華道家 新保逍滄

2018年12月29日

生け花と捕鯨(1)

日本が国際捕鯨委員会を脱退するということです。 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181228-00059221-gendaibiz-pol 残念ながら国際社会において日本側の論理、言い分は全く説得力がありません。 国際社会、ことに先進国の間で嫌われ者になり、 国益を損ねることになるでしょう。 捕鯨については以前にもこのブログで書いたことがあります。 https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_8.html https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_9.html https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_10.html http://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/nhk.html https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_16.html なぜ捕鯨論争で日本に勝ち目がないのか、上のポストに私の意見も書いています。 要は、国際社会では環境に対する態度においてパラダイム・シフトが起こってしまっています。「日本の捕鯨文化を認めろ、認めないお前が悪い」という主張は、相手に改宗を迫るようなもの。そう、これは宗教問題のようなもの、と思ったほうがいいでしょう。何世紀にもわたる宗教戦争でおびただしい数の犠牲者を出してきた歴史を持つ国々を相手に、「改宗しろ」と迫ることの無謀を悟ることも必要かもしれません。 捕鯨問題が生け花と何の関係があるの?と思われるかもしれませんが、 私の中では両者は大いに関係があります。 少し長い話になるかもしれません。 できるだけはしおってまとめておきます。 いつかきちんと書き直すことになるかもしれません。 覚書きとして書いておきます。 まず、先に「遊びとしての生け花(1)(2)」として、 考えたことをもう少し掘り下げておきます。 https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_78.html 日本の花道史の中で、集約と拡散という対立する方向性のある動きが繰り返し起こってきたということを指摘しました。 集約/拡散というのは少々曖昧な表現です。 おそらくもっと適当な言葉で言い換えられるでしょう。 集約は、制度化、構築化、格式化、規格化とか。吉本隆明なら、共同幻想と言うかもしれません(違っていたらすみません)。 拡散は、脱制度化とか。坂口安吾なら、堕落と言うかもしれません(違っていたらすみません)。 昭和初期、生け花における自由花の派生、重森三玲による「新興いけばな宣言」(1930)は、日本花道史における格花に対する拡散への志向と考えられる、と説明しました。 しかし、実は、そのように捉えるだけでは、不十分です。 世界史的な視点からも考えなければいけません。 現代の生け花のあり方にも多大な影響を与えている重森三玲や勅使河原蒼風(草月流創始者)の生け花改革は、西洋モダニズムの導入でもありました。 それは資本主義と一体となり、世界に広がった世界観。 重森三玲は生け花において「植物はもっとも重要なる素材であるのみである」と言いました。生け花は「芸術」になり、自己を表現するものとなったのです(道であったものが、「芸術」に成り下がったと言えるかもしれない)。そして、花は自己表現の材料でしかない、道義的観念、宗教的訓話などとは無関係だとしたのです。草月流、小原流など、重森の影響を受け、戦後日本で急速に拡大した花道流派の根本にはこうしたモダニズムの考え方があります。 高度経済成長の価値観とぴったりの考え方なのです。 その世界観の特長は、ピカソの言葉に端的に現れています。 ピカソといえば、モダン芸術のチャンピオンの一人。 彼が自然について語った言葉をアンドレ・モーローが伝えています。 Obviously,...

2018年12月24日

生け花における芸術とポルノ(1)

先頃、ある花道家のデモンストレーションを拝見しました。 そのデモの主催者側の方に感想を尋ねられたので、次のように答えました。 「初心者を対象にしたデモだから、あのような内容になったのでしょう。 もちろん、見事でしたし、勉強になりました。 でも、あの方の実力をギリギリのところで発揮したものではなかったですね。 本当はもっとすごいことができる方なんですがね」 もちろん、批判などするつもりは一切ありません。 楽しませんていただいたのですから。 私などとても及ばないレベルの方です。 でも、私の本音の一部がポロ...

2018年12月23日

作品集出版に向けて(1)

2019年のクリマスの頃、作品集を自費出版しようかな、と考えています。 問題はいろいろありますが最大のものは費用。 ある出版社に問い合わせたところ、500部で280万円くらい。 安くはないだろうと覚悟していましたが、ここまでとは。 さらに、たとえ本が売れたとしても、1冊につき定価の55%は 出版社の取り分となります。 それだけ出費をする意義があるのだろうか。 ここを考えているところです。 私のお金を使うつもりですが、家内にも相談しないといけない額です。 「意義?そんなものあるわけないじゃない。お金が...

2018年12月16日

2018年12月10日

背伸びしすぎる生け花(1)

生け花は日本の伝統芸術のひとつ。 この点では多くの方が賛同してくださるでしょう。 しかし、他の芸術、芸能と比べて背伸びしすぎではないでしょうか? もしそうだとすると、そこには生け花の特殊性があるように思います。 例えば、音楽、和太鼓とか三味線とか、海外でも人気です。 例えば、陶芸、木工、板画、日本画、能、盆栽などと比べてみてください。 こうした分野で修行をして、先生になったとします。 そうすると師匠とか先生とか言われるようになるでしょうが、 「教授」などという大それたタイトルを使うところはあまりないで...

2018年12月4日

遊びとしての生け花(2)

前回の話の続きです。 https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html 道としての生け花 遊びとしての生け花 とても大雑把に言ってしまうと、上記、2つの態度が生け花にはあるように思います。 もちろん、前回考えたように、どちらも大切なアプローチ。 この対立は、よく考えてみると、華道史の中で繰り返し現れる対立や論争の根本にも関係してくるように思います。つまり、これら歴史上の対立する立場をどんどん還元していくと、根本に花は修行なのか、遊び...

遊びとしての生け花 (1)

生け花への態度について。 生け花は修行だ、道だ。日々鍛錬、精進して、高い境地を目指すもの、という考え方もあると思います。 また、一方、楽しいからやるんだ。花をいけること自体、単純に面白い。余暇にやっているから続く、そういう態度もあるでしょう。 私は前者の考え方に惹かれてきました。 生徒にももっと頑張りなさい、昇級しなさい、教える機会があれば教えなさい、機会を作ってあげるから展覧会に出品しなさい、コンクールがあるから参加しなさい、という具合で生徒を鼓舞してきました。それはそれ。 生徒は増えてきています...

2018年12月2日

2018年12月1日

生け花ライブ

生け花に関してはいろいろなことをやっています。 実は、そのほとんどは方便だと思っています。 生け花ギャラリー賞を運営しているのは 賞を取ることを奨励してるのではありません。 その他にもいろいろな見方があるでしょうが、 根本のところでは、生け花学習者の動機付け、サポートを目指しています。 生徒には、商業的な機会は積極的に掴みなさい、 教えられる状況になったら教え始めなさい、と言っています。 それも、お金を得ることが目的ではありません。 生け花を長く、継続的に続けるために役立つと思うか...

Shoso Shimbo

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