野生の天国というのがあったなあ、と。フリーダ・カーロ。身体に障害のある画家でした。おそらく彼女の作品の背景は肉体的、精神的な自由を象徴しているのでしょう。フリーダの肖像としてしまうのははばかられましたが、拙作のモデルは若い女性とすることに。さらにフリーダは女性であること、メキシコという西洋芸術の本流からすれば周辺の出身であるということも、モダンアートへのコメントということになります。私もまた日本という周辺国の出身というところでは繋がってきます。以上のようなことを考えていくと、拙作を面白く解釈できるのではないかと思います。

 金網1枚では全く質感がなく、顔には不適。どうしたものか悩んで10枚ほど重ねると、面白い効果が出てきます。そのような苦労と発見の連続で、なんとか乗り越えたですが、予想以上に好評でした。コミッショナーからも大成功と言ってもらえ、一安心。さらに今年三月のローン・スカルプチャーにも招待されることに。同時期にメルボルン・フラワーショーにも出展予定ですから忙しくなりそうです。根性のある制作アシスタント募集中です。弟子入りする覚悟でないと務まらないかもしれませんが。

2016年2月10日

21世紀的いけ花考 (44)


 現代芸術についてあれこれ書いてきました。現代芸術は意味を持たないといけない、その意味はコンテクストから生まれるというようなことです。そこで話は「コンテクストとは何か」ということになります。実は村上隆が「芸術闘争論」の中でこれ以上はないほど簡潔に説明しています。それはこの本の最も肝心なところ。それをそっくりいただくのは失礼でしょう。

 私はバーレットの説に依って説明しましょうか。彼は内的コンクストと外的コンテクストに区別して説明しています。内的コンテキスト分析とは作品が構成要素間で、また作品全体でどのような意味を持つか。外的コンテキスト分析とは芸術家個人の経験、創造の状況、更に過去から現在に至る芸術史との関連から作品の意味を特定していくこと。

 抽象的な話で分かりにくいかもしれません。ここで適当な具体例を出せるといいのですが。村上は自作を例に分析してくれています。是非、参考にして下さい。ここでは私が昨年度、アーチボールド賞展のためにバララット美術館前に作った自作を分析してみましょうか。ベストの例ではないのはお断りしておきます。

 制作記間1か月の大作でしたが、問題は「巨大な頭を作って」というリクエスト。肖像画展ですから仕方ないのですが、私は人の顔など作ったことがない。試作品を作ってみたのですが、まるで案山子。子供の描く絵の方がよほど面白い。私の試作品には生命感がないのです。こりゃダメだ、と眠れない夜が続きました。公共芸術ですから、批判され、関係者に迷惑をかけ、大変なことになるぞ、などと悩んだものです。「これが自分のアートだ。分からん奴は黙ってろって開き直れば?」というのが家内のアドバイス。なるほど。そのくらいでないとやっていられない。

 まず、素材を何にするか?植物?いや、植物で人の顔は難しい。菊人形でさえ顔までは花で作りません。うまくいかないからです。屋外で1ヶ月もつ素材となると私に扱えるのは限られてきます。金網ならやれるかもしれない。3メートルほどの顔面に、金網を丸め、ぶつけてみました。丁寧に扱っても技術不足が目立つばかりですから。すると不思議なことに顔が生きてきました。大げさですが、奇跡だ!と静かに叫びました。さて、ここまでは前置き。この作品のコンテクストはどうなっているのか?次回に続きます。

いけ花ギャラリー賞 2000人がLIKE



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2016年1月28日

一日一華


「最近の若い者は、なってない」
「近頃の世相ときたら、利己主義がはびこって」などなど。
ご年配の方からよく聞かされるわけですが、
バビロンの昔から、
若い世代への苦情は、常にあったようです。

しかし、現代日本の状況は、ちょっと違うのかなと思っています。
戦後に育った私達はどうも何か欠けているように思うのです。
自分自身を振り返ってのことですから、
他の方はそうではなく、
私だけの個人的な事情があるのかもしれないのですが。

歴史に関する書物をよく読みます。
明治維新などとても興味があります。
この人たちはどうしてこんなに強いのだろう。
この精神のスケールの大きさはどこから来るのだろう。
なぜここまで無私に徹することができるのか。
自分には何かが欠けている。

これと多少似た経験は
オーストラリアの人々と接している時にも感じてきました。
なんてしっかりしているんだ、と頻繁に感心。
人生の意味に悩むこともなく、
他人への思いやりは当然という言動。
自分にはない、精神的な安定感。
なぜだろう、と思って、
一つ思い至ったのは、
教会。
週に一度、子供の頃から精神に関することを聞かされてきている強さではないか。

すると、思いついたことがあります。
日本人が1500年ほど精神の根幹に置いてきた儒教。
「論語」の素養の有無ではないか?

