Hanadayori 2023 が、フォトブックとしても出版されました。基本的に英語版ですが、全てのリクエストに日本語要約をつけています。
Hanadayori 2023 が、フォトブックとしても出版されました。基本的に英語版ですが、全てのリクエストに日本語要約をつけています。
生け花を外国人に教えながら、どうしたらもっと上手になってもらえるのかな、とよく考え、悩んでいます。このブログでも何度も書いてきた通りです。
おそらく海外で指導されている方なら、多くの方が日本人に教える時とは違う難しさがある、と感じておられるのではないでしょうか。そのため指導方法にも様々な工夫を凝らすことになります。
一つの仮説として「無理なのではないか」と考えてはどうかとも思います。最近、ふと思い至ったことです。
もちろん、外国人全員が無理という意味ではありません。少数の方ですが(とはいえ、日本人と比べ、遥かに多くの方々)、いくら続けても生け花の本質、つまり、花の生命感や作品の中の秩序性(調和)といったものが体現できない方があるのではないか、と思うのです。
そのことを無視して、「努力すれば必ず生け花の詩性が表現できるようになるから頑張れ」と努力を強いるというのは、不毛ではないかと思います。それはまるで、ディスレキシア(失読症)の子供に、努力すれば読めるはずだと、努力を強要するようなものではないでしょうか。
そのように考えると、生徒に対する態度も変えていくことになるでしょう。うまく作れないのは努力不足ということではないのではないか。楽しんで続けてもらえればいいのではないか、と余裕のある態度で指導に臨めます。
それはそれでいいと思います。展覧会などでも、あの方はいつも突拍子もないもの作っているねと、評されるような方もご愛敬でいいのでしょう。海外のいけばな 展ではよくそうした光景に出くわします。
ただ、ひとつ気がかりなのは、生け花の本質を体得できない方が、「生け花マスター」「教授」などと称し、生徒(時に日本人を含む)を抱え、活躍されるという状況です。そのような方の作品に対し、「それは生け花とはいえませんよ」などと言えるわけもありません。
ただ見落としてはいけない点は、そのような方々の安易で奇妙な作品が生け花として受け入れられる、ということは、そのような市場が存在するということです。お金を払う方があるということです。それはそれで大した事です。もちろん、生け花が何かをきちんと伝えていく努力をすることで、偽物(失礼!)が淘汰され、本物が生き残るという状況になれば理想的でしょう。
しかし、私がさらに考えたい点は、外国人の作る異化したイケバナを安易に批判していいのか、ということです。目くじら立てる必要があるのか?確かにそれは生け花とは言い難いものかもしれません。しかし、もう少し寛容になり、生け花とは別個の存在として市民権を与えては?という考え方もできるのではないでしょうか。
ここで私が連想するのは、マインドフルネス瞑想です。仏教の禅から発展した瞑想方法で、心理的な問題改善から仕事の効率化など様々な効果を生んでいます。心理療法の世界では市民権を得ていると言ってもいいでしょう。
そのマインドフルネスに対し、禅擁護派が「それは内省的でない。いいとこ取りで、本質を外れている。修行にならない」などと批判するならば、それはおかしいでしょう。もちろん、禅療法だと言って、人を集めるという状況であれば、苦情も出てくるでしょうが。禅を西洋化したもので、禅とは独立したものです、目指しているのは別なんです、という前提で、活動される以上、批判のしようもないはずです。
ということは、海外で変容したイケバナにも、「植物造形」など別の名前を与え、独立してやっていただくというのが一つの解決策になるでしょう。異文化交流の結果、発生した文化変容として認めてしまおう、ということです。もしかすると、そこから新しい現代芸術が誕生することになるかもしれません。先の例えを思い出すと、マインドフルネスの成功は、禅と決別したからこそ達成できたのだという見方もできるでしょう。同じようなことがイケバナにおいても生じるかもしれません。
しかし、現状はそうはなっていません。おそらく生け花と称し、イケバナを提供していくことにメリットがあり、権威や力を得られるからでしょうか。もしかすると、禅に対しては、敬意と遠慮から、自らの異質性を認めようということでしょうが、生け花に対してはそのような遠慮は不要だろうということかもしれません。生け花の定義自体、曖昧ですし(これはまた別の問題になります)。
日本では生け花人口が極端に減少しているということです。海外では生け花とは言い難いイケバナが増産されていく。この結果、生け花は終焉を迎えるのか。
しかし、実際にはそのようなことはないでしょう。生け花は脱線しながらも、発展し、続いていきます。興味深い活動をされている華道家に出会うたびに、そう確信します。
私たちのメルボルン生け花フェスティバルにも生け花再生への願いをこめています。
We are delighted to announce the launch of Hanadayori 2023 Part 2. You can explore the captivating creations at [https://www.ikebanafestival.com/hanadayori-2023/hanadayori-2023-part-1-2-launched].
