華道家 新保逍滄

2016年7月18日

一日一華:レストランにいける



メルボルンの花菱レストランにて。
商業花ですからあまりに実験的なことはできませんが
それでも基本を押さえつつ、
毎回、遊ばせてもらっています。
同じような骨格の花を何回か紹介してみます。

時間制限の中で
夢中で過ごす数時間は気持ちのいいものです。


2016年7月15日

ホーム・パーティーの花


常連のクライアントからホームパーティーの花の依頼。
通常、中作ひとつ、テーブルのセンターピース、そして、小品という組み合わせ。
この作品は最小のもの。
白いチューリップを見つけるや、
これしかない、とメインの花に。
脇役はピンクのバラでしょう。

2016年7月12日

オンライン指導



生花のオンラインのコースも完成していますが、まだ、正式に公開はしていません。
しかし、生徒の一人が国際的なビジネスに関わっていて、定期的に教室に通えないため、彼女の希望でオンラインで教えています。
上の作例の通り、彼女への指導は比較的うまくいっています。
やはりお互い実際に会っているということが大切かなと思います。
顔を合わせたことがない人にオンラインだけで指導というのは
生花の場合、難しいかもしれないですね。

それでも以下の通り、希望者には対応しています。

2016年7月11日

21世紀的いけ花考 第48回: 国際交流基金


 生花と現代芸術については書きたいことがまだたくさんあります。数年来、両者を比較して考えてきましたから。現代芸術の中にも花を使った作品が多数あります。しかし、「花を花として使っていない」と感じることが多いのです。おそらくいけ花をやっている方には分かっていただける感想でしょう。もしかすると西洋花に対してそのように感じるいけ花制作者もあるかもしれません。内輪だけならそれで分かり合えるでしょうが、この違和感をきちんと説明するのはなかなか難しい。知的訓練を積んでいない人になると「花が生きてないわ」「花への愛情がないのよ」とか言って済ませてしまいそうですが、それは浅薄。

 実は、この違和感を追求していくと「いけ花では花をどう使っているのか」「花をどう使ったらいけ花で、どう使ったらいけ花でなくなるのか」、結局、「いけ花とは何か」「その真髄は何か」と考えていくことになるのです。私の場合、そんなことを考えているうちに小論文ができてしまいました。Flowers in Contemporary Art という題で、国際いけ花学会の学術誌「いけ花文化研究」第3号に掲載されました。英文論文ですが、邦題は「現代芸術における花:いけ花的見地から」というあたりでしょう。A. Goldsworthy, S. Sze, A. Gallaccio という3名の現代芸術家の花を使った作品を取り上げ、花の扱い方を分析しました。この考察で気づいたことはまたおいおい話すことにしましょう。面白そうだなと思っていただけたら、私のサイトに論文要旨を英文、和文で掲載しますので、ご覧下さい。さらに、学術誌を購入しようかという方も大歓迎。1冊千円(要送料)。コーヒーとケーキを一回我慢すれば買えます。頭のトレーニングになって、国際いけ花学会を支援できて、カロリー減量もできる。いいことだらけです(笑)。

 今回は国際交流基金の依頼で制作した作品。前回紹介したのがビクトリア州政府依頼でしたから、数週間の間に政府関連の仕事が続きました。ありがたいことです。スノー・トラベル・エキスポという日本他への冬の観光振興を目指す博覧会でした。そこで日本文化紹介のコーナーに制作。制作したことのあるスタイルなら楽ですが、せっかくの機会です。あえて新しいスタイルに挑戦。制作時間が限られていて、うまくいくか分からない部分が多分にありました。とても勉強になりました。逆境への挑戦だけが成長をもたらす、と実感。



2016年7月8日

再び村松萬葉について:捕鯨論争


先のポストに続いて、村松萬葉に投稿したエッセーを紹介しましょう。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_28.html

普段は身辺雑記を投稿することが多いのです。
ちょっと恥ずかしいようなことを書いたりしています。
しかし、政治、社会について、
抑えきれず書いてしまうこともあります。
以下の数年前の文章もそんな心境で書いたもの。

政治的なこととなると冷静に話ができない方が時にあります。
いつの時代でも、どこでもそうでした。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_23.html
攻撃的な反論もあることを十分承知しつつも、
紹介しておきたいエッセーです。

