華道家 新保逍滄

2016年6月21日

花展ポスター




今年10月、私の教室が参加する合同展のポスターができました。
今回のデザインは私が担当するよう依頼されました。

合同展ですから特定の流派のスタイルが出ていない写真の方がよかろう、
ということで自作の部分写真を使いました。
初夏のイメージで、最小限の色、
色調も強すぎないものを。
あとはシンプルに、シンプルにと心がけてデザインしました。
なかなか満足の出来です。

しかし、他の方々からはあれこれ言われました。
「和の説明を入れてほしい」
「日時、会場をもっと大きなフォントで」
「日時、会場が明瞭に記されていない」という批判には驚きましたが。日時、会場しか書いていないのですから。
「別のポスターを作ってもいいか?」
そこまでひどいですかね?
いろいろ難しいものです。

ともかく、一切変更するつもりはありません。
いいものはいいのです。
頑固者、ということで
もう依頼が来ることはないでしょうが、それも結構。

ふと思ったのですが、
花展ポスター・コンクールなどやったらどうでしょう?
いろいろなポスターをまとめて見てみたいと思います。
今は、生花学習者のコンクールの最中ですが、
http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au
その後、時間があったら考えてみましょうか?
協力者が現れるでしょうか。

2016年6月10日

迎え花


Mondopiero への新作。Design Institute of Australia の特別イベントが開催されることになり、
ピエロ氏より依頼あり。

「この花綺麗だね」なんていう感想は欲しくなんだ。
相手はトップクラスのデザイナー、ボーグの編集者だ。
「このコンポジション、にくいね」とか、そういう感想が欲しいんだよ。

それならちょっと遊ばせてもらいましょう、と制作。
ピエロ氏、大いに満足してくれました。


2016年6月8日

一日一華



Facebook もよく使っています。
フレンドのほとんどは面識のない方々。
同じ関心、いけ花でゆるーくつながっているような感じです。
https://www.facebook.com/ikebanaaustralia/

それはもちろんいいのですが、
時々、メッセージで
「この言葉の意味はなんだ?」
「この日本語訳してくれ」
などというリクエストがあるのです。

せいぜい5分、10分で返答できることではあります。
それくらいしてあげよう、とは思います。
しかし、様々な思いが巡ります。

まず、過去に何度か応じてあげたことがあります。
しかし、お礼の言葉をいただいたことがありません。
なんだか利用されただけのような気分。

自分で調べたらいいのに、と思うこともあります。
「ここを見れば」というアドバイスもできるけれど、
それで相手が気分を害すこともありえます。

さらに、簡単に答えることもできるけれど、
おそらくもっと詳しい返事でないと
この質問への回答にならないな、
いい加減な返答はしない方がいいのではないか、
と思うこともあります。

「自分は国家認定翻訳家だから、見積もりはいくらです」
なんて返事したら、意地悪だろうなあ、とか。

結局、上手に断れない時は、無視することにしています。
ちょっと親切心が欠けているかな、と悔やみつつ。

私の母ならきっと、何も考えず、助けてあげるでしょうね。
何の見返りも求めず。
彼女はちょっと特別な人ではありますが。
母の境地にはまだまだ及びません。







2016年6月5日

21世紀的いけ花考 47


 いけ花と芸術についてあれこれ書いてきました。そろそろまとめです。私にとって両者が問題になるのは、歴史上、少なくとも2つの時点において。ひとつは1920年代、自由花が登場してから、戦後、自由花を重視した草月流等の爆発的な発展まで。西洋芸術がいけ花の変容に強力に関わっています。いけ花は日本の伝統芸術という見方が一般的でしょうが、実は西洋芸術の影響なくして今日のいけ花はありえません。
 
 ただ、芸術という言葉はとても皮相的な理解で用いられていたように思います。広告のコピーのような扱いだったのではないでしょうか。ただ、それが一要因となって、一人で始まった流派が二、三十年で会員数、数十万の大組織に発展したわけですから、特異な社会現象でもあります。文化変容の問題として、あるいは社会学の問題としてどなたかにきちんと研究してほしい問題です。私が理事を務める国際いけ花学会の学術誌、International Journal of Ikebana Studiesに投稿していただければ喜んで査読します。