We extend our sincere gratitude for your valuable contribution, showcasing ikebana's profound beauty and power to a wider audience. Your patience during the postponements is truly appreciated.
As we unveil Hanadayori 2023 Part 1 & 2, we are deeply moved by ikebana artists' genuine and respectful expressions towards viewers and those who made special requests. Our aspiration for Hanadayori was to foster a meaningful, even spiritual connection between artists and viewers, and we are thrilled to see this vision come to life in Hanadayori 2023. The project underscores that ikebana's essence lies in developing the skill to quietly speak to the soul of others through meditation on nature.
Looking ahead, we are actively working on the launch of the Hanadayori 2023 photobook. A sneak peek of the front cover is attached. We anticipate commencing the photobook sale by the end of 2023. While we aim to include all the remarkable works received, the final selection may be influenced by the quality of the photos.
Proceeds from the photobook sales will be allocated towards production costs, and any surplus (though unlikely) will contribute to the ongoing expenses of the Wa Melbourne Ikebana Festival.
Once again, we sincerely thank you for your cooperation in making this project an integral part of the Wa Melbourne Ikebana Festival. We look forward to your participation in Hanadayori 2025 and our exhibition at the festival in September 2024.
Special appreciation goes to our dedicated volunteer team and the generous support from our major sponsor, Metascent. They have crafted the Hanadayori collection, a new set of perfumes, appreciating the spirit and significance of our Hanadayori project.
Thank you for being a crucial part of the Hanadayori journey.
Warm regards,
花信にご協力いただいた方々へ
おかげさまで以下のようにHanadayori 2023 Part 2を公開することができましたのでお知らせいたします。
https://www.ikebanafestival.com/hanadayori-2023/hanadayori-2023-part-1-2-launched
世界の方々にいけばなの力を示すこの活動にご貢献いただき、誠にありがとうございました。なお、さまざまな理由により、公開が予定より遅れましたことをお詫びします。
Hanadayori 2023 Part 1&2を拝見し、いけばなアーティストの皆さまが鑑賞者、特にリクエストをされた方々に対し、真摯で敬意に満ちた態度で対応されていることに感銘を受けました。Hanadayoriプロジェクトがアーティストと鑑賞者との間により深い、ひいては精神的なつながりをも生み出せることを願っていましたが、この願いが叶えられたことを嬉しく思います。Hanadayori 2023は、いけばなのひとつの目標が、自然を瞑想することを通じ、他者の魂に静かに語りかけるスキルを育てることであることを明確に示しています。
現在、Hanadayori 2023の写真集の発売に向けて取り組んでいます。添付のように井口氏の作品を用いた表紙を予定しています。写真集の売上げから得た収益は、写真集の制作コストに充てられます。もし売上げが制作コストを上回る場合(それは考えにくいですが)、余剰分は和·メルボルン生け花フェスティバルの運営費用に充てさせていただきますのでご了承願います。
和·メルボルン生け花フェスティバルの重要な一環であるこのプロジェクトへのご協力に再度感謝申し上げます。Hanadayori 2025へのご参加、さらに、2024年9月のフェスティバルでの華展へのご参加もぜひご検討ください。
なお、当方のボランティアチームの尽力と、当プロジェクトの精神と意義を評価してくださった主要スポンサー、Metascentへもお礼申し上げます。当プロジェクトに因んだ新しい香水セット、Hanadayoriコレクションを発売し、助成していただいています。
このブログでは外国人に生け花を教えるのは難しいという話を何度もしてきました。しかし、そうした問題に拘って考えるという方はあまり多くはないのかもしれません。考えだすと大きな問題になってしまうので、面倒なのかもしれません。
生け花が、その最も重要な部分が理解されずに海外に広まるということ。まるでフラワーアレンジの一種として受け入れられ、教えられているということ。
「金になればいいんだよ。黙っていろ」というような方もあるでしょうが、日本文化が誤解され、その本質が理解されないまま広まっているということに、何か納得できないものを感じる、という方はないものでしょうか。海外における生け花の現状に不誠実なものを感じるという方はないものでしょうか。
最近、ある生け花展に出かけました。出展者はほとんど外国人です。ひとにぎりの優れた作品があるのに、大部分の作品には何かが欠けているのです。何だろう?