提言:捕鯨論争における日本人の思考

「鯨を殺すなだと?羊を殺しているくせに。命を奪っているのだから同じことじゃないか」こんな議論をよく聞きます。その度、これではプロレスの場外乱闘だなと思います。リングの中で戦っていたのが、突然,一方が場外に出て、折りたたみの椅子を振り回し、相手をはり倒す。「どうだ、返答のしようがないではないか。こちらの勝ちだ」そんなイメージが浮かぶのです。

 文化の押しつけだの、国際法がどうのこうの。門外漢の私には判断のしようがない事柄ですが、皮肉や罵倒も含め多くの議論が場外乱闘状態。漁業関係者(大企業ですが)が可愛そうだ,などという感情論も横行。しかし、論点を整理して、同じリングに立って、つまり共通の認識を確認しつつ、議論を進めていけば、争点の核心も明確になり、それほど感情的になる問題でもないと思うのです。

 第一の共通認識:捕鯨、賛成反対双方ともまずは、人間の在り方の基本を確認しましょう。人間は他の生命を奪って生存するしか無い生き物です。殺傷が罪だというなら人間は罪な存在です。100人のうち99人くらいまではこの点で同意できるはずです。もちろん1人くらいはあらゆる殺傷は罪だ、自分は殺傷せずに生きるという方があるかもしれませんが。日本人が食事の前に手を合わせ「いただきます」と言うのも、命をいただいているという罪の意識と感謝の表れかもしれません。自然とのつながりを確認する精神的な行為と言えるでしょう。

 次に考えなければいけないのは、その殺傷の罪にも重いものと、軽いものがあるという点です。これは思考しかできない人には受け入れがたい点かもしれません。殺傷即ち罪、罪即ちと考えがちです。冒頭の「羊を殺しているくせに」という議論が思考だということに気付いて下さい。日本で教育を受けると思考になりやすいのではないでしょうか。しかし、これは断じて正さなければいけません。外国人ときちんと議論できないだけでなく、実は簡単に権力やカリスマ的な存在にマインドコントロールされてしまうからです。

 さて、野生動物を食べることと家畜を食べること。どちらも罪なことでしょうが、どちらがより罪が重いでしょうか?第一の共通認識から外れずに、場外に出ずに考えて下さい。同じということはなく、やはり区別が必要ではないでしょうか。どこかで線を引く必要があるでしょう。その線引きに必要なのが第二の共通認識です。

 第二の共通認識:現在、人間の力は巨大です。数百年前とは比較になりません。人間のために絶滅した種は数知れず、自然環境の破壊には歯止めが利きません。過去はこうであったとか、伝統的にどうであったとかいう議論も置いておきましょう。問題は今現在です。地球の存続可能性を考えることはこの時代に生きる者の義務です。この認識を踏まえると、野生動物より家畜を食べる方が罪としては軽いのではないか、ということになるでしょう。地球の存続可能性という尺度で、ここまではやむを得ない罪、ここからは犯してはいけない罪、と判断していく知恵を持ち、それを良識として共有していくことが必要なのです。

 さて、ようやく捕鯨問題です。調査捕鯨は欺瞞だとか、暴力的な抗議運動、マスコミの偏向報道、政治利用などなど様々な問題がありますが、上記の共通認識を踏まえれば、真摯に問題の核心に迫っていくことができるように思います。思考だけは禁物です。「~しかない」とか、「~は傲慢だ」というような断定的で歯切れの良い議論は一般の人々を誘導するには効果的ですが、思考であることが多いのです。核心は白黒がつけにくいグレーの部分での議論になり、それは忍耐を要するものになることでしょう。皮肉な態度や感情論、揚げ足取りのような議論もやめましょう。卑怯な場外乱闘はやめていただきたい。

 以上が私の提言の要点です。独特の意見というのではなく、常識的な意見だと思いますが、政府の正式見解などもこうした視点で点検してみるといいでしょう。オーストラリアで生活していると、酒の席でまで鯨論争に引き込まれ、不快な意見を聞くことになるので、我慢できず書いてしまいました。個人的な意見もありますが、ここでは控えます。以下は若干の補足です。

