日本が国際捕鯨委員会を脱退するということです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181228-00059221-gendaibiz-pol
残念ながら国際社会において日本側の論理、言い分は全く説得力がありません。
国際社会、ことに先進国の間で嫌われ者になり、
国益を損ねることになるでしょう。
捕鯨については以前にもこのブログで書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_9.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_10.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/nhk.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/06/blog-post_16.html
なぜ捕鯨論争で日本に勝ち目がないのか、上のポストに私の意見も書いています。
要は、国際社会では環境に対する態度においてパラダイム・シフトが起こってしまっています。「日本の捕鯨文化を認めろ、認めないお前が悪い」という主張は、相手に改宗を迫るようなもの。そう、これは宗教問題のようなもの、と思ったほうがいいでしょう。何世紀にもわたる宗教戦争でおびただしい数の犠牲者を出してきた歴史を持つ国々を相手に、「改宗しろ」と迫ることの無謀を悟ることも必要かもしれません。
捕鯨問題が生け花と何の関係があるの?と思われるかもしれませんが、
私の中では両者は大いに関係があります。
少し長い話になるかもしれません。
できるだけはしおってまとめておきます。
いつかきちんと書き直すことになるかもしれません。
覚書きとして書いておきます。
まず、先に「遊びとしての生け花(1)(2)」として、
考えたことをもう少し掘り下げておきます。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_4.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/12/blog-post_78.html
日本の花道史の中で、集約と拡散という対立する方向性のある動きが繰り返し起こってきたということを指摘しました。
集約/拡散というのは少々曖昧な表現です。
おそらくもっと適当な言葉で言い換えられるでしょう。
集約は、制度化、構築化、格式化、規格化とか。吉本隆明なら、共同幻想と言うかもしれません(違っていたらすみません)。
拡散は、脱制度化とか。坂口安吾なら、堕落と言うかもしれません(違っていたらすみません)。
昭和初期、生け花における自由花の派生、重森三玲による「新興いけばな宣言」(1930)は、日本花道史における格花に対する拡散への志向と考えられる、と説明しました。
しかし、実は、そのように捉えるだけでは、不十分です。
世界史的な視点からも考えなければいけません。
現代の生け花のあり方にも多大な影響を与えている重森三玲や勅使河原蒼風(草月流創始者)の生け花改革は、西洋モダニズムの導入でもありました。
それは資本主義と一体となり、世界に広がった世界観。
重森三玲は生け花において「植物はもっとも重要なる素材であるのみである」と言いました。生け花は「芸術」になり、自己を表現するものとなったのです(道であったものが、「芸術」に成り下がったと言えるかもしれない)。そして、花は自己表現の材料でしかない、道義的観念、宗教的訓話などとは無関係だとしたのです。草月流、小原流など、重森の影響を受け、戦後日本で急速に拡大した花道流派の根本にはこうしたモダニズムの考え方があります。
高度経済成長の価値観とぴったりの考え方なのです。
その世界観の特長は、ピカソの言葉に端的に現れています。
ピカソといえば、モダン芸術のチャンピオンの一人。
彼が自然について語った言葉をアンドレ・モーローが伝えています。
Obviously, nature has to exist so that we may rape it!
(分かりきったことだが、自然ってのは俺たちに強姦されるように存在しているんだ)
自然は客観的な対象であり、人間のために存在する資源でしかないということでしょう。
列強が弱い国々を植民地化したように、人類が自然を植民地化して何が悪い。
鯨を必要に応じて殺して何が悪い、ということになるわけです。
花など自己表現の材料でしかない、切ろうが曲げようが好きにして構わないではないか。花がかわいそうだなんて言うんじゃないよ、と。
捕鯨推進派の自然観と、戦後拡大した花道流派の自然観は深いところで重なっているようです。
この話は以下で示唆した、新しい生け花のあり方を探る必要があるのではないか、というところへつながっていきます。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post_26.html