2023年3月17日
2023年3月6日
『専応口伝』における「面かげ」の形而上学(英語版)
Abstract
Senno Kuden (16th century) historically presents the most influential definition of ikebana, which includes both ontological and epistemological concerns in representation. Although the former contributed to the development of the common definition of ikebana as a symbolic representation of nature or the universe, the latter has been largely ignored. This study points out that the latter has not only significant meanings in understanding Senno’s teaching on ikebana, but also a strong connection with the traditional Japanese aesthetics that values contemplative awareness of the transiency of beings.
Author InformationShoso Shimbo, International Society of Ikebana Research, Australia
Paper Information
Conference: KAMC2022
Stream: Aesthetics and Design
This paper is part of the KAMC2022 Conference Proceedings (View)
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2. Academia
To cite this article:Shimbo S. (2022) Seeing the Invisible: Applying Discourse Analysis to the Introduction of Senno Kuden ISSN: 2436-0503 – The Kyoto Conference on Arts, Media & Culture 2022: Official Conference Proceedings https://doi.org/10.22492/issn.2436-0503.2022.6
To link to this article: https://doi.org/10.22492/issn.2436-0503.2022.6
『専応口伝』序文にディスコース分析を応用し、従来あまり注目されてこなかった序文中の主要語「よろしき面かげ」の重要性について考察してみたい。「よろしき面かげ」はもうひとつの主要語「をのずからなる姿」とともに形而上学的な文脈で理解されるべきである。「をのずからなる姿」がいけ花を大自然の象徴的表現と定義したのに対し、「よろしき面かげ」はいけ花の始原についての定義と解釈できる。専応の教えは存在の無常性を瞑想を通じて認識することで、草や花の純粋な本質を捉え、それをもとにして挿してゆくものだということになる。さらにこの点において専応のいけ花の思想は日本の美意識の典型的な内的機構とも強い関連性があることが明らかになるのである。
2023年3月3日
上品さという常識の言語化を
生け花を嗜むということは、特定の流派に属するという以前に、日本文化に関わるということです。日本文化を学ぶ場合、それは同時に上品さを身につけていくことでもあるでしょう。これはあまりに自明で、基本でもあるため、わざわざ言うまでもないこと、ではないでしょうか。
生け花をやっている下品な方というのは通常あり得ないわけです。私などでも公の前で生け花のデモをやるとなれば、言葉遣いはもちろん、服装にも気をつけます。不潔ないでたちで花をいける花道家など見たことがないでしょう。セクシーな衣装で花をいける、などというのはありそうですが、これも実際には見たことはないですね。たとえあったとしても、「まあ、冗談だろう」ということになります。
それは、日本人にとってはあまりに自明すぎて、わざわざ口にする必要もないというレベルの常識です。おそらく日本の伝統文化の根本では、精神的に高貴で洗練された方(あるいは天皇陛下かもしれませんが)とのつながりを想定してきたということと関係があるのかもしれません。
では、この上品さへの志向を外国人に理解してもらっているでしょうか?
上品さをどう英訳したらいいのかな、と考えていたとき、偶然見つけた言葉があります。
Be Kind and Courteous.
親切かつ礼儀正しくあれ。ぴったりですね。
華道流派によっては外国人の生徒に対しても行動規範や精神的な指標を示す場合もあるでしょう。さらに最近は、パワハラ、モラハラ、いじめなどが生じないよう規範を作る場合も増えていると思います。そんなものに黙って耐えるなどという時代ではありません。問題になれば、その流派の組織のあり方が問題になるはずです。
Be Kind and Courteous.
「上品であれ」ということは、生け花に関わろうという日本人にとっては暗黙の了解事項でしょうが、外国では「生け花をやる以上、上品であろうとすることは必須の前提条件だよ。上品さを備えていない人がいい生け花を作れるはずがないんだよ」と、言語化してきちんと伝えていくことが必要ではないかと思います。
教育や年齢や経済状態などにかかわらずどなたにも生け花を嗜んでいただきたいものですが、他人の悪口ばかりで、上品さなどに関心がないという方はできれば関わってほしくないものです。学歴や職歴といった社会的な評価が得られなかった人たちが、自分の評価(Self-esteem)を補償するために、生け花の教師資格を利用する場合もあるかもしれませんが、上品さという当然の前提を欠いている人が集まれば、いじめや嫌がらせが横行するということになりかねません。
生け花作品は作者の人格の延長です。品のある作品に出会いたくて、上品な人柄に触れたくて、私たちは展覧会にも出かけるわけです。
海外における生け花グループの会員心得の最初に次の一言を明記すべきだと思います。
Be Kind and Courteous.
