華道家 新保逍滄

2015年7月28日

一日一華:教室での講話


私の生徒に他の州から飛行機で通ってくる生徒がいます。オーストラリアですから多分500キロくらいの旅程ではないかと思います。なかなかご苦労様です。

オンラインでやってもいいよと言っているのですが、他の生徒の作品を見たり、私のコメントを聞いたりしたいからということで、月に三回くらいきちんと出席しています。
ありがたいことです。

教室では気楽な話をすることが多いです。特に準備もせず、思いついたことを話していますが、生徒は外国人ですから、日本人なら感心もしないようなことでも興味深く聞いてもらえるわけです。

今日はアルマーニの色彩配色について話しました。

先週は織部の花器を持ってきている生徒がいたので、古田織部について私の知っていることを話しました。

勅使河原宏に「古田織部」という著作があります。
宏のいけ花芸術を知るためには最高の本だと思います。
私の宏論でも多いに参考にしました。
国際いけ花学会の学術誌、いけ花文化研究の創刊号に載せた論文です。

2013 Hiroshi Teshigahara in the Expanded Field of Ikebana,
The International Journal of Ikebana Studies, 1, p.31-52.

この本の面白い点は、タイトルが古田織部なのに、
中身は宏の自伝になっているということ。
宏が織部をとても尊敬しているのがよくわかります。
自分と織部を重ね合わせているようでもあります。

すると、どうなるのか。
利休と織部の関係
蒼風と宏の関係
そこに共通するものを感じているようです。

2015年7月23日

2015年7月20日

21世紀的いけ花考(37)


 前回でいけ花とは何かという話の結論に達したので、次に「いけ花とは芸術だろうか」という話に移ります。となると、芸術とは何かということをはっきりさせないといけませんね。これは難しい。専門家でもなかなかスパッとは答えられません。機会があったら尋ねてごらんなさい。ややこしい話につきあわせられます。いろいろな定義があるからです。正確に答えようとするとそうなってしまいます。そんな話をここでしても退屈。いけ花との関連で重要な点を門外漢がさらりとまとめておこうと思います。
 
まず、結論から。いけ花は芸術か?「芸術的要素はあるでしょう」。では、いけ花は現代芸術か?「99%のいけ花は現代芸術ではありません」。

 いけ花が芸術との関係で問題になるのは、主に次の二点。まず、戦前、重森三玲らの新興生花宣言でいけ花が芸術だと主張された点。戦後、拡張した小原流、草月流など大流派の家元もこの宣言の影響を強く受けています。いけ花が芸術だと主張することはいけ花学習者獲得上とても効果があったのです。こんな話は以前しました。「いけ花は芸術だ」と盛んに主張した人々は芸術をどのように理解していたのでしょう?問題はなかったのでしょうか?

 次に、明治以降、いけ花が西洋芸術の影響を受けて発展してきたという点。では、今、現在はどうなのでしょう?いけ花は現代芸術になれるのか?ひとつの問題は現代芸術の分かりにくさ。展覧会で「なんでこれが芸術?」と思ったことがある方も多いのでは?私が行った展覧会では、牛糞や女性の下着が飾られていたこともあります。こんなものをギャラリーに置くくらいならいけ花を置いたらいいのに!実は、現代芸術の門前には錠がかかっているのです。それを開く鍵があります。これも大きなトピックですが、簡単にお話し出来るかもしれません。そうした様々なことを考えていこうというわけです

 今月紹介するのも商業花。お手頃な値段で気軽に送ることができる箱入りの花。いけ花でそんなものができないものでしょうか。注文があるたびあれこれ思考錯誤しています。


 さて、私が理事を務める国際いけ花学会の学術誌「いけ花文化研究」第二号が発刊されました。私は明治以降のいけ花に関する主要英語文献の解題を載せました。いけ花研究のための基礎的な資料になるでしょう。1冊千円ほど。詳細は以下のサイトから。
http://www.ikebana-isis.org

2015年7月19日

2015年いけ花ギャラリー賞準決勝


恒例のいけ花ギャラリー賞、本年度の準決勝進出16作品の選出を終えました。
是非、ブログ、あるいはFacebookをご覧下さい。
Facebookでは、2015年7月末日まで人気投票も受け付けています。