 今現在でも野生動物を食べることが即ちではありません。鯨を食べること即ちではないでしょう。ただ、存続可能なのか、という点が問題の核心なのです。存続可能だというのであれば、それをどう科学的に証明するか。どうやら現在の人間の知恵では解答は無いようです。鯨の中には絶滅に瀕していない種があると日本の科学者が調査結果を出しても、方法論が非科学的と相手にされないということもあるようです。これも腹の立つ、感情的になりかねない点でしょう。鯨の年齢を測るには耳あかを調べる「しかない」、そのためには鯨を多数殺す「しかない」という議論も聞いたことがあります。ところが日本以外の科学者はそんなことはないと反論します。そこで腹を立てのでなく、忍耐強く、共通の方法論的認識に基づいてグレーの部分での議論を重ねていくしかないでしょう。

 国益にならないのだから いっそのこと捕鯨などやめたらどうだ、という意見も出てくるでしょう。案外,日本はこんな路線をとるかもしれません。外国との軋轢が生じ、国辱だなどという運動が国内に起こって、あっさり方針を変えるたということはいくつか歴史に例がありますから。

 もちろん捕鯨論争で最重要なのは日本政府や日本のマスコミの対応です。日本は比較的世論が政治に反映しにくい部分がありますし(もちろんこれも比較的ということ。民意を無視し、企業の意向だけを優先するひどい独裁国家が存在することは承知していますが)、政府やマスコミの見解を鵜呑みにする国民も少なくない。そうした現状にも拘らず、この問題で、新しい、世界に通用する対応ができないものでしょうか。日本の叡智を示すことができないものでしょうか。原発事故への対応を見るとあまり期待はできそうにありませんが。

2016年7月5日

いけ花ギャラリー賞2016年度募集締め切り



2016年度のいけ花ギャラリー賞の募集は6月末日にて終了。
以降の投稿作品は17年度の賞への応募となります。
さて、これから私たちのコミティーで予選通過作品を10作選びます。
その後、1名の審査員の方のご協力をいただき5作まで絞ります。
この最終選考に残った5作品を私たちの審査員5名に送ります。
各審査員から上位3作品を選んでもらいます。
得点を集計して最優秀賞、いけ花ギャラリー賞が決定します。
http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/




2016年7月4日

2016年6月30日

論文出版のお知らせ



以下のとおり私の最新論文(英文)が出版されました。

Shimbo, Shoso (2015). Flowers in Contemporary Art: From an Ikebana Perspective, International Journal of Ikebana Studies, 3, 11-19.

和文要旨は以下のとおりです。

現代芸術における花:いけ花との比較
新保逍滄

 本稿では現代芸術において花がどのように用いているかに焦点を当て、花を素材とした現代芸術作品をいけ花と比較しつつ分析した。

 西洋芸術において花が素材として用いられるようになったのは20世紀初頭以降であろう。ピカソやデシャンによっていかなる素材からも芸術制作は可能だという認識が確立されて以来、日常品、身体などありとあらゆる素材が用いられるようになった。特に、花という儚い素材が用いられるようになった背景には、60〜70年代の概念芸術、プロセスアートなどの影響が指摘できる。現代ではジェフ・クーン、マーク・ディオンなど国際的な芸術家を含め多くの芸術家が花を用いて作品を制作している。彼らは花をどのように捉えているのであろうか。いけ花作家との違いはあるのだろうか。

 ただ、この比較論には当初から困難が予想される。一つにはいけ花における花とは何かについて十分な研究がなされていないからである。民俗学は日本文化における花が自然の生命の精華であり、聖なる世界との接点となることを示唆するが、このような認識がいけ花にも共有されていることを基点とすれば、日本という特定文化圏内の活動としてのいけ花という側面が強調され、西洋芸術との違いばかりが強調されることになろう。

 本稿ではゴールドワージー、シーズ、ギャラチオ、3人の現代芸術家の花を用いた作品に焦点を当てた。3人の選択は恣意的で、現代芸術全般の動向を代表するものではないが、いずれも国際的に著名であり、意義あるケース・スタディとなるであろう。

 各作品における花を次の3つのレベルで分析した。即ち、素材としての花、内的コンテキストにおける花、外的コンテキストにおける花である。バーレットを踏まえれば、内的コンテキストにおける分析とは花が作品の中で他の要素、作品全体との関連でどのような意味を持つかであり、外的コンテキストにおける分析とは、芸術家個人の経験、創造の状況、更に過去から現在に至る芸術史との関連から花の意味を特定していくことである。
 
