華道家 新保逍滄

2016年12月25日

2016年12月24日

2016年12月23日

一日一華:メリー・クリスマス


日本では年末年始に結婚式なんてあまり聞かないと思います。
しかし、年末の結婚式がこちらではよくあります。
花の仕事も年末は休みなしです。
今年は1週間のうちにクリスマス装花に結婚式の依頼。
生産者も花問屋もクリスマスで休暇。
その間を縫うように、花を仕入れ(思うようなものが手に入らない)、
休暇中のアシスタントを探し、お手伝いを依頼し、
しかも、暑すぎる天候が花を痛めないかと気をもみ、
なかなか落ち着けません。

年末の結婚式は、やめたほうがいいですよ。

2016年12月21日

一日一華:クリスマス・アレンジメント


クライアント宅でのクリスマスパーティーのため3作活けてきました。
テーブルには、銀の花器にグロリオーサのご希望でした。
たくさん色を使って欲しいようですが、
私としてはできるだけ色の数は絞ったほうが面白いと思っています。
この作品も白だけにしたいくらいです。


2016年12月18日

2016年12月13日

一日一華:レセプション


緑のグラデーション。
とてもまとまりやすい色の選び方ですね。

環境芸術についての論文を用意していたら、以下のような文章に出会いました。
まさしく、まさしく!
「美」を求めようなどとやっていると、相手にされないということ!
専門家はなかなかこれほどズバリと現代芸術の一面を語ってくれないのです。
いろいろなことを考えていく出発点になる見方です。
私の論文に引用できるかどうかはまだ分かりませんが。

A great turning point in the history of Western art occurred in the Twentieth Century when art’s association with beauty first received pummelings from the cubists, futurists, and Dadaists and then was practically exterminated by pop, conceptual, minimal, fluxus, art povera, happenings, and land artists. During these years, those who remained loyal to the goal of achieving beauty were often banished to the outposts of provincialism (Weintraub, 2012: 33).

Weintraub, Linda ( 2012). To Life!: Eco art in pursuit of a sustainable planet. CA: University of California Press.

2016年12月7日

一日一華:花菱さんへ



環境芸術についてあれこれ考えています。
おそらくこれはとてもわかりやすい現代芸術の部類でしょう。
比較的、ではありますが。
概念芸術、アブストラクト・インプレッショニズム、ポップアートなど現代芸術の様々な部類と比べて、なんと解釈がしやすいことか。

しかし、このわかりやすさが気になります。
どうも機能面が強調されすぎないか。
芸術作品に機能を期待するというのは、本来とても稀なことです。
そこをもう少しきちんと考えておきたいと思っています。

例えば、エコ製品が市場に溢れていますが、
エコ的要素+製品の組み合わせです。
同じように
エコ的要素+芸術作品で
エコ・アート(環境芸術の1部門)が成立すると考えるのは
危なっかしいわけです。

一日一華:チューリップ


チューリップのなんとも綺麗な色。
それだけを見せたい。

毎年のことながら十二月は色々なことに振り回されます。
なんとか環境芸術についての論文を数日中に仕上げたいともがいています。
国際いけ花学会の学術誌に投稿できるほどのものにしたいのです。

さらに来年三月末には神戸で開催される国際学会で
環境芸術についての発表も行いたい。
もちろん、いけ花との関連も出てきます。

慌ただしい時、ブログのポストが増えます。
逃避行動でしょう。

2016年12月6日

一日一華:スイートピー


スイートピーがあれば、小品に使ってみたくなります。
クライアントさんのお宅です。

あれは、論語だったでしょうか?
あの言葉・・・
探さないと出てこないわけですが、
私がふと感じ、書き留めてきたいと思ったのは、
要は、努力の大切さ。

私自身、よく思うことですが、
努力しても、成果が得られないことはよくあるわけです。
結果が出ない。
でも努力した限り、別のところで花が咲くだろうと思っています。

問題は努力が不十分で、結果が出ない場合。
10の成果を期待していながら、2か3の努力しかしていない場合もあるわけです。
その程度の努力しかしていないなら、そんなにたくさんあてにしてはいけないのです。
でもその現実がなかなか受け入れらない人もあるようです。
境遇が悪いとか、自分は差別されているとか、愚痴が出てきます。
こういう人に対して、ふさわしい諺があったように思うのですが。
ちょっと厳しい言葉が。
そのうち思い出すでしょう。













2016年12月5日

21世紀的いけ花考 53


 前回、生花と現代芸術の違いを簡単に述べました。生花が主に感性に訴えるのに対し、現代芸術は主に知性に訴えるという特徴があるようです。その違いはまるで俳句と小説の違いのようでもあります。しかし、そのような区別は暫定的。困ったことにそんな違いを意識すると、そこからまた芋づる式に様々な疑問が出てくるのです。

 例えば、生花は作品が美しいかどうかが全てだとすると、それは芸術というよりデザインの特徴に近いのではないでしょうか?デザインとは要は見た目が全て。綺麗か否か、そこが肝心。分かり易い例としてまず西洋花について考えてみましょうか。おそらく西洋花はデザインに属するというのが一般的な了解でしょう。それは、フローリスト養成講座は芸大ではなくTAFEカレッジに属していることでも分かります。商品として成立しなければいけないという実際的な要請があります。

 ところが、その制約を無視する、「ここまでくると芸術だね」と評したくなるような西洋花もあります。おそらく売れないでしょうが。例えばベルギーの出版社から隔年で出版される「インターナショナル・フローラルアート」にはそうした作品が溢れています。この領域ではおそらく最高レベルの出版物のひとつ。私の作品も近年、連続で掲載されていますのでご覧下さい。デザインの延長線上に芸術が現れるという面はあるかもしれません。かといってどちらが上でどちらが下ということもないでしょうが。両者は便宜的に区別できるものの、西洋花においてさえその境界はかなり曖昧です。

 では、生花もデザインでしょうか?そこは意見が分かれる点。また、「生花は芸術だ」という意見も多いでしょうが、その短絡についてはこの連載で繰り返し批判してきましたね。生花と芸術の違いということで。では、あらためて生花とは何か?デザインか芸術か(あるいはデザインから芸術へ)という物差しのどの辺りに位置付けたらいいのでしょう?デザインのようでもあり、芸術のようでもある。実は、新たな視点を踏まえない限り、この疑問に答えることはできません。その視点とは何か?さらに掘り下げていくことになりますが、また来年度お付き合い下さい。

 今回紹介するのは、ある女子校の卒業式のために活けた作品。ステージいっぱいにと予定していましたが、やはりスペースの制限がありました。大好評でしたが「卒業式に花は欠かせない」というのが当地でも常識になるといいのですが。

2016年12月4日

2016年12月1日

Shoso Shimbo

ページビューの合計

Copyright © Shoso Shimbo | Powered by Blogger

Design by Anders Noren | Blogger Theme by NewBloggerThemes.com