それは、生命感。生け花の生命です。
どうしてこのような作品になるのだろう?
ああ、もしかすると、自由花を学ぶ方法に問題があるのかもしれない、と思い至りました。自由花のお手本があり、そのお手本のデザインを真似しているのだろうけれど、お手本の本質は見落としているのではないか。
その本質とは、生け花の生命、あるいは詩性。
すると、自由花の教え方では、基本型を教える場合のように外に現われたデザインやスタイル中心で教えてはいけないのではないか。大部分の生け花コースは、自由花の指導においても安易な形態重視の指導を繰り返していますが、それでは生け花の本質は教えられないのではないか。西洋アレンジメントならそれでいいのかもしれませんが。形態に注目させるのではなく、もっと生け花の内的な機構に注目させるような教え方でないといけないのではないか。
そんなことを考えて、生け花道場の指導方法ももっと吟味していこうと思ったのでした。以下のような広告文を英語で書いて、Googleで日本語に翻訳してみました。
Application opens in November 2023. Book from our Schedule page.
Visit our Curriculum page to find out why our one-year Ikebana Dojo program would help all ikebana students and teachers.
We believe that there is a gap between basic styles and freestyles in many ikebana courses. After learning basic styles, students are encouraged to make freestyles such as "vertical arrangement" or "horizontal arrangement". However, where is the connection between the basic and freestyles? The approach used in such courses can be called a style-based approach to freestyle ikebana. Such courses make many students confused, and will never teach the most important aspect of ikebana; meditation.
Unfortunately, many ikebana practitioners, in particular outside Japan, are learning freestyle ikebana using the style-based approach, copying good "designs"(or something visible), and producing ikebana-like works that lack vital energy. The style-based approach is useful in learning basic styles because you can usually follow diagrams to make a good ikebana.
To make a good freestyle ikebana, however, you need to develop a different competence to see and actualise invisible principles through meditation. Those ikebana principles are not easily visible but recognizable if gazed at by a selfless mind. We call such an approach the principle-based approach, which we use in Ikebana Dojo. We are trying to teach ikebana as art not as design.
Our courses intend to teach the true essence of ikebana.
上記の英語をGoogleの翻訳機能で日本語に訳してみました。下記の通り驚くほど性能が向上していますね。
申し込みは 2023 年 11 月に開始されます。スケジュール ページからご予約ください。
私たちの 1 年間のいけばな道場プログラムがすべてのいけばな生徒と教師に役立つ理由を知るには、カリキュラム ページをご覧ください。
多くのいけばなコースでは、基本スタイルとフリースタイルの間にギャップがあると私たちは考えています。基本的なスタイルを学んだ後は、「縦配置」「横配置」など自由なスタイルを作っていきます。しかし、ベーシックとフリースタイルの関係はどこにあるのでしょうか?このような講座で行われるアプローチは、フリースタイルいけばなに対するスタイルベースのアプローチと言えます。このようなコースは多くの生徒を混乱させ、生け花の最も重要な側面を決して教えません。瞑想。
残念なことに、多くの生け花実践者は、特に日本国外で、スタイルベースのアプローチを使用してフリースタイル生け花を学び、優れた「デザイン」(または目に見えるもの)をコピーし、生命エネルギーに欠ける生け花のような作品を制作しています。スタイルベースのアプローチは、通常は図に従うことで優れた生け花を作成できるため、基本的なスタイルを学ぶのに役立ちます。