私達選考委員の作業はこの準決勝作品の選出までと決めています。
これから決勝の5点、最優秀作1点が決まりますが、
これらの選出はボランティアの審査員の方々にお願いしています。

ありがたいことに、素晴らしい方々にご協力いただいています。

今回、生徒作品を多数見ていて、
今までにあまり感じたことのない思いをしました。
不愉快な思いと言っていいでしょう。
生徒作品ですから、力不足は仕方ない。
それは分かっているのです。
それでもなお、なんだか納まらない不満。

もちろん、私自身まだまだ修行中の身。
傲慢な発言は慎みたいと思いますが、どうも我慢出来ない。

いくつかの作品に生徒の精神の形が見えるわけです。
いけ花を制作していって、途中で投げてしまっている感じ。
山頂に到達するちょっと前、8合目あたりで気を抜いてしまったり、
あるいは、もっとひどいのは、ごまかしの近道を選んだり。
「こんなもんで充分でしょう?」
「まあ、ここらでいいや」
「こんなところで点が取れるかな?」
そんな態度が見えてしまう。

こんな不真面目な態度でいけ花をやるな、と言いたい。
現実的には、言ってはいけないんですが(笑)。

たとえば、ある種の茶花のように、
小さな単純な作品であっても、
そこに作者の精神の緊張感がびりびり漲っているような
作品に仕上げることができるわけです。

最後の最後まで花に食いついていく、
集中力を緩めない、
いけ花の修行とはそういう経験を重ねていくことだと思います。

いけ花が精神修養であるとは、そういう意味でしょう。
そこがきちんと体得出来ている人であれば、
常に力のある作品が作れるわけでしょうし、
人間的にも魅力的になれるのではないでしょうか。

子供に作法を教えたいからいけ花を習わせよう、
などというのは表層的な見方です。
実は、教育上もっと重要なことを学ぶことになるのです。
いけ花に必要になるのは集中力、忍耐力、ごまかさない誠実さ。
人間力の基礎と言っていいでしょう。
こういう力を蓄えたなら
他の領域(勉強、スポーツなど)でも
きっと存分に力を発揮出来るはずです。
例えば、精神の軟弱な不良などには絶対いけ花はできないのです。

今回は自分のことは棚に上げ、
愚痴っぽくなってしいました。


















2015年7月2日

一日一華:花菱レストランにて


ただ今、寝ても覚めても考えているのは
バララット美術館からの制作依頼。

アーチボールド賞という
オーストラリアでトップクラスの肖像画展の開催に
合わせて、大作を制作してくれということなのですが、
大変な挑戦になります。

制作は2015年10月、
約4週間をかけていいということです。

何が大変かと言えば、
・・・それはまたおいおいお話ししましょう。





2015年6月28日

一日一華:庭の草花で


冬ですので、それほどたくさん花はありませんが、
庭からとった花材で小品を作ってみました。

まもなく生徒向けのいけ花コンクールの応募締切り。
それから私達選考委員の作品選抜作業がなかなか大変です。

http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au
https://www.facebook.com/IkebanaGallery

もう少し応募が増えると
もっと面白いのに、と思います。

いけ花にコンクールを持ち込むということに疑問もあるでしょう。
国際的な生徒作品のコンクールとなると、
応募しようという生徒もあまり多くないかもしれない。
特に日本人にはそういう傾向があるかもしれない。

Facebookなどを見ていましても、
ご自分の作品は頻繁に公開している先生でも
ご自分の生徒の作品はほとんど紹介されないようです。
もっと生徒の作品が公開されてもいいのでは、と思います。

実は、生徒作品を公開すると、生徒はとても喜びます。
オーストラリア人、日本人ともに。
家族や友人に見せることができる、ということで。
そのなかから新しく生徒として
教室にやってくるということもあるわけです。

いろいろな事情はあるわけですが、
もう少し継続してみましょう。

2015年6月25日

一日一華:花菱レストランにて、そしてピロル菌について


花菱レストランでの仕事は
用意していただいた花材で生けます。
何が出てくるか分からない、
時間制限がある、という難しさ。
しかし、材料調達の時間が節約できるのは有り難いです。

