華道家 新保逍滄

2018年6月27日

一日一華:締め切りが破れない


私は締め切りを破ったことがほとんどないように思います。

確かに、人生後半ともなれば、締め切りをうっかり忘れていたとか、体調不調でお手上げ、ということは何回かあったと思います。ただ、自分がきちんと意識した場合、不思議とやり遂げているのです。

原稿依頼の締め切り、
彫刻制作の締め切り、などなど。

実は、今日も無理だと思っていた6000語の英文論文を仕上げ、
学会誌の担当者に送付したところです。

時々、よく間に合ったなあと自分でも感心することがあります。
周りの人たちにもよく感心されています。
「だめだあ、時間ねえ」とぼやいても
「あなたは大丈夫」としか返事してもらえないのです。

タイムマネジメント能力かもしれません。
学生の頃もあまり無茶な長時間の勉強もせず、やるべきことはやってこれたように思います。

しかし、もっと関係があるように思うのは長距離走者だった経験。
中学、高校の頃ですが、どんなに苦しくても絶対完走すると自分に誓って、それを守り通しました。一度でも脱落すると、それが癖になってきっといつも脱落するような人間になってしまうんだ、と自分に言い聞かせていたものです。

それにしても、あの長距離走の苦しさ!
自分を追い込んで意識が朦朧とするまで走り続けた日々を思うと
この程度の苦しさ、なんでもない。
そう思うことが度々でした。

おそらく自分を少しは強くしてくれた経験だったようです。

2018年6月25日

一日一華:再び新書について


先に、「最近、新書は劣化したのではないか」などと書きました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/05/blog-post_21.html

ところが早速前言撤回。
神道について知りたくて、買った2冊が面白かったのです。
「神道とは何か」伊藤聡、中公新書
「神道・儒教・仏教」森和也、ちくま新書

もちろん、神道はとても奥深いもので、ほんの数冊読んで何かがわかってくるというものではないのです。

ただ、禅宗の思想があまりに神道に似ているという思いがずっとありました。
もしかすると神道というのは日本人の宗教心の根底にある感性的な部分に関わり、
それを言語化した時に仏教という形になるのではないか、などと考えたことがあります。

突拍子もない仮説、と思っていましたら、そうではなく、
専門の学者の中にも私と同じ洞察を持って、理論化している方があることを知りました。

もちろん、それが「真実」だというようなことはないのです。「真実」などという用語はあまり使わないほうがいいでしょう。
しかし、一つの仮説として有意義な考え方ではあるようです。

2018年6月21日

生け花とコンクール(2):グーグル翻訳を訂正


先に投稿した記事にグーグルで翻訳した「生け花とコンクール」についての文章を載せていました。あのままではやはり意味不明のところがあります。以下で最低限の訂正をしておきます。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/06/blog-post_38.html

「私たちはIkebana Gallery Award(IGA)を宣伝しようとしていますが、 "私たちの主人 マスター(あるいは)先生はIkebanaを裁かれる は審査されるべきではないと言った" "なぜ競争しなければならないのですか?"というステートメントを聞くことがあります。


結局のところ、誰もが自分の信念や哲学を持つことが許されています。彼らが私たちを嫌がらせたり、オンラインで非倫理的に行動したりしない限り、私たちはそれらを無視して、私たちだけを離れるように求めることができます 構わないでいただきたいとお願いするだけです。もし彼らが永続的なもしつこいのであれば、私たちができることは、私たちのウェブサイト上のミッションステートメントを読むように求めることだけです。

しかし、いけばなの審査や競争については、そのような狭い視点(視点の狭さ)についていくつかの注意すべき点があります。

1. 3つの主要な生け花学校流派(池坊、大原小原、草月)は、今日は本場の花火大会独自の生け花コンクールを運営しています。彼らは、生け花での競技の利点を認識しています。しかし、1000以上の学校流派がある生け花の分野では、彼らが「受賞者勝者」であることに注意する必要があります。他の学校流派の中には、勝者の態度が必ずしも正しいとは言えず、生け花での競技には否定的な態度をとることさえあるかもしれない。それらの大規模な学校流派を攻撃する代わりに、私たちは今のところ、小さくて簡単な目標ターゲットであるため、彼らの一部が私たちを攻撃するかもしれません。