 素材レベルでゴールドワージーは花の儚さに焦点を当て、一見、日本仏教的な無常観に近似する態度を示す。シーズの花は内的コンクストで特徴的な扱いがなされる。花の聖性を否定し、花を他の作品構成要素と同様、商品あるいは日常の断片として扱う。花に内在する秩序を求めるいけ花とは対照的に、花の本来的な無秩序性を混沌に溶け込ませる。ギャラチオは花の腐敗過程を露呈することで不自然なまでに美しさだけが花という生命体の商品価値として扱われている現代の消費社会に疑問を投げかける。また、日本的無常感が、現実的な腐敗という自然現象と切り離された観念的、情緒的な次元で共有されていることも想起させられる。さらに、女性が創作活動に花を用いることで、西洋芸術史上周辺にあった女性の立場に対する省察を促す。

 このように現代芸術では作品解釈がコンテキストに支えられていることが多い。現代芸術に付随する哲学的、歴史的ディスコースの深さ、充実を、各種コンテキストから個別の作品が論じられることがほとんど無いいけ花のあり方と比べてみると、いけ花研究の不十分な現状を改めて思い知らされる。

この論文の所収された学術誌「いけ花文化研究」第3号の入手をご希望の方は以下をご参照下さい。
http://www.ikebana-isis.org/p/blog-page_1825.html
国際いけ花学会
http://www.ikebana-isis.org

いけ花文化研究第2号所収論文要旨
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2015/04/blog-post_25.html
いけ花文化研究第1号所収論文要旨
http://ameblo.jp/shososhimbo/entry-11509489963.html

2016年6月28日

村松萬葉って何?


私の故郷は新潟県の村松町。といっても、今は五泉市と合併し、村松町は無くなりました。過疎化の進む小さな田舎町ですが、ここで30年ほど続いている村松萬葉という文集があります。

初めてその存在を知ったのは「村松マンバになんか書けや」と、今は亡き父親に言われたのが、きっかけ。メルボルンまで持参してくれたのでした。
村松マンバって何者だろうと思ったものです。

上質の装丁の本を手にとって読んでみると、その面白さに驚きました。寄稿者は村松町と関わりのある100人ほどの方々。面識のある方はほとんどありません。しかし、様々な人生に触れることの面白さ。特にご高齢の方々の体験談、戦争体験談などはとても貴重なものに思えました。これは文化遺産だなと感心しましたので、私も毎年寄稿して10年ほどになります。

しかし、どうしてこのような文集が存続できるのか?と思うと、やはり編集に携わっておられる方々の並々ならぬご苦労があるのでしょう。熱意なくしてこれだけの実績は作れません。

機会がありましたら、多くの方に読んでいただきたいと思います。おそらく入手の難しい本だとは思うのですが、公共の図書館などでは閲覧できるでしょう。

そして、もし村松と所縁のある方が私のこの雑文を目にされることがありましたら、寄稿をお勧めします。長さは原稿用紙4枚、投稿料1万円だと思います。連絡先が不明の場合は私宛、メールを下されば、お知らせします。shososhimbo@gmail.com

以下は数年前、村松萬葉に寄稿した拙文です。

精神の大海へ:叔父サンの言あるいは大言壮語

今年の正月に帰省した。ほんの数年会わないうちに甥も姪も皆素晴らしい子供に成長していた。こんな学生が育つなら日本も捨てたものじゃない。いや、たいしたものだ。さて、君達よ、これからの数年がとても大切な、そして難しい時期だ。私が君達の年齢だった頃はどうにもならない代物だったことを思えば、これほど健全な君達だ。心配ないだろうけれど、お節介な叔父にちょっとアドバイスさせてほしい。

まず、テレビはできるだけ見ないこと。日本のテレビの大部分は低脳向け。特に民放。お笑いといってもほとんどがいじめ。女性蔑視、拝金主義、あのような価値観に染まると白痴になる。消費にしか人生の喜びを見つけられないような不幸なことになってしまう。あれほど愚劣な番組を垂れ流している国は世界に日本しかない。一緒に帰省した家内も驚いていた。

次に、いい友達を作ろう。百人に出会っても三人位しか面白いやつはいないもの。つまらない者とつきあうことはない。もし大学に行く機会があればそれもいい。大切な時期に自分の時間がたくさんとれるし、いい友達と出会えることも多い。良き友は人生最高のボーナスだ。

最後に、いい本を読もう。これからの時期、迷うこと、誰にも相談できないことがたくさんでてくる。私は今でも迷っているが。闇の中で自分の手を引いてくれるのはいい本だけ。以下に役に立つかもしれない本をリストしておく。本は読むタイミングが大切。今、もし面白くなければまた別の時に読んだらいい。でも二十歳頃までにはこれらは最低限読破して欲しい。