 そしてもうひとつは、現在、私自身の問題として。華道家と彫刻家、二足のわらじを履く者としていけ花と芸術の関係はどうなっているのか、と考え続けています。私なりに現代芸術の特徴を簡単に紹介してきました。難しい話を難しく話すのは誰でもできます。簡単に話す方がずっと知恵が必要です。もちろん、もっと深く書いてくれというご要望もあるかもしれませんが、それは自分でお金を出して勉強すべきこと。その現代芸術の文脈にいけ花をどのように乗せるか?と考えると、一つのヒントとして、またも村上隆のことが思い当たります。彼の作品は日本のアニメを現代芸術の文脈に乗せた一例と見ることもできるからです。芸術とは無縁のように見えるアニメさえ現代芸術にできるわけです。では、どうしたらいけ花を現代芸術にすることができるのか?これも簡単に答を期待してはいけない問題でしょう。

 今月紹介するのはビクトリア州政府の依頼で制作したテーブル装花。日本人の来賓のためにということでご指名いただきました。名匠花島さんに緊急に竹花器を15個作っていただき、花留めにはオアシスを使っています。

 さて、5月6日にはいけ花パフォーマンス、5月22日には国際交流基金の依頼でスノー・トラベル・エキスポに大作を出展しました。機会があれば近くご紹介します。

2016年6月4日

一日一華


残り物を寄せ集めて、
捨てる前にもう一度作品にしてみました。

今日も生け花の生徒から興味深い話を聞かせてもらいました。
話をしているうちに、生徒同士で
ある時、ふと心が触れ合う瞬間というものがあるようです。
出会いといったり、
エンカウンターと言ったり、
いろいろです。
涙を流しながら話していましたが、
それは全くジメジメしたものではなく、
ともかく、生け花の時間が生徒にとって
難しい現実から逃れ、
一時の憩いとなっているのだということでした。











2016年5月29日

一日一華


一日一華。
日々の瞑想ということで、英語版サイトにもよく小品を載せています。
http://www.shoso.com.au
この作品もお世話になった方への感謝の気持ちを込めて。

以前紹介したマディが間もなく日本へ一人旅。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2015/02/blog-post_22.html
長く教室に通っている生徒で、
お弟子さんということなのでしょうが、
おそらく日本ではちょっとつくれないような師弟関係になっているかなと思います。
年齢的には自分の娘のようで、
しかし、友達のように話ができ、
しかし、また、恋人にはまずなりえない。
(仮に私が独身であったとしても)

ともかく、彼女が日本についての情報を教えて、と言ってきましたが、
私にはわからないことが多い。
彼女が歌手であるため、ライブが聞きたいとか、
私が行ったことのない街のこととか。
数人の方に情報提供をお願いしたところ、
とても丁寧なお返事をいただきました。
特に、Yさん、感謝しています。
ある街のとても深い、細かい観光情報で、
このブログにそのまま転載したいくらいでした。
おすすめの温泉地、いつかきっと行きます。

2016年5月11日

2016年5月2日

21世紀的いけ花考(46)




 引き続きいけ花と現代芸術についてです。いけ花で現代芸術のように意味の探求が可能か、いけ花に意味を生成するコンテクストがあるのか、その辺が問題の核心。おそらく正解はない問題で、様々な回答があっていいように思います。

 コンテクストについて、前回はコミュニケーションを例に説明しました。コンテクストが言葉による意味の伝達を補っているというようなことです。もう一つコンテクストについて重要な点があります。批評です。コンテクストによる意味の生成に欠かせないのが批評。学術論文も含まれます。現代芸術には批評が溢れています。博士論文も毎年膨大な数が生産されています。

 それに対し、いけ花はどうか?いけ花に関する学術論文は極めて少ない。博士論文も時折目にする程度。しかも、その内容ときたら呆れるくらいのレベル。批評の量、質とも現代芸術とは比較にならないのです。この批評におけるギャップを認識せずにいけ花と現代芸術を云々しても滑稽なだけ。華道家が現代芸術をやろうというのは、草野球のエースがいきなりプロ野球の選手に挑むようなものかもしれません。また、現代芸術で鍛えられた人がいけ花を見たら「確かにデザインとして美しいが、なんの意味も読み取れない」ということになるのではないでしょうか。つまり、「いけ花で現代芸術のような意味の探求が可能か」という問いに対する私の最短の回答は、否。