しかし、優れたフリースタイル生け花を作るには、瞑想を通じて目に見えない原理を理解し、実現するための別の能力を開発する必要があります。これらの生け花の原則は、簡単に目に見えるものではありませんが、無私な心で見つめれば認識できます。このようなアプローチを私たちは原則ベースのアプローチと呼び、いけばな道場ではそれを採用しています。
私たちのコースは生け花の真髄を教えることを目的としています。
諸事情あって学術論文を読む機会がよくあります。
学問の世界は広大ですが、私の専門とする領域は非常に狭いものです。教育心理学(博士号)、日本学(修士)、美術(修士)といった文系の中の小さな分野です。その狭い分野の経験しかない者の管見に過ぎないのですが、日本語の文系の論文にはつまらないものが多すぎるのではないでしょうか。
大学生の論文や博士論文だけでなく、先生方の論文でも、私に言わせれば、論文になっていないのではないか、というものに出くわすことがあります。仮にその論文を英訳しても、出版してくれる学術誌は見つからないかもしれません。もちろん、通常、そんなことを口に出すことはありません。ここだけの話です。
もしかすると私が受けた学問の訓練(修士以上)がオーストラリアの大学においてですので、日本の学術の特殊な事情に不明であるというようなことがあるのかもしれませんが。立派なタイトルの立派な本でありながら、実につまらない、というものもあります。
最近、つまらない論文の共通項が分かってきました。
一言で言えば、抽象的思考がゆるい。
事実の羅列で終わっているようなもの。最悪です。考察がないのでつまらない。
事実の集積、あるいは調査の結果を分析し、グループ分けし、比較し、パターンを見つけ、理論をすくい上げると言った分析や抽象的思考の面白さがない。それをリサーチ・メソドロジー(研究方法)と言いますが、メソドロジーの習得は論文を書く前提です。
あるいは、ある事実(または調査の結果)を分析する段階に、分析ツール(理論)を持ち合わせていないために、思考が支離滅裂になっていたりします。文芸評論めいた著作によくあるケースです。
最近、必要があって香りについてのエッセーを読みました。デザインという言葉の定義を検討しつつ、特定の事象を説明しようとしているものです。私にとっては役に立つ内容でしたが、もう一つ上位の抽象概念(例えばアサンブラージュなど)を持ち出して、デザインを定義し直し、まとめるというところまでいかないと、説得力のある面白い論文にはなりません。
Googleで調べると、「論文の書き方」ということで、たくさんのアドバイスが見つかります。よく見かけるのは論文の構成から説明していくもの。
序論
文献レビュー
方法
調査
結果
分析
考察
結論
などが一般的な構成パターンでしょうか。
ここで最重要なのは「文献レビュー」です。
というサイトによると、文献レビューとは、以下のように説明されています。
「関連する過去の文献や論文、理論を、その分野の学術的流れや歴史なども含めて要約し、批判的に検討する。用語の定義などもここで。」
「その分野の学術的流れや歴史」というところが大切です。ここを踏まえていなければ、論文は存在する意味がありません。修士論文や博士論文でも、ここがないに等しいというものがありますが、その重要性を十分指導していないなら指導教官の責任は重大です。実は、「なぜ学術的な流れや歴史が重要なのか」という質問をしてくる方を、納得させるのはかなり難しい仕事になるでしょう。それがないと、一部の人々だけで共有される独りよがりなレポートになってしまうからです、と言っても分からない方には分かってもらえないでしょう。
ここで他の人の論文を持ち出して批判や評価をしたりするのはかばかられますので、昨年出版された私の小論文を参考に説明を続けます。今までのところ私の出版物はほとんどが英文なので、私にとっては数少ない日本語で書いた論文のひとつです。
2022. 新保逍滄、第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相「はじめて学ぶ芸術の教科書、伝統文化研究編」井上治、森田都紀(編)、京都芸術大学芸術学舎
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戦前、生け花の世界では、西洋藝術の影響で自由花運動が起こります。生け花の歴史上、とても大きな変革です。これをテーマに論文を書こうという場合、自由花運動をいくら詳しく調べ、記録していってもそれはただのデータの集積でしかありません。
そんなものはいくら内容が詳細であっても、中学校の自由研究レベルであって、大学レベルの論文ではありません。もちろんそれも無意味ではありません。歴史的事実の集積にも用途はあります。ただ、大学のいかなる学位もいただけないでしょう。分析も考察もないからです。リサーチ・メソドロジーのない文章は論文ではありません。
時に、例えば「歴史上重要なものであることが分かった」などと「分析、考察」を唐突に付け加えたりしている場合もあるようですが、そんなものは考察とは言いません。
自分の収集したデータや調査結果を俯瞰して、距離を置いて眺め、一体ここでは何が起こっているのか、と客観的に捉える視点、抽象的に考えていく力。重要なのはそこです。観察された事象をまとめたり、比較したりして、関係性やパターンを見出すという抽象的な思考力を養っていない方には、学術論文の作成はかなり困難でしょう。もしかすると、事実を集積して、暗記して、という知は日本の受験勉強型の知の使い方かもしれません。受験型秀才の得意とするところでしょう。しかし、私がここで説明しようとしている学術論文作成に要する知とはもっと創造的な知なのではないかと思います。
さて、私の論文に戻りましょう。自由花運動はどのような角度から検討していけばいいのでしょう?
