華道家 新保逍滄

2016年6月30日

論文出版のお知らせ



以下のとおり私の最新論文(英文)が出版されました。

Shimbo, Shoso (2015). Flowers in Contemporary Art: From an Ikebana Perspective, International Journal of Ikebana Studies, 3, 11-19.

和文要旨は以下のとおりです。

現代芸術における花:いけ花との比較
新保逍滄

 本稿では現代芸術において花がどのように用いているかに焦点を当て、花を素材とした現代芸術作品をいけ花と比較しつつ分析した。

 西洋芸術において花が素材として用いられるようになったのは20世紀初頭以降であろう。ピカソやデシャンによっていかなる素材からも芸術制作は可能だという認識が確立されて以来、日常品、身体などありとあらゆる素材が用いられるようになった。特に、花という儚い素材が用いられるようになった背景には、60〜70年代の概念芸術、プロセスアートなどの影響が指摘できる。現代ではジェフ・クーン、マーク・ディオンなど国際的な芸術家を含め多くの芸術家が花を用いて作品を制作している。彼らは花をどのように捉えているのであろうか。いけ花作家との違いはあるのだろうか。

 ただ、この比較論には当初から困難が予想される。一つにはいけ花における花とは何かについて十分な研究がなされていないからである。民俗学は日本文化における花が自然の生命の精華であり、聖なる世界との接点となることを示唆するが、このような認識がいけ花にも共有されていることを基点とすれば、日本という特定文化圏内の活動としてのいけ花という側面が強調され、西洋芸術との違いばかりが強調されることになろう。

 本稿ではゴールドワージー、シーズ、ギャラチオ、3人の現代芸術家の花を用いた作品に焦点を当てた。3人の選択は恣意的で、現代芸術全般の動向を代表するものではないが、いずれも国際的に著名であり、意義あるケース・スタディとなるであろう。

 各作品における花を次の3つのレベルで分析した。即ち、素材としての花、内的コンテキストにおける花、外的コンテキストにおける花である。バーレットを踏まえれば、内的コンテキストにおける分析とは花が作品の中で他の要素、作品全体との関連でどのような意味を持つかであり、外的コンテキストにおける分析とは、芸術家個人の経験、創造の状況、更に過去から現在に至る芸術史との関連から花の意味を特定していくことである。
 
 素材レベルでゴールドワージーは花の儚さに焦点を当て、一見、日本仏教的な無常観に近似する態度を示す。シーズの花は内的コンクストで特徴的な扱いがなされる。花の聖性を否定し、花を他の作品構成要素と同様、商品あるいは日常の断片として扱う。花に内在する秩序を求めるいけ花とは対照的に、花の本来的な無秩序性を混沌に溶け込ませる。ギャラチオは花の腐敗過程を露呈することで不自然なまでに美しさだけが花という生命体の商品価値として扱われている現代の消費社会に疑問を投げかける。また、日本的無常感が、現実的な腐敗という自然現象と切り離された観念的、情緒的な次元で共有されていることも想起させられる。さらに、女性が創作活動に花を用いることで、西洋芸術史上周辺にあった女性の立場に対する省察を促す。

 このように現代芸術では作品解釈がコンテキストに支えられていることが多い。現代芸術に付随する哲学的、歴史的ディスコースの深さ、充実を、各種コンテキストから個別の作品が論じられることがほとんど無いいけ花のあり方と比べてみると、いけ花研究の不十分な現状を改めて思い知らされる。

この論文の所収された学術誌「いけ花文化研究」第3号の入手をご希望の方は以下をご参照下さい。
http://www.ikebana-isis.org/p/blog-page_1825.html
国際いけ花学会
http://www.ikebana-isis.org

いけ花文化研究第2号所収論文要旨
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2015/04/blog-post_25.html
いけ花文化研究第1号所収論文要旨
http://ameblo.jp/shososhimbo/entry-11509489963.html

Shoso Shimbo

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