 しかし、それでもなおいけ花の芸術としての可能性はないのか、現代芸術にはない独特のコンテクストがあるのではないか等とジタバタしているわけです。その関連で、今年3月ローン彫刻ビエナーレに制作した2作品のうちの一つを紹介しましょう。現代彫刻として制作した作品に花を添え、いけ花にしたもの。現代芸術といけ花との関連を考える上で面白い試みだったかなと思います。

 現代芸術とは主に想像力に訴えるもの。鑑賞者は想像力を使わないことには作者とコミュニケーションができない。それに対し、いけ花はそうした能動的な努力を求めない。もっと受動的で、直接的に感性に訴えかけるものであるように思います。高度に洗練された生命の姿を求めるというところはあるでしょう。しかし、指導においても技術指導が主になっているならば、芸術というよりデザインに近いものがいけ花の実態かもしれません。

2016年4月29日

Wye River Project 2016  そして腕時計の話



今年もローン彫刻展に選ばれました。二年に1度の芸術祭、今年は州政府支援の作品依頼。しかも、昨年度末、山火事で大変な災害を受けたワイーリバー地域コミュニティの復興支援の一環としてという大役でした。
その経緯についてはまたいつか書くことがあるでしょう。

今回はその関連で時計の話。

急勾配な被災地の焼け跡から材料を運び出し、
4輪駆動のピックアップトラックで移動、
ビーチに作品制作という、肉体的にとてもきつい制作作業でした。
上部のビデオをご参照下さい。
そして、そんな状況に根をあげたのが私の時計。
ネジが飛んでしまったのです。左の時計です。





















以前、一年に3個も時計を買うことになったという話を書いたことがあります。
それは一つの時計で全ての状況に使えるものを、
という考えでいたための失敗でした。

華道家は社交の場と制作作業の場、少なくとも2種類の時計が必要だというのが結論。
デザイン重視の時計と機能重視の時計、両立は難しいと悟ったのです。

社交用にはスイス製の時計。問題はあるものの、まあ、悪くはない。
高級時計とも言えないレベルですが、十分。
現在も使っています。

問題は作業用の時計。
とにかく見易く、正確でなければいけない。
デザインよりも機能第一。
デモなど数分のミスも許されません。
さらに、私は彫刻家でもあるため作業内容は土木作業員なみの過酷さです。
特に、今回のワイーリバーでは。
タフな時計でなければいけなかったのです。

高校生の頃からセイコー・クォーツで満足してきました。
ソーラーや自動巻(エコドライブとかいうのかな?)なども試したことがありますが、
正確さという点では若干心もとないように思います。

そこで、セイコーのパルサーブランドの時計を選びました。写真の左。
デザインもそこそこ。
私の好みはシンプルな薄型ですが、作業用ですから仕方ないでしょう。
用が足せればいい。道具です。
見易い。それほど高くもない。
少し厚いのですが、まあ、邪魔にならない程度。

しかし、時間が狂うのです。
朝確認すると10分ほども早かったり、遅かったり。
まさかセイコー社のものが?
何度もそんな調子。
保証期間中だったので、店に持って行って点検依頼しました。
すると、数週間後、新品と交換してくれました。
さすがセイコー社。プライドがあるのだなと思いました。
粗悪品など出せないのでしょう。
たまたま問題のある時計が私に当たったのでしょう。
(実はセイコー社への落胆はこれが二回目ですが。以前書いたエッセー参照のこと)
1000個のうち1個くらいはそういうこともあるでしょう。
新品交換ですから、文句は言えません。

しかし、よく見ると秒針が12時を指す時、
文字盤の最上点に針が一致しないのです。
多分、気にするほどでもないのでしょうが、私にはあまり気持ちが良くない。
そして日にちの設定がなかなかうまくいかない。
お昼に翌日の表示に変わっていたり。
さらに、重労働となると、ネジが知らぬ間になくなっている。
まだ保証期間中ですが、もう諦めました。
使う気になれません。
またも失敗。
やはり安物はダメなのか。