戦前までは、儒教的な精神が常識として、根幹にあったのでしょう。
幕末から戦前まで、日本を訪れた欧米人の多くが
この国の人々は他のアジア人と別格だと感じたということですが、
その理由も、その辺にあるように思います。

諸事情で、戦後の私達は儒教はもちろん、
宗教的な教育が欠落した状況で
若い時代を過ごしてきたわけです。
その結果がこの欠落感ではないか。
不安定な感じではないか。

代わりに左翼的な言説の影響はしっかり受けて。
憲法さえ守れば平和が守れると信じ込まされているおめでたさ。
実際に何が日本の平和を守っているのかという
現実も見えないようです。

大学時代、ありがたいことに「四書」を読む機会はありました。
再読しようかと思っています。

2016年1月7日

21世紀的いけ花考(43)


現代芸術展で、「何じゃこれ?」と思ったことがあるという方も多いのではないでしょうか?「こんなの子供でも作れるじゃないか」「自分ならもっといいの作れるな」「こんなゴミがなんでこんなに高いんだ?」とか。真似をして素人がガラクタの寄せ集めのような作品を作ってみても、それはやはりただのガラクタ。芸術には化けない。違いは何か?
 
何度か繰り返していますが、結局、作品が「意味」(即ち芸術の命)を持っているかどうか、でしょう。意味にはいろいろありますが、一つにはモダンアートになんらかのコメントが出来ること。そのためにはモダンアートについてある程度勉強しておくことが必須。とは言え、ここでモダンアートについてあれこれ話す余裕はないのです(おまけに私の知識もさほど深くない)。しかし、自分の作品を芸術作品に転換する秘訣のようなことはお話できるかもしれません。
 
ある作品を意味ある芸術作品にするものは何か?難問です。実は、村上隆が「芸術闘争論」の中で現代芸術鑑賞の4要素としてあげている項目が、その答えなのです。関心のある方は是非、熟読して下さい(私の解釈が強引だと気づくほどに)。村上によれば、4要素とは、1、構図、2、圧力、3、コンテクスト、4、個性。おそらく3以外は分かりやすいでしょう。「構図がシャープで、力があって、個性的」という特徴は、ゴッホやロダンなどの著名な芸術作品からも多くの方が感じられる要素でしょう。優れたいけ花作品にも言えることかもしれません。

では、コンテクストとは何か?作品が「意味」を持つかどうかが重要だと私が言う時、この「意味」は4要素すべてに関係していますが、特にコンテクストから生まれるものなのです。少しややこしくなりそうなので、ここでまた一休み。新保流現代芸術論、続きは次回に。

15年後半は私の華道家キャリア始まって以来の忙しさでした。制作締切りが迫っていながら、アイディアが出てこないストレスで眠れない日も何日かありました。そんな中で楽しくやれたプロジェクトのひとつが、うみうまれゆみさんとのコラボ。この作品はゆみさんらダンサーが踊る傍らで、10分ほどで生けたもの。何も準備せず一気に生けたので、少々保守的なデザインになっているでしょうか。デモのようにきちんと準備しておくのもいいですが、その場で即興で生けるというチャレンジも面白いものです。

2016年1月1日

アーチボールド賞展インスタレーション(2)

2015年度、最も印象に残った作品はやはりこの作品。
多分、最も苦労した作品だったでしょう。
「人の顔」という題材。
初めての挑戦です。

試作品を何度か作ってみたものの、
まったく納得できない。
上手、下手ということではなく、
まるで人形のようなものしかできないのです。
子供の描く人の顔の方がまだまとも。
そこには生命感があるのです。

私の試作品はどうも生きている感じがしない。
生きていない人の顔は、芸術とは言えません。
そのため1ヶ月の制作期間中眠れない夜が何度かありました。
私の技術力の不足を何で補うか?
結局、針金をラフに丸め、からめ、
フレームにぶつけてみました。
あ、ようやく生きてきた!