これは生け花の変革です。生け花すなわち文化のひとつです。
ということは文化変容という切り口から分析できないだろうかと検討してみます。それでうまくいかなければ、また別の切り口を探すまでです。この段階で、私の思考は、自由花運動を離れています。歴史的な事象を離れ、抽象的な理論に注意が向いています。
文化変容にはどんな理論があるのだろう?
どんな研究があるのだろう?
類似の問題を扱った研究はないだろうか?
と、みていくといくらでも出てきます。文化人類学、社会学、カルチャル・スタディーズなどなど。この段階、つまり文献レビューの前段階ですが、ここに時間をかけることが重要です。もちろん、予め自分の分野が特定されているならその中で文化変容についての論文を次々読んでいきます。
文化変容理論の中では、特にフランスの社会学者ピエール・ブルデューの理論の影響力が大きいということがわかりましたので、彼の主著を読んでいきます。これにはかなり苦労しました。
ブルデューの芸術変容の理論を理解すればするほど、自由花運動についての記述に、疑問点が生じてきます。理論を手にすることで、研究の対象がより明確に見えてくるのです。
最大の疑問は、戦前の自由花運動が戦後の前衛生け花に発展していったという主流の言説は正しいのだろうか、というもの。両者には共通点もあるのですが、相違点も非常に多い。
相違点に注目するなら、自由花運動は「前衛芸術」的であるのに、戦後の前衛生け花は前衛というより「商業芸術」に近いのではないか、と思えてきました。歴史的事象の描写ではなく、その解釈に注力しています。
特に、ブルデューの芸術変容の理論がここでも当てはまるのか?と考えていきます。ブルデューの理論に反する点はないか、もしあるとすれば、ブルデューの芸術変容の理論に欠点や改変を要する点があるのかもしれません。理論を磨き上げていく感じです。そして、なんとか抽象的なレベルで新しい解釈の可能性を提示することができました。
ここまで到達して、私の論文はほぼ完了です。論文の骨格ができ、重要な要点は掴めたので、あとは書き上げるだけです。
小さな発見でいいのです。通説に疑問を投げかけることまでできれば十分でしょう。良ければぜひご一読を。
関連のポスト
Senno Kuden (16th century) historically presents the most influential definition of ikebana, which includes both ontological and epistemological concerns in representation. Although the former contributed to the development of the common definition of ikebana as a symbolic representation of nature or the universe, the latter has been largely ignored. This study points out that the latter has not only significant meanings in understanding Senno’s teaching on ikebana, but also a strong connection with the traditional Japanese aesthetics that values contemplative awareness of the transiency of beings.