どうしてそれほど落胆するのか?
そこには愛着の問題があると思います。
私の場合ですが、使っているものには愛着を覚えます。
車も家も高級品ではないもののそこそこ快適で、信頼できる。
次の車もやはりトヨタかな、と自然に思ってしまいます。

多分、愛着は人間関係にも言えることでしょう。
「伊勢物語」でも奥さんへの気持ちをそんな言葉で表現している部分がありました。
唐衣きつつ慣れにしつまあれば、というあたり。
激しい恋愛感情というより、慣れ親しんだ人への愛着。
それはとてもよくわかります。
そして、そうした愛着が煩悩の種となると悟った時、
日本の詩人は旅に出るのですね。
西行、芭蕉、皆そうです。

ともかく愛着があるがゆえに、信用が傷ついた時、
必要以上に落胆するのではないかと思います。
最初にセイコー社の時計に落胆した時、私は本社に手紙を書いています。
2度の修理でも異常無しと返事され、それでも或る日突然
数時間の誤差が生じているという事態でしたから。
全額返金に応じてもらいました。
そのお金でスイス製腕時計を買ったのです。

今回、セイコーをもう一度試してみようと思ったのですが、
やはりダメでした。
私の過酷な状況には適さないということです。

次の時計を探しました。
スイスアーミー社のものを予定していましたが、
数軒店を回り、私の希望を告げると紹介されたのがカシオのGショック。
しかし、デザインが私の好みに合いません。
ごつい上に大き過ぎ、重そうで、
文字盤がごちゃごちゃしていて見にくい。
急ぎの場合、瞬時に時間が分かるようでなければいけません。

ふと「これはどう?」と家内。
「なかなかいいね」と私。
写真の右。
黒い服を着ることが多いので、黒い時計はよく合います。
厚いのですが、小さいのであまり邪魔になることもない。
しかも、用意していた予算よりずっと安い。

しかし、商品名がベイビーG!
これはかなりひどい命名。
ベイビーなどと記された物を身につけられるか?
これは子供用か、女性用の時計かと尋ねると、
カシオの時計は皆、ユニセックスだという返事。
「ベイビー、いいんじゃない?」家内はニヤニヤ。
「これは黒字で書いてあるから見えないわよ」
そこで購入に至った次第。

カシオのサイトで調べてみると
ベイビーGとはやはり女性用であるらしい。
「こんなの女の子がつけるわけないでしょ」と家内。
しかし、そうでもないのかもしれない。
ともかく、今のところとても満足しています。
求めていたのは、プラスチックの塊のようなベイビーGだったのか。

さらにもう一つ気付いたことは、私が時計を知らなすぎるということ。
あまり関心がないのです。
だからどうでもいい。
そして間違った選択をしてきたということ。
愛用するものはやはり慎重に選びたいものですが。

先日、オーストラリアの田舎に住む女性の友人が
新しい車を買いたいのだけれどと相談してきました。
車なら私はそこそこ詳しいと自惚れています。
「燃費のいい4輪駆動がいいのだけれど」
「それならマツダのCX5だね」
「それ、試乗したことがある。安心した。それにする」
よく知っている商品なら間違えずに選べるし、
アドバイスもできるのです。

時計というのは、私にとって車を買うほどの真剣さが必要でない、
しかし、愛着が生まれやすい、
そこで問題が生まれやすいものなのでしょう。
時間が狂うとか、ネジが飛ぶなどということで
必要以上に落胆してしまうのです。















2016年3月29日

21世紀的いけ花考 (45)




 現代芸術の命は意味だという話でした。拙作を例に意味はコンテクストから生まれるということをお話ししましょう。コンテクストには作品の素材、配置、構成など作品内の要素に関する内的コンテクストと、作品外の要素、つまり歴史や社会状況などを含めた外的コンテクストがあるというところまで前回お話したのでした。

 金網で顔を作るという出発点は苦し紛れの選択でした。金網とはフェンスを含め内部と外部を遮る働きがあります。一般には鳥かご、監獄をはじめ内部にいる者の自由を奪うもの。内と外、不自由と自由という対立が生まれます。現在、不法移民、難民の問題が問題になっています。難民を囚人のように扱う理不尽。