展示期間中はとても人気で、
バララット市の担当者からも
大成功、と喜んでいただけました。

2年前のクリスマスに作ったマジカル・トンネルが好評だったため
再度依頼を受けたのですが、
なんとか、任務を達成できたようです。

2015年12月20日

21世紀的いけ花考(42)


 ポストモダニズムの芸術を外から眺めると、どうも美というより意味を追求しているように見えるます。それは素人の意見かもしれません。著名な学者がああ言った、こう言ったという話も大切ですが、理論家というより実作者の私はできるだけ自分の言葉で考えてみましょう。

 まず、ポストモダニズムが追求する意味とは、人生の意味とか、言語の意味とか、哲学や文学で問題にする意味の探求とはちょっと違うようなのです。もっと狭い。確かに言えることは、どうも芸術史におけるモダニズムについてあれこれコメントするという傾向が強い。おそらく芸術史上のモダニズムは巨大な成果を達成したのでしょう。それを乗り越えてこそポストモダニズムなのでしょうが、どうもそこまで明確な成果が出ていない。そこで「モダニズムはああだ、こうだ」と同じようなことをぐずぐず言っている、そんな感じです。百年、二百年経った時、いったいどれだけのポストモダンの芸術が残るのだろうか、と思います。実は、私としては「ポストモダンはもう充分。そろそろ終わりにして、次行かない?」という意見なのです。

 しかし、実作者の立場からはそんなことを言っていられません。なんとかポストモダンのコンテクストに乗っからないことには作品を発表する機会もありません。つまり、作品が意味(即ち現代芸術の命)を持たないことには相手にされないのです。どうしたら作品は意味を持つのか?ひとつは先に述べたことから推察出来るでしょう。モダンアートについてあれこれ言える作品であること。簡単なようですが難しい。次回はこの点をもう少し分かり易く説明しましょう。さらにこの状況にいけ花は何ができるのか?ということも念頭にあります。つまり、いけ花で現代芸術がやれるのでしょうか? 

 さて、今月紹介するのは米結レストランに新しくできた枯山水風坪庭。現在、RMIT大学公開講座で「日本美学:生花から現代芸術へ」を教えています。授業の中で龍安寺の石庭の分析をすると、「メルボルンにこんな庭ないの?」と生徒。「あるんだよ」と遠慮がちに私がデザインしたこの庭を紹介します。私は庭好きが高じて、ガーデンデザイナーの資格も取ってしまいました。私にとって庭は生花の延長線上。石も花です。数々の制約を乗り越え、実現したこの庭。機会がありましたら是非、ご覧下さい。

2015年12月18日

Wa: Ikebana Exhibition in Melbourne 2015


12月に他流との合同展に参加しました。6分のスライドショーをお楽しみ下さい。
私の生徒はとても喜んでいました。
展覧会に出展すると、生徒はよく自分のベストを出し切りますし、
もっと続けていこうという動機付けにもなります。
またこうした機会を作ってあげたいものです。




2015年11月12日

21世紀的いけ花考(41)


 前回、現代芸術の命は「意味」だという提言をしました。批判覚悟の上の私論です。とても大雑把ですが、現代芸術には20世紀前半に流行った①「モダニズム調」と後半現れた②「ポストモダニズム調」という二つの傾向があります(芸術史でモダニズムと言う場合は19世紀後半から20世紀初期頃までの芸術運動のこと。ここでは時代区分ではなく、傾向の意)。意味は双方にとって必須な要素です。しかし、①にはまだ美の追求という要素が多分に含まれているようです。②では意味の追求が主と私は理解しています。

 ①と②の関係ですが、①が終了して、現代芸術は今②のみ、ということではありません。両者は共存し、相互に影響し合っています。しかし、主力は②という現状でしょう。
 
 専門家には叱られそうですが現代芸術を若い女の子に例えてみましょう。美は容姿。意味は知性となります。①の求める女性は容姿もよく知的な方。②に人気なのはともかく知的な方。容姿はあまり問題にしない。現代芸術展に出かける時には「美人にはあまり出会えないだろうが、知的な女性が待っているんだ」と思っていると驚いたり、腹を立てたりせずに済むでしょう。 

