華道家 新保逍滄

2017年1月17日

一日一華:レストランに。そして、書くということ。


メルボルンの花菱レストランにて。

私は文章を書くことがあまり苦ではないです。
上手下手はともかく。
多分、10歳くらいからずっと日記を書き続けているせいでしょう。
書くというのはとても自然な行為です。
私にとっては考えるということとほぼ同義と思うこともあります。
瞑想かもしれません。

メルボルンの日本語新聞「伝言ネット」に
毎月、和文と英文で生け花エッセーを書き続けて
多分、10年くらいになるでしょう。
このブログでも「21世紀的いけ花考」として転載しています。
全く苦労なしなのです。
ですから、10年間、一度も締め切りに遅れたことがありません。

最近、ある学術誌の英文エッセー募集に関わり、
投稿作に目を通していた時、
「ああ、文章書くのがこれほど苦手な人がいるんだ」
と少し感心しました。感心というのはおかしいか。
新鮮な発見でした。

事実を羅列しただけでは文章にはならないですね。
百科事典を読まされているようなのはエッセーじゃないでしょう。

自分は偉いんだゼエ、とか、
感性豊かなんだよお、とか、
自画自賛的なものは、薄すぎて読まされる方は苦痛ですね。
自己陶酔されてもなあ、と。

仕方なく幾つかの応募作をボツにしました。

では、いいエッセーとは何か?
色々な答えがあるでしょう。
主題(言いたいこと)があるもの、
メッセージや意味があるもの、
読んで少しためになるもの、
面白い発見があるもの、
構成ができているもの、
書き手の人生(あるいは魂)に触れることができるもの、

それらは皆、まっとうな答えでしょう。
(私の定義は少し違いますが)
それらの一つでもあるなら、私は評価します。

しかし、投稿作の幾つかには、そうした要素が一つもないのです。
ただの文の集合。
これは何だろう?と驚いたのでした。
この退屈な文章!
もちろん、それが悪いなどと非難するつもりはないですが。

考えていないのか?
生きていないのか?
と不思議に思うのです。

書くということは、
考えるということ
生きるということではないか、と私は思うからです。

多分、文章が苦手であっても、
会って話してみるとそれなりに面白い人たちなんでしょうが。
文章で人を判断してはいけないんでしょうが。

でも、文章で友達を選ぶということは、したことがあります。
間違ったことはないです。
実は、家内も図らずももらった手紙を読んで決めたのでした。

Shoso Shimbo

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