「フラニーとゾーイー」サリンジャー、「復活」トルストイ、「白痴」ドストエフスキー。これらは本物のラブストーリー。安っぽい恋愛小説もマンガももう読んでいられなくなる。
「シェークスピア全集」。海外に出た時、たとえ英語が下手でもシェークスピアは全部読んだと言うと、それだけで一目置かれることになる。そんなことが役にたつこともきっとある。
「生きるのが楽しくなる十五の習慣」日野原重明。実際にお会いすると先生はとても温かいオーラを発散されている。生き方はこんな方から学びたい。私の生花をとても褒めて下さった。
「竜馬が行く」司馬遼太郎、「日本史集中講義」井沢元彦、「信長」坂口安吾。歴史関連の本は沢山読もう。様々なことに興味が出てくるし、旅行していても楽しみが増える。そして、第二次大戦についてもしっかり考えよう。いろいろな意見があるから混乱するだろうが。君達の曽祖父はニューギニアのビアク島の戦闘で戦死した五千の一人だったことも覚えておこう。戦地からの写真に書き添えた「アジアの黎明のために」という言葉の意味もいつか分かってあげよう。その程度の勉強が自分でできないならば怠慢かつ無礼だ。学校の勉強だけでは駄目、不十分。

あとは解説無し。「道は開ける」カーネギー、「日記」J・グリーン、「人間を見つめて」神谷美恵子、「遥かなノートラダム」森有正、"Man’s Search for Meaning”フランクル。邦題は「夜と霧」かな?原書も難しくない。読んでみよ。と言っても無茶か。少々難しい本が並んでしまったね。では、追加で今すぐ君達が読めて、読書の大切さを教えてくれる名作をいくつか。「太陽の子」灰谷健次郎、「雪の降るくに」本間芳男、「君たちはどう生きるか」吉野源三郎、「ナルニア物語」ルイス(うちの家内のお勧め)、「三国志」(児童向けの簡略版でいい)、「赤毛のアン」モンゴメリ。「十五少年漂流記」ヴェルヌ。今は濫読でいい。やがて自分の問題意識が芽生えてくる。「幸福とは何か」「この短い生にどんな意味があるのか」等々。すると読書は本物になる。そこが分かった頃に一杯やろうではないか。

2016年6月27日

いけ花ギャラリー賞締め切り間近


 私共が主催している国際いけ花コンクール、いけ花ギャラリー賞の2016年度の締め切りまであとわずかとなりました。
 毎年、日本からの応募が少ないのが残念。気楽に応募していただけるとありがたいです。もっと面白くなることでしょう。
 無料で各方面でご活躍の審査員の方々からコメントがいただける、数千人の方々に作品を見ていただける、履歴書の受賞暦に記載できる、ということで、熱心に取り組んでくれる応募者も増えてきました。国際いけ花学会の学術誌「いけ花文化研究」所収の小林先生の華道史論文、現代の章でもこの活動は紹介されています。
 これからも続けていきたいものです。