私が忙しい時は、私の上級の生徒にお願いします。
皆、難しかった、でも面白かった、と言ってくれます。

ところで、最近、日本で人間ドックを受けました。
この日本のシステムは素晴らしい。
ビジネス化していて、サイト上で、比較、予約も簡単。

結果をオーストラリア人の医師に見てもらいました。
彼のコメントが面白かったので、紹介します。

バリウム検査について。
「こんなものは2度と受けないでくれ!」とのこと。
不正確だし、放射能を浴びるので健康に良くない。
30年前の検査だ、先進国じゃ廃止しているよとのこと。
別のもっと効果的な検査がある、というのです。

私の勘ですが、バリウム検査の施設はかなり高額でしょう。
それで古いと分かっていても、投資した医療機関は簡単に廃止出来ないのではないでしょうか?

粘膜不整、内視鏡の精密検査を受けるようにと出たので少々心配。
日本人は胃がんが多いので。
オーストラリア人医師のアドバイスは、「まずピロル菌検査をしよう」。

調べるとピロル菌は胃がんの原因になるとのこと。
子供の頃に体内に住み着き、中高年になるまではおとなしい。
しかし、それからは悪さをしだす。

1980年代、オーストラリアの研究者がつきとめ、治療法もできている。
中年以上の日本人はかなりの割合でピロル菌を持っているらしい。

風船を膨らませ、その呼気を調べるだけ。簡単な検査です。
結果は陽性。ピロル菌がいました。
さっそく治療に取りかかりました。といっても薬剤を飲むだけ。
5000円ほどしかかからない。

なんだか5000円で命拾いした気分です。
しかし、疑問は残ります。

なぜ、人間ドックにピロル菌検査を含めていないのか?
私のは基本的なコースでしたが。

人間ドックを受ける際には、
是非、ピロル菌検査を追加しましょう。

健康管理について私達はもう少し勉強しないといけないでしょうね。
医師に任せきりというのは問題かもしれない。


2015年6月18日

一日一華:ハラン再び



ハランで再び。
この作品の花材も生徒が置いていったもの。
余ったから、使えなかったから、
作品作って見せて、ということなのです。
宿題をもらったので、ちょっと遊んでみました。

私の生徒の作品を載せているサイトを
見ていただくとお分かりかと思いますが、
日本人の生徒が増えてきました。


どうして長い間、私に日本人の生徒がいなかったかというと、
たぶん、私が若かったからだと思うのです。
若い男が華道教師などといってもなんだか頼りない。
日本人はやはりある程度お年を召されたご婦人の先生を
選んで安心なのではないでしょうか。

ということは、つまり
私も年をとってきたということか。
それも悪くないでしょう。

日本人の生徒はやはり楽です。
教え易い。
外国人との違いはまたいつか
ちょくちょく書いていきましょう。






2015年6月15日

一日一華:ハラン


この花材、どう使っていいか分からないから置いていきます、
何か作ってみせて、
なんていうことで、生徒から宿題をもらうことがあります。
日本ではそんなことはあまりないのでしょうが。
海外ですから、なんでもあります。
でも、それも挑戦。
そこで、ハランとバーゲンディーの百合の取り合わせです。

日本でありえない、というか
華道家にとって、多分あまりないのは、
芸術作品制作の依頼でしょう。
華道家が何をやる人間か、おおよそ世間は分かっています。

しかし、ここはメルボルン。

華道家が何ができて、何ができないか、
あまりご存知でない方も多いわけです。

しかも私は彫刻を少し勉強しています。
そうするといろいろ面白い依頼があります。
今日は、三メートルの人の顔を作ってくれという依頼。
ある美術館がポートレート・コンクール展を予定。
豪州国内で最高峰の芸術賞のひとつです。
その広告に6週間かけて公開制作をというリクエスト。

とんでもない挑戦になりそうです。
楽しもうと思います。


2015年6月10日

一日一華:白樺の枝


我が家の白樺の枝で遊んでみました。

おそらくうまく書けそうもないことを書いてみましょうか。

メルボルンに移り住んで20年以上経ちました。
間もなく30年になるでしょう。

メルボルンでいけ花を習った先生は2人。
現在、草月流ビクトリア支部長のエリザベス・アンジェル、
そして、カーリン・パターソン。
両先生にお世話になりました。
特にカーリンの教室へは長く通いました。