2. 歴史的に、生け花の開発発展には常に競争が存在していた。しかし、生け花の競争という概念は、例えば現代のプロスポーツの競争概念と同じではありません。例えば勝利度が高く、時には重視される場合もあります。勝ち負けが過度に重視されるというものではありません。

原則として、生け花は内なる追求です。我々の主な焦点は、外部的に表現されたものではなく、それに匹敵するものではなく、内部的な成長です。したがって、比較できるものではないのです。西洋モダニズムが1920年代と1930年代の生け花に影響を与えた後でさえ、西洋美術のスタイルに従った競技は必ずしも十分に認識適切に受容はされていなかった。いくつかの大会は全く成功しなかった。生け花競技の歴史は魅力的な研究テーマですが、ここでは詳しく説明しません。

しかし、いけばな競技会が適切に管理運営され、適切注意を払って注目されているのを見て、私は個人的には、生け花の実務者に実践者(関係者)優しいフレンドリーな競争を楽しむには十分に成熟している(西洋化している)と感じています。私はIGAが肯定的なケーススタディを提示しとなり、研究者がすでに述べたように歴史的に重要であることを証明すると確信しています。誰もがIGAでは勝者です。

3.海外の生け花談話に関する言論は、日本のものとは時々異なる。私は「生け花はこれとそうでなければなりませんこうでなければいけない、ああでなければいけない」という言葉をあまりにも頻繁に聞いています。海外の生け花のマスター(およびそのフォロワー)は、日本のマスターよりも信頼できる権威主義的である可能性があります。彼らは生け花を神秘的にする傾向があります。彼らはしばしば怒り、他者を批判しがちです。さらに、彼らは競争を嫌う。私たちはそれらの "マスター"から離れておく必要があるかもしれません。

4. IGAのメリットと必要性については、次の記事をお読みください。 http://ikebanaaustralia.blogspot.com/p/faq.html

以上。

あともう一歩というところでしょうか。

先ごろ、ふと思いついて、日本語で書いたものをグーグルで翻訳してみました。
英文の文章が必要だったのですが、グーグルで訳したものにちょいと手を加えればいいかなと思ったのです。

ところが、それは全く違っていました。何の役にも立ちませんでした。
自分で初めから英語で書いていくしかありませんでした。

グーグルがすごいことになっているとは認めますが、
重要なところでつまずいているようで、
結論は、やはりあともう少しかな、と思います。

2018年6月19日

花道史の基礎知識:神道の方へ(2)


日本文化史上の生け花の位置付けについて分かりやすい講義を見つけました。
筑波大学名誉教授今井雅治先生の日本語学習者向けの講義ですが、外国の方に日本文化、生け花を紹介したいという方にもとても役立つことでしょう。

https://jfcairo.wordpress.com/2013/01/06/ikebana/

この講義の中で私が関心を持った点はたくさんあります。
私の話(「生け花・環境芸術・神道」)の出発点として都合がいいので、おいおい説明していきます。

まず、注目したいのは、生け花と西洋アレンジメントの大きな違いについての説明。
「最終的には悟りを目指していること」これが生け花、
「美しさの追求」これが西洋花、とされています。

生け花は修行であり、西洋花は芸術である、と言い換えてもいいかしれません。

私の21世紀的生け花考(「花を留める」ー伝言ネット版)シリーズなどを読んで下さった方はすぐに、「あれ?」と思われることでしょう。

私が何度か指摘していることですが、1930年代の新興いけばな宣言以降に人気を得た生け花流派(つまり現在日本で主流をなしている生け花)、草月流などは生け花は芸術だと宣言したわけです。
つまり、修行としての生け花という本質を捨てているのです。
生け花は西洋花と同じところを目指す「芸術」になったということ。

ここにはとても深い問題があります。私が先のエセー・シリーズで何度か触れた問題です。また、別の機会に続けます。

2018年6月17日

パニック・アタック攻略法


もう1年ほど前になりますが、自分にはパニック・アタックの症状があるのではないかと書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2017/11/blog-post_6.html

今年の四月に日本、ヨーロッパを5週間ほど旅行しました。
仕事とホリデーを兼ねたもので楽しみにしていましたが、最も心配したのは飛行機内でのパニック・アタック。長い旅ですから。
あの症状が出ると、気持ち悪さ、苦しさは耐えがたい。
呼吸困難に加え、機内で叫んで、外へ抜け出したいという狂ったような衝動に突き動かされます。
乗り物酔い X 閉所恐怖症、そんなところかと思いますが。