2016年6月23日

一日一華:太郎さんと次郎さん


「日本を外から眺めるというのは、どうなんだろう。長所も短所もあるように思うけど」
「客観的な見方ができるのかもしれないけど、まあ、日本に帰るたび、浦島太郎って言われとるよ。」
「実際、海外在住日本人としては、そう思うことも多いしね。日本のことがよくわからない。どうなっているんだろう、と。すると私は浦島次郎というところか」
「最近、日本がおかしな方向に進んでいるような気がして仕方ないんだよねえ」
「太郎さん、政治のことですか?浦島太郎、次郎の政治談議?」
「気になるのは憲法改正の動きだよ、次郎さん。戦争ができる国になっていくんじゃないかな?」
「戦争ができない国であればいいと?」
「もちろん。平和第一です。戦争などもってのほか。憲法のおかげで戦後、平和が維持できたんだからさ。これを変えちゃいけないよ。いざこざを解決するのは武器じゃない。話し合いなんだよ」
「お花畑の平和論だねえ。実際のところ、日本が平和を維持できたのは、日米安保のおかげでしょう?アメリカの武力の庇護があったから誰も日本に手出しできなかっただけでしょう」
「世界中の人が平和を望んでいるんだよ。それが信じられないのか?武器も軍事基地も一切無くせばいいのだよ」
「それは大事な建前です。理想です。諸国の皆さんの善意を信頼しましょう。でも同時に、万一に備えるということも必要でしょう?皆そうしていますよ。武力なくして国家は国民の財産、生命を守れない。それが国際社会の常識。その常識に近づくための憲法改正だという見方もできると思うけど。戦争するためじゃなくて、平和への保険に入るようなものなのかなと。現実的な平和って、結局、危うい力のバランスの上に奇跡的に成り立っているようなものなのじゃなかろうか。」
「戦争ができる国になってもいいというのか?」
「平和が第一っていうのは同感だよ。でも、そのために『戦争ができない国』にしてしまえ、というのは極論だと思う。日本人特有の◯✖️思考かな。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_8.html
もしかするとそんな非現実的な意見は誰かの策略かもしれない。戦争はできるけどしない国を目指そうというのが国際社会の常識じゃなかろうか」
「そんな常識に従う必要などあるものか。日本が率先して、非武装、平和主義のお手本を世界に示したらいいじゃないか」
「そうしたら喜ぶ国は幾つかあるだろうねえ。すぐ侵略可能だ。その国々は日本の左翼マスコミ、左翼インテリと共謀してお花畑の平和論者を増やそうと戦後ずっと画策しているという噂もあるんですがね。日本では勉強のできる人ほど洗脳され、左翼になっていく傾向があるんじゃないか」
「右翼の低脳がそういうことを言うんでしょう?戦争したくてしょうがないような連中なんだ」
「低脳かもしれないけど、より現実をきちんと見ているような気がするなあ。まともな人なら戦争したいなんてことないでしょうけど。」
「なんだよ現実、現実って」
「これ個人的な意見だけど、日本で260年間、大きな規模の戦争がなかった江戸時代って、日本史上だけでなく世界史上、本当に稀な太平な時代だったでしょう。これほど長期間平和を維持できた国ってないですよ。でもその平和って、徳川の圧倒的な軍事力に裏付けられていたわけ。徳川幕府以前って、戦乱が絶えなかったでしょう。
 それを思うと、戦後の平和っていうのもアメリカの武力のおかげだったんだって、納得してしまうんだよね。平和って結局そういうものじゃないのかな。人間はあまり進歩していなくて。」
「いや、人間は進化しているんだよ。戦争の暗い過去は終った。平和な明るい未来を目指して人類はともに歩んでいるんだ。だいたい国家なんていうのがよくない。国家なんて消滅すればいいんだよ」
「皆が皆そうならいいんだろうけど、帝国主義的な態度の国もあるようだね。隣国を侵略したり、迫害したり。こんな国が日本に攻めてきたら、どうなるんだろう。今のままでは日本は簡単に侵略されてしまう。国家がなくなれば、国民は難民となり、すべてを奪われてしまう。戦後、日本は平和を享受してきたけれど、世界的には紛争は絶えなかった。今日も世界のどこかで紛争の犠牲で血が流れている。難民の数など戦後一貫して増え続けているんだ。毎年戦後最大数を更新している」
「なんだよ、悲観的だなあ。国連だってあるんだしさ。そんな心配不要だって」
「それほど頼れるといいのだけれどねえ。例えば、最近の中国の動き、太郎さん、これどう解釈するの?」

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160614-00048900-gendaibiz-cn
http://blog.jog-net.jp/201606/article_5.html

「中国?大丈夫だよ。日中友好条約があるんだよ。日本に手出しするわけないじゃない。日本がチベット化するなんてありえないよ。草の根レベルでも国際親善の輪は広がっているんだ」
「太郎さん、本当に自分の頭で考えてそう思うの?それともどこかの偉い人が言っているからそう考えるの?海外にいながら日本のマスコミでしかニュース見てないんじゃないの?日本のマスコミでは世界情勢は何もわからないから」
「自分で考えていますよ。まったく。そんな日本の離島が欲しいなら、争わずにあげてやればいいじゃない。向こうの言い分にもそれなりの理屈があるんだろうから」
「向こうの理屈なんてデッチ上げみたいですね。そこを占領され、軍事基地にされ、核ミサイルが装備され、ということになったら?」
「もうこんな話やめよう。不愉快だ」
次回の太郎さん、次郎さんの対話はいつになることやら。

補記:類似のトピックにつき、以下のような対談もご参照下さい。

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