これがあるとないとで、グループのあり方が大きく変わってくるのではないでしょうか。
2023年2月24日
我慢・我慢
2023年2月23日
『専応口伝』における「面かげ」の形而上学
新保逍滄(2023)『専応口伝』における「面かげ」の形而上学、International Journal of Ikebana Studies,10, 21-28.
https://doi.org/10.57290/ikebana.10.0_21
生け花についてあれこれ考え、どうして外国人に教えるのはこうも難しいのだろうと日々悩んできたことの延長線上にこの論文ができたように感じています。「生け花とは何か」ということが、ここで自分なりに了解できたようにも思います。そしてここからいろいろな問題にまた発展していけるのではないかなと。
日本の古典は私の専門分野ではないので、様々なご意見、ご批判をいただくことになってしまいましたが、しばらくは、この問題に戻ってくる必要はないでしょう。その点でも安心です。
『専応口伝』序文にディスコース分析を応用し、従来あまり注目されてこなかった序文中の主要語「よろしき面かげ」の重要性について考察してみたい。「よろしき面かげ」はもうひとつの主要語「をのずからなる姿」とともに形而上学的な文脈で理解されるべきである。「をのずからなる姿」がいけ花を大自然の象徴的表現と定義したのに対し、「よろしき面かげ」はいけ花の始原についての定義と解釈できる。専応の教えは存在の無常性を瞑想を通じて認識することで、草や花の純粋な本質を捉え、それをもとにして挿してゆくものだということになる。さらにこの点において専応のいけ花の思想は日本の美意識の典型的な内的機構とも強い関連性があることが明らかになるのである。
2023年2月19日
2023年2月11日
花信:Hanadayori 23 ー 出展者リスト
ありきたりの花や
自己満足な花、
現代芸術を真似したような花などを、人々は求めていないのではないでしょうか。
前回の作品集では、感涙したというような感想がいくつかありましたが、通常の華道展でそのような感想を持つ方がどれほどあるでしょう。
今回もまた本当に人を撃つ花が出展されるのではないかと楽しみにしています。生け花はこんなにすごい力を持っているんだよと世界中の方々に伝えられたらいいですね。23年度版は6月ごろ作品集公開の予定です。
2022年12月24日
2022年12月2日
2022年11月9日
ラーメン屋と生け花と存在論
2022年10月24日
2022年8月10日
平和のための生け花
1930年代、第2次世界大戦に向けて日本が戦時体制を整えていった頃、「国家のための茶道」とか「国家のための生け花」、「国家のための各種伝統文化」という主張がなされたようです。
茶道あるいは生け花の修行を通じて、精神を鍛え、戦争のもたらす患難に耐え、戦争に勝利しよう、という趣旨だったのでしょう。
とすると、「国家のため」という言葉が、「戦争のため」という言葉に取り替えられたり、両者が同一視される可能性があるように思います。「戦争のための生け花」とは、とんでもない!ということになります。特に、戦後私たちを取り巻く教育やメディアの言説は偏向の強いものでしたから、政治的なこととなると、なかなか正確に考えることが難しくなっています。「『国家のため』ということがすべて悪につながる、というのは冷静な考えではない」と、なかなか考えられなくなっているのではないでしょうか。
ところが最近、日本の平和ボケに警鐘を鳴らす事件が相次いで起こっています。殊に日本のことを最も考えてきた重要な政治家が、自分のことしか考えない愚劣な暴漢に簡単に暗殺されてしまうという事件は、まるで平和ボケ日本の行く末を暗示しているようです。安全確保がなおざりの今のままでは、こんな悲惨なことになってしまうのだよ、国民の財産、生命が守れないのだよ、という警鐘です。
おそらく日本の世論はこれから大きく変わっていくでしょう。メディアの偏向も、見当はずれも明らかになってくるでしょう。日本の世論の成熟を阻止しよう、日本人の意識を目覚めさせたくないというメディアからはまるで断末魔を迎えたかのような激しい言説があふれてきています。
ここで、国家のための文化、ということをもう一度考え直してもいいように思います。
例えば、国家のための生け花。日本文化としての生け花には、国際社会で重要な側面があるのではないでしょうか。もちろん、茶道、柔道、太鼓、音楽、舞踏、料理、アニメなどなど、どのような文化活動にも当てはまることでしょうが。
仮に日本が隣国から攻められるというような事態になったとします。
もちろん、日本近辺には友好国ばかりで、隣国を侵略したり、少数民族を迫害したりするような軍事大国は存在しないと日本のメディアは伝え続けるでしょうが。友好条約があるじゃないか。自己防衛などもってのほか、憲法を守れば平和が守れると訴え続けるでしょう。「憲法を守って、国を滅ぼす立派な日本」を理想としているのでしょうから。
まあ、仮にそのような緊急事態に陥ったとします。
その時、平和維持に、極めて重要な働きをするのが国際世論です。ウクライナが例を示してくれています。国際世論を日本に引き付けるために、文化が大きな働きをするのです。例えば、「あの素晴らしい生け花を持つ国家を滅ぼしていいはずがない」これは強力です。
したがって、生け花をきちんと伝える、多くの方に愛好されるように伝えるということは日本の国防につながるのです。そのような意味での「国家のための生け花」が「平和のための生け花」になる可能性は大きいと思います。
海外で生け花を広めようと、メルボルン生け花フェスティバルを運営し、苦労していますが、そこまで考えていただければ、もっと協力者が現れて下さるはずなのです。自分のことにしか関心がない、自分の流派という家族企業の成長にしか興味がないなど、いろいろな考えがあって当然でしょうが、より大きな目標のもとに、生け花の将来のためにメルボルン生け花フェスティバルが育っていくと面白いでしょうね。





















