華道家 新保逍滄

2017年1月5日

21世紀的いけ花考 54



 禅僧・庭園デザイナー、枡野俊明氏の素晴らしい作品集を最近拝見しました。彼は「庭禅一如」、つまり庭づくりは禅の修行と全く変わりなく、修行そのものだと言います。重要なのは日々の精進。ある日突然いい作品が作れるということは絶対にない。ここには芸道の哲学があります。一つの事柄を極めていく時、真剣な自分自身の生き方を極めることになる。極めた生き方と極めた事柄が一体となって「道」となるというのです。枡野氏は龍安寺の石庭について「このような眺める者の心に、迫り来る感動を与える庭園の作者は、自らの仏性を自覚した者であることは、言うに及ばない」と書いています。精神的な高みに達した人でないと名作は作れない。名作の背後に名人あり。この名人は単に技術が素晴らしいというだけでなく、精神的にも高潔であるはずだ。卑しい人であるなら、作品に卑しさが現れてしまうという信念。

 日本では花道などの習い事に限らず、料理、経営、学問、その他様々な活動に「道」への信仰があります。こうした信仰は日本人には容易に理解できるはずです。前回までの話からお分かりのように、いけ花は芸術かデザインかなどと考え始めるとなかなかいけ花の位置がはっきりしません。しかし、いけ花とは芸道なんだ、禅や瞑想と同様一つの精神修養なんだとやってしまえば、すっとします。そんな風にいけ花を外国人に説明するのも一案。鈴木大拙の日本文化論などはその好例。

 昨年11月にメルボルンにいらっしゃった「花道の思想」の著者、井上治氏(京都造形芸術大学准教授、国際いけ花学会副会長)もまたそうした方向で考えていらっしゃるようです。久松真一(「茶道の哲学」)など京都学派の哲学者が茶道を禅と関連付けて説明していますが、同様の作業が花道でも必要でしょう。井上さんは京都学派に連なる方ですから次の仕事、「花道の哲学」が楽しみです。

 私もいけ花は厳しい修練を要する「道」だと実感しています。しかし、いけ花を禅で説明してしまうことには、いくつか納得できない部分があるのです。鈴木大拙や京都学派に対抗しようというのではありませんが。これからは私の花道論ならびに日本文化論めいたことをあれこれ書いてみましょう。いけ花の可能性というような大きな話につながるかもしれません。

 今回紹介するのは、1年前、クラウンホテルの此処(ここ)に活けた新年の花。今年も展示していますので、機会がありましたらご覧下さい。少しづつですが毎回進化しています。

Shoso Shimbo

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