華道家 新保逍滄

2019年3月13日

生け花パフォーマンスとは何か?(3)


生け花パフォーマンスについての覚書の3回目です。
1、2回目は以下です。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/03/blog-post_11.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/03/blog-post_12.html

私にとって重要な生け花パフォーマンスの経験は、2013年ごろMelbourne Now の一環としてNGV(ビクトリア国立美術館)で行った、ユミ・ウミウマレさんとのコラボです。

私見では、あまりうまくいかなかったパフォーマンスでした。
それは私のせいです。しかし、勉強にはなりました。

ユミさんは、舞踏家で、3.11の津波被害後のパフォーマンスで、自分の子供が津波に飲み込まれるのをただ見つめるだけの母親、を演じ切ってしまうとんでもないアーティストです。観客は皆、切なさに息を飲んで見入ったものです。

NGVでのパフォーマンスでの反省点ですが、まず、自分のコンセプトが観客に伝わる形で表現できなかったこと。

私たちの共通のコンセプトは、再生というパッセージ(過程)でした。生け花は、切り花の段階で命を失っている花を、もう一度蘇らせるもの。花を生かす、生き返らせるから生け花なのだという、生け花の本質を表現したいという大それたものでした。

ユミさんは観客に話しかけたりしつつ、このコンセプトを伝えようとしてくれました。よくやっていましたが、私は基本的に演じるなどということは不可能なのです。

これは、第2の反省点、発見でもありますが、私にできるのは生けるという所作だけなのです。いけるという所作が、観客に面白いものでしょうか?面白くすることはできるでしょうか?

その数年後、ユミさんと再びコラボの機会がありました。ユミさんにお願いしたのは、自分は一心不乱に生ける、それしかできないから。あとはその周りで貴方で思い通りに踊り、ストーリーを作ってくれ、ということ。

無責任ですが、私が下手に動くと全く美しくないのです。プロの動きと素人の余剰な動きでは比べようもありません。プロの舞踏家に対抗しうるものが自分にあるとすれば、ひたすら生ける姿だけだろうということです。そして、変化し、出来上がっていく花。花という主人公に対する脇役としての生け手、これをセットにすれば、なんとか見ていただく価値があるのではないかと思っています。

この生け手の所作についての私の認識が、他の生け花パフォーマンスを区分する際の基本になっています。どういうことか?次回に続きます。

補足ですが、近年作った彫刻「鯨の胃袋」が、当地における現代彫刻家の登竜門的なABL賞を受賞しました。プラスチック公害にコメントしたものですが、ユミさんはこの作品と踊りたいなどと言ってくれています。いろいろな条件が出揃えば、次のコラボにつながるかもしれません。


お知らせ:生け花パフォーマンス予約受付中
Wa: Ikebana Performance with the Grigoryan Brothers
31 August 2019
Melbourne Recital Centre
Booking: http://bit.ly/IkebanaGrigoryan

Shoso Shimbo

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