Author InformationThis paper is part of the KAMC2022 Conference Proceedings (View)
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2. Academia
To cite this article:『専応口伝』序文にディスコース分析を応用し、従来あまり注目されてこなかった序文中の主要語「よろしき面かげ」の重要性について考察してみたい。「よろしき面かげ」はもうひとつの主要語「をのずからなる姿」とともに形而上学的な文脈で理解されるべきである。「をのずからなる姿」がいけ花を大自然の象徴的表現と定義したのに対し、「よろしき面かげ」はいけ花の始原についての定義と解釈できる。専応の教えは存在の無常性を瞑想を通じて認識することで、草や花の純粋な本質を捉え、それをもとにして挿してゆくものだということになる。さらにこの点において専応のいけ花の思想は日本の美意識の典型的な内的機構とも強い関連性があることが明らかになるのである。
生け花を嗜むということは、特定の流派に属するという以前に、日本文化に関わるということです。日本文化を学ぶ場合、それは同時に上品さを身につけていくことでもあるでしょう。これはあまりに自明で、基本でもあるため、わざわざ言うまでもないこと、ではないでしょうか。
生け花をやっている下品な方というのは通常あり得ないわけです。私などでも公の前で生け花のデモをやるとなれば、言葉遣いはもちろん、服装にも気をつけます。不潔ないでたちで花をいける花道家など見たことがないでしょう。セクシーな衣装で花をいける、などというのはありそうですが、これも実際には見たことはないですね。たとえあったとしても、「まあ、冗談だろう」ということになります。
それは、日本人にとってはあまりに自明すぎて、わざわざ口にする必要もないというレベルの常識です。おそらく日本の伝統文化の根本では、精神的に高貴で洗練された方(あるいは天皇陛下かもしれませんが)とのつながりを想定してきたということと関係があるのかもしれません。
では、この上品さへの志向を外国人に理解してもらっているでしょうか?
上品さをどう英訳したらいいのかな、と考えていたとき、偶然見つけた言葉があります。
Be Kind and Courteous.
親切かつ礼儀正しくあれ。ぴったりですね。
華道流派によっては外国人の生徒に対しても行動規範や精神的な指標を示す場合もあるでしょう。さらに最近は、パワハラ、モラハラ、いじめなどが生じないよう規範を作る場合も増えていると思います。そんなものに黙って耐えるなどという時代ではありません。問題になれば、その流派の組織のあり方が問題になるはずです。
Be Kind and Courteous.
「上品であれ」ということは、生け花に関わろうという日本人にとっては暗黙の了解事項でしょうが、外国では「生け花をやる以上、上品であろうとすることは必須の前提条件だよ。上品さを備えていない人がいい生け花を作れるはずがないんだよ」と、言語化してきちんと伝えていくことが必要ではないかと思います。
教育や年齢や経済状態などにかかわらずどなたにも生け花を嗜んでいただきたいものですが、他人の悪口ばかりで、上品さなどに関心がないという方はできれば関わってほしくないものです。学歴や職歴といった社会的な評価が得られなかった人たちが、自分の評価(Self-esteem)を補償するために、生け花の教師資格を利用する場合もあるかもしれませんが、上品さという当然の前提を欠いている人が集まれば、いじめや嫌がらせが横行するということになりかねません。
生け花作品は作者の人格の延長です。品のある作品に出会いたくて、上品な人柄に触れたくて、私たちは展覧会にも出かけるわけです。
海外における生け花グループの会員心得の最初に次の一言を明記すべきだと思います。
Be Kind and Courteous.
これがあるとないとで、グループのあり方が大きく変わってくるのではないでしょうか。
新保逍滄(2023)『専応口伝』における「面かげ」の形而上学、International Journal of Ikebana Studies,10, 21-28.
https://doi.org/10.57290/ikebana.10.0_21
『専応口伝』序文にディスコース分析を応用し、従来あまり注目されてこなかった序文中の主要語「よろしき面かげ」の重要性について考察してみたい。「よろしき面かげ」はもうひとつの主要語「をのずからなる姿」とともに形而上学的な文脈で理解されるべきである。「をのずからなる姿」がいけ花を大自然の象徴的表現と定義したのに対し、「よろしき面かげ」はいけ花の始原についての定義と解釈できる。専応の教えは存在の無常性を瞑想を通じて認識することで、草や花の純粋な本質を捉え、それをもとにして挿してゆくものだということになる。さらにこの点において専応のいけ花の思想は日本の美意識の典型的な内的機構とも強い関連性があることが明らかになるのである。
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