 拙作を一つの鳥かごに見立ててはどうだろう?通常の鳥かごとは逆に鳥が外で自由にしている。拙作の頭上に鳥の楽園を作れないか。バララット美術館の周辺でパロットなどの美しい野鳥をたくさん見かけました。花や枝をアレンジし、餌を吊るし、バードバスを設置すれば可能。実際、完成した作品には野鳥がよくやってきました。カラスが多かったのですが。

 そこでさらにひらめきました。有名な肖像画で背景が野生の天国というのがあったなあ、と。フリーダ・カーロ。身体に障害のある画家でした。おそらく彼女の作品の背景は肉体的、精神的な自由を象徴しているのでしょう。フリーダの肖像としてしまうのははばかられましたが、拙作のモデルは若い女性とすることに。さらにフリーダは女性であること、メキシコという西洋芸術の本流からすれば周辺の出身であるということも、モダンアートへのコメントということになります。私もまた日本という周辺国の出身というところでは繋がってきます。以上のようなことを考えていくと、拙作を面白く解釈できるのではないかと思います。

 金網1枚では全く質感がなく、顔には不適。どうしたものか悩んで10枚ほど重ねると、面白い効果が出てきます。そのような苦労と発見の連続で、なんとか乗り越えたですが、予想以上に好評でした。コミッショナーからも大成功と言ってもらえ、一安心。さらに今年三月のローン・スカルプチャーにも招待されることに。同時期にメルボルン・フラワーショーにも出展予定ですから忙しくなりそうです。根性のある制作アシスタント募集中です。弟子入りする覚悟でないと務まらないかもしれませんが。

2016年2月10日

21世紀的いけ花考 (44)


 現代芸術についてあれこれ書いてきました。現代芸術は意味を持たないといけない、その意味はコンテクストから生まれるというようなことです。そこで話は「コンテクストとは何か」ということになります。実は村上隆が「芸術闘争論」の中でこれ以上はないほど簡潔に説明しています。それはこの本の最も肝心なところ。それをそっくりいただくのは失礼でしょう。

 私はバーレットの説に依って説明しましょうか。彼は内的コンクストと外的コンテクストに区別して説明しています。内的コンテキスト分析とは作品が構成要素間で、また作品全体でどのような意味を持つか。外的コンテキスト分析とは芸術家個人の経験、創造の状況、更に過去から現在に至る芸術史との関連から作品の意味を特定していくこと。

 抽象的な話で分かりにくいかもしれません。ここで適当な具体例を出せるといいのですが。村上は自作を例に分析してくれています。是非、参考にして下さい。ここでは私が昨年度、アーチボールド賞展のためにバララット美術館前に作った自作を分析してみましょうか。ベストの例ではないのはお断りしておきます。

 制作記間1か月の大作でしたが、問題は「巨大な頭を作って」というリクエスト。肖像画展ですから仕方ないのですが、私は人の顔など作ったことがない。試作品を作ってみたのですが、まるで案山子。子供の描く絵の方がよほど面白い。私の試作品には生命感がないのです。こりゃダメだ、と眠れない夜が続きました。公共芸術ですから、批判され、関係者に迷惑をかけ、大変なことになるぞ、などと悩んだものです。「これが自分のアートだ。分からん奴は黙ってろって開き直れば?」というのが家内のアドバイス。なるほど。そのくらいでないとやっていられない。

 まず、素材を何にするか?植物?いや、植物で人の顔は難しい。菊人形でさえ顔までは花で作りません。うまくいかないからです。屋外で1ヶ月もつ素材となると私に扱えるのは限られてきます。金網ならやれるかもしれない。3メートルほどの顔面に、金網を丸め、ぶつけてみました。丁寧に扱っても技術不足が目立つばかりですから。すると不思議なことに顔が生きてきました。大げさですが、奇跡だ!と静かに叫びました。さて、ここまでは前置き。この作品のコンテクストはどうなっているのか?次回に続きます。

いけ花ギャラリー賞 2000人がLIKE



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