華道家 新保逍滄

2022年11月9日

ラーメン屋と生け花と存在論


 日本で美味しいラーメンを食べるというのは、海外に住む私にとって大きな楽しみの一つでした。最近は、メルボルンでも美味しいラーメン屋があちこちにできていますので、それほど大きなことではなくなっていますが。

 先頃、東京に短期滞在した時、珍しくまずいラーメンに当たってしまいました。これはおかしいと翌日、また別のラーメン屋に出かけたのですが、こちらもはずれ。2日続けてがっかりすることになり、もうラーメンはいいや、ということで東京を離れました。

 自分がラーメン屋だったら、と考えてしまいます。とても競争の激しい業界ですが、私はきっと繁盛店を目指します。どうしたらもっと美味しい、人気のラーメンを提供できるかと、勉強し、常に改良していくのではないかと思います。しかし、一方、このラーメンは師匠から学んだ伝統の味なのだ、一切変えたりしない、というような立場もあることでしょう。そのせいで人気がなくなり、店は衰退し、潰れるかもしれません。本当の味が分からない客がいけないのでしょうか?客のニーズを尊重しない店主が問題なのでしょうか?
 
 ここで考えた繁盛店と衰退店の典型的な態度の違いこそ、私が生け花を海外で教えていこうという時に、思い悩む問題に関わってきます。どうも私の行き方は繁盛店の行き方ではないような気がしてくるのです。

 様々な方があり、一般化はできないのですが、ある共通の問題を抱えている方々があります。しかし、その本人たちにここが問題ですよ、と指摘することも憚られる、デリケートなものなのです。下手に指摘しようものなら、ハイランキング(高位)の方々であることもあり、大変な不興を買うということにもなりかねない。一言で言えば、彼らの生け花作品は「生きていない」のです。造花で作ったような生け花なのです。これをどういうふうに伝えていったらいいのか、と大いに悩むところです。

 海外における私の立場は上で考えた衰退店のようなものかもしれません。こんなまずいもの食えないよ、と相手にされない。時流に合わないものとして、客に見放され、廃れていくしかないのかもしれません。いろいろな状況を黙って見過ごすしかないのかもしれません。あるいは、まずいものをうまく工夫して、食べさせるということが可能でしょうか?

 一体何の話か、と思われるでしょうが、またも専応口伝の「よろしき面影をもととして」挿していくという、生け花本来の制作態度についての解釈の話なのです。生け花の元になるのは、心で観た草木の「面影」であって、肉眼で見た草木の「姿」ではないのです。草木と対峙して、そこに何を認めるか。それが西洋人と東洋人では違うのではないか、その違いが生け花における差異となっているのではないか。

 仮に西洋人の生け花に「自己(小さい自我)」を表しているだけ、「自然」や「生命」が表れていない、と感じることがあるとすれば、その原因は精神伝統の違いによるものではないか。この人は、花を「ただの材料」「ただの花」としか見ていない、花のよろしき面影まで瞑想して作っていない、ということが、見て分かるようになってくると、生け花指導は別の段階に入ってきます。そのために、様々な苦労をすることになります。生け花を楽しく鑑賞できなくなります。

 要するに、西洋人が本当に生け花を学ぼうというのであれば、東洋人の精神伝統を体得する必要があるのではないか。西洋の精神伝統の立場で生け花を学んでも核心にはいたれないだろうと思います。生け花は花の「存在」からしか立ち現れませんが、その花の「存在」に直面することができないからです。

 井筒俊彦は「意識と存在」の導入部で、西洋の精神的伝統の一つの典型として、サルトルの「嘔吐」を取り上げ、東洋的精神伝統と対比しています。嘔吐の意味するものは「『存在』の無分別的真相をそのまま本源的な姿で表層意識的に受け止めようとすれば、元々『・・・の意識』であるものが『・・・』を失って宙に迷い、自己破壊の危機に晒されること」だとしています。

 それに対し、東洋の精神伝統では、このような場合「嘔吐」に追い込まれはしないとしています。「絶対無分別の『存在』に直面しても狼狽しないだけの準備が初めから方法的、組織的になされているからだ」というのです。生け花を本当に学ぶということは、この準備を学ぶということが前提になっているのだろうと思います(私が提唱する千日挿花行は、この準備という性格があるのではないかと思っています)。

 最近、生け花のデモを披露してくれなどというリクエストがありました。海外の「高位の」華道家だと自称される方々が聴衆なので、生け花における瞑想とは、などと説明しようとしていたら、断られました。これはどうも衰退店のやり方であるようです。デザイン重視の繁盛店のやり方でやってくれということらしいのです。そんなデモでは、意味がないなあと不本意ながらも、どんな状況でも機嫌よく、ベストを尽くしていくという心がけを持ちたいものです。

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