 それでは可愛いだけで頭空っぽの女の子はどうなるのか?誰にも相手にされないのか?どこかの国ではそういうタイプこそが男性に求められているようですが。これは冗談。可愛いだけの女の子にももちろん需要はあります。現代芸術の範疇には入りませんが、一部の商業美術やフラワーデザインなどがそれに相当するでしょう。

 さて、ここまで付き合って下さった方の次の質問は「では、現代芸術の命、意味とは何だ?」ということでしょう。意味の意味は?意味の探求とは本来、哲学や文学の課題だったはず。なぜ芸術がそんなものに関わっているのか?そろそろ超難解な問題を超簡単にやっつけてみましょうか。 

 今回は花菱レストランに活けた作品。料理のレベルでは豪州最高峰でしょうが、装花もそうありたいものです。

 さて、12月5、6日、アボッツフォード・コンベントでいけ花展を開催します。いつもお世話になっている池坊の方々と共催です。是非お越し下さい。

2015年10月6日

21世紀的いけ花考(40)


現代芸術の基本をおさらいしておきましょう。現代芸術の知識ゼロだった私が少し勉強して驚いたことを紹介しましょう。かつての私と同じような立場の方にとってお役に立てれば幸いです。まず、現代芸術とは特殊な芸術です。芸術一般ではありません。それは「現代に関わる」芸術だということ。現代社会、文化に関連のある芸術。音楽にもクラシックと現代音楽があるようなもの。ですから例えば、いけ花で古典的な花を再現した場合、古典として貴重ですが、通常、現代芸術とは言いがたいのです。これは当たり前のようですが、私にとっては重要なポイントでした。
 
次に、現代芸術の命とは何か?「これが無ければ芸術じゃない」というものは何でしょう?ここで多くの方が誤解しているのではないでしょうか。「美」でしょうか?私はそう思っていました。違います。美は重要ですが、必須ではありません。

実はここがポイントで、村上隆も「芸術起業論」「芸術闘争論」で力説しています。日本語で書かれた現代芸術論はろくなものがないと思っていましたが、村上の著作は例外。村上は日本の芸術の世界(学術を含む)に向かって「君たち、現代芸術分かってないよ」と怒っているのです。豪州で勉強した私からすれば村上の芸術論こそ正論。世界で評価されながら、国内では散々批判され、村上は「僕のことを嘲っていたいやつは嘲っていろ」とまで書いています。それくらい現代芸術の実体というのは日本の常識的な芸術観からすると不可解なもの。確かに、一般の方が村上のアニメのフィギュアを見て「芸術だ」とはすぐには思えないでしょうが。
 
丁寧な説明は村上に譲るとして、私は初心者向け超簡単なガイドを目指します。現代芸術の命、それは「意味」です。意味が無ければ芸術としての価値は認められません。たとえどんなに美しくても。いけ花との関連からも面白い点です。もっと説明が必要ですが、また次回に。
 
さて、今回も我が家の春の庭に咲いた花を寄せ集めて。ぼけも馬酔木も毎年楽しませてもらっています。花を育てる喜びもいけ花をやっていると2倍になると思います。
 
10月は月の半分くらいバララットで過ごします。是非美術館へお越し下さい。また、12月5、6日にはアバッツフォード・コンベントで華道展を予定しています。詳細は私のサイトでどうぞ。

2015年10月5日

アーチボールド賞展インスタレーション(1)


Week 1 (4 October 2015): Shoso Shimbo's installation for Archibald Prize Exhibition at Art Gallery of Ballarat. His work will evolve in next 3 weeks. http://archibaldballarat.com.au

まったくどこから手をつけていいのか分からない状態で
プロジェクト開始。
「人の肖像」というトピックが大きすぎるのです。
いけ花でできる領域を超えています。

到達点は見えないものの
とにかくできるところから方付けていこう、という
これまで経験したことのないやり方ではじめてみると、
少しずつ見えてきます。

ただの装花を求められているのでありません。
現代芸術としてのインスタレーション。

いけ花と現代芸術の違いは
つまるところ作品が現代芸術のコンテクストで
意味を生成するかどうか。

扱ったことのある金網がメディア。
チキンワイヤ、
それは力なきものを
隔離し、疎外し、幽閉する。
難民への扱いを連想させます。

それを逆転して、鳥を外に放し飼いにできないか。
ただのいけ花ではなく、野鳥を呼ぶいけ花。
それでコンセプトはできました。
何とかなるでしょう。

ようやく眠れます。

Shoso Shimbo

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