先日、カーリンに用があって電話しました。
「ちょっと待ってくれ」と男性。
少し様子がおかしいのです。
「番号違いでしょうか」と私。
電話の相手が代わって、カーリンの娘さん。
「誰からも聞いてないのね」
「え?」
「母は去年9月に亡くなったのよ」
言葉が見つかりません。罪悪感。
急な病気だったとのこと。
「大変、失礼しました」半年以上も知らずにいたなんて。
「あなたのことは母からよく聞いていました」
私はカーリンがいかに優れた教師であったか、
今、メルボルンで活動している草月流の教師の
ほとんどがカーリンの生徒であること、
カーリンが教えてくれたことをまた
私達が次の世代に伝えていくだろうというようなことを伝えました。

電話を切った後、
昨年、カーリンから思いがけず電話があったことを思い出しました。
亡くなる直前だったのかもしれません。
しかし、いつもとなんら変わりない会話でした。
自分のことはほとんど話すことはなく、
私のことをあれこれ尋ねてくれました。
草月流ビクトリア支部についてあなたの考えを教えて、
というようなことを繰り返し言われました。
「何も気にすることはないですよ」「何も言うことはないですよ」
私も繰り返しました。
私は集団から距離をおいているだけ。悪感情はないのです。
しかし、集団はそんな個人にある種の感情を持つのかもしれない。
余計なことでご心配をおかけしていたようです。

カーリンについてはいつかきちんと書いておこうと思います。
いけ花の作家としての力だけでなく、
指導力という点で比類ない方でした。
実際、指導力のあるいけ花の先生には
なかなか巡り会えないのではないでしょうか。
私は幸運だったと思います。

2015年6月6日

2015年6月4日

21世紀的いけ花考(36)


 生花という言葉を巡ってあれこれ考えてきました。ここまでの話を簡単にまとめておきましょう。ここで言う生花とは、室町時代、主流の立花に対抗して出てきたひとつのスタイルの花飾りのこと。生花、立花、自由花など様々なスタイルをまとめていけばなと言う時には「いけ花」と表記して区別することにします。

 生花とは花に新しい生命を与えて蘇らせるという意味だろうということでした。つまり、生花に使う切花は生命を失った存在。それが生けるという行為を通過して再び生命を獲得するということ。生けるとはまるで宗教的な再生の儀式のようです。そのように考えてみるとまた新しい仮説が出てきます。

 前回は東洋哲学の見地からこの再生を無本質的な花としての再生だと説明したわけです。しかし、文化人類学的の基礎概念を当てはめてみることもできそうです。死→儀礼→再生。つまり通過儀礼ですね。結婚式、葬儀などと同じこと。これらの儀礼には共通する要素がたくさんあります。例えば結婚式で着る白無垢。これは死装束と同じ意味。人が生まれれば名前を与え、七五三でお参りする。それは故人に戒名を与え、年忌法要するのと対応しています。

 そうすると材料の切花といけ花になった花とは、全く違ったものだということが分かってきます。花を生けるということは葬儀を執り行うようなものなのです。そう言うと「暗ーい」なんてことになりそうですね。婚礼を執り行うようなものだと言ってもいいのですが、最近の婚礼はロマンチックなイメージが強く、旧来の自己が死に、新しく生誕するための儀礼という本来の意味がぼんやりしていますので、どうでしょうか。

 ともかく、いけ花のおおよその意味が分かっていただければ結構。次に、いけ花は芸術だろうか、ということを考えていきましょう。

 さて、今月紹介するのはメルボルンフラワーショーに出展したハート。単純な作品と見えるでしょう。私自身、企画段階で今年は楽だぞと思っていたのです。しかし、制作は大変。3日間でぎりぎり。今年は私の生徒も多数出展してくれました。作品集をYou Tubeで公開しています。私のサイトからご覧下さい。


 また、RMIT大学公開講座「いけ花から現代芸術へ」は7月から再開予定です。さらに、最近、Ikebana in English: Bibliographical Essay(International Journal of Ikebana Studies, Vol.2 )ほか3本のいけ花関連論文が出版されました。詳細は私のサイトでどうぞ。 

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