ところが、今回はその症状は全く出ませんでした。
機内で、来るかな、という予感は何回かありました。
その度、禅の呼吸。
そして、ラベンダーの香りを吸引。
家内の持っていたラベンダー入りのアイ・マスクを鼻にあて乗り切りました。
私の場合、匂いが引き金になる場合が多かったのです。
アロマセラピーの絶大な効果、ということになるかもしれません。

「私が横にいたから大丈夫だったんでしょう」と家内は言いますので、
そうかもしれないねえ、と言っておきます。

ともかく旅行にラベンダーは必携となりました。

2018年6月15日

生け花コンクール(1):ここまで来たか、グーグル翻訳


グーグルの翻訳がすごいということを最近、よく聞きます。
私は英語でもよく記事やら雑文やらを書きます。
しかし、それをグーグルを使って訳すということをしたことがありません。

ちょっと、実験してみたくなりました。
最近、生け花コンクールについて書いた英文の雑文は以下です。

これをグーグルで訳すと以下になります。

「私たちはIkebana Gallery Award(IGA)を宣伝しようとしていますが、 "私たちの主人はIkebanaを裁かれるべきではないと言った" "なぜ競争しなければならないのですか?"というステートメントを聞くことがあります。結局のところ、誰もが自分の信念や哲学を持つことが許されています。彼らが私たちを嫌がらせたり、オンラインで非倫理的に行動したりしない限り、私たちはそれらを無視して、私たちだけを離れるように求めることができます。もし彼らが永続的なものであれば、私たちができることは、私たちのウェブサイト上のミッションステートメントを読むように求めることです。

しかし、いけばなの審査や競争については、そのような狭い視点についていくつかの点があります。

1. 3つの主要な生け花学校(池坊、大原、草月)は、今日は本場の花火大会を運営しています。彼らは、生け花での競技の利点を認識しています。しかし、1000人以上の学校がある生け花の分野では、彼らが「受賞者」であることに注意する必要があります。他の学校の中には、勝者の態度が必ずしも正しいとは言えず、生け花での競技には否定的な態度をとることさえあるかもしれない。それらの大規模な学校を攻撃する代わりに、私たちは今のところ、小さくて簡単な目標であるため、彼らの一部が私たちを攻撃するかもしれません。


歴史的に、生け花の開発には常に競争が存在していた。しかし、生け花の競争という概念は、現代のプロスポーツの競争概念と同じではありません。例えば、勝利度が高く、時には重視される場合もあります。

原則として、生け花は内なる追求です。我々の主な焦点は、外部的に表現されたものではなく、それに匹敵するものではなく、内部的な成長です。したがって、西洋モダニズムが1920年代と1930年代の生け花に影響を与えた後でさえ、西洋美術のスタイルに従った競技は必ずしも十分に認識されていなかった。いくつかの大会は全く成功しなかった。生け花競技の歴史は魅力的な研究テーマですが、ここでは詳しく説明しません。

しかし、いけばな競技会が適切に管理され、適切な注意を払っているのを見て、私は個人的には、生け花の実務者が優しい競争を楽しむには十分に成熟していると感じています。私はIGAが肯定的なケーススタディを提示し、研究者がすでに述べたように歴史的に重要であることを証明すると確信しています。誰もがIGAの勝者です。

3.海外の生け花談話は、日本のものとは時々異なる。私は「生け花はこれとそうでなければなりません」という言葉をあまりにも頻繁に聞いています。海外の生け花のマスター(およびそのフォロワー)は、日本のマスターよりも信頼できる可能性があります。彼らは生け花を神秘的にする傾向があります。彼らはしばしば怒り、他者を批判しがちです。さらに、彼らは競争を嫌う。私たちはそれらの "マスター"から離れておく必要があるかもしれません。

4. IGAのメリットと必要性については、次の記事をお読みください。 http://ikebanaaustralia.blogspot.com/p/faq.html

以上です。

例えば、大学でのテストで、日本語を学ぶ学生がこの程度に訳したとしたら、多分、不合格ではないでしょう。きっとパス程度の成績は取れるはずです。
日本語教師をしている知人が何人かいますので、尋ねてみようと思います。

内容的にはかなり複雑なものですが、そこそこ意味が通ります。何箇所か重大な問題のある部分がありますが、私の言いたいこともおおよそ翻訳できています。このことの意味するものは何か?

神道の方へ(1)


自然破壊、環境汚染にはなかなか有効な手立てが出てこないまま、
地球は危機的な状況へと向かっています。

この現代の危機は、現代人の精神の危機と対応しているのではないか。

特に、主要な宗教が死生観、ことに死に対して有効な回答を提示しえていないということと関係があるように思えます。

私がそう考えるのには理由があります。
が、この話は長くなりそうなので、またの機会に続きます。

2018年6月8日

フェイク・マスターズ


海外の生け花の世界には独特のものがあります。
そのうちの一つは、私が勝手にフェイク・マスターズと呼んでいる方々の存在。
フェイクですから、偽物。
ちょっと失礼ですから明言、公言はしません。
(ブログに書いたら、公言ですかね。読者は少ないでしょうが)


マスターというからには、生け花で言えば家元とか、師範とか
いろいろな言い方がありますが、要するに大家、達人ですね。
その真似をしている人が多いのです。
その方々の言動には、なかなか面白いものがあります。

私はそのモデルはどこにあるのだろうとずっと考えていますが、思い当たりません。
多分、空手の映画とか、どこかそのあたりにあるのだろうなあと思います。
どこか悟り切った風格があり、黙っていても人々は尊敬してくるのが当然、と言うところがあります。

しかし、悲しいかな。フェイクなのです。
まず、実力が伴わない。
道を修めようというものの真剣さがない。
そして傲慢なのです。

日本では家元とか名人とされる人々に会ったことがあるという方も多いでしょう。
おそらくその謙虚さ、フレンドリーさ、ユーモアのセンスに驚くという印象を持たれる方が多いのではないでしょうか。
一言で言えば、「爽やか」です(達人の持つ爽やかさについては、また別に考えます)。
少なくとも、私が出会った、数名の方々に関してはそうでした。傲慢な方など一人もいません。

ところが、海外にはいるんですね。
ちょっと滑稽な大師範が。
おそらく、学歴とか社会的なステータスとかといった点であまり高い自己評価を得られなかった方が、生け花を少しかじって、突然、偉くなったような気分になるのではないでしょうか(どうしてそういうことになるかというと、それは日本文化が海外において特別な存在だから。ここは面白い点ですからいつかもっと詳しくお話ししましょう)。

そういう方々も生け花の流派にとっては有用でしょうから、特にあれこれ言うつもりはありません。役職を与え、きちんと仕事をこなしてくれればいいわけでしょう。

有害になるのは、彼らが他の人をコントロールしようとしだす時。
時に、生け花のテクニック以上にいじめのテクニックに秀でているなどということになると周囲は迷惑です。

おそらく、戦後、海外で生け花を指導する日本人も多かったはずです。その大部分は女性だったでしょう。英語力その他様々な制約があり、「おかしいな」と思うことがあっても、なかなかはっきりものを言う方は少なかったのではないでしょうか。日本人としての、花道家としてのたしなみもあるはずです。昨今、世界を見渡しても、無礼で遠慮のないのは私くらいでしょう。

最近、私が英文で短い注意書きを書いたところ、思いがけないほどの反響がありました。
http://www.shoso.com.au/2018/06/ikebana-competition.html
海外における怪しいマスターの特徴として、
生け花を神秘化する
いつも腹を立てていて、他人を中傷する
実力主義のコンクールを嫌う
などと言う点を、冗談半分で書いたのです。

こういった権威的な方々のために、苦労している方が多いのではないでしょうか。
モヤモヤがスッキリしたというようなコメントもありました。

だからと言って、こういう方々に対抗しようとか、成敗しようとか
そんな苦労をするつもりはありません。
今以上に敵を作る必要はないのです。

ただ、私にできることは、そういうマスターは真物じゃないかもしれないよ、と諭すだけ。それで十分ではないかと思います。

そして、当然のことですが、私自身、マスターなどと自称しないようにと心がけています。ところが、様々な機会に紹介される際、生け花マスターと言われるのです。宣伝ですから仕方ないのですが、その度